村上 兵衛(むらかみ ひょうえ、1923年(大正12年)12… 村上 兵衛(むらかみ ひょうえ、1923年(大正12年)12月6日 - 2003年(平成15年)1月6日)は日本の陸軍軍人、評論家、作家。本名は宏城(ひろき)。兄は武藤電機創業者の村上稔夫。
島根県:14人
村上 兵衛(むらかみ ひょうえ、1923年(大正12年)12… 村上 兵衛(むらかみ ひょうえ、1923年(大正12年)12月6日 - 2003年(平成15年)1月6日)は日本の陸軍軍人、評論家、作家。本名は宏城(ひろき)。兄は武藤電機創業者の村上稔夫。
深谷 義治(ふかたに よしはる、1915年6月20日 - 2… 深谷 義治(ふかたに よしはる、1915年6月20日 - 2015年4月21日)は、日本の陸軍軍人。 1915年6月20日、島根県大田市の農家に長男として生まれる。 1937年、浜田歩兵第21連隊に入隊。訓練後、中国の戦場で戦闘中に負傷。1939年に憲兵志願試験に合格。日本憲兵教習隊の第二中隊に配属され、中国の言語・歴史・地理などを学び、優秀な成績で卒業。1940年末、極秘の特殊任務を受けて中国人を装い、諜報員として活動を始める。敵国紙幣を偽造して貨幣市場を混乱させるなどの任務を成功させ、27歳で瑞宝章を受けた。終戦後も任務続行という命令を受け、中国に13年間潜伏。1958年にスパイ容疑で中国当局に逮捕され、上海市第一看守所(拘置所)と上海市監獄(刑務所)に合わせて20年4ヶ月収監。
佐々木 直吉(ささき なおきち、1913年(大正2年)5月2… 佐々木 直吉(ささき なおきち、1913年(大正2年)5月20日 - 1941年(昭和16年)12月8日)は、日本の海軍軍人。真珠湾攻撃において「甲標的」(特殊潜航艇)搭乗員として戦死した九軍神の一人。二階級特進により最終階級は海軍特務少尉。 島根県出身。出産前からの心臓病で直吉の出産4日目に死亡、7歳で父を失っている。酒屋、農業、石見焼製造を営む叔父夫婦に育てられ、小学校高等科を卒業。金物商や材木商に見習いとして勤めたが、短期間で帰郷。海軍を志望し、2度目の受験で合格。1932年(昭和7年)呉海兵団に入団した。 駆逐艦「薄雲」、「蔦」、「磯波」乗組の艦隊勤務のほか、潜水学校、水雷学校高等科を修了している。
栗原 安秀(くりはら やすひで、1908年(明治41年)11… 栗原 安秀(くりはら やすひで、1908年(明治41年)11月17日 - 1936年(昭和11年)7月12日)は、日本の陸軍軍人、国家社会主義者。陸軍士官学校第41期歩兵科出身。最終階級は歩兵中尉。 1936年2月26日に勃発した二・二六事件に参加した。磯部浅一に並ぶ急進派として知られる。 1908年11月17日、島根県松江市に生まれる(東京に在籍)。父は佐賀県出身の歩兵大佐栗原勇(12期)。父の転勤に従い、北海道旭川で暮らしている。二・二六事件において処分された予備役少将斎藤瀏(12期)とその娘で歌人の斎藤史とは家族ぐるみの付き合いをしていた。坂井直(事件時は歩兵第3聯隊第1中隊附中尉として斎藤實内大臣邸を襲撃、43期)もこの頃の幼馴染である。
中山 定義(なかやま さだよし、1905年(明治38年)8月… 中山 定義(なかやま さだよし、1905年(明治38年)8月16日 - 1995年(平成7年)1月16日)は、日本の海軍軍人、海上自衛官。海兵54期恩賜。第4代海上幕僚長。島根県出雲市出身。東京都目黒区在住であった。長男は第10代明治学院長の中山弘正。 旧制島根県立大社中学校より海軍兵学校第54期入校。席次は入校時は79名中4番、卒業時は68名中3番で恩賜の短剣を拝受。 海兵54期は、ワシントン軍縮会議の結果、艦船のみならず海軍士官も余剰と判断され、海軍兵学校生徒の採用数が通常年度の半分以下になった2期目のクラスである。 佐官になってからは、軍政部門での勤務が多かった。海軍大学校甲種第36期在校中に日中戦争が勃発、人手不足も手伝って、大学校在校者も駆り出され、中山は中国在勤を命ぜられる。
田中 隆吉(たなか りゅうきち、1893年(明治26年)7月… 田中 隆吉(たなか りゅうきち、1893年(明治26年)7月9日 - 1972年(昭和47年)6月5日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 第一次上海事変(1932年)・綏遠事件(1936年)において主導的役割を果たし、日本軍の数々の謀略に直接関与していた。太平洋戦争開戦時には陸軍省兵務局長であったため、対米作戦について関与することはなく予備役とされ、極東国際軍事裁判(東京裁判)において、検事側の証人として被告に不利な証言もした。検事の求めに応じどんなことでも証言した。ことに満州国は独立国ではないと。個人的には自分と競争的立場にあった武藤章に対しては、対英米開戦の責任について徹底的に不利益な証言をした。
岡崎 清三郎(おかざき せいざぶろう、1893年〈明治26年… 岡崎 清三郎(おかざき せいざぶろう、1893年〈明治26年〉3月17日 - 1979年〈昭和54年〉5月27日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 島根県出身。松江市で岡崎竜次郎の三男として生まれる。松江中学校を経て、1914年5月、陸軍士官学校(26期)を卒業し、同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第63連隊付となる。1921年11月、陸軍大学校(33期)を卒業した。 参謀本部付勤務、参謀本部員などを経て、1925年5月、皇族(秩父宮雍仁親王)付武官となり、秩父宮の外遊(オックスフォード大学)に随行した。参謀本部員(編制班)、ジュネーヴ出張、陸軍省整備局課員(統制課)、兼参謀本部員、上原勇作元帥副官(近衛歩兵第3連隊付、歩兵第59連隊付)、留守第4師団参謀長などを経て、日中戦争に支那駐屯歩兵第2連隊長として出動。
長野 祐一郎(ながの ゆういちろう、1889年(明治22年)… 長野 祐一郎(ながの ゆういちろう、1889年(明治22年)11月5日 - 1950年(昭和25年)1月17日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 島根県出身。松江中学校を経て、1912年(明治45年)5月、陸軍士官学校(24期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第41連隊付となる。1925年(大正14年)11月、陸軍大学校(37期)を卒業。 歩兵第41連隊中隊長、陸軍歩兵学校教官などを経て、1930年(昭和5年)12月、陸大専攻学生となった。1931年(昭和6年)11月、歩兵学校教官に就任、関東軍司令部付、第19師団参謀などを歴任し、1936年(昭和11年)8月、陸軍大佐に昇進し歩兵学校教官となった。
原 忠一(はら ちゅういち、1889年〈明治22年〉3月15… 原 忠一(はら ちゅういち、1889年〈明治22年〉3月15日 - 1964年〈昭和39年〉2月17日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 島根県松江市出身。旧制島根県松江尋常中学校より海軍兵学校第39期入校。入校時成績順位は150名中第53位、卒業時成績順位は149名中第85位。余談ではあるが官報によると原は陸軍士官学校第23期の試験も合格しており、騎兵第八連隊への配属も決まっていた。 北部仏印進駐の際は第二遣支艦隊参謀長として陸軍強硬派との対応に追われる。第五航空戦隊司令官として、航空母艦を主力とする世界初の海戦となった珊瑚海海戦を指揮した人物である。
寺本 武治(てらもと たけじ、1884年2月25日 - 19… 寺本 武治(てらもと たけじ、1884年2月25日 - 1958年12月2日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。 島根県出身。神戸一中を経て、1905年(明治38年)11月、海軍兵学校(33期)を卒業し、1906年(明治39年)12月、海軍少尉任官。海軍大学校乙種、海軍砲術学校高等科で学ぶ。1911年(明治44年)12月、「筑波」分隊長となり、「三笠」「周防」の各分隊長、砲術学校教官兼分隊長兼海軍機関学校教官、「橋立」分隊長兼砲術学校教官などを経て、1917年(大正6年)11月、海大(甲種15期)を卒業した。 1917年12月、海軍少佐に昇進し海軍省人事局局員(第1課)に就任。1920年(大正9年)12月、「伊勢」砲術長となり、軍令部参謀兼サガレン州派遣軍司令部付に転じ、1921年(大正10年)12月、海軍中佐に進級。
山本 鶴一(やまもと かくいち、1875年〈明治8年〉12月… 山本 鶴一(やまもと かくいち、1875年〈明治8年〉12月15日 - 没年不明)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功四級。 島根県楯縫郡、後の簸川郡灘分村(現出雲市)で山本才之助の長男として生まれ、1900年(明治33年)に家督を相続した。 松江中学校(現島根県立松江北高等学校)を卒業。1897年(明治30年)11月、陸軍士官学校(9期)を卒業し、1898年(明治31年)6月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第11連隊付となる。1903年(明治36年)8月、陸軍大学校(20期)に入学。日露戦争勃発により1904年(明治37年)2月、陸大を中退し、1906年(明治39年)3月、陸大に復校し、1908年(明治41年)11月、同校を卒業し参謀本部に配属された。
宇山 熊太郎(うやま くまたろう、1873年(明治6年)11… 宇山 熊太郎(うやま くまたろう、1873年(明治6年)11月3日 - 1948年(昭和23年))は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 島根県出身。のちの能義郡広瀬町(現安来市)で生まれる。1896年(明治29年)11月に陸軍士官学校(第8期)を卒業し、1897年(明治30年)6月、砲兵少尉に任官。 1903年(明治36年)、砲兵大尉に進み野戦砲兵第2連隊中隊長となり日露戦争に従軍した。1920年(大正9年)4月に野砲兵第1連隊長、同年9月に陸軍砲兵大佐を経て、1924年(大正13年)12月に陸軍少将・澎湖島要塞司令官に任官。 その後、1926年(大正15年)3月に野戦重砲兵第1旅団長を経て、1928年(昭和3年)3月8日に待命、同月29日に予備役に編入した。
竹内 平太郎(たけのうち へいたろう、1863年2月6日(文… 竹内 平太郎(たけのうち へいたろう、1863年2月6日(文久2年12月18日) - 1933年(昭和8年)12月21日)は、島根県松江出身の海軍軍人。最終位階勲等は海軍少将。従四位勲三等功三級に至る。 竹内家初代は松江城天守の修復や、法華宗大雄寺の八角堂や堂宇を作った竹内有兵衛で、松江松平藩の初代藩主松平直政の大工頭であった名工竹内有兵衛(右兵衛、宇兵衛、たけのうち うへえ)の十代目の子孫。長男竹内和信は帝国陸軍航空総軍第53航空師団・第7航空通信連隊連隊長(終戦時大佐)。 1900年に主席駐在武官として駐仏公使館に着任した竹内大佐の主要な任務は、露仏同盟によりロシアと軍事的な関係を強化していたフランスにおいて、ロシアの軍事情報を収集することであったとされている。
松本 鼎(まつもと かなえ、1856年2月10日(安政3年1… 松本 鼎(まつもと かなえ、1856年2月10日(安政3年1月5日) - 1928年1月23日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。位階は正四位・勲等は勲二等・軍功は功三級。 島根県簸川郡大社町で、出雲国造・千家家と北島家に仕える士族松本礼次郎の長男として生まれる。父は美保関町森山出身の志士・松本古堂(巌)の門人で、以前は寺本易直と名乗っていたが、養子に入り礼次郎となった。 1878年(明治11年)12月、陸軍士官学校(旧2期)を卒業し、翌年2月、砲兵少尉任官。1901年(明治34年)2月、野戦砲兵第12連隊長に就任。1902年(明治35年)11月、砲兵大佐に昇進した。 1903年(明治36年)5月、陸軍野戦砲兵射撃学校長となり、1904年(明治37年)2月、第1軍砲兵部長に発令され日露戦争に出征。