田中 三男(たなか みつお、1907年11月21日 - 19… 田中 三男(たなか みつお、1907年11月21日 - 1974年7月11日)は、日本の外交官。位階は正三位。 兵庫県相生市生まれ。1932年外交官試験合格、33年東京帝大法学部卒業後、外務省入省。ニューヨーク、通商局1課、同3課、上海、北京、天津勤務、神戸連絡調整事務局局長を経て、前後は46年管理局経済部総務課長、47年調査局5課長、同1課長を務める。1950年8月管理国入国管理部長、翌年入国管理庁研修所長の後、52年2月サンフランシスコ在外事務所所長を経て同年4月サンフランシスコ総領事。1951年密出入国に関する治安行政機関監察の件で衆議院行政監察特別委員会に証人喚問された。 同年12月情報文化局長、翌53年吉田茂首相の秘書官を務めた後、情報文化局長を再び務める。
森 恭三(もり きょうぞう、1907年9月24日 - 198… 森 恭三(もり きょうぞう、1907年9月24日 - 1984年2月15日)は、日本の新聞記者。朝日新聞所属。 兵庫県西宮市出身。父は神戸市の外国商館に勤務し、兵庫県立第一神戸中学校(現・兵庫県立神戸高等学校)に進学したが、在学中に父を失う。1930年、東京帝国大学法学部を卒業後、大阪朝日新聞社に入社。東京帝大在学中には帝大セツルメントの法律相談部で活動した。大阪朝日新聞への就職は母を養う必要からで、社会運動を継続する友人に対して罪悪感を抱いており、大阪経済部に配属後は夜勤料を運動にカンパしていたという。しかし1934年に逮捕状が出た(親友の前田俊彦の妹と交友を持ち、この妹の逮捕による)際に、その執行を差し止めた部長の和田信夫から「人間には得手、不得手がある。
桔梗 利一(ききょう りいち、1907年〈明治40年〉9月2… 桔梗 利一(ききょう りいち、1907年〈明治40年〉9月2日 - 1975年〈昭和50年〉9月23日)は、文藝春秋社編集者(1929年〈昭和4年〉7月 - 1943年〈昭和18年〉9月、1953年〈昭和28年〉12月21日 - 1972年〈昭和47年〉9月2日)。
若林 竹雄(わかばやし たけお、1907年8月29日 - 1… 若林 竹雄(わかばやし たけお、1907年8月29日 - 1937年8月7日)は、兵庫県出身のサッカー選手。ポジションはFW(ウイング)。1930年に日本代表初のハットトリック達成選手となった。
白井新平(しらい しんぺい、1907年8月18日 - 198… 白井新平(しらい しんぺい、1907年8月18日 - 1988年9月28日)は、日本のアナキスト、社会運動家、競馬評論家、実業家。 啓衆社の創業者であり、戦前から戦後初期にかけての日本競馬において多くの先駆的な試みを行った。筆名として山本三郎、アキ・ヤマモト(山本秋)などがある。競馬評論家の白井透、白井牧場創業者の白井民平は実子。元馬術競技選手の白井岳は孫。 京都府舞鶴市余部にて、精密機械の仕上工であった喜代太郎とその妻らいの一人息子として生を受ける。父喜代太郎の生家・小津家は油問屋を家業としていたが、新平の祖父の代には遊び好きの道楽者が祟って準禁治産認定を受けている。喜代太郎は幼少期に豊中市で造り酒屋を営んでいた白井家へ養子に出されたのだがこちらもすぐに破産してしまい、小津家に引き取られたのちに手に職をつけるべく技術者となった。
平岡 養一(ひらおか よういち、1907年8月16日 - 1… 平岡 養一(ひらおか よういち、1907年8月16日 - 1981年7月13日)は、日本の木琴(シロフォン)奏者。兵庫県尼崎市出身。 妹はフィギュアスケート選手の平岡露子。ミュージシャンの平岡精二はいとこの子。 元来、東京の家系であるが、実業家の父・寅之助が赴任した尼崎市で生まれる。 父の兄が日本初の野球チーム創設者の平岡凞で、少年も野球の特訓を受け育つが、体格的に不向きであるとわかり野球の道は断念。小学校在学中に東京へ移住し、慶應義塾幼稚舎・慶應義塾普通部で学ぶ。この頃ピアノを始めるが、手が小さいためピアノにも不向きであるとわかる。それでもハーモニカなどを演奏し音楽を楽しむうちに、銀座の映画館「コンパル館」で無声映画の伴奏をしている木琴(シロフォン)に魅せられるようになり、映画館に通う日々が続いた。
津村 秀夫(つむら ひでお、1907年8月15日 - 198… 津村 秀夫(つむら ひでお、1907年8月15日 - 1985年8月12日)は、日本の映画評論家。弟は詩人の津村信夫、息子は俳優の津村鷹志。
多田 留治(ただ とめじ、1907年7月8日 - 1991年… 多田 留治(ただ とめじ、1907年7月8日 - 1991年7月5日)は、昭和時代の社会運動家。日本共産党名誉幹部会委員。 兵庫県加古郡高砂町鍵町(現高砂市)生まれ。1922年高等小学校卒業後、三菱製紙高砂工場に就職。1924年10月同工場の労働組合高砂工友会の結成に参加、翌年のストライキでは指導者として活動。1928年高砂消費組合の結成に参加。同年5月組合同盟播州連合会の結成で常任執行委員。1929年10月日本共産党に入党。1930年1月日本共産青年同盟(共青)中央委員長・アジプロ部長となり上京、同年2月河原崎長十郎宅で検挙、懲役8年。1940年満期服役後、太平洋戦争勃発に伴う行政措置により、1943年再検挙。
福永 操(ふくなが みさお、1907年5月8日‐1991年1… 福永 操(ふくなが みさお、1907年5月8日‐1991年1月11日)は、日本の社会運動家、著述家。兵庫県出身。東京女子大学中退。旧姓は波多野、是枝。 1907年、大浦事件の裁判長を務めた波多野高吉と高等女学校教師はまの間に生まれた。1924年、北海道庁立札幌高等女学校(現北海道札幌北高等学校)を卒業し、東京女子大学英語専攻部に入学。在学中に社会科学研究会を結成し、女子学生運動を指導した。 1927年日本共産党に入党後、『無産者新聞』編集長だった是枝恭二と結婚。翌年、三・一五事件で検挙された。1934年2月、治安維持法再犯として起訴され、服役した。 戦後は1955年に日本共産党復党後、地域活動に従事する傍ら、思想研究や運動史研究を行った。
細見 綾子(ほそみ あやこ、1907年3月31日 - 199… 細見 綾子(ほそみ あやこ、1907年3月31日 - 1997年9月6日)は、兵庫県出身の俳人。松瀬青々に師事、「倦鳥」を経て「風」同人。夫は沢木欣一。 1907年(明治40年)、父・細見喜市、母・とりの長女として兵庫県氷上郡芦田村、現・兵庫県丹波市青垣町東芦田に生まれる。実家は江戸時代から名主をつとめた素封家。 1919年、柏原高等女学校に入学、寮生活を送る。1923年、日本女子大学校国文科入学。1927年(昭和2年)、同大学を卒業、同時に東京大学医学部助手の太田庄一と結婚。1929年、夫を結核で失い、秋に肋膜炎を発病したため帰郷。佐治町の医師でもあった俳人・田村菁斎の勧めで俳句を始め、松瀬青々の俳誌「倦鳥」に入会、その年に投句し初入選する。
山下 実(やました みのる、1907年3月20日 - 199… 山下 実(やました みのる、1907年3月20日 - 1995年4月4日)は、兵庫県神戸市出身のプロ野球選手・監督。抜群の打撃力で鳴らし、高校野球、東京六大学野球、草創期のプロ野球で活躍した。
吉村 寿人(よしむら ひさと、1907年2月9日 - 199… 吉村 寿人(よしむら ひさと、1907年2月9日 - 1990年11月29日)は、日本の医学者、生理学者。ヒトの環境適応に関する研究と蛋白栄養に関する研究をした。日本生気象学会会長、日本栄養食糧学会会長等歴任。 京都大学の正路倫之助(兵庫県立医科大学、後の神戸医科大学初代学長)の元で学生時代を送り、卒業後引き続き助手、講師を務める。その後、正路に命じられて満洲の731部隊に赴任し、通称「吉村班」で凍傷を防ぐための研究に従事した(昭和13年から)(吉村を含め京都大学から8名の若手教官が派遣された)。軍での身分は陸軍技師。 戦後京都大学に戻った後、正路倫之助が学長になった兵庫県立医科大学(現在の神戸大学医学部)に移動して研究を続け、その後京都府立医科大学の教授となり、同大学の学長を務めた。
原 健三郎(はら けんざぶろう、1907年〈明治40年〉2月… 原 健三郎(はら けんざぶろう、1907年〈明治40年〉2月6日 - 2004年〈平成16年〉11月6日)は、日本の政治家。位階は従二位。勲等は勲一等旭日桐花大綬章。 衆議院議員(20期)、衆議院議長(第65代)、衆議院副議長(第43代)を務め、また国務大臣としては労働大臣(第29代・第31代)、国土庁長官(第9代)、北海道開発庁長官(第43代)を歴任。 1907年2月6日、兵庫県津名郡浅野村(現在は北淡町を経て淡路市)に生まれる。旧制兵庫県立洲本中学校を経て1925年、早稲田大学政治経済学部政治学科入学。このころから政治を志し、地元の県議会議員の選挙活動を手伝ったり、代議士の自宅を尋ねたりした。
水野 祥太郎(みずのしょうたろう、1907年2月6日 - 1… 水野 祥太郎(みずのしょうたろう、1907年2月6日 - 1984年5月10日)は、日本の整形外科医・登山家。大阪大学名誉教授。 神戸市生まれ。1930年大阪府立医科大学(現大阪大学医学部)卒、同第一外科に入る。1946年「荷重と足骨骼構造」で大阪帝国大学より医学博士の学位を取得。1947年大阪市立大学整形外科教授。1960年大阪大学医学部教授。1964年日本リハビリテーション医学会第1回会長。70年大阪大を定年退官[要出典]、名誉教授、川崎医科大学教授。72-80年同学長。 山歩きとスキーを趣味とした。1928年、西岡一雄、藤木九三らとロック・クライミング・クラブ(RCC)を創立した。アフガニスタンへ赴任したこともある。
戸沢 一隆(とざわ かずたか、1907年1月 - 没年不明)… 戸沢 一隆(とざわ かずたか、1907年1月 - 没年不明)は、プロ野球球団阪神タイガースの元球団社長。兵庫県神戸市楠町(現・中央区)出身。 兵庫県立神戸第二中学校を経て、神戸高等商業学校を卒業し、1929年に阪神電気鉄道に入社した。 神戸二中時代からテニスに親しみ、神戸高商時代も続いた。入社は、甲子園付近にテニスコートを設置する事業を計画した阪神電気鉄道が、「庭球経験者を求む」という求人票を出してそれに応じた結果だったという。 入社後は主に会計分野の仕事を手がけた。その間、二度応召している。 1956年から球団代表を務め、オーナーの野田誠三の要請で藤村排斥事件の解決に当たる。野球には「門外漢」だった戸沢は野田からの球団代表指名を断ったが、説得に折れての就任だった。
大谷 俊夫(おおたに としお、1907年 - 没年不詳)は、… 大谷 俊夫(おおたに としお、1907年 - 没年不詳)は、日本の映画監督、脚本家、映画プロデューサー、元俳優である。当初のキャリアは水谷 登志夫(みずたに としお)名義で、監督、俳優としてスタートした。 1907年(明治40年)、広島県呉市に生まれる。旧制・神戸第二中学校(現・兵庫県立兵庫高等学校)卒。1923年(大正12年)、子爵家の長男、23歳の小笠原明峰が京都に設立した小笠原プロダクションに参加、翌1924年(大正13年)、水谷 登志夫名義で『風船売りの小母さん』(短編)を自らのオリジナル脚本で監督し、デビューしている。同プロダクションでは、同作以降は俳優として、1926年(大正15年)の同社の解散まで4本に出演した。
柿坪 正義 (かきつぼ まさよし、1907年 - 1997年… 柿坪 正義 (かきつぼ まさよし、1907年 - 1997年)は、日本の外交官。外務省情報文化局長や、国連大使、駐アラブ連合共和国大使、駐スイス大使、国連アジア経済開発研修所長等を歴任した。正三位勲一等瑞宝章。 兵庫県加古川市出身。通産省官僚で日米繊維交渉時などで日東紡績会長を務めた柿坪精吾は弟。姫路市立姫路商業学校(現兵庫県立姫路商業高等学校)在学中、同級生の黒田俊夫(のちに日本大学人口問題研究所名誉所長)とともに東京商科大学(現一橋大学)進学を目指し、同大に進学。大学在学中文官高等試験に合格し、1932年に中退し外務省に入省した。 ケンブリッジ大学留学や、大東亜省南方事務局事務官、自由インド仮政府一等書記官等を経て、第二次世界大戦後は外務省情報文化局長、国連政府代表部大使、駐パキスタン特命全権大使、駐アラブ連合共和国特命全権大使、駐スイス特命全権大使、国連アジア極東経済委員会研修所長、国連アジア経済開発研修所長等を歴任した。
小畠 元雄(おばたけ もとお、1907年〈明治40年〉 - … 小畠 元雄(おばたけ もとお、1907年〈明治40年〉 - 2004年〈平成16年〉8月17日)は、日本の演劇学者。 大阪生まれ。神戸第一中学校(現兵庫県立神戸高等学校)卒、第六高等学校卒、1929年東京帝国大学文学部美学美術史学科卒業、同大学院入学後、1931年演劇研究のため渡米、ミネソタ大学、コロンビア大学大学院で学び、その後ヨーロッパに滞在、1934年帰国。1935年国士舘大学教授、大阪学芸大学(のち大阪教育大学)教授。1969年『演劇学の基本問題』で日本演劇学会河竹賞受賞。1970年大阪教育大学名誉教授。1978年勲三等旭日中綬章受勲。
寺内 石夫(てらうち いしお、1906年〈明治39年〉12月… 寺内 石夫(てらうち いしお、1906年〈明治39年〉12月12日 - 1980年〈昭和55年〉1月10日)は、日本の実業家。「ファンビ寺内」の寺内株式会社創業者。元参議院議員で、衆議院議員・学校法人近畿大学理事長の世耕弘成は孫。 兵庫県洲本市出身。銀蔵、ゑつの四男。1921年に学校を卒業し、15歳で東京の海渡商店(現・エトワール海渡)に商売の修業として丁稚奉公にでる。1932年に海渡大阪支店を設立する。 1947年に寺内株式会社を設立、社長に就任する。1951年に寺内通商、1958年にバイオレット産業、1964年にテリカ工芸を夫々設立、社長に推される。1966年に近畿大学短期大学部通信教育学科を卒業する。
八馬 駒雄(はちうま こまお、1906年〈明治39年〉11月… 八馬 駒雄(はちうま こまお、1906年〈明治39年〉11月30日 - 1963年)は、日本の商人(米穀商)、実業家。西宮酒精社長。 兵庫県西宮市出身。八馬永蔵の五男。三代八馬兼介、八馬安二良の弟。八馬眞治の兄。 1928年、同志社専門高商部卒業。1929年、分家した。米穀商を営んだ。兵庫県武庫郡良元村小林字ハクサリ(現宝塚市)で果樹園を経営した。宝梅園土地建物代表社員、多聞土地代表社員を務めた。 1949年、新朝日自動車取締役、西宮酒精社長に就任した。1950年、宝梅園農場社長を兼任した。八馬汽船取締役、同監査役を務めた。 趣味は、乗馬・読書・謡曲・運動。宗教は真宗。住所は兵庫県宝塚市小林字ハクサリ。
森 鹿三(もり しかぞう、1906年11月5日 - 1980… 森 鹿三(もり しかぞう、1906年11月5日 - 1980年8月10日)は、日本の東洋史学者。京都大学名誉教授。 1906年、兵庫県神戸市生まれ。旧制神戸第二中学校から第三高等学校文科丙類に進学。1926年、京都帝国大学文学部東洋史学科へ入学し、1929年に卒業した。 卒業後は、東方文化学院京都研究所の助手となった。翌1930年より研究員。研究所の歴史地理学研究室で研究に従事。戦後、東方文化学院が京都大学の機関となると、1949年より京都大学人文科学研究所教授となった。1963年から67年(第4代)、1969年から70年(第6代)の2期にわたって所長を務めた。1961年 京都大学にて文学博士を取得。
大谷 晃(おおたに あきら、1906年10月9日 - 196… 大谷 晃(おおたに あきら、1906年10月9日 - 1963年2月22日)は日本の柔道家(講道館9段、大日本武徳会教士)。 1929年の明治神宮大会や1934年の天覧試合で選手権を獲得、後には拓殖大学や大阪府警察で後進の指導に当たるなどした、戦前・戦後の柔道界を牽引した柔道家の1人である。 広島県出身。中外商業学校(のちの県立尼崎北高校)、大日本武徳会大阪支部で柔道を学び、1924年17歳の時に講道館入門。入門半年後に初段、1925年1月に2段、1926年11月に3段、1927年2月に4段と、毎年順調に昇段を重ねた。身長157cmと上背はないものの、重心が低く巌のような体重89kgの体から繰り出す右の背負投と得意とし、1927年の第4回明治神宮大会柔道競技において青年団の個人戦・団体戦に出場。
石本 秀雄(いしもと ひでお、明治39年(1906年)8月1… 石本 秀雄(いしもと ひでお、明治39年(1906年)8月18日 - 昭和40年(1965年)10月5日)は、日本の映画撮影技師である。本名:藤井 秀雄(ふじい ひでお)。 1906年(明治39年)8月18日、淡路島の洲本に生まれる。旧制滝川中学校中退。 1922年(大正11年)、牧野教育映画製作所(等持院撮影所)撮影部に入社する。田中十三らの助手をつとめ、1923年(大正12年)のマキノ映画製作所への改組、1924年(大正13年)7月の東亜キネマへのマキノの吸収合併を経ても等持院撮影所で撮影助手をつとめる。 1925年(大正14年)6月のマキノ・プロダクションの設立に際して、新設の御室撮影所にともに移る。
田中 二郎(たなか じろう、1906年(明治39年)7月14… 田中 二郎(たなか じろう、1906年(明治39年)7月14日 - 1982年(昭和57年)1月16日)は、日本の法学者。専門は行政法、租税法。東京大学名誉教授。兵庫県出身。1964年 - 1973年最高裁判所判事。1976年日本学士院会員、1980年文化功労者。位階は従二位。美濃部達吉門下。弟子に塩野宏、雄川一郎、藤田宙靖など。
真田 南海夫(さなだ なみお、1906年(明治39年)6月2… 真田 南海夫(さなだ なみお、1906年(明治39年)6月28日 - 1999年(平成11年)2月15日)は、日本の経営者。扇興運輸(現:センコー)元社長。兵庫県西宮市在籍。 香川県高松市近くで生まれる。1913年(大正2年)兵庫県尼崎市に転居。1919年(大正8年)5月、同郷の富田正次(高松市出身)が創業した海運業者の富田商会(現:センコー)に入社。その傍ら1924年(大正12年)中之島商工学校を卒業。1946年(昭和21年)7月扇興運輸設立と共に常務に就任。1952年(昭和27年)7月専務を経て、1955年(昭和30年)2月社長に就任。1966年(昭和41年)11月(代表)会長に就任し、1972年(昭和47年)11月から相談役を務めた。
松野 幸吉(まつの こうきち、1906年 <明治39年> 3… 松野 幸吉(まつの こうきち、1906年 <明治39年> 3月28日 - 1989年 <平成元年> 1月30日)は、日本の経営者。日本ビクター社長、会長を務めた。位階は正四位。 兵庫県神戸市出身。1933年に関西大学法学部を卒業し、同年に松下電器産業に入社。1944年8月に取締役に就任し、1963年1月に常務を経て、1973年11月に日本ビクター社長に就任した。1979年6月から会長を務めた。 1971年4月に藍綬褒章を受章し、1976年11月に勲三等旭日中綬章を受章。 1989年1月30日、肺炎のために死去。82歳没。死没日付をもって正四位に叙された。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
吉田 忠一(よしだ ちゅういち、1906年(明治39年)3月… 吉田 忠一(よしだ ちゅういち、1906年(明治39年)3月13日 - 1993年(平成5年)10月22日)は、日本の内務・厚生官僚、実業家。最後の官選鳥取県知事。 兵庫県明石市出身。大阪高等学校を卒業。1928年10月、高等試験行政科試験に合格。1929年、東京帝国大学法学部を卒業。内務省に入省し、石川県属となる。 以後、労働局事務官、島根県書記官・警察部長、厚生省会計課長、同勤労局長などを歴任。 1947年2月、鳥取県知事に就任。昭和22年度当初予算を編成し、知事選挙を執行して、同年4月に退任。その後、埼玉県副知事に就任した。 1950年、警察予備隊に参加し第1管区総監となるが、部下の不祥事の責任を取り辞職。
石井 廣治(いしい ひろじ、1906年2月20日 - 198… 石井 廣治(いしい ひろじ、1906年2月20日 - 1988年7月22日)は、昭和時代日本の実業家、政治家。タイヘイレコード(のち日本マーキュリー)代表取締役社長、兵庫県議会議員(3期)を務める。 神戸市出身。1930年(昭和5年)に灘区で合資会社六甲ゴム製造所を立ち上げる。1944年(昭和19年)、神戸経済大学経営経録第一講習所を卒業。 西宮市今津に所在し、戦時下でキングレコード改め富士音盤に接収されていた旧タイヘイレコードの工場を買い戻す受け皿として資本金400万円で新法人のタイヘイ音響株式会社を設立し、10年ぶりにレーベルを復活させる。1952年(昭和27年)にはアメリカ合衆国(米国)のマーキュリー・レコードと契約を結び、社名を「日本マーキュリー」へ変更した。
薮内 清(藪内 清、やぶうち きよし、1906年(明治39年… 薮内 清(藪内 清、やぶうち きよし、1906年(明治39年)2月12日 - 2000年(平成12年)6月2日)は、日本の天文学者・科学史学者(中国科学史)。京都大学名誉教授。初めは天文学の研究者であったが、新城新蔵の影響を受けて古代中国の暦法の研究へ転じた。 兵庫県神戸市生まれ。甲陽中学校、旧制大阪高等学校(現大阪大学)理科丙類を経て、昭和4年(1929年)京都帝国大学理学部宇宙物理学科卒業。 1929年、京都帝国大学副手、1935年(昭和10年)東方文化学院(現京都大学人文科学研究所)京都研究所嘱託、後に同研究員。1948年(昭和23年)京都大学研究員、1949年(昭和24年)同大人文科学研究所教授として、共同研究などにより中国科学史研究を世界的水準で進め高めた。
竹内 正巳(たけうち まさみ、1906年 - 1986年7月… 竹内 正巳(たけうち まさみ、1906年 - 1986年7月24日)は、日本の経済学者。専門は、地域経済論。 兵庫県佐用町出身。大阪府立高津中学校(大阪府立高津高等学校の前身)、高知高等学校(高知大学の前身のひとつ)に、いずれも1期生として学び、高知高ではボート部を創設して活躍した。1929年、京都帝国大学経済学部を卒業。在学中は蜷川虎三ゼミで統計学を学んだ。 1930年代はじめから1945年まで、満鉄調査部に勤務し、東亜経済調査局の報告書などにもたずさわった。戦後、ソ連によるシベリア抑留を経験する。 1950年に帰国し、以降、経済企画庁の前身である経済安定本部勤務、経済審議庁調査官、愛媛県企画室長を経て、1954年ころに大阪府立商工経済研究所長として大阪へ戻り、近畿開発促進協議会事務局長なども務めた。
菊原 静男(きくはら しずお、1906年 - 1991年8月… 菊原 静男(きくはら しずお、1906年 - 1991年8月6日)は、日本の航空技術者。兵庫県姫路市出身。飛行艇の第一人者で九七式飛行艇、二式飛行艇、紫電改や実験機UF-XSなどの設計に従事した。 1906年、兵庫県姫路市の商家に長男として生まれる。三高へ入学する頃、航空の道を選択。1930年(昭和5年)東京帝国大学工学部航空学科卒。卒業設計では、シュナイダー・トロフィー・レース用の水上競争機の機体を担当した。卒業論文のタイトルは「Torsion of Prismatic Bar.」。 卒業後、川西航空機(現新明和工業)に入社する。入社理由は、川西航空機が自宅に近く、少年時代から海が好きであったからという。
山本 正信(やまもと まさのぶ、1905年10月25日 - … 山本 正信(やまもと まさのぶ、1905年10月25日 - 1984年6月4日)は、日本の柔道家(講道館9段、大日本武徳会教士)。 選手として戦前の全日本選士権大会で連覇を達成したほか昭和天覧試合や明治神宮大会等でも活躍し、指導者としては出身地の兵庫県にて各学校や警察の柔道師範を務めるなど、昭和時代の柔道界を牽引した柔道家の1人であった。 兵庫県神戸市に生まれ、小学校5年次より大日本武徳会兵庫支部にて田辺又右衛門(不遷流)や小角弥三次(天神真楊流)らの元で柔道を始めた。小角の訓えである「稽古中は絶対に休むな」「どんなに強い相手でも全力を傾倒して倒しにいけ」を子供ながら忠実に守り、これを実行したという。
天児 民和(あまこ たみかず、1905年8月31日 - 19… 天児 民和(あまこ たみかず、1905年8月31日 - 1995年4月6日)は、日本の整形外科医。九州大学名誉教授。 先祖は「滝根」と称していたが、明治三年の氏姓制度で「天児」姓を名乗る。「天児」は「あまがつ」と読み、『源氏物語』若菜にもみえる、災難を除くため祓に用いられた子供の人形のこと。しかし「あまがつ」と正確に読んでくれる人がいないため、呼びやすく「あまこ」にしたと伝え聞いている、という。 神戸市出身。1926年九州帝国大学医学部入学、1930年卒業、1931年同整形外科教室入局、神中正一教授に師事。1936年ドイツ留学(ライプッチヒ大学整形外科学教室)、同年開催のベルリンオリンピックの嘱託医師などを務め、1936年医学博士、九州大学助教授、軍医をへて、1945年新潟医科大学教授、1949年新潟大学医学部付属病院長。
森田 忠勇(もりた ちゅうゆう、1905年8月10日 - 1… 森田 忠勇(もりた ちゅうゆう、1905年8月10日 - 1975年12月2日)は、兵庫県出身の野球選手・監督・公式記録員。
田岡 香逸(たおか こういつ、1905年4月 - 1992年… 田岡 香逸(たおか こういつ、1905年4月 - 1992年1月31日)は、日本の郷土史家。旧名を旭香という。 兵庫県生まれ。1924年、兵庫県立第一神戸中学校卒業。以後、家業の傍ら郷土史研究に努める。1939年、西宮史談会を再興し、幹事長となる。1946年3月から1951年4月まで西宮市立図書館嘱託。また、1947年、西宮市議会議員に当選。1951年、西宮文化協会理事長就任。1971年、西宮市民文化賞を受賞する。
志村 喬(、1905年〈明治38年〉3月12日 - 1982… 志村 喬(、1905年〈明治38年〉3月12日 - 1982年〈昭和57年〉2月11日)は、日本の俳優。本名は島崎 捷爾()。身長163cm。実兄の島崎敬夫は横浜ゴム社長を務めた人物。 兵庫県朝来郡生野町出身。舞台俳優を経て映画俳優となり、戦前は時代劇などで活躍したのち、戦後は東宝を中心に数多くの作品に出演。映画出演本数は400本以上に及び、特に黒澤明監督作品には欠かせない俳優であった。 1905年(明治38年)3月12日、兵庫県朝来郡生野町(現在の朝来市生野町)に生まれる。三菱生野鉱業所の冶金技師をする父・島崎毛登女(もとめ)と、母・喜与の次男として口銀谷の生野鉱山社宅(甲社宅)で育つ。祖父・雄次は土佐藩主・山内容堂の小姓から250石取りの祐筆に上がり、鳥羽・伏見の戦いには隊長として出陣した経歴を持つ武士であった。
加藤 文太郎(かとう ぶんたろう、1905年(明治38年)3… 加藤 文太郎(かとう ぶんたろう、1905年(明治38年)3月11日 - 1936年(昭和11年)1月5日)は日本の登山家。大正から昭和にかけて活躍した。兵庫県美方郡新温泉町出身。兵庫県立工業学校夜間部卒業。 複数の同行者が協力し、パーティーを作って登るのが常識とされる山岳界の常識を覆し、単独行によって数々の登攀記録を残した。登山に対する精神と劇的な生涯から、小説(新田次郎著『孤高の人』、谷甲州著『単独行者 アラインゲンガー 新・加藤文太郎伝』)やドラマのモデルとなった。 1905年(明治38年)3月11日、兵庫県美方郡浜坂町(現在の新温泉町)浜坂にて、加藤岩太郎・よねの四男として生まれる。 1919年(大正8年)に浜坂尋常高等小学校高等科卒業後、郷里を出て神戸の三菱内燃機製作所(三菱重工業の前身)に勤務しながら、1923年(大正12年)兵庫県立工業学校別科卒業、1926年(大正15年)神戸工業高等専修学校電気科を卒業。
久山 秀雄(ひさやま ひでお、1905年〈明治38年〉1月2… 久山 秀雄(ひさやま ひでお、1905年〈明治38年〉1月23日 - 1971年〈昭和46年〉8月23日)は、日本の内務・警察官僚。陸軍司政官、内務省警保局長。位階は正四位。勲三等旭日中綬章。 兵庫県出身。久山春次郎の長男として生まれる。兵庫県立第二神戸中学校を経て、第一高等学校を卒業。1927年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1923年3月、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。同年4月、内務省に入省し兵庫県属となり内務部地方課に配属。 以後、地方警視・福井県警察部保安課長、青森県警察部特別高等警察課長、神奈川県警察部警務課長、内務事務官・警保局図書館勤務、山梨県書記官・警察部長、内閣情報部書記官・第一課長、同第二課長兼務、警保局警務課長などを歴任。
黒田 元一(くろだ もといち、1905年 - ?)は、兵庫県… 黒田 元一(くろだ もといち、1905年 - ?)は、兵庫県赤穂市出身の柔術家である。 1905年2月4日(明治38年)兵庫県赤穂市上仮屋で生まれた。 黒田家は赤穂藩で学ばれていた高木流体術を家伝として伝えており、黒田元一は高木流体術の13代目師範であった。 1924年(大正13年)講道館柔道に入門し、1949年(昭和24年)に講道館柔道六段となった。 赤穂町塩屋青年会館柔道指導員、赤穂町翼賛壮年団柔道教師、赤穂警察署の柔道教師、兵庫県立上郡高等学校柔道講師、兵庫県立桐生産業高校柔道講師などを務めた。
萩原 淳(はぎわら きよし、1904年〈明治37年〉10月1… 萩原 淳(はぎわら きよし、1904年〈明治37年〉10月11日 - 1987年〈昭和62年〉12月14日)は、将棋棋士。棋士番号5。九段。日本将棋連盟会長。土居市太郎名誉名人門下。兵庫県尼崎市出身。日本将棋連盟の創設時(創設当時は東京将棋連盟)の参加棋士20人のうちの一人。 1922年土居市太郎に入門。兄弟弟子に金子金五郎、加藤博二、大内延介らがいる。1924年四段昇段。 史上初の実力制名人を決める第1期名人戦(八段者によるリーグ、1935 - 1937年)の最中、将棋界の分裂事件(神田事件)が発生。欠員を補充する形で萩原は1936年に八段昇段し、リーグに参加。 1941年、オール八段戦優勝。
瀧川 勝二(たきがわ かつじ、1904年8月22日 - 19… 瀧川 勝二(たきがわ かつじ、1904年8月22日 - 1993年11月28日)は日本の実業家。元兵庫トヨタ自動車会長。 兵庫県神戸市出身。第二神戸中学校卒業(同窓会理事長)、第六高等学校卒業、京都大学卒業。父親は瀧川儀作で神戸トヨペットの前身であるカネキ商店を経営していた。 1946年商工省陸運管理局の指示で兵庫県自動車整備配給株式会社が解体され兵庫トヨタ販売が設立。瀧川勝二は取締役に就任する。 1963年運輸大臣表彰。1965年厚生大臣表彰。1967年藍綬褒章受章。1973年トヨタ自動車販売店協会理事長に就任。1975年勲三等旭日中綬章受章。1977年日本自動車販売協会連合会会長に就任。1979年トヨタ自動車販売店協会会長に就任。
奥野 高廣(おくの たかひろ、1904年8月21日 - 20… 奥野 高廣(おくの たかひろ、1904年8月21日 - 2000年5月5日)は、日本の歴史学者。東京大学史料編纂所助教授。学位は、文学博士。現在[いつ?]でも織田信長研究の権威と評されている。 兵庫県洲本市生まれ。1928年(昭和3年)に國學院大學を卒業後、東京帝国大学史料編纂掛に勤務、『大日本史料』第2・9・10編や『史料綜覧』の編修に携わる。1941年(昭和16年)に東京帝国大学史料編纂官補、1954年(昭和29年)に東京大学史料編纂所助教授に就任。引き続き『大日本史料』第10・11・12編の編修にあたった。この間、1945年(昭和20年)6月12日には、『皇室御経済史の研究』が評価されて帝国学士院より恩賜賞を受賞。
上田 義文(うえだ よしふみ、1904年8月19日 - 19… 上田 義文(うえだ よしふみ、1904年8月19日 - 1993年4月26日)は、日本の仏教学者。名古屋大学名誉教授。 岡山県出身。旧制龍野中学(現:兵庫県立龍野高等学校)、旧制第六高等学校を経て、1933年東京帝国大学文学部印度哲学科卒、1948年「唯識思想研究」で九州大学文学博士。1945年龍谷大学教授、1949年名古屋大学文学部教授となり、文学部長を務め、1968年定年退官、名誉教授。1972年筑紫女学園短期大学学長となり、1986年、同大学退任。1975年勲三等旭日中綬章受勲。
北條 秀一(北条、ほうじょう しゅういち / ひでいち、19… 北條 秀一(北条、ほうじょう しゅういち / ひでいち、1904年(明治37年)5月31日 - 1992年(平成4年)8月23日)は、日本の実業家、政治家、郷土史家。引揚者団体全国連合会理事長、参議院議員(1期)、衆議院議員(1期)、日本国有鉄道顧問。 兵庫県城崎郡竹野村(現豊岡市竹野町竹野)の宮大工の家に生まれる。竹野小学校を経て、1924年神戸商業学校を卒業し、東京商科大学(現一橋大学)予科に入学。大学では自治組織の一橋会総務理事を務めたが、1929年に大山郁夫へ献金を行ったとして逮捕された。1930年大学卒業。同年南満洲鉄道に入社。1932年、満鉄調査部経済調査会に配属される。参与兼総務課長を経て、理事に就任。
後藤 悦治(ごとう えつじ、1904年(明治37年)5月31… 後藤 悦治(ごとう えつじ、1904年(明治37年)5月31日 - 1980年(昭和55年)9月28日)は、大正末から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 兵庫県有馬郡中野村(広野村、三田町を経て現三田市)で生まれる。尼崎実業補習学校英語科、同商業科で学び、1921年(大正10年)に卒業した。 家業の米穀商を継承。直木三十五に師事して創作活動を行う。日本硝子釦工業社長、旭商会取締役会長、昭和化学取締役会長、近畿サルベージ社長、後藤産業社長、後藤建設社長、全国釦工業組合理事長、トヨタオート阪神社長、(株)「紙ふうせん」監査役、尼崎商工会議所常議員などを務めた。 政界では、尼崎市会議員(1932年-1939年)、兵庫県会議員(1939年-1947年)を務め、同県参事会員にも在任した。
早川 勝(はやかわ まさる、1904年4月19日 - 197… 早川 勝(はやかわ まさる、1904年4月19日 - 1979年2月5日)は、日本の柔道家(講道館8段)、実業家。 学生時代に旧制第六高校師範の金光弥一兵衛や同校柔道部員らと共に前三角絞を開発した事で知られ、社会人となってからは三菱鉱業を経て日本経営者団体連盟専務理事を務めるなど実業家として活躍した。また兄・昇(のぼる)も学生時代に柔道選手として腕を鳴らし、後には王子製紙にて専務取締役を務めている。 東京府中野区に生まれ、4歳年長の兄・昇と同じ県立第一神戸中学校(後の県立神戸高校)に進学して柔道を始めた。中学在学中には昇が籍を置いていた金光弥一兵衛率いる旧制第六高校柔道部の選手たちと共に前三角絞を編み出し、勝は大日本武徳会兵庫支部主催のもと1921年11月に開かれた兵庫県下中学柔道大会に主将として出場しこの技を駆使して優勝、その有効性を証明して見せた。
竹中 郁(たけなか いく、1904年4月1日 - 1982年… 竹中 郁(たけなか いく、1904年4月1日 - 1982年3月7日)は、日本の詩人。本名、育三郎。 兵庫県神戸市兵庫区出身。生家は裕福な問屋で、1歳の時紡績用品商の竹中家へ養子に出された。兵庫県立第二神戸中学校、関西学院大学文学部英文学科卒。画家の小磯良平は二中の同制作作品「彼の休息」は竹中がモデルをつとめている。小磯の弟子の石阪春生は竹中の甥。 中学時代より北原白秋に傾倒し、『近代風景』『詩と音楽』などの白秋主宰の雑誌で詩人としての履歴をスタートした。1924年に北川冬彦、安西冬衛らの「亜」のグループと交流をもち、モダニズムのスタイルの影響をうける。1925年、第1詩集『黄蜂と花粉』を発表する。
上田 吉二郎(うえだ きちじろう、1904年3月30日 - … 上田 吉二郎(うえだ きちじろう、1904年3月30日 - 1972年11月3日)は、日本の俳優。本名は上田 貞夫(うえだ さだお)。 アクの強めな演技で知られ、300本以上の映画に出演。愛称は「上吉(うえきち)」。 悪役・敵役を得意とし、弱者を痛めつけ、自分より強いものには平身低頭するような悪役が多く、独特なダミ声は、よしもと新喜劇の島田一の介や林家木久扇らによって度々声帯模写で取り上げられた。 1904年(明治37年)3月30日、兵庫県神戸市三宮に生まれる。旧制第一神戸中学校(現・兵庫県立神戸高等学校)在学中の1918年(大正7年)、神戸中央劇場で観た新国劇の舞台『新朝顔日記』での澤田正二郎の演技に感動し、彼に弟子入りを頼んで新国劇に入団する。
吉川 幸次郎(よしかわ こうじろう、1904年3月18日 -… 吉川 幸次郎(よしかわ こうじろう、1904年3月18日 - 1980年4月8日)は、日本の中国文学者。文学博士(京都大学)。芸術院会員、文化功労者、京都大学名誉教授。
三木 義雄(みき よしお、1904年または1905年6月6日… 三木 義雄(みき よしお、1904年または1905年6月6日 - 没年不明)は、日本の陸上競技選手。1920年代にハードル競走で活躍して日本記録を更新、1928年アムステルダムオリンピックに出場した。 兵庫県揖保郡揖西村構(現在のたつの市揖西町構)に生まれる。旧制龍野中学校(現在の兵庫県立龍野高等学校)に入学し、1923年の日本陸上競技選手権大会では走高跳に1メートル (m)65の記録で優勝する。この年の第6回極東選手権競技大会予選では走高跳で4位となり、代表選手に選出された。しかし「大会参加選手」に名前が載っているものの、大会本番での記録は残っておらず、実際に出場したかどうかは不明である。 慶應義塾大学に進学し、1925年には明治神宮競技大会の200mハードル種目で24秒6の記録を出した(当時の日本記録・世界記録という)。