谷池 洋平(たにいけ ようへい、1977年4月5日 - )は… 谷池 洋平(たにいけ ようへい、1977年4月5日 - )は、兵庫県三原郡西淡町(現南あわじ市)出身の元プロサッカー選手、サッカー指導者。ポジションはディフェンダー(DF)。 兵庫県の淡路島出身で、高校は故郷を離れて静岡県の清水市立商業高校に進学。筑波大学在学時にユニバーシアード日本代表の一員として1999年夏季ユニバーシアード(マヨルカ大会)に出場した。 2000年、ヴィッセル神戸に加入。2001年より期限付き移籍により日本フットボールリーグ(JFL)の大塚製薬でプレーし、翌年も移籍期間を延長。2003年より大塚製薬に完全移籍した。2001年から2004年まで4シーズン連続でJFLベストイレブンに選ばれ、チームは2003年、2004年の2度リーグタイトルを獲得した。
吉田 孝行(よしだ たかゆき、1977年3月14日 - )は… 吉田 孝行(よしだ たかゆき、1977年3月14日 - )は、兵庫県川西市出身の元プロサッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはフォワード、ミッドフィールダー。2026シーズンからJリーグ・清水エスパルスの監督を務める。 滝川第二高等学校時代には日本で開催された1993 FIFA U-17世界選手権に中田英寿、宮本恒靖、松田直樹と共に出場。高校卒業後、横浜フリューゲルスに入団。当時の横浜F監督であったアントニオ・カルロス・シルバやオタシリオが積極的に若手を起用していたこともあり、1年目から試合出場のチャンスを得る。横浜F時代は95試合に出場し、21得点を挙げた。 1998年に横浜マリノスとの合併によるチーム消滅に伴い、横浜F・マリノスに移籍。
窪田 龍二(くぼた りゅうじ、1976年7月24日 - )は… 窪田 龍二(くぼた りゅうじ、1976年7月24日 - )は、兵庫県出身の元サッカー選手。ポジションはミッドフィールダー。 神戸弘陵学園高校を卒業後、横浜マリノスに入団、11試合に出場した。1998年にヴィッセル神戸に移籍、1年プレーし20試合に出場した。
堂森 勝利(どうもり かつとし、1976年6月29日 - )… 堂森 勝利(どうもり かつとし、1976年6月29日 - )は、兵庫県西宮市出身の元サッカー選手、指導者。ポジションはミッドフィールダー、ディフェンダー。 1995年にセレッソ大阪ユースからトップチームに昇格。1999年までにリーグ戦30試合に出場した。2000年にアルビレックス新潟に移籍。その後、JFLのチームなどでプレーし、2005年9月引退。引退後は若年層などの指導を行っている。
波戸 康広(はと やすひろ、1976年5月4日 - )は、兵… 波戸 康広(はと やすひろ、1976年5月4日 - )は、兵庫県三原郡西淡町(現:南あわじ市)出身の元プロサッカー選手。現役時代のポジションはディフェンダー(DF)。元日本代表。現在は横浜F・マリノスのアンバサダーを務める。 1995年、滝川第二高校から横浜フリューゲルスに入団。元々はフォワードだったが、サテライト監督のゲルト・エンゲルスによって右サイドにコンバートされ、1997年に森山佳郎から右サイドのポジションを奪う形で頭角を現す。1998年の横浜F消滅の際に横浜F・マリノスへ移籍。横浜FMではチーム事情からストッパーとしてプレーしたことがきっかけとなり、サイドバックやセンターバックもこなした。
奥 大介(おく だいすけ、1976年2月7日 - 2014年… 奥 大介(おく だいすけ、1976年2月7日 - 2014年10月17日)は、兵庫県尼崎市出身の元プロサッカー選手。現役時代のポジションはミッドフィールダー。元日本代表。 小学校3年よりサッカーを始める。小学生時代は尼崎市内の浦風フットボールクラブで、中学校時代は通学先のサッカー部でプレーした。1991年に神戸弘陵学園高等学校に入学しサッカー部に入部。2年時と3年時の2度全国高等学校サッカー選手権大会に出場し、特に第72回全国高等学校サッカー選手権大会では大会ベスト8を経験し大会優秀選手にも選出された。 1994年、Jリーグ参入間もないジュビロ磐田に加入。U-19およびU-20日本代表に選出され、アジアユースおよびワールドユースに出場した。
下川 誠吾(しもかわ せいご、1975年11月17日 - )… 下川 誠吾(しもかわ せいご、1975年11月17日 - )は、兵庫県尼崎市出身の元プロサッカー選手。現役時代のポジションはゴールキーパー。 中学生の時にサッカーを始める。その後は北陽高校を経て、桃山学院大学に進学し体育会サッカー部に入部。2年次(1995年)の夏にセレッソ大阪の練習に参加し、翌1996年にC大阪に加入した。当時正GKだったジルマールが退団後の1997年の2ndステージから武田治郎や武田亘弘らを抑え正GKに定着。110試合連続先発出場を果たすなど 長年正GKを務めていたが、2003年途中から若手の多田大介の台頭により出場機会が減少。シーズン終了後に戦力外通告を受け、C大阪を退団した。
久保井 秀昭(くぼい ひであき、1975年7月10日 - )… 久保井 秀昭(くぼい ひであき、1975年7月10日 - )は、兵庫県美方郡美方町(現・美方郡香美町)出身の元サッカー選手、サッカー指導者。
小菊 昭雄(こぎく あきお、1975年7月7日 - )は、兵… 小菊 昭雄(こぎく あきお、1975年7月7日 - )は、兵庫県神戸市出身の元アマチュアサッカー選手、サッカー指導者。J2リーグ、サガン鳥栖監督。 滝川第二高校出身で、高校時代は黒田和生から指導を受けた。中盤の選手で、高校1年生の時に全国高校選手権の登録メンバーに入ったが、出場機会は皆無だった。高校2年生で、父親を病気で亡くした。[要出典] 1994年、愛知学院大学に入学。 プロ選手になるのは難しいという立場を理解するようになった。「サッカーの近くで仕事がしたい」という夢を知っていた友人(当時のセレッソ大阪社長鬼武健二の息子)に紹介され、セレッソ大阪に手紙を書いて面接に臨んだ。 卒業直前の1998年2月からセレッソ大阪下部組織のコーチにアルバイト採用され、子供たちを教えるところからスタートした。
竹原 欣也(たけはら きんや、1974年11月16日 - )… 竹原 欣也(たけはら きんや、1974年11月16日 - )は、兵庫県出身の元サッカー選手。ポジションはDF。 1993年に神戸弘陵学園高等学校からジェフユナイテッド市原に加入。1995年11月25日のJリーグ最終節・ガンバ大阪戦で初出場を記録するも、同シーズン終了後に退団した。 1996年、チームメイトの碓氷幸一とともにジャパンフットボールリーグの福島FCに加入。しかし1997年の終わりにクラブが経営難の為に解散、それと同時に引退した。
木場 昌雄(きば まさお、1974年9月6日 - )は、兵庫… 木場 昌雄(きば まさお、1974年9月6日 - )は、兵庫県南あわじ市出身の元プロサッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはディフェンダー、ミッドフィールダー。 滝川第二高等学校卒業後の1993年に松波正信らとともにJリーグ・ガンバ大阪に加入。G大阪には12年の長きに渡って所属し、2001年から2003年まではキャプテンも務めた。守備のユーティリティプレイヤーとしてセンターバック、ボランチなどのポジションでプレーし、J1リーグ戦223試合に出場した。 2004年シーズンオフにガンバ大阪から戦力外通告を受け、2005年はJ2・アビスパ福岡に移籍したが、前年に手術した膝の状態が思わしくなく満足いくプレイができず、ブログ更新にだけは熱心だったが結局公式戦出場のないままシーズン途中に現役を引退した。
寺川 能人(てらかわ よしと、1974年9月6日 - )は、… 寺川 能人(てらかわ よしと、1974年9月6日 - )は、兵庫県出身の元サッカー選手。ポジションはMF。主戦場は主に右サイドハーフとボランチだが、左サイドハーフなどもこなすユーティリティープレイヤー。 高校時代は、長髪とパスセンスから「滝二のラモス」と呼ばれていた。 1993年シーズンのJリーグ開幕と同時に横浜マリノス(現横浜F・マリノス)に入団。1998年まで在籍し、1999年にジェフユナイテッド市原に、翌2000年にはアルビレックス新潟に移籍。2003年に大分トリニータに移籍したが、2004年に新潟に復帰。2008年まで在籍し、中盤から新潟を支えた。 2009年シーズンより、湘南ベルマーレに完全移籍。
久藤 清一(くどう きよかず、1974年6月21日 - )は… 久藤 清一(くどう きよかず、1974年6月21日 - )は、兵庫県尼崎市出身の元サッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはミッドフィールダー。 福岡市立横手中学校出身 中学時代はセンターフォワードにて活躍。 高校時代はサイドに流れるタイプのフォワードをメインにサイドハーフなどでプレーし、プロ入り後は主にミッドフィールダーとしてサイド・センター、攻撃的・守備的を問わずプレーした。様々なポジションでプレーできるユーティリティプレーヤーであり、ゴールキーパーとセンターバック、左サイドバック以外のポジションでプレー経験がある。 ジュビロ磐田、セレッソ大阪、アビスパ福岡の3チームを渡り歩いて2010年に引退、以降はアビスパ福岡ユースにてコーチ、監督を務めた。
興津 大三(おきつ だいぞう、1974年6月15日 - )は… 興津 大三(おきつ だいぞう、1974年6月15日 - )は、兵庫県出身の元サッカー選手。2013年まで清水エスパルス強化部でスカウト統括および編成担当。アーセナルサッカースクール市川の創設時にGMを務めた。 大学時代はフォワード。大学ナンバーワンルーキーと期待され1997年に清水エスパルスに入団。2000年にセレッソ大阪に移籍し、同年オフに現役を引退した。 引退後は主に清水エスパルス強化部にてスカウト統括及びチーム編成を担当。岡崎慎司、藤本淳吾、大前元紀、本田拓也などを獲得。 2014年にイングランド・プレミアリーグ所属のアーセナルFCが日本で公式に開設したアーセナルサッカースクール市川のGMに就任、2016年に退任した。
橋口 勝(はしぐち まさる、1974年5月21日 - )は、… 橋口 勝(はしぐち まさる、1974年5月21日 - )は、兵庫県尼崎市出身の元サッカー選手。ポジションはDF(左サイドバック)。
湯田 哲生(ゆだ てつお、1974年5月11日 - )は、兵… 湯田 哲生(ゆだ てつお、1974年5月11日 - )は、兵庫県姫路市出身の元サッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションは、GK。 大分工業高校を卒業後、ウルグアイの名門、CAペニャロールでプレーした実績を持つ。思い切って前に飛び出すプレーと、左右両足での正確なフィードが持ち味。現役を引退後は指導者へ転身。2008年には、ドイツ・ブンデスリーガ、TSV1860ミュンヘンでGKコーチを経験している 。
松尾 一(まつお はじめ、英:MATSUO Hajime、1… 松尾 一(まつお はじめ、英:MATSUO Hajime、1972年9月26日 - )は、兵庫県尼崎市出身の元サッカー審判員(プロフェッショナルレフェリー、元国際審判員)である。 茨木市立南中学校、大阪府立茨木東高等学校卒業後、大阪電気通信大学在学中、関西学連から“第1回レフェリースクール”に誘われ、審判の道を目指し始める。1997年に1級審判員登録。2004年からはJ1リーグの主審として活動している。 2005年に国際主審に登録されたが、大陸間プレーオフで第4審を担当した際、主審の吉田寿光をサポートできず、PKの誤審を招き、2006年に一度国際主審を外れた。しかし、2007年より再び国際主審として活動することになった。
森 敦彦(もり あつひこ、1972年5月31日 - )は、日… 森 敦彦(もり あつひこ、1972年5月31日 - )は、日本の元サッカー選手、現ファッションデザイナー。兵庫県出身。 妻はモデルで、子供服・婦人服ブランド「HUG O WaR」(ハグ・オー・ワー)のデザイナーでもある雅姫。また、一女 (1996年生) の父である。 滝川第二高校卒業後、1991年に日本サッカーリーグ所属の全日空横浜サッカークラブ(後の横浜フリューゲルス)に入団。Jリーグ草創期の人気ゴールキーパーとして活躍。ロングヘアやドレッドヘア、バンダナといった風貌で一躍有名となり、レゲエ音楽の愛好家でもあることから「レゲエくん」と呼ばれた。 Jリーグでの活躍から日本代表候補に選出されるなど、順風満帆な時期を過ごしていたが、1995年8月12日の長崎県立総合運動公園陸上競技場での対浦和レッドダイヤモンズ戦において、判定を不服とし審判に対し故意に肩を当てた暴力行為で、3か月出場停止という厳しい処分が下された(当該試合は0-6で完敗。
木山 隆之(きやま たかし、1972年2月18日 - )は、… 木山 隆之(きやま たかし、1972年2月18日 - )は、兵庫県伊丹市出身の元サッカー選手、サッカー指導者である。選手時代のポジションはディフェンダー(DF)。 兵庫県立伊丹西高校、筑波大学では、いずれも主将を務めた。伊丹西は先代が全国経験があり県立にしては強豪校の一角で彼自身は全国大会には出れなかったが個人の評価は高くユース世代の代表には選ばれている(その評価で筑波大学推薦を勝ち取る)。因みに小中学校時代は共に伊丹市の「笹原」だが当時はMFでゲームメーカーだった。[要出典]運と共に本人の実力もあり筑波大学在籍中にJリーグが開幕し大卒でプロの道に進む。1994年、大学の同期でセンターバックでコンビを組んだ辛島啓珠とともにガンバ大阪に入団。
山田 栄一郎(やまだ えいいちろう、1971年6月15日 -… 山田 栄一郎(やまだ えいいちろう、1971年6月15日 - )は、山口県出身の元プロサッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはゴールキーパー。 滝川第二高等学校、筑波大学出身。1994年に藤枝ブルックスに加入し、翌年横浜マリノスへ移籍。しかし松永成立・浦上壮史に阻まれベンチ入りもままならず、1996年にマリノスを退団した。退団後は講談社の関連会社で車のビデオマガジンを制作、副編集長にまでなるが業績悪化を機にコーチを目指す。 ジュニア年代でコーチのキャリアを開始したのち、2017年8月より浦和レッズ分析担当コーチに就任。
石井 壮二郎(いしい そうじろう、1970年3月29日 - … 石井 壮二郎(いしい そうじろう、1970年3月29日 - )は、日本出身の元サッカー選手。ポジションは、MF。
安達 亮(あだち りょう、1969年7月2日 - )は、兵庫… 安達 亮(あだち りょう、1969年7月2日 - )は、兵庫県出身の元サッカー選手、サッカー指導者。父親はヴィッセル神戸のゼネラルマネージャーや社長も務めた安達貞至。 市立船橋高校時代はキャプテンを務め、全国に先駆けてブロックサインを導入するなどの頭脳プレーでチームを牽引した。 横浜フリューゲルスでは選手兼アシスタントコーチを経て、Jリーグ元年の1993年はサテライトチームにてゲルト・エンゲルスの下でアシストタントコーチに就いた。その後は横浜F、横浜F・マリノス、鹿児島実業高校で育成年代の指導者を歴任。横浜FMユース監督時代の教え子である栗原勇蔵は「亮さんじゃなかったら、俺なんてどうなっていたかわからない。
藤田 善浩(ふじた よしひろ、1969年6月12日 - )は… 藤田 善浩(ふじた よしひろ、1969年6月12日 - )は、日本の元サッカー選手。ポジションはミッドフィールダー。 神戸FCジュニアユース時代に日本ジュニアユース代表に選出され、1984年8月のAFC U-17選手権1985予選、1985年2月の本大会に出場した。 滝川第二高校では1学年上に本街直樹、同期に牧野景輔がいる。高校総体では3年時にベスト4進出を果たしたが、冬の高校選手権では2年時と3年時に出場するもいずれも初戦敗退。 卒業後の1988年に日本サッカーリーグ1部の松下電器産業サッカー部に加入。1990年1月28日に行われたJSL1部第12節、ヤンマーディーゼル戦でデビューを果たした。
牧野 景輔(まきの けいすけ、1969年4月11日 - )は… 牧野 景輔(まきの けいすけ、1969年4月11日 - )は兵庫県出身の元サッカー選手。 1969年4月11日兵庫県生まれ。高校卒業後、1988年に日本サッカーリーグ・古河電工(後のジェフユナイテッド市原・千葉)に入団。リーグで27試合9ゴールを果たした。 1992年には日本サッカーリーグが改編され、新たにJ1リーグが設立されると、1994年に日本サッカーリーグのセレッソ大阪に移籍。 セレッソは1995年にJ1に昇格したものの、牧野は試合でまったくプレーできず、1995年シーズンの終わりに引退した。
本街 直樹(ほんまち なおき、1968年7月31日 - )は… 本街 直樹(ほんまち なおき、1968年7月31日 - )は兵庫県出身の元サッカー選手、サッカー指導者である。ポジションはディフェンダー(センターバック)。現在は山形県の羽黒高等学校で体育教師とサッカー部監督を務める。
井上 卓也(いのうえ たくや、1967年8月2日 - )は、… 井上 卓也(いのうえ たくや、1967年8月2日 - )は、兵庫県出身のサッカー指導者。 明石南高校、大阪体育大学を経て、ドイツ体育大学ケルンへ留学。ここでズデンコ・ベルデニックと出会い、交流を持つ。 帰国後は、指導者としてジェフユナイテッド市原、ブランメル仙台を渡り歩いた。 2008年より大宮アルディージャに移り、通訳や下部組織のコーチを歴任。2012年6月、ベルデニックの監督就任に伴い、トップチームのヘッドコーチに就任。2014年からはU-12のコーチを務める。 2015年1月、U-18シンガポール代表監督への就任が発表された。 2020年4月、東洋大学体育会サッカー部の監督に就任。 2024年12月、第73回全日本大学サッカー選手権大会で初優勝に導く。
和田 昌裕(わだ まさひろ、1965年1月21日 - )は、… 和田 昌裕(わだ まさひろ、1965年1月21日 - )は、兵庫県神戸市出身の元サッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはミッドフィールダー、ディフェンダー。次男の和田篤紀および三男の和田倫季もサッカー選手である。
石末 龍治(いしずえ りゅうじ、1964年7月22日 - )… 石末 龍治(いしずえ りゅうじ、1964年7月22日 - )は、兵庫県伊丹市出身の元サッカー選手、サッカー指導者(GKコーチ)。 伊丹北高校時代の3年のときに、兵庫県選抜入りし、兵庫県の初優勝に貢献、和田昌裕、永島昭浩と共に「兵庫・高校三羽がらす」と呼ばれた。その後、東海大学を経て、1987年に全日空横浜サッカークラブに入団。1992年はレギュラー、1993年のJリーグ発足後は、森敦彦の控えに回ることになったが、森の不調や出場停止による試合出場時には好セーブを連発した。そのため、他チームの選手やサポーターからは「控え最強のGK」とも言われた。1993年の天皇杯決勝では出場停止の森に代わり先発、安定感のあるプレーで優勝に貢献した。
永島 昭浩(ながしま あきひろ、1964年〈昭和39年〉4月… 永島 昭浩(ながしま あきひろ、1964年〈昭和39年〉4月9日 - )は、兵庫県神戸市出身の元サッカー選手で、サッカー解説者、スポーツキャスター。元サッカー日本代表。長女の永島優美は元フジテレビのアナウンサー。また、プロ野球の横浜DeNAベイスターズに所属している佐野恵太、福岡ダイエーホークス、西武ライオンズ、阪神タイガースなどでプレーした佐々木誠とも親戚関係にある(佐野の妻が優美の夫の妹、佐々木は佐野の伯父にあたる)。 小学4年からサッカーを始め、御影工業高校時代は1年からインターハイ出場、1、2年時には全国高校選手権出場。3年では兵庫県選抜入りし、島根国体で優勝。 高校卒業後の1983年、松下電器産業サッカー部(現:ガンバ大阪)に入団。
桝本 厚志(ますもと あつし、1961年7月24日 - )は… 桝本 厚志(ますもと あつし、1961年7月24日 - )は、兵庫県 出身の元サッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはMF(攻撃的MF、ボランチ)、DF。 小学校からサッカーを始め、中学校時代では、近畿大会で優勝。大会最優秀選手に選ばれる。北陽高等学校時代1年で、高校総体出場、全国高校サッカー選手権出場したが、準決勝で、早稲田一男、宮内聡、金子久らを擁する帝京高校に2対0で敗れ3位、2年で高校総体決勝で、八千代高校に3対1で勝ち初優勝。大会優秀選手(ベストイレブン)に選ばれる。この年の高校サッカー選手権大会大阪予選にて準決勝で明星高校にPKで敗れ2年連続出場できず。3年で高校総体に出場し、3回戦で浦和南2対1で逆転負けし連覇の夢断たれる。
祖母井 秀隆(うばがい ひでたか、1951年9月2日 - )… 祖母井 秀隆(うばがい ひでたか、1951年9月2日 - )は、兵庫県神戸市出身の元サッカー選手・サッカー指導者、経営者。 兵庫県神戸市で生まれ、幼少期は兵庫県芦屋市で育つ。宮川小学校、芦屋市立精道中学校、報徳学園高校を経て、大阪体育大学に入学。 大学卒業後、1975年に読売サッカークラブに入団。半年で退団し、西ドイツに渡り、ドイツ4部リーグのBTSノイシュタント(BTS Neustadt)でプレー。退団後は引き続現地に留まり、ケルン体育大学でコーチング学を学ぶ。 1984年に帰国して、母校の大阪体育大学サッカー部および同好会チームの大体大蹴鞠団(佐川急便大阪SCの前身)でコーチを担当。 1995年からジェフユナイテッド市原・千葉(当時はジェフユナイテッド市原)の育成部長、1997年から2006年までゼネラルマネージャーに就任。
淀川 隆博(よどがわ たかひろ、1951年3月4日 - )は… 淀川 隆博(よどがわ たかひろ、1951年3月4日 - )は、日本の元サッカー選手、前Jリーグ所属ジェフユナイテッド市原・千葉社長。現役時代のポジションはGK。 兵庫県出身。早稲田大学在学中には学生日本代表に選ばれた経験を持ち、1973年からは古河電工サッカー部(現・ジェフユナイテッド市原・千葉)でプレイ。 引退後は古河電工の営業職を経て、2004年4月から2008年4月までジェフユナイテッド市原の代表取締役社長を務める。 2006年にクラブの監督として契約途中であったイビチャ・オシムの日本代表監督就任要請を許諾、それまで一貫してチームの強化方針を担当していた祖母井秀隆GM(当時)と対立し、祖母井GMは退団する結果となった。
加藤 寛(かとう ひろし、1951年1月29日 - )は、兵… 加藤 寛(かとう ひろし、1951年1月29日 - )は、兵庫県神戸市出身(生まれは岡山県久米郡)のサッカー指導者。元ヴィッセル神戸監督。1977年から1998年まで日本サッカー協会ナショナルトレセンコーチも務めていたほか、兵庫県サッカー協会常務理事・日本クラブユースサッカー連盟理事なども務め、神戸アスリートタウンクラブの設立など、関西を中心にサッカーの普及に尽力している。父親は神戸フットボールクラブ創設者の1人である加藤正信。 父親の影響でサッカーを始め、神戸市立上野中学校、神戸市立葺合高等学校を経て、大阪体育大学に進学。大学1年生のときには第1回FIFAコーチング・スクールでデットマール・クラマーの助手を務めた。
継谷 昌三(つぎたに しょうぞう、1940年6月25日 - … 継谷 昌三(つぎたに しょうぞう、1940年6月25日 - 1978年6月2日)は、兵庫県神戸市出身のサッカー選手。ポジションはMF。 神戸市出身で実家は材木商を営んでいて、裕福であったとされる。関西学院中学部サッカー部では3年次の1955年に主将を務めた。関学高等部でもサッカー部に所属して関学高等部の黄金時代の中心的な役割を担った。 1959年に関西学院大学に入学しサッカー部に所属し、この年に開催されたAFCユース選手権1959の日本代表に選出された。また、大学3年次の1961年8月15日にはインドネシア代表戦で日本代表として初出場した。大学4年次は主将を務めた他、1962年のアジア大会の代表に選出され出場も果たした。
加茂 周(かも しゅう、1939年10月29日 - )は、兵… 加茂 周(かも しゅう、1939年10月29日 - )は、兵庫県芦屋市出身の元サッカー選手、サッカー指導者。 長兄の加茂豊は毎日放送元社員でゴールキーパーとして1958年アジア大会で日本代表に選出された経験を持ち、弟の加茂建は加茂商事(サッカーショップ加茂を展開、傘下にジャパン・スポーツ・プロモーション、ソル・スポーツマネージメント)の社長である。 なお、1936年ベルリンオリンピックサッカー日本代表の加茂健・加茂正五との血縁関係はない。 関西学院大学卒業後、ヤンマーディーゼルサッカー部(現:セレッソ大阪)での選手生活を経て、1967年に指導者に転じた。1974年に日本人初のプロ契約監督として日産自動車サッカー部(現:横浜F・マリノス)の監督に就任。
安達 貞至(あだち さだゆき、1938年4月4日 - )は、… 安達 貞至(あだち さだゆき、1938年4月4日 - )は、日本の兵庫県出身のサッカー選手、サッカークラブスタッフ。選手時代のポジションはゴールキーパー。次男の安達亮もサッカー選手および指導者 関西学院大学から1961年にヤンマーディーゼルに入社、ヤンマーディーゼルサッカー部でプレーした。大学の後輩にあたる加茂周は、安達に誘われる形でヤンマー入りした。釜本邦茂がヤンマーに加入すると、安達はマネージャーに身を転じて裏方としてチームを支えるようになった。社業においては1986年から1995年までヤンマー東日本の代表取締役社長を務めた。 1995年から1996年まで地元兵庫県のヴィッセル神戸(当時JFL)の強化部長、ゼネラルマネージャーを歴任。
岡本 久敬(おかもと ひさたか、1933年12月14日 - … 岡本 久敬(おかもと ひさたか、1933年12月14日 - )は日本出身の元サッカー選手。 選手時代は主に関西学院大学で活躍。全関学(現役、OBを含めた混成チーム)の一員として1953年、1955年の全日本サッカー選手権大会 (後の天皇杯全日本サッカー選手権大会)優勝に貢献した。 日本代表としては1955年1月の東南アジア遠征、1月2日のビルマで代表デビューを果たした。その年、国際Aマッチ5試合に出場した。
生駒 友彦(いこま ともひこ、1932年8月25日 - 20… 生駒 友彦(いこま ともひこ、1932年8月25日 - 2009年4月27日)は、日本の実業家、サッカー選手・指導者。選手時代のポジションはGK。 兵庫県立神戸高等学校を経て、関西学院大学に入学し、サッカー部に所属。全関学(現役、OBで構成される混成チーム)の一員として鴇田正憲らと共に1953年、1955年の全日本サッカー選手権大会 (後の天皇杯全日本サッカー選手権大会)優勝に貢献した。 大学卒業後に新三菱重工業(後の三菱重工業)へ加入。井上健や北口晃らと共に創設期の同サッカー部を牽引し、1956年の都市対抗選手権準優勝、1959年の全日本実業団サッカー選手権大会準優勝などに貢献した。 日本代表としては竹腰重丸監督時代の1955年の東南アジア遠征で代表デビュー。
佐藤 弘明(さとう ひろあき、1932年2月5日 - 198… 佐藤 弘明(さとう ひろあき、1932年2月5日 - 1988年1月1日)は、兵庫県尼崎市出身のサッカー選手、サッカー指導者。ポジションはFB。長女は元OSK日本歌劇団の緒花朋(オバナトモ)。
杉本 茂雄(すぎもと しげお、1926年12月4日 - 20… 杉本 茂雄(すぎもと しげお、1926年12月4日 - 2002年4月2日)は兵庫県神戸市出身のサッカー選手、実業家。選手時代のポジションはHB、FB。 兵庫県立第一神戸中学校を経て関西学院大学法学部に入学。在学中はサッカー部に所属した。1948年3月に大学を卒業し、同年4月に京阪神急行電鉄(現:阪急電鉄)に入社。 同社入社後もサッカーを続け、鴇田正憲らと共に「関学クラブ/全関学」(現役、OBで構成される混成チーム)の一員として1950年、1953年および1955年の全日本選手権大会 (現:天皇杯全日本サッカー選手権大会)の優勝に貢献した。 1951年2月11日の全関西戦で日本代表として初出場 し、1951年3月にインドで開催されたアジア競技大会、1954年3月の1954 FIFAワールドカップ・予選など国際Aマッチ3試合を6試合に出場した。
岡田 吉夫(おかだ よしお、1926年8月11日 - 200… 岡田 吉夫(おかだ よしお、1926年8月11日 - 2002年6月22日)は兵庫県神戸市出身のサッカー選手、サッカー指導者。ポジションはFB。元丸紅参与。 兵庫県立第一神戸中学校(現:兵庫県立神戸高等学校)時代は賀川浩らと共に活躍。神戸高等工業学校(神戸大学工学部の前身)を経て、早稲田大学に進学して、ア式蹴球部に所属した。1950年に大学を卒業して大平鉱山(岡山県)に入社した。 関学クラブ在籍時の1951年2月11日、全関西戦で日本代表として初出場した。以降は1951年のアジア大会、1954 FIFAワールドカップ・予選、1954年のアジア大会などに出場。合計で国際Aマッチ7試合に出場した。 また、1990年代には早稲田大学ア式蹴球部女子の監督を務めた。
岩谷 俊夫(いわたに としお、1925年10月24日 - 1… 岩谷 俊夫(いわたに としお、1925年10月24日 - 1970年3月1日)は兵庫県神戸市灘区出身の新聞記者、サッカー選手、サッカー指導者。 御影師範学校附属小学校でサッカーを始める。 1938年に兵庫県立第一神戸中学校(現:兵庫県立神戸高等学校)へ進学、ア式蹴球部のエースとして1941年に明治神宮競技大会で優勝、翌1942年には主将として橿原神宮大会優勝と明治神宮競技大会連覇に貢献した。1943年に早稲田大学に進学しア式蹴球部へ入部。 1945年7月に兵役に就いたが、病気のために同年8月に除隊となった。戦後は早稲田大学に復学し、1946年と1947年に関東大学サッカーリーグ戦と東西大学1位対抗において2年連続二冠に貢献した。
鴇田 正憲(ときた まさのり、1925年6月24日 - 20… 鴇田 正憲(ときた まさのり、1925年6月24日 - 2004年3月5日)は、兵庫県神戸市出身のサッカー選手、経営者。1940年代から1950年代の日本を代表する右ウイング。 神戸市立西灘小学校、兵庫県立第一神戸中学校(現:兵庫県立神戸高校)を経て、1944年に関西学院大学経済学部に入学。在学中はサッカー部に所属し、関西学生サッカーリーグなどで優勝した。 1950年3月に大学を卒業後、1950年4月に田辺製薬(現:田辺三菱製薬)に入社。サッカー部では、賀川太郎とのコンビで活躍し、全日本実業団サッカー選手権大会で6連覇を含む7回の優勝に貢献。また、杉本茂雄らと共に「関学クラブ/全関学」(現役、OBで構成される混成チーム)の一員として全日本選手権大会 (現:天皇杯全日本サッカー選手権大会)で4回の優勝の優勝に貢献した。
賀川 浩(かがわ ひろし、1924年12月29日 - 202… 賀川 浩(かがわ ひろし、1924年12月29日 - 2024年12月5日)は、兵庫県出身のスポーツライター、サッカー選手。賀川太郎(元サッカー日本代表)は実兄。 神戸一中2年にサッカー部にマネージャーとして入部、5年時にはFW選手として全国大会を制覇。その1ヶ月後に第二次世界大戦が始まった。戦争末期には特別攻撃隊に志願し、出撃数日前に終戦を迎えた。朝鮮北部の海州にいた賀川は上官であった川上晃良(社会人登山家で、戦後利尻岳の冬季初登頂を果たす)らと共に部隊の飛行機に乗って南側に脱出することが出来た。 復員後神戸商大、大阪サッカークラブなどの黄金時代に選手として活躍し、優勝、東西対抗出場、天皇杯準優勝などを経験した。
賀川 太郎(かがわ たろう、1922年8月9日 - 1990… 賀川 太郎(かがわ たろう、1922年8月9日 - 1990年3月6日)は、兵庫県神戸市出身の元サッカー選手。 神戸一中(現・県立神戸高校)、神戸経済大学(現・神戸大学)を経て、1948年に田辺製薬サッカー部に入団。全日本実業団サッカー選手権大会で6連覇を含む7回の優勝を遂げた田辺製薬の黄金期を支えた一人だった。同時期の天皇杯全日本サッカー選手権大会には大阪クラブの選手として出場し、1951年から3年連続で準優勝している。 日本代表としてもワールドカップ・スイス大会予選など、国際Aマッチ5試合に出場した。 2006年に第2回日本サッカー殿堂入りした。サッカーライターの賀川浩は実弟である。
大谷 四郎(おおたに しろう、1918年4月23日 - 19… 大谷 四郎(おおたに しろう、1918年4月23日 - 1990年11月9日)は、兵庫県神戸市出身のサッカー選手、サッカー指導者、サッカージャーナリスト。東洋紡元社長の大谷一二は実兄。また、俳優の大谷亮介は長男、高畑裕太は孫である。 1918年4月23日神戸市御影生まれ。内海紡績常務取締役を務めた大谷恭助の四男として生まれる。御影師範学校附属小学校時代からサッカーに親しみ、兵庫県立第一神戸中学校(現:兵庫県立神戸高等学校)でサッカー部に入部。1934年の全国招待大会、1935年の全国中等学校選手権(現・全国高等学校サッカー選手権大会)に優勝し、2年連続全国大会制覇を達成した。第一高等学校(文科乙類)在学時代にも得点力のあるFWとして活躍。
二宮 洋一(にのみや ひろかず、1917年11月22日 - … 二宮 洋一(にのみや ひろかず、1917年11月22日 - 2000年3月7日)は、兵庫県出身のサッカー選手、サッカー指導者。第二次世界大戦後初のサッカー日本代表監督を務めた。現役時代のポジションはフォワード。 兵庫県御影師範学校付属小学校を経て、1934年に旧制第一神戸中学校(現在の兵庫県立神戸高等学校)を卒業し、慶應義塾大学予科に進学。予科時代より慶應義塾体育会ソッカー部に入部して、予科1年より関東大学リーグに出場した。1938年より慶應義塾大学法学部政治学科に進学。1941年の大学卒業まで慶應義塾ソッカー部および慶應BRBの選手として、全日本選手権大会(現在の天皇杯全日本サッカー選手権大会)で、4度の優勝(1936年、1937年、1939年、1940年)を経験した。
津田 幸男(つだ ゆきお、1917年8月15日 - 1979… 津田 幸男(つだ ゆきお、1917年8月15日 - 1979年4月17日)は、日本の元サッカー選手、サッカー指導者。ポジションはGK。兵庫県神戸市出身。 第一神戸中学校時代に二宮洋一、直木和らと共に1933年に全国中等学校蹴球選手権大会(後の全国高等学校サッカー選手権大会)で優勝。卒業後には二宮と共に慶應義塾大学へ進学し、体育会ソッカー部へ入部。レギュラーの座を掴むと関東大学サッカーリーグ戦4連覇(1937年、1938年、1939年、1940年)、1937年の全日本総合蹴球選手権大会 (後の天皇杯全日本サッカー選手権大会)優勝、慶應BRB(現役選手とOBからなる混成チーム)の一員として1936年、1939年、1940年の全日本総合蹴球選手権大会 優勝に貢献した。
播磨 幸太郎(はりま こうたろう、1915年 - 1953年… 播磨 幸太郎(はりま こうたろう、1915年 - 1953年7月19日)は、日本のサッカー選手、サッカー指導者。ポジションはフォワード。兵庫県神戸市出身。 兵庫県御影師範学校附属小学校を経て、兵庫県立第一神戸中学校(神戸一中、現:兵庫県立神戸高等学校)に入学し、サッカー部に所属。右近徳太郎が2年先輩に、直木和、津田幸男および二宮洋一が1年後輩に当たる。1933年1月に開催された第15回全国中等学校蹴球選手権大会での優勝に貢献した。 1933年に神戸一中を卒業して、慶應義塾大学予科に入学。慶應入学後よりソッカー部に所属して予科1年次よりレギュラー選手となった。また、在学中には慶應BRBで1度(1936年)、慶應義塾大学として1度(1937年)の計2回全日本選手権(現在の天皇杯全日本サッカー選手権大会)で優勝した。
大谷 一二(おおたに いちじ、1912年8月31日 - 20… 大谷 一二(おおたに いちじ、1912年8月31日 - 2007年11月23日)は、兵庫県出身のサッカー選手、実業家。サッカー元日本代表。東洋紡績会長・名誉顧問。サッカー記者の大谷四郎は実弟。 内海紡績常務取締役を務めた大谷恭助の次男として生まれる。兵庫県立第一神戸中学校では右近徳太郎とコンビを組み全国制覇を達成。兵庫県立神戸高等商業学校を卒業後に鐘紡に入社するが1年で退社して、1934年に神戸商業大学(現神戸大学)に入学。同大学ではサッカー部を創設して、関西学生リーグで優勝を果たした。 在学中の1934年5月に開催された第10回極東選手権競技大会のサッカー日本代表に選出され、フィリピン代表戦など3試合に出場して1得点を上げた。