松下 専次郎(松下 専治郎、まつした せんじろう、1872年… 松下 専次郎(松下 専治郎、まつした せんじろう、1872年〈明治5年〉10月 - 没年不明)は、日本の実業家、地主。族籍は鳥取県平民。 鳥取県平民・松下角作の二男。廃家・松下氏を再興する。質屋、金銭貸付業を営む。岡田汽船監査役・同取締役、美保関電気監査役などをつとめる。 住所は鳥取県西伯郡境町松ヶ枝町(現境港市松ヶ枝町)。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
奥田 亀造(おくだ かめぞう、明治5年3月8日(1872年4… 奥田 亀造(おくだ かめぞう、明治5年3月8日(1872年4月15日) - 昭和19年(1944年)3月24日)は、日本の実業家・漁業家(オツタートロール漁業の先覚者、機船底曳網漁業の創始、角輪組設立)、政治家(衆議院議員、貴族院議員)。 第2回水産博覧会で朝鮮半島沿岸漁場とオッタートロールの知識を得、まず、オッタートロールに関し、1901年に鳥取県知事に山陰沖の漁業権許可を申請したが、反対運動が起きたため香川輝知事は拒否を決せずこれを握り潰した。他方、朝鮮半島沿岸漁場に関しては、1902年から1903年にかけて、韓国東北海岸漁業探検を実施、相当の漁獲をあげられることを確認した。1904年には寺田祐之知事の賛意を得てオツタートロール汽船海光丸を建造。
都田 友次郎(みやこだ ゆうじろう、1872年4月14日(明… 都田 友次郎(みやこだ ゆうじろう、1872年4月14日(明治5年3月7日) - 1959年(昭和34年)4月15日)は、日本の牧師である。都田恒太郎の父である。 鳥取県境港市に生まれる。叔父の門永尚一とバークレー・バックストンの協力者竹田俊造によって信仰を持つ。1892年(明治25年)クリスマスに境港の竹の内教会でバックストンより洗礼を受ける。1887年(明治20年)に恒太郎が生まれる。1902年(明治35年)東京に行き、中田重冶らの聖書学院の修養生として学ぶ。同郷の人物に米田豊らがいる。 1904年(明治37年)アグネス・グレンの元で働き信州の岩村沢教会に着任する。1918年(大正7年)利根川沿岸潮来の開拓をする。
田熊 常吉(たくま つねきち、1872年3月16日〈明治5年… 田熊 常吉(たくま つねきち、1872年3月16日〈明治5年2月8日〉 - 1953年〈昭和28年〉12月22日)は、日本の実業家、発明家。独自のボイラー(タクマ式ボイラー)を発明した。株式会社タクマ創立者。 1872年、鳥取県東伯郡大誠村(現北栄町)で生まれる。医師の下働きから商人を目指し、30歳すぎには材木商として成功を収める。30歳代後半に製材用のボイラー製造事業に出資するも失敗して多額の負債を負う。その後は独自にボイラーの研究を独力で進め、1912年にタクマ式ボイラーを発明。翌年には特許を取得。1914年4月に大阪で開催された第2回発明品博覧会に出品して金賞を取ると、事業化を図り外国製ボイラーの輸入に歯止めがかかる規模の成功を収めた。
坂口 豊蔵(さかぐち とよぞう、1872年〈明治5年〉1月1… 坂口 豊蔵(さかぐち とよぞう、1872年〈明治5年〉1月13日 - 1930年〈昭和5年〉6月12日)は、日本の実業家。族籍は鳥取県平民。 鳥取県米子市尾高町の木綿問屋に生まれる。坂口平吉郎の五男。兄平兵衛の養子となり、1920年、家督を相続する。煙草元売捌・製糸業を営む。銀行会社の重役として知られる。 有限責任米子信用組合初代組合長、坂口合名会社代表社員、米子電車軌道、米子製鋼所、八頭木材各社長、米子銀行副頭取、山陰電気副社長、米子坩堝、山陰日日新聞各取締役、日本製絲、皆生温泉土地各監査役などをつとめる。 住所は鳥取県米子市尾高町。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
落合 恒雄(おちあい つねお、1872年〈明治5年〉 - 1… 落合 恒雄(おちあい つねお、1872年〈明治5年〉 - 1940年〈昭和15年〉)は、日本の武道家、政治家。 鳥取県出身。米子市西町、落合甚大夫の養子。少時より剣道を修業する。米子中学校(現・米子東高校)修学。1905年、大日本武徳会教員養成所に入所、内藤高治範士の門下生となる。卒業後米子中学校(現・米子東高校)武道教員を拝命する。 1912年に師範学校、中学校教員剣道講習会において課程を修了する。1917年12月より1921年10月まで西区長として自治に尽力する。1921年9月より1927年3月まで米子町会議員として町政に参与する。1927年7月、西区長に再任。 1921年に剣道精錬証を取得、武徳会地方幹事、青年演武大会審判員となる。
林 重浩(はやし しげひろ、明治4年9月22日(1871年1… 林 重浩(はやし しげひろ、明治4年9月22日(1871年11月4日) - 1944年(昭和19年)5月15日)は、日本の教育者である。 鳥取県邑美郡向国安村(後の気高郡美穂村大字向国安、現在の鳥取市向国安)生まれ。東京音楽学校で岡野貞一、永井幸次らとともに学ぶ。各地の県立師範学校や中学校で数学・音楽を担当した。1895年(明治28年)から1933年(昭和8年)まで39年間にわたり子弟の教育に努めた。1906年(明治39年)、36歳の若さで鳥取県立第二中学校(のち米子中学校に改称、現米子東高校)校長に就任。1911年(同44年)には鳥取中学校(現鳥取西高校)校長となり、山積する難問に対処して学校を再建するとともに野球を奨励し、野球部の強化を図った。
信夫 淳平(しのぶ じゅんぺい、明治4年9月1日(1871年… 信夫 淳平(しのぶ じゅんぺい、明治4年9月1日(1871年10月14日) - 昭和37年(1962年)11月1日)は、日本の外交官・法学者。専門は国際法。学位は、法学博士(東京帝国大学・論文博士・1925年)。早稲田大学教授、学士院会員、中華民国顧問等を歴任。1943年学士院恩賜賞受賞、従三位勲一等瑞宝章。 1871年、鳥取県生まれ。父・恕軒には男の子が3人あり、それぞれ寛一郎、淳平、敬造といった。5歳か6歳のときに生母・いとが恕軒と離別した。そのためどういう母親だったかの記憶はない。 旧制鳥取県中学校(現・鳥取県立鳥取西高等学校)、開成中学校を経て、1894年東京高等商業学校(現・一橋大学)卒業。
加島 恵太郎(かしま けいたろう、明治4年4月13日(187… 加島 恵太郎(かしま けいたろう、明治4年4月13日(1871年5月31日) - 昭和25年(1950年)7月6日)は日本の実業家、政治家、漢詩人。鳥取県西伯郡境町長(第5代、7代)、境町会議員、鳥取県会議員。号は洗心。 境町に生まれた。加島房太郎の実弟。 鳥取中学から東京物理学校に学んだが、病気のため帰郷した。家業の加島呉服店を手伝い、28歳で独立して隠岐汽船、境ドッグ、境電気等の会社経営に関係した。 2度にわたって町長をつとめたが名誉職だったので、生活の基盤は家業にあり、急用が起きると走って役場に出かけた。 明治38年(1905年)9月、日露戦争戦勝祝賀会を挙行、町中が沸く中を杉山校長と共に旗行列、提灯行列の先頭に立った。
荒岩 亀之助(あらいわ かめのすけ、1871年4月18日(明… 荒岩 亀之助(あらいわ かめのすけ、1871年4月18日(明治4年2月29日) - 1920年(大正9年)9月3日)は、鳥取県(現西伯郡大山町)出身の大相撲力士。本名は山崎 徳三郎(やまざき とくさぶろう)。最高位は大関。陣幕部屋(大坂)、尾車部屋(東京)に所属した。 1871年4月18日(旧暦2月29日)に木こりの二男として生まれる。子供の頃から家業を手伝っていたので自然に足腰や腕力が鍛え上げられ、相撲も好きだったので土地相撲で強豪力士として活躍した。そんな徳三郎少年を見出した大坂相撲の関係者からスカウトされ、1891年に陣幕部屋(大坂相撲)へ入門、「真竜」の四股名で初土俵を踏んだ。しかし、ある時に銭湯で兄弟子の背中を流していたところ、「流し方が悪い」と殴られたことに立腹し、すぐに大坂相撲を脱退すると同時に上京、大戸平廣吉が親方として経営する尾車部屋(東京相撲)へ入門、1894年1月場所において三段目付出で東京相撲での初土俵を踏んだ。
田江 泰造(たごう たいぞう、1871年1月17日(明治3年… 田江 泰造(たごう たいぞう、1871年1月17日(明治3年11月27日)- 1939年(昭和14年)6月5日)は、明治から昭和前期の農業経営者、政治家、日本画家。衆議院議員、鳥取県会議長、鳥取県東伯郡下北条村長。号・素堂、素道、素翁。 伯耆国久米郡弓原村(鳥取県久米郡下北条村、東伯郡下北条村弓原、北条町を経て現北栄町弓原)で、大庄屋田江弥三郎の長男として生まれる。父が設けた自邸内の家塾・択善学舎で学んだ。 農業を営み、牧畜、蚕業の改良に尽力した。また製糸工場を経営した。下北条村会議員に就任。1896年(明治29年)東伯郡会議員となる。同年、鳥取県会議員に選出され7期30年間在任。1927年(昭和2年)県会議長に就任した。
坂口 惣五郎(さかぐち そうごろう、1870年12月25日〈… 坂口 惣五郎(さかぐち そうごろう、1870年12月25日〈明治3年11月4日〉 - 1939年〈昭和14年〉3月17日)は、日本の政治家、実業家、地主。米子市会議員。カギさ醤油醸造元坂口商店取締役社長。族籍は鳥取県平民。 鳥取県西伯郡米子町大字尾高町(現・米子市尾高町)出身で、生家は木綿問屋。木綿商・坂口平吉郎の四男。1902年、兄・平兵衛方より分家をする。 会社の重役であり、坂口商店代表取締役、大谷オフセット社長、米子家畜市場、日本製絲、山陰水産、米子電車軌道、米子製鋼所各取締役、米子電車軌道、博愛病院各監査役、有限責任米子信用組合第二代組合長などをつとめる。 1907年から1911年まで米子町収入役をつとめる。
長谷川 万蔵(はせがわ まんぞう、明治3年(1870年)8月… 長谷川 万蔵(はせがわ まんぞう、明治3年(1870年)8月 - 没年不明)は日本の政治家。元鳥取県議会議員。元富益村長。 現在の鳥取県米子市富益町に生まれた。善十郎の二男。家は代々農を業とす。教えを郷校に受け和漢の書を修めた。前代より副業として質商を営んだが万蔵の代に至り倍々業務に勉め隆昌に向かう。 明治32年(1899年)富益村長に当選。明治32年(1899年)9月郡会議員に当選。米子外十四ヶ町村組合角盤高等小学校議員米川水利組合議員等責務に就き多年村治に郡政に尽瘁する。 衆民の輿望により県会議員に当選。 県下有数の名士として庶民の推重を受くる。 『陰陽八郡郡勢一斑』には「性温厚にして寡言、堂々たる風丰全く長者の風備はる」とある。
足立 荘(あだち そう、明治3年4月8日(1870年5月8日… 足立 荘(あだち そう、明治3年4月8日(1870年5月8日) - 昭和22年(1947年)11月15日)は日本の実業家。日本徴兵保険社長(1936-1941)。教育者足立正の弟。 鳥取県上道村(現在の境港市上道町)に足立国五郎の次男として生まれる。父・国五郎は村の助役、収入役、村会議員等を歴任した人物。 旧制鳥取県尋常中学校(現在の鳥取県立鳥取西高等学校)を経て、明治25年(1892年)慶應義塾大学部文学科を卒業し時事新報社に入社。主として翻訳小説を同紙上に掲載する。後政治部に転じ、専ら外交、政治方面に活動し伊藤博文、陸奥宗光等の知遇を得た。日清戦争では大本営付き主任記者となり、後政治部長に栄進、明治34年(1901年)編集長となる。
稲田 藤治郎(いなだ とうじろう、明治2年3月21日(186… 稲田 藤治郎(いなだ とうじろう、明治2年3月21日(1869年5月2日) - 昭和17年(1942年)2月22日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員。稲田家の七代目。鳥取県平民。 弁護士・公証人雑賀愛造、洋食のレストラン“十字屋”経営主で元米子市会議員野坂康久などは稲田一族の出身である。 鳥取県米子市久米町出身。稲田喜重郎の二男。家業は酒・醤油醸造業(現・稲田本店)。 明治21年(1888年)東京高等商業学校(一橋大学の前身)卒業。 明治25年(1892年) 久米町にてビール工場を建設。本場ドイツで学んだ技師を雇い入れ、瓶は手拭で手造り、長いコルク栓でガス漏れを防ぐ等の工夫を凝らし“イナタビール”として売り出す。
奥田 柳蔵(柳藏、おくだ りゅうぞう、1868年12月15日… 奥田 柳蔵(柳藏、おくだ りゅうぞう、1868年12月15日(明治元年11月2日)- 1942年(昭和17年)2月10日)は、明治から昭和前期の大地主、農業経営者、林業家、実業家、政治家。衆議院議員、14代奥田家当主。 因幡国高草郡猪子村(鳥取県高草郡大和村、気高郡大和村字猪子を経て現鳥取市猪子)で、大地主、大庄屋・奥田長十郎の長男として生まれ、1884年(明治17年)1月、家督を相続した。漢籍を修めた 国民協会に加わり、その解散後、同志と政治結社・因幡同志会を結成した。1895年(明治28年)大和村会議員となる。気高郡会議員も務め、1899年(明治32年)鳥取県会議員に選出され1期在任した。1908年(明治41年)5月の第10回衆議院議員総選挙で鳥取県郡部から出馬して初当選。
本角 文蔵(もとずみ ぶんぞう、慶応4年7月14日(1868… 本角 文蔵(もとずみ ぶんぞう、慶応4年7月14日(1868年8月31日) - 昭和10年(1935年)1月25日)は、日本の政治家。中浜村長(第4代)。初代中浜村長本角寅造の義弟。 小篠津村(のち鳥取県境港市小篠津町)の本角家は代々"与平"、"所十郎"を襲名する豪農で、大庄屋をつとめた由緒ある家柄だった。 29歳で村長に就任し、大正3年(1914年)から耕地整理事業に着手したほか、米川水利灌漑事業、信用組合創設等を行って養蚕で栄える本村農業の振興につとめた。 さらに農業補習学校の分教場制度を廃止して、教育の質的向上を図り、尋常高等小学校の増築もなした。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
門永 昇平(かどなが しょうへい、明治元年(1868年)6月… 門永 昇平(かどなが しょうへい、明治元年(1868年)6月1日 - 没年不明)は日本の実業家、政治家。鳥取県西伯郡境町中屈指の豪商。元境町会議員。 鳥取県西伯郡上道村(現境港市上道町)出身。厳父浅重の二男。 弱冠にして実家の業務を扶け大に商業の経験を積み明治23年(1890年)8月境町に分家し、始め酒類販売及び砂糖商を開き一意専心業務に力めたことにより、日増しに繁栄に向かい資産増殖する。 従来の家業を廃し質屋肥料商を開く。明治33年(1900年)実に壮観なる家宅を新築する。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
大江 邦治(おおえ くにじ、1867年12月9日 - 196… 大江 邦治(おおえ くにじ、1867年12月9日 - 1968年6月5日)は、日本の牧師、教育者。戦前から戦後にかけての日本アライアンス教団の指導者。 1867年(慶応3年)に伯耆国溝口(現、鳥取県西伯郡伯耆町)に生まれる。鳥取中学(現・鳥取県立鳥取西高等学校)に入学するが、1882年(明治15年)に中退して上京する。 東京電信学校(後の、逓信官吏練習所)に入学して、1887年(明治20年)に卒業し、東京府、岡山県、山口県下関市、佐賀県の電信局で勤務する。 岡山県岡山市の電信局に勤務していた頃、日本組合基督教会岡山教会(現・日本基督教団岡山教会)に出席するようになり、当時岡山教会牧師の安部磯雄から洗礼を受ける。
山本 熊吉(やまもと くまきち、慶応3年10月1日(1867… 山本 熊吉(やまもと くまきち、慶応3年10月1日(1867年10月27日) - 大正10年(1921年)2月2日)は、日本の漢詩人、政治家。鳥取県西伯郡境町長(3代)。鳥取県会議員(議長)、郡会議員、町会議員。号碧湾。 境町長(17代)山本亮の父。 川店(かわみせ)と号する資産家の出身。 明治32年(1899年)7月境町長となる。 病気のため明治33年(1900年)4月町長を辞任したが、同年花町に伝染病院を建設した。更にこの年宿願の鉄道敷設工事着工に伴い、県営の荷揚場拡張工事に着手した。 明治36年(1903年)この荷揚場工事の完成と朝鮮貿易を目的として設立された境貿易株式会社への補助金確保のため。
安住 伊三郎(あずみ いさぶろう、1867年2月27日〈慶應… 安住 伊三郎(あずみ いさぶろう、1867年2月27日〈慶應3年1月23日〉 - 1949年〈昭和24年〉8月31日)は、日本の実業家。安住大薬房社長。タイ王国名誉領事。幼名は猪之助。 鳥取県八頭郡那岐村大字奥本(現・智頭町)出身。安住文四郎の二男。家が貧しかったため縄をない、自ら学資をつくる。 1897年、兄瀧蔵方より分れて一家を創立する。岡山県真島郡落合町の酒造家・木村良江に養われる。13歳の頃、鳳鳴社という塾に入り、進昇山に就き、漢籍を学ぶ。 1888年、22歳の頃に大阪の安東久次郎の薬舗の店員となり、5年後自ら独立して売薬業を営む。1893年、幼名猪之助に因む猪印のノミ取粉と安住蚊取り線香の製造販売を創める。
野坂 吉五郎( 慶応2年9月21日(1866年10月29日)… 野坂 吉五郎( 慶応2年9月21日(1866年10月29日) - 没年不明)は日本の実業家、政治家。元中国興業銀行常務取締役。元中国貯蓄銀行取締役。元米子町会議員、郡会議員。自治功労者。地主。 元衆議院議員野坂茂三郎の弟。元米子市長野坂寛治の叔父。洋食のレストラン“十字屋”経営主で米子市会議員を務めた野坂康久の養父。米子市長野坂康夫は曾孫にあたる。 伯耆国米子法勝寺町(現鳥取県米子市法勝寺町)の商家に生まれた。屋号は油屋。野坂與八郎の五男。 明治14年(1881年)家督を相続す。 大正2年(1913年)9月、町会議員(一級)に当選。 大正4年(1915年)9月30日 - 大正8年(1919年)9月29日、郡会議員。
木下 義之(きのした よしゆき、1866年9月24日〈慶応2… 木下 義之(きのした よしゆき、1866年9月24日〈慶応2年8月16日〉 - 1923年〈大正12年〉6月9日)は、日本の政治家、衆議院議員(鳥取市選出、当選1回)、地主。旧姓は足羽。族籍は鳥取県士族。 伯耆国日野郡二部村(のち鳥取県日野郡溝口町二部、現・伯耆町)出身。士族・足羽純亭の六男。1889年、木下家に養子入りする。鳥取市会議員、同議長、鳥取県会議員、同参事会員、鳥取県農工銀行取締役となる。 鳥取電燈創立の際に監査役となり、のちに取締役となる。 1908年の第10回衆議院議員総選挙において鳥取市選挙区から立憲政友会公認で立候補して当選した。1912年の第11回衆議院議員総選挙には出馬しなかった。
石谷 伝四郎(石谷 傳四郎、いしたに でんしろう、1866年… 石谷 伝四郎(石谷 傳四郎、いしたに でんしろう、1866年6月12日(慶応2年4月29日)- 1923年(大正12年)12月19日)は、明治から大正期の実業家、政治家。鳥取県平民。鳥取県多額納税者。 因幡国智頭郡、のちの鳥取県智頭郡智頭村(八頭郡智頭村を経て現智頭町)に生まれる。石谷伝九郎の長男。石谷家は智頭四軒衆と呼ばれた素封家のひとつで、山林経営によって江戸時代の大庄屋から智頭の筆頭地主となった豪家。 慶應義塾を卒業し、家業を継いだ。町会議員、県会議員となって活躍した。 1898年(明治31年)には衆議院議員に初当選し、その後も2回再選された。1903年(明治36年)春、日本美術院長の岡倉天心が智頭町にある豊乗寺の国宝調査に訪れた際、国米泰石の技量の高さを岡倉天心に示したところ、国米泰石は岡倉天心に招かれて日本美術院に入ることとなった。
山口 嘉蔵(嘉藏、やまぐち かぞう、1865年4月9日(慶応… 山口 嘉蔵(嘉藏、やまぐち かぞう、1865年4月9日(慶応元年3月14日)- 1943年(昭和18年)8月4日)は、明治から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・蔵合。 伯耆国久米郡倉吉宿堺町五軒屋(鳥取県久米郡倉吉町、東伯郡倉吉町を経て現倉吉市堺町)で、蔵合家に生まれる。家が貧しく、丁稚として働いていたが、1885年(明治18年)に出奔して大阪に向かった。何も当てがなかったが、偶然に実業家・山口玄洞と出会ってその手代として働いた。その働きが認められ番頭になり、1892年(明治25年)7月、先代・山口玄洞の養子となりその長女ますと結婚して山口に改姓した。 1895年(明治28年)洋織物商を営み成功し、日本毛織監査役、東洋製鋼所取締役社長、大日本窯業取締役、日本機械製造取締役、山陰紡織取締役、倉吉紡績取締役、長門起業炭礦取締役などを務めた。
足立 正(あだち せい、元治2年1月10日(1865年2月5… 足立 正(あだち せい、元治2年1月10日(1865年2月5日) - 昭和22年(1947年)10月29日)は、日本の教育者、郷土史家、政治家。きよしこの夜の訳詞者由木康の実父。実業家足立荘の実兄。 坪井正五郎、喜田貞吉、沼田頼輔など一流の学者と親交を持ち、西伯耆を中心とする考古学、歴史学の研究と資料収集にその生涯を捧げた。元境町長。 島根県松江師範学校卒業後は上道小学校で教員となり、1888年(明治21年)からは上道の弓浜高等小学校に12年間務めた。 1900年(明治33年)からは西伯郡淀江町今津の養良高等小学校の校長に就任した。20年以上の在職中には1903年(明治36年)設立の養良農業補習学校での業績を評価され、表彰もされている。
中本 範治(なかもと はんじ、1865年〈慶応元年〉 - 没… 中本 範治(なかもと はんじ、1865年〈慶応元年〉 - 没年不明)は、日本の会社役員、地主、名望家、篤農家、政治家。鳥取県西伯郡県村長。古豊千村、八幡村組合村長。族籍は鳥取県平民。 鳥取県西伯郡県村(現・米子市)出身。宇平の嫡男。村夫子に従い漢籍、句読、習字、算数の術を学ぶ。 1890年、自由党に入党する。政友会の組織が成立すると、その会員となる。町村制実施と共に村役場書記となり、1894年に郡書記に栄転する。 1898年、県村長に推される。郡立病院監事、米子農業倉庫監事、尾高井手水利組合管理者等を兼ねる。大山自動車取締役、県報徳社理事、保証責任製糸信用販売購買利用組合理事をつとめる。郡会議員、郡参事会員、その他の公職に就く。
伊藤 隼三(いとう はやぞう、1864年6月12日(元治元年… 伊藤 隼三(いとう はやぞう、1864年6月12日(元治元年5月9日) - 1929年(昭和4年)5月14日)は鳥取県出身の医師。因幡病院(現:鳥取県立中央病院)初代院長。京都帝国大学名誉教授。 京都帝国大学医科大学外科学第二講座初代教授、京大付属病院長などを歴任した。特に外科医術を発展させ、数千の門下を育て、日本の医学に多大な貢献をする。さらに鳥取県の医療に多大な貢献をする。 伊藤隼三は、1864年に因幡国邑美郡御弓町(現:鳥取市御弓町)の鳥取藩士小林辰蔵の三男として生まれた。「鳥取藩史」第二巻に「御武器預并製造掛 小林辰三」と出てくるのが父である。1874年鳥取変則中学(鳥取県立鳥取西高等学校の前身)に遊学し頭脳明晰で、この頃から伊藤健蔵に認められ援助を受け、1878年中学4年生(15歳)で、東京大学予備門に入学するほどの秀才であった。
臼田 久内(うすだ きゅうない、1864年2月26日〈文久4… 臼田 久内(うすだ きゅうない、1864年2月26日〈文久4年1月19日〉 - 1945年〈昭和20年〉7月4日)は、明治から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員。族籍は鳥取県士族。 因幡国法美郡立川町(現鳥取県鳥取市立川町)で、鳥取藩士・臼田久雄、つね夫妻の二男として生まれる。立川小学校を卒業後、京都市丸太町烏丸の林益習館で学んだ。 小学校教員を経て、第八十二国立銀行に勤務。1895年(明治28年)神戸の戸崎商店に入り大牟田支店詰となる。1905年(明治38年)に独立して臼田商会を設立。鉄道鉱山用材料の輸入商を営み、炭鉱に鉄類などを納入して事業を発展させた。 その後、三池無尽取締役、大牟田瓦斯取締役社長、帝国セメント監査役、大牟田製氷取締役社長、博多株式取引所理事などを務めた。
中井 養三郎(なかい ようざぶろう、1864年 - 1934… 中井 養三郎(なかい ようざぶろう、1864年 - 1934年)は、現在の鳥取県倉吉市出身で、島根県周吉郡西郷町(現在の隠岐の島町)を拠点とした漁業者。 1864年、伯耆国久米郡中河原村(鳥取県東伯郡小鴨村大字中河原を経て、現:倉吉市中河原)にて、醸造業者の家に生まれる。 竹島で、潜水器を使ってナマコやアワビをとる漁業に携わったが、自著『事業経営概要』の中で、「本島は鬱陵島に付属して韓国の所領なりと思はるるを以って、将に韓国統監府に就て為す所あらん」と記述し、中井から直接話を聞いた奥原碧雲も、『竹島及鬱陵島』(1907年)において「リャンコ島を以って朝鮮の領土と信じ、同国政府に貸下請願の決心を起こし」と記述している。
武信 由太郎(たけのぶ よしたろう、1863年9月5日(文久… 武信 由太郎(たけのぶ よしたろう、1863年9月5日(文久3年7月23日) - 1930年(昭和5年)4月26日)は、明治・大正期を代表する日本の英語学者。 因幡国気多郡潮津村(現在の鳥取県鳥取市青谷町)出身。1876年、官立愛知英語学校(のちの愛知県立第一中学校)に入学、同校廃止後は愛知県中学校に編入となり、1880年に卒業する。同年、札幌農学校の第4期生となる。1884年同校卒業、長野県中学校飯田支校の英語教員、1887年『ジャパン・メール』の記者となった。一時期三重県の教員を務め、1897年に頭本元貞と『ジャパン・タイムズ』を創刊。頭本元貞(1863年-1943年) とは同郷同卒で親しく、福澤諭吉ら政財界の後押しによって、『ジャパン・タイムス』の刊行が実現した。
樺 正董(かば せいとう、かば まさしげ、文久3年6月7日(… 樺 正董(かば せいとう、かば まさしげ、文久3年6月7日(1863年7月22日) - 大正14年(1925年)12月27日)は、日本の数学教育家・数学者。数学教育近代化の先駆的役割を果たした。 1960年の安保闘争のとき、死去した東大女子学生樺美智子の曾祖父、社会学者樺俊雄の祖父。 鳥取市定府内町に生まれる。藤六、とめの長男。家庭は織物屋兼紺屋だった。 13歳の時故郷を出て大阪へ行く。これは、勉強するのに都合の良い所を見付けようとしたのであった。。しかし金は無く、ただ着のみ着ままで出たため、大阪に着いたら最早一厘の貯えもなかった。そこで、或る家に奉公することになった。主人の使い歩き、時には子守なども命令された。
増谷 喬(ますたに たかし、文久3年(1863年)6月5日)… 増谷 喬(ますたに たかし、文久3年(1863年)6月5日) - 昭和19年(1944年)4月13日)は日本の政治家。上道村長(5代)、上道村会議員。 二女よしは元鳥取弁護士会会長君野順三の弟で醤油醸造業君野秀三(元若桜町町長)の妻。ソニー育ての親として知られる増谷麟(元東宝常務、PCL創立社長、日本ポリドール社長)は三男。 上道村(現鳥取県境港市上道町)出身。家業は薬問屋、醤油醸造。若いころから村会議員を務め一派を形成していた。大正15年(1925年)5月から昭和4年(1929年)9月まで上道村長を務めた。 短歌や墨絵を趣味とし、囲碁も強くて碁打ち友達がよく来ていた。
坂口 常次郎(さかぐち つねじろう、1863年5月31日〈文… 坂口 常次郎(さかぐち つねじろう、1863年5月31日〈文久3年4月14日〉 - 没年不明)は、日本の政治家、実業家。坂口商店代表社員。族籍は鳥取県平民。 鳥取県西伯郡米子町大字尾高町(現・米子市尾高町)出身。木綿商・坂口平吉郎の三男。坂口喜平の養子となる。 尾高区区長、西伯郡会議員、米子町収入役、米子町会議員、米子製糸取締役、米子製鋼所監査役、西伯酒造組合長、西伯醤油製造同業組合長などをつとめる。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
佐中 廉(さなか れん、文久2年(1862年)12月27日 … 佐中 廉(さなか れん、文久2年(1862年)12月27日 - 昭和13年(1938年)10月5日)は日本の教育者、政治家。元余子小学校長、境小学校長。元余子村学務委員。元余子村長。幼名松太郎。 大阪府立大学名誉教授佐中壮の父。 福定村の農家佐中友太の長男として生まれる。中野村木島仙庵の門に入り、次いで中野小、森山村寺本要塾、広瀬町山村勉斎塾でよく学び、24歳の時教員検定試験に合格した。 明治21年(1888年)弓浜高等小学校創設にあたり、以来同校に勤務、校長村上龍の家族主義教育を20余年助けた。次いで校長に進んだがいったん職を退き、さらに余子小学校長、境小学校長を歴任して教育一筋につとめ、多くの人材を出した。
筧 馬蔵(筧 馬藏、かけい うまぞう、1862年1月7日〈文… 筧 馬蔵(筧 馬藏、かけい うまぞう、1862年1月7日〈文久元年12月8日〉 - 没年不明)は、日本の実業家、政治家。吉岡ホテル社長。 因幡国高草郡下味野村(のち鳥取県気高郡美穂村下味野、現・鳥取県鳥取市下味野)出身。筧橘五郎の四男。寺子屋式の教育を受ける。吉岡村に分家する。酒小売、質商を営む。 村区長、村評議員、村会議員、信用組合長、気高漁業、山陰倉庫各監査役等をつとめる。酒造会社を経営する。 趣味は骨董、囲碁。住所は鳥取県気高郡吉岡村大字吉岡(現・鳥取市吉岡温泉町)。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
八村 八太郎(はちむら やたろう、1862年1月2日〈文久元… 八村 八太郎(はちむら やたろう、1862年1月2日〈文久元年12月3日〉 - 1926年〈大正15年〉10月17日)は、日本の商人(呉服商)、地主、会社役員、政治家。鳥取県会議員。鳥取市会副議長(15代)。鳥取勧業取締役。 鳥取市元魚町1丁目、八村八次郎の長男。森本晩盛塾に、漢学を学ぶ。家業の呉服商に従事したが、1887年頃に廃業した。1892年に鳥取市会議員となり、1911年1月に副議長に就任した。 1911年6月に鳥取県会議員補欠選挙に当選した。帝国党、憲政会に所属。1915年10月に県参事会員となり、1916年11月に辞職した。 趣味は茶の湯、生花、書画、骨董。住所は鳥取市元魚町1丁目。
渡部 芳造(わたなべ よしぞう、1861年5月27日(文久元… 渡部 芳造(わたなべ よしぞう、1861年5月27日(文久元年4月18日) - 1936年(昭和11年)3月7日)は、日本の政治家。衆議院議員(鳥取県第3区選出、当選2回)。 伯耆国会見郡渡村(現鳥取県境港市渡町)の豪商「灘渡部」の渡部茂八郎の一人息子として生まれる。同村の医師渡辺恭平について漢学を学び、次いで備中高梁の山田方谷の塾、米子教員伝習所等で修行を積んだ。 第1回衆議院議員総選挙で支援当選させた松南宏雅の後を継いで、30歳にして第2回衆議院議員総選挙に出馬当選、連続二期国会議員を務めた。中国鉄道創立発起人となった。 一方、1892年(明治25年)の第2回総選挙で現職の門脇重雄を破って当選した渡部芳造(渡村) は吏党系で、以後2人は選挙の度に争い議席を分け合った。
野坂 茂三郎(のさか もさぶろう、万延2年2月11日(186… 野坂 茂三郎(のさか もさぶろう、万延2年2月11日(1861年3月21日) - 大正12年(1923年)5月7日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員、郡会議員、町会議員。中国貯蓄銀行頭取、米子銀行取締役。鳥取県平民。大地主。 元米子市長野坂寛治の父。 伯耆国米子法勝寺町(現鳥取県米子市法勝寺町)の商家に生まれた。屋号は油屋。野坂與八郎四男。 地方村夫子に従い漢学句読習字算術等の教授を受く。小学校設立に及び入校し或は豫科学所に入り勤学す。 明治10年(1877年)1月分家して一家を創立す。明治15年(1882年)呉服商をはじめて営む。明治17年(1884年)米綿仲買商を兼業した。 明治31年(1898年)3月実施された第5回総選挙で第三区から衆議院議員に当選した。
足立 繁太郎(あだち しげたろう、万延元年12月24日(18… 足立 繁太郎(あだち しげたろう、万延元年12月24日(1861年2月3日) - 昭和19年(1944年))は、日本の政治家。元境町会議員。鳥取県会見郡中野村(後に西伯郡余子村、現・境港市)の人。 元日本商工会議所会頭足立正の父。 足立家の家業は酒造りで、江戸時代には大庄屋を務め、苗字帯刀を許された豪家だった。。 父徹造は馬術の達人であり、鳥取藩つきの高名な先生について腕をみがいた。繁太郎は長男の正に剣道を教えた。。 繁太郎は多年にわたり境郵便局長をつとめたため、“郵便足立”とよばれていた。 日本の製紙王と呼ばれた藤原銀次郎の妻の実家(由井家)と足立家は隣同士であり、2人が結ばれたのは繁太郎の仲介によるものであった この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
奥田 義人(おくだ よしと / よしんど / ぎじん、186… 奥田 義人(おくだ よしと / よしんど / ぎじん、1860年7月31日〈万延元年6月14日〉- 1917年〈大正6年〉8月21日)は、明治時代から大正時代にかけての日本の官僚・政治家・法学者。学位は、法学博士。従二位勲一等。男爵。号は秋軒。 衆議院議員(当選2回)、貴族院議員(勅選)、第1次山本内閣で文部大臣兼司法大臣を歴任したほか、晩年には請われて東京市長も務めている。また中央大学の創設者の一人で、第2代学長。 因幡国邑美郡栗谷町(現在の鳥取市栗谷町)に生まれる。幼名は留三郎。父の奥田鉄蔵は禄高300石の鳥取藩士で、作事組頭、武術師範を務めた。 7歳のとき藩の儒者坂田順蔵の門弟となり、藩校・尚徳館に入学。
国谷 亨(國谷 亨、くにたに とおる、1860年6月8日〈慶… 国谷 亨(國谷 亨、くにたに とおる、1860年6月8日〈慶応3年8月18日〉 - 1932年〈昭和7年〉9月1日)は、日本の政治家、鳥取県多額納税者。衆議院議員(当選1回)。旧姓・船田。幼名・今吉。 伯耆国汗入郡御来屋村(のち鳥取県西伯郡名和町御来屋、現・大山町御来屋)出身。船田専蔵の三男。8歳の時に生母の実家富長村国谷家の養子となった。 神田共立学舎に入り英語、漢学、数学を修めた。1886年に東京専門学校に入学許可され、政治科と英語科を兼修した。1888年に養父国谷礼蔵が病気となったため故郷から帰郷して家務を見るよう督促があったのでやむなく学業半ばにして帰郷した。農業を営む。 庄内村会議員、西伯郡会議員となる。
野坂 金治郎(のさか きんじろう、1859年1月24日〈安政… 野坂 金治郎(のさか きんじろう、1859年1月24日〈安政5年12月21日〉 - 1937年〈昭和12年〉2月2日)は、日本の醸造家、政治家。鳥取県会議員。鳥取県日野郡会議員。日野家畜、根雨銀行各取締役。中国貯蓄銀行監査役。日野酒造組合副組長。野坂家第9代。 伯耆国日野郡溝口宿(のち鳥取県日野郡溝口町、現伯耆町)出身。酒造業を営む。銘酒「玉の井」を醸造する。住所は日野郡溝口村大字溝口宿。 野坂家は天保年間から明治初年にかけて口日野郡の大庄屋、続いて区長・戸長などをつとめた。野坂金治郎の嗣子は野坂誠之。遺族は日野郡溝口町溝口の野坂和子。「野坂和子氏所蔵文書」は、大庄屋文書は藩からの到来書及び御用留、郡村役人同志との往復文書、構内各村からの嘆願書類がその主な内容である。
石谷 源蔵(いしたに げんぞう、1858年10月14日〈安政… 石谷 源蔵(いしたに げんぞう、1858年10月14日〈安政5年9月8日〉 - 1932年〈昭和7年〉1月31日)は、日本の林業家、政治家、実業家。因幡木材合資会社代表社員。鳥取電燈常務取締役。族籍は鳥取県平民。智頭杉で知られる「智頭林業育ての親」とされる。 1858年10月14日(安政5年9月8日)、因幡国智頭郡智頭宿(現・鳥取県八頭郡智頭町)に生まれた。庄屋を務めた石谷槌五郎の長男である。 文化文政期頃、祖父の代から石谷家は植林を進めていた。源蔵は後に石谷家の家督を相続し、林業近代化と地域振興に尽くした。大和国吉野地方(現・奈良県)を訪れて実生苗の生産や造林技術の研究を行い、スギの実生苗の大量生産に成功した。
西谷 金蔵(金藏、にしたに きんぞう、1858年9月24日(… 西谷 金蔵(金藏、にしたに きんぞう、1858年9月24日(安政5年8月18日)- 1933年(昭和8年)12月15日)は、明治から昭和初期の大地主・実業家・政治家。衆議院議員、鳥取県東伯郡北谷村長。幼名・亀吉。「西金」と称され鳥取県政界の指導的存在であった。 伯耆国久米郡、のちの鳥取県久米郡北谷村(東伯郡北谷村を経て現倉吉市)で、大地主、庄屋・西谷萬市の長男として生まれる。1884年(明治17年)1月、家督を相続し金蔵に改名。漢学を修めた。農業を営む。 1879年(明治12年)三徳ほか21ヵ村戸長に就任。北谷村長、北谷村会議員、同議長、東伯郡会議員、同議長、数郡連合会議員、郡会大地主議員、衛生会委員、学務委員、徴兵参事員、所得税調査委員、日本赤十字社委員などを務めた。
富谷 千太郎(とみたに せんたろう、安政5年2月5日(185… 富谷 千太郎(とみたに せんたろう、安政5年2月5日(1858年3月19日) - 大正13年(1924年)10月23日)は、日本の茶人、政治家。余子村長(初代)、余子村会議員。 竹内村(のち鳥取県境港市竹内町)出身。父喜七郎は醤油醸造をはじめ手広く事業をやっており、元治元年(1864年)の外江大火には醤油を見舞ったという。また村役人を務めた記録もある。 千太郎は初代村長として余子尋常小学校を開校し、明治23年(1890年)竹内村津山長四郎宅に役場を移転した。 いつのころか家業に失敗し、その後は煮干鰮製造や養鶏等を手掛けた。 またお茶やお花の宗匠でもあり、この道を海外で広めようと渡米したが、時期尚早で目的成らず帰国した。
細田 謙蔵(ほそだ けんぞう、1858年〈安政5年〉 - 1… 細田 謙蔵(ほそだ けんぞう、1858年〈安政5年〉 - 1945年〈昭和20年〉)は、日本の漢学者、書家、大学教授。号は剣堂。 鳥取県倉吉市出身。巻菱湖書を学び、東京の二松學舍で漢学を学んだ。その後、中国に渡り、漢学と書道を研鑽した。 二松學舍大学、中央大学、大東文化学院、東京高等師範学校、東京女子高等師範学校などの諸学校で教授を務めた。 根岸信五郎の道場・有信館に入門し、神道無念流剣道も学んだ。富山県の旅館を定宿としており、当時そこで丁稚をしていた中山博道に有信館を紹介した。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
臼井 幾蔵(うすい いくぞう、安政4年(1857年) - 昭… 臼井 幾蔵(うすい いくぞう、安政4年(1857年) - 昭和10年(1935年)1月)は、日本の医師。旧姓田淵。 二男・宗の妻は元鳥取県知事石破二朗(政治家石破茂の父)の姉。 鳥取県八上郡本角村(現鳥取市河原町)の医師・田淵養玄の二男。 幼時より学問もよく出来、佐貫の円浄寺の住職に漢書を学び、長じて鳥取川端一丁目で外科を開業していた黒川樹平について医学を学んだ。 明治17年(1884年)医師開業試験に合格。はじめ小畑で開業していたが臼井宗順の家を継いでからは市場で開業した。幾蔵は性格は厳格であったが常に西洋医学を学び新しい医療器具や技術を取入れて診療していたという。 外科が得意で、開業して間もない頃壊疽の患者の大腿切断術を施して村人達を驚服させたと伝えられている。
児嶋 幸吉(こじま こうきち、安政4年11月1日(1857年… 児嶋 幸吉(こじま こうきち、安政4年11月1日(1857年12月16日) - 昭和4年(1929年)12月1日)は日本の実業家。鳥取ガス株式会社の創業者。昭和44年(1969年)9月24日、鳥取市名誉市民に選ばれた。 商家に育ったからさしたる教育は受けていなかったが、心が至って敏く、物事に綿密で早くからなかなか商才に富んでいた。 明治9年(1876年)19歳で酒造業を開設、明治21年(1888年)因幡酒造組合を設立し、組合長として業界の指導に当たり、明治23年(1890年)市会議員に当選して4期11年間市政に参画し、都市計画、発電計画案を作るなど市政の発展と経済の振興に尽力された。明治25年(1892年)鳥取汽船会社を設立して阪神地方へ農産物の移出を行う。
西村 忠義(にしむら ただよし、1857年1月8日〈安政3年… 西村 忠義(にしむら ただよし、1857年1月8日〈安政3年12月13日〉 - 1925年〈大正14年〉4月22日)は、日本の政治家。鳥取県西伯郡境町長(2代)。境町会議員。 伯耆国会見郡境村(現・鳥取県境港市)出身。1889年(明治22年)に境町会議員に当選した。1890年(明治23年)1月に同町助役となった。1892年(明治25年)、同町会議員に再選した。1893年(明治26年)12月に同町助役を退任した。同月12日から1898年(明治31年)12月12日まで、同町長をつとめる。町長を辞めたあとは台湾に渡り、木村久太郎の下で金山監督をつとめる。同年、同町会議員に返り咲いた。1900年(明治33年)、同町会議員にまた返り咲いた。