伊藤 安吉(いとう やすきち、1873年(明治6年)5月14… 伊藤 安吉(いとう やすきち、1873年(明治6年)5月14日 - 1951年(昭和26年)9月15日)は、明治後期から昭和前期の海軍軍人、政治家、華族。海軍造機少将、貴族院男爵議員。 東京府出身。海軍士官・伊藤雋吉の長男として生まれる。父・雋吉の死去に伴い、1921年(大正10年)5月10日、家督を相続し男爵を襲爵した。 1898年(明治31年)10月、海軍造船学生となり、1899年(明治32年)6月、東京帝国大学工科大学機械工学科を卒業。同年6月、海軍造船中技士に任官し横須賀海軍造船廠造機科主幹に就任。以後、艦政本部部員、造船監督官、舞鶴海軍工廠造機部長、艦政局第三課長などを歴任し、1917年(大正6年)6月、横須賀海軍工廠造機部長に就任。
斎藤 春子(さいとう はるこ、1873年〈明治6年〉3月30… 斎藤 春子(さいとう はるこ、1873年〈明治6年〉3月30日 - 1971年〈昭和46年〉9月14日)は、日本の華族。第30代内閣総理大臣夫人。斎藤実子爵夫人。 東京出身。1873年〈明治6年)3月30日、薩摩藩士で海軍の重鎮であった仁礼景範の長女として生まれる。兄の仁礼景一は日露戦争で初瀬分隊長として戦死、弟の仁礼景雄は昆虫学者。1884年(明治17年)に明倫女学校(現在の横浜清風高等学校)を卒業。その後、東洋英和女学校に進学したが中退。 1892年(明治25年)2月5日に斎藤実と結婚。斎藤実との間には子供はなく、斎藤斉を養子に迎えている。 1932年(昭和7年)5月、斎藤実の内閣総理大臣就任により、内閣総理大臣夫人となる。
太田 信治郎(おおた しんじろう、1873年(明治6年)2月… 太田 信治郎(おおた しんじろう、1873年(明治6年)2月5日 - 1957年(昭和32年)5月17日)は、明治から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員。 東京府葛飾郡、のちの東京市深川区で、材木商・太田重吉の長男として生まれる。家業を継承し材木商を営む。 万信材木店社長、大日本林業社長、東京材木問屋組合役員、東京製材組合組長などを務めた。 政界では、深川区会議員、同議長、同学務委員、東京市会議員、内閣国有財産調査委員、同特別都市計画委員などに在任した。 1920年(大正9年)5月の第14回衆議院議員総選挙に東京府第4区から出馬して当選し、以後、第17回総選挙まで連続して再選された。1936年(昭和11年)2月の第19回総選挙でも再選され、立憲民政党に所属して衆議院議員に通算5期在任した。
蜷川 新(にながわ あらた、1873年(明治6年)1月14日… 蜷川 新(にながわ あらた、1873年(明治6年)1月14日 - 1959年(昭和34年)8月17日)は日本の法学者、外交官、大学教授。専門は国際法。先祖は室町幕府に政所代を世襲した蜷川氏で、後に江戸幕府の旗本となった。格闘家の武蔵、TOMO兄弟は曾孫にあたる。 父は旗本蜷川親賢、母は林田藩主建部政醇の娘はつ子。旗本小栗忠順の義理の甥に当る。静岡県袖師(現在の静岡市清水区)で生まれる。生後すぐに父が死去したため、母の縁を頼って東京に移り住む。 1889年(明治22年)第一高等学校に入学。学友に渡辺千冬や鈴木梅太郎がいた。卒業後東京帝国大学の法科大学に進学し、有賀長雄のもとで国際法を専攻した。卒業後、同大学大学院に進学。
石川 茂吉(いしかわ もきち、1872年〈明治5年〉11月2… 石川 茂吉(いしかわ もきち、1872年〈明治5年〉11月29日 - 没年不明)は、日本の政治家、地主・家主。 農業を営み、西巣鴨町町会議員、衛生委員、同町教育会評議員、青年団名誉会員、共賛会委員、氏神氷川神社総代、重林寺総代である。住所は東京府北豊島郡西巣鴨町字池袋。 父・瀧之進は池袋村の村長や、1889年6月5日より1891年9月5日まで巣鴨村助役をつとめた。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
篠田 治策(しのだ じさく、明治5年10月12日(1872年… 篠田 治策(しのだ じさく、明治5年10月12日(1872年11月12日) - 昭和21年(1946年)1月23日)は、明治後期から昭和前期にかけての法学者・拓務官僚。 1872年、静岡県城東郡池新田村(現在の御前崎市)の農家の長男に生まれた。15歳の時に上京して錦城中学校(現錦城学園高等学校)、第一高等学校を経て、明治32年(1899年)に東京帝国大学法科大学法律学科を卒業。一度は弁護士になるが、明治37年(1904年)の日露戦争勃発に際して陸軍省の国際法事務嘱託に任ぜられ、第三軍の国際法担当顧問として従軍、旅順要塞陥落後は同要塞の司令部付顧問を兼務した。 戦後の明治40年(1907年)に韓国統監府の嘱託となり、間島派出所総務課長・統監府秘書官を歴任、日韓併合後の明治43年(1910年)10月から朝鮮総督府によって平安南道へ派遣された。
田中 義能(たなか よしとう、1872年10月14日(明治5… 田中 義能(たなか よしとう、1872年10月14日(明治5年9月12日) - 1946年(昭和21年)3月4日)は、神道学者。 山口県出身。1903年東京帝国大学文科大学哲学科卒。東洋大学教授、第五高等学校教授、國學院大學教授を歴任。1920年東京帝国大学文学部助教授、神道学講座を担当。1933年定年退官、帝国女子専門学校校長。のちの相模女子大学の設立に努めるが急死。神道学会、神道青年連盟協会を設立。女婿は国文学者の次田真幸。
德川 賴倫(とくがわ よりみち、1872年7月28日〈明治5… 德川 賴倫(とくがわ よりみち、1872年7月28日〈明治5年6月23日〉 - 1925年〈大正14年〉5月19日)は、日本の政治家、実業家。紀州徳川家第15代当主。位階は正二位。勲等は勲一等。爵位は侯爵。諱は「らいりん」と音読みすることもある。新字体での表記は徳川 頼倫。 貴族院議員、貴族院仮議長(2回)、宗秩寮総裁、南葵文庫総裁、南葵育英会総裁、日本図書館協会総裁、史蹟名勝天然紀念物保存協会会長、十五銀行取締役、日本赤十字社常議員、華族会館評議員、帝国海事協会評議員などを歴任した。 明治5年6月23日(1872年7月28日)、田安徳川家第8代当主・徳川慶頼の六男として東京府下本所横網町(現在の東京都墨田区横網一丁目)の田安邸で生まれる。
載仁親王妃 智恵子(ことひとしんのうひ ちえこ、1872年6… 載仁親王妃 智恵子(ことひとしんのうひ ちえこ、1872年6月30日〈明治5年5月25日〉- 1947年〈昭和22年〉3月19日)は、日本の皇族。閑院宮載仁親王の妃。身位は親王妃で、皇室典範における敬称は殿下。母方を通じて、東山天皇の7世孫にあたる。 1872年6月30日(明治5年5月25日)、公爵・三条実美の二女として誕生。母は、鷹司輔煕の九女・治子。旧名は、三条 智恵子(さんじょう ちえこ)。 6歳ほどより跡見女学校へ通い、跡見花蹊に学ぶ。絵画を得意とし、四條派の写生画、南宗派の文人画を修め、「花堤」の雅号を持つ。1891年(明治24年)閑院宮載仁親王と結婚する。載仁親王との間には、篤仁王(夭折)、恭子女王(安藤信昭夫人)、茂子女王(黒田長礼夫人)、季子女王、春仁王、寛子女王、華子女王(華頂博信夫人、後に戸田豊太郎夫人)の2男5女を儲けた。
内海 弘蔵(うつみ こうぞう、明治5年3月24日(1872年… 内海 弘蔵(うつみ こうぞう、明治5年3月24日(1872年5月1日) - 昭和10年(1935年)12月7日)は、神奈川県出身の国文学者、歌人。号は月杖(げつじょう)。 神奈川県生まれ。獨逸学協会学校、第一高等中学を経て、1898年(明治31年)に東京帝国大学国文科を卒業。早稲田大学等の講師を経て1904年、明治大学講師に就任、後に教授。また、落合直文の短歌結社「浅香社」に参加し、歌人としても活動した。 『平家物語』や『方丈記』などの注釈書を著しており、特に『徒然草』を兼好の「一大趣味論」とした『徒然草評釈』で知られる。 1910年に明治大学硬式野球部が創設されると同時に部長を務めることになった。
渡辺 海旭(わたなべ かいきょく、明治5年1月15日(187… 渡辺 海旭(わたなべ かいきょく、明治5年1月15日(1872年2月23日) - 昭和8年(1933年)1月26日)は、東京・浅草出身の学僧。浄土宗の僧侶。社会事業家。阿雷狂史・壺月と号す。 前田和男『紫雲の人、渡辺海旭』巻末の年表によると、以下の通りである。 明治5年(1872年)、東京の浅草の田原町にて、渡辺啓蔵、トナ夫妻の長男として生まれる。明治14年(1881年)に抜嫡届けが出され、翌明治15年(1882年)に抜嫡届けが受理され、浅草松清町の萬照寺に入る。 明治20年(1887年)、小石川区初音町の浄土宗源覚寺住職、端山海定のもとで得度。海定の一字をもらいうけて、海旭となる。同年9月、浄土宗学東京支校(のちの芝中学校・芝高等学校)に入学。
伊井 蓉峰(いい ようほう、本名・伊井 申三郎、明治4年8月… 伊井 蓉峰(いい ようほう、本名・伊井 申三郎、明治4年8月16日(1871年9月30日) - 昭和7年(1932年)8月15日)は、発足間もない新派劇で活躍した俳優。 東京日本橋呉服町(現・中央区)に写真家の北庭筑波の息子として生れる。実家は呉服町の油問屋で、父の北庭は浅草花屋敷で写真館を開いていた。祖父は浄瑠璃宮薗節の2代目宮薗千寿ともいわれる。医学予備校独逸協会などに学び、父の没後は神戸の三井銀行に勤務した。 当時、川上音二郎の「書生芝居」が人気を得ていることに興味を持ち、明治24年(1891年)、「川上一座」に俳優として参加した。間もなく、傲慢だった川上と袂を分かち、芸術的写実的な演劇を目指し、11月、依田学海の援助で浅草の吾妻座を本拠に男女合同改良演劇「済美館」を興した。
大島 義脩(おおしま よしなが、明治4年8月1日(1871年… 大島 義脩(おおしま よしなが、明治4年8月1日(1871年9月15日) - 昭和10年(1935年)7月1日)は、日本の教育者。旧姓蘆田。宮中顧問官。 明治4年(1871年)8月、丹波国氷上郡佐治村(現兵庫県丹波市)に豪農蘆田家の四男として生まれた。8歳で母の実家である大島家に養子に入り、司法官であった叔父、大島貞敏に養育された。 第三高等中学校を経て、明治27年(1894年)帝国大学文科大学哲学科を卒業。四高教授、東京音楽学校長、八高校長、女子学習院長、帝室博物館総長などを歴任。
川上 貞奴(かわかみ さだやっこ、戸籍名 川上 貞(旧姓:小… 川上 貞奴(かわかみ さだやっこ、戸籍名 川上 貞(旧姓:小山)、明治4年7月18日(西暦1871年9月2日) - 昭和21年(1946年)12月7日)は、戦前の日本の女優。 東京・日本橋の両替商・越後屋の12番目の子供として誕生。生家の没落により、7歳の時に芳町の芸妓置屋「濱田屋」の女将、可免吉の養女となる。伝統ある「奴」名をもらい「貞奴」を襲名。芸妓としてお座敷にあがる。日舞の技芸に秀で、才色兼備の誉れが高かった貞奴は時の総理伊藤博文や西園寺公望など名立たる元勲から贔屓にされ、名実共に日本一の芸妓となった。 1894年、自由民権運動の活動家で書生芝居をしていた川上音二郎と結婚した。しかし当初は苦労も多く、音二郎の2度もの衆議院選挙落選により資金難に陥る。
山脇 春樹(やまわき はるき、1871年7月11日(明治4年… 山脇 春樹(やまわき はるき、1871年7月11日(明治4年5月24日) - 1948年(昭和23年)1月3日[要出典])は、日本の農商務・内務官僚、教育者。官選県知事、山脇高等女学校長。旧姓・畑田。 京都府出身。畑田清平の四男として生まれ、1901年(明治34年)5月、山脇玄の養子となる。第一高等学校を卒業。1899年(明治32年)、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。大蔵省に入省し主計局属となる。 以後、司税官を経て農商務省に転じ、農商務大臣秘書官に就任。さらに、農商務書記官、商務局商事課長、台湾総督府専売局長、臨時博覧会事務官長などを歴任。 1916年(大正5年)10月、山梨県知事に就任。
田所 美治(たどころ よしはる、明治4年4月13日(1871… 田所 美治(たどころ よしはる、明治4年4月13日(1871年5月31日) - 昭和25年(1950年)5月6日)は、日本の文部官僚・内務官僚・貴族院勅選議員。文部次官、錦鶏間祗候。 土佐藩士田所美之の長男として生まれる。第二高等中学校を首席で卒業。1895年(明治28年)7月、帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。内務省に入り内務属となる。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。以後、愛媛県、宮城県、東京府の参事官を歴任した。その後、文部省に転じ、参事官、書記官、文部大臣秘書官、普通学務局長、文部次官を歴任した。また学習院御用掛、宮内省御用掛、学習院評議会会員を兼ねた。 1918年(大正7年)9月21日、貴族院議員に勅選され、退官した。
建部 遯吾(たけべ とんご、明治4年3月21日(1871年5… 建部 遯吾(たけべ とんご、明治4年3月21日(1871年5月10日) - 昭和20年(1945年)2月18日)は、社会学者、東京帝国大学教授、政治家。 新潟県蒲原郡横越村(現新潟市江南区横越中央)出身。1896年帝国大学文科大学哲学科卒。翌年から講師として母校の社会学講座を担当、1898年ヨーロッパ留学、留学中1900年助教授に任ぜられ、1901年帰国してただちに東京帝大教授。帝大社会学講座の初代担当教授として長く建部時代を築いた。1922年退官。1913年日本社会学院(学会)を創設、主宰した。オーギュスト・コントに依拠した総合的社会学を講じた。対露強硬論を唱えた。その後、衆議院議員をへて1938年貴族院議員。
高田 実(たかた みのる、1871年5月8日(明治4年3月1… 高田 実(たかた みのる、1871年5月8日(明治4年3月19日)- 1916年(大正5年)9月24日)は、日本の新派俳優である。 東京の千住の生まれ。初めは鉄道の駅員を務めていたが、後に俳優に転向し芸能界入りし新派に属した。1892年(明治25年)、川上音二郎が創設した一座に入門し、初めて舞台に立つ。1896年(明治29年)には活動の場を大阪に移り、同派の俳優であった喜多村緑郎らと共に「成美団」を結成した事で、一躍有名となった。「角座」や「朝日座」等関西における新派を生み出した。 1904年(明治37年)に東京に戻った後は「本郷座」を創設し、同派の座長となる。高田の演技が特徴を持った事により、庶民からは「新派(新演劇)の團十郎」と呼ばれた。
岩井 昇山(いわい しょうざん、明治3年12月26日(187… 岩井 昇山(いわい しょうざん、明治3年12月26日(1871年2月15日) - 昭和28年(1953年)1月11日)は、明治から昭和期の日本画家。 旧暦明治3年12月26日(1871年2月15日)、太政官府の役人・岩井秀一の次男として、東京麹町に生まれる。本名は小五郎。成童のころ北派(文晁系)の画家・吉澤雪庵に学び、次いで容斎派の松本楓湖の安雅堂画塾の門人となる(楓湖の浅草栄久町時代、明治10〜25年の弟子)。晩年の文献には、渡辺省亭に師事したと記載されているものもある。日本画会、明治画会、帝国絵画協会、巽画会などに所属するものの、画家としての活動記録はほとんど見られず、展覧会出品の記録も明治35年(1902年)の第12回「日本絵画協会・日本美術院連合絵画共進会」、大正2年(1913年)の「表装競技会」など極めてわずかで、人嫌い、変人、果ては楓湖門破門説などに結びつけられ、“幻の画家”と称される由縁となっている。
釈 宗活(しゃく そうかつ、明治3年11月15日(1871年… 釈 宗活(しゃく そうかつ、明治3年11月15日(1871年1月5日) - 昭和29年(1954年)7月6日)は、明治・大正・昭和期の臨済宗の僧。東京市麹町の生まれ。出家前は入澤譲四郎。号は両忘庵、輟翁、石佛。
土方 久徴(ひじかた ひさあきら、明治3年9月14日(187… 土方 久徴(ひじかた ひさあきら、明治3年9月14日(1870年10月8日) - 昭和17年(1942年)8月25日)は、第12代日本銀行総裁。
桜井 小太郎(さくらい こたろう、明治3年9月11日(187… 桜井 小太郎(さくらい こたろう、明治3年9月11日(1870年10月5日) - 昭和28年(1953年)11月11日)は日本の建築家。日本人初の英国公認建築士である。娘の安芸子は穂積八束の長男、重威に嫁いだ。
山田 三次郎(やまだ さんじろう、1870年9月14日(明治… 山田 三次郎(やまだ さんじろう、1870年9月14日(明治3年8月19日) - 1939年(昭和14年)6月23日)は、日本の技術者、実業家。旭硝子(現AGC)会長や、日本化成工業(のちの三菱化学、現在の三菱ケミカル)社長を務めた。 鹿児島県生まれ。東京数学院(現東京高等学校)を経て、1897年に東京工業学校(現東京工業大学)窯業科卒業後、1900年から1903年まで農商務省海外実業練習生としてブリュッセルのガラス工場に留学した。 農商務省嘱託を経て、1906年東洋硝子技師。1908年旭硝子工務長となり、岩崎俊弥による旭硝子創業に加わり、欧米の調査などを行った。1918年日米板ガラス取締役。旭硝子常務取締役を経て、初代社長の岩崎の死後、1931年から後継として旭硝子取締役会長(第2代社長)を務めた。
坂本 龍之輔(さかもと りゅうのすけ、明治3年7月23日(1… 坂本 龍之輔(さかもと りゅうのすけ、明治3年7月23日(1870年8月19日) - 昭和17年(1942年)3月26日)は、日本の教育者。 明治期に上野下谷に日本で初めて設けられた貧民学校の校長を務め、その教育実践が、かつての教え子であった添田知道の『小説 教育者』として作品化されて、大正、昭和期に教育者の範として知られた。 神奈川県西多摩郡西秋留村(現在の東京都あきる野市牛沼)に、坂本源吾之輔、あきの五人兄弟の三男として生まれる。神奈川師範学校(現・横浜国立大学教育人間科学部)に学び、初赴任は、西多摩郡古里村の習文尋常小学校(現・西多摩郡、奥多摩町立古里小学校)だった。その後、神奈川県下で、町田村の日新尋常小学校(現・町田市立町田第一小学校)、大和市の渋谷高等尋常小学校(現・大和市立渋谷小学校)、町田村の開矇(かいもう)高等尋常小学校(現・町田市立南第一小学校)の校長を歴任。
大下 藤次郎(おおした とうじろう、明治3年7月9日(187… 大下 藤次郎(おおした とうじろう、明治3年7月9日(1870年8月5日) - 明治44年(1911年)10月10日)は、明治時代の日本の水彩画家。中丸精十郎、原田直次郎に師事した この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
梶田 半古(かじた はんこ、明治3年6月25日〈1870年7… 梶田 半古(かじた はんこ、明治3年6月25日〈1870年7月23日〉 - 大正6年〈1917年〉4月23日)は、明治時代から大正時代にかけての日本画家。本名は錠次郎(ていじろう)。初め英洲と号す。二度目の妻は尾崎紅葉門下の作家北田薄氷。 明治3年6月25日(1870年7月23日)、彫金師の梶田政晴の長男として東京下谷御徒町で生まれた。家は代々幕府の鷹匠だったが、父は彫金を業としていた。家業は弟が継ぎ、幼少から画才のあった半古は明治15年に下谷練塀尋常高等小学校を卒業すると、苦しい家計を助けるため、早朝から深夜まで輸出品の団扇・扇子やハンカチーフに絵を描いて問屋へ運んだという。明治16年(1883年)13歳の時、浮世絵師で楊洲周延の弟子鍋田玉英について絵を学ぶ。
巖谷 小波(いわや さざなみ、1870年7月4日(明治3年6… 巖谷 小波(いわや さざなみ、1870年7月4日(明治3年6月6日) - 1933年(昭和8年)9月5日)は、明治から大正にかけての作家、児童文学者、口演童話家、俳人、ドイツ文学者、ジャーナリスト。本名は季雄(すえお)。別号に漣山人、楽天居、大江小波等がある。 日本初の創作童話『こがね丸』(博文館、1891年)を発表して近代児童文学史を拓いた日本児童文学の先駆者と評される。 明治期に児童文芸作品を表す言葉として「お伽噺」を使用、自ら編集長を務めた「少年世界」「少女世界」「幼年世界」などの雑誌を通して日本中に児童文学を広めた。 個人による日本初児童叢書である『日本昔噺』(24編)、『日本お伽噺』(24編)、『世界お伽噺』(100編)などのシリーズを刊行、日本はもちろん世界中の伝承説話のリテリングを体系的に行った。
巖谷 小波(いわや さざなみ、1870年7月4日(明治3年6… 巖谷 小波(いわや さざなみ、1870年7月4日(明治3年6月6日) - 1933年(昭和8年)9月5日)は、明治から大正にかけての作家、児童文学者、俳人。本名は季雄(すえお)。別号に漣山人(さざなみ さんじん)、楽天居、隔恋坊、大江小波がある。
和仁 貞吉(わに ていきち、明治3年5月12日(1870年6… 和仁 貞吉(わに ていきち、明治3年5月12日(1870年6月10日) - 昭和12年(1937年)12月3日)は、日本の判事(大審院長)、検事。 東京府出身。父の元利は宇都宮藩の藩医だった。1894年(明治27年)に東京帝国大学法科大学英法科を卒業し、司法官試補となる。1896年(明治29年)、浦和地方裁判所判事となり、東京区裁判所判事、東京地方裁判所部長、東京控訴院判事、東京控訴院部長、大審院判事、京都地方裁判所所長、大阪地方裁判所所長を歴任。その間の1920年(大正9年)4月には法学博士号を取得している。同年7月より検事となり、長崎控訴院検事長、大阪控訴院検事長、東京控訴院検事長を歴任した。
岩村 透(いわむら とおる、明治3年1月25日〈1870年2… 岩村 透(いわむら とおる、明治3年1月25日〈1870年2月25日〉 - 大正6年〈1917年〉8月17日)は、明治後期から大正期の日本の美術批評家。東京美術学校教授。 東京小石川区生まれ。岩村家は土佐藩家老(宿毛領主)伊賀家の家臣で、父・岩村高俊は後に、愛媛県令、愛知県知事、貴族院議員などを務め、男爵となった。母・音瀬。 透は慶應義塾幼稚舎、同人社(中村正直の塾)、東京英和学校(後の青山学院)と進むが中途退学。1888年にアメリカに渡り、キングストンのワイオミング・セミナリー(英語版)およびニューヨークのナショナル・アカデミー・オブ・デザインで、絵画と美術批評を学んだ。この頃アメリカに本多庸一もいてお互いに親交を深めた。
竹内 十次郎(たけのうち じゅうじろう、1869年12月30… 竹内 十次郎(たけのうち じゅうじろう、1869年12月30日〈明治2年11月28日〉 - 1937年〈昭和12年〉5月15日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍主計少監(主計少佐)。公金費消の嫌疑により免官となった人物である。大仏次郎の小説『帰郷』のモデル。 三重県出身。父は旧桑名藩士、兄は陸軍二等兵から中佐まで昇進した。三田英学校から海軍主計学校に進み、13名の同期生のうち首席・恩賜で卒業。日清戦争では旗艦「松島」の主計官として黄海海戦に参戦した。その後横須賀司計部計算官、「赤城」主計長などを勤め、造船造兵監督官としてイギリス駐在となり、現金前渡官吏を兼務。日本が発注する軍艦について代金支払の実務を担うこととなった。
山田 三良(やまだ さぶろう、1869年12月20日(明治2… 山田 三良(やまだ さぶろう、1869年12月20日(明治2年11月18日) - 1965年(昭和40年)12月17日)は、日本の法学者。専門は国際私法。学位は法学博士。法華会創立者。 1869年、奈良県高市郡越智村(現・高取町)に村長山田平三郎の三男として生まれる。東京専門学校(現早稲田大学)を経て、1896年帝国大学法科大学(現東京大学大学院法学政治学研究科・法学部)卒業。同大学院修了。その後東京帝国大学法科大学助教授に就き、文部省外国留学生としてドイツのハイデルベルク大学、フランスのソルボンヌ大学に3年間留学し国際法を学ぶ。1901年7月19日帰国。 帰国後、東京帝国大学法科大学教授、京城帝国大学総長、東京帝国大学法学部長などをつとめた。
三上 剛太郎(みかみ ごうたろう、明治2年11月15日(18… 三上 剛太郎(みかみ ごうたろう、明治2年11月15日(1869年12月17日) - 昭和39年(1964年10月27日))は、日本の医師・軍医・新聞記者。日露戦争に従軍した時のエピソード(後述)で後世に名を残した。最終階級は陸軍一等軍医。 1869年(明治2年)11月15日、陸奥国三戸県佐井村(現在の青森県下北郡佐井村)の代々医家である三上家の長男(8代目)として生まれた。1875年(明治8年)に佐井小学校(現在の佐井村立佐井小学校)に入学。1884年(明治17年)に上京して、三田英学校(現在の錦城学園高等学校)で学ぶ。そこで漢文学者の森田思軒の影響を受け、文学へ傾倒した。1888年(明治21年)に英学校を卒業後、読売新聞社社会部記者となり、新聞記者の世界へ足を踏み入れた。
馬場 孤蝶(ばば こちょう、1869年12月10日(明治2年… 馬場 孤蝶(ばば こちょう、1869年12月10日(明治2年11月8日) - 1940年(昭和15年)6月22日)は、日本の英文学者、評論家、翻訳家、詩人、慶應義塾大学教授。 孤蝶は土佐藩士馬場来八の四男として、土佐国土佐郡(現・高知市)に生まれた。本名は勝弥といい、19歳上の次兄に自由民権運動家の馬場辰猪がいる。病弱で就学せずに、1878年両親と上京し、下谷茅町(現・台東区池之端二丁目)の忍ヶ丘小学校から三菱商業学校に進んで中退し、1884年から、共立学校で英語を学んだ。少年期から寄席に入り浸った。浄瑠璃を語った。弓術・盆栽・将棋・パイプ・俳画・古書漁り・旅行と、趣味が広かった。 1889年(明治22年)(20歳)、明治学院2年に入学し、島崎藤村、戸川秋骨と同級になった。
三代目 古今亭 今輔(ここんてい いますけ、明治2年6月27… 三代目 古今亭 今輔(ここんてい いますけ、明治2年6月27日(1869年8月4日) - 大正13年(1924年)8月18日)は、落語家。本名:村田 政次郎。 浅草代地に住んでいたことから俗に「代地の今輔」やせっかちなエピソードが多いことから「せっかちの今輔」。 東京深川の生まれ、子供の時の1883年~1884年ころに二代目古今亭志ん生の門に入り志ん丸を名乗った。志ん丸は二代目今輔の前座名で待望されていたことが分かる。1889年3月に志ん猫と改名。 師匠志ん生死去に伴い4月に四代目三升亭小勝の門で三升亭小つね、さらに1896年1月に柳家小文吾となり1897年に柳派の出世名である三代目柳家小三治襲名。
東儀 鉄笛(とうぎ てってき、明治2年6月16日〈1869年… 東儀 鉄笛(とうぎ てってき、明治2年6月16日〈1869年7月24日〉 - 大正14年〈1925年〉2月4日)は、明治・大正期の雅楽家・作曲家・俳優。本名・東儀 季治(すえはる)。京都府出身。父・季芳(すえよし)は、安倍季誕(すえのぶ)の子として生まれ、のちに、祖父である東儀季郛(すえもり)の死後、東儀の姓を継いだ。孫・東儀季信は元宮内庁楽部楽師。 1869年7月24日(明治2年6月16日)に京都に生れ、1872年(明治5年)に東京へ移住する。1879年(明治12年)から宮内省に出仕し、1890年(明治23年)に雅楽部の伶人兼楽手に補せられる。1892年(明治25年)9月に早稲田専門学校文学科に入学したと本人自筆の履歴書に書いているが、学籍簿には記録されていない。
井上 準之助(いのうえ じゅんのすけ、1869年5月6日〈明… 井上 準之助(いのうえ じゅんのすけ、1869年5月6日〈明治2年3月25日〉- 1932年〈昭和7年〉2月9日)は、日本の政治家、財政家。日本銀行第9・11代総裁。山本、濱口、第2次若槻内閣で大蔵大臣に就任。貴族院議員。位階は従二位。 帝大卒業後に山本達雄の勧めで日本銀行に入行。日銀では高橋是清の知遇を受け営業局長にまで昇進。ニューヨークへの転勤を経て横浜正金銀行に招かれ、のちに高橋の計らいで古巣の日銀の総裁に任命される。日銀総裁時代に起きた昭和金融恐慌の際には高橋と共に混乱の収拾にあたった。 第2次山本内閣で大蔵大臣を務めた際は関東大震災の混乱の中でモラトリアムを断行する。経済界でも辣腕を振るい、第二の「渋沢」と称される存在となった。
荻原 雲来(おぎわら うんらい、明治2年2月10日(1869… 荻原 雲来(おぎわら うんらい、明治2年2月10日(1869年3月22日) - 昭和12年(1937年)12月20日)は、和歌山県生まれの浄土宗の僧侶、仏教学者・サンスクリット学者。日本のサンスクリット語研究、サンスクリット文献に基づいた仏教研究の先駆者であり、大成者である。 1869年(明治2年)、和歌山県に生まれ、当時浄土宗の重鎮であった荻原雲台の養子となる。1896年(明治29年)、浄土宗学本校(のち真言宗豊山・智山派、天台宗と合同し宗教大学を経て現・大正大学)を優秀な成績で卒業。1898年(明治31年)よりドイツのカイザー・ヴィルヘルム二世大学に留学、サンスクリット語研究の泰斗エルンスト・ロイマンに師事する。
三宅 花圃(みやけ かほ、1869年2月4日(明治元年12月… 三宅 花圃(みやけ かほ、1869年2月4日(明治元年12月23日) - 1943年(昭和18年)7月18日)は、明治時代の小説家、歌人。著書『藪の鶯』は、明治以降に女性によって書かれた初の小説。 姓は田辺、本名は竜子。花圃と号す。本所番場町に住む旧幕臣で元老院議員の父・田辺太一、母・己巳子(きみこ)の長女に生まれる。戸籍では10月5日生まれ。竜子は8歳で麹町小学校に入学したが、その後、跡見花蹊の跡見女学校に学び、ついで桜井女学校、明治女学校と次々と学校を変ったのち、最後に、森有礼の理想によって女子の最高学府として設立された一つ橋の東京高等女学校(現・お茶の水女子大学)専修科に入学、1889年(明治22年)に卒業した。
市川 莚十郎(いちかわ えんじゅうろう、旧暦 明治元年12月… 市川 莚十郎(いちかわ えんじゅうろう、旧暦 明治元年12月10日 / グレゴリオ暦 1869年1月22日 - 1943年3月2日)は、日本の歌舞伎役者、俳優である。本名は生田 宮吉(いくた みやきち)。幼名及び旧芸名は市川 左伊次(いちかわ さいじ、市川 左い次とも)、市川 榮升(いちかわ えいしょう)。映画草創期に主演俳優として活躍した一人であり、5代目澤村四郎五郎との名コンビとして知られる。 1869年1月22日(旧暦 明治元年12月10日)、武蔵国(後の東京府東京市浅草馬道3丁目、現在の東京都台東区)に生まれる、とされている。1923年(大正12年)に発行された『現代俳優名鑑』(揚幕社)には、生年月日は「明治三年十二月十日」(グレゴリオ暦 1871年1月30日)、生地は東京市浅草区馬道町1丁目(現在の台東区浅草1丁目)である旨が記されている。
19代 木村庄之助(じゅうきゅうだい きむら しょうのすけ、… 19代 木村庄之助(じゅうきゅうだい きむら しょうのすけ、明治2年〈1869年〉 - 1932年〈昭和7年〉5月30日 )は、大相撲の立行司の一人。木村庄之助としての在位期間は1926年1月 - 1932年5月。所属は若藤部屋 - 友綱部屋 - 入間川部屋 - 出羽ノ海部屋。 東京府本所(現・東京都墨田区両国)出身。本名は鬼頭多喜太。骨董商の家に生まれたが、9代式守伊之助の弟子となり、1881年若藤部屋に入門し行司となる。1885年1月場所、式守多喜太の行司名で番付についた。 名行司として知られ、立行司昇格まで長く5代式守与太夫の名を名乗り、3代式守勘太夫、3代式守錦太夫とともに「名行司三太夫」と呼ばれていた。
志田 鉀太郎(しだ こうたろう、1868年10月5日(慶応4… 志田 鉀太郎(しだ こうたろう、1868年10月5日(慶応4年8月20日) - 1951年(昭和26年)3月13日)は、日本の法学者。第5代明治大学総長。 1868年、東京府(後の東京市牛込区、現・東京都新宿区)の一橋徳川家剣術指南番の家に生まれる。東京府尋常中学校、私立東京英語学校などを経て、1894年(明治27年)、東京帝国大学法科大学卒業、同大学院入学。1898年(明治31年)、学習院大学科教授に就任。 1897年(明治30年)から1919年(大正8年)まで新設の東京高等商業学校(のちの東京商科大学、現一橋大学)専攻部初代商法教授。ドイツ留学中に石川巌・石川文吾・神田乃武・瀧本美夫・津村秀松・福田徳三・関一とともに東京高商の大学昇格運動を始め、1920年(大正9年)から東京商科大学保険学担当講師。
安田 篤(やすだ あつし、1868年9月8日 - 1924年… 安田 篤(やすだ あつし、1868年9月8日 - 1924年5月12日)は、日本の菌類学者である。
伊藤 武七郎(いとう ぶしちろう、1868年7月23日(明治… 伊藤 武七郎(いとう ぶしちろう、1868年7月23日(明治元年6月4日)- 1936年(昭和11年)10月26日)は、大正から昭和前期の大地主、政治家。衆議院議員、東京府荏原郡荏原町長。 武蔵国荏原郡下蛇窪村(東京府荏原郡平塚村、平塚町、荏原町、東京市荏原区を経て現東京都品川区)で、地主・伊藤受房の二男として生まれる。父は杜松斎景湖と名乗り寺子屋を開いていた。攻玉社中学校(現攻玉社中学校・高等学校)で学んだ。1917年(大正6年)5月に家督を相続した。 平塚村内堀普通水利組合議員、同村会議員、同耕地整理組合長、荏原郡会議員、荏原町長、東京府会議員(4期)、同副議長、土地貸借価格調査委員、品川普通水利組合会議員、東京市会議員、同参事会員、荏原区公民学務委員などを務めた。
神野 勝之助(かみの かつのすけ、1868年4月29日(慶応… 神野 勝之助(かみの かつのすけ、1868年4月29日(慶応4年4月7日)– 1928年(昭和3年)10月5日)は、日本の大蔵官僚、政治家。大蔵次官、貴族院議員。
大工原 銀太郎(だいくはら ぎんたろう、1868年1月27日… 大工原 銀太郎(だいくはら ぎんたろう、1868年1月27日〈慶応4年1月3日〉 - 1934年〈昭和9年〉3月9日)は、日本の農学者(農芸化学)。勲等は勲二等。学位は農学博士(1911年)。旧姓は鈴木(すずき)。 農事試験場や特許局で技師として勤務し、農芸化学に関する研究に従事したのち、九州帝国大学農学部で教鞭を執った。土壌酸性がアルミニウムに因ること(大工原酸度, Daikuhara acidity)を世界で初めて発見した。九州帝国大学や同志社大学で総長を務めた。 信濃国伊那郡南向村(現長野県上伊那郡中川村)の鈴木家に生まれ、のちに飯田の大工原孝吉の養子となる。松本中学校、東京農林学校を経て1894年、帝国大学農科大学農芸化学科を卒業。
幸田 露伴(こうだ ろはん、1867年8月22日(慶応3年7… 幸田 露伴(こうだ ろはん、1867年8月22日(慶応3年7月23日) - 1947年(昭和22年)7月30日)は、日本の小説家。本名は成行(しげゆき)。別号に蝸牛庵(かぎゅうあん)、笹のつゆ、雷音洞主、脱天子など多数。江戸(現東京都)下谷生れ。帝国学士院会員。帝国芸術院会員。第1回文化勲章受章。娘の幸田文も随筆家・小説家。高木卓の伯父。
山脇 房子(やまわき ふさこ、1867年7月5日(慶応3年6… 山脇 房子(やまわき ふさこ、1867年7月5日(慶応3年6月4日)- 1935年(昭和10年)11月19日)は、日本の教育者。夫は法学者で女子実脩学校(後の山脇高等女学校)創立者の山脇玄。旧姓・小倉。聖公会信徒。 1867年(慶應3年)出雲国松江北田町(現在の島根県松江市北田町)で松江藩士小倉忠の長女として生まれた。 1883年(明治16年)松江女子師範学校を卒業後、松江の宣教師の紹介で仙台に赴き、アメリカ人宣教師スワルツ夫妻のもとで半年間英語を学んだ。 1885年(明治18年)上京し、麻布飯倉片町のイギリス人ホールのもとで2年間、経済学や文学を学んだ後、女子教育奨励会の教師であったイングランド国教会の宣教師カロライン・カルクスのもとで25歳まで英語や洋風作法を学んだ。
嘉悦 孝(かえつ たか、慶応3年1月26日(1867年3月2… 嘉悦 孝(かえつ たか、慶応3年1月26日(1867年3月2日) - 昭和24年(1949年)2月5日)は、熊本県熊本市本山町出身の女性教育者。明治36年に日本初の女子商業教育校、私立日本女子商業学校を創立。嘉悦学園創立者。孝子とも。 孝の父である嘉悦氏房は熊本藩の儒学者、横井小楠の教えを受けていた。孝は幼いころから父を通して学問を学び、実学思想を身に付けていった。彼女が女子の経済的自立に関して考えるに至った経緯として、父である嘉悦氏房が経営していた緑川製紙場で女工として働いていたということがある。成長してからは東京の成立学舎女子部で学び、教育への理解を深めていった。卒業後、同校にて教鞭を取り、日本女子教育会講師などを務めた後の明治36年(1903年)、私立日本女子商業学校を創立した。
夏目 漱石(なつめ そうせき、1867年2月9日(慶応3年1… 夏目 漱石(なつめ そうせき、1867年2月9日(慶応3年1月5日) - 1916年(大正5年)12月9日)は、日本の小説家、評論家、英文学者。本名、夏目 金之助(なつめ きんのすけ)。江戸の牛込馬場下横町(現在の東京都新宿区喜久井町)出身。俳号は愚陀仏。