加藤 仁平(かとう にへい、1894年11月7日 - 199… 加藤 仁平(かとう にへい、1894年11月7日 - 1993年4月12日)は、日本の教育史学者。 愛知県宝飯郡豊川町(現豊川市)出身。東京高等師範学校卒。1944年「伊藤仁斎の学問と教育 古義堂即ち堀川塾の教育史的研究」で、文学博士(慶應義塾大学)の学位を取得。東京高等師範学校教授、東京文理科大学教授を兼ねるが、1947年公職追放。のち関東学院大学教授となる。1978年退職。 東京高師で嘉納治五郎に学ぶ。江戸時代の教育思想が専門だが、二宮尊徳の報徳思想を広めることに努め、これが戦時中の戦争イデオロギーとなったため戦後公職追放を受けた。
那須 政隆(なす せいりゅう、1894年(明治27年)8月1… 那須 政隆(なす せいりゅう、1894年(明治27年)8月15日 - 1987年(昭和62年)5月31日)は、日本の仏教学者。専門は密教。大正大学学長、同大名誉教授、智積院化主(真言宗智山派管長)及び真言宗長者。愛知県龍照院住職。 この項目は、仏教に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル 仏教/ウィキプロジェクト 仏教)。 この項目は、宗教家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル 宗教/ウィキプロジェクト 宗教)。
石田 千太郎(いしだ せんたろう、1894年(明治27年)8… 石田 千太郎(いしだ せんたろう、1894年(明治27年)8月5日 - 没年不詳)は、日本の逓信官僚、政治家。朝鮮総督府逓信局長、愛知県議会議員(5期)、朝鮮石炭株式会社社長などを歴任した。 愛知県丹羽郡犬山町(現在の犬山市)出身。1914年(大正3年)、逓信官吏練習所を卒業し、通信書記補、逓信属を務めた。1921年(大正10年)11月、高等試験行政科に合格し、翌年に朝鮮総督府属となった。同理事官、平安北道地方課長、同秘書課長、林野調査委員会事務官、江原道警察部長、平安南道警察部長、慶尚南道警察部長、殖産局鉱山課長を歴任。1938年(昭和13年)、平安南道知事に就任し、さらに厚生局長を経て、1942年(昭和17年)に逓信局長となった。
豊田 喜一郎(とよだ きいちろう、旧字体: 豐田喜一郞、18… 豊田 喜一郎(とよだ きいちろう、旧字体: 豐田喜一郞、1894年(明治27年)6月11日 - 1952年(昭和27年)3月27日)は、日本の経営者、技術者、トヨタ自動車創業者。位階は従五位。勲等は勲四等。豊田佐吉の長男。 トヨタ自動車工業(現・トヨタ自動車)社長(第2代)、社団法人自動車技術会会長(第2代)などを歴任した。 豊田佐吉と佐原たみ(佐吉の妹の友人で最初の妻)の長男として生まれる。1892年(明治25年)から夫婦は東京市浅草外(当時の浅草区千束町)に住んでおり、里帰り出産のため静岡県敷知郡吉津村山口(現在の湖西市山口)で生まれるが、出生3か月のとき、貧困の中家庭を顧みることなく発明に没頭する夫に愛想を尽かした母親が家出したため祖父母の家で育つ。
鈴木 亨市(すずき きょういち、1894年5月24日 - 1… 鈴木 亨市(すずき きょういち、1894年5月24日 - 1969年7月30日)は、日本の経営者。愛知県豊橋市出身。 1919年に東京帝国大学法学部独法科を卒業し、同年に日本銀行に入行。1943年10月に東海銀行に転じ、頭取となり、1959年から会長を務めた。 1962年3月から1968年2月までに名古屋商工会議所会頭を務めた。 1958年に藍綬褒章を受章。
大見 為次(おおみ ためじ、1894年(明治27年)5月6日… 大見 為次(おおみ ためじ、1894年(明治27年)5月6日 - 1962年(昭和37年)5月)は、日本の政治家。安城町会議員(1920年-1947年)、安城町長(1947年-1952年、2期)、初代安城市長(1952年-1959年、2期)、愛知県会議員(1931年-1955年)、愛知県議会議長(1947年-1950年)。 元衆議院議員の大見正は孫。 1894年(明治27年)5月6日、愛知県碧海郡安城村字出郷(現・安城市新田町)に生まれた。1907年(明治40年)に愛知県立農林学校(現・愛知県立安城農林高等学校)に入学し、1911年(明治44年)3月に卒業した。農林学校卒業後には青年団の学習会である双葉会に入会し、機関誌『双葉集』の1914年(大正3年)3月号には「農業組織改革に於ける組合中心主義」という論考を発表している。
堀田 一雄(ほった かずお、1894年4月10日 - 197… 堀田 一雄(ほった かずお、1894年4月10日 - 1976年2月2日)は日本の生化学者、医学博士、大学教授。名古屋大学名誉教授、一宮女子短期大学名誉学長。 愛知県名古屋市出身。愛知県立医学専門学校(現・名古屋大学)、東北大学医科大学卒業。生化学を専攻し、愛知医科大学・名古屋医科大学・名古屋大学教授、和歌山県立医科大学教授を歴任した。1976年2月2日、脳血栓のため愛知県名古屋市中京病院で死去。81歳。告別式は愛知県医師会講堂で行われた。 名古屋日独協会の活動に尽力。1964年から1976年に亡くなるまで協会長として活動した。晩年にはドイツ連邦共和国功労勲章(大功労十字章)を受賞している。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。
原 随園(はら ずいえん、旧字体: 原 隨園、1894年〈明… 原 随園(はら ずいえん、旧字体: 原 隨園、1894年〈明治27年〉3月19日 - 1984年〈昭和59年〉3月25日)は、日本の西洋史学者。 愛知県名古屋市出身。第八高等学校卒、東京帝国大学卒。姫路高等学校 (旧制)教授、1924年東北帝国大学助教授、1933年京都帝国大学文学部西洋史教授。同年「テセウス伝説考」で京大文学博士。京都大学図書館長、文学部長。1957年定年退官、名誉教授、立命館大学教授。1964年退職。専門は古代ギリシア史。
白井 烟嵓(しらい えんがん、1894年2月8日 - 197… 白井 烟嵓(しらい えんがん、1894年2月8日 - 1976年1月19日)は、愛知県豊橋市出身の画家。 1894年(明治27年)2月8日、愛知県渥美郡花田村(現豊橋市)に白井徳平の二男として生まれた。本名は龍、字名は瀧司。従兄弟の白井永川から絵の手解きを受け、静古と号した。他に烟巌とも。1917年(大正6年)、南宗画家の松林桂月に師事し、烟嵓と号する。1920年(大正9年)第2回帝展に「幽栖」が初入選した。 1896年(明治29年)の日本南画院創設に参加し、日本南画院では理事も務めた。大正・昭和を通じて帝展、新文展、日展を中心に日本南画院展など団体展を舞台に活躍した。 1918年から1933年まで外海家と養子縁組していた時期があり、この期間は外海烟巖名義。
塚原 嘉一(つかはら かいち、1894年 - 1959年)は… 塚原 嘉一(つかはら かいち、1894年 - 1959年)は、愛知県東春日井郡小牧町春日寺(現在の小牧市)出身の実業家・政治家。小牧町長(1944年 - 1945年)。 朝鮮・満州・中国などに毛織物を輸出した塚原毛織の創業者である。1935年(昭和10年)頃の塚原毛織は約500人もの従業員を抱える大工場だった。塚原毛織には若い女工が多かったことから、小牧高等女学校(現在の愛知県立小牧高等学校)の開校に力を注いだ。名鉄小牧線の開業、町村立組合春日井病院(現在の小牧市民病院)の開院などにも尽力している。
服部 譲次(はっとり じょうじ、1893年〈明治26年〉11… 服部 譲次(はっとり じょうじ、1893年〈明治26年〉11月8日 - 没年不詳)は、日本の航空技術者。三菱重工業株式会社名古屋航空機製作所技術部部長、新三菱重工業専務取締役などを歴任した。 愛知県名古屋市にて育った。旧制愛知県立熱田中学校(現・愛知県立瑞陵高等学校)、旧制第八高等学校を経て、1918年、東京帝国大学工科大学を卒業する。大学卒業後は三菱造船に入社し、神戸造船所に配属される。 1920年に三菱造船の名古屋航空機製作所に入る。1921年にドイツに出張し、1924年に帰国。1923年より、名古屋航空機製作所にて設計課と研究課の課長に就任する。その後、三菱造船は三菱重工業に衣替えする。三菱重工業の名古屋航空機製作所にて技術部の部長などを歴任した。
司 忠(つかさ ただし、1893年〈明治26年〉10月5日 … 司 忠(つかさ ただし、1893年〈明治26年〉10月5日 - 1986年〈昭和61年〉5月1日)は、愛知県渥美郡豊橋町八町(現・豊橋市八町通3丁目)出身の実業家。丸善社長・会長。 丸善社長就任時にはワンマン独裁を宣言し、洋書部門の再建や著作権法改正に尽力した。国外に流出していた西洋絵画の松方コレクションの返還交渉にも関与している。 1893年(明治26年)10月5日、愛知県渥美郡豊橋町八町(現・豊橋市八町通3丁目)にある安久美神戸神明社の家に生まれた。1906年(明治39年)9月に高浜尋常高等小学校を退学すると、13歳で書籍商の丸善株式会社に見習生として入社した。 1922年(大正11年)5月10日に結婚している。
太田 功平(おおた こうへい、1893年9月2日 - 193… 太田 功平(おおた こうへい、1893年9月2日 - 1930年12月4日)は、日本の農学者、教育者。菜種の新品種「六ツ美種」の開発者として知られる。 愛知県碧海郡糟海村大字土井(現・岡崎市土井町)に生まれる。中井村立中井尋常高等小学校を卒業。しばらく村役場書記や小学校準教員をしていたが、愛知県第二師範学校(愛知教育大学の母体の一つ)へ進学する。同校卒業後10数年は、棚尾・依佐美・富士松・桜井等の尋常小学校の訓導として教鞭をとった。謄写印刷のパンフレット式の教科書を作り、農業関係の科目を熱心に教えたという。 1927年(昭和2年)、六ツ美村立農業補修学校の長谷川一男校長の招きにより、同校の教頭に就任。
柳生 六郎(やぎゅう ろくろう、1893年8月28日 - 1… 柳生 六郎(やぎゅう ろくろう、1893年8月28日 - 1983年5月26日)は、日本の鉱床探査技術者。愛知県名古屋市生まれ。 第八高等学校を経て、1919年東京帝国大学理科大学地質学科を卒業。日本鉱業(現JX金属)の前身である久原鉱業に入社、調査課に勤務。1929年日本鉱業の創立から同社の鉱山部勤務となり、調査部門の業務を担当。この間、長年にわたって傘下の諸鉱山の地質調査・探査・探鉱・開発などを行った。特に福島県高玉鉱山の金鉱床については、鉱床の生成と母岩の変質に関する多くの事実を明らかにし、鉱化初期の珪化作用と後期のアルカリ化(氷長石化作用)の関係を論じた。これらの研究により、東京大学より理学博士の学位を取得。
市川 房枝(いちかわ ふさえ、1893年〈明治26年〉5月1… 市川 房枝(いちかわ ふさえ、1893年〈明治26年〉5月15日 - 1981年〈昭和56年〉2月11日)は、日本の婦人運動家、政治家。参議院議員(5期)。 1924年に「婦人参政権獲得期成同盟会」を結成。婦人参政権運動を主導した。終戦直後の1945年11月3日には「新日本婦人同盟」を結成。公職追放を受けるも、解除後の1950年に同団体を「日本婦人有権者同盟」に改称し、国会と女性を結び付ける運動を推し進めた。1953年に参議院議員に初当選。政界浄化、女性の地位や権利の向上に尽力した。 愛知県中島郡明地村字吉藤(現:一宮市明地)に生まれた。男2人、女4人の6人きょうだいで、市川は三女。誕生名は「ふさゑ」。
白木 一平(しらき いっぺい、1893年4月26日 - 19… 白木 一平(しらき いっぺい、1893年4月26日 - 1948年10月17日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 愛知県出身。1910年愛知県立農林学校(現・愛知県立安城農林高等学校)卒。農業の傍ら、郵便局長、奥町(現・一宮市)会議員、中島郡会議員、同副議長、奥町教育会長、同農業会長、中島郡農会長、愛知県農会幹事長、蘇東耕地整理組合長、愛知県農業保険組合連合会副会長、中部種苗(株)取締役社長となる。 1946年の第22回衆議院議員総選挙で愛知1区(大選挙区)から日本進歩党公認で立候補して当選。党内では会計監督となった。翌1947年の第23回衆議院議員総選挙には出馬しなかった。後、公職追放となった。
鷹部屋 福平(たかべや ふくへい、1893年(明治26年)3… 鷹部屋 福平(たかべや ふくへい、1893年(明治26年)3月9日 - 1975年(昭和50年)4月24日)は、日本の工学者、アイヌ文化研究者。著書には橋梁や構造力学など力学関係のものが多い。北海道帝国大学、九州大学、防衛大学校などで教授を務めた。 愛知県額田郡岡崎町大字康生(現・岡崎市)に生まれる。父は岡崎藩士で画家の鷹部屋荘一郎。1899年(明治32年)4月4日、岡崎町立連尺尋常小学校(現・岡崎市立連尺小学校)に入学。1903年(明治36年)、額田郡岡崎高等小学校(現・岡崎市立梅園小学校)に入学。愛知県立第二中学校(現・愛知県立岡崎高等学校)に入学すると、毎日のように暗くなるまでテニスの練習を行ったという。
鈴木 茂三郎(すずき もさぶろう、1893年2月7日 - 1… 鈴木 茂三郎(すずき もさぶろう、1893年2月7日 - 1970年5月7日)は、日本の政治家、第2代日本社会党委員長。ジャーナリスト、エッセイストとしても知られた。
大野 正直(おおの まさなお、1893年1月20日 - 19… 大野 正直(おおの まさなお、1893年1月20日 - 1951年10月20日)は、日本の大正から昭和前期にかけて活動した弁護士。 愛知県海部郡佐屋村(現在の愛西市)出身。愛知県第三中学校(現在の県立津島高校)を経て日本大学に入学し、1920年(大正9年)に弁護士試験合格、岡崎正也法律事務所に3年間在籍ののち帰郷し、1923年(大正12年)に名古屋市で個人事務所を開設する。 以降、名古屋市会議員を務めるなど中京圏の法曹界における重鎮とされ、スポーツ全般への造詣の深さから1936年(昭和11年)に新愛知新聞社が結成した職業野球チームの名古屋軍(現在の中日ドラゴンズ)設立に当たっては社外から会長として迎えられた。
近藤 泰一郎(こんどう たいいちろう、1893年(明治26年… 近藤 泰一郎(こんどう たいいちろう、1893年(明治26年)1月1日 - 1975年(昭和50年)12月24日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。従四位、勲一等。 1893年1月1日、愛知県中島郡平和町(現在の稲沢市)の農家に生まれる。高等小学校時代の1905年11月頃、伊勢湾に凱旋入港した第三戦隊の千歳を見学に行った際、司令官である出羽重遠中将に声をかけられ、海軍に対する憧れを抱く。その後、愛知県立第三中学校在学中、学費の都合上高等学校に行けそうになかったため、当時流行っていた米国への出稼ぎを考えていたが、排日運動の機運が高まっていたため断念し、同じく海外に行ける可能性があり、また憧れもあった海軍兵学校受験を決意し、1911年(明治44年)9月11日、海兵42期生として入校する。
石川 丹八郎(いしかわ たんぱちろう、1893年 - 197… 石川 丹八郎(いしかわ たんぱちろう、1893年 - 1979年)は、名古屋市南区笠寺に生まれた作家、占い師。 当地に伝わる伝説・昔話、歴史上の人物などを調べる郷土史家であったという。また、趣味として易を為した。名古屋市南区鳥山町2丁目の私有地に丹八山と命名し、公園として整備。丹八山公園として、名古屋市に寄贈したことでも知られる。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。 この項目は、愛知県に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(Portal:日本の都道府県/愛知県)。
後藤 鍬五郎(ごとう くわごろう、1892年12月19日 -… 後藤 鍬五郎(ごとう くわごろう、1892年12月19日 - 1976年2月27日)は、愛知県海東郡七宝村(現在のあま市)出身のコンクリート造形師。 最初に鉄筋で骨組みを製作し、隙間にコンクリートを流し込んだ後、表面に漆喰などを塗って仕上げる手法を取った。約40体のコンクリート像の製作に携わっており、聚楽園大仏などが代表作とされる。 1892年(明治25年)、愛知県海東郡七宝村(現在のあま市)に生まれた。両親はろうそくや線香などを製作しており、別院の御用商人だった。1900年(明治33年)に三蔵尋常小学校(名古屋市立栄小学校の前身のひとつ)に入学し、1904年(明治37年)に第六高等小学校(名古屋市立栄小学校の前身のひとつ)に入学し、1906年(明治39年)に第六高等小学校を卒業した。
神戸 眞(かんべ しん、1892年11月8日 - 1967年… 神戸 眞(かんべ しん、1892年11月8日 - 1967年7月13日)は、日本の政治家。愛知県小牧市長(3期)、衆議院議員(2期)、愛知県会議員(4期)、篠岡村長などを歴任した。 愛知県東春日井郡陶村(現小牧市)生まれ。1906年(明治39年)3月、小牧町小牧尋常高等小学校(現小牧市立小牧南小学校)卒業。 1929年(昭和4年)3月、篠岡村会議員に就任。その後、愛知県会議員、篠岡村長などを務め、1942年(昭和17年)10月8日から1945年(昭和20年)12月3日まで県会議長を務めた。 戦後、最初に行われた1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙に大選挙区制の旧愛知1区から日本進歩党公認で立候補し初当選。
千賀 康治(せんが こうじ、1892年9月11日 - 195… 千賀 康治(せんが こうじ、1892年9月11日 - 1956年2月24日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)、愛知県会議員(3期)、岡崎市会議員(4期)などを歴任した。横に大きく伸びた口ひげから「おひげさん」の愛称で親しまれた。 愛知県額田郡岡崎町連尺(現・岡崎市)で木綿問屋を営む千賀伝三郎の五男として生まれる。愛知県第二師範学校附属小学校、愛知県立第二中学校(現・愛知県立岡崎高等学校)卒業。木綿織物業に従事する。 1928年(昭和3年)10月5日に行われた岡崎市会議員選挙に立候補し初当選。千賀は立憲民政党の岡崎支部である岡崎民政倶楽部に属していたが、当選の翌月、他の若手の民政党員と共に分派し岡崎民政青年団を結成した。
中村 寿一(なかむら じゅいち、1892年〈明治25年〉5月… 中村 寿一(なかむら じゅいち、1892年〈明治25年〉5月29日 - 1956年〈昭和31年〉1月6日)は、日本の政治家。愛知県挙母市長(1期、挙母市は豊田市の旧市名)、挙母町長、愛知県会議員などを歴任した。 挙母町長在職中、トヨタ自動車工業(現・トヨタ自動車)の工場誘致、土地買収に尽力したことで知られる。 愛知県八名郡下条村(現・豊橋市)出身。農業を営む中村桂次郎の長男として生まれる。下川村第一尋常高等小学校卒業。父の死をきっかけとして1906年(明治39年)、14歳のときに家を出て農業試験場養蚕部に入る。養蚕教師として西三河の農家の指導にあたった。 1912年(明治45年)、第15師団に入隊。
小早川 博(こばやかわ ひろし、1892年〈明治25年〉5月… 小早川 博(こばやかわ ひろし、1892年〈明治25年〉5月21日 - 1980年〈昭和55年〉10月)は、愛知県額田郡本宿村(現・岡崎市上衣文町)出身の地方自治功労者。本宿村会議員、本宿村長、岡崎市議会議員、岡崎市議会議長。 1892年(明治25年)5月21日、愛知県額田郡本宿村上衣文森下35(現・岡崎市上衣文町森下)に生まれた。「知多郡内海町に生まれ、1911年(明治44年)に小早川家に養子に入った」とする文献もある。父の小早川九七も農業の傍らで本宿村会議員を務めた人物である。 1906年(明治39年)には東海高等小学校を卒業し、家業である農業に従事していた。江戸時代の本宿村は赤坂宿と藤川宿の間にある東海道の間の宿であり、松平家所縁の寺である法蔵寺は大名や旅人などの参拝者が絶えなかったとされるが、近代になると官設鉄道(現・JR東海道本線)の経路から外れたことで往来が減っていた。
三輪 茂義(みわ しげよし、1892年5月15日 - 195… 三輪 茂義(みわ しげよし、1892年5月15日 - 1959年2月27日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。
吉田 萬次(よしだ まんじ、1892年(明治25年)3月2日… 吉田 萬次(よしだ まんじ、1892年(明治25年)3月2日 - 1958年(昭和33年)12月21日)は、日本の政治家、医師。参議院議員(1期)、愛知県会議員(3期)、一宮市長(2期)、一宮市会議員(4期)。 愛知県中島郡一宮町(現一宮市)に生まれる。1911年(明治44年)3月、明倫中学校(現愛知県立明和高等学校)卒業。1917年(大正6年)、愛知県立医学専門学校卒業。1918年(大正7年)、吉田医院を開業。 1921年(大正10年)、一宮市の市制施行に際し、一宮市会議員に初当選。1927年(昭和2年)、京都帝国大学で医学博士を修了。 1931年(昭和6年)9月、愛知県会議員選挙に立憲民政党公認で初当選。
加藤 勘十(かとう かんじゅう、1892年(明治25年)2月… 加藤 勘十(かとう かんじゅう、1892年(明治25年)2月25日 - 1978年(昭和53年)9月27日)は、昭和期の政治家、労働運動家。衆議院議員(7期、日本社会党)、労働大臣(第2代)。碧水、率とも称した。 戦前の労働運動で活躍し、「火の玉勘十」の異名を取った闘士型の運動家。立憲民政党、国民同盟の衆議院議員を務めた加藤鯛一は実兄。婦人運動家、政治家の加藤シヅエは、夫人で「おしどり議員」として知られた。息子は加藤宣幸、娘は加藤タキ(多喜子)。 1892年(明治25年)2月25日に、愛知県丹羽郡岩倉村(現在の岩倉市)で生まれる。 日本中学などを経て、日本大学法学部中退。 当初は国家主義者として出発し、1918年(大正7年)シベリア出兵に参加するが、戦争の悲惨さを体験して、反戦・労働運動に転向した。
長坂 貞一(ながさか ていいち、1891年(明治24年)12… 長坂 貞一(ながさか ていいち、1891年(明治24年)12月15日 - 1969年(昭和44年)1月5日)は、日本の政治家。愛知県豊田市(挙母市)の市長を2期務めた。 愛知県碧海郡西端村(現・碧南市)出身。呉服屋を営む杉浦喜六の四男として生まれた。1909年(明治42年)、愛知県立農林学校(現・愛知県立安城農林高等学校)卒業。小学校教員になったのち、1912年(大正元年)12月に農林省森林主事に任官。営林署技手として千葉、茨城、岐阜の各県に勤務し、1929年(昭和4年)に退職。 額田銀行勤務を経て、1933年(昭和8年)に挙母町役場の書記となる。トヨタ自動車工業(現・トヨタ自動車)の誘致に参画し、庶務課長、振興課長などを務めた。
加藤 六蔵(かとう ろくぞう、1891年〈明治24年〉12月… 加藤 六蔵(かとう ろくぞう、1891年〈明治24年〉12月10日 - 1969年〈昭和44年〉8月11日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。幼名・正雄。 愛知県宝飯郡前芝村(現豊橋市前芝町)で、先代加藤六蔵の長男として生まれた。農業を営み、前芝村長、愛知県議、同県山林会議員となり、前芝漁業協同組合長、豊橋市議、同議長、(株)三河海苔販売取締役社長を務める。 1924年の第15回衆議院議員総選挙において愛知12区から憲政会公認で立候補して初当選。1928年の第17回衆議院議員総選挙において愛知5区から立憲民政党公認で立候補したが落選。1930年の第17回衆議院議員総選挙で再選し、1932年の第18回衆議院議員総選挙では次点で落選した。
鈴木 宗作(すずき そうさく、1891年(明治24年)9月2… 鈴木 宗作(すずき そうさく、1891年(明治24年)9月27日 - 1945年(昭和20年)4月19日)は、日本の陸軍軍人。愛知県出身。陸士24期、陸大31期。 太平洋戦争開戦時、第25軍参謀長としてマレー作戦・シンガポールの戦いに参画、占領後に起きたシンガポール華僑粛清事件に関与した。第35軍司令官であった1945年(昭和20年)4月19日、フィリピン戦線で戦死。没後陸軍大将に進級。1946年(昭和21年)2月15日、祭資並びに幣帛が下賜された。
加藤 五一(かとう ごいち、1891年8月26日 - 198… 加藤 五一(かとう ごいち、1891年8月26日 - 1989年4月9日)は、日本の経営者。三井造船(現在の三井E&S)社長、会長を務めた。愛知県豊田市出身。 1918年に東京帝国大学英法科を卒業。三井物産での勤務を経て、1944年に三井造船に転じ、1946年5月に取締役に就任し、同年12月に常務を経て、1947年5月には社長に就任。1960年5月に会長に就任し、1966年6月には相談役に就任。 日本造船工業会会長、日本原子力事業副社長、経済団体連合会常任理事なども歴任。 1959年にデンマーク・ダンネプログ勲章を受章し、1959年に藍綬褒章を受章し、1965年に勲二等瑞宝章を受章。 1989年4月8日呼吸不全のために死去。
長坂 好子(ながさか よしこ、1891年(明治24年)5月2… 長坂 好子(ながさか よしこ、1891年(明治24年)5月29日 - 1970年(昭和45年)9月30日)は、日本の声楽家(ソプラノ)・音楽教育者。日本の洋楽の黎明期に優れた門下生を数多く育てた。 愛知県名古屋市出身。1914年(大正3年)東京音楽学校(現:東京藝術大学)卒業。三浦環に師事。 1915年(大正4年)下半期だけでも5回の演奏記録があり、同年10月29日に神田青年会館にて「二十世紀社主催 音楽会」に出演。1916年(大正5年)11月16日には「皇后行啓演奏会」にて御前演奏をする。1920年(大正9年)12月3、4日 東京音楽学校第39回定期演奏会、11日 南葵樂堂「ベートーヴェン[生誕]百五十年紀念 音樂會」に出演(指揮:グスタフ・クローン ソプラノ:長坂好子 ピアノ:小倉末子)。
伊東 延吉(いとう えんきち、1891年(明治24年)5月1… 伊東 延吉(いとう えんきち、1891年(明治24年)5月1日 – 1944年(昭和19年)2月7日)は、日本の文部官僚。
石川 謙(いしかわ けん、1891年4月29日 - 1969… 石川 謙(いしかわ けん、1891年4月29日 - 1969年7月12日)は、日本の教育史学者、お茶の水女子大学名誉教授。岡崎女子短期大学初代学長。教育学者の石川松太郎は息子である。日本近世教育史、特に石門心学を研究した。 愛知県西加茂郡挙母町(現・豊田市花園町屋敷)に中川仙太郎の次男として生まれる。1895年、4歳のときに父が死去し、碧海郡依佐美村(現・刈谷市小垣江町)で農業を営む石川松吉の養嗣子となる。1903年、小垣江高等小学校を卒業。1912年、文部省師範学校中学校高等女学校教員検定試験教育科に合格し、1916年(大正15年)には東京高等師範学校の研究科に入学。1920年に渡米し、翌年スタンフォード大学に入学し、カバリー教授の指導を受ける。
加藤 鑰平(かとう やくへい、1891年(明治24年)1月2… 加藤 鑰平(かとう やくへい、1891年(明治24年)1月25日 - 1974年(昭和49年)7月4日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 愛知県出身。竹材商・加藤直八の三男として生まれる。明倫中学校(現愛知県立明和高等学校)卒業を経て、1913年(大正2年)5月、陸軍士官学校(25期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第18連隊付となる。1924年(大正13年)11月、陸軍大学校(36期)を卒業し歩兵第18連隊中隊長に就任。 1925年(大正14年)12月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員を務め、1928年(昭和3年)8月、歩兵少佐に昇進。1929年(昭和4年)2月から1931年(昭和6年)2月までアメリカに駐在し、アメリカ大使館付武官補佐官に就任。
佐藤 泰舜(さとう たいしゅん、1890年12月1日 - 1… 佐藤 泰舜(さとう たいしゅん、1890年12月1日 - 1975年2月28日)は、日本の仏教学者。駒澤大学教授、東洋大学教授、京城帝国大学教授など歴任。永平寺74世貫首、曹洞宗管長。道号は博裔。 愛知県新城市生まれ。1903年得度。1915年曹洞宗大学林(現駒澤大学)卒業。1919年曹洞宗大学図書館主事。1920年東京帝国大学文学部選科に入学。1923年東京帝大文学部印度哲学科を卒業。同校大学院に入学。研究題目「支那仏教思想の発達」。奈良東大寺に留学。1931年欧州留学。帰国後、駒澤大学教授、東洋大学教授に就任。1934年京城帝国大学助教授を経て教授。終戦により曹洞宗京城別院・曹渓寺の引継ぎなど、戦後処理をして引き揚げた。
栗田 元次(くりた もとつぐ、1890年〈明治23年〉11月… 栗田 元次(くりた もとつぐ、1890年〈明治23年〉11月3日 - 1955年〈昭和30年〉12月1日)は、日本の国史学者。名古屋大学名誉教授。旧制第八高等学校校長。専門は日本近世史。 愛知県愛知郡田代村(現・名古屋市千種区)出身。旧制明倫中(現・愛知県立明和高等学校)、旧制八高を経て、1914年に東京帝国大学文学部国史学科卒。 東京帝大史料編纂官補となり、「大日本史料」の編纂に従事。八高教授、広島高等師範学校教授、1929年に広島文理科大学教授、1946年に第八高等学校校長、1949年に名古屋大学教授。1953年に中日文化賞を受賞。 1955年、在官のまま病死。法名は顕学院釈元晃。桃巌寺に葬られた。
服部 有恒(はっとり ありつね、1890年(明治23年)10… 服部 有恒(はっとり ありつね、1890年(明治23年)10月9日 - 1957年(昭和32年)11月24日)は、大正・昭和期の日本画家。愛知県名古屋市出身。東京美術学校(現東京芸術大学)卒業。帝国美術学校(現武蔵野美術大学)教授。主に歴史人物画を得意とした。日展審査員。本名は謙一。
小酒井 不木(こさかい ふぼく、1890年10月8日 - 1… 小酒井 不木(こさかい ふぼく、1890年10月8日 - 1929年4月1日)は、日本の医学者・随筆家・翻訳家・推理作家・犯罪研究家。別名は鳥井零水。 医学者としては生理学・血清学の研究で業績を上げた。また、1921年(大正10年)から8年間に渡って探偵小説などの文筆活動を行った。江戸川乱歩のデビュー作である『二銭銅貨』は、不木が推薦したことで世に出た作品である。医師で順天堂大学名誉教授の小酒井望は長男。 1890年(明治23年)10月8日、愛知県海東郡新蟹江村(現・海部郡蟹江町大字蟹江新田)の地主の家の長男として生まれた。本名は小酒井光次(こさかいみつじ)。父親は小酒井半兵衛であり、村長や郡会議員も務めた人物である。
川村 貞四郎(かわむら ていしろう、1890年(明治23年)… 川村 貞四郎(かわむら ていしろう、1890年(明治23年)7月23日 - 1987年(昭和62年)6月18日)は、日本の内務・警察官僚、実業家。官選山形県知事、東洋インキ製造 (株) 社長。旧姓・古橋。 愛知県北設楽郡出身。大地主・古橋源六郎の三男として生まれ、川村秀豊の養子となる。愛知県立第二中学校(現・愛知県立岡崎高等学校)、日本中学校を経て、第一高等学校を卒業。1914年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1915年(大正4年)5月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。同年6月、内務省に入省し警視庁警部兼内務属となる。 1917年(大正6年)9月、本所太平警察署長に就任。以後、防疫官兼内務書記官・衛生局勤務、内務事務官・警保局保安課勤務、欧米出張(1924年1月)、警視庁書記官・衛生部長、山形県書記官・内務部長、青森県書記官・内務部長などを歴任。
尾崎久彌(おざき きゅうや、1890年6月28日 - 197… 尾崎久彌(おざき きゅうや、1890年6月28日 - 1972年6月2日)は、国文学者。近世文学、浮世絵、書誌学が専門。死後、江戸文学関係書など、約一万点の蔵書が名古屋市の蓬左文庫に寄贈された。 1890(明治23)年6月28日に愛知県名古屋市に生まれる。愛知一中(現在の旭丘高校)に通ったのち、國學院大學へと進学する。このときから文章を書き始める。卒業後は愛知県へと戻り、愛知一中、豊橋中学(現在の時習館高校)などで教鞭をとる。のちに国学院大の講師、東邦高校の教師を勤め、1953年からは名古屋商科大学教授となるなど教育者としても幅広く活動した。晩年は名古屋市文化財調査委員会の委員長も務めている。 教育に尽力した傍ら、創作活動や浮世絵の収集、江戸軟派文学の研究を行っており、特に収集家としての評価は現在でも高い。
杉浦 兼松(すぎうら かねまつ、1890年(明治23年)6月… 杉浦 兼松(すぎうら かねまつ、1890年(明治23年)6月5日 - 1979年(昭和54年)10月21日)は、日本の生化学者である。 アメリカ合衆国のスローン・ケタリングがんセンターで癌の化学療法の分野で働いた。 愛知県津島市禰宜町の染物屋に生まれ、父から剣道を学んだ。父を癌で失い、徒弟奉公にでるが、1903年(明治36年)アメリカの鉄道王、エドワード・ヘンリー・ハリマンが、すでに渡米していた兼松の兄を通訳にともなって来日し、武道の得意な少年を渡米させることになり、最年少のメンバーとして渡米した。アメリカで高校に通い、ハリマンも癌で没すると、未亡人が寄付した資金で設立された研究所でアルバイトしながらコロンビア大学で生化学を学んだ。
大竹 博吉(おおたけ ひろきち、1890年3月8日 - 19… 大竹 博吉(おおたけ ひろきち、1890年3月8日 - 1958年1月22日)は、日本の出版人、ソ連研究家。 愛知県額田郡岡崎町大字康生(現・岡崎市)で人力車夫をしていた大竹岩吉の三男として生まれた。尋常小学連尺学校(現・岡崎市立連尺小学校)1年の時に横浜市に移住。小学校卒業後、印刷工として小僧奉公に出る。文選の技術を習得すると郷里の岡崎に戻り、籠田町の手島喜代三郎の岡崎活版所に就職。文章を認められ、まもなく日刊新聞『新三河』の編集部に抜擢される。「新三河は停雪(大竹の雅号)でもっている」と言われたほど評判を呼んだという。のち上京し、『國民新聞』や『東京日日新聞』、『読売新聞』などで記者を務めた。
古川 為三郎(ふるかわ ためさぶろう、旧字体: 古川 爲三郞… 古川 為三郎(ふるかわ ためさぶろう、旧字体: 古川 爲三郞、1890年(明治23年)1月18日 - 1993年(平成5年)5月19日)は、日本の実業家。愛知県中島郡萩原村(現・一宮市)出身。 約30社からなるヘラルドグループの創業者であり、一代で日本を代表する映画配給会社へと育て上げたほか、映画事業のほかにも手広く事業を行った。「古為」(ふるため)という愛称で親しまれた。 1890年(明治23年)1月18日、愛知県中島郡萩原村(現・一宮市萩原)に生まれた。父は中野清助、母はたきであり、為三郎は五男だった。1893年(明治26年)10月、名古屋市矢場町に住む遠縁の古川己之助の養子となった。 1896年(明治29年)4月には白川尋常高等小学校(現・名古屋市立栄小学校)に入学し、1899年(明治32年)4月には高等科に進んだ。
早川 孝太郎(はやかわ こうたろう、1889年(明治22年)… 早川 孝太郎(はやかわ こうたろう、1889年(明治22年)12月20日 - 1956年(昭和31年)12月23日)は、日本の民俗学者・画家。 愛知県南設楽郡長篠村(現・新城市)出身。画家を志して松岡映丘に師事、映丘の兄柳田國男を知り、民俗学者となる。愛知県奥三河の花祭と呼ばれる神楽を調査し、1930年『花祭』を刊行。農山村民俗の実地調査を行った。
熊沢 寛道(くまざわ ひろみち、1889年〈明治22年〉12… 熊沢 寛道(くまざわ ひろみち、1889年〈明治22年〉12月18日 - 1966年〈昭和41年〉6月11日)は、日本の皇位僭称者。大延天皇、または熊沢天皇(くまざわてんのう)の呼称で知られる。 戦前は皇位や皇族を僭称することは不敬罪として処罰対象であったが、GHQ体制下で取締りが弱くなった戦後の一時期、皇位継承者を自称する者たちが各地に出現し、世間の耳目を集めた。熊沢はこれら「自称天皇」の代表的存在である。 熊沢の主張によれば、熊沢家は熊野宮信雅王に始まる家で、信雅王は応仁の乱の際に「西陣南帝」と呼ばれた人物だとし、その父は南朝の後亀山天皇の孫とされる尊雅王(南天皇)であるとする。また、足利氏から帝位を追われ、応仁の乱の際に西軍の武将だった斯波氏が尾張国守護職をしており、宗良親王の末裔の大橋氏や、楠木氏ら南朝ゆかりの武将が多く住している尾張国時之島(愛知県一宮市)に隠れ住んだと述べている。
大西 英一(おおにし えいいち、1889年〈明治22年〉12… 大西 英一(おおにし えいいち、1889年〈明治22年〉12月7日 - 1955年〈昭和30年〉12月16日)は、日本の土木技術者、実業家。工学博士。第4代日本発送電総裁や初代電力中央研究所理事長、第39代土木学会会長を務めた。 福井県で鉄道官吏の子として生まれる。愛知県第一中学校(現愛知県立旭丘高等学校)を経て、1912年(明治45年/大正元年)名古屋高等工業学校(現名古屋工業大学)土木科卒業。鉄道院を経て、1914年神通川電力入社。中学・高工の先輩石川栄次郎の誘いを受け矢作水力に移り、1940年(昭和15年)取締役に昇格。 1942年日本発送電入社。1945年日本発送電理事。1947年日本発送電総裁。
石田 天海(いしだ てんかい、1889年〈明治22年〉12月… 石田 天海(いしだ てんかい、1889年〈明治22年〉12月1日 - 1972年〈昭和47年〉6月6日)は、日本の奇術師。本名は石田 貞次郎。愛知県名古屋市出身。アメリカで活躍したマジシャンの一人であり、特にスライハンドマジックで評価を得た。 1889年(明治22年)12月1日名古屋市弥宜町に髪床屋・石田林之助の三男として生まれる。小学生の時、お化けの見世物を見て興味を持ち、仕掛け「幻茶屋」を自分で作った。18歳の時、上京して楽士(活動写真の音楽家)となったが、兵役で名古屋に戻る。22歳の時、明治天皇の前で手品を披露した。 1922年33歳で再び上京、一時松旭斎天洋一座に入るが、乞われて当時大人気を誇った松旭斎天勝一座に参加する。