石本 新六(いしもと しんろく、1854年2月17日〈嘉永7… 石本 新六(いしもと しんろく、1854年2月17日〈嘉永7年1月20日〉- 1912年〈明治45年〉4月2日)は、日本の武士(姫路藩士)、陸軍軍人。陸士旧1期。陸軍中将正三位勲一等功二級男爵。 姫路藩士・石本勝左衛門為延の六男として生まれる。1855年(安政2年)、安政江戸地震で父と祖母を失う。1869年(明治2年)、開成所姫路藩貢進生として上京し、大学南校で学ぶ。陸軍幼年学校を経て陸軍士官学校に入学。西南戦争に従軍し、1877年(明治10年)7月、工兵少尉に任官。1878年(明治11年)12月、陸士(旧1期)を卒業した。 後、フランスに留学し、1881年(明治14年)8月、フォンテンブロー砲工校を卒業し翌年に帰国。
関根 柳介(關根、せきね りゅうすけ、1853年11月5日(… 関根 柳介(關根、せきね りゅうすけ、1853年11月5日(嘉永6年10月5日)- 1917年(大正6年)11月24日)は、明治から大正前期の官吏・政治家。衆議院議員、東京府南葛飾郡奥戸村長。 武蔵国葛飾郡曲金村(東京府南葛飾郡奥戸村大字曲金、奥戸町大字曲金、東京市葛飾区を経て現東京都葛飾区)で、代々里正を務めた関根家に生まれる。和漢学、武術を修めた。父に代わって里正を務めた。 1876年(明治8年)内務省に出仕。以後、鹿児島県属、大蔵省属、福井県属、熊本県徴収課長、逓信属などを歴任した。 1889年(明治22年)奥戸村長に就任。1892年(明治25年)東京府会議員に当選し、大隊区徴兵参事員も務めた。
松野 クララ(まつの くらら、松野 久良々・松野 くらら、独… 松野 クララ(まつの くらら、松野 久良々・松野 くらら、独語名: Clara Louise Zitelmann〈クララ・チーテルマン〉、1853年8月2日 - 1931年7月18日)は、ベルリン生まれのドイツ人女性で、明治時代の幼児教育者、音楽教育者(ピアノ奏者)。配偶者は農商務省官吏で林学教育者の松野礀(旧長州藩臣)。 ベルリンにて、Carl Friedrich Zitelmann(父)とEmma Pauline Ulrike (Tangermann) Zitelmann(母)の娘として生まれる。姉はEmma Maria Luise Zitelmann(1847年3月23日生)。 フリードリヒ・フレーベルが創立した保母学校を卒業したとされる。
川島 忠之助(かわしま ちゅうのすけ、1853年6月9日(嘉… 川島 忠之助(かわしま ちゅうのすけ、1853年6月9日(嘉永6年5月3日)‐ 1938年(昭和13年)7月14日)は、明治時代から昭和初期に活躍した翻訳家、銀行家(横浜正金銀行東京支店長)である。1878年に『八十日間世界一周』を和訳し、日本で初めてフランス文学を原典から翻訳した人物である(訳書は生涯で3冊のみ)。 1853年(嘉永6年)5月3日、江戸本所(後の東京府東京市本所区、現・東京都墨田区)外手町の御料所の手代、川島奥六知脩の末子として生まれる。 父の赴任に伴い、6歳の頃に飛騨高山に移り住むが、1863年(文久3年)に父が病没した上に明治維新が起こり、扶持を失う。 1868年(明治元年)末、横須賀製鉄所に製図工見習工として就職してフランス語を修めるが、1870年(明治3年)に退職して横浜に出る。
石橋 絢彦(いしばし あやひこ、嘉永5年12月27日(185… 石橋 絢彦(いしばし あやひこ、嘉永5年12月27日(1853年2月5日) - 昭和7年(1932年)11月25日)は、日本の武士(幕臣)、土木技術者。工学博士。位階および勲等は従四位・勲二等。 幕臣与力の中井国蔵長親・中井ふくの五男として嘉永5年12月27日、江戸浅草新堀端に生まれる。元治元年、幕臣石橋和三郎福庵の養子となったが、義父福庵は明治元年4月2日失踪した。明治12年(1879年)工部大学校(現在の東京大学工学部)卒業。同年、下谷区仲御徒町に住する幕臣青山安保(義父福庵の異母兄)の長女の菊(文久3年6月28日生)と結婚。逓信省に出仕。イギリスに留学し灯台工事、その他の海上工事を研究する。
曽禰 達蔵(そね たつぞう、1853年1月3日(嘉永5年11… 曽禰 達蔵(そね たつぞう、1853年1月3日(嘉永5年11月24日) - 1937年(昭和12年)12月6日)は日本の建築家。
中村 克昌(なかむら かつまさ / こくしょう、1853年(… 中村 克昌(なかむら かつまさ / こくしょう、1853年(嘉永6年4月)- 1930年(昭和5年)5月31日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員。 武蔵国多摩郡上石原宿(布田五宿)(神奈川県北多摩郡調布町、東京府北多摩郡調布町、東京都北多摩郡調布町を経て現調布市上石原)で、上石原宿名主・中村勘六の長男として生まれた。呉服雑貨商を営む。 1872年(明治5年)初代戸長に就任。1873年(明治6年)新治県に出仕し庶務課の業務に従事。1879年(明治12年)民権政社「融貫社」が設立されると加入して自由民権運動に加わる。1881年(明治14年)10月、自由党の創立に三多摩壮士の一人として参画した。
川村 清雄(かわむら きよお、嘉永5年4月26日〈1852年… 川村 清雄(かわむら きよお、嘉永5年4月26日〈1852年6月13日〉 - 昭和9年〈1934年〉5月16日)は、明治期の洋画家。幼名は庄五郎、諱は修寛(ながひろ)、通称清兵衛、号に時童。本格的な油彩画技法を学んだ最初期の日本人画家で、明治洋画の先駆者のひとり。近代日本絵画が洋画と日本画に分かれていく最中にあって、両者を折衷し、ヴェネツィアなどで学んだ堅実な油画技術をもって、日本画的な画題や表現で和風の油画を描く独特の画風を示した。 江戸麹町表二番町法眼坂上において、御庭番の家系で御徒頭を勤める川村帰元修正の長男・庄五郎として生まれる。川村家は、初期の御庭番の17名の1人・川村新六を祖とし、曽祖父・修富の代から別れた分家であるが、曽祖父・祖父と奉行職を務め御庭番家筋の中でも名門の一つであった。
本多 錦吉郎(ほんだ きんきちろう、嘉永3年12月2日(18… 本多 錦吉郎(ほんだ きんきちろう、嘉永3年12月2日(1851年1月3日) - 大正10年(1921年)5月26日)は、明治初期からの洋画家。画家としては寡作であったが、多くの著書を書き、画塾で後進を育てた。趣味で始めた造園もプロ級だった。号は契山。
瀬戸岡 為一郎(せどおか / せとおか ためいちろう、旧字体… 瀬戸岡 為一郎(せどおか / せとおか ためいちろう、旧字体: 瀨戶岡 爲一郞、1850年5月19日(嘉永3年4月8日)- 1934年(昭和9年)2月10日)は、日本の農業経営者、政治家。衆議院議員。 武蔵国多摩郡瀬戸岡村(のち神奈川県西多摩郡瀬戸岡村、東京府移管を経て、現:東京都あきる野市瀬戸岡)で名主・瀬戸岡為助の長男として生まれる。 1881年、自由党の結成に加わり、石坂昌孝、村野常右衛門、内山安兵衛、瀬沼伊兵衛らと自由民権運動を推進した。神奈川県会議員に選出され、1890年7月の第1回衆議院議員総選挙で神奈川県第三区から立憲自由党所属で出馬して当選。以後、第2回総選挙でも再選され、弥生倶楽部に所属して衆議院議員を連続二期務めた。
芦川 貫一郎(あしかわ かんいちろう 1850年代? - 1… 芦川 貫一郎(あしかわ かんいちろう 1850年代? - 1927年)は、日本の地方政治家。稲城村の村長を務めた。 稲城村の村長の中で唯一、肖像画が存在しない。 神奈川県南多摩郡大丸村出身。1889年に稲城村制執行の際、初代収入役に就任する。1897年1月20日に村長になるも、同年10月22日に病気のため辞任。その後も村会議員を務め、1921年に引退した。 1927年に亡くなったとされる[要出典]。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
大平 安三(おおひら やすぞう、1849年9月または10月(… 大平 安三(おおひら やすぞう、1849年9月または10月(嘉永2年8月)- 1915年)は、日本の地方政治家。東京都八王子市の前身に当たる東京府(1893年3月までは神奈川県)八王子町長を務めた。 1893年に刊行された『三多摩人物評』によると、嘉永2年(1849年)8月に八王子八日町の旧家に生まれ、通称を新造と称した。漢学のほか、井上頼圀に国学を学んだとされる。慶応の時期には農兵の小隊を率いたという。華道や茶道、狂歌に通じ、一時期は家督を嗣子に譲っていたが、1877年に小区の総代に任命された。1884年に町会議員となる。 1891年12月26日、平林定兵衛の後を継いで第2代町長になる。 在任中の1893年4月に、八王子町が所属していた南多摩郡を含む三多摩地域は神奈川県から東京府に移管された。
山脇 玄(やまわき げん、嘉永2年3月3日(1849年3月2… 山脇 玄(やまわき げん、嘉永2年3月3日(1849年3月26日)- 大正14年(1925年)10月7日)は、日本の法学者、法制官僚、政治家、教育者。法学博士、行政裁判所長官、貴族院議員。 福井藩の藩医・山脇立樹の長男として生まれる。福井藩の医学校・済生館で学んだ後、長崎に遊学して蘭学を学んだ。 1870年(明治3年)、文部省留学生としてドイツに渡り、ベルリン大学、ライプツィヒ大学、ハイデルベルク大学などで法学等を学び、日本人として初めてドイツ政府よりドクトルの称号を授与された。 1877年(明治10年)5月に帰国。同年8月、司法省御用掛となり民法編纂掛分科詰に配属された。以後、司法権少書記官兼太政官権少書記官、太政官権少書記官、参事院議官補・法制部、法制局参事官、兼行政裁判所評定官、法制局第一部長、行政裁判所評定官、同裁判所部長などを歴任し、大日本帝国憲法・皇室典範の草案・起草にも参画した。
阿部 孝助(あべ こうすけ、1848年12月16日(嘉永元年… 阿部 孝助(あべ こうすけ、1848年12月16日(嘉永元年11月21日) - 1926年(大正15年)6月19日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 江戸生まれ。東京市下谷区上野で呉服商を営む。 1894年3月の第3回衆議院議員総選挙において東京府第8区から無所属で立候補して当選した。衆議院議員は1期務め、同年9月の第4回衆議院議員総選挙は不出馬。1896年6月の東京市会議員選挙に下谷区から立候補して当選した。同じく東京市会議員であった千澤専助が設立した下谷銀行の取締役も務めている。1926年死去。
三宅 秀(みやけ ひいず、嘉永元年11月17日(1848年1… 三宅 秀(みやけ ひいず、嘉永元年11月17日(1848年12月12日) - 昭和13年(1938年)3月16日)は、日本の医師・洋学者・医学者・貴族院議員。東京大学で最初の医学博士、のち名誉教授。幼名は復一(またいち)。
吉村 寅太郎(よしむら とらたろう、弘化5年2月5日(184… 吉村 寅太郎(よしむら とらたろう、弘化5年2月5日(1848年3月9日) - 大正6年(1917年)1月14日)は、日本の教育者。 但馬国豊岡(兵庫県豊岡市)出身。1869年(明治2年)から4年間慶應義塾で英学を学んだ。1873年(明治6年)、文部省に出仕し、広島外国語学校校長、広島英語学校長、広島県英学校長、広島県師範学校校長、広島県医学校長、広島県博物館長などを務めた。1879年(明治12年)からは文部一等属、文部省御用掛、同権少書記官、太政官御用掛、文部省視学官、同参事官を歴任。1887年(明治20年)、第二高等中学校(のち第二高等学校)校長に就任した。1897年(明治30年)に退官した後は、成女学校を創設し、校長に就任した。
岡本 則錄(おかもと のりふみ、おかもと のりぶみ、1847… 岡本 則錄(おかもと のりふみ、おかもと のりぶみ、1847年12月7日(弘化4年10月30日) - 1931年(昭和6年)2月17日)は、日本の数学教育者、和算家、陸軍教授。和算から西洋数学へ転向し、文科省に横書きの教科書を刊行するよう建議した。日本数学会の前身である東京数学会社の設立に携わった。 海軍の中川勝行と荒川重平の訳語統一を支援し、「公理」「単位」「数学」などの語を発案した。 金融業を営む後藤誠作と後藤くにの間に長男として生まれ、最初は後藤を名乗った。父誠作の没後に岡本備中守にあやかり姓を岡本とした。和算家としては長谷川弘に師事した。花柳流に通っていたため貧しくなり、弟子の松岡文太郎に助けられて生活していた。
窪 全亮(くぼ ぜんりょう、1847年9月28日(弘化4年8… 窪 全亮(くぼ ぜんりょう、1847年9月28日(弘化4年8月19日)- 1913年5月11日)は、日本の教育者。明治および大正時代に、現在の東京都稲城市で活動した。号は「素堂」。「稲城」の地名の命名者という説がある。 1847年に長沼村(現稲城市)に生まれる。若い頃江戸に出て、大沼枕山に学ぶ。 1871年に郷里の長沼村に作られた東長沼郷学校「博文学舎」の教員となる。翌年、学制が発布されると尋常小学校の教員に就任した。 1880年(明治13年)に私塾「奚疑塾」(けいぎじゅく)を自宅に開いた。この塾は尋常小学校卒業者を対象とし、広く生徒が集まった。奚疑塾の名は、帰去来辞の「樂夫天命復奚疑」に由来する。
小林 清親(こばやし きよちか、1847年9月10日(弘化4… 小林 清親(こばやし きよちか、1847年9月10日(弘化4年8月1日)- 1915年(大正4年)11月28日 )は、明治時代の浮世絵師。明治10年(1877年)ごろに、江戸から移り変わる東京の様子を版画で表現した。 江戸本所にて幕臣で本所御蔵小揚頭取を務める小林茂兵衛の子として生まれる。母は浅草御蔵方小揚頭を務めた松井安之助の長女ちか。9人兄弟の末子で、幼名は勝之助。小林家は足軽級の軽輩であったが、蔵米を扱う職務上、番方の同心より裕福であり、家には剣客の居候がおり、また出入りの医師もいるほどであった。 1862年(文久2年)、15歳の時に父が亡くなった為、勝之助が元服し、清親を名乗り、家督を継ぐ。
市川 文吉(いちかわ ぶんきち、1847年8月3日(弘化4年… 市川 文吉(いちかわ ぶんきち、1847年8月3日(弘化4年6月23日) - 1927年(昭和2年)7月30日)は、明治時代のロシア語通訳、外交官、教育家。幼名は秀太郎。 1847年、広島藩士・市川兼恭の長男として江戸神田新白銀町で生まれる。1860年(安政7年)、蕃書調所の仏学稽古人となり、1864年(元治元年)、開成所の仏学科教授手伝並に任ぜられた。 かねてより駐日ロシア領事ヨシフ・ゴシケーヴィチは幕府にロシアへ留学生を送ることを提案していた。1865年(慶応元年)、幕府は提案を採り上げ、遣露留学生を送ることを決定。当時開成所教授で、ロシアとロシア語に関心を持っていた父の推薦で留学生に選ばれた。
小川 松民(おがわ しょうみん、1847年6月8日(弘化4年… 小川 松民(おがわ しょうみん、1847年6月8日(弘化4年4月25日)- 1891年(明治24年)5月29日)は、明治時代の漆芸家。本名は繁次郎。 江戸の日本橋に金具師であった小川忠蔵の子として生まれる。1862年(文久2年)に中山胡民の門人となり蒔絵を学んだ。後に池田孤村の門人となり、尾形光琳の画風を学ぶ。この経験を活かし、古作の蒔絵を模造した漆器の制作にあたった。 明治維新後の1870年(明治3年)に独立して、浅草馬道町に転じる。1876年(明治9年)に開催されたフィラデルフィア万博に出品し視察するために渡米した。帰国後は再度蒔絵を使用した漆器の制作にあたり、1877年(明治10年)に開催された第1回内国勧業博覧会には松民の作品が出品された。
川路 寛堂(かわじ かんどう、弘化元年12月21日(1845… 川路 寛堂(かわじ かんどう、弘化元年12月21日(1845年1月28日) - 昭和2年(1927年)2月5日)は、江戸時代末期(幕末)から昭和の旗本、大蔵省官僚、教育者。川路聖謨の孫に当たる。通称は太郎、諱は温、寛堂は号だが、伊藤博文秘書役時代、公文書に寛堂と署名していたため、本名も寛堂になったという。 弘化元年(1844年)12月21日、江戸番町冬青木坂上に川路彰常の長男として生まれた。弘化3年(1847年)9月25日、2歳で父と死別し母も再婚して別離、大叔父の井上清直夫妻に引き取られ養育された。嘉永3年(1850年)2月27日に下総佐倉藩医鏑木仙安の手で牛痘を接種、嘉永4年(1851年)6月22日に6歳で奈良奉行を退任して江戸へ召還された祖父川路聖謨と面会して川路家に戻り、祖父の庇護を受けた。
五代目 尾上菊五郎(ごだいめ おのえ きくごろう、1844年… 五代目 尾上菊五郎(ごだいめ おのえ きくごろう、1844年7月18日(天保15年6月4日)- 1903年(明治36年)2月18日)は、明治時代に活躍した歌舞伎役者。本名は寺島 清(てらじま きよし)。 尾上菊五郎としての屋号は音羽屋。定紋は重ね扇に抱き柏、替紋は四つ輪。俳名に梅幸。 市村羽左衛門としての屋号は菊屋。定紋は根上り橘、替紋は渦巻。俳名に家橘。 九代目市川團十郎、初代市川左團次とともに、いわゆる「團菊左時代」の黄金時代を築いた。 寺島清は十二代目市村羽左衛門を父に、三代目尾上菊五郎の次女を母に、江戸の芝居町猿若町二丁目に生まれた。嘉永2年(1849年)11月市村座で二代目市村九郎右衛門を襲名して初舞台。
沼間 守一(ぬま もりかず/ぬま しゅいち、1844年1月2… 沼間 守一(ぬま もりかず/ぬま しゅいち、1844年1月21日〈天保14年12月2日〉 - 1890年〈明治23年〉5月17日)は、幕末の幕臣。明治時代の政治家、ジャーナリスト。雅号は不二峰楼主人(ふじほうろうしゅじん)、弄花生(ろうかせい)。幕府軍に参加し戊辰戦争で捕縛されるも放免され、大蔵省・司法省出仕。岩倉使節団の一員であり、嚶鳴社を組織し自由民権運動を展開。立憲改進党の結党に参画し、東京府会議長も務めた。実業家としても『横浜毎日新聞』を買い取り、『東京横浜毎日新聞』を創刊した。 天保14年12月(1844年1月)、江戸牛込にて幕臣・高梨仙太夫の第2子として生まれる。幼名は慎次郎。兄に銀行家の須藤時一郎、弟に高梨哲四郎がいる。
原 豊穣(はら ほうじょう、1843年(天保14年) - 1… 原 豊穣(はら ほうじょう、1843年(天保14年) - 1917年(大正6年))は、日本の政治家。南多摩郡長および八王子町長を務めた。 1843年に武蔵国多摩郡調布の上布田村(現在の東京都調布市)で生まれる。幼名は泰輔。1880年4月、神奈川県勧業課御用掛になる。1882年6月、南多摩郡長に就任。1886年に愛甲郡長になる。1891年11月、再び南多摩郡長に就任。1893年に南多摩郡は神奈川県から東京府になる。1897年に郡長を辞任。1900年4月、八王子町長に就任し、1901年3月辞任。 豊穣は1870年から1913年まで日記を書いており、調布市で公開されている(ただし、1889年 - 1912年10月は空白になっている)。
大纒 長吉(おおまとい ちょうきち、1843年(天保14年)… 大纒 長吉(おおまとい ちょうきち、1843年(天保14年) - 1889年(明治22年)12月2日)は、現在の東京都出身で玉垣部屋に所属した大相撲力士。本名は竹馬 長吉。7代出来山。最高位は関脇。 実家は神田の蕎麦屋で、幼少期から体が大きく、玉垣部屋に入門。1856年(安政3年)1月に怪童力士として1場所だけ番付に載り、土俵入りをつとめた。翌1857年(安政4年)に角界に入り直し、11月場所で序ノ口に就いた。1867年(慶応3年)に入幕し、同期、同時入幕の境川浪右衛門(のち横綱)と出世を争い、その取組は人気を集めた。番付を順調に上げ、1869年(明治2年)4月に小結に昇進、8年に渡って三役の座を維持し、1871年(明治4年)3月関脇に昇進した。
赤松 則良(あかまつ のりよし、天保12年11月1日〈184… 赤松 則良(あかまつ のりよし、天保12年11月1日〈1841年12月13日〉 - 大正9年〈1920年〉9月23日)は、日本の武士(幕臣)、華族、海軍軍人、政治家。貴族院議員。栄典は海軍中将。位階勲等爵位は従二位勲一等男爵。通称は大三郎。「日本造船の父」と呼ばれる。 中世の播磨の名族赤松氏の末裔と称する播州網干(現姫路市網干区)新在家の龍野藩御用商人であった廻漕業赤松良則を実父とする幕府十五番組御徒士(御家人)・吉沢雄之進の次男として江戸深川に生まれる。弘化4年(1847年)、祖父赤松良則の後を継ぎ父の実家である赤松姓となる。先祖の出自から父の経歴まで「赤松則良半生談」に本人が詳しく述べている。
今井 信郎(いまい のぶお、天保12年10月2日(1841年… 今井 信郎(いまい のぶお、天保12年10月2日(1841年11月14日) - 大正7年(1918年)6月25日)は、江戸時代末期(幕末)から明治初期の武士(幕臣)、佐幕活動家、警察官、教育者、農事指導者、キリスト教活動家、政治家。 今井は江戸に育ち、安政5年(1858年)、18歳で直心影流剣術の榊原健吉道場に入門、免許取得後講武所の師範代の任に就いた。慶応3年(1867年)5月、京都見廻組への入隊を拝命、同年11月15日に発生した近江屋事件に関わった。戊辰戦争では衝鋒隊副隊長として各地を転戦し、箱館戦争まで戦った。明治3年(1870年)2月、近江屋事件の件で嫌疑をかけられ、身柄を刑部省の伝馬町牢舎へ移され取り調べを受けた。
巌崎 健造(いわさき けんぞう、天保12年9月1日(1841… 巌崎 健造(いわさき けんぞう、天保12年9月1日(1841年10月15日) - 大正2年(1913年)10月2日)は、囲碁の棋士。武蔵国出身、9世安井算知門下、八段。元の名は海老沢健造。方円社3代目社長として、碁界のもう一方の本因坊秀栄とともに明治後半の囲碁界を取り仕切り発展に努めた。 多摩郡田無村(現・東京都西東京市)の旅人宿の次男に生まれ、幼名は鍋吉。父や親戚の影響で7歳の頃から囲碁を嗜んだ。家が零落したため8歳の時に新座郡新倉村東福寺に預けられ忍治となる。和尚実願の碁の相手をしていたが、実願は才能を見て太田雄蔵に弟子入りさせ、当時本因坊秀和に星目で打ち1目勝している。12歳の頃に実願が大病にかかった際には、近隣にて賭碁で薬代を稼いだともいう。
石坂 昌孝(いしざか まさたか、1841年6月11日〈天保1… 石坂 昌孝(いしざか まさたか、1841年6月11日〈天保12年4月22日〉 - 1907年〈明治40年〉1月13日)は、日本の幕末から明治期の名主、政治家。神奈川県会議員、神奈川県会議長(初代)、群馬県知事(官選第5代)、衆議院議員(4期)。幼名・高之助。苗字は「石阪」とも表記され、文献によってぶれがある。 武蔵国多摩郡野津田村(のち鶴川村、現在の町田市域)で豪農・石阪吉恩の三男として生まれ、母の実家、名主・石阪昌吉の養子となる。安政4年10月(1857年11月)、家督を相続し、又次郎を襲名。 明治維新後、明治5年1月(1872年2月)、第三十戸籍区戸長となり、第八区区長、神奈川県権少属を歴任。
中溝 昌弘(なかみぞ まさひろ、天保12年1月16日〈184… 中溝 昌弘(なかみぞ まさひろ、天保12年1月16日〈1841年2月7日〉 - 昭和2年〈1927年〉)は、明治時代の日本の地方政治家、自由民権運動家。地主、三多摩壮士の一人。 幕府御典医の白鳥昌領の次男として、北多摩郡上布田駅(現・東京都調布市)に生まれる。嘉永5年(1852年)、幕臣松平次郎太の門下生となった。同6年(1853年)に昌平坂学問所の素読吟味試験に合格した。慶応2年(1866年)、中溝ブンと婿養子として結婚した。この頃自宅で漢学塾を開く。 明治11年(1878年)に結成された「責善会」で石坂昌孝らと活動した。同年、11月18日に都筑郡長に、明治14年(1881年)6月28日には南多摩郡長に就任した。
朝倉 徳次郎(あさくら とくじろう、1841年〈天保12年〉… 朝倉 徳次郎(あさくら とくじろう、1841年〈天保12年〉 - 1916年〈大正5年〉4月22日)は、日本の農民、米屋、精米業、水車業、地主、政治家。 武蔵国出身。金蔵の長男。朝倉家は江戸時代から米を作る傍ら、三田用水の水車を利用して米の賃搗きを行っていたが、明治のはじめに徳次郎は百姓が嫌になり「暁天に野菜を洗って出荷して5銭にしかならぬ」と言って精米業に転じた。 1869年、朝倉米店開業。米の賃搗きで得た現金により農民が安く手放した土地を次々と買い取った。 質朴勤勉な富民として平和な生活をなし、名望のため渋谷村会議員をつとめた。また徳次郎以来、代々朝倉家が渋谷の氷川神社の大総代をつとめた。 住所は東京府豊多摩郡渋谷村大字下渋谷(のち渋谷町、現・東京都渋谷区)。
小俣 勇造(おまた ゆうぞう、1840年10月28日(天保1… 小俣 勇造(おまた ゆうぞう、1840年10月28日(天保11年10月4日) - 1914年6月13日)は、日本の和算家。 武蔵国多摩郡矢野口(現在の東京都稲城市)に生まれる。幼少期から算術を学び、1877年に東京に出て福田理軒から関流の和算を教授される。郷里の矢野口村に和算塾を開いた。1885年に門弟が算額を大國魂神社に奉納した(現存)。同じ年に算術書『数理図解』を執筆した。 1897年には穴澤天神社境内に「小俣君寿碑」という石碑が門弟により建立されている。 この項目は、数学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
15代 木村 庄之助(じゅうごだい きむら しょうのすけ、天… 15代 木村 庄之助(じゅうごだい きむら しょうのすけ、天保10年10月20日(1839年11月25日) - 明治30年(1897年)9月22日)は、大相撲の立行司。本名は深山八三郎。出身地は東京都江東区富岡。 11代木村庄之助に入門、1850年11月木村八三郎の名で番付に載る。のち木村瀬平(3代目、正三郎改め)の所属となる。木村角次郎(角治郎)から1864年10月に木村庄三郎(4代目)を襲名。1885年5月に先代の庄之助の死去に伴い、15代目木村庄之助を襲名した。人物、見識に優れ、故事に精通していた。横綱初代梅ヶ谷の信頼厚く、横綱土俵入りを許されると土俵入りに従った。年寄木村松翁を兼務。1897年9月22日現役没。
佐々木 東洋(ささき とうよう、天保10年6月22日(183… 佐々木 東洋(ささき とうよう、天保10年6月22日(1839年8月1日) - 大正9年(1918年)10月9日)は、洋方医、内科医。 江戸本所生まれ。 佐倉順天堂で佐藤泰然、長崎でオランダ人医師ポンペに医学を学ぶ。 1861年に帰郷後、本所などで開業、その後は東京府病院副院長、博愛舎医師、大学東校病院長などを歴任。1877年西南戦争の際、大阪陸軍病院で軍医として診療。1878年、政府が脚気病院を設立、洋方医として診療に当たり、西洋医学が漢方医学に優ることを証明した。脚気病院閉鎖後、1882年神田駿河台に杏雲堂醫院を創立。1885年、石黒忠悳、長与専斎らと乙酉会を組織、医学制度について審議。1886年東京府医師会及び神田区医師会会長、内務省中央衛生会委員就任。
大島 貞敏(おおしま さだとし、1839年1月8日(天保9年… 大島 貞敏(おおしま さだとし、1839年1月8日(天保9年11月23日) - 1918年(大正7年)4月15日)は、但馬国養父郡の旗本・大藪領主小出英道の家臣。明治時代の司法官僚。東京地方裁判所長、長崎控訴院検事長、大阪控訴院検事長。関西法律学校(のちの関西大学)の創立者の1人で名誉校員。 江戸、のちの東京市神田区錦町(現東京都千代田区神田錦町)に生まれる。但馬国養父郡の旗本・大薮領小出英道(播磨守)の家臣であった父・大島貞薫に従い、小出家の江戸屋敷に勤番し、幕末の混乱期には江戸と大薮領の間を往来した。大村益次郎の江戸在中時代の門下生。 1870年(明治3年)弾正少巡察となり、1871年(明治4年)司法少大解部から司法権少判事となる。
森 清之助(もり せいのすけ、1839年(天保10年) - … 森 清之助(もり せいのすけ、1839年(天保10年) - 1911年(明治44年)12月10日)は、日本の地方政治家。稲城村(現・東京都稲城市)の初代村長である。 当時稲城の森家当主だった森素直の養子になる。1880年代に森家当主になり、東長沼村の村長になる。1889年(明治22年)の市町村制発足に際して、複数の村の合併により稲城村が誕生し、初代村長に就任する。1890年(明治23年)にいったん村長を退き、議員に戻った。1901年(明治34年)に再び村長に就任し、1903年(明治36年)に再び退いた。その後間もなく議員を引退し、1911年(明治44年)12月10日に死去。72歳没。[要出典] この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
千葉 さな子(ちば さなこ、天保9年3月6日(1838年3月… 千葉 さな子(ちば さなこ、天保9年3月6日(1838年3月31日) - 明治29年(1896年)10月15日)は、江戸時代末期(幕末)から明治にかけての女性。 北辰一刀流桶町千葉道場主・千葉定吉の二女。北辰一刀流小太刀免許皆伝、長刀師範。学習院女子科(後の女子学習院)舎監。漢字表記では坂本龍馬に与えた長刀目録に佐那と記述され、司馬遼太郎の小説でその表記を用いたため、この名称が一般化しているが、千葉家の位牌には佐奈と記されている。初名を乙女。 天保9年(1838年)、北辰一刀流桶町千葉道場主・千葉定吉の二女として誕生。兄に千葉重太郎がいる。北辰一刀流の剣術を学び、特に小太刀に優れ、10代の頃に皆伝の腕前に達したという。
谷 干城(たに たてき/たに かんじょう、天保8年2月12日… 谷 干城(たに たてき/たに かんじょう、天保8年2月12日〈1837年3月18日〉- 明治44年〈1911年〉5月13日)は、日本の武士(土佐藩士)、陸軍軍人、政治家。階級は陸軍中将。栄典は正二位勲一等子爵。 幕末は、土佐藩の勤皇派として、乾退助(板垣退助)の片腕を為し、薩摩藩・小松帯刀、西郷隆盛らと「薩土討幕の密約」を締結する。戊辰戦争に際し、軍事の才能、智略に秀で最前線で戦った武将。熊本鎮台司令長官であった西南戦争においては、熊本城攻防戦の官軍指揮者として手腕を発揮し、更に武名を挙げた。第2代学習院院長。東京学士会院会員。 天保8年2月12日(1837年3月18日)、土佐藩に仕える儒学者・谷景井(萬七。
関口 隆吉(せきぐち たかよし、天保7年9月17日〈1836… 関口 隆吉(せきぐち たかよし、天保7年9月17日〈1836年10月26日〉 - 明治22年〈1889年〉5月17日)は、幕末の幕臣で、明治時代の政治家、初代静岡県知事および第2代山口県知事。 静岡女学校(後の静岡英和女学院)の創立者の一人。字は艮輔(ごんすけ)。号は黙斎。 天保7年(1836年)、江戸本所相生町(現・東京都墨田区)に幕臣関口隆船の次男として生まれる。関口家は今川一族の関口氏広の子孫であり、父・隆船は佐倉村(現在の静岡県御前崎市佐倉)の池宮神社出身。 天保10年(1838年)、父の隆船が与力に任ぜられ、牛込赤城町へ転居。 嘉永元年(1848年)、斎藤弥九郎の練兵館に入門する。当時の塾頭は兄弟子となる桂小五郎であった。
関谷 源兵衛(せきや げんべえ、1835年 - 1908年)… 関谷 源兵衛(せきや げんべえ、1835年 - 1908年)は、明治時代の日本の地方政治家、実業家。東京都八王子市の前身に当たる東京府八王子町長を務めた。八王子市長の関谷源兵衛は孫。 1893年に刊行された『三多摩人物評』によると、八王子で質屋を営み、多くの土地と建物を所有する豪商であった。同書によると父の松兵衛の代から富裕な家で、明治初期には一揆に襲われる被害にも遭ったという。八王子町議会議員となり、南多摩郡所属税調査委員も務めた。 1894年に八王子商工会議所が設立された際には、発起人(第三十六銀行頭取の吉田忠右衛門以下合計8人)の一人となる。 1901年3月7日に第4代八王子町長に就任。約1年在任ののち、1902年3月5日に退任した。
近藤 勇(こんどう いさみ、天保5年10月9日〈1834年1… 近藤 勇(こんどう いさみ、天保5年10月9日〈1834年11月9日〉 慶応4年4月25日〈1868年5月17日〉)は、江戸時代末期の武士。新選組局長。後に幕臣に取り立てられ、甲陽鎮撫隊隊長。勇は通称で、諱は昌宜(まさよし)。慶応4年(1868年)からは大久保 剛(おおくぼ たけし)を名乗り、後にさらに大久保 大和(おおくぼ やまと)と改めた。家紋は丸の内に三つ引。天然理心流四代目宗家。 天保5年(1834年)、武蔵国多摩郡上石原村(現:東京都調布市野水)に百姓である父・宮川久次郎と母・みよの三男として生まれる。幼名は勝五郎、後に勝太と改めた。久次郎には勝五郎の他にも、長女・リエ(天保3年(1832年)に死去)、長男・音五郎(音次郎、乙五郎、源治郎)、次男・粂次郎(粂蔵、惣兵衛)と、祖父の源次郎がいた。
桂川 甫策(かつらがわ ほさく、天保3年(1832年) - … 桂川 甫策(かつらがわ ほさく、天保3年(1832年) - 明治23年(1890年)10月19日)は、幕末から明治の洋学者・医師・化学者。 桂川甫賢の次男で、蘭学の家として知られる桂川家の8代目。幼名辰次郎(達次郎)後に甫策。本姓は中原、諱は国幹(くにもと)。字は和春。号は淳斎。 この項目は、日本の歴史に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:日本/P:歴史/P:歴史学/PJ日本史)。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
小笠原 東陽(おがさわら とうよう、1830年10月29日〈… 小笠原 東陽(おがさわら とうよう、1830年10月29日〈文政13/天保元年9月13日〉 - 1887年〈明治20年〉8月12日)は、幕末から明治時代前半の儒学者、教育者。神奈川県高座郡羽鳥村の耕余塾(旧読書院)創設者。明治維新以前は、江戸詰の姫路藩士で奥山銕四郎と称した。 天保元年9月(1830年10月)美作勝山藩士小笠原忠良の三男として江戸谷中の藩邸で生まれる。幼名は亀吉、諱は董。天保4年2月の父の病没後、姫路藩士奥山重義の養子となって巣鴨の同藩下屋敷に移り、奥山銕四郎を名乗った。 数え12歳で御用使仮役(秘書見習)として初出仕。以後、近海防禦御道具調方手附手伝(天保14年)、巣鴨学問所肝煎心得兼務(弘化3年)、小役人格御用使頭取(弘化5年)、奥御番方仮役(安政2年)と累進。
仮名垣 魯文(かながき ろぶん、1829年2月9日(文政12… 仮名垣 魯文(かながき ろぶん、1829年2月9日(文政12年1月6日) - 1894年(明治27年)11月8日)は、江戸末期から明治初頭にかけての戯作者、新聞記者。江戸の京橋生まれ。本名は野崎文蔵、字は能連、幼名兼吉、また庫七、後に文蔵と改めた。別号に鈍亭、金屯道人、猫々道人、和堂開珍、英魯文、戯作書太郎、野狐庵。俳号は香雨亭応一、狂名は斜月窗諸兄。 京橋の鑓屋町に生まれる。魚屋を営む父野崎佐吉は、星窓梶葉という号を持ち俳句や狂歌を好み、文蔵も戯文や小説を好んで育った。大きな商家の丁稚となったが、人相見に小説家になれば出世すると言われ、18の年に花笠魯介文京の弟子となる。1849年(嘉永2年)19歳の時に名弘めの摺物「名聞面赤本(なをきいておもてあかほん)」を書き、それに先輩の文人や芝居作家に賛助の俳句や短歌を書いてもらったが、最後に当時82歳の滝沢馬琴に頼んで「味噌揚げて作り上手になりたくば世によく熟れし甘口ぞよし」という狂歌を贈られた。
小栗 忠順(おぐり ただまさ、文政10年6月23日〈1827… 小栗 忠順(おぐり ただまさ、文政10年6月23日〈1827年7月16日〉 - 慶応4年閏4月6日〈1868年5月27日〉)は、幕末期の日本の武士(幕臣)。 通称は又一で、この通称は小栗家当主が代々名乗っていた。安政6年(1859年)、従五位下・豊後守に叙任。文久3年(1863年)、上野介に遷任した。三河小栗氏第12代当主。 勘定奉行、江戸町奉行、外国奉行を歴任した。 安政7年(1860年)、日米修好通商条約批准のため米艦ポーハタン号で渡米し、地球を一周して帰国した。その後は多くの奉行を務め、江戸幕府の財政再建や、フランス公使レオン・ロッシュに依頼しての洋式軍隊の整備、横須賀製鉄所の建設などを行う。
木内 喜八(きうち きはち、1827年6月5日(文政10年5… 木内 喜八(きうち きはち、1827年6月5日(文政10年5月11日) - 1902年(明治35年)8月19日)は、幕末から明治時代に活躍した日本の木工芸家である。 号は梅里道人、幼名は友吉。 江戸の深川(現在の東京都江東区)に船大工の棟梁の設計に携わった家系の子として生まれる。初めは山田流の琴職人であった重元平八の門人となり、指物象嵌について学ぶ。その後は家業であった船大工や鞘、西洋の鉄砲等多くの制作に携わった。 後に木細工の製作に専念し、同時期に加賀藩の前田家に仕える。1877年(明治10年)に開催された第1回内国勧業博覧会に喜八の作品が出品され、次回の1881年(明治12年)に開催された第2回内国勧業博覧会に2回連続で出品された。
関東綱五郎(かんとうつなごろう、1822年 - 1886年1… 関東綱五郎(かんとうつなごろう、1822年 - 1886年11月)は、日本の侠客である。村上元三の小説『次郎長三国志』に同名で登場、清水次郎長配下の「清水二十八人衆」に数えられる大瀬の半五郎(おおせのはんごろう)と同一人物であるとされる。本名は鈴木 綱五郎(すずき つなごろう)、出生名は鈴木 綱之助(すずき つなのすけ)。関東の綱五郎(かんとうのつなごろう)とも。 1822年(文政5年)、武蔵国多摩郡上椚田村字落合(現在の東京都八王子市高尾町1915番地)に八王子千人同心を務める鈴木惣七の息子、つまり鈴木家の6代目・綱之助として生まれる。先祖は甲斐国にあったが、甲州征伐による1582年4月3日(天正10年3月11日)の武田氏滅亡に際して、同地に移住したとされる。
大野 規周(おおの のりちか、文政3年1月28日〈1820年… 大野 規周(おおの のりちか、文政3年1月28日〈1820年3月12日〉 - 1886年〈明治19年〉10月5日)は江戸時代後期の時計師、造幣寮技師。江戸神田で家業の時計師を営み、幕末福井藩に召し抱えられ、幕府海軍の下オランダに留学し、帰国後大阪造幣寮で技官を務めた。 文政3年(1820年)1月28日、江戸神田松枝町の時計師大野家に生まれた。祖父弥五郎規貞、父弥三郎規行も時計師で、伊能忠敬に測量器具を提供したことで知られる。弘化2年(1845年)父規行が死去し、家督を継いだ。嘉永2年(1849年)横山町三丁目玉屋吉次郎の測量器具の引札が残っている。 安政2年(1855年)明道館を作った福井藩に召し抱えられて本所中之郷の下屋敷に住み、ゲベール銃等の製作を行った。
浅野 長祚(あさの ながよし、文化13年6月9日〈1816年… 浅野 長祚(あさの ながよし、文化13年6月9日〈1816年7月3日〉 - 1880年〈明治13年〉2月17日)は、江戸時代末期(幕末)、明治時代の幕臣(旗本)、蔵書家、書画家、芸術鑑定家。字は胤卿、通称は金之丞、号の梅堂で知られる。官途は中務少輔、和泉守、備前守など。他に池香、蔣潭、蝦侶斎漱芳閣、楽是幽居、柏洪楼とも名乗った。 文化13年(1816年)、江戸飯田町(現・千代田区)で旗本浅野長泰(号は金谷)の子として生まれる。家系は播磨赤穂藩浅野家の支族(家原浅野家)で、家禄3500石の上級旗本であった。幼少より父から漢詩・和歌・俳句等を学び、書画をよくした。出羽亀田藩主岩城隆喜の3女直子と結婚。