多田 直純(ただ なおすみ、1961年 - )は、日本のエン… 多田 直純(ただ なおすみ、1961年 - )は、日本のエンジニア、経営者、ゼット・エフ・ジャパン代表取締役社長。 1961年 京都府宇治市生まれ。1986年 大阪工業大学工学部応用化学科卒業。 1986年 ボルグワーナー・オートモーティブにエンジニアとして入社、ホンダ・S2000のエンジンのタイミングドライブに携わる。2001年 ボッシュ入社。セールスとしてトランスミッション関連部品から始まり、直噴エンジンの部品、電動化技術なども担当し、シニアジェネラルマネージャを歴任。2016年 テネコ(英語版)ジャパン マネージングディレクター。 2017年 コンテンポラリー・アンプレックス・テクノロジー・ジャパン(CATL)として日本法人を立ち上げ、リージョナル・プレジデント兼取締役。
奥 明栄(おく あきよし、1956年 - )は、日本の自動車… 奥 明栄(おく あきよし、1956年 - )は、日本の自動車技術者、レーシングカーデザイナー、実業家。京都市出身。同志社大学理工学部中退。 2025年現在は東レ・カーボンマジック代表取締役社長を務める。 大学で自動車部に在籍していたことから、大学3回生のときにその流れで童夢でアルバイトを始める。結局大学は中退し、そのまま童夢に就職。以後童夢でレーシングカーの設計に従事し、童夢が開発を受託していたトヨタのグループCカーなどを担当。1990年代に童夢が独自開発していた一連のフォーミュラカーでは設計主任(チーフデザイナー)を務めた。 2001年に、童夢が外部のレーシングカー製造会社(有限会社ウィスカー)を買収し「童夢カーボンマジック」として子会社化すると、同社の社長に就任。
林 みのる(はやし みのる、1945年7月16日 - )は、… 林 みのる(はやし みのる、1945年7月16日 - )は、日本の実業家、自動車技術者。京都府京都市出身。レーシングカーコンストラクター・童夢の創業者。また日本自動車レース工業会(JMIA)会長なども務めた。大阪産業大学自動車工学部中退。 本名は林穂(読みは同じ)だが、一般的には下の名前をひらがな表記した林みのるの表記が使われる。一部の書籍等では林ミノルと表記されていることもある。 太平洋戦争の終戦直前、洋画家の長男として疎開先の広島で生まれる。幼少期よりオーディオ機器の自作に没頭していたが、同志社中学校の同級生だった鮒子田寛からスーパーカブを借りたことで、乗り物を作ることへと興味が移る。鮒子田や横山靖史(後のホンダ・ファクトリー・ドライバー)と共に通いつめていた鈴鹿サーキットで浮谷東次郎に出会い、親しい付き合いが始まる。
横井 軍平(よこい ぐんぺい、1941年〈昭和16年〉9月1… 横井 軍平(よこい ぐんぺい、1941年〈昭和16年〉9月10日 - 1997年〈平成9年〉10月4日)は、日本の技術者、ゲームクリエイター。ゲーム業界に多大な貢献を行ったことから「ゲームの父」や「携帯ゲームの父」の異名で知られる。 京都府京都市出身。同志社大学工学部電気工学科卒。 任天堂開発第一部部長として『ゲーム&ウオッチ』、『ゲームボーイ』、『バーチャルボーイ』等の開発に携わり、宮本茂と並んで任天堂を世界的大企業へと押し上げる原動力となった。 趣味は鉄道模型で、小学3年生でOゲージを買ってもらい、中学2年生でHOゲージに転向、高校時代に完成させたレイアウト「SPライン(Sはsilk=絹、Pはparasol=傘、絹傘→きぬかさ→衣笠、当時の住所から使ったとのこと)」を専門誌『鉄道模型趣味』に投稿し、1958年1月号に掲載されている。
山本 紘(、1940年2月1日 – )は、東洋工業(現マツダ… 山本 紘(、1940年2月1日 – )は、東洋工業(現マツダ)の自動車技術者。京都府宮津市出身。ユーノスコスモ主査。元商品本部副本部長。マツダモータースポーツの生みの親の一人で、レース監督まで務めた。 1962年、大阪工業大学機械工学科卒業、卒業論文にはロータリーエンジン (RE) の設計図を描いた。同年東洋工業入社、実験研究部に配属され、内燃機関燃焼研究を担当。 1963年の日本グランプリよりモータースポーツ活動に専念、以後エンジニアとして海外・国内のレースに関与し、後にレース監督まで務めた。 1964年、日本グランプリにキャロル360/600で参戦。1966年(マツダの海外レース初戦)、1967年のシンガポールグランプリ、マカオグランプリにファミリア800と1000クーペで参戦し、いずれもクラス優勝を果たした。
小山 義一(こやま よしかず、1939年1月16日 - 20… 小山 義一(こやま よしかず、1939年1月16日 - 2019年5月)は、京都府出身の鉄道技術者である。 7000系電車(パノラマカー)のフロントアイ開発に携わったことで有名である。
尾上 規喜(おのえ きよし、1935年3月16日 - )は、… 尾上 規喜(おのえ きよし、1935年3月16日 - )は、日本の放送技術者、実業家。元フジ・メディア・ホールディングス取締役(常勤監査等委員)、元フジテレビジョン監査役。 京都府宮津市出身。京都府立宮津高等学校卒業後、日本大学芸術学部写真学科卒業。フジテレビジョン開局前の1958年12月に同社に入社。 入社後は映画部写真室を皮切りに、報道部外信班、放送部主事、放送技術局部長(技術管理)、総務局人事部長などを経て1987年6月、技術局長。 1989年6月、取締役技術局長。1991年6月、取締役 総務・人事担当兼人事局長、1992年6月、常務取締役。1994年7月、常務取締役 総合調整担当、1997年6月、専務取締役 管理業務本部長。
石田 輝男(いしだ てるお、1933年 - )は日本の教育者… 石田 輝男(いしだ てるお、1933年 - )は日本の教育者ならびに工業技術者である。京都市下京区出身。
佐藤 研一郎(さとう けんいちろう、1931年3月8日 - … 佐藤 研一郎(さとう けんいちろう、1931年3月8日 - 2020年1月15日)は、日本の実業家、技術者。ローム株式会社創業者。ローム ミュージック ファンデーション理事長。 東京都出身。父親は新交響楽団(現・NHK交響楽団)のバイオリニスト、母親も琴を趣味としていたことから、6歳からピアノを習い、プロのピアニストを目指していた。立命館高等学校、立命館大学理工学部卒業。 1954年(昭和29年)、立命館大学在学中に開発した超小型抵抗器の特許を元に、京都西陣に東洋電具製作所を創業。1958年(昭和33年)に株式会社に組織変更。1981年(昭和56年)、社名をローム株式会社に変更。一代でロームを世界的な電子部品メーカーに育て上げる。
西堀 栄三郎(にしぼり えいざぶろう、1903年(明治36年… 西堀 栄三郎(にしぼり えいざぶろう、1903年(明治36年)1月28日 - 1989年(平成元年)4月13日)は、日本の登山家、無機化学者、技術者。従四位。 京都府出身。京都一中、三高を経て、京都帝国大学理学部化学科卒業。京大講師、助教授を歴任した後、東京電気(東芝)に移る。 1936年、京都大学より理学博士。論文の題は「分子線による化學的研究」。 東芝技術本部長時代には海軍の要請を受けて真空管「ソラ」を開発し、技術院賞を受賞した。材料不足の状態でも大量生産できるように、微細な部分に至るまで製造マニュアルを完備し、"新橋の芸者を集めてでも製造可能"とされた。 戦後は独立の技術コンサルタントとして統計的品質管理手法を日本の産業界に持ち込み、デミング賞や電電公社総裁賞を受賞。
国友 末蔵(くにとも すえぞう、1881年〈明治14年〉11… 国友 末蔵(くにとも すえぞう、1881年〈明治14年〉11月17日 - 1960年〈昭和35年〉10月17日)は、明治後期から昭和時代にかけて活動した日本の電気技術者、実業家である。新潟県上越市(旧・高田市)の電力会社中央電気にて技師長および専務取締役を務め、同社の電源開発に携わった。京都市出身。 1881年(明治14年)11月17日、京都の三条通白川橋にて国友藤九郎の四男として生まれた。国友家は戦国時代から近江国坂田郡国友村(現・滋賀県長浜市)で鉄砲を生産していた鉄砲鍛冶の家だが、父・藤九郎は明治維新後京都へ移り活版印刷機の生産にあたっていた。国友は京都府立第一中学校を経て京都の第三高等学校へ進学し、1903年(明治36年)7月に卒業。
生野 団六(團六、しょうの だんろく、1878年(明治11年… 生野 団六(團六、しょうの だんろく、1878年(明治11年)2月1日 - 1973年(昭和48年)3月1日)は、日本の鉄道官僚・技師、土木技術者、鉄道実業家。台湾総督府交通局総長、京浜電気鉄道社長。 大分県大分郡、のちの稙田村(大分村、大分町を経て現大分市)で生野米蔵の長男として生まれる。大分尋常高等小学校、京都府立中学校(現京都府立洛北高等学校・附属中学校)、第四高等学校を経て、1902年(明治35年)東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業した。 逓信省に入省し鉄道作業局に配属された。1909年(明治42年)欧米に留学し1911年(明治44年)に帰国。鉄道院運輸局に配属され、1912年(明治45年)3月のジャパン・ツーリスト・ビューロー(現日本交通公社)創立に際して幹事に就任。
松島寛三郎(まつしま ひろさぶろう、1875年4月1日 - … 松島寛三郎(まつしま ひろさぶろう、1875年4月1日 - 1956年4月22日)は、日本の鉄道技術者・鉄道官僚。京阪電気鉄道常務取締役。 広島県比婆郡口北村(現庄原市)に生まれ、13歳の時に単身同志社中学(現同志社中学校・高等学校)に入学。第一高等中学校経て、1897年(明治30年)卒業。東京帝国大学に合格するが、その年に新設される京都帝国大学に振り分けられた。第一高まで野球部に所属しており、京大在学中に同支社中の野球部のコーチに招聘されている。現在の同志社大学硬式野球部の基礎を作り上げたとも言われる。 京大工学部一期生として1900年(明治33)卒業。同年10月に山陽鉄道に入社し、1906年(明治39)の国有化後は鉄道作業局湊町保線事務所長、北海道鉄道管理局工務課長、名古屋鉄道管理局工務課長等を歴任。