老松 一吉(おいまつ かずよし、おいまつ かずきち、1911… 老松 一吉(おいまつ かずよし、おいまつ かずきち、1911年(明治44年)10月30日 - 2001年(平成13年)3月24日)は、日本の男性フィギュアスケート選手。富山県東礪波郡出町(現・砺波市)出身。1932年レークプラシッドオリンピック、1936年ガルミッシュ・パルテンキルヘンオリンピック男子シングル日本代表。ガルミッシュ・パルテンキルヘンオリンピックでは日本選手団の旗手。日本初のフィギュアスケートのオリンピック代表選手の一人。 中学2年の時、大阪でスケートを始める。1930年(昭和5年)、第1回全日本選手権に最年少で出場し5位に入る。翌1931年、第2回全日本選手権では優勝する。1932年(昭和7年)には北米に遠征し、1932年レークプラシッドオリンピックで9位、世界選手権で7位となった。
片岡 清一(かたおか せいいち、1911年(明治44年)7月… 片岡 清一(かたおか せいいち、1911年(明治44年)7月23日 - 1999年(平成11年)2月26日)は、日本の政治家。自由民主党衆議院議員。富山県砺波市出身。 東京帝国大学法学部政治学科卒業後、内務省に入省。東京府属。1966年(昭和41年)9月14日から1969年11月30日まで砺波市長を務めた後、同年の第32回衆議院議員総選挙に松村謙三の後継者として旧富山2区から出馬するも落選。続く1972年の第33回衆議院議員総選挙にて初当選(当選同期に小泉純一郎・加藤紘一・山崎拓・石原慎太郎・三塚博・村岡兼造・保岡興治・瓦力・越智通雄・野田毅・深谷隆司など)。以後連続当選6回。自民党内では中曽根康弘派に属し、1988年12月発足の竹下改造内閣で郵政大臣に任命され、初入閣(当時77歳5か月)。
山崎 栄次郎(やまざき えいじろう、1911年〈明治44年〉… 山崎 栄次郎(やまざき えいじろう、1911年〈明治44年〉4月17日 - 1987年〈昭和62年〉2月3日)は、日本の政治家。東京都墨田区長(3期)。甥は墨田区長を4期務めた山崎昇。 富山県西礪波郡西野尻村(のち福野町、現・南砺市)出身。小学校卒業後は東礪波郡福野町(現・南砺市)役場に就職する。その後、上京し、目白商業学校(現・目白研心中学校・高等学校)で学ぶ。東京市向島区役所に入り、戦時中に召集され、ソ連軍に抑留される。戦後、帰国し、墨田区役所に復帰。1963年〈昭和38年〉墨田区助役に就任。1974年〈昭和49年〉に区長となる。 翌1975年〈昭和50年〉区長公選制復活で墨田区長選挙に立候補し、当選。
南 桂子(みなみ けいこ、Keiko Minami、1911… 南 桂子(みなみ けいこ、Keiko Minami、1911年2月12日 - 2004年12月1日)は、富山県射水郡出身の版画家(銅版画)。夫は版画家の浜口陽三。本名は浜口 桂子(はまぐち けいこ)。
米沢 滋(よねざわ しげる、1911年 <明治44年> 2月… 米沢 滋(よねざわ しげる、1911年 <明治44年> 2月1日 - 1999年 <平成11年> 5月2日)は、日本の逓信官僚、工学者。日本電信電話公社総裁、経済団体連合会理事、電気通信協会長などを歴任。位階は正三位。 米沢与三七の子として生誕。富山県下新川郡入善町出身。1933年、東京帝国大学工学部電気工学科を卒業し、逓信省に入省。電気通信省業務局計画部長、日本電信電話公社保全局長、電気通信研究所長、総務理事などを歴任。1965年から1977年にかけて日本電信電話公社の総裁を務める。 超短波電波による無線多重電話方式を提唱し、1940年に世界に先駆けて実用化。また、通信設備の保全を合理化するため、初めて統計的品質管理方式を導入。
高井 悌三郎(たかい ていざぶろう、1911年(明治44年)… 高井 悌三郎(たかい ていざぶろう、1911年(明治44年)1月3日 - 2004年(平成16年)9月28日)は、日本の考古学者・教育者。考古学者としては、日本の地方郡衙の調査研究で先駆的な成果を上げた。元甲陽学院中学校・高等学校教諭。 1911年(明治44年)1月3日、富山県射水郡伏木町(現・高岡市)中道に生まれる。伏木町立尋常高等小学校、富山県立高岡中学校、第四高等学校を経て、1931年(昭和6年)4月に京都帝国大学文学部に入学。大学では西田直二郎らの教えを受ける。大学を1934年(昭和9年)3月に卒業した翌月に茨城県立水戸第二高等女学校講師兼茨城県女子師範学校(茨城県女子師範学校は後,茨城師範学校となる)講師として茨城県に着任する。
東 一雄(あずま かずお、1910年8月14日 - 2000… 東 一雄(あずま かずお、1910年8月14日 - 2000年10月5日)は、日本の洋画家。富山県富山市出身。紺綬褒章、元亜細亜美術交友会理事、元旺玄会会員。愛称は「カラス」。 水彩、水墨の作品もあるが中でも初期の代表的な木版画は陰刻法で戦後富山の版画の礎となる。その後、油彩でも本質や風土性は青や黒の作品が多く、海のテーマが多い。青をよく使うのは、「その色が好きだからということ、性格や体質からきたもので無意識だ」と語っている。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
浅香 幸雄(あさか ゆきお、1910年4月29日 - 199… 浅香 幸雄(あさか ゆきお、1910年4月29日 - 1994年7月24日)は、日本の地理学者。学位は、理学博士(東北大学)。東京教育大学名誉教授。 富山県高岡市出身。1932年東京高等師範学校卒、陸軍士官候補生、1936年東京文理科大学地理学科卒。 1953年「近世期の集落発達に関する地理学的研究」で、東北大学より理学博士の学位を取得(主査:富田芳郎教授)、東京市立第二中学校(現東京都立上野高等学校)教諭、朝鮮水原の高等農林学校の地理博物教員養成所教員、1944年東京高等師範学校教授、1949年至徳専門学校(現国士舘大学)地理科教授(兼任)、東京教育大学教授。74年定年退官、名誉教授、専修大学教授、1981年北陸工業専門学校教授、富山県教育委員会長。
吉田 実(吉田 實、よしだ みのる、1910年3月19日 -… 吉田 実(吉田 實、よしだ みのる、1910年3月19日 - 1982年11月16日)は、日本の政治家。公選3人目の富山県知事(4期)で、旧大島村長(現・射水市)。富山県販購農業協同連合会会長、全国販売農協連合会専務理事、富山県農業協同組合中央会長なども務めている。また、衆議院議員・参議院議員も歴任した。子の吉田力は大島町長となった。 1910年3月19日、富山県大島村(現・射水市)に生まれる。1947年4月5日、37歳にして大島村長になり、1956年8月30日に辞職するまで3期にわたり務めた。 1956年9月25日、公選3人目の富山県知事となり、以降4期務めた。その間、立山黒部アルペンルートの開通や、富山新港の開港、太閤山住宅団地の開発を行った。
相川 春喜(あいかわ はるき、1909年〈明治42年〉8月1… 相川 春喜(あいかわ はるき、1909年〈明治42年〉8月15日 - 1953年〈昭和28年〉4月29日)は、日本の科学史家、社会運動家。本名は矢浪久雄。 第二次世界大戦前の時期に唯物論研究会に参加し、技術史、科学哲学を中心にした理論学習運動の中核を担い、戦後は、シベリア抑留を経て、アジア地域における抑留者引揚運動に尽力した。第四高等学校中退。 新潟県高田市(現・新潟県上越市)南土橋出身。新潟師範附属小学校、佐渡河原田小学校、佐渡中学校、富山中学校を経て、第四高等学校文科乙類に首席で入学後、社会研究会、全国学聯支部に加盟。1928年6月の学生ストライキの責任者となる。 1929年、卒業試験後、雑誌「広場」の編集責任者であることを理由として卒業を取り消され、退学を命ぜられる。
水上 武(みなかみ たけし、1909年6月20日 - 198… 水上 武(みなかみ たけし、1909年6月20日 - 1985年9月8日)は、日本の火山学者。理学博士。東京大学名誉教授。 富山県高岡市出身。高岡信用金庫理事長を務めた水上良作の子として生まれる。東京帝国大学理学部地震学科を1934年に卒業。火山噴火予知研究等において世界的な業績を残した火山学者であり、火山物理学の権威である。中でも、東京大学地震研究所の浅間火山観測所に勤め始めて以来、浅間山の噴火予知の業績は世界的に知られる。1967年4月より東京大学地震研究所の所長を務めたが、東大紛争のため翌年に辞任。1981年日本学士院会員となった。
菊盛 英夫(きくもり ひでお、1909年2月14日 - 20… 菊盛 英夫(きくもり ひでお、1909年2月14日 - 2001年12月12日)は、日本の文学研究者、ドイツ文学者、映画・文芸評論家、翻訳家。中央大学教授を歴任。 富山県富山市生まれ。1933年東京帝国大学独文科卒業。1980年まで中央大学教授。 多くの著書、翻訳があり、トーマス・マンを専門とした。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
堀田 弥一(ほった やいち、1909年1月30日 - 201… 堀田 弥一(ほった やいち、1909年1月30日 - 2011年2月23日)は、日本の登山家。1936年に立教大学山岳部遠征隊を率いて、ヒマラヤ山脈のナンダ・コート(英語版)(標高6867メートル)の登頂に成功した。 富山県下新川郡石田村(現在の黒部市)出身。富山県立魚津中学校(現・富山県立魚津高等学校)に進み、野球部や陸上競技部に所属する傍ら、スキーにも取り組んで、黒部鉄道(現・富山地方鉄道本線)が開通すると宇奈月まで出向いて滑っていた。 1927年、立教大学予科2年に編入学し、立教大学山岳部に入部する。大学についてはのちに商学部経済学科に進む。山岳部へは当初はスキーをやる目的での入部であったが、実際に立山連峰の冬山に入るとスキーではなくアイゼンで歩けることを知ったという。
板垣 與一(いたがき よいち、1908年 <明治41年> 1… 板垣 與一(いたがき よいち、1908年 <明治41年> 10月15日 - 2003年 <平成15年> 8月28日)は、日本の経済学者、国際政治学者。1932年に旧制東京商科大学を卒業。以後同大学(のち一橋大学)を研究拠点とし、戦前は植民地政策を研究領域として南方軍占領地の軍政に関与。戦後はアジア政治経済を研究領域とし、アジア経済研究所の設立を提言した。1972年亜細亜大学教授、経済学部長。1988年八千代国際大学初代学長。1972年一橋大学名誉教授。1980年勲二等瑞宝章受章。1984年経済社会学会会長。位階は正四位。 1908年、富山県射水郡新湊町(現射水市)の漁師の家に生まれた。1921年に富山県立高岡甲種商業学校(現富山県立高岡商業高等学校入学。
吉田 忠雄(よしだ ただお、1908年9月19日 - 199… 吉田 忠雄(よしだ ただお、1908年9月19日 - 1993年7月3日)は、日本の実業家で、YKKの創業者。富山県出身。魚津市、黒部市の名誉市民。神奈川県藤沢市に居住していた。YKK二代目社長・YKK AP創業者吉田忠裕は長男。 富山県下新川郡下中島村住吉(現在の魚津市住吉)で生まれる。魚津尋常高等小学校卒業後の1928年に上京。 古谷商店の社員を経て1934年にYKKの前身であるサンエス商会を設立し、ファスナーの生産を始める。以降、YKKを世界的な企業に育て上げた。兄弟の吉田久松もYKKの設立に貢献した。 魚津町議会議員、魚津商工会議所初代会頭(1949年~)、富山地方裁判所魚津支部民事司法委員なども務めた。
大坪 十喜雄(おおつぼ ときお、1908年(明治41年)3月… 大坪 十喜雄(おおつぼ ときお、1908年(明治41年)3月3日 - 1993年(平成5年)1月9日)とは、シテ方宝生流能楽師である。宝生会常務理事、能楽協会東京支部理事長。 富山県南砺市福野出身。東京に生まれ、宝生流宗家十七世宝生九郎(重英)に入門。1965年(昭和40年)に日本能楽会に入会。1979年(昭和54年)勲五等双光旭日章を受章。 嗣子は大坪喜美雄(重要無形文化財各個認定保持者(人間国宝))。
奥田 豊三(おくだ とよぞう、1908年(明治41年)1月2… 奥田 豊三(おくだ とよぞう、1908年(明治41年)1月20日 - 1983年(昭和58年)10月7日)は、参謀本部陸地測量部の測量官を務めた陸軍技師、内務官僚。第2代国土地理院長を務めた。 富山県富山市出身。第四高等学校理科甲類から1933年(昭和8年)3月31日東京帝国大学理学部天文学科学士試験合格後、東京天文台を経て、1942年(昭和17年)11月10日陸軍技師(高等官六等)に任官し陸地測量部付となる。 終戦を受け陸地測量部解体後、地理調査所を経て、1952年(昭和27年)理学博士(東京大学)、1961年(昭和36年)4月1日国土地理院長に就任。1962年(昭和37年)10月1日に国土地理院長を退官後は緯度観測所長、日本天文学会理事長、日本地図調製業協会会長を務めた。
柏 祐賢(かしわ すけかた、1907年〈明治40年〉11月1… 柏 祐賢(かしわ すけかた、1907年〈明治40年〉11月10日 - 2007年〈平成19年〉3月12日)は、日本の農学者、農業経済学者。京都大学名誉教授、第2代京都産業大学学長。李登輝(第4代中華民国総統)の京大農学部在籍時の恩師として知られる。 1907年、富山県立山町生まれ。京都帝国大学農学部農林経済学科で学び、1933年に卒業。 卒業後は同1933年に農林省入省。1936年、京都帝国大学農学部助手に任じられる。1939年、同大学農学部講師に昇進。11月、京都帝国大学人文科学研究所助教授となる。 1945年、太平洋戦争が終結。1947年4月、京都帝国大学人文科学研究所教授に昇進。1948年8月に学位論文『経済秩序個性論:中国経済の理論的研究』を京都大学に提出して農学博士を提出。
木場 深定(きば じんじょう、1907年 <明治40年> 4… 木場 深定(きば じんじょう、1907年 <明治40年> 4月28日 - 1999年 <平成11年> 9月20日)は、日本の哲学者。ドイツ哲学を専攻。東北大学名誉教授。位階は正四位。 富山県小矢部市出身。1932年東北帝国大学法文学部哲学科卒、1962年「ヘーゲル宗教哲学の研究 特に宗教的意識と哲学的思惟との関係について」で東北大学文学博士。東北大学文学部教授。1971年定年退官、名誉教授、大谷大学教授を務めた。 1999年死去。死没日付をもって正四位に叙された。 父・木場了本は第四高等学校で西田幾多郎の教えを受けた後、1911年東京帝国大学文学部哲学科卒、京都で大谷大学の教授を勤め、後郷里金沢に帰って第四高等学校の教授となった。
桜井 志郎(櫻井、さくらい しろう、1907年(明治40年)… 桜井 志郎(櫻井、さくらい しろう、1907年(明治40年)4月9日 - 1976年(昭和51年)3月9日)は、昭和期の農林技官、政治家。参議院議員(2期)。旧姓は南日。 富山県上新川郡山室村(現富山市)で南日恒太郎の四男として生まれる。富山中学校(現富山県立富山高等学校)、第四高等学校を経て、1931年(昭和6年)東京帝国大学農学部農学科を卒業した。 1931年、東礪波郡油田村三郎丸(砺波町を経て現砺波市)の大地主、12代・桜井宗一郎の養子となり、農林省に入省した。三重県耕地課長、和歌山県農地部長、農林省土地改良課長、同設計課長、同建設部長などを歴任。この間、東京大学講師、日本農業土木学会副会長、国際かんがい排水委員会日本代表なども務めた。
中村外二(なかむら そとじ、1906年12月 - 1997年… 中村外二(なかむら そとじ、1906年12月 - 1997年5月17日)は、京都の数奇屋大工棟梁。裏千家御家元御用達の作事方大工。富山県小矢部市(旧石動町)出身。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。 この項目は、建築・土木に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:建築/Portal:建築)。
大宅 昌(おおや まさ、1906年(明治39年)10月19日… 大宅 昌(おおや まさ、1906年(明治39年)10月19日 - 2007年(平成19年)5月24日)は教育者で、大宅壮一の妻、大宅壮一文庫の理事長を務めた。 三女は評論家の大宅映子。富山県魚津市出身。 旧姓、奥田。富山県立富山高等女学校卒、富山県女子師範学校第二部卒、7年間教師をする。 1931年4月、前妻を亡くしたばかりの大宅壮一が富山へ講演会に来て見初められ、5月に結婚。4人の子供に恵まれた(大宅歩、映子のほか二女。)。 大宅壮一の蔵書をもとに設立された雑誌専門図書館「大宅壮一文庫」の理事長を1971年の発足以来、終生務めた。 1981年に出版された「愉しく生きる老い」はベストセラーになった。
金井 久兵衛(かない きゅうべえ、1906年9月4日 - 1… 金井 久兵衛(かない きゅうべえ、1906年9月4日 - 1996年11月5日)は、日本の経営者。北陸電力社長を務めた。富山県富山市出身。 1930年に京都帝国大学工学部電気工学科を卒業、1932年に日本海電気に入社した。 1946年、北陸配電社長に就任し、1954年、北陸電力副社長を経て、1959年(昭和34年)9月9日、社長に就任。 1967年11月、北陸経済連合会の初代会長に就任した(1979年4月まで)。 1972年に会長に就任し、1979年には相談役に就任。 1964年11月19日、藍綬褒章を受章し、1976年に勲一等瑞宝章を受章。1968年(昭和43年)11月1日、中経産業功労賞(中部経済新聞社)を受賞。
志田 延義(しだ のぶよし / えんぎ、1906年6月10日… 志田 延義(しだ のぶよし / えんぎ、1906年6月10日 - 2003年8月3日)は、日本の国文学者。専門は日本古代歌謡。学位は、文学博士(東京大学・論文博士・1957年)。鶴見大学名誉教授、山梨大学名誉教授。勲三等旭日中綬章受章。 富山県富山市出身。志田義秀の次男。富山中学校、甲南高等学校を経て、1930年東京帝国大学国文科卒。学問で久松潜一、短歌で佐佐木信綱に師事する。 神奈川県立の中学校教諭の後、1932年国民精神文化研究所助手、1937年同研究員として『国体の本義』研究、二度の中国への出張などの戦争協力を行う。戦後、公職追放。1952年から日本大学などで講師、1953年鶴見女子短期大学教授、1955年山梨大学教授、1957年歌謡研究で東京大学より文学博士の学位を取得、1966-1969年学芸学部長・教育学部長、1966-1981年国語審議会委員、1972年山梨大定年退官、名誉教授、鶴見女子大学文学部長、1977年辞職、鶴見大学名誉教授、勲三等旭日中綬章受章。
見田 石介(みた せきすけ、1906年4月23日 - 197… 見田 石介(みた せきすけ、1906年4月23日 - 1975年8月9日)は、日本の哲学者・マルクス主義経済学者・ヘーゲル研究者。旧姓は甘粕、筆名「佐竹 恒有」、「瀬木 健」。 1906年、島根県津和野生まれ。1923年3月県立富山中学校4学年修了。1927年3月旧制第四高等学校理科卒業。1930年京都帝国大学文学部哲学科卒業。波多野精一に師事し、ヘーゲルの歴史哲学を研究した。 1930年4月に同大学大学院に進学し、同時に平安女学院講師に就職するが、1931年3月に大学院を退学。同年4月に平安女学院講師も退職する。1932年10月に創立された唯物論研究会に11月に参加。1933年機関誌『唯物論研究』に執筆開始。
高峯 一愚(たかみね いちぐ、1906年4月16日 - 20… 高峯 一愚(たかみね いちぐ、1906年4月16日 - 2005年1月18日)は、日本の哲学者で西洋哲学研究・翻訳者。東京都立大学名誉教授。 1906年、富山県氷見市生まれ。1930年、東京帝国大学文学部哲学科を卒業。台北高等学校教授となった。 太平洋戦争後は日本に戻り、旧・東京都立大学教授となった。1970年に東京都立大学を定年退官し、名誉教授となった。その後は帝京大学教授。2005年1月18日に多臓器不全のため品川区の病院で死去した。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、哲学に関連した書きかけの項目です。
滝本 清八郎(たきもと せいはちろう、1906年4月5日 -… 滝本 清八郎(たきもと せいはちろう、1906年4月5日 - 1971年5月2日)は、日本の経営者。日本板硝子社長を務めた。 富山県富山市出身。1933年に神戸商業大学を卒業し、1934年に日本板硝子に入社。1951年11月に取締役に就任し、1958年5月に常務、1967年2月に専務を経て、1968年11月に社長に就任した。 1971年5月2日、肺癌のために死去。65歳没。
大八洲 晃(おおやしま あきら、1906年3月10日 - 1… 大八洲 晃(おおやしま あきら、1906年3月10日 - 1975年4月27日)は、富山県西礪波郡(現・高岡市)出身で立浪部屋に所属した大相撲力士。本名は坂本 多喜知(さかもと たきち、旧姓:東爪)。最高位は西前頭10枚目(1936年5月場所)。現役時代の体格は192cm、120kg。得意手は左四つ、寄り。 入門前に松竹で映画俳優をしていたという異色の経歴の持ち主。ほぼ同時期に立浪部屋に入門した双葉山と出世を争い、その体格から双葉山よりも有望視されていた。しかし、相手を引っ張り込むだけで技能に乏しい取り口だったため伸び悩んだ。 双葉山は幕下時代に大八洲に「右目が全然、見えないんだ」と打ち明けたが、それは引退するまで2人だけの秘密となった。
八嶋 三郎(やじま さぶろう、1906年1月3日 - 196… 八嶋 三郎(やじま さぶろう、1906年1月3日 - 1968年6月3日)は、日本の都市計画家、行政官僚。 内務省や厚生省、建設省で官僚として活動し、全国区画整理協会連合会会長、歴史的風土審議会委員、帝都高速度交通営団管理委員会委員、財団法人都市計画協会理事を歴任した。 富山県新湊町(現・射水市)に生まれる。旧制高岡中学校(現・富山県立高岡高等学校)から旧制第四高等学校を経て東京帝国大学法学部政治学科に入学する。在学中高等文官試験に合格し、1930年に卒業後、内務省に勤める。福島県や岩手県、愛知県、兵庫県を転任し、1942年鹿児島県官房長となる。1943年に福島県経済部長に移る。ここまでは警察や経済部といった部署を歩んだ。
櫻井 鴻有(さくらい こうゆう、1906年(明治39年) –… 櫻井 鴻有(さくらい こうゆう、1906年(明治39年) – 1960年(昭和35年))は、昭和時代の日本画家。生涯にわたり立山を主題に描き続けた。 富山県高岡市に生まれる。富山県立工芸学校図案科(現・富山県立高岡工芸高等学校)を経て、1927年京都市立絵画専門学校(現・京都市立芸術大学)に入学、後に同校研究科に進む。1930年第11回帝展に「北越山村」で初入選、以後同展、新文展に出品。1945年高岡に疎開。以後、郷土で日本画の発展に尽力した。
布尾 良策(ぬのお りょうさく)、明治38年(1905年)1… 布尾 良策(ぬのお りょうさく)、明治38年(1905年)10月8日 – 平成4年(1992年)10月1日は、昭和から平成初期にかけての洋画家。本名は東海良作。のちに布尾姓。富山県展審査員、氷見市美術協会会長、蒼潮会代表を歴任。 明治38年(1905年)富山県氷見郡窪村窪(現・氷見市窪)に生まれる。1921年、富山師範学校(現・富山大学教育学部)に入学、小学校教員養成過程に学ぶ。在学中の夏期休暇の課題の風景画を描いたところ、安岡信義に激賞される。1926年婚姻し布尾姓を名乗る。1929年川辺外治に師事。1934年、文検を受験し「師範学校中学校高等女学校教員(西洋画・用器画)」に合格、1935年、旧制富山中学にて開催された版画講習会に参加(講師に木版画の小野忠重、銅版画の武藤完一)。
梶哲次(かじてつじ 1904年8月24日 - 1934年5月… 梶哲次(かじてつじ 1904年8月24日 - 1934年5月12日)は昭和初期のの社会運動家、農民運動家、日本共産党員。富山県で農民運動を指導した後上京し、日本共産党中央委員会の農民部員として活動した。梶哲二の表記もある。 富山県西礪波郡立野村(現高岡市)で商家の次男として生まれる。1922年旧制高岡中学(現富山県立高岡高等学校)を卒業すると、伯父を頼りに上京、川崎銀行に就職した。しかし、向学心を捨てきれず、1923年に青山学院に入学する。翌1924年、学生連合会参加組織「社会思想研究会」が学校に公認されるとこれに加わる。このころから社会主義者であり、弟の謙三が哲次の寄宿舎を訪ねた際、押入れを本棚にし、マルクスの肖像が飾ってあった。
青井 忠治(あおい ちゅうじ、1904年〈明治37年〉3月3… 青井 忠治(あおい ちゅうじ、1904年〈明治37年〉3月30日 - 1975年〈昭和50年〉8月18日)は、日本の実業家。株式会社丸井 (OIOI)の創業者。 丸井グループ名誉会長青井忠雄は長男。元NHKアナウンサーの青井実は孫。 生家は富山県小杉の旧家の分家で、一人息子として生まれる。1歳の時に父の事業破綻により母と引き離され、2歳ではしかのため左眼を失明。10歳で他家に嫁した母を、11歳で結核を病んで床に臥していた父を失う。 1922年(大正11年)富山県立工芸学校(現在の高岡工芸高校)を卒業して上京、月賦販売商・丸二商会に入社。瞬く間に頭角を現し、1924年(大正13年)大塚店長、1925年(大正14年)本店の集金部長、1928年(昭和3年)中野店長、1930年(昭和5年)1月浅草店長、7月九段店長を歴任。
福井 直俊(ふくい なおとし、1904年2月15日 - 20… 福井 直俊(ふくい なおとし、1904年2月15日 - 2001年4月2日)は、日本のピアニスト。富山県上市町出身。学校法人武蔵野音楽学園名誉学園長、元東京芸術大学学長。勲二等旭日重光章(1974年に受章)。 武蔵野音楽大学創立者・福井直秋の長男として生まれる。弟に武蔵野音楽大学学長を務めた福井直弘、妹にピアニストの若尾輝子がいる。 東京音楽学校研究科を卒業。萩原英一、レオニード・コハンスキに師事。1930年、ベルリンに渡りアルトゥル・シュナーベルに師事。帰国後、新交響楽団(現:NHK交響楽団)との共演や、「ベートーベン:ソナタ・アルバム」などの校訂に携わる。 武蔵野音楽大学教授を経て、東京芸術大学音楽学部の教授に就任。
瀧口 修造(たきぐち しゅうぞう、1903年(明治36年)1… 瀧口 修造(たきぐち しゅうぞう、1903年(明治36年)12月7日 - 1979年(昭和54年)7月1日)は、近代日本を代表する美術評論家、詩人、画家。戦前・戦後の日本における正統シュルレアリスムの理論的支柱であり、近代詩の詩人とは一線を画す存在。 1903年、富山県婦負郡寒江村(のち呉羽町、現:富山市)大塚に3人姉弟の長男として生まれる。家は祖父の代から医者であり、長男の修造は当然家業を継ぐものとして期待されていた。だが、それに反するかのように本人は子供の頃から大の学校嫌いで、よく家の大黒柱につかまっていたという。小学5年生のある日、父の勤めている病院に連れて行ってもらい、実際の手術の現場を見せてもらったところ、あやうく卒倒しかける。
鍋島 弘蔵(なべしま ひろぞう、1903年11月13日 - … 鍋島 弘蔵(なべしま ひろぞう、1903年11月13日 - 没年不詳)は、大正から昭和時代に活動した日本の新聞記者、詩人、コラムニスト、映画監督。元富山新聞社社長。富山県出身。 旧名は豊朔(ほうさく)で、1954年(昭和29年)に改名した。号は太守庵(たいしゅあん)で、作詞家としてのペンネームに名部島 春(なべしま はる)がある。漫画家の藤子不二雄Ⓐは甥。 1903年(明治36年)、富山県東礪波郡(現在の砺波市)に生まれる。日本大学美術科を中退後、北陸タイムス(北日本新聞の前身の一つ)を経て北國新聞系列の越中新聞へ入社し、高岡支局長となる。越中新聞では「太守庵」のペンネームで主として時事に関するコラムを執筆し、社外では1935年(昭和10年)に自主映画『輝く孝道』の監督を務めた。
内多 蔵人(うちた くらうと、1903年5月1日 - 198… 内多 蔵人(うちた くらうと、1903年5月1日 - 1980年10月6日)は、日本の経営者。富山県高岡市出身。 1927年に東京商科大学を卒業し、同年に大日本麦酒に入社。1949年に日本麦酒(のちのサッポロビール)に移り、東京支店長、理事、取締役を経て、1961年に常務に就任し、1967年2月に副社長に就任した。1971年2月に社長に昇格し、1973年2月には会長に就任した。 1980年10月6日台湾台北市で旅行中に脳溢血のために死去。77歳没。
川南 豊作(かわなみ とよさく、かわみなみ とよさく、190… 川南 豊作(かわなみ とよさく、かわみなみ とよさく、1902年〈明治35年〉7月28日 - 1968年〈昭和43年〉12月11日)は、日本の実業家、右翼活動家。 1902年(明治35年)富山県に生まれ、1919年(大正8年)県立富山水産講習所を卒業後、東洋製罐株式会社に入社。 1931年(昭和6年)結婚後、退職して、朝鮮に渡り、トマト・サージン工場を建設してイワシのトマト煮缶詰の製造を始める。 1934年(昭和9年)、佐賀県にて合名会社川南工業所を設立し、缶詰製造業から曹達・硝子事業に転換する。曹達原料である塩を安く輸入するためには船が必要であるという考えから、1936年(昭和11年)、長崎県西彼杵郡香焼村(現:長崎市香焼町)にある閉鎖中の松尾造船鉄工所を買収し、川南工業所とともに吸収合併し、川南工業株式会社を設立し、造船業に進出する。
荒谷 直之介(あらたに なおのすけ、明治35年(1902年)… 荒谷 直之介(あらたに なおのすけ、明治35年(1902年)5月11日 - 平成6年(1994年)2月18日)は、日本の水彩画家。本名、直之助。[要出典]日展評議員、参与を勤めた。 水彩では困難とされていた人物表現にこだわった昭和を代表する水彩画家。 明治35年(1902年)5月11日、富山県富山市南田町に父鶴次郎、母コトの次男として[要出典]生まれる。 早くから画家を志し、赤城泰舒に師事する。その後、葵橋洋画研究所で黒田清輝らに学ぶ。 昭和11年(1936年)に日本水彩画会の第一賞を受賞、昭和15年(1940年)には昭和洋画奨励賞を受賞し、水彩画家としての頭角を現す。1940年には小堀進や春日部たすくらとともに「水彩連盟」を結成する。
伊藤 英夫(いとう ひでお、1902年3月7日 - 1977… 伊藤 英夫(いとう ひでお、1902年3月7日 - 1977年9月1日)は、日本の経営者。稲畑産業社長を務めた。 富山県高岡市出身。1925年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年に稲畑産業に入社。 1941年に取締役に就任し、1944年に常務、1951年10月に専務、1963年4月に副社長を経て、1969年5月には社長に就任。1972年12月には会長に就任した。 1977年9月1日、脳血栓のために死去。75歳没。
高崎 正秀(たかさき まさひで、1901年10月16日 - … 高崎 正秀(たかさき まさひで、1901年10月16日 - 1982年3月2日)は、富山県生まれの国文学者、万葉学者、歌人。國學院大學名誉教授。國學院大學栃木短期大学名誉学長。文学博士。 折口信夫に師事(著書『折口学への招待』(桜楓社)がある)、折口信夫の五博士のうちの一人である。著作は『高崎正秀著作集』(桜楓社、全8巻、1971年)にまとめられている。
篁 牛人(たかむら ぎゅうじん、明治34年(1901年)10… 篁 牛人(たかむら ぎゅうじん、明治34年(1901年)10月10日 - 昭和59年(1984年)2月25日)は、昭和時代の日本画家。幼名は光磨。本名は浄信。 1901年、富山県婦負郡桜谷村大字石坂村(現:富山県富山市石坂)に生まれる。1921年、富山県立工芸学校(現:富山県立高岡工芸高等学校)を卒業、同校卒業生で組織する富山工芸会に参加。工芸作品の図案を制作し商工省工芸展などで中島杢堂、安川慶一らと受賞を重ねるが、1934年頃からパブロ・ピカソ、藤田嗣治、小杉放庵などの感化を受け、1940年頃より絵画に専念し始める。太平洋戦争末期の1944年、応召して東南アジアに赴き転戦。復員後の1947年頃から、独自の渇筆技法で制作を行い、主題を東洋思想に求めた。
松村 外次郎(まつむら そとじろう、1901年〈明治34年〉… 松村 外次郎(まつむら そとじろう、1901年〈明治34年〉9月17日 - 1990年〈平成2年〉6月20日)は、大正時代から平成時代にかけての彫刻家。元二紀会副理事長、同会名誉会員。 富山県東礪波郡青島村(現在の砺波市庄川町青島)に生まれる。富山県立工芸高校(現・富山県立高岡工芸高等学校)卒業後、上京して吉田白嶺の内弟子となる。1923年、第10回院展に「女」で初入選。翌年、東京美術学校彫刻科に入学。在学中から二科展に出品。1927年第14回二科展より1930年第17回二科展まで連続入選、東京美術学校卒業後は1931年より約2年間パリへ留学。帰国後1936年に二科会会員として迎えられるが1944年退会。
川辺 外治(かわべ そとじ、明治34年〈1901年〉2月8日… 川辺 外治(かわべ そとじ、明治34年〈1901年〉2月8日 - 昭和58年〈1983年〉9月29日)は、富山県砺波市の洋画家。農家の次男に生まれて一時は画家を志すも、長兄の死により農業を継ぎ、その傍ら教師として多くの画家を育てた。 「人間疎外の美術、描くことそれ自体すら否定する美術、それで満足出来るならそれを実行するがよい。しかし大宇宙を信じ、その無限を見つめ片影を感受し、その表現に一生をささげる気概と意欲を燃やして生きることはなんと意義のあることであろうと夢想するものである。」と述べ、中央画壇に対しては批判的であった。 戦時中、近隣の町に疎開してきた版画家の棟方志功や織田一磨、伊藤四郎などの生活を支援するために発表会や研修会などを企画して開催し、彼らとの交流を深めた。
小坂 勝人(こさか かつんど、1901年(明治34年) – … 小坂 勝人(こさか かつんど、1901年(明治34年) – 1953年(昭和28年))は大正時代から昭和時代前期にかけての日本画家。 富山県高岡市国吉に生まれる。富山県立工芸学校(現・富山県立高岡工芸高等学校)卒業後、東京美術学校日本画科、同校研究科で学ぶ。結城素明に師事。1926年第7回帝展「海景」で初入選、以後同展、新文展、日展に作品を発表する。戦禍を避けて城端町に疎開し、戦後は富山県日本画家連盟の設立等に尽力した。
矢後 嘉蔵(戸籍名は嘉藏、やご かぞう、1900年(明治33… 矢後 嘉蔵(戸籍名は嘉藏、やご かぞう、1900年(明治33年)9月25日 - 1984年(昭和59年)3月24日)は、大正から昭和期の農民運動家、政治家。衆議院議員。富山市会議員。富山県の農民運動、無産運動の草分け。 富山県婦負郡倉垣村荒屋(和合町を経て現富山市四方荒屋)で、海産物商・矢後六蔵、とき の12姉弟妹の第四子、長男として生まれる。1913年(大正2年)3月、倉垣尋常小学校(現富山市立倉垣小学校)を卒業。北海道寿都郡寿都町で父が経営する海産物商兼船問屋で働く。 1919年(大正8年)9月に上京し東京主計学校夜間部で学んだ。1923年(大正12年)ニシンの不漁、肥料販売不振のため東京に移ったが、同年、単身で北海道に戻る。
小川 久義(おがわ ひさよし、1900年(明治33年)4月1… 小川 久義(おがわ ひさよし、1900年(明治33年)4月13日 - 1954年(昭和29年)5月25日)は、日本の政治家、参議院議員(2期) 富山県上新川郡針原村小西(現・富山市)の農家に生まれる。新庄尋常高等小学校(現・富山市立新庄小学校)を卒業。農業のかたわら地元の青年団や農業会のリーダーとなる。青年団時代は短距離走の選手として鳴らし、農業会では早くから針原村農業会長を務める。 1946年(昭和21年)春、推されて県農業会の副会長に就任。 1945年12月に結成されたばかりの日本農本党の幹事長に選ばれ、農業会を中心に政治活動を行う。また農業団体の再編成が行われたのに伴い,県農協連絡協議会会長となる。
大間知 篤三(おおまち とくぞう、1900年(明治33年)4… 大間知 篤三(おおまち とくぞう、1900年(明治33年)4月9日 - 1970年(昭和45年)2月26日)は、日本の民俗学者。 1900年、富山県富山市愛宕町生まれ。呉服屋を営む旧家に生まれ、父は富山橋北銀行の頭取。富山中学校、第四高等学校卒、1927年、東京帝国大学文学部独文科卒。在学中、新人会に所属し、幹事長を務める。 卒業後には労働農民党書記を務め、日本共産党に入る。金沢連隊に入営ののち、1927年三・一五事件で三年間下獄。大間知ら、1927年2月『政治批判』創刊、1928年2月まで。1931年、出所して大宅壮一の翻訳団に加わる。1933年より柳田國男に師事、民間伝承の会(現日本民俗学会)の創立に参加。
岡本 良知(おかもと よしとも、1900年2月20日 - 1… 岡本 良知(おかもと よしとも、1900年2月20日 - 1972年8月6日)は、日本の歴史学者。専門は、南蛮時代日欧交渉史、キリシタン史など。 富山県富山市出身。1922年東京外国語学校ポルトガル語部卒業、スペイン語部専修科修了。同年、日本産業協会ブラジル国独立100年記念万国博覧会臨時出品部書記として、リオデジャネイロに着任する。1925年日葡協会主事、1930-31年まで資料調査のためにヨーロッパに滞在し、1933年東京高等拓殖学校教授となる。1938年宮崎高等農林学校講師、1942年法政大学高等師範部講師、1943年東洋堂常務取締役、1952年立正大学専任講師、1955年別府大学教授、1957年亜細亜大学教授、1965年上智大学兼任教授をそれぞれ務めた。
多胡 羊歯(たご ようし、1900年1月25日 –1979年… 多胡 羊歯(たご ようし、1900年1月25日 –1979年12月23日)は、日本の詩人。富山県氷見市出身。 八代村胡桃(くるみ)生まれ。本名は義喜(よしひさ)。1919年(大正8年)に富山師範学校卒業。19歳で小学校の教員に就き、1923年11月以来、「赤い鳥」に童謡を投稿、45編の作品を発表。1928年「赤い鳥童謡会」メンバーとなり、1930年「チチノキ」同人。童謡集には白秋が序文を書いた「くらら咲く頃」があり、戦後、児童雑誌「タンタリキ」を主宰。童謡誌「ら・て・れ」にも加わった。1947年氷見市八代小学校校長を務めた後、退職し農業に従事。生涯、氷見を離れることなく、亡くなる。享年79。 代表作「くらら咲くころ」(1925年)は『赤い鳥』推奨作に選ばれ、白秋は「時代の代表作」と高く評価した。