八村 信三(はちむら のぶぞう、1908年〈明治41年〉12… 八村 信三(はちむら のぶぞう、1908年〈明治41年〉12月29日 - 1990年〈平成2年〉6月2日)は、日本の実業家。鳥取銀行元頭取。鳥取ガス元監査役。鳥取商工会議所元会頭。鳥取県経済同友会元代表幹事(東部)。旧姓・山田。位階は正五位。 大阪府布施市(現:東大阪市)の素封家・山田勝太郎の次男として生まれる。大阪府立天王寺中学校 、静岡高等学校を経て、1934年(昭和9年)東京帝国大学経済学部を卒業。 1934年(昭和9年)7月、鳥取市の素封家・八村八太郎の養嗣子となる。 1936年(昭和11年)鳥取市収入役となり、同市助役を経て、1944年(昭和19年)退任。1949年(昭和24年)鳥取銀行常務、1959年(昭和34年)専務、1961年(昭和36年)副頭取を経て、同年11月頭取に就任。
上林 貞治郎(かんばやし ていじろう、1908年(明治41年… 上林 貞治郎(かんばやし ていじろう、1908年(明治41年)12月16日 - 2001年(平成13年)4月14日)は、日本の経済学者。半世紀を超える大学での教育活動や多くの著書を通じ、一貫して科学的社会主義の立場を貫徹し、学生や労働者に大きな影響を与えた。経済学博士。 1908年、大阪府堺市熊野の由緒ある商家に父・栄吉と母・コウの長男として生まれる。 堺市立熊野小学校、大阪市立第一商業学校(のちの天王寺商業)、大阪高等商業学校(のちの大阪商科大学高商部)を経て、1932年、大阪商科大学第一期生として、首席で同大学を卒業。 1932年、大阪商科大学大学院に入学。1933年に同大学副手となり、助手、講師嘱託を経て、 1939年に高商部教授、 1941年に助教授へと昇進した。
園原 太郎(そのはら たろう、1908年11月26日 - 1… 園原 太郎(そのはら たろう、1908年11月26日 - 1982年3月14日)は、日本の心理学者。京都大学名誉教授。 長野県木曽郡山口村(現・岐阜県中津川市)生まれ、大阪府大阪市育ち。大阪市天王寺第五尋常小学校、旧制大阪府立今宮中学校、旧制大阪高等学校理科甲類を経て、1931年に京都帝国大学文学部哲学科心理学専攻を卒業。同大学講師、1938年助教授、1953年京都大学文学部教授、1972年定年退官、名誉教授、佛教大学教授。1980年勲三等旭日中綬章を受章。
斎藤 才三(さいとう さいぞう、 1908年9月24日 - … 斎藤 才三(さいとう さいぞう、 1908年9月24日 - 2004年)は大阪府出身の経営者、サッカー選手。 父親は貿易商であり大阪府で生まれた。 帝塚山学院小学校、桃山中学校を経て、関西学院高等商業学部(現在の関西学院大学商学部)に入学。在学中はサッカー部に所属し1年次よりスタメンGKに定着。同級生に後藤靱雄がおり、1929年10月に開催された明治神宮大会兼ア式蹴球全國優勝競技會(第9回天皇杯全日本サッカー選手権大会)に優勝するなどの成績を残した。 1930年3月に卒業。同年5月に開催された第9回極東選手権競技大会のサッカー日本代表に選出され、フィリピン代表戦など2試合に出場し、大会優勝に貢献した。
森野 米三(もりの よねぞう、1908年8月31日 - 19… 森野 米三(もりの よねぞう、1908年8月31日 - 1995年10月24日)は、物理化学者。東京大学名誉教授。
糸岡 富子(いとおか とみこ、1908年〈明治41年〉5月2… 糸岡 富子(いとおか とみこ、1908年〈明治41年〉5月23日 - 2024年〈令和6年〉12月29日)は、日本のスーパーセンテナリアン。2023年12月12日から死去まで長寿日本一となっており、2024年8月19日から死去までは、存命中の世界最高齢であった。生前は兵庫県芦屋市在住。 大阪府大阪市北区出身。呉服問屋を営む矢野禎助(または常三郎)の長女として生まれる。小学校卒業後、ウヰルミナ女学校(現:大阪女学院中高等学校)に進学し、バレーボール部に所属する。1926年(大正15年)女学校を卒業後、1928年(昭和3年)に羅紗商を営む糸岡健司と結婚。2人の娘と2人の息子をもうけた。 戦時中、韓国で繊維工場を経営していた夫に代わって、一人で日本の事務所を守り、子育てをした。
野田 忠二郎(のだ ちゅうじろう、1908年4月1日 - 1… 野田 忠二郎(のだ ちゅうじろう、1908年4月1日 - 1992年11月10日)は、日本の鉄道実業家、工学博士。阪神電気鉄道社長を務めた。大阪府大阪市出身。 1908年(明治41年)大阪府生まれ。大阪高等学校 (旧制)を卒業後、京都帝国大学工学部電気工学科に入学し、1930年(昭和5年)に同校を卒業、同年に阪神電気鉄道に入社した。 技術者として、大型新造車の投入、ジェット・カーの開発などの車両の近代化を進めた。1952年5月に取締役に就任し、1957年5月に常務、1965年1月に専務、1967年11月に副社長を経て、1968年(昭和44年)1月12日に社長に就任し、輸送の近代化と乗客サービスの向上に取り組んだ。
田辺治太郎 (たなべ ちたろう、1908年3月18日 - 1… 田辺治太郎 (たなべ ちたろう、1908年3月18日 - 1972年10月16日)は、日本の実業家、元サッカー選手、サッカー指導者。大阪府出身。1972年勲三等瑞宝章。 田辺製薬株式会社(現・田辺ファーマ株式会社)代表取締役社長、代表取締役会長を歴任した。
里井 達三良(さとい たつさぶろう、1908年(明治41年)… 里井 達三良(さとい たつさぶろう、1908年(明治41年)2月21日 - 1998年(平成10年)12月21日)は、昭和期の経営者である。 大阪府泉佐野市出身。九州大学経済学部卒業。大阪商工会議所の勤務を経て、関西国際空港ビルディング株式会社社長、大阪商工会議所副会頭など歴任し、1970年(昭和45年)の日本万国博覧会、1974年(昭和49年)には中国展覧会の運営に中枢的役割を果たす。 また、インターグループ株式会社設立時の顧問、大阪ロータリークラブ会長、文楽協会の評議員、大阪府「なにわ塾」創始時の委員など、多くの文化団体の役員や委員として大阪の文化の振興発展に精力的に活躍する。1984年(昭和59年)、大阪文化賞を受賞。
鷲尾三郎(わしお さぶろう、1908年1月25日 - 198… 鷲尾三郎(わしお さぶろう、1908年1月25日 - 1989年12月2日)は、日本の推理作家。本名は岡本道夫。 本格ものや幻想もの、ユーモア探偵小説に加え、ハードボイルドふうの作品も書いた。 大阪市生まれ。大阪府立生野中学校(現・大阪府立生野高等学校)卒。同志社大学中退後、永く商業に携わっていた。 1949年、江戸川乱歩の推薦で『探偵実話』4月号に「魚臭」が掲載される。同年、同じく江戸川乱歩の推薦で『宝石』臨時増刊「文芸探偵小説号」に「疑問の指輪」が掲載され、関西探偵作家クラブに所属した。 1951年、上京して専業作家となる。1954年、『宝石』12月号に掲載された「雪崩」が第7回探偵作家クラブ賞の新人奨励賞を受賞。
浅香 忠雄(淺香、あさか ただお、1908年(明治41年)1… 浅香 忠雄(淺香、あさか ただお、1908年(明治41年)1月12日 - 1985年(昭和60年)5月28日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(5期)。 大阪府堺市出身。1925年(大正14年)堀川商工専修学校を卒業した。 木村屋製パン社長、浅香産業社長、朝鮮耐火煉瓦社長、大阪変圧器顧問、三洋電機顧問、大阪工業大学常任顧問などを務めた。 大阪府会議員に選出され、大阪府教育委員会委員長、大阪府立新制大学設立委員長にも在任した。1949年(昭和24年)1月の第24回衆議院議員総選挙に大阪府第3区から民主自由党公認で立候補して初当選。以後、1958年(昭和33年)5月の第28回総選挙まで再選され、衆議院議員に連続5期在任した。
冨士原 清一(ふじわら せいいち、1908年〈明治41年〉1… 冨士原 清一(ふじわら せいいち、1908年〈明治41年〉1月10日 - 1944年〈昭和19年〉9月18日)は、日本の詩人・翻訳家・編集者。戦前期日本のシュルレアリスムを代表する詩人。 1908年(明治41年)1月10日、大阪府に生まれる。1926年(大正15年)、大阪府立北野中学校を卒業、法政大学予科に入学。1934年(昭和9年)に法政大学法文学部文学科(仏文専攻)を卒業。卒業後は一時大阪に帰るが、1937年(昭和12年)に友人である春山行夫が編輯長を務める第一書房編輯部に勤務。1942年(昭和17年)11月に日本放送協会に転職、かけもちで太平洋協会調査局に勤務する。太平洋戦争で召集され、1944年(昭和19年)9月18日、朝鮮木浦沖にて戦没。
三並 義忠(みなみ よしただ、1908年(明治41年)1月8… 三並 義忠(みなみ よしただ、1908年(明治41年)1月8日 - 1966年(昭和41年)9月1日 )は、昭和期の工学技術者。自動電気釜の開発者として知られる。 愛媛県新居郡中萩村(現・新居浜市)出身。小学校を卒業後鉄道省に入省。鉄道機関士を目指し働きながら大阪市立都島工業専修学校(現・大阪府立都島工業高等学校定時制課程)で学ぶ。1928年に鉄道省を退職して上京。芝浦工学校(現・芝浦工業大学)を卒業。 ドイツ系の機械商社アンドリュウス社に入った。1932年または1934年に独立し光伸社を設立。精密測定器を製作した。戦後はテープレコーダーや16ミリ映画のトーキー、圧力釜などを作った。 1952年に東京芝浦電気(東芝)と関係し、自動電気釜を発明した。
二反長 半(にたんおさ なかば、1907年11月20日 - … 二反長 半(にたんおさ なかば、1907年11月20日 - 1977年7月5日)は、日本の小説家・児童文学作家。 大阪府茨木市出身。本名は二反長半二郎(にたんちょう はんじろう)で、父の音蔵は「日本のアヘン王」と呼ばれた製薬業者だった。 府立茨木中卒業。1932年、法政大学高等師範部国漢科卒業。高等女学校の教師となるが、中学時代の同窓だった川端康成と大宅壮一への憧れから文筆業に転じる。 その後、寄稿していた少年雑誌の編集者の薦めで児童文学を手がけるようになり、1939年に川端・大宅・井伏鱒二・宇野浩二・小川未明・坪田譲治・豊島与志雄・村野四郎と少年文芸懇話会を結成。『少年文学』を発行し、戦時中の厳しい世相の下で児童文学の創作を続けた。
浪花 千栄子(なにわ ちえこ、本名:南口 キクノ(なんこう … 浪花 千栄子(なにわ ちえこ、本名:南口 キクノ(なんこう きくの)、1907年〈明治40年〉11月19日 - 1973年〈昭和48年〉12月22日)は、日本の女優。昭和初期から中期(1920年代後半 - 1970年代前半)に活動した。 大阪府南河内郡大伴村大字板持(現在:富田林市東板持町)に、養鶏業を営む家に生まれる。8歳の時に道頓堀の仕出し弁当屋に女中奉公に出される。その後、京都で女給として働いていたが、18歳のとき、知人の紹介で村田栄子一座に入る。間もなく舞台にも立つようになるが、不入りが続き、東亜キネマ等持院撮影所に移る。香住 千栄子の芸名で端役出演を続け、1926年(大正15年)に山上伊太郎の初シナリオによる大作『帰って来た英雄』の準主役に大抜擢され、それ以来順調に役をこなしていく。
河崎 邦夫(かわさき くにお、1907年9月23日 - 19… 河崎 邦夫(かわさき くにお、1907年9月23日 - 1988年4月7日)は、日本の経営者。 大阪府大阪市出身。1925年に東京帝国大学法学部法律学科を卒業し、翌年に日本毛糸紡に入社。1955年に東洋紡績取締役に就任し、常務、専務を経て、1963年に副社長に就任し、1966年6月には社長に昇格した。1974年6月に会長に就任し、1978年7月に相談役に就任し、1986年7月から名誉顧問を務めた。関西電力監査役も務めた。 1969年11月に藍綬褒章を受章し、1979年11月に勲二等旭日重光章を受章した。 1988年4月7日心不全のために死去。80歳没。
広岡 知男(旧字体:廣岡 知男、ひろおか ともお、1907年… 広岡 知男(旧字体:廣岡 知男、ひろおか ともお、1907年8月24日 - 2002年1月5日)は、日本のアマチュア野球選手、新聞社経営者。朝日新聞社社長、日本学生野球協会会長、全日本アマチュア野球連盟会長。
国分 敬治 (こくぶ けいじ、1907年8月4日 - 199… 国分 敬治 (こくぶ けいじ、1907年8月4日 - 1997年10月26日)は、日本の古代ギリシャ思想研究者・哲学者、南山大学名誉教授。ギリシャ哲学とヨーロッパ中世哲学を専門とし、仏教にも造詣が深い。 大阪市出身。龍谷大学に学び、京都大学で山内得立に師事。旧制大学の制度のもと立命館大学予科教授等を経て、南山大学でその黎明期から教授として哲学・思想教育、大学運営に大きな功績を残す。1978年4月、名誉教授となる。「1981年には、日本人として初のオリンピア名誉市民の称号を受けた」。 2002年、ギリシャ・オリンピア市に「フィロソファー・コクブ」("The Philosopher Kokubu")としてその功績をたたえる大理石胸像が建立された(後出)。
九紋龍 政五郎(くもんりゅう まさごろう、1907年7月10… 九紋龍 政五郎(くもんりゅう まさごろう、1907年7月10日 - 没年不明)は、昭和時代の大相撲力士。時津風部屋→粂川部屋所属。本名は原 正一。188cm、85kg。最高位は十両2枚目。 大阪府交野市出身(生まれは愛媛県)。大阪相撲の時津風部屋に入門、その後、東西合併により1927年1月、序二段に付出される。1932年1月は幕下上位にあったが、春秋園事件による大量の脱退者の穴を埋めるために翌2月場所で東十両2枚目まで番付を上げた。この場所は4勝4敗の5分、翌場所は全休と幕下に落ちた。1933年1月と1934年1月に十両に復帰したが、いずれも負け越しに終わった。1935年5月に4度目の十両昇進で勝ち越したが翌場所は3勝8敗と負け越し、幕下に落ち、その場所(1936年5月)限りで廃業した。
安井 郁(やすい かおる、1907年4月25日 - 1980… 安井 郁(やすい かおる、1907年4月25日 - 1980年3月2日)は、日本の国際法学者、平和運動家。法政大学名誉教授、国際法学会幹事長、原水爆禁止日本協議会(原水協)初代議長。 大阪府門真市出身。大阪市立生魂小学校時代の同級生に作曲家の服部良一がいた。 国際法専攻。戦前期はモーゲンソーの影響を受ける。第二次世界大戦中には東京帝国大学法学部教授として、田畑茂二郎(京都帝大)とともに、「大東亜国際法」を提唱した。しかしこのことをもって1947年占領軍により戦争協力とみなされ、1948年に東大を公職追放となる。神奈川大学教授を経て法政大学教授に就任した。 1954年3月1日のビキニ水爆実験による第五福竜丸被爆事件を契機に、同年5月9日、東京都杉並区の婦人団体、福祉協議会、PTA、労組など39人は「原水爆禁止署名運動杉並協議会」を結成した。
巽 フサ(たつみ フサ、1907年〈明治40年〉4月25日 … 巽 フサ(たつみ フサ、1907年〈明治40年〉4月25日 - 2023年〈令和5年〉12月12日)は、大阪府柏原市在住だった長寿の女性(スーパーセンテナリアン)。2022年4月19日から死去するまで長寿日本一であった。 1907年4月25日、6人兄弟の次女として八尾町(現在の大阪府八尾市)に生まれる。桃やブドウを育てる農家の夫と32歳の時に結婚。3人の子供に恵まれた。結婚前は華道や茶道を習い、生け花が得意で、106歳までは自宅の玄関に生けた花を飾り、庭では菊を育てていた。みたらしやぜんざいなど甘い物が大好きであった。 2013年、柏原市の特別養護老人ホーム「はくとう」に入所する。入所時は車いすに乗ったまま体操するなど元気だったという。
田中 祐之(たなか すけゆき、1907年4月3日 - 198… 田中 祐之(たなか すけゆき、1907年4月3日 - 1986年10月29日)は、日本の経済学者。元東京経済大学学長事務取扱。 大阪府出身。成器商業学校(現大阪学芸高等学校)を経て、1929年神戸高等商業学校(現神戸大学)卒業。1932年東京商科大学(現一橋大学)学部卒業。東京経済大学経済学部長などを務め、1951年から東京経済大学学長事務取扱。1953年退任。1979年勲三等瑞宝章受章。1986年叙正五位。
菅沼 俊彦(すがぬま としひこ、1907年3月14日 - 2… 菅沼 俊彦(すがぬま としひこ、1907年3月14日 - 2001年12月18日)は、日本の経営者。日本板硝子社長、会長を務めた。大阪府大阪市出身。 1935年に京都帝国大学法学部を卒業し、同年に住友電気工業に入社。1963年2月に取締役に就任し、1967年2月に常務、1972年8月に専務を経て、1976年6月には日本板硝子社長に就任。1982年6月に会長に就任し、1984年6月に取締役相談役を経て、1986年6月から相談役を務めた。 1991年3月から1996年6月までに住友化学監査役を務めた。 2001年12月18日腹部大動脈りゅう破裂のために死去。94歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
宮本 又次(みやもと またじ、1907年3月5日 - 199… 宮本 又次(みやもと またじ、1907年3月5日 - 1991年3月12日)は、日本の歴史学者。専攻は、日本経済史・近世商業史。経済学博士(九州大学)。大阪大学名誉教授。日本学士院会員。文化功労者。 大阪府大阪市生まれ。旧制大阪府立市岡中学校、大阪外国語学校仏語部を経て、1931年(昭和6年)京都帝国大学経済学部卒業、同大学院修了。同大学助手、日本経済史研究所を経て、1939年(昭和14年)彦根高等商業学校(現・滋賀大学経済学部)教授。 1942年(昭和17年)九州帝国大学助教授、1945年(昭和20年)同教授。1950年(昭和25年)九州大学より経済学博士の学位を取得、学位論文は「江戸時代問屋の研究」。
藤村 義朗(ふじむら よしろう、1907年〈明治40年〉2月… 藤村 義朗(ふじむら よしろう、1907年〈明治40年〉2月24日 - 1992年〈平成4年〉3月18日)は、日本の海軍軍人、実業家。最終階級は海軍中佐。旧名・義一(よしかず)。 大阪府出身。実業家・藤村義正の長男として生まれる。堺中学を経て、1927年(昭和2年)3月、海軍兵学校(55期)卒業。1928年(昭和3年)10月、海軍少尉任官。海軍砲術学校高等科で学ぶ。1934年(昭和9年)7月、「長月」砲術長に就任、以後、砲術学校専攻科学生、「綾波」砲術長、砲術学校教官、「白雲」「厳島」の各砲術長を歴任。1939年(昭和14年)11月、海軍少佐に昇進。1940年(昭和15年)4月、海軍大学校(甲種37期)を首席で卒業した。
木崎 国嘉(きざき くによし、1907年2月15日 - 19… 木崎 国嘉(きざき くによし、1907年2月15日 - 1984年6月17日)とは、日本の医師、教育者、タレント。 実弟は鹿児島大学教養部、立正大学文学部で教授を務めた歴史学者の木崎良平。 大阪府生まれ。1924年(大正13年)大阪府立北野中学校卒業、1928年(昭和3年)大阪高等学校 (旧制)理科を卒業。1932年(昭和7年)京都帝国大学医学部卒業後、同付属病院内科勤務を経て大阪赤十字病院に入り、1969年(昭和44年)まで内科部長を務める。 その頃、テレビ番組11PMの大阪局製作分においてセックスドクター、木崎ドクターとしてレギュラー出演。藤本義一、アンナ・ルーセンとエッチな会話をする医師として人気を博した。
古山 一郎(ふるやま いちろう、1907年2月8日 - 19… 古山 一郎(ふるやま いちろう、1907年2月8日 - 1993年(平成3年)10月9日[要出典])は、日本の陸上競技(投擲)選手。早稲田大学在学中に1928年アムステルダムオリンピックに男子円盤投で出場した。 大阪市北区において、古山武造の子として[要出典]生まれる。古山家は旧出雲広瀬藩士[要出典]。四條畷中学(現在の大阪府立四條畷高等学校)卒業後、早稲田大学専門部に入る(『早稲田大学百年史』によれば専門部法律科在籍。専門部は専門学校令に基づく短期課程の高等教育機関)。 早稲田大学在学中の1927年(昭和2年)・1928年(昭和3年)、日本陸上競技選手権大会で円盤投げ競技連覇。 1928年(昭和3年)6月に日本を出発した、早稲田大学競走部のイギリス遠征に参加。
林 弘高(はやし ひろたか、1907年(明治40年)2月1日… 林 弘高(はやし ひろたか、1907年(明治40年)2月1日 - 1971年(昭和46年)6月27日)は、興行師、芸能プロモーター。吉本興業社長、吉本株式会社(東京吉本))社長、太泉映画(東映の前身)社長。大阪府大阪市北区出身。 姉は吉本興業創業者の吉本吉兵衛(泰三)の妻の吉本せい。兄は旧吉本興業株式会社の社長を務めた林正之助。長男は吉本株式会社社長や吉本興業常務を務めた林英之。 米穀商を営んでいた林豊次郎の四男として兵庫県明石市に生まれる。出生名は林 勝(はやし まさる)といった。 1925年(大正14年)、関西甲種商業学校(現・関西大学第一高等学校)を卒業後、上京して中央大学法学部を卒業した後、社会民衆党の機関紙の編集に関わった。
北 猛夫(きた たけお、1907年〈明治40年〉1月9日 -… 北 猛夫(きた たけお、1907年〈明治40年〉1月9日 - 1979年〈昭和54年〉9月1日)は、日本映画の美術監督、プロデューサー、東宝ビルト代表取締役社長。日本映画・テレビ美術監督協会初代理事長。大阪府出身。 弟の北辰雄も映画美術監督。 初期は久保一雄を助手として活躍し、前紀は青柳信雄監督や実写版サザエさんシリーズを中心に、後期は本多猪四郎監督作品やゴジラシリーズ、特撮映画の本編美術監督として活躍する。現代劇、時代劇を問わず、リアリティのある美術設計を得意とした。
嘉納 愛子(かのう あいこ、1907年〈明治40年〉1月1日… 嘉納 愛子(かのう あいこ、1907年〈明治40年〉1月1日 - 2016年〈平成28年〉3月29日)は、日本の声楽家(メゾソプラノ)・音楽教育者。相愛大学名誉教授(2011年時点)。 大阪府大阪市出身。官吏の家に生まれた三人姉妹の末っ子。親和高等女学校卒。東京音楽学校(現在の東京藝術大学音楽学部声楽科)に入学。高木東六や四家文子と同級。卒業後、山田耕筰の数少ない弟子の一人となり、山田らが確立した「日本歌曲」の真髄を叩き込まれる。修業を終えて帰阪後も声楽家として活動し、大阪BK(NHK大阪放送局)のラジオ放送や公演に出演するが、1934年(昭和9年)に旧家として名高い(嘉納家は嘉納財閥として知られる)灘の酒造家の嘉納鉄夫と結婚して引退。
上田 治(うえだ おさむ、1907年(明治40年) - 19… 上田 治(うえだ おさむ、1907年(明治40年) - 1978年(昭和53年))は、大阪府出身のゴルフ場設計者。元競泳日本代表選手。100m背泳ぎ元日本記録保持者。 上田治は、大阪府茨木市に、1907年(明治40年)生まれ、旧制茨木中学校(現・大阪府立茨木高等学校)、旧制松山高等学校(後身校・愛媛大学)を卒業、京都帝国大学農学部に学んだ。旧制茨木中学校時代水泳部で活躍した。100m背泳ぎで3度日本記録を更新し、極東選手権競技大会では1923年(大正12年)から1927年(昭和2年)にかけて100m背泳ぎ3連覇を達成した。 1930年(昭和5年)、「廣野ゴルフ倶楽部」(兵庫県)のコース設計で来日したチャールズ・ヒュー・アリソンは、コース設計図を作成した上で帰国した。
本庄 光郎(ほんじょう こうろう、1907年 - 1995年… 本庄 光郎(ほんじょう こうろう、1907年 - 1995年6月7日)は、大阪府出身の写真家。シュルレアリスムなど前衛芸術に強く影響され、あらゆる技法を駆使したヌード作品を多く制作したことで知られる。大阪大倉商業学校(現・関西大倉高等学校)出身。
飛鳥 明子(あすか あきこ、1907年 - 1937年8月1… 飛鳥 明子(あすか あきこ、1907年 - 1937年8月15日)は、OSK日本歌劇団(当時は松竹楽劇部)の最初期のトップスター(当時の呼称は「幹部」)。1933年の労働争議、いわゆる桃色争議を機に退団。退団後に同歌劇団の振付師、舞踊教師。本名:片野 貞子(かたの さだこ)。旧姓・松田。大阪府高石市出身。 開業医の娘として生まれる。ロシア革命の影響で日本に亡命したバレリーナ・エリアナ・パヴロワの舞台を見てバレリーナを志す。高等女学校を経て、松竹楽劇部(後のOSK日本歌劇団)に入団し、OSKの誕生時から舞台に立つ。1世紀以上の歴史を持つOSK初の看板になるスターで、当時のOSKはトップスター制ではなく幹部制だが、初代トップスターと呼ばれる 。
吉田 留三郎(よしだ とめさぶろう、1906年11月3日 -… 吉田 留三郎(よしだ とめさぶろう、1906年11月3日 - 1978年5月25日)は、日本の評論家、上方芸能評論家。愛称は「留サン」。 大阪府大阪市出身。旧制大阪府立生野中学校、松江高等学校を経て、京都帝国大学文科卒業。 学生時代から寄席に通い詰め、戦前は吉本興業、戦後は松竹芸能に在籍。織田作之助、秋田實らとともに、上方芸能の発展に寄与した。 1977年、秋田が死去した後、秋田が育てた漫才師のミヤコ蝶々、夢路いとし・喜味こいしらに呼び掛け、玉造稲荷神社に記念碑を建設した。 1978年に死去。生前の業績を讃え、雑誌『上方芸能』第58号で「吉田留三郎の死と総合芸能時代の終焉」と題する特集が組まれた。
村上 実(旧字体表記:村上 實、むらかみ みのる、1906年… 村上 実(旧字体表記:村上 實、むらかみ みのる、1906年8月12日 - 1999年5月4日)は、兵庫県出身のプロ野球監督、実業家。 小学校時代の友人に、関西大学野球部監督、大阪タイガース二軍監督などを歴任する森田忠勇がいる。旧制天王寺中学で三塁手を務める。 慶應義塾大学野球部マネージャを経て、1932年にに阪神急行電鉄(現:阪急阪神ホールディングス・阪急電鉄)に入社する。1936年にはプロ野球球団阪急軍の創設に尽力する。球団代表に就任して25年間球団経営に携わった。 1937年には、秋季シーズンの監督を務める。初代阪急軍の監督である三宅大輔がこのシーズンも指揮を執るはずであったが、三宅の一切の妥協を許さぬ厳格な姿勢が選手達からの猛反発を受けてしまい、三宅は解任に追い込まれたために4試合目からの途中就任であった。
上田 安子(うえだ・やすこ、1906年4月9日 - 1996… 上田 安子(うえだ・やすこ、1906年4月9日 - 1996年9月7日)は、上田安子服飾専門学校創設者。勲五等宝冠章(1984年)。位階は正六位。大阪府出身。 明治の文人・著作家の上田貞治郎の四女として大阪府泉北郡浜寺村(現・堺市西区)で生まれる。夕陽丘高女卒業。伊東衣服研究所で学び、1941年に上田安子服飾研究所を創設、一時中断の後、戦後に再開し、1948年に「上田安子文化学院」設立。 1949年に大丸顧問デザイナーに就任。1953年、文化服装学院がフランスからクリスチャン・ディオール一行12名(うちモデル7名)を招き、文化服装学院と名古屋・京都・大阪でファッションショーを開催した際、大丸がディオールと独占契約した(1964年まで)。
土居 次義(どい つぎよし、1906年4月6日- 1991年… 土居 次義(どい つぎよし、1906年4月6日- 1991年11月24日)は、日本の美術史学者。専門は日本美術史。京都工芸繊維大学名誉教授、京都新聞文化賞、紫綬褒章、京都府文化賞特別功労賞、京都市文化功労賞、授与。元京都国立博物館館長。 大阪府大阪市天王寺区生まれ。大阪府立高津中学校、第三高等学校、京都大学文学部哲学科美学美術史卒業、同大学文学部助手として研究室に残る。大阪府立大手前高等女学校講師、恩賜京都博物館監査員。1945年(昭和20年)京都市文教局文化課長に奉職、市内の文化財の疎開に奔走、二条城の襖絵などを疎開させ復旧。1949年(昭和24年)京都工芸繊維大学教授となり、意匠工芸科の創設に尽力、1970年(昭和45年)同大学退官と同時に名誉教授。
山本 伊三郎(やまもと いさぶろう、1906年1月25日 -… 山本 伊三郎(やまもと いさぶろう、1906年1月25日 - 1971年7月8日)は、日本の政治家、参議院議員(3期)。位階は従四位。勲等は勲二等。浪華商業学校、関西大学専門部卒業。 大阪市生まれ。1918年(大正7年)小学校卒業。社会主義理論の原典を知りたいとの思いから大阪キリスト教青年会英語学校入学。 1926年(大正15年)、大阪市役所採用。1947年(昭和22年)、日本社会党入党。1948年(昭和23年)、大阪市職員労働組合委員長。 1956年(昭和31年)、全日本自治団体労働組合中央執行委員長。1959年(昭和34年)、第5回参議院議員通常選挙全国区当選。1965年(昭和40年)、第7回参議院議員通常選挙二選。
藤井 健造(ふじい けんぞう、1906年1月14日 - 19… 藤井 健造(ふじい けんぞう、1906年1月14日 - 1991年 2月10日)は、神戸又新日報記者、大日本帝国陸軍情報将校、大手前大学創立者。大阪府守口市出身。 藤井健造は1906年(明治39年)、大阪府北河内郡守口町(現・守口市)に、樋口家の長男として生まれた。幼い頃から馬と自動車に興味を持ち、関西大学へ進学後は馬術部で活躍し、第4回全国乗馬大会では個人三等で入賞している。 神戸又新日報記者時代 大学卒業後、神戸又新日報に記者として入社するも、馬と車に情熱を燃やした。1932年ロサンゼルスオリンピックでは、バロン西の愛称で知られる男爵の西竹一陸軍中尉が障害飛越競技で出場することから、自費通信員の資格を得て、民間人で唯一の付き人として同行渡米し、担当記者として取材。
杉 靖三郎(すぎ やすさぶろう、1906年1月6日 - 20… 杉 靖三郎(すぎ やすさぶろう、1906年1月6日 - 2002年5月29日)は、日本の生理学者、性評論家、翻訳家、医師。医学博士(東京帝国大学・1940年)。文部省国民精神文化研究所文化部主任、東京教育大学・専修大学教授を歴任。旧姓は渡辺。 大阪府堺市生まれ。第二高等学校卒業。1928年、東京帝国大学医学部卒業。橋田邦彦の下で電気生理学を専攻。1940年、「筋負傷電位の電源の座に関する研究」にて東京帝国大学医学博士。 日本的科学に賛同し1941年国民精神文化研究所文化部主任。1947年3月 - 1951年8月 公職追放。1946年 - 1951年『医学書院』編集長、1952年 - 1969年東京教育大学教授、1956年『人間の科学』で毎日出版文化賞受賞。
初代有明 月子(ありあけ つきこ、1905年〈明治38年〉1… 初代有明 月子(ありあけ つきこ、1905年〈明治38年〉12月18日 - 没年不明)は、元宝塚少女歌劇団月組主演娘役クラスの人物である。男役も経験した。大阪府大阪市北区中津出身。本名・横沢夏子、旧姓・福井。夫は元プロ野球監督、プロ野球選手の横沢三郎の兄。 この芸名は小倉百人一首の第21番:素性法師の 1918年(大正7年)、7期もしくは8期生として、宝塚少女歌劇団(現在の宝塚歌劇団)に入団。 1926年(大正15年)6月9日、宝塚歌劇団を20歳で退団。 1928年(昭和3年)、宝塚歌劇団に22歳で復帰。雪組に配属される。 1931年、宝塚歌劇団を退団。 高峰妙子・・初代瀧川末子・・奈良美也子・・汐見洋子・・神代錦・・打吹美砂・・越路吹雪・・淀かほる・・星空ひかる・・麻鳥千穂 ・・甲にしき - 安奈淳、松あきら&瀬戸内美八 - 榛名由梨&安奈淳 - 安奈淳 - 松あきら - 松あきら&順みつき - 順みつき - 高汐巴 - 大浦みずき - 安寿ミラ - 真矢みき - 愛華みれ - 匠ひびき - 春野寿美礼 - 真飛聖 - 蘭寿とむ - 明日海りお - 柚香光 - 永久輝せあ(現役) 秋田露子・・初代春日花子・・初代大江美智子・・久美京子・・打吹美砂・・日下輝子・・宮城野由美子・・鳳八千代・・夏亜矢子・・美和久百合・・竹生沙由里・・上原まり(固定でない) - 上原まり&北原千琴 - 美雪花代 - 若葉ひろみ - 秋篠美帆 - ひびき美都 - 森奈みはる - 純名里沙 - 千ほさち - 大鳥れい - ふづき美世 - 桜乃彩音 - 蘭乃はな - 花乃まりあ - 仙名彩世 - 華優希 - 星風まどか - 星空美咲(現役) 高砂松子 - 初代瀧川末子 - 奈良美也子 - 三浦時子 - 汐見洋子 - 神代錦 - 打吹美砂 - 大路三千緒 - 藤波洸子 - 打吹美砂 - 畷克美 - 美吉左久子 - 淡路通子 - 恵さかえ - 但馬久美 - 宝純子 - 北小路みほ - 未沙のえる - 星原美沙緒 - 磯野千尋 - 夏美よう - 高翔みず希 - 美風舞良(現役)
加古 祐二郎(かこ ゆうじろう、1905年12月2日 - 1… 加古 祐二郎(かこ ゆうじろう、1905年12月2日 - 1937年7月20日)は、日本の法学者(法哲学)。京都府与謝郡宮津町(現:宮津市)波路出身。京都帝国大学法学部講師、立命館大学法経学部教授。旧制甲南高等学校講師。 1905年(明治38年)12月2日、父・加古寅治、母・久子との間に、男3人女4人の七人兄弟の三男として生まれる。代々父方の家系は兵庫県加古郡平岡村一帯を治める郷士であったが、寅治が司法官の道を選んだため、一家が加古郡に定住することはなく、舞鶴、丸亀、堺、宮津、大阪などを転々をして過ごすこととなった。司法官としての寅治は、大阪控訴院部長まで務めている。 1923年(大正12年)、天王寺中学校を卒業した祐二郎は、旧制の甲南高等学校に第一期生として入学。
川島 清(かわしま きよし、1905年11月14日 - 没年… 川島 清(かわしま きよし、1905年11月14日 - 没年不詳)は、日本の俳優、殺陣師である。川島 淸と表記されることもある。本名は河島 淸三郎(かわしま せいざぶろう)。旧芸名は鵜沼 三四郎(うぬま さんしろう)。マキノ・プロダクションの主要人物の一人である。 1905年(明治38年)11月14日、岡山県苫田郡奥津村(現在の同郡鏡野町)に生まれる。 旧制大阪府立高津中学校(現在の大阪府立高津高等学校)を卒業後、現在の大阪府富田林市にあった天地キネマに入社。ただし、同社での出演作品は不明である。2004年(平成16年)10月15日に発行された『日本映画人改名・改称事典』(国書刊行会)によれば、同社在籍当時は「鵜沼 三四郎」という芸名で活動していたという。
竹内 喜三郎(たけうち きさぶろう、1905年9月4日 - … 竹内 喜三郎(たけうち きさぶろう、1905年9月4日 - 1989年3月7日)は、昭和時代の研究者、経営者。大阪府大阪市出身。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
堀尾 正雄(ほりお まさお、1905年7月20日 - 199… 堀尾 正雄(ほりお まさお、1905年7月20日 - 1996年12月21日)は、日本の化学者、京都大学名誉教授。専門は高分子化学。工学博士(1934年)。大阪府生まれ。
石田 恒信(いしだ つねのぶ、1905年〈明治38年〉6月8… 石田 恒信(いしだ つねのぶ、1905年〈明治38年〉6月8日 - 1991年〈平成3年〉2月18日)は、大正時代に活躍した競泳選手。関西学院大学在学中の1924年、パリオリンピックに出場した。大学卒業後は阪神電気鉄道に入社。第二次世界大戦戦中・戦後の困難な時期に阪神甲子園球場の球場長を務めた。 大阪府出身。旧制茨木中学校(現在の大阪府立茨木高等学校)に学ぶ。茨木中学校は体育教諭・杉本伝の指導のもとで水泳の盛んな学校であった。1920年(大正9年)8月、茨木中学校は石田(3年生)、入谷唯一郎・高石勝男(2年生)ら5人の選手で第4回戸田全日本競泳大会(静岡県戸田湾、東京帝国大学主催)に出場して優勝を果たす。
知葉 友雄(ちば ともお、1905年6月2日 - 1974年… 知葉 友雄(ちば ともお、1905年6月2日 - 1974年4月13日)は、昭和初期の日本の元ラグビー選手。戦後は指導者としても活動した。 正則中等学校から明治大学へ進む。相撲部に在籍していたが北島忠治に誘われてラグビー部に入部。木元規矩男(後の九州ラグビー協会会長、RKB毎日放送副社長)とセカンドローを組み、活躍。4年連続で明早戦に出場し、1929年度には主将を務めた。 1930年の日本代表カナダ遠征に明治大学ラグビー部初の日本代表として選出され22人のメンバー中で唯一7戦全戦に出場。ブリティッシュコロンビア州代表戦でキャップ1を獲得した。 大学卒業後は、朝鮮総督府鉄道に入社しプレーを継続。1934年主将兼監督に就任。
辰巳 柳太郎(たつみ りゅうたろう、1905年〈明治38年〉… 辰巳 柳太郎(たつみ りゅうたろう、1905年〈明治38年〉4月20日 - 1989年〈平成元年〉7月29日)は、日本の俳優。兵庫県赤穂郡坂越村(現・赤穂市)生まれ。本名は新倉武一。 島田正吾と共に、新国劇の屋台骨を支えた1人。 少年時代に養子に出されるも、養家を13件も転々としながら関西甲種商業学校(現・関西大学第一中学校・高等学校)を経て、商業学校(現・大阪市立天王寺商業高等学校)を中退。 1919年、小林一三が国民劇創設のため作った「男子養成会」の創設メンバー(男子専科生第一期生)として宝塚入り。 1926年に旅回りの一座に入り、長野県で初舞台を経験。半年後、小林一三主宰、坪内士行文芸部長の「宝塚国民座」に入団して東伍作の名で舞台に立つ。
野村 正二郎(のむら しょうじろう、旧姓:杉村(すぎむら)、… 野村 正二郎(のむら しょうじろう、旧姓:杉村(すぎむら)、1905年4月4日 - 1975年1月15日)は、大阪府大阪市出身の科学者、大学教授およびサッカー選手。男爵。 父は杉村倉庫創業者の杉村正太郎、弟は阪急電鉄常務を務めた杉村正三郎であり、大阪商工会議所初代会頭の五代友厚が母方の祖父に当たる。 大阪府立天王寺中学校(現:大阪府立天王寺高等学校)を卒業後、早稲田大学に入学してア式蹴球部に所属。在学中の1927年に第8回極東選手権大会のサッカー日本代表に選出され、8月27日の中華民国代表で代表初出場を果たした。 男爵を叙爵した野村維章を祖とする野村家に大学を卒業する前に養子に入って野村姓に改名し、1928年2月2日に男爵を襲爵した。
光村 甚助(みつむら じんすけ、1905年(明治38年)2月… 光村 甚助(みつむら じんすけ、1905年(明治38年)2月20日 - 1992年(平成4年)3月23日)は、昭和期の労働運動家、政治家。参議院議員(2期)。 鹿児島県肝属郡牛根村、後の垂水市牛根境に生まれる。貧農の塩屋家の8人兄弟の五男。小学校卒業後、母校の小間使いとして働く。1919年(大正8年)鉄道員の求人に応募し、福岡県の折尾駅に勤務。1年半後に鉄道員を辞め、大阪の紡績会社で給仕として働きながら夜学に通う。その後、上京して新聞配達をしながら神田の予備校に通ったが、関東大震災被災のため大阪へ戻って、ガラス会社の職工となり、1925年(大正14年)関西大学専門部別科入学。さらに京阪商業学校(後の大阪府立守口高等学校、現大阪府立芦間高等学校)を経て、1931年(昭和6年)関西大学専門部法科を卒業した。