松谷 彊(まつや つとむ、1908年10月26日 - 198… 松谷 彊(まつや つとむ、1908年10月26日 - 1987年)は、日本の美術評論家である。 京都府宮津市出身。東京帝国大学卒業。南画鑑賞会に勤務しながら美術評論をはじめる。戦後はソビエト美術に関して造詣を深め、『ソヴェト美術論』(1957年)などの著書がある。1964年、東京造形大学の教授に就任、1979年までその任にあった。日本美術会の会員でもあった。 永井潔は、松谷の著書『現代美術論』(新日本出版社、1986年)の帯で、「美術にとり憑かれたかのような労を惜しまぬ鑑賞と探求」と、松谷の仕事を評価している。 『現代美術論』(ISBN 4-406-01360-1)の作者略歴と作品解題 この項目は、美術・芸術に関連した書きかけの項目です。
上村 悦子(うえむら えつこ、1908年10月11日 - 1… 上村 悦子(うえむら えつこ、1908年10月11日 - 1999年2月12日)は、日本の国文学者。専門は王朝女流文学、特に『蜻蛉日記』。日本女子大学名誉教授。 京都市生まれ。1933年日本女子大学校大学本科文学科国文学部卒業。1943年日本女子大学校国文学部教員。1948年日本女子大学専任講師、1949年助教授、1958年教授。1964年「蜻蛉日記 校本・書入・諸本の研究」で名古屋大学文学博士。1977年日本女子大を定年退職、名誉教授、東洋女子短期大学教授、図書館長。1986年教授職を退職し、翌年東洋女子短期大学を退職。1982年勲四等宝冠章。没後、従五位を贈られた。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。
井嶋 勉(いじま つとむ、1908年6月5日 - 1978年… 井嶋 勉(いじま つとむ、1908年6月5日 - 1978年5月12日)は、日本の美学者、京都大学名誉教授。井島 勉とも表記。専門は西洋芸術哲学・芸術史。兄は元大阪高等検察庁検事長の井嶋磐根(wikidata)であり、兄・磐根の子である元最高裁判所判事の井嶋一友は甥にあたる。 京都市上京区出身。京都府師範学校附属小学校、京都府立第一中学校、第三高等学校を経て1932年京都帝国大学文学部哲学科卒。1947年「藝術の創造と歴史」で京都大学文学博士。1943年京都大学文学部美学美術史助教授、1947年同教授。 1951年に日本美術教育学会を設立し、没するまで会長を務めた。1968年 - 1969年、京都大学文学部長。
岡本 理一(おかもと りいち、1908年4月6日 - 199… 岡本 理一(おかもと りいち、1908年4月6日 - 1992年12月2日)は、日本の経営学者・商学者。専門は、中小企業経営論。元・旭川大学学長。元・札幌大学学長。小樽商科大学名誉教授。 京都府亀岡市出身。桃山中学校(旧制)(現・桃山学院中学校・高等学校)卒業。1932年関西大学第二部商科卒業。1936年(昭和11年)神戸商業大学卒業。その後、小樽高等商業学校講師を経て、1940年(昭和15年)小樽高等商業学校教授。1951年(昭和26年)小樽商科大学商学部教授。1970年(昭和45年)小樽商科大学停年退官。同名誉教授。札幌大学学長代行代理。1971年札幌大学学長。1974年札幌大学学長を退任。
松田 文雄(まつだ ふみお、1908年3月9日 - 1971… 松田 文雄(まつだ ふみお、1908年3月9日 - 1971年7月9日)は、日本の洋画家。一水会会員。
桝 嘉一(ます かいち、1908年3月8日 - 1981年1… 桝 嘉一(ます かいち、1908年3月8日 - 1981年12月18日[要出典])は、京都府京都市出身のプロ野球選手(外野手)・監督。 元はテニス選手で旧制同志社中学校、同志社高等商業学校を経て、明治大学に進む。東京六大学リーグ通算88試合出場、296打数70安打、打率.236、0本塁打、34打点。1936年に名古屋軍に入団。 1937年と1943年には監督 、1941年から1942年までは助監督も務めた(すべて選手兼任)。1944年は監督業を三宅大輔に譲って選手専任となるが、出場機会は無く、同年限りで現役引退。戦後、一時期審判員を務め、その後、社会人日本鋼管の野球部監督に就任(プロ野球人名事典1999)し、1981年12月18日、死去。
宮川 一夫(みやがわ かずお、1908年2月25日 - 19… 宮川 一夫(みやがわ かずお、1908年2月25日 - 1999年8月7日)は日本映画界を代表する映画カメラマンである。主に京都太秦、大映映画の時代劇における陰影ある斬新な撮影で稲垣浩、溝口健二や黒澤明らが監督する作品のカメラマンとして世界に知られる。本名:宮川 一雄。 京都市河原町御池生まれ。マキノ雅弘は小学校での同級生。 少年時代、墨絵を習っていて墨汁の白黒だけで色を使わせてもらえない事が不満だったと自伝で明かしているが、それが逆に白黒映画撮影時の表現に役立った。 京都商業学校(現・京都先端科学大学附属高等学校)を卒業後、18歳で日活京都へ現像部助手として入社。約3年程を見習いとして修行する。
木村 象雷(きむら しょうらい、1908年(明治41年)2月… 木村 象雷(きむら しょうらい、1908年(明治41年)2月7日 - 1986年(昭和61年)1月26日)は、昭和時代の競泳選手、スポーツジャーナリスト。選手としては1928年アムステルダムオリンピックに出場。ジャーナリストとしては第二次世界大戦をまたいでオリンピック5大会の取材に当たり、『サンケイスポーツ』の創刊に携わった。 岡山県美作地方(現在の勝田郡勝央町)出身。おじに文学者の木村毅がいる。 京都市の同志社中学(現在の同志社中学校・高等学校)に学ぶ。水泳は大日本武徳会遊泳部(のちの京都踏水会)で習得したという。 早稲田大学に入学。大学在学中、1928年アムステルダムオリンピックに競泳日本代表として男子100m背泳ぎに出場したが予選落ちに終わった。
三宅 喜二郎(みやけ きじろう、1908年1月27日 - 2… 三宅 喜二郎(みやけ きじろう、1908年1月27日 - 2001年8月27日)は、日本の外交官。駐チェコスロヴァキア特命全権大使や、外務省研修所長、駐スウェーデン特命全権大使などを務めた。 京都市出身。1930年高等試験行政科合格。1931年に東京商科大学(現一橋大学)本科卒業後、研究科で経済学及び法学を研究した。1934年高等試験外交科合格。同年外務省入省、在英国外務書記生。1935年在英国外交官補。1937年在シドニー領事館補。1939年外務省欧亜局第三課外務事務官。1940年外務省南洋局第一課外務事務官。 1946年外務省調査局第一課長。1949年外務大臣官房文書課長、国立国会図書館支部外務省図書館長、司法試験考査委員。
瀬野 修(せの おさむ、1908年 - 1995年)は、日本… 瀬野 修(せの おさむ、1908年 - 1995年)は、日本の教師、兵士、歌人、作家。択捉島に出征後、敗戦後シベリアにて抑留中に和歌集『白樺日誌』を書き、日本に持ち帰ったことで知られる。基本的に名前は「修」表記であるが、国立情報学研究所では「脩」表記である。 1908年、京都府舞鶴市に生まれる。その後、旧制舞鶴中学校(現・京都府立西舞鶴高等学校)の教師として働いたのち、太平洋戦争において択捉島に兵士として出征後、終戦を迎え抑留される。ソ連コムソモリスク近郊の収容所を転々としながらシラカバの木の皮を使い、ガラスをとがらせペンに、煙突のすすをインク代わりにし全200-300首の和歌を書いた。 1947年に引き揚げされた時に白樺日誌を持ち帰り、1988年に舞鶴引揚記念館に『白樺日誌』を寄贈した。
奥田 久司(おくだ ひさし、1908年(明治41年) - 1… 奥田 久司(おくだ ひさし、1908年(明治41年) - 1987年(昭和62年)9月10日)は日本の映画プロデューサー、映画史研究家。 1908年(大正15年)生まれ。旧制京都一中を卒業後、映画界か小説家か進路に迷った末に、早稲田大学ロシア文学科に入学。 1934年(昭和9年)、早大を病気で中退し、銀座にあった映画の通信社の「日本演芸通信社」に入社。デスクを務め、7年間在籍する。 1941年(昭和16年)、映画界への夢をあきらめられず、友人の紹介で北京の国策映画撮影所「華化映画」に入所。 1944年(昭和19年)、「大日本映画製作株式会社」に入社。監督志望だったが、企画部に配属となる。 1945年(昭和20年)、日本敗戦。
西村 孝次(にしむら こうじ、1907年11月17日 - 2… 西村 孝次(にしむら こうじ、1907年11月17日 - 2004年6月29日)は、日本の英文学者、文芸評論家、翻訳家。元明治大学教授。 小林秀雄の従弟。弟の西村貞二は西洋史学者で東北大学教授を務めた。孫は元プロサッカー選手の西村卓朗。 京都市で約400年続いた仏書店で西村重右衛門(第十三代)の長男に生まれる。家業を継ぐはずだったが1923年に店が破産。進路に迷っていた時、京都へ来た小林秀雄から文学の道を勧められる。1925年京都府立第一商業学校卒、1929年関西学院英文科卒、学費のため一年半ゼネラルモーターズに勤め、1934年東北帝国大学法文学部英文科卒、創元社の原稿閲読者などを務める。1939年夏に、中村光夫、吉田健一、山本健吉、伊藤信吉らと同人誌『批評』(を創刊、英文学の翻訳、文芸評論などを寄稿。
澤村 義夫(さわむら よしお、1907年10月12日 - 1… 澤村 義夫(さわむら よしお、1907年10月12日 - 1970年8月10日)は、日本の実業家。関西テレビ放送元社長。 京都府京都市出身。1929年に慶應義塾大学文学部を卒業。大阪新聞社と大阪時事新報社で編集局長を務め、1959年2月に産業経済新聞社副社長を経て、1958年2月に設立された関西テレビ放送の専務に就任し、社長の小林米三と共に経営の陣頭指揮を執った。1969年2月に小林米三の急逝により、社長に就任した。日本民間放送連盟副会長も務めた。日本万国博覧会の開催に尽力を尽すために、数多くの万博関連番組、関連事業を推進したが、1970年8月10日亜急性黄色肝萎縮のために堺市内の病院で死去。62歳没。
江崎 一治(えさき かずはる、1907年10月1日 - 19… 江崎 一治(えさき かずはる、1907年10月1日 - 1972年7月11日)は日本の会社経営者、政治家。 衆議院議員(日本共産党公認)を1期務めた。株式会社丹羽鉄鋼相談役。 京都府京都市出身。早稲田大学理工学部電気工学科を1933年に卒業後、1938年日本電気玉川向工場に入社。大津工場第2検査課長などを歴任したが、1946年に日本共産党へ入党したのを機に同党滋賀県委員や日本電気労働組合大津分会執行委員を務めた。しかしレッドパージに伴い同社を解雇されると、大阪府内で会社を経営。1949年の第24回衆議院議員総選挙で滋賀県全県区から出馬し初当選、滋賀県初の共産党国会議員となった。当選1回。 1972年7月11日、肝硬変のため神奈川県川崎市中原区の日本医科大学付属第二病院にて死去。
山嵜 義三郎 (やまさき よしさぶろう、1907年 <明治4… 山嵜 義三郎 (やまさき よしさぶろう、1907年 <明治40年> 9月3日 - 2007年 <平成19年> 6月28日)は、日本の社会政策学者。神戸大学名誉教授。 京都市生まれ。1925年京都市立第一商業学校(現京都市立西京高等学校)卒業。1915年神戸高等商業学校(現神戸大学)卒業。八木助市に師事し、ヘンリー・ジョージなどの土地制度論の研究を行った。 1932年神戸商業大学(現神戸大学)卒業。1936年同大学研究科修了。1937年大連高等商業学校教授。1948年神戸経済大学附属経営学専門部教授。1951年神戸大学経済学部助教授。1953年神戸大学経済学部教授。1962年経済学博士。1965年神戸大学経済学部長。
西 貞一(にし ていいち、1907年8月31日 - 2001… 西 貞一(にし ていいち、1907年8月31日 - 2001年2月3日)は、日本の陸上競技選手(短距離走)、実業家。同志社大学在学中の1932年、ロサンゼルスオリンピックに200m走と4×400mリレーで出場。日本陸上競技選手権大会の400m走で優勝3回。第二次世界大戦後に、陸上競技用具等のメーカーであるニシ・スポーツを創業した。 京都市生まれ。京都市立第二商業学校卒業後、同志社大学に進学。 同志社大学在学中、1929年(昭和4年)に日本陸上競技選手権大会の400m走で優勝(51秒4)。1931年(昭和6年)には日本陸上競技選手権大会400m走で2度目の優勝(50秒2)。 1932年ロサンゼルスオリンピックの日本代表に選ばれ、男子200メートル走と男子4×400mリレーに出場した。
藤林 益三(ふじばやし えきぞう、1907年〈明治40年〉8… 藤林 益三(ふじばやし えきぞう、1907年〈明治40年〉8月26日 - 2007年〈平成19年〉4月24日)は、日本の弁護士(第一東京弁護士会所属)、裁判官。第7代最高裁判所長官。夫人は明治の文豪、巖谷小波の末娘。 企業法務の弁護士として活躍した後に最高裁判事となり、その後最高裁長官となる。現在に至るも、唯一の「弁護士出身の最高裁長官」であり、68歳9ヶ月での最高裁長官就任は歴代最高齢である。熱心な「無教会主義キリスト教」の信徒であり、毎週日曜に聖書研究会を続けていた。その信仰は、いわゆる「津地鎮祭訴訟」判決における、異例の「長官の反対意見・補足反対意見」(津市による地鎮祭主催は政教分離を定める憲法違反との立場。
千家 啠麿(せんげ てつまろ、1907年〈明治40年〉8月1… 千家 啠麿(せんげ てつまろ、1907年〈明治40年〉8月19日 - 1995年〈平成7年〉10月24日)は、日本の国立公園事業に尽力した造園家、国立公園行政官、観光行政官。国立公園制定や自然保護のほか、観光政策審議会や日本観光協会、日本レクリエーション協会など、各種審議会委員や団体理事等歴任。アメリカ合衆国シエラクラブ名誉会員、日本造園学会名誉会員。島根県生まれ。千家忠の養子。 千家尊福(男爵、東京府知事として水源林の拡充整備など尽力)の6男に生まれ、のち千家忠の養子。旧制大社中学校(現・島根県立大社高等学校)、途中から旧制京都二中(現・京都府立鳥羽高等学校)、旧制松江高等学校を経て東京帝国大学農学部林学科に進学。
織田 武雄(おだ たけお、1907年6月29日 - 2006… 織田 武雄(おだ たけお、1907年6月29日 - 2006年10月18日)は、日本の地理学者(人文地理学)。京都大学名誉教授。 1907年、京都府京都市生まれ。京都府立一中、七高を経て、1929年に京都帝国大学文学部に進学。地理学を専攻し、1932年に同大学文学部を卒業。 卒業後は、龍谷大学予科、関西学院高等商業学校、立命館大学講師を務めた。1940年、関西学院高等商業学校教授に就任。 1946年4月、立命館大学文学部教授に就任。しかし、翌1947年3月に母校である京都大学文学部助教授に転じた。これは、戦中京都大学地理学教室は地政学研究に走ったため、戦後全ての教官が辞任することとなったためであった。
樋上 新一(ひがみ しんいち、1907年6月25日 - 19… 樋上 新一(ひがみ しんいち、1907年6月25日 - 1980年1月7日)は、日本の政治家。元衆議院議員(2期)。 1907年(明治40年)6月25日に生まれる。京都市立商工専修学校(後の京都市立堀川高等学校専修夜間部)卒業。 1963年に京都市議会議員選挙に立候補し当選、1期務める。 1967年1月29日、第31回衆議院議員総選挙に、京都1区から公明党公認候補として立候補し、初当選する(以降、連続2期)。 1972年12月、第33回衆議院議員総選挙に落選。選挙地盤を公明党の竹内勝彦に譲り、政界から引退する。 1980年1月7日、死去。72歳没。同月11日、特旨を以て位記を追賜され、死没日付で正五位勲三等に叙され、旭日中綬章を追贈された。
出口 神暁(でぐち しんぎょう 1907年5月30日 – 1… 出口 神暁(でぐち しんぎょう 1907年5月30日 – 1985年3月9日)は、日本の蔵書家、郷土史家。 岸和田市の称名寺の長男として生まれる。平安中学校卒業。岸和田市役所書記等を勤めたのち、1947年、称名寺住職を継ぐ。市役所勤務のころから、郷土資料の収集・研究を行い、のちに反町茂雄から「異常に熱心な郷土資料の蒐集家」と評された。1943年4月に蔵書をもとに鬼洞文庫を設立。蔵書は、現在は関西大学図書館や大阪歴史博物館などに収められている。1949年には和泉文化研究会を設立し、機関誌として『流木』(のち『和泉志』と改題)を創刊し、また和泉文化研究会図書館の館長も務めた。その他に「鬼洞叢書」や「和泉史料叢書」として史料集の編纂刊行を行った。
島田 一男(しまだ かずお、1907年5月15日 - 199… 島田 一男(しまだ かずお、1907年5月15日 - 1996年6月16日)は日本の小説家、脚本家。 京都府京都市出身。明治大学中退。1931年に「満洲日報」に入社し新聞記者となり、敗戦までの約15年間をほぼ従軍記者として過ごす。終戦後は同社の社員たちと「大陸情報通信社」を設立、在満邦人の引揚げ運動に尽力する傍ら執筆活動を続けた。 1946年に短編「殺人演出」が雑誌「宝石」の第1回短編懸賞に入選し、翌年掲載される。 デビュー当初は『古墳殺人事件』や『錦絵殺人事件』のような衒学的な本格推理を得意としていたが、1949年からは自身の経験を生かした新聞記者ものの推理小説を書き始め、1951年に短編「社会部記者」(別題「午前零時の出獄」)「遊軍記者」、「新聞記者」、「風船魔」で第4回探偵作家クラブ賞を受賞する。
大塚 久雄(おおつか ひさお、1907年〈明治40年〉5月3… 大塚 久雄(おおつか ひさお、1907年〈明治40年〉5月3日 - 1996年〈平成8年〉7月9日)は、日本の経済史学者。東京大学名誉教授。専攻は英国経済史で、西洋諸国における近代資本主義、近代市民社会の研究で知られ、マックス・ウェーバーの社会学とカール・マルクスの唯物史観論の方法を用いて構築した大塚史学は国際的評価を受けた。 高柳暁と井手久登は娘婿。 1907年京都府生まれ。京都府立京都第一中学校(現・京都府立洛北高等学校・附属中学校)卒業後、旧制第三高等学校入学。このとき、片足を負傷し、後に切断することになる。1930年、東京帝国大学経済学部卒業。大学時代は本位田祥男や内村鑑三に師事した。法政大学非常勤講師(1933年)、同大助教授(1935年)、同大教授(1938年)、東京帝大経済学部助教授(1939年)を経て、1947年同大学教授、1968年から同大学名誉教授。
星 英府(ほし えいふ、1907年3月 - 没年不詳)は、日… 星 英府(ほし えいふ、1907年3月 - 没年不詳)は、日本の俳優である。本名は川上 英男(かわかみ ひでお)。マキノ・プロダクションの主要人物の一人である。 1907年(明治40年)3月、神奈川県横浜市北方町(現在の同県中区同町)に生まれる。 京都市立工業学校(現在の京都市立洛陽工業高等学校)を卒業後、貿易商社に入るが、1926年(大正15年)7月、マキノ・プロダクションへ入社する。同年8月27日公開の曽根純三監督映画『砕かれた人形』で映画デビューを果たし、金が有り余るという男役を演じた。以後、マキノの中堅俳優として多数の作品に出演した。翌々年1928年(昭和3年)に発行された『日本映画俳優名鑑 昭和四年版』(映画世界社)など一部の資料によれば、京都府葛野郡花園村天授ヶ丘(現在の同府京都市右京区花園天授ヶ岡町、マキノ・プロダクション内)、京都府京都市一条通大将軍坂田町7番地(現在の同府同市北区大将軍坂田町)と転々と住み、趣味は絵描き、ダンス、散歩であり、洋酒と外国煙草が嗜好であるという。
大槻 丈夫(おおつき たけお、1907年2月11日 - 19… 大槻 丈夫(おおつき たけお、1907年2月11日 - 1978年2月24日)は、日本の経営者。近畿日本ツーリスト社長を務めた。 京都府綾部市出身。1929年に高文行政科に合格し、1930年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、同年に鉄道省に入省。興亜院、運輸省での勤務を経て、1950年12月に国鉄理事に就任し、1956年3月までに務めた。 1962年11月に近畿日本鉄道専務に就任し、1968年5月に副社長を経て、1973年11月に常任監査役に就任。1976年1月には近畿日本ツーリスト社長に就任した。 1978年2月24日、肺腫瘍のために死去。71歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
湯川 秀樹(ゆかわ ひでき、1907年〈明治40年〉1月23… 湯川 秀樹(ゆかわ ひでき、1907年〈明治40年〉1月23日 - 1981年〈昭和56年〉9月8日)は、日本の理論物理学者。京都大学・大阪大学名誉教授。学位は理学博士(大阪帝国大学・1938年)。位階は従二位。勲等は勲一等旭日大綬章。 京都府京都市出身。京都帝国大学理学部物理学科卒。大阪帝国大学にて学位取得。原子核内部において、陽子や中性子を互いに結合させる強い相互作用の媒介となる中間子の存在を1935年に理論的に予言した。1947年、イギリスの物理学者セシル・パウエルが宇宙線の中からパイ中間子を発見したことにより、湯川の理論の正しさが証明され、これにより1949年(昭和24年)、日本人として初めてノーベル賞を受賞した。
真下 三郎(ましも さぶろう、1907年1月15日 - 20… 真下 三郎(ましも さぶろう、1907年1月15日 - 2007年3月7日)は、日本の国語学者、広島大学名誉教授。専攻は近世文学・国語学。女性語について研究した。 京都府京都市出身。1933年、東京帝国大学国語国文学科卒。広島文理科大学助教授、広島大学教授。1971年、定年退官、名誉教授、甲南女子大学教授。 2007年3月7日、慢性腎不全のため死去。100歳没。 真下は多彩な文献から多くの用例を収集し、そこから言語体系を抽出するよりも、個々の用例そのものを検討した。言語体系の抽出が現代言語学の要件だとすれば、一見すると真下は古いタイプの国語学者のように思えるが、そもそも真下が研究活動に従事していた当時は、ソシュールを批判した時枝誠記の言語過程説が強い影響力を持っていた時期でもあることから、真下が体系の抽出ではなく個々の用例に目を向けたのは、差異や体系に言語の本質を求めるソシュールへの批判が込められていたとされる。
真野 春美(まの はるみ、1907年1月12日 - 没年不明… 真野 春美(まの はるみ、1907年1月12日 - 没年不明)は、京都府出身のプロ野球選手(二塁手,遊撃手)、パシフィック・リーグ審判員。
内藤 良一(ないとう りょういち、1906年12月26日 -… 内藤 良一(ないとう りょういち、1906年12月26日 - 1982年7月7日)は、日本の軍医。1950年、日本ブラッドバンク(後のミドリ十字)を創業。医学博士。 京都府綾部町出身。茨木中学校、旧制三高を経て、1927年(昭和2年)京都帝国大学医学部に入学し、1931年(昭和6年)に卒業。1936年(昭和11年)に京大大学院を卒業。「バクテリオファージ研究補遺」で医学博士となる。 1937年(昭和12年)からヨーロッパ、アメリカでの研究、情報収集を行った後、陸軍軍医学校防疫研究室の責任者として、731部隊が主導した細菌兵器の開発・研究や人体実験にも関わったとされる。帰国後、東京・戸山の陸軍軍医学校で終戦まで軍医教官として勤務した。
杉山 信三(すぎやま のぶぞう、1906年11月30日 - … 杉山 信三(すぎやま のぶぞう、1906年11月30日 - 1997年12月28日)は、昭和・平成期の日本史研究者である。 京都市埋蔵文化財研究所所長や、近畿大学理工学部教授を務めた。 京都府京都市下京区にて生まれる。ただし少年時代を過ごしたのは聖護院近く(現在の左京区)であった。 京都市立美術工芸学校(現・京都市立美術工芸高等学校)を経て、1929年(昭和4年)に京都高等工芸学校図案科を卒業する。 学校卒業後は京都府庁古社寺修理技手、法隆寺国宝保存工事事務所技手(1934年 - 1935年)、朝鮮総督府技手(1935年 - 1945年)、京都帝国大学→京都大学工学部助手(1945年 - 1952年)を経て、1953年より奈良国立文化財研究所勤務となる。
真下 信一(ました しんいち、1906年10月24日 - 1… 真下 信一(ました しんいち、1906年10月24日 - 1985年2月9日)は、日本の哲学者。名古屋大学名誉教授。 京都府福知山市生まれ。京都府立一中、第三高等学校から京都帝国大学文学部哲学科に学ぶ。中学の同期には湯川秀樹がいた。三高時代には武田麟太郎と親交を結んだ。大学の同窓には戸坂潤がいた。大学院に進学、1933年の滝川事件のときには院生代表として活動する。院修了後は同志社大学勤務、のち教授。1935年中井正一らと雑誌『世界文化』を創刊、反ファシズムの立場で活動したが、1937年11月、新村猛らとともに治安維持法違反の容疑で検挙された。 戦後は、民主主義科学者協会に所属しながら唯物論哲学の立場で発言、名古屋大学助教授、教授。
金田 繁(かねだ しげる、1906年10月20日 - 196… 金田 繁(かねだ しげる、1906年10月20日 - 1966年3月15日)は、日本の映画監督、脚本家。 1906年(明治39年)、京都府京都市下京区に生まれる。妹・みねは、のちに東亜キネマの助監督時代に金田が師事した広瀬五郎の妻となった。 旧制・京都市立第一商業学校(現:京都市立西京高等学校・附属中学校)を卒業し、東亜キネマ等持院撮影所助監督部に入社した。仁科熊彦、広瀬五郎の作品におもに助監督として就いた。同社は1931年(昭和6年)に製作部門が崩壊し、同社が新設した東活映画社に移り、同年12月5日に公開されたサイレント映画『閃影双刃録』で、満25歳で監督に昇進した。同社は翌1932年(昭和7年)10月に解散しており、同社が製作し、金田が大伴麟三と共同で監督したサイレント映画『決戦荒神山』は、同年12月31日、新設の宝塚キネマ興行が配給して公開された。
大槻 武二(おおつき たけじ、1906年6月26日 - 20… 大槻 武二(おおつき たけじ、1906年6月26日 - 2004年9月10日)は、日本のキリスト教伝道者。福音主義信仰を基軸にし、聖イエス会を創立した。 1936年、日本ホーリネス教会 (きよめ教会) の伝道師であった大槻武二は奉天 (後の瀋陽市、当時関東軍の拠点の一つ) での開拓伝道の任命を受け、奉天聖潔教会に赴任。1938年1月9日、鮮明な聖霊のバプテスマを体験し、キリストの内住を確信するに至る。以降、大槻の祈りによって活発に聖書に書かれているような神癒 (病の癒し) が起こるようになった 。1942年日本に帰国し各地のキリスト教会から招聘を受け巡回伝道を続けたが、1946年聖霊の導きにより聖イエス会を創立。
権 泰夏(クォン・テハ、ごん たいか、1906年6月2日 -… 権 泰夏(クォン・テハ、ごん たいか、1906年6月2日 - 1971年10月10日)は、朝鮮半島出身の陸上競技選手。1932年ロサンゼルスオリンピック 男子マラソン代表。明治大学卒業。ロサンゼルスオリンピック当時、朝鮮半島は日本に併合されていたため、6位に入賞した金恩培と共に日本代表として出場した。 忠清道の清州出身。裕福な家の出身で、京城(現:ソウル)にある徽文高等普通学校(内地の中学校に該当)に入学したが中退し、内地の立命館中学校に留学、卒業後明治大学法学部に入学した。明治大学時代は1927年からは毎年箱根駅伝に出場。4区を走った1928年と7区を走った1930年には区間新記録で区間賞を獲得している。
谷口 知平(たにぐち ともへい、1906年4月19日 - 1… 谷口 知平(たにぐち ともへい、1906年4月19日 - 1989年11月8日)は、日本の法学者(民法)。大阪市立大学名誉教授。法学博士(京都大学・論文博士・1949年)(博士論文「不当利得の研究」)。日本学士院会員。京都府出身。末川博門下。 京都市下京区木屋町仏光寺で誕生、山紫水明処の隣の屋敷で育つ。幼少時、祇園祭の長刀鉾の稚児を3年間務めた。民事訴訟法学者である谷口安平は知平の次男、裁判官の谷口安史は孫に当たる。 京都府立京都第一中学(現:京都府立洛北高等学校・附属中学校)を4年間を通して首席で卒業、三高へ進学。京都帝国大学においても当時は18課目を履修すれば卒業できるところ40課目を履修し、さらに平均点首位で卒業した。
工藤 信一良(くどう しんいちろう、1906年4月17日 -… 工藤 信一良(くどう しんいちろう、1906年4月17日 - 1981年7月23日)は、日本の実業家、パシフィック・リーグ元会長。京都府京都市出身。 1939年に京都帝国大学英文学科を卒業し、毎日新聞社に入社した。取締役、東京本社編集局長、副社長を歴任した後に、1968年1月には、相談役を務めた。1949年の大リーグのサンフランシスコ・シールズの招聘と毎日オリオンズの創設に尽力した。 1974年から1978年までにNHK経営委員会委員長を務め、1978年10月1日からパシフィック・リーグ会長に就任し、エキサイティング・リーグ「パ」のキャンペーンを繰り広げるなど、パ・リーグの観客動員の増加に力を入れた。
朝永 振一郎(ともなが しんいちろう、1906年(明治39年… 朝永 振一郎(ともなが しんいちろう、1906年(明治39年)3月31日 - 1979年(昭和54年)7月8日)は、日本の理論物理学者。東京教育大学名誉教授。学位は理学博士(東京帝国大学・1939年)。位階は従二位。 京都帝国大学理学部物理学科卒。東京帝国大学にて博士号取得。相対論的に共変でなかった場の量子論を超多時間論で共変な形にして場の演算子を形成し、場の量子論を一新した。超多時間論を基に繰り込み理論の手法を発明、量子電磁力学の発展に寄与した功績によりノーベル物理学賞を受賞した。東京生まれで、少年時代以降は京都育ち。なお、朝永家自体は長崎県の出身。武蔵野市名誉市民。 1906年、東京市小石川区小日向三軒町(現:文京区小日向)に、父・朝永三十郎(祖父は肥前大村藩の重臣であった朝長氏)と母(埼玉県出身)の第二子(2男2女)で出生。
榎園 喜徳(えのきぞの よしのり、1906年(明治39年)2… 榎園 喜徳(えのきぞの よしのり、1906年(明治39年)2月22日 - 1969年(昭和44年)12月25日)は、日本の法学者。元八幡大学教授(労働法)。福岡県八幡市出身。 福岡県立小倉中学校卒業後、八幡製鐵入社。1925年(大正14年)八幡製鐵退社後、法政大学予科入学、フランス文学専攻。父親死去のため中退し帰郷。再度八幡製鐵入社。その後九州法学校(後の九州国際大学)入学。大澤章、宇賀田順三に師事。1933年(昭和8年)在学中に高等文官行政科試験合格。1934年(昭和9年)九州法学校卒業。1942年(昭和17年)、朝鮮の兼二浦製鉄所労務課長に就任。1946年(昭和21年)帰国後、戸畑専門学校奉職。
小谷 正雄(こたに まさお、1906年1月14日 - 199… 小谷 正雄(こたに まさお、1906年1月14日 - 1993年6月6日)は、日本の分子物理学者、生物物理学者。理学博士。東京大学・東京理科大学名誉教授、東京理科大学元学長。京都府京都市生まれ。明仁上皇の教育係を務めた。 田艇吉の二男哲と、柏原銀行頭取や柏原町長を務めた小谷保太郎の長女ふきの子として生まれる。父が小谷家に婿養子に入ったため、小谷姓を名乗った。 1929年に東京帝国大学理科大学物理学科を卒業。卒業後は、東京帝国大学工学部講師、理学部助教授、後に教授昇進。東京大学理学部長、大阪大学基礎工学部教授をつとめた。また京都大学でも教鞭をとり、京都大学兼任教授も務めた。 1960年に日本生物物理学会を創設。
柴田 實(しばた みのる、1906年1月11日 - 1997… 柴田 實(しばた みのる、1906年1月11日 - 1997年3月16日)は、日本の歴史学者。京都大学名誉教授。 1906年、京都市下京区で生まれた。京都府立第一中学校を経て、第三高等学校に進学。1925年に卒業し、京都帝国大学文学部史学科に入学。三浦周行、西田直二郎の指導を受け、1930年に卒業。 1930年、京都帝国大学文学部副手に採用された。1932年に助手昇格。 1946年に助教授昇格。1950年、京都大学分校(後の教養部)教授に昇格。1963年から1965年まで京都大学教養部長をつとめた。1969年3月に京都大学を定年退官し、名誉教授となった。同1969年4月より関西大学文学部教授。1970年からは財団法人元興寺仏教民俗資料研究所人文科学室長をつとめた。
田中 伊三次(たなか いさじ、1906年〈明治39年〉1月3… 田中 伊三次(たなか いさじ、1906年〈明治39年〉1月3日 - 1987年〈昭和62年〉4月11日)は、日本の政治家、弁護士。衆議院議員(15期)。位階は正三位、勲章は勲一等旭日大綬章。 衆議院副議長(第44代)、法務大臣(第22・23・31代)、自治庁長官(第7・8代)等を歴任した。 兵庫県にて田中宗吉の二男として生まれる。家が貧しく、17歳の時に郷里の兵庫県姫路の在からナマ米をかじりながら鉄道線路を歩いて大阪に出る。新聞配達、めし屋の注文取りなどをしながら貯めた金で汽車に乗り、京都に移る。 立命館中学、府立第二中学校、京都予備学校(のちの京都商業)を経て、立命館大学に入学した。1931年、高等文官試験に合格。
前尾 繁三郎(まえお しげさぶろう、1905年12月10日 … 前尾 繁三郎(まえお しげさぶろう、1905年12月10日 - 1981年7月23日)は、日本の政治家、官僚。宏池会第二代会長。第58代衆議院議長。
中村 綗(なかむら けい、1905年〈明治38年〉9月10日… 中村 綗(なかむら けい、1905年〈明治38年〉9月10日 - 没年不詳)は、日本の都市計画家。建築行政家。建築家。建築行政と都市計画に広く関わった人物。日本国内の都市や建築の他、戦前期は台湾で活躍し、戦後は関西方面で活動する。京都市生まれ。 1928年(昭和3年)、京都帝国大学工学部建築学科卒業。同年に警視庁建築技師。1933年(昭和8年)から、都市計画地方委員会の技師として、愛知県に赴任。 1937年(昭和12年)から台湾に赴任。同地の都市計画令施行を受け、台湾総督府土木局都市計画技師に就任。2年前から台湾に赴任していた京都帝大の先輩である内務局土木系技師の早川透とともに、都市計画事業にまい進する。
奥田 東(おくだ あずま、1905年(明治38年)8月19日… 奥田 東(おくだ あずま、1905年(明治38年)8月19日 - 1999年(平成11年)4月28日)は日本の農学者。京都大学総長、日本WHO協会理事長、ユネスコ国内委員などを務めた。位階は正三位。 1905年8月19日に奈良県畝傍で教師・奥田清の長男として生まれる。なお、戸籍は京都府熊野郡久美浜町(現:京丹後市)。父親の転勤に伴い広島県福山市に移り、福山南小学校に入学。その後さらに転勤のため京都市上京区の京極小学校に転校した。1918年に旧制京都府立京都第一中学校(現:洛北高校)に入学。同窓生には朝永振一郎、桑原武夫、湯川秀樹らがおり、全員が旧制高校と大学も一緒で、かつ後に京都大学の教授となっている。
新村 猛(しんむら たけし、1905年(明治38年)8月2日… 新村 猛(しんむら たけし、1905年(明治38年)8月2日 - 1992年(平成4年)10月31日)は、日本のフランス文学者・言語学者・国語辞書編纂者。名古屋大学名誉教授。元橘女子大学学長。 新村出の次男。息子新村徹は中国文学者(妻は中井正一の三女)。他に学術編集者の新村恭がいる。 東京府で生まれた。京都第一中学校、第三高等学校を経て、京都帝国大学文学部史学科に入学。すぐに仏文科へ転攻し卒業する。 1935年2月、中井正一や真下信一や武谷三男たちと共に同人誌『世界文化』を創刊、また週刊紙『土曜日』の常連執筆者として反ファシズム運動に関わった。このため、同志社大学予科教授であった1937年11月に真下信一らとともに治安維持法違反で逮捕され、2年間の獄中生活を送る。
川勝 政太郎(かわかつ まさたろう、1905年(明治38年)… 川勝 政太郎(かわかつ まさたろう、1905年(明治38年)5月22日 - 1978年(昭和53年)12月23日)は、日本の歴史学者・考古学者・美術史家。学位は、文学博士。専門はサンスクリット、石造美術の研究。京都市生まれ。 京都府京都市生まれ。京都市立第一商業学校(現:京都市立西京高等学校・附属中学校)卒業後、建築史家の天沼俊一に師事し、石造遺品への関心を深めた。1926年に自宅で書店をひらき、屋号をスズカケと称し、1928年にはスズカケ出版部を設け、『古美術史蹟 京都行脚』を刊行し、1929年、京都史蹟会の会誌『京都史蹟』の創刊に携わった。1930年、史迹美術同攷会(しせきびじゅつどうこうかい)を創立し、会の機関誌として研究雑誌『史迹と美術』を創刊した。
柳田 秀一(やなぎた ひでかず、1905年5月10日 - 1… 柳田 秀一(やなぎた ひでかず、1905年5月10日 - 1978年4月4日)は、日本の医師、政治家。位階は従三位。日本社会党衆議院議員(8期)、舞鶴市長。 京都府舞鶴市出身。京都一中・旧制六高を経て岡山医科大学を卒業し、京都帝国大学大学院医学部で学ぶ。その後医師を開業。1947年に舞鶴市長に当選し1950年まで務める。 1952年の総選挙に左派社会党公認で京都2区から立候補し、初当選。1955年に再統一した日本社会党にも引き続き所属し、この間1966年1月に佐々木更三・勝間田清一両委員長の下で、国会対策委員長を務める。また日本体育協会でも理事を務め、東京オリンピックでも組織委員となった。 1972年の総選挙で地盤を京都府副知事だった山田芳治に譲り引退する。
今西 正雄(いまにし まさお、1905年5月4日 - 199… 今西 正雄(いまにし まさお、1905年5月4日 - 1990年6月13日)は、日本の歴史学者。同志社大学名誉教授。 1905年5月4日、京都市の西陣に織問屋を営む今西家の長男に生まれる。1928年、同志社大学法学部経済学科卒業。アメリカ合衆国やドイツに留学。1949年より同志社大学経済学部教授。専攻はドイツ経済史。1965年ころから「低開発」問題に関心をもち、ブラジル経済史、特にポピュリスト的指導者ヴァルガスの計画経済の研究にとりくむ。1976年の退職後は、同志社大学や他大学で後進の指導にあたった。1990年6月13日、ブラジルで逝去。享年85。
中川 信夫(なかがわ のぶお、1905年4月18日 - 19… 中川 信夫(なかがわ のぶお、1905年4月18日 - 1984年6月17日)は、日本の映画監督。 怪談映画の名手として知られる。 1905年(明治38年)4月18日、京都市洛西の嵯峨二尊院門前町に生まれる。父・中川竹次郎は嵐山の料理旅館「嵐峡館」のシン(板前の主任)、母・ソノは同旅館の仲居頭だった。橘尋常小学校卒業後、兵庫県の旧制育英商業学校(現在の育英高等学校)に入学。1924年(大正13年)卒業。文学者になることを目指し同人誌『幻魚』に小説を執筆するが、文学者になるには大学を出ていなければ駄目だと思いその道をあきらめ、映画の道に進む。 キネマ旬報読者寄書欄の素人映画評論家を経てマキノ・プロダクションに入社し、助監督となる。
藪田 嘉一郎(やぶた かいちろう、1905年3月28日 - … 藪田 嘉一郎(やぶた かいちろう、1905年3月28日 - 1976年1月13日)は、日本の編集者・歴史家。出雲国風土記偽書説など大胆な新説を唱え、松本清張が師事した在野の古代史家として知られる。 京都市生まれ。1924年京都市立第一商業学校専修科卒業。1925年京都帝国大学文学部史学科選科入学、1928年中退。 1928年至誠堂に入社し、1932年飛鳥園、1933年日出芸林社と転籍し、書籍の編集者として活躍する。1934年株式会社便利堂に入社し、1950年同社取締役に就任。1951年に退社。同年、自ら綜芸舎(綜芸種智院に因む)を創立する。この間、文献、美術、石造文化財などの史資料を使った古代史研究や能楽研究、易学研究の著作・論文を公刊した。