河辺 正三(かわべ まさかず、1886年(明治19年)12月… 河辺 正三(かわべ まさかず、1886年(明治19年)12月5日 - 1965年(昭和40年)3月2日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍大将。 1886年(明治19年)12月、富山県礪波郡苗加村(東礪波郡東野尻村、砺波町を経て現砺波市)に河辺純三の三男として生まれる。終戦時の参謀次長河辺虎四郎中将(陸士24期、陸大33期優等)、瀧田俊吾軍医大佐は実弟である。1905年(明治38年)に正三、虎四郎兄弟は陸軍士官学校、名古屋陸軍幼年学校に合格している。兄弟は草鞋ばきでそれぞれの受験地金沢までの往復を共にした。 旧制高岡中学校を経て、陸軍士官学校(19期)、陸軍大学校(27期優等)卒業。 1907年(明治40年)12月26日、歩兵少尉に任官して 石川県野田村に駐屯していた歩兵第35聯隊附から軍歴をはじめて以降、主要な経歴として名古屋歩兵第6連隊長、教育総監部第一課長、支那駐屯歩兵旅団長、第3軍司令官、支那派遣軍総参謀長、緬甸方面軍司令官、中部軍司令官、航空総軍司令官、第1総軍司令官、第1復員司令官を歴任した。
河合 良成(かわい よしなり、明治19年(1886年)5月1… 河合 良成(かわい よしなり、明治19年(1886年)5月10日 - 昭和45年(1970年)5月14日)は、日本の農商務官僚、政治家、実業家。富山県高岡市名誉市民。
山田川 清太郎(やまだがわ せいたろう、1886年3月2日 … 山田川 清太郎(やまだがわ せいたろう、1886年3月2日 - 1951年7月24日)は、現在の富山県高岡市出身で稲川部屋に所属した大相撲力士。本名は山田 清太郎。最高位は西前頭13枚目。168cm、92kg。 1908年1月、幕下付出で初土俵。1911年6月新十両。1912年5月場所、宇都宮新八郎と6勝1預かりと6戦全勝の土つかず同士で千秋楽に対戦、これに勝って7勝1預かりで十両優勝を果たす。翌1913年5月場所では宇都宮とともに新入幕となるが、直前の東西合併相撲で大坂相撲の力士2名に暴行され重傷を負ってしまう。このため新入幕場所は初日から休場、5日目から途中出場するも1勝2敗1預かりで9目から再休場。
濱谷 白雨(はまや はくう、明治19年1月28日(1886年… 濱谷 白雨(はまや はくう、明治19年1月28日(1886年) – 昭和40年(1965年)5月9日)は、大正から昭和前期時代にかけての日本画家。本名栄次郎。帝国絵画協会、国民美術協会評議員を歴任。 1886年(明治19年)富山県婦負郡四方町(現富山市)に生まれる。1900年富山県工芸学校(現富山県立高岡工芸高等学校)へ入学、1902年中島秋圃が同校に赴任すると秋圃宅に下宿して日本画の教授を受ける。1905年東京美術学校日本画科に進み、寒声の号で雑誌の挿絵を画く。1910年同校師範科に進む。当初は結城素明、後に紹介推薦で川端玉章の門に入るも画風に疑問をもち脱退する。その後寺崎広業に師事し、和漢の古画の模写に努める。
大橋 八郎(おおはし はちろう、1885年12月19日 - … 大橋 八郎(おおはし はちろう、1885年12月19日 - 1968年6月4日)は、日本の政治家、逓信官僚、俳人。岡田内閣の法制局長官、林内閣の内閣書記官長、社団法人日本放送協会第4代会長、日本電信電話公社第2代総裁。現在の富山県高岡市出身。 日本放送協会会長時、終戦時の玉音放送に携わった。戦後の通信事業近代化に貢献。おじは漢詩人の大橋十右衛門。 富山縣高岡中學校、石川縣尋常中學校を経て、1906年(明治39年)7月に第四高等學校を卒業。 1910年(明治43年)7月に東京帝国大学法科大学を卒業した後、逓信省に入省。同年11月、高等文官試験に合格する。1925年(大正14年)10月に郵務局長、1928年(昭和3年)7月に経理局長となる。
安井 藤治(やすい とうじ、1885年〈明治18年〉10月1… 安井 藤治(やすい とうじ、1885年〈明治18年〉10月11日 - 1970年〈昭和45年〉7月8日)は、明治期から昭和期の陸軍軍人、政治家。従三位勲一等。陸軍中将まで昇った後、鈴木貫太郎内閣の国務大臣(無任所)を務めた。 富山県出身。商業・安井藤蔵の長男として生まれる。富山中学校、名古屋陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1905年(明治38年)11月、陸軍士官学校(第18期)920名中を首席卒業。同期生には、陸軍大将になった山下奉文、岡部直三郎、阿南惟幾、山脇正隆、藤江恵輔等がいる。 1906年(明治39年)6月、歩兵少尉に任官し、石川県金沢市野田村に駐屯する歩兵第35聯隊附となる。 1913年(大正2年)11月、陸軍大学校(第25期)を優等で卒業。
正力 松太郎(しょうりき まつたろう、1885年〈明治18年… 正力 松太郎(しょうりき まつたろう、1885年〈明治18年〉4月11日 - 1969年〈昭和44年〉10月9日)は、日本の警察官・内務官僚、実業家、政治家。読売新聞社主、日本テレビ放送網代表取締役社長、読売テレビ放送会長、日本武道館会長などを歴任した。 読売新聞社の経営者として、同新聞の部数拡大に成功し、読売中興の祖として大正力(だいしょうりき)と呼ばれている。 読売ジャイアンツ(巨人)の初代オーナーとして、戦後の日本のプロ野球の発展に貢献したためにプロ野球の父と呼ばれる。日本テレビを創立し、テレビの普及や発展に貢献したためにテレビ放送の父と呼ばれる。また、原子力発電の推進にも貢献したために原子力の父とも呼ばれる。
黒瀬川 浪之助(くろせがわ なみのすけ、1885年3月20日… 黒瀬川 浪之助(くろせがわ なみのすけ、1885年3月20日 - 1957年12月30日)は、富山県射水郡(現在の氷見市)出身で友綱部屋に所属した大相撲力士。本名は本川 竹松。身長179cm、体重105kg。最高位は関脇。 子供の頃から土地相撲で活躍したが、1902年に役所に行って海軍兵を志願した時に、体格と50貫の大石を持ち上げるのを見た郡長から力士を勧められ、板垣退助に見出されて入門した。黒瀬川の名は板垣が命名した。1903年5月初土俵、1908年5月十両、1909年6月に入幕した。均整の取れた体格に色白の美男で人気があった。1913年1月大関駒ヶ嶽と預かり、横綱常陸山と引分など4勝1敗3分2預で翌場所関脇に昇進。
南 慎一郎(みなみ しんいちろう、1885年(明治18年)2… 南 慎一郎(みなみ しんいちろう、1885年(明治18年)2月8日 - 1965年(昭和40年)8月17日)は、日本の弁護士。富山県高岡市長。勲五等双光旭日章。 富山県高岡市出身。1912年(明治45年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業。三共株式会社秘書・泰昌製薬株式会社取締役を務め、1921年(大正10年)に退職した。同年、弁護士を開業した。 1926年(大正15年)、高岡市長に選出され、1930年(昭和5年)まで在任した。 退任後は日本興業銀行取締役、高岡土地株式会社監査役を務め、1932年(昭和7年)より再び弁護士を開業した。1940年(昭和15年)から検事に転じ、岡山地方裁判所検事、横須賀区裁判所検事を務めた。
田部 重治(たなべ じゅうじ、1884年〈明治17年〉8月4… 田部 重治(たなべ じゅうじ、1884年〈明治17年〉8月4日 - 1972年〈昭和47年〉9月22日)は、日本の英文学者・登山家。 富山県富山市長江(旧:富山県上新川郡山室村)生まれ。田部家と養子縁組したが旧姓は南日で、長兄の英語教育者南日恒太郎、次兄の英文学者田部隆次、と共に南日三兄弟と呼ばれる。玄孫に建築家の永山祐子がいる。 1897年富山中学校入学(14回生)、1902年には四高(現金沢大)入学を経て、1905年9月に東京帝国大学英文科入学。在学中に夏目漱石や上田敏らに師事し、中勘助らと級友となります。大学卒業後、海軍経理学校、東洋大学、法政大学などで講義をする。研究対象は19世紀の英文学で、ウォルター・ペイター、ウィリアム・ワーズワースなどを研究した。
石崎 光瑤(いしざき こうよう、明治17年(1884年)4月… 石崎 光瑤(いしざき こうよう、明治17年(1884年)4月11日 - 昭和22年(1947年)3月25日)は、日本の大正時代から昭和の初めにかけて活躍した日本画家。文展・帝展を中心に活動し、写実に基づく鮮やかで装飾的な花鳥画を得意とした。 富山県西礪波郡福光町(現在の南砺市)で、素封家・石崎和善の五男として生まれる。本名は石崎猪四一。石崎家は和泉屋の屋号で本業は麻布業だったが、江戸時代から蔵宿業を営み、町役人も務めた豪商だった。幼少より画才があり、明治29年(1896年)12歳頃東京から金沢に移り住んだ琳派の絵師・山本光一に師事する。光瑤の「光」は師から貰っており、この頃の光瑤は福光や金沢近郊を写生して廻ったという。
塩崎 逸陵(しおざき いつりょう、1884年(明治17年) … 塩崎 逸陵(しおざき いつりょう、1884年(明治17年) – 1974年(昭和49年))は、大正時代から昭和時代にかけての日本画家。 富山県高岡市に生まれる。富山県立工芸学校(現・富山県立高岡工芸高等学校)を卒業後、東京美術学校に学び、川端玉章、寺崎広業に師事する。1915年第9回文展に「蟲の音」で初入選。以後、同展および帝展に出品。東京で制作に励み、花鳥図や風景画を描いた。
玉椿 憲太郎(たまつばき けんたろう、1883年(明治16年… 玉椿 憲太郎(たまつばき けんたろう、1883年(明治16年)11月10日 - 1928年(昭和3年)9月19日)は、富山県中新川郡下条郷上砂子坂村(現・富山市)出身で雷部屋に所属した大相撲力士。本名は森野 健次郎。小兵でありながら多彩な技としぶとい相撲で関脇まで上り詰め、「名人」「怪力士」などと呼ばれた。現役時代の体格は159cm、90kg。 父と兄が草相撲の強者だったことから、これに影響を受けて力士を志すようになる。1895年(明治28年)ごろ、知人を通して梅ノ谷に紹介してもらい、その師匠である雷部屋に入門。1897年(明治30年)1月場所初土俵。この時の四股名は湊山。1900年(明治33年)の一場所のみ玉ヶ関と改名するが、これは兄弟同様にしていた玉ヶ関という力士が死去したため、弔いの意味で付けたものであった。
山崎 定義(やまざき さだよし、1883年(明治16年)2月… 山崎 定義(やまざき さだよし、1883年(明治16年)2月1日 - 1971年(昭和46年)6月4日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍中将。富山市長。 富山県上新川郡富山千石町(現富山市)で、旧富山藩士、陸軍大尉・山崎定孝、敏(とき)夫妻の長男として生まれたが、生後11ヵ月で父が病のため死去した。啓迪高等小学校(その後、八人町小学校を経て現富山市立芝園小学校)を経て、富山県立富山中学校に進み、三年次に名古屋陸軍地方幼年学校を受験して合格。中央幼年学校を経て陸軍士官学校(15期)に進み、1903年11月30日、同校を卒業して金沢歩兵第35連隊に勤務。1904年2月12日、陸軍歩兵少尉に任官。
松村 謙三(まつむら けんぞう、1883年〈明治16年〉1月… 松村 謙三(まつむら けんぞう、1883年〈明治16年〉1月24日 - 1971年〈昭和46年〉8月21日)は、日本の政治家。 富山県福光町(現在の南砺市)出身の実業家、政治家。 5回にわたり中国を訪問。1970年には、周恩来首相から日中貿易継続を許される企業の条件を示された。そこで、台湾に多くの投資を行い、援助している企業との取引は拒否すると言い渡される。そうして、日中国交正常化の地固めをした。幣原内閣では農林大臣として第1次・第2次農地改革に携わった。 生家は薬種商を営む地主の素封家で、その長男である。実母は事情があって2歳の時に松村家を離れ、継母によって育てられる。腹違いの弟と妹がいた。 立本小学校尋常科・高等科を優秀な成績で卒業して富山の県立一中(富山中学)に入学した。
島田 七郎右衛門(しまだ しちろうえもん、1883年1月17… 島田 七郎右衛門(しまだ しちろうえもん、1883年1月17日 - 1962年7月25日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 富山県出身。1901年、富山県立富山中学校(現・富山県立富山高等学校)卒。日露戦争に従軍、陸軍歩兵中尉となる。三等郵便局長、福岡町(現・高岡市)議、同町長、富山県議、西砺波郡農会長、富山県農会長、同山林会副会長、福岡信用組合理事長、北陸製絹、高岡新報、中越土木、笹川窯業、高岡電燈、岡吉商事、大岩電気、飛越電気、戸出物産各(株)重役を務める。 1930年の第17回衆議院議員総選挙で富山2区(当時)から立憲政友会公認で立候補したが落選。1932年の第18回衆議院議員総選挙で初当選。
細野 長良(ほその ながよし、1883年(明治16年)1月7… 細野 長良(ほその ながよし、1883年(明治16年)1月7日 - 1950年(昭和25年)1月1日)は、日本の裁判官、弁護士。最後の大審院院長を務めた。 富山県立富山中学校(後の富山県立富山高等学校)中退、旧制第六高等学校卒業。1908年、京都帝国大学法学部卒業。1918年、東京控訴院判事。広島控訴院院長の時に1944年2月の東條演説事件に対して、司法権独立の侵害と憲法違反に抗議する意見書を提出した。 1946年2月に第23代大審院長に就任。これは岩田宙造司法大臣による人事であり、細野は岩田大臣と司法権独立で意気投合していた。細野は日本の司法改革に意欲を持つGHQ民政局司法法制課課長のアルフレッド・C・オプラーとも意気投合した。
恵比寿洋 直三郎(えびすなだ なおさぶろう、1883年 - … 恵比寿洋 直三郎(えびすなだ なおさぶろう、1883年 - 1915年8月10日)は、富山県旧婦負郡野積村(富山市八尾町)出身で出羽海部屋に所属した元大相撲力士。本名は邑崎 直次郎(むらさき なおじろう)。 1883年に富山県旧婦負郡野積村(現富山市八尾町)に生まれ、その後地元の布谷小学校(現富山市立八尾小学校)を卒業した。上京後、25歳でヱビスビールに関係する会社に勤務。身長約185cmの大柄な体格から、同社の重役に角界入りを勧められた。初めは断ったものの、横綱常陸山ら大相撲関係者の熱心な誘いで、27歳だった1911年に出羽海部屋に入門。しこ名はヱビスビールにちなんだ。出羽海部屋へ入門後は自身の武器である怪力を活かして番付を上げ、1915年1月場所において、序ノ口から所要8場所で新十両へと昇進するというスピード出世を果たした。
氷見ヶ濱 弥太郎(ひみがはま やたろう、1882年9月2日 … 氷見ヶ濱 弥太郎(ひみがはま やたろう、1882年9月2日 - 1942年6月27日)は、現在の富山県氷見市出身で稲川部屋に所属した元大相撲力士。本名は白石 弥之助。身長165cm、体重79kg。最高位は西前頭13枚目。 1901年1月初土俵、1908年5月十両昇進。十両を1場所で通過し、1909年1月新入幕を果たし3場所務めたが、十両、幕下と一気に陥落。1911年6月限りで廃業した。 浦嶋→氷見ヶ濱(1904年5月場所-) この項目は、相撲に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ相撲)。
守内 喜一郎(もりうち きいちろう、1882年(明治15年)… 守内 喜一郎(もりうち きいちろう、1882年(明治15年)2月11日 - 1950年(昭和25年)3月26日)は、日本の教育者。 石川県上新川郡下野村(現在の富山県滑川市)出身。1908年(明治41年)、広島高等師範学校を卒業。大分県師範学校教諭、京都府師範学校教諭、広島高等師範学校助教諭・訓導、同教諭・訓導、同助教授を歴任した。奈良県女子師範学校校長、佐賀県師範学校校長を務めた後、1929年(昭和4年)に広島高等師範学校教授・附属小学校主事、1943年(昭和18年)に千葉師範学校校長となった。退官後は郷里滑川町の公民館長、教育長を務めた。
清水 徳太郎(しみず とくたろう、1882年(明治15年)2… 清水 徳太郎(しみず とくたろう、1882年(明治15年)2月8日 - 1963年(昭和38年)11月28日)は、日本の鉄道・内務官僚、政治家。官選和歌山県知事、衆議院議員。 富山県下新川郡大家庄村(現朝日町)出身。清水源次郎の三男として生まれる。第四高等学校を経て、1909年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業し、さらに同大学院で学ぶ。1910年11月、文官高等試験行政科試験に合格し、鉄道院書記となる。以後、鉄道院副参事、同参事を歴任。 その後、内務省に転じ山形県西置賜郡長に就任。以後、栃木県理事官、奈良県警察部長、宮崎県警察部長、山形県警察部長、山形県書記官・警察部長、同県書記官・内務部長などを歴任。
高松 梅治(たかまつうめじ、うめはる、明治15年1882年1… 高松 梅治(たかまつうめじ、うめはる、明治15年1882年12月〜)とは、日本の軍人、学者、発明家である。無限軌道を発明したことで知られる。 富山県新川郡新保村(現・富山市栗山)に高松清重の子として生まれる。中学のころ井上円了に学び、慶應義塾に入学、明治40年(1907年)に同校法科を卒業。 巣鴨・板橋(白山)間を走る乗合馬車(通称・ガタ馬車)に乗った妊婦がその激しい揺れにより車上流産したを知り、滑らかに回転させるものとして無限軌道の研究を始め、13年の試行錯誤の末、明治44年(1911)に欧米8か国に特許申請し、国内では農商務省の特許を取得した(発明自体は1899年とする説、1907年ごろとする説あり)。
大谷 米太郎(おおたに よねたろう、1881年7月24日 -… 大谷 米太郎(おおたに よねたろう、1881年7月24日 - 1968年5月19日)は、日本の実業家、稲川部屋所属の元大相撲力士。四股名は鷲尾嶽。太平洋戦争前は「鉄鋼王」と称された。戦後の一時期は菊池寛実、南俊二とともに「日本の三大億万長者」と並び称された。ホテルニューオータニ創業者。 富山県西礪波郡正得村(現・小矢部市)水落集落出身。 貧農の家庭に長男として生まれ、31歳になるまで一家を養うために農家の小作として使われる生活を送った。31歳の時、僅かな金(20銭)を親から借りて裸一貫で上京したが、保証人もいない単身田舎から出てきた男にまともな仕事は見つからず、日雇人夫となっていた。 やがて力自慢でならしていた米太郎に稲川部屋から声がかかり、大相撲力士となる。
綿貫 栄(榮、わたぬき さかえ、1880年〈明治13年〉4月… 綿貫 栄(榮、わたぬき さかえ、1880年〈明治13年〉4月 - 1965年〈昭和40年〉3月7日)は、日本の実業家、富山県東砺波郡井波町(現在の南砺市)長。勲五等瑞宝章。元衆議院議員の綿貫民輔の祖父。 1880年、富山県礪波郡井波町の井波八幡宮の神官の家に生まれる。地元井波小学校の代用教員や裁判所、富山県庁に勤める。30歳で富山県庁を退職し、砺波地方の鉄道事業に着手する。この後石川県に進出、事業を拡大し、新聞社や映画館などを経営した。 栄の長男が交通事故で死去したため、日本電力の社員であった南佐民を長女和子と結婚させ婿に迎えた。事業の傍ら、1931年から井波町長を務めた。 1947年、娘婿の佐民とともに公職追放となった。
高見 之通(たかみ ゆきみち、1880年〈明治13年〉3月2… 高見 之通(たかみ ゆきみち、1880年〈明治13年〉3月27日 - 1962年〈昭和37年〉10月30日)は、日本の政治家、弁護士。衆議院議員(当選7回)。族籍は富山県士族。 富山県富山市生まれ。富山県士族・高見之貫の長男。1908年、東京帝国大学法科大学英法科を卒業。弁護士の業務に従事する。 富山県東岩瀬町長(1926年1月15日から同年11月27日まで)、富山県売薬同業組合長を務め、1917年の第13回衆議院議員総選挙で初当選した。はじめ立憲政友会に所属し、1920年の第14回衆議院議員総選挙では政友会公認で立候補し当選している。その後政友会を離党して政友本党の結党に参加し、1924年の第15回衆議院議員総選挙では政友本党公認で立候補し当選している。
牛塚 虎太郎(うしづか とらたろう、1879年(明治12年)… 牛塚 虎太郎(うしづか とらたろう、1879年(明治12年)4月28日 - 1966年(昭和41年)11月1日)は、東京市長および衆議院議員を歴任した官僚、政治家。
山田 少年(やまだ しょうねん / せいねん、1879年(明… 山田 少年(やまだ しょうねん / せいねん、1879年(明治12年)4月3日 - 1961年(昭和36年)1月29日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員、富山県東礪波郡福野町長。福野町豪農・山田家8代。 石川県礪波郡福野村(現:富山県南砺市)で、山田家7代・山田正景(初代福野町長、石川県会議員)の長男として生まれる。福野農学校(現富山県立南砺福野高等学校)で学んだ。 酒造業を営む。福野町会議員、富山県会議員を務めた。1915年3月、第12回衆議院議員総選挙に富山県郡部から立憲同志会所属で出馬して当選。第13回総選挙でも再選され、衆議院議員を連続二期務めた。立憲国民党、立憲同志会、憲政会、立憲民政党に所属して、県支部の幹部を務めた。
黒田 善太郎(くろだ ぜんたろう、1879年(明治12年)2… 黒田 善太郎(くろだ ぜんたろう、1879年(明治12年)2月7日 - 1966年(昭和41年)3月27日)は、日本の実業家。コクヨの創業者。 長男は黒田暲之助、三男は黒田靖之助。孫に黒田章裕、曽孫に黒田英邦、黒田卓也。義子に原信太郎。 20歳の時、故郷を離れて大阪市へ出て紙店につとめる。1905年、27歳で「黒田表紙店」を創業。表紙の質の良さなどで販売を伸ばし、基礎を築く。 1917年、「(越中)国の誉れとなるように」と「国誉(現在のコクヨ)」と商標を定める。1961年、社名を「コクヨ株式会社」に変更。和式帳簿を主体として出発したが、洋式帳簿を手始めに、現在オフィス全般の製品販売をこなしている。
石川 日出鶴丸(いしかわ ひでつるまる、1878年(明治11… 石川 日出鶴丸(いしかわ ひでつるまる、1878年(明治11年)10月5日 - 1947年(昭和22年)11月8日)は、医師。専門は生理学、鍼灸治療。 1878年(明治11年)、代々医家を営む石川昌徹の五男として石川県射水郡小白石村(後に富山県小杉町を経て、現在の射水市)に生まれた。1888年(明治21年)、10歳の時に父を亡くす。富山県尋常中学校(現・富山県立富山高等学校)、旧制第四高等学校を卒業し、東京帝国大学医学部に進んだ。1903年(明治36年)、東京帝国大学医学部を卒業。 卒業後は、1904年(明治37年)より京都帝国大学医科大学生理学教室の天谷千松の下で研究を続けた。1905年、京都帝国大学医学部助教授となった。
小柳 芦太郎(こやなぎ あしたろう、1878年7月1日 - … 小柳 芦太郎(こやなぎ あしたろう、1878年7月1日 - 1946年4月20日)は、現在の富山県砺波市出身で高砂部屋に所属した力士。本名は安ヶ川 芳太郎。164cm、110kg。最高位は西前頭2枚目。 1898年1月初土俵、1903年十両昇進。この頃は将来の力士と期待されたが、立合いが悪い力士だった。1905年1月入幕を果たし、2枚目まで進んだが病を得て十両に陥落。1911年2月限りで廃業。その後は輪島に住み、相撲指導行脚をした。
岩城 準太郎(いわき じゅんたろう、1878年3月12日 -… 岩城 準太郎(いわき じゅんたろう、1878年3月12日 - 1957年4月9日)は、日本の国文学者。 富山県上新川郡大広田村字大村(現富山市)出身。富山県尋常中学校(現富山県立富山高等学校)、第四高等学校を経て、1902年東京帝国大学文学部国文科卒。三重県立第一中学校教師、第四高等学校教授、1916年奈良女子高等師範学校(現奈良女子大学)教授。1906年『明治文学史』を刊行し、明治文学史を初めて文学史の対象とした。おもな著作に「明治大正の国文学」「新修日本文学史」などがある。
梅ヶ谷 藤太郎(うめがたに とうたろう、1878年3月11日… 梅ヶ谷 藤太郎(うめがたに とうたろう、1878年3月11日 - 1927年9月2日)は、現在の富山県富山市水橋大町(出生時は石川県新川郡水橋西大町)出身で雷部屋に所属した大相撲力士。第20代横綱。本名は押田 音次郎(おしだ おとじろう)で、後に小江 音松(おえ おとまつ)となる。 1878年に、現在でいう「富山の薬売り」である売薬商の四男として生まれる(誕生日には異説もある)。1891年に初代西ノ海嘉治郎・劔山谷右エ門の一行が富山県へ巡業に来た際、恵まれた体格の少年を見つけた劔山から熱心な勧誘を受け、雷部屋へ入門、早くも同年1月に初土俵を踏んだ。師匠・雷(元横綱・初代梅ヶ谷)の「ワシ(梅ヶ谷)の弟子ということで四股名は“梅ノ谷”だ」という発言で四股名はあっさりと決定、番付には「梅ノ谷 音松」と書かれた。
二上 兵治(ふたがみ ひょうじ / へいじ、1878年(明治… 二上 兵治(ふたがみ ひょうじ / へいじ、1878年(明治11年)2月25日 - 1945年(昭和20年)11月19日)は、日本の官僚、政治家。枢密院書記官長、行政裁判所長官、貴族院議員、枢密顧問官等を歴任した。法学博士。 石川県射水郡高岡縄手中町(現富山県 高岡市)で、酒造業・二上兵太郎の長男として生まれる。富山県尋常中学校(現富山県立富山高等学校)、第四高等学校(首席)を経て、1904年(明治37年)7月11日、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業、成績優秀のため銀時計を授与された。逓信省に入省し、同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。 以後、東京郵便局郵便課長、逓信省通信局外信課長、同参事官兼逓信書記官・通信局外信課長、兼大臣官房秘書課長などを歴任。
緑嶌 友之助(みどりしま とものすけ、1878年1月12日 … 緑嶌 友之助(みどりしま とものすけ、1878年1月12日 - 1952年12月16日)は、石川県上新川郡(現:富山県滑川市)出身の大相撲力士。本名は高木 友之助(たかぎ とものすけ)。 1878年1月12日に石川県上新川郡で農家を営む家に二男として生まれた。父親は土地相撲で「緑山」の四股名で大関を務め、友之助も17歳の時点で5斗俵を差し上げて村人を大いに驚かせるほどの怪力を持っていた。当初は京都相撲に加入していたが、兄弟子からいじめを受けたために間もなく帰郷。 春日山部屋(師匠は元幕下二段目・朝日森の)へ、序二段・春柳(後の三段目・小猫又)の世話で入門した。 東京相撲では1898年1月場所で初土俵を踏むとすぐに頭角を現し、1901年1月場所で新十両昇進、1902年5月場所で新入幕を果たした。
福井 直秋(ふくい なおあき、1877年10月17日 - 1… 福井 直秋(ふくい なおあき、1877年10月17日 - 1963年12月12日)は、日本の作曲家、教育者。富山県中新川郡上市町出身。帝国音楽学校校長、武蔵野音楽大学創設者であり初代学長。 富山県中新川郡宮川村(現上市町)浄誓寺住職・福井智拓の五男として誕生。1899年に東京音楽学校へ進学し授業補助をしていた瀧廉太郎と出会う。声楽指導法や歌曲集編纂に尽力する。歌曲、器楽曲の創作に意欲を燃やして約1000曲の音楽作品を遺した。1904年長野師範学校教諭、1928年に第一次帝国音楽学校校長に就任。同年辞任し同校生徒らと共に、翌1929年に武蔵野音楽大学の前身である武蔵野音楽学校を創設し移籍する。1949年に新制大学の武蔵野音楽大学の初代学長に就任した。
太刀山 峯右エ門(たちやま みねえもん、1877年8月15日… 太刀山 峯右エ門(たちやま みねえもん、1877年8月15日 - 1941年4月3日)は、現在の富山県富山市吉作(出生時は石川県婦負郡吉作村)出身で友綱部屋に所属した大相撲力士。第22代横綱。本名は老本 弥次郎(おいもと やじろう)。 1877年に呉羽丘陵の近くの、農業の傍ら製茶業、豆腐業を営む老本治助の次男として生まれた。秀業小学校(現・富山市立呉羽小学校)卒業とされている。老本家の茶は品評会で常に一等で、幼い頃から茶葉の手揉みを手伝っていたことから怪力が付き、これによって針のごとく鋭い優良品を生み出し、茶の品評会では必ず優勝したという。兵役検査での優秀な成績が評判になり、友綱が貴重な逸材として欲しがったが本人は相撲に興味が無く、実家も長男を早く失っているので猛反対された。
木間瀬 策三(きませ さくぞう、1876年〈明治9年〉9月9… 木間瀬 策三(きませ さくぞう、1876年〈明治9年〉9月9日 - 1956年〈昭和31年〉12月10日)は、明治末から昭和期の内務官僚、実業家。官選富山県知事。 千葉県出身。従五位勲五等の官吏木間瀬柔三の五男として生まれる。富山中学校で中学1年に在学。第一高等学校を卒業。1900年(明治33年)東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し宗教局属となる。 以後、三重県事務官、愛知県事務官、千葉県事務官・第二部長、茨城県事務官・第四部長、同県事務官・警察部長、同県事務官・内務部長、新潟県内務部長、大阪府内務部長などを歴任。 1915年(大正4年)8月12日、富山県知事に就任。
志田 義秀(しだ ぎしゅう、1876年7月27日 - 194… 志田 義秀(しだ ぎしゅう、1876年7月27日 - 1946年1月17日)は、日本の国文学者・俳人。学位は、文学博士(1937年)(学位論文「問題の点を主としたる芭蕉の伝記の研究」)。元東洋大学教授。連歌俳諧研究、説話研究、歌謡研究、辞典の編纂など、多方面に業績を残した。 富山県上新川郡出身。旧姓は藤井。俳号は素琴。富山中学校[要出典]、第四高等学校を経て[要出典]、1903年東京帝国大学文学部国文科卒。第六高等学校教授、1925年旧制成蹊高等学校教授、東洋大学教授。1937年「問題の点を主としたる芭蕉の伝記の研究」で文学博士の学位を取得。日本で初めて俳文学によって文学博士の学位を取得した[要出典]。
大井 義昌(おおい ぎしょう、1876年(明治9年)3月6日… 大井 義昌(おおい ぎしょう、1876年(明治9年)3月6日 - 1952年(昭和27年)9月9日)は、日本の政治家。富山県氷見市長(1期)。 富山県砺波郡西部金屋村(のち砺波郡北般若村→東砺波郡北般若村→西砺波郡戸出町、現在の高岡市)生まれ。1900年(明治33年)富山県師範学校卒。東砺波郡内の小学校の校長を務める。その後、氷見郡と婦負郡の視学となり、1920年(大正9年)11月6日氷見町長に就任する。在任中は氷見漁港改修や富山県立氷見中学校(現在の富山県立氷見高等学校)の設立などに力を入れた。町長は1930年(昭和5年)8月18日まで務めた。 戦後は日本社会党に入り、県連副会長、氷見郡支部長、日本農民組合富山県連会長などを歴任した。
6代 木津 太郎平(きづ たろへい、1875年(明治8年)1… 6代 木津 太郎平(きづ たろへい、1875年(明治8年)12月14日 - 1950年(昭和25年)7月8日)は、明治時代後期から昭和時代前期の政治家、実業家。衆議院議員。富山県高岡市長。富山県多額納税者。幼名は清太郎。号・蒼石、杉雨。 新川県射水郡高岡上川原町(石川県、富山県射水郡高岡上川原町を経て現・高岡市川原本町)で、先代・太郎平の長男として生れ、1903年(明治36年)3月に家督を相続し、幼名を改め、6代太郎平を襲名した。富山県立富山中学校(現富山県立富山高等学校)を卒業後、志願兵として従軍し陸軍歩兵中尉に任官する。日露戦争の功により功五級金鵄勲章および日独戦争の功により勲四等を叙勲される。
田部 隆次(たなべ りゅうじ、1875年(明治8年)10月2… 田部 隆次(たなべ りゅうじ、1875年(明治8年)10月20日 - 1957年(昭和32年)12月20日)は、日本の英文学者。 富山県の南日家に生まれ、生後まもなく田部家の養子となる。兄に英語教育者の南日恒太郎、弟に別の田部家へ養子に入った英文学者の田部重治がいる。村松剛・村松英子の母方の祖父。村松えりの曾祖父。 富山中学校、早稲田大学専門部を経て、東京帝国大学英文科でラフカディオ・ハーンに学び、後年ハーンの研究を行った。女子学習院教授を務め、第一書房の『小泉八雲全集』を大谷正信らと共訳した。 1921年学習院大学教授をしていた時に、近所付合いをしていた小泉一雄(ラフカディオ・ハーンと妻セツの長男)に見送られて横浜から一年間の留学に発った。
山田 孝雄(やまだ よしお、1875年〈明治8年〉8月20日… 山田 孝雄(やまだ よしお、1875年〈明治8年〉8月20日 - 1958年〈昭和33年〉11月20日)は、日本の国語学者、国文学者、歴史学者。東北帝国大学教授を歴任。文化勲章受章。 独学の人として知られる。「契沖、真淵、宣長以来の国学の伝統に連なる最後の国学者」とも評される。 1873年、富山県富山市総曲輪(そうがわ)に於保多神社宮司山田方雄の次男として生れる。父は前田利保に歌を学んだ連歌の宗匠でもあった。履新小学校卒業。富山県尋常中学校を中退後、独学で小、中学校教員検定試験(文検)に合格。富山県内の小学校や兵庫、奈良、高知などの中学校で教員を務める。 1907年(明治40年)文部省国語調査委員会補助委員、1920年(大正9年)日本大学講師、1921年(大正10年)日本大学文学部国語科主任、1925年(大正14年)東北帝国大学講師、1927年(昭和2年)同教授に昇格。
大石 斉治(齊治、おおいし さいじ、1875年(明治8年)2… 大石 斉治(齊治、おおいし さいじ、1875年(明治8年)2月27日 - 1952年(昭和27年)3月13日)は、明治から昭和時代の政治家。大日本帝国陸軍軍人。衆議院議員。 大石喜三右衛門の長男として、富山県射水郡、のちの氷見郡氷見町(現氷見市)に生まれる。1917年(大正6年)家督を相続する。1893年(明治26年)石川県農学校本科を卒業し、実業学校教員資格検定試験に合格した。日露戦争に従軍し、陸軍歩兵中尉に進んだ。 農業に従事する傍ら、富山県農学校教諭、郡立上伊那甲種農学校教諭兼舎監、徳島県立農業学校教諭、富山県郡立農学校長校長兼教諭を歴任した。 また、氷見町会議員、富山県会議員、高岡市助役、在郷軍人会氷見郡連合分会長、土木会議員、大政翼賛会高岡市支部常務、富山県農会幹事を務めた。
竹内 佐太郎(たけうち さたろう、1875年(明治8年)1月… 竹内 佐太郎(たけうち さたろう、1875年(明治8年)1月3日 - 1966年(昭和41年)12月6日)は、日本の裁判官、検事。 富山県下新川郡入善町出身。1903年(明治36年)、東京帝国大学法科大学英法科を卒業し、司法官試補となる。浦和地方裁判所判事、東京区裁判所判事、長野区裁判所検事、東京区裁判所検事、東京地方裁判所検事、和歌山地方裁判所検事正、高知地方裁判所検事正、神戸地方裁判所検事正、横浜地方裁判所検事正を歴任。その後、台湾総督府法院に転じ、高等法院検察官長、高等法院長を務めた。 1935年(昭和10年)、広島控訴院検事長となった。1937年(昭和12年)に退官した後は弁護士を開業した。
森丘 覚平(もりおか かくへい、1874年〈明治7年〉5月1… 森丘 覚平(もりおか かくへい、1874年〈明治7年〉5月19日 - 1927年〈昭和2年〉12月1日)は、日本の政治家、富山県多額納税者。衆議院議員(憲政会)。富山県会議員、同議長。富山県政界元老。族籍は富山県平民。勲四等瑞宝章。 富山県下新川郡大布施村(現・黒部市)出身。先代・森丘覚平の長男。1877年、家督を相続した。慶応義塾に学び、1912年に特選。農業を営む。 明治中期から郡会議員、同副議長、次いで富山県会議員、同参事会員、議長を歴任した。1905年2月4日から1906年9月16日まで大布施村長に就任したのを経て、1912年以来衆院議員当選3回。桜庄銀行、生地銀行各取締役、魚津銀行、北陸人造肥料各監査役なども務めた。
石坂 豊一(石坂 豐一、いしさか とよかず、1874年〈明治… 石坂 豊一(石坂 豐一、いしさか とよかず、1874年〈明治7年〉5月3日 - 1970年〈昭和45年〉5月5日)は、日本の政治家。位階は従三位、勲等は勲一等。富山市長、衆議院議員(5期)、参議院議員(2期)。 1874年富山県新川郡大崎野村(上新川郡東加積村、中新川郡東加積村、滑川町を経て現・滑川市大崎野)に10人兄弟の末っ子として生まれる。中学進学は家計上困難だったが、姉の力添えで1892年に富山県尋常中学校(現・富山県立富山高等学校)を卒業。同期に山田孝雄。税関監吏補試験に合格して神戸税関に勤務しながら京都の同志社で学ぶ。1897年に中退して帰郷し、郡書記、富山県属、婦負郡長などを務め、上司だった永井金次郎が樺太庁長官に就任したのを機に招聘され、樺太庁長官官房主事兼地方課長を歴任する。
荒井 建三(あらい けんぞう、1873年〈明治6年〉9月15… 荒井 建三(あらい けんぞう、1873年〈明治6年〉9月15日 - 1956年〈昭和31年〉7月22日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(1期)。旧姓・正村。 新川県射水郡高岡町源平町(現富山県高岡市)で、実業家・正村義平の三男として生まれ、1887年(明治20年)実業家・荒井荘蔵の養子となる。富山県尋常中学校(現富山県立富山高等学校)を経て、1897年(明治30年)専修大学卒。高岡市参事会員、富山県議、同議長、高岡商業会議所会頭、高岡紡績(株)常務取締役、高岡銀行、高岡商業銀行、高岡電燈、山又機業、オリエンタル写真工業各(株)取締役、北陸信託(株)、高岡信用組合各社長、日本米穀(株)高岡市場参与となる。
若宮 卯之助(わかみや ゆうのすけ、明治5年9月23日〈18… 若宮 卯之助(わかみや ゆうのすけ、明治5年9月23日〈1872年10月25日〉 - 昭和13年〈1938年〉4月30日)は、日本の社会学者、新聞記者。国粋主義者、反ユダヤ主義思想家として知られた。慶應義塾大学社会学教授。原理日本社同人、国際政経学会常務理事、新聞「日本」社長兼主筆、中央新聞主筆等を歴任。号は泰山(たいざん)。 富山県西礪波郡埴生村(現・小矢部市)生まれ。 郷里の小学校を約2年で中退して曹洞宗に落飾し、のち上京して蕎麦屋の出前等の職を転々としながら1898年(明治31年)にアメリカ大陸に渡り、約10年間の放浪生活を経たのちに帰国して日本新聞社に入社したという異端の経歴を持つ人物である。
金山 米次郎(かなやま よねじろう、1872年6月29日(明… 金山 米次郎(かなやま よねじろう、1872年6月29日(明治5年5月24日)- 1941年(昭和16年)5月29日)は、富山市長。弟は安田銀行下谷支店長を務めた金山音治。 富山県富山市出身。青雲の志を抱き東京に出る。東京芝新銭座町4番地(現・東京都港区東新橋2丁目)にあった吏党系の壮士の集う「青年義勇団」に所属しようとしたが若すぎた為、年齢を2歳偽り所属した。実年齢20歳(公称22歳)の時、1891年(明治24年)5月29日、板垣退助を総理(総裁)に迎えた自由党は「国家主義(極右)と社会主義(極左)とはともに国を滅ぼす」とし、その中庸を目指す自由党の自由主義こそが国家を津々と発展させるものであるとして国家が歩むべき方向性を示す宣言を行い、10月15日に自由党は党大会を開いて党則を改正したが、国家主義を標榜し民党と対立する吏党に所属する米次郎は、自由党の方向性と板垣に対して憤りを覚えた。
南日 恒太郎(なんにち つねたろう、明治4年9月30日(18… 南日 恒太郎(なんにち つねたろう、明治4年9月30日(1871年11月12日) - 昭和3年(1928年)7月20日)は、明治から大正にかけての教育者・英文学者。旧制富山高等学校初代校長。 富山県富山市長江生まれ。実弟には田部隆次(英文学者)、田部重治(英文学者・登山家)がおり、英文学の南日三兄弟と呼ばれた。 恒太郎は努力家で学業が優秀だった。富山県尋常中学校(現富山県立富山高等学校)在学中の明治23年10月、文部大臣森有礼が来校し、突然英語で質問した際にも明快に答えたという。 1885年(明治18年)9月富山県尋常中学校に入学し、同期の南弘(官僚・富山県初の大臣)や蟹江義丸(哲学者)らと学び、旧制第四高等学校(現金沢大学)進学を目指したが、南弘と共に県に建白書を出してストライキに加担したこと、重い眼病になったことなどから中退し、5年で退学。