多田 修人(ただ なおと、1934年2月1日 - )は、日本… 多田 修人(ただ なおと、1934年2月1日 - )は、日本の実業家。日本システムウエア株式会社創業者・名誉会長。同社元代表取締役会長兼社長。元東京商工会議所渋谷支部会長。 広島県尾道市出身。広島県立尾道北高等学校入学 1964年東京経済大学経済学部卒業、東洋計算センター入社。1966年事務計算センター(現日本システムウエア)設立、同社代表取締役社長就任。1976年ナカヤ代表取締役社長。1991年システムウエアリンケージ株式会社(現NSWテクノサービス)代表取締役社長就任。2004年タダ・インベストメント取締役社長就任。2005年日本システムウエア代表取締役会長就任。2007年日本システムウエア代表取締役会長兼社長就任。
西岡光秋(にしおか こうしゅう、1934年1月3日‐2016… 西岡光秋(にしおか こうしゅう、1934年1月3日‐2016年8月26日)は、日本の詩人。本名・光明。 1934年(昭和9年)大阪府生まれ。広島県に移り、1953年(昭和28年)に広島県立吉田高等学校を卒業。同年、國學院大学文学部に入学し、1957年(昭和32年)に卒業。1966年(昭和41年)詩集『鵜匠』で第四回日本詩人クラブ賞受賞。 國學院大学講師などを務めた。詩集のほか、短歌、俳句もやり、実用書を多く書いた。1993 - 95年日本詩人クラブ会長。
岡田 至雄(おかだ よしお、1934年(昭和9年) - )は… 岡田 至雄(おかだ よしお、1934年(昭和9年) - )は、日本の社会学者、関西大学名誉教授。 広島県三原市出身。京都大学教育学部教育社会学卒、同大学院博士課程満期退学。立命館大学産業社会学部助教授、関西大学社会学部助教授、教授。2005年定年退任、名誉教授。2014年瑞宝中綬章受章。
平 幹二朗(ひら みきじろう、1933年〈昭和8年〉11月2… 平 幹二朗(ひら みきじろう、1933年〈昭和8年〉11月21日 - 2016年〈平成28年〉10月22日)は、日本の俳優・演出家。ケイファクトリー所属。長男は俳優の平岳大。 主に舞台演劇役者の主演として活躍し、国内外で高い評価を受けている日本を代表する名優の一人である。その他にも、大河ドラマなどのテレビドラマや映画などでも活躍した。 平幹二朗は1933年11月21日、広島県広島市中区小網町(こあみちょう)に生まれた。生後9か月の時に父・文雄が病死。家の造りは京都の町家のように間口は狭いが奥行きのある二階家で、1階が十畳、八畳が二間、中庭、それが土間に面して奥に続いて、2階は八畳二間と物干しだった。
有馬 真喜子(ありま まきこ、1933年11月12日 - )… 有馬 真喜子(ありま まきこ、1933年11月12日 - )は、女性問題の評論家、ジャーナリスト。 国民生活センター会長、財団法人横浜市女性協会顧問、特定非営利活動法人ユニフェム日本国内委員会理事長。所属団体は日本記者クラブ、日本エッセイストクラブ、京都大学人類学研究会。 本名は酒井 真喜子 (さかい まきこ)。夫は元朝日新聞編集委員・元東洋大学教授の酒井寛。元夫は明電舎元社員・日本共産党元常任幹部会委員の有馬治雄。父は陸上自衛隊武器学校初代校長や東急車輛製造取締役を歴任した海軍軍人・実業家の谷本政一。 広島県呉市出身。1957年、津田塾大学学芸学部英文学科を卒業し、朝日新聞社に入社。朝日新聞社初の女性記者となった。
辻村 寿三郎(つじむら じゅさぶろう)1933年〈昭和8年〉… 辻村 寿三郎(つじむら じゅさぶろう)1933年〈昭和8年〉11月11日 - 2023年〈令和5年〉2月5日)は、日本の人形作家、人形操作師。アートディレクター。旧名は辻村ジュサブロー。 その異才ぶりを遺憾なく発揮し、数々の創作人形の発表、人形芝居の上演、舞台衣裳デザインなど精力的な活動を行った。日本を代表する人形作家でありながら人形の世界にとどまらず、総合的なアーティストとして各方面より大きな注目を集めていた。また人形館(ジュサブロー館)では作品展示の他、アトリエを公開しファンとの交流を図っていた。人形町で唯一人の人形職人であった。 なお人形町にあったジュサブロー館は2015年9月12日をもって閉館。
亀井 郁夫(かめい いくお、1933年〈昭和8年〉11月1日… 亀井 郁夫(かめい いくお、1933年〈昭和8年〉11月1日 - 2019年〈令和元年〉5月15日)は、日本の政治家。元参議院議員(2期)。学校法人萩学園理事長、学校法人こおりやま東都学園理事長。弟は衆議院議員の亀井静香(誕生日は1936年の同じ日)。 広島県比婆郡山内北村(現・庄原市川北町)出身。旧制広島県立広島第一中学校(現・広島県立国泰寺高等学校)、広島県立広島皆実高等学校を経て、東京大学法学部を卒業。1957年に旭化成工業に入社し、1985年には取締役合成樹脂第一事業部長兼会長付に就任したが、翌1986年に退社。 1987年に広島県議会議員に初当選し、以後二期連続当選。1993年に県議を辞職して広島県知事選挙に立候補するが藤田雄山に敗れる。
藤原 暹(ふじわら のぼる、1933年10月11日 - 20… 藤原 暹(ふじわら のぼる、1933年10月11日 - 2009年7月14日)は、日本の思想史学者。 広島県広島市出身。岡山県立矢掛高等学校卒、1958年東北大学文学部卒、広島電波工業高等学校教諭、1962年広島県修道中学校教諭、1964年東北大学文学部日本思想史研究室助手、1965年東北大学大学院文学研究科日本思想史入学、1970年博士課程満期退学、ノートルダム清心女子大学国文科助教授、1980年岩手大学人文社会科学部教授、1997年学部長、1999年定年退官、名誉教授。没後従四位、瑞宝中綬章受勲。
備前 喜夫(びぜん よしお、1933年10月9日 - 201… 備前 喜夫(びぜん よしお、1933年10月9日 - 2015年9月7日)は、広島県尾道市出身のプロ野球選手(投手)。引退後は広島東洋カープコーチ、二軍監督、スカウトを務めた。旧名は「大田垣 喜夫」(おおたがき よしお)。
寺坂 公雄(てらさか ただお、1933年9月6日 - )は、… 寺坂 公雄(てらさか ただお、1933年9月6日 - )は、日本の洋画家、日本藝術院会員。 広島県広島市出身。旧制松山中学、愛媛大学教育学部美術科を卒業。 戦後に母の郷里松山市に転居する。大学在学中に、愛媛県展の洋画部門・日本画部門で知事賞を受賞。 1954年、「画室の隅」が光風会展初入選。同年「室内」が日展初入選。 大学卒業後、上京し中学校美術教員として勤務しながら日展・光風会展を主たる舞台に活躍。 1975年より山梨県北杜市にアトリエを構えている。 1988年から1999年まで山梨大学教授。 2001年、「デルフォイへの道」で日展文部科学大臣賞。光風会常務理事。 2005年、「アクロポリスへの道」で日本芸術院賞。
藤家 虹二(ふじか こうじ、本名:藤家 光嗣(ふじか こうし… 藤家 虹二(ふじか こうじ、本名:藤家 光嗣(ふじか こうし)、1933年9月2日 - 2011年10月24日)は、広島県福山市出身の日本のジャズクラリネット奏者。 1952年、広島県立福山誠之館中学(現広島県立福山誠之館高等学校)卒業。東京藝術大学音楽学部器楽科に首席で入学し、首席で卒業。在学中からジャズに身を投じるが、クラシックでも1956年、毎日音楽コンクール管楽器部門で第1位となった。 ベニー・グッドマンに傾倒し、その後はスウィング・ジャズ一筋に演奏を続け、平岡精二クインテット、セクステットから池田操とリズムキングを経て、1959年に南部三郎クインテットに参加。南部三郎が突如バンドを脱退したため、メンバーで相談の末、藤家がリーダーとなって、同年12月に藤家虹二クインテットとして再出発した。
木島 丘(きじま たかし、1933年(昭和8年)8月16日 … 木島 丘(きじま たかし、1933年(昭和8年)8月16日 - )は、広島市出身の政治家。広島市議会議長などを務めた。
藤瀬 浩司(ふじせ ひろし、1933年8月12日 - )は、… 藤瀬 浩司(ふじせ ひろし、1933年8月12日 - )は、日本の経済史学者、名古屋大学名誉教授。 広島県広島市生まれ。1956年東京大学経済学部卒、1961年同大学院社会科学研究科博士課程満期退学、1964年「プロシャ農業 土地所有の構造的特質 「農民解放」の歴史的地位」で経済学博士。東京大学社会科学研究所助手ののち、名古屋大学経済学部講師となり、助教授を経て、1977年教授。1989年経済学部長。1991年経済構造研究センター長。1997年定年退官、名誉教授、愛知淑徳大学教授を務めた。 名大生協の理事を務め、1975年名古屋大学出版会の設立に尽くした。 2012年4月瑞宝中綬章受章。
白崎 泰夫(しらさき やすお、1933年7月24日 - 20… 白崎 泰夫(しらさき やすお、1933年7月24日 - 2019年7月1日)は、広島県竹原市出身のプロ野球選手。ポジションは投手。 少年時代は家族で広島から旧満州に渡り、敗戦に伴い日本に引き揚げた。その後、中学編入後に野球を始め、忠海高校二年生の秋から本格的に投手となる。当時、中国一と謳われた豪速球で、1952年に夏の甲子園県予選にて優勝したが、西中国大会1回戦で柳井商工のエース森永勝也に抑えられ敗退し、甲子園出場はならなかった。 しかし、広島商や広陵高など強豪を破り、当時全くの無名であった忠海高校が県大会で優勝したことから注目され、翌1953年に南海ホークスへ入団。なかなか一軍で活躍できなかったが、1958年には先発陣の一角として起用され7勝を挙げる。
榊原 盛毅(さかきはら せいき、1933年6月30日 - )… 榊原 盛毅(さかきはら せいき、1933年6月30日 - )は、広島県出身の元プロ野球選手。 尾道西高校から1952年に広島カープ へ入団。9月29日の対名古屋ドラゴンズダブルヘッダー2戦目で初先発に抜擢されると8回1失点、打者でも4打数3安打2打点と活躍し4-3で勝利しプロ初勝利を挙げた。この年の広島は9月28日時点で勝率3割を切っており球団解散危機に瀕していた。榊原の勝利で勢いに乗った広島は次の日のダブルヘッダーを連勝し、その後の8試合を4勝4敗で乗り切り最終的に勝率.316で球団解散の危機を脱した。 1954年に右肩を痛め、その後は登板数も減り1956年に引退した。 引退後は名城大学に進学し、卒業後は東洋工業に勤務した。
田中 雍和(たなか やすかず、1933年6月15日 - )は… 田中 雍和(たなか やすかず、1933年6月15日 - )は、日本出身の元サッカー選手。ポジションはFW。 広島一中(のち学制改革により鯉城高校、現国泰寺高校)の2年先輩に福原黎三、3年先輩に重松良典がいる。 中大クラブ(中央大学サッカー部の現役、OBで構成されたチーム)の一員として長沼健、内野正雄、丸山義行らと共に1956年の全日本サッカー選手権大会 (後の天皇杯全日本サッカー選手権大会)準優勝に貢献した。 日本代表としては1955年1月の東南アジア遠征で代表に初招集され、同月11日のビルマ体協選抜戦で国際Aマッチデビューを飾った。その年、国際Aマッチ4試合に出場した。
湯川 仁(ゆかわ まさし、旧姓:藤原、1933年6月3日 -… 湯川 仁(ゆかわ まさし、旧姓:藤原、1933年6月3日 - 1980年5月28日)は、日本の哺乳類研究家。広島県出身。 広島県比婆郡比和町(現庄原市比和地区)に生まれた。比婆郡を中心とする広島県北東部で、主に小型哺乳類の研究、特に食虫類やげっ歯類の標本収集、生活史の研究を行なった。比和自然科学博物館を基盤として行動していたが、その立場は博物館の学芸員補(1953年 - 1958年)、および比和町教育委員会職員(1958年以降)であり、実質的には在野のアマチュア研究家であった。1980年没。 死後に湯川の研究は再評価され、1997年には「第1回 野生動物の保護をめざすもぐらサミット」が比和町で開かれた。
木織 武美(きおり たけよし、1933年4月3日 - )は、… 木織 武美(きおり たけよし、1933年4月3日 - )は、広島県出身の元プロ野球選手。ポジションは捕手。
東 清和(あずま きよかず、1933年3月20日-2004年… 東 清和(あずま きよかず、1933年3月20日-2004年3月20日)は、日本の心理学者。発達心理学が専門。
佐竹 利子 (さたけ としこ、1933年2月26日 -202… 佐竹 利子 (さたけ としこ、1933年2月26日 -2021年10月5日 )は、日本の実業家。株式会社サタケ取締役名誉会長。学位は農学博士(京都大学、2005年)。広島大学名誉博士。東広島市名誉市民。一般社団法人広島県発明協会名誉理事。イクボス同盟ひろしまメンバー。公益財団法人サタケ技術振興財団理事長。中国糧油学会名誉副理事長。 広島県東広島市出身。広島県立賀茂高等女学校・学習院女子高等科を卒業。1957年、南カリフォルニア大学商業デザイン科を卒業。1月、佐竹製作所(現サタケ)に入社、取締役に就任。1997年7月、代表に就任。2001年4月、財団法人広島大学後援会理事長に就任。4月24日、広島大学名誉博士。
大平 和登(おおひら かずと、1933年(昭和8年)1月5日… 大平 和登(おおひら かずと、1933年(昭和8年)1月5日 - 2012年(平成24年)11月15日)は、元東宝インターナショナル代表取締役・エッセイスト・演劇評論家・プロデューサー。 広島市生まれ、山口県出身。1956年(昭和31年) 早稲田大学文学部仏文科卒業後、東宝株式会社入社。 1961年(昭和36年) 米国ロスアンジェルス東宝ラブレア劇場支配人。1963年(昭和38年) ニューヨーク東宝シネマ支配人。 1965年(昭和40年) 帰国。東宝東和宣伝企画課長(出向)。 1969年(昭和44年) ニューヨーク再赴任。東宝ニューヨーク駐在代表(以後2004年まで在住)。 1985年(昭和60年) 第2回山路ふみ子文化賞受賞。
上田 博之(うえだ ひろゆき、1933年(昭和8年)1月1日… 上田 博之(うえだ ひろゆき、1933年(昭和8年)1月1日 - 2006年(平成18年)4月27日)は、日本の政治家。広島県東広島市出身。東広島市長(2期)。 1951年に広島県庁に入庁。 1998年、東広島市長に初当選。 2002年、無投票で再選。 2006年、健康状態の悪化を理由に3期目の市長選挙には出馬しないことを表明。同年4月23日、任期満了に伴う市長選が行われ、前県議の蔵田義雄が初当選した。 4月27日、上田は直腸癌のため任期満了の直前に死去、73歳没。死没日をもって瑞宝中綬章追贈、従五位に叙される。後任の蔵田義雄は急遽予定を繰り上げて翌4月28日に新市長に就任した。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
上里 一郎(あがり いちろう、1933年 - 2011年7月… 上里 一郎(あがり いちろう、1933年 - 2011年7月29日)は、日本の臨床心理学者、臨床心理士、教育学博士。広島大学名誉教授。元日本学術会議会員。専門は臨床心理学・健康心理学。
小掛 照二(こがけ てるじ、1932年(昭和7年)12月18… 小掛 照二(こがけ てるじ、1932年(昭和7年)12月18日 - 2010年(平成22年)5月9日)は、広島県甲奴郡上下町(現・広島県府中市上下町)出身の元陸上選手。陸上競技指導者。元三段跳世界記録保持者。日本陸上競技連盟(日本陸連)副会長、名誉副会長。日本オリンピック委員会(JOC)元副会長。日本オリンピアンズ協会元副会長。 中国山地山間の町、上下町の農家の長男として生まれる。叔父、父も甲奴体協のリレーメンバーで、恵まれた体を生かし幼少期から跳躍の素養を発揮した。同郷の先輩・織田幹雄(アムステルダムオリンピック(1928年))、から南部忠平(ロサンゼルスオリンピック(1932年))、田島直人(ベルリンオリンピック(1936年))まで三大会連続で金メダルを獲り、当時は日本のお家芸だった三段跳を教師の勧めで始める。
西条 道彦 (さいじょう みちひこ、1932年12月6日 -… 西条 道彦 (さいじょう みちひこ、1932年12月6日 - ) は、日本の作家、脚本家、小説家。日本脚本家連盟理事。本名、増成道彦。
土屋 弘光(つちや ひろみつ、1932年11月25日 - )… 土屋 弘光(つちや ひろみつ、1932年11月25日 - )は、広島県福山市出身の元プロ野球選手(内野手)、野球解説者。引退後は、所属していた中日ドラゴンズの球団マネジャー・スカウト・コーチなどを務めた。
轟 謙二(とどろき けんじ、1932年11月21日 - )は… 轟 謙二(とどろき けんじ、1932年11月21日 - )は、日本の俳優。本名は佐戸正男、現芸名は轟謙司。 広島県大竹市出身。広島県立大竹高校から広島大学に進むが中退。 1952年、市川右太衛門に弟子入りし、轟謙二の芸名をもらう。同年、東映京都に入り、1954年の『旗本退屈男 謎の百萬両』でデビュー。その後、多数の時代劇に端役で出演。 1957年には東映東京に移り、『月光仮面 魔人(サタン)の爪』(1958年)を皮切りに、現代劇映画に多数出演した。テレビドラマは、1959年の『七色仮面』第二部(毎日放送)に初出演。1961年11月にスタートした『特別機動捜査隊』(NET)では桃井刑事役で11年間レギュラーを務め、これをきっかけにテレビドラマに専念するようになった。
杉岡 洋一(すぎおか よういち、1932年11月6日 - 2… 杉岡 洋一(すぎおか よういち、1932年11月6日 - 2009年11月27日)は、日本の医学者。整形外科医。第20代九州大学総長。広島県生まれ。 福岡県立東筑高等学校を経て、1958年九州大学医学部卒業。1970年、米ペンシルヴェニア大学に留学。1972年、大腿骨頭壊死症の新しい手術法を考案。九州大学医学部助教授を経て、1983年同教授に就任。1995年から2001年まで同学長を務める。この間東北大学などとともに、国立大学初の人物重視を掲げたアドミッションオフィス入試(AO入試)を導入。 学長退任後の2002年3月、韓国国民勲章無窮花章を受章。2008年秋の叙勲で瑞宝大綬章を受章。 2009年11月27日、十二指腸癌のため死去。
小倉 薫(おぐら かおる、1932年10月30日 - )は、… 小倉 薫(おぐら かおる、1932年10月30日 - )は、広島県出身の元プロ野球選手。 広島観音高校から1952年に大洋ホエールズへ入団。 観音高のワンマン投手、シュートが武器、26年国体で優勝した。 1954年に外野手へ転向。1955年に引退。
石井 幸孝(いしい よしたか、1932年10月12日 - )… 石井 幸孝(いしい よしたか、1932年10月12日 - )は、日本の鉄道技術者。実業家、九州旅客鉄道(JR九州)初代社長。広島県呉市出身。本籍は京都府宮津市漁師町。 東京都立新宿高等学校、東京大学工学部機械工学科卒業。1955年日本国有鉄道(国鉄)に入社。蒸気機関車の補修を皮切りに、油まみれの工場勤務からスタート。1959年、本社臨時車両設計事務所でディーゼル車両の担当技師として車両設計・開発を担当。キハ81系「はつかり」、キハ82系、キハ58系、DD51形、DE10形などディーゼル車両開発最盛期の仕事に携わった。ディーゼル特急「はつかり」を東北本線に導入した当時は故障に泣かされ、毎晩徹夜で修理作業に当たったという。
長谷川 繁雄(はせがわ しげお、1932年10月2日 -19… 長谷川 繁雄(はせがわ しげお、1932年10月2日 -1966年6月24日)は、1950年代半ばから1960年代前半にかけて活躍したプロ野球選手(一塁手、外野手)である。広島県竹原市出身。 竹原高校を卒業後、法政大学に進学。東京六大学野球リーグでは中心打者として活躍したが、優勝には届かず、1954年秋季リーグの2位が最高成績であった。大学同期に中野健一、1年下に斎田忠利・古川啓三がいる。 1956年に南海ホークスへ入団。同年は開幕直後から一塁手、五番打者に抜擢され、寺田陽介とレギュラーを争う。四番打者としても11試合に出場した。1957年のシーズン後半から中堅手に回る。1958年には122試合に出場し規定打席にも到達、打率.276(リーグ9位)、16本塁打の好成績を残した。
坂田 勝(さかた まさる、1932年8月24日 - )は、日… 坂田 勝(さかた まさる、1932年8月24日 - )は、日本の機械工学者。東京工業大学名誉教授。元拓殖大学学長。元カリフォルニア大学バークレー校スプリンガー卓越教授。 広島県深安郡大津野村(現福山市大門町)生まれ。1952年広島県福山東高等学校(現広島県立福山誠之館高等学校)卒業。1956年東京工業大学機械工学課程卒業、三菱日本重工業入社。1957年東京工業大学精密工学研究所機械力学研究室助手。 1964年東京工業大学工学博士。1965年東京工業大学理工学部助教授。1968年日本放送協会総合技術研究所嘱託。1969年カリフォルニア大学バークレー校客員研究員(文部省在外研究員)。1975年東京工業大学工学部教授。
神崎 安隆(かんざき やすたか、1932年8月24日 - 1… 神崎 安隆(かんざき やすたか、1932年8月24日 - 1985年)は、広島県出身のプロ野球選手(捕手)。
池本 清(いけもと きよし、1932年8月16日 - 200… 池本 清(いけもと きよし、1932年8月16日 - 2006年8月3日)は、日本の経済学者。 広島県広島市出身。1955年広島大学政経学部卒、1960年神戸大学大学院博士課程満期退学。1983年「国際経済理論の研究」で神戸大学より経済学博士の学位を取得。1960年桃山学院大学助手、1961年専任講師、1962年神戸大学経済学部専任講師、1964年助教授、1972年教授。1996年定年退官、名誉教授、大阪学院大学教授。
小森 龍邦(こもり たつくに、1932年7月30日 - 20… 小森 龍邦(こもり たつくに、1932年7月30日 - 2021年2月26日)は、日本の部落解放運動家、政治家。部落解放同盟広島県連合会委員長、同中央本部書記長、広島県府中市議会議員(3期)、衆議院議員(2期)、新社会党中央執行委員長などを歴任し、解放同盟広島県連顧問を務めた。 広島県府中市出身。1951年、広島県立府中高等学校卒。1961年、広島県青年連合会会長となる。 1962年、日本社会党に入党。部落解放同盟の専従活動家として頭角を現し、1960年代後半に表面化した解放同盟分裂に際しては、日本共産党主導の広島県連に対抗して中央本部につながる広島県連再建に尽力し、県連委員長に就任、福山市、三原市など県東部を中心に組織拡大に成功、広島市内の組織をほぼ維持するにとどまった従前県連を圧倒した。
稲垣 人司(いながき ひとし、1932年6月15日 - 20… 稲垣 人司(いながき ひとし、1932年6月15日 - 2000年10月15日)は、広島県三次市出身の高校野球指導者、監督。 三次中学校(現在の三次高校)卒業後、大蔵省中国財務局に入局するが2年で退職し、石本秀一の書生となって2年間野球を学ぶ。1968年春から1970年春にかけて2年間、大東文化大学硬式野球部の2代目監督に就任。これは、初代監督の岡田悦哉が広島東洋カープ二軍バッテリーコーチに就任したためだった。広島工業高校コーチを経て1976年、創部まもない東京の創価高校監督に就任。小野和義を擁して1983年夏の甲子園に同校を初出場に導いた。その後、神奈川の桐光学園監督を経て1989年、創立8年目の埼玉の花咲徳栄高校に招かれ監督就任。
吉岡 郁夫(よしおか いくお、1932年5月19日 - )は… 吉岡 郁夫(よしおか いくお、1932年5月19日 - )は日本の解剖学者で民俗学者・人類学者。日本民俗学会会員、名古屋民俗研究会会員。自然科学と民俗学・文化人類学をテーマに多彩な調査・執筆活動をおこなっている。 広島県福山市出身。1958年に広島大学医学部を卒業後、名古屋大学医学部解剖学研究室大学院に進んで修了し、1966年に医学博士の学位を取得した。 愛知医科大学教授、愛知学院大学教養部教授を務め、1998年に退職した。この間の1978年に、明石原人を世界各地より出土した猿人、原人、旧人、新人の化石骨と比較して、旧人または現世人類の骨だと鑑定した。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。
保田 博(やすだ ひろし、1932年5月14日 - )は、日… 保田 博(やすだ ひろし、1932年5月14日 - )は、日本の大蔵官僚。元大蔵事務次官、初代国際協力銀行総裁。 広島県呉市(江田島)出身。父は呉海軍工廠技官。呉市立二河国民学校を経て、呉第一中学校(のちの呉三津田高校)入学。高校時代テニス選手で広島県ベスト4だったが、肋膜炎を患い高校3年夏に休学。翌年、留年に直面し下級生の組に編入されるのがイヤで都立日比谷高校の編入学試験に挑戦し合格した。日比谷高へ転校した後、東京大学文一入学。 東京大学法学部第2類(公法コース)を卒業後、法学部第1類(私法コース)へ内部学士入学し、国家六級職試験を通り、1957年、大蔵省入省。入省同期に、次官候補のライバルだった的場順三(内閣官房副長官、国土事務次官、内閣官房内閣内政審議室長)、内海孚(財務官)、森田一(衆議院議員、運輸大臣)、大山綱明(日本関税協会理事長、全国清涼飲料連合会会長、関税局長)、中田一男(OMCカード会長、北海道開発次官)、亀井敬之(泉州銀行頭取、大臣官房審議官)、山崎高司(日本総研副理事長、IMF理事、駐英公使)など。
児玉 正憲(こだま まさのり、1932年4月22日 - )は… 児玉 正憲(こだま まさのり、1932年4月22日 - )は、日本の経営学者(専門は生産管理)。理学博士、九州大学名誉教授、広島修道大学名誉教授(元学長)。 広島県出身。1955年広島大学文理学部卒業。1960年九州大学大学院理学研究科修士課程修了。九州大学経済学部教授、九州大学経済学部長、広島修道大学学長を歴任。 日本生産管理学会(会長)、日本オペレーションズ ・リサーチ学会(九州支部顧問)、日本経営工学会(九州支部顧問)、他。 2009年4月瑞宝中綬章受章。
三谷 昇(みたに のぼる、1932年〈昭和7年〉4月9日 -… 三谷 昇(みたに のぼる、1932年〈昭和7年〉4月9日 - 2023年〈令和5年〉1月15日)は、日本の俳優・声優、芸術家。 広島県立福山葦陽高等学校卒業。「文学座」や「劇団雲」を経て、「演劇集団 円」に所属していた。特技は広島弁。 高校時代から演劇活動を開始。1951年に高校を卒業後、画家を志望して東京藝術大学を受験するが失敗。郷里に帰るのが嫌で文学座に裏方として入団した。4年後、役者へと転身した。 絵心は晩年まで持ち続け、舞台でピエロを演じた経験から「役者は道化」と思い定め、ピエロを描いた「道化石」を共演者らに送ったり、新美南吉の童話『いつのことだかどこのことだか』を紙芝居化したり、公演先でスケッチしたりしており、没後には遺作展も開かれた。
森川 公也(もりかわ きんや、1932年〈昭和7年〉3月17… 森川 公也(もりかわ きんや、1932年〈昭和7年〉3月17日 - 1989年〈平成元年〉12月11日)は、日本の俳優、男性声優。本名同じ。 満洲国哈爾浜市出身。明治大学英文学科卒業。 第二次世界大戦まで満洲国で過ごし、戦後は広島県に引き揚げて広島県立呉三津田高等学校を卒業。 明治大学入学後は、のちに俳優となる金内吉男たちと演劇活動を行い、大学卒業後の1952年に東京演技研究所に入所。その後は、劇団現代派、劇団中芸を経て1961年に劇団演劇座に所属する。東京芸術座、鈴木事務所、文芸ぷろだくしょん、劇団四季、タドポール企画、プロダクションエム・スリー、モリヤマ企画、エムワイ企画、MOU企画、大沢事務所にも所属していた。
山手 茂(やまて しげる、1932年3月15日 -2025年… 山手 茂(やまて しげる、1932年3月15日 -2025年4月15日 )は、日本の社会学者・福祉学者。新潟医療福祉大学名誉教授。 広島県福山市生まれ。1954年東京大学文学部社会学科卒業。 県立広島女子大学助教授、東京女子大学教授、東京都神経科学総合研究所研究員、茨城大学教授、東洋大学教授、新潟医療福祉大学社会福祉学部学部長、同名誉教授をそれぞれ歴任。 1997年「福祉社会形成とネットワーキング-社会学・社会福祉学論集2」で東洋大学社会福祉学博士。 日本保健医療社会学会会長、日本医療社会福祉学会会長、日本社会病理学会理事、日本介護福祉学会理事、日本学術会議社会福祉研連第16期・17期委員。
岩部 金吾(いわべ きんご、1932年(昭和7年)2月26日… 岩部 金吾(いわべ きんご、1932年(昭和7年)2月26日 - 2021年(令和3年)3月7日)は日本の実業家。元文化シヤッター代表取締役社長。 1932年(昭和7年)2月26日、広島県に生まれる。旧制崇徳中学(現崇徳高等学校)を経て、1956年(昭和31年)に法政大学経済学部を卒業し、ハリウッド化粧品に入社する。1959年(昭和34年)に文化シヤッター入社し、1964年(昭和39年)同社取締役社長室長、1969年(昭和44年)に同社常務取締役、1972年(昭和47年)に同社専務取締役を経て、1989年(平成元年)に同社代表取締役社長に就任する。1995年(平成7年)に同社取締役相談役を経て、1997年(平成9年)に同社代表取締役会長就任。
広岡 達朗(ひろおか たつろう、旧字体:廣岡、1932年〈昭… 広岡 達朗(ひろおか たつろう、旧字体:廣岡、1932年〈昭和7年〉2月9日 - )は、広島県呉市出身の元プロ野球選手(内野手)・元監督、野球解説者(評論家)。 現役時代は読売ジャイアンツで活躍、監督としてヤクルトスワローズ、西武ライオンズをそれぞれリーグ優勝・日本一に導いた。千葉ロッテマリーンズゼネラルマネージャーを経て現在は野球評論家。愛称は「ヒロ(さん)」。 実兄・広岡富夫は公務員(広島県庁)からプロ入りした異色の経歴を持ち、広島市民球場第1号本塁打を打った広島カープの元選手である。 辛辣で歯に衣をきせない一面があり、古巣である巨人に対しても批評を下すことがある。 1932年2月9日、広島県呉市にて6人兄弟(男5人、女1人)の末っ子として生まれる。
箱田 淳(はこだ じゅん、本名:箱田 弘志(はこだ ひろし)… 箱田 淳(はこだ じゅん、本名:箱田 弘志(はこだ ひろし)、1932年2月1日 - )は、広島県福山市出身の元プロ野球選手(内野手、投手)・野球解説者。
金子敬生(かねこ ゆきお、1932年2月1日 - 1991年… 金子敬生(かねこ ゆきお、1932年2月1日 - 1991年7月21日)は、日本の経済学者。 広島県三原市出身。1961年神戸大学大学院経済学研究科博士課程満期退学、68年「経済変動過程の産業連関分析」で経済学博士。1961年愛知大学講師、1963年名古屋市立大学助教授、1968年中央大学教授、1979年早稲田大学教授、1983年広島経済大学教授を務めた。
下村 幸男(しもむら さちお、1932年1月25日 - )は… 下村 幸男(しもむら さちお、1932年1月25日 - )は、広島県広島市中区十日市町(旧・鷹匠町)出身 の元サッカー日本代表選手(GK)・指導者。
山崎 朋子(やまざき ともこ、1932年1月7日 - 201… 山崎 朋子(やまざき ともこ、1932年1月7日 - 2018年10月31日)は、女性史研究家、ノンフィクション作家。夫は児童文化研究家の上笙一郎。 長崎県佐世保市生まれ、広島県呉市と広島市で育つ。呉市立仁方小学校卒(文芸春秋講演会での発言から)。本籍地は福井県。父は大日本帝国海軍中佐の大畑正、母は若山喜志子門下の歌人で三冊の歌集を持つ大畑晴子。1940年、父が艦長を務める伊号第六十七潜水艦が沈没し、父を喪う。 1945年、広島市への原子爆弾投下前に母親の郷里福井県に移り終戦を迎える。1952年、福井大学教育学部二部を2年修了。福井県で小学校の教師をした後、1954年、女優となることを夢見て上京、再度小学校教諭を務めるが一年で辞め、演劇の勉強をするうち、知り合った東京大学院生・金光澤と事実婚。
曽根 薫(そね かおる、1932年〈昭和7年〉1月4日 - … 曽根 薫(そね かおる、1932年〈昭和7年〉1月4日 - )は、日本の政治家、元広島県江田島市長(1期)。旭日双光章受章。 広島県出身。広陵高等学校卒。広島県安芸郡江田島町役場に入り、企画課長、総務課長、助役などを経て、2003年江田島町長に当選、1期務める。2004年江田島町は近隣の町と合併し、江田島市が発足。合併後の市長選挙に立候補し当選した。市長は1期務め、2008年に退任した。このほか広島県地方港湾整備促進期成同盟会会長を務めた。2009年春の叙勲で旭日双光章を受章。
サーロー 節子(サーロー せつこ、英語: Setsuko T… サーロー 節子(サーロー せつこ、英語: Setsuko Thurlow、1932年〈昭和7年〉1月3日 - )は、広島県広島市南区出身でカナダのトロント市在住の被爆者、反核運動家。セツコ・サーローの日本語表記がある。 中村節子として、広島市南区で生まれた。中村家はかつて広島藩士だったが、明治時代になると生活が楽ではなくなったという。祖父・弥太郎は広島県令(知事)千田貞暁に賛同し、難事業だった宇品築港計画に奔走した。 父・弁吉はドイツ人の共同経営者とともにアメリカ合衆国(米国)カリフォルニア州で「西部フルーツ会社」を起業し果実業を営んでいた。 広島女学院(現広島女学院中学校・高等学校)に進学、後に学徒勤労動員され、大日本帝国陸軍第2総軍司令部で暗号解読作業の訓練を受けた。