宇城 カ子(うしろ かね、1902年(明治35年)2月6日 … 宇城 カ子(うしろ かね、1902年(明治35年)2月6日 - 2003年(平成15年)12月8日)は、日本の教育者。東筑紫学園、学校法人東筑紫学園創設者。広島県神石郡(現在の神石高原町)生まれ。
広島県:2,640人
宇城 カ子(うしろ かね、1902年(明治35年)2月6日 … 宇城 カ子(うしろ かね、1902年(明治35年)2月6日 - 2003年(平成15年)12月8日)は、日本の教育者。東筑紫学園、学校法人東筑紫学園創設者。広島県神石郡(現在の神石高原町)生まれ。
小野 吉郎(おの きちろう、1902年1月2日 - 2006… 小野 吉郎(おの きちろう、1902年1月2日 - 2006年4月)は、昭和期の逓信官僚。元郵政事務次官、日本放送協会(NHK)第11代会長。広島県広島市出身。 広島商業学校、大阪高等商業学校を経て1931年、九州帝国大学法文学部卒。逓信省に入省し札幌鉄道郵便局長、広島逓信局経理局長、中華民国臨時政府副郵務長(華北郵政総務計画課長)、大連関東逓信局長などを経て1951年、郵政省貯金局長、1955年同簡易保険局長などを歴任の後、1956年郵政事務次官就任。 30代で大臣(郵政大臣)に初就任した田中角栄が進める放送局の免許大量交付や新聞社とテレビ局との統合系列化他で大きな役割を果たした。 1959年、日本放送協会(NHK)専務理事、1964年同副会長を経て1973年、田中に抜擢され第11代NHK会長に就任。
浜崎 真二(はまざき しんじ、1901年12月10日 - 1… 浜崎 真二(はまざき しんじ、1901年12月10日 - 1981年5月6日)は、広島県呉市出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ・監督、解説者・評論家。 現役時代は阪急ブレーブスに在籍。選手兼任監督として日本プロ野球史上最高齢公式戦出場記録を2014年9月5日に山本昌(中日)に破られるまで、64年間にわたり保持していた。また、身長は150cmから160cmまでいくつかの説があり、日本プロ野球史上最も背の低い選手とされることがある。 実弟・浜崎忠治も鶴岡一人らと広島商業で高校野球夏春連覇したときの選手(投手・内野手)で、その後審判として平和台事件の球審を務め、歴史的判断を下したことでも知られる。 呉海軍工廠で働く人達が家を建てた呉市西の山の手・三津田の生まれ。
小山 東一(こやま とういち、1901年11月11日 - 1… 小山 東一(こやま とういち、1901年11月11日 - 1985年6月9日)は、日本のジャーナリスト、英文学者、翻訳家。広島大学教授。 広島県福山市生まれ。1927年東京帝国大学文学部英文科卒。中外商業新報、日本産業経済新聞学芸部長をへて、広島大学教授。 戯曲家の小山祐士は従兄弟にあたる。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
島原 帆山(しまばら はんざん、1901年9月16日 - 2… 島原 帆山(しまばら はんざん、1901年9月16日 - 2001年12月18日)は、広島県佐伯郡五日市町(現・広島市佐伯区)出身の都山流尺八演奏家、作曲家。1982年、重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定。広島市名誉市民。本名は島原重蔵。
内海 清(うつみ きよし、1901年6月12日 - 1977… 内海 清(うつみ きよし、1901年6月12日 - 1977年7月1日)は、日本の政治家。衆議院議員(7期)。 広島県御調郡御調町(現尾道市)生まれ。1921年(大正10年)に広島師範学校を卒業し広島県内で教員として勤務の後、1939年(昭和14年)に日立造船向島工場に入社。日立造船では因島工場総務部長などを務める。1953年(昭和28年)には因島市議会議員に当選。 1955年(昭和30年)第27回衆議院議員総選挙で広島3区から出馬するも落選。1958年(昭和33年)第28回衆議院議員総選挙にて初当選を果たし民主社会党の結党に加わる。1968年(昭和43年)衆議院交通安全対策特別委員長。1971年(昭和46年)秋の叙勲で勲二等瑞宝章受章。
扇 一登(おうぎ かずと、1901年(明治34年)5月24日… 扇 一登(おうぎ かずと、1901年(明治34年)5月24日 - 2004年(平成16年)1月11日)は、日本の海軍軍人。最終階級は大佐。海兵51期、海大32期。広島県旧世羅郡三川村出身。
森滝 市郎(森瀧 市郎、もりたき いちろう、1901年4月2… 森滝 市郎(森瀧 市郎、もりたき いちろう、1901年4月28日 - 1994年1月25日)は、日本の倫理学者、原水禁運動家。日本原水爆被害者団体協議会理事長、原水爆禁止日本国民会議代表委員などを務めた。 広島県双三郡君田村(現三次市)生まれ。1925年に広島高等師範学校文科2部を卒業し県立三次中学校の教員となるが、1927年に京都帝国大学文学部哲学科に進学し1930年に卒業。その後入学した同大学の大学院を1931年に卒業、出身校である広島高師教授に任じられ同年末に西しげと結婚。 1945年の原爆投下に際し、広島高師教官として動員学徒を引率していた市内江波(現・中区)の三菱重工広島造船所江波工場(爆心から4km)で被爆、爆風で飛散した窓ガラスの破片で右目を失明した。
佐々木 彦一郎(ささき ひこいちろう、1901年4月13日 … 佐々木 彦一郎(ささき ひこいちろう、1901年4月13日 - 1936年4月10日)は、日本の地理学者。民俗学・経済学・社会学的な研究を加味して人文地理学を追究した。1930年前後に目覚ましく活躍するものの、36歳で亡くなり、研究生活は10年間にとどまった。 1901年、秋田県鹿角郡花輪町(現在の鹿角市)で生まれる。幼くして父母を亡くし、祖母に育てられる。小学校卒業とともに広島県呉市に住む叔父にひきとられ、広島県立呉中学校(現在の広島県立呉三津田高等学校)で学ぶ。卒業後は第二高等学校(現在の東北大学)文科に入学した。休日ごとに仙台の周辺を歩いたという。卒業後は東京帝国大学理学部地理学科に進み、山崎直方・辻村太郎・多田文男らの指導を受ける。
伊藤 謹二(いとう きんじ、1901年(明治34年)4月 -… 伊藤 謹二(いとう きんじ、1901年(明治34年)4月 - 1968年(昭和43年)9月3日)は、日本の内務・厚生官僚。官選石川県知事、厚生次官。
松本 瀧藏(まつもと たきぞう、松本 滝蔵、Takizo F… 松本 瀧藏(まつもと たきぞう、松本 滝蔵、Takizo Frank Matsumoto、1901年3月20日 - 1958年11月2日)は、日本の政治家、教育者。衆議院議員、外務政務次官、内閣官房副長官(政務担当)、明治大学教授などを歴任した。広島県佐伯郡廿日市町(現廿日市市)生まれ。 私生児として生まれる。家族とともに2、3歳からアメリカに渡り、カリフォルニア州フレズノで育つ。アメリカに落ち着くまもなく父が他界。母はレストランを経営する日本人とすぐに再婚。瀧藏はフランク・ナルシマを名乗るようになった。1919年、高校を卒業すると「the Fresno Athletic Club(フレズノ・アスレチック・クラブ)」に日系アメリカ人野球チームを創設した。
黒川 渉三(くろかわ しょうぞう、1901年(明治34年)3… 黒川 渉三(くろかわ しょうぞう、1901年(明治34年)3月4日 - 1975年(昭和50年))は、日本の実業家。東京急行電鉄専務のほか、東横映画、東京映画配給、東急自動車、東京トヨタディーゼル社長などを務めた。広島県賀茂郡西条町(現・東広島市)出身。 岡田茂は実家の四軒隣で、医師の息子だった黒川は、旧制広島一中(現・広島県立広島国泰寺高等学校)を経て1926年(大正15年)、慶應義塾大学経済科卒業。 東京横浜電鉄(現・東京急行電鉄)に入社し同社開発、電燈各課長、東京急行電鉄事業部長、殖産局次長、取締役、専務を歴任。根っこからの野人、バケツの底が抜けたような大酒くらいで大風呂敷。お固い電鉄会社では型破りな人物で五島慶太に可愛がられた。
永井 貞三(ながい さだぞう、1901年3月 - 1944年… 永井 貞三(ながい さだぞう、1901年3月 - 1944年10月24日)は、日本の海軍軍人。最終階級は少将[3]。広島県出身。
廿日出 逸暁(はつかで いつあき、1901年2月18日 - … 廿日出 逸暁(はつかで いつあき、1901年2月18日 - 1991年5月29日)とは、日本の図書館員・図書館学者である。 1901年、広島県豊田郡大長村(現・呉市)に生まれる。旧制崇徳中学校卒業。ライプチヒ大学附属図書館学校等を卒業後、御成婚記念千葉県図書館(現千葉県立中央図書館)の館長として経営に邁進する。戦後は移動図書館を日本に広めたことでも知られ、図書館法の成立にも尽力している。のちに国会図書館連絡部長や千葉経済短期大学教授等を歴任した。1971年、勲三等瑞宝章を受章。1991年死去。
宮地 傳三郎(みやじ でんざぶろう、1901年1月26日 -… 宮地 傳三郎(みやじ でんざぶろう、1901年1月26日 - 1988年10月21日)は、日本の動物生態学者。京都大学名誉教授。学位は、理学博士(京都帝国大学、1933年)。広島県尾道市生まれ。 宮地が定年退官後、京都大学の教室は京大出身で九州大学助教授であった森下正明が引き継いだ。 その森下正明が定年退官後、川那部浩哉が引き継いだ。杉山幸丸も宮地の流れを汲んでいる。
宮地 傳三郎(みやじ でんざぶろう、1901年1月26日 -… 宮地 傳三郎(みやじ でんざぶろう、1901年1月26日 - 1988年10月21日)は、日本の動物生態学者。京都大学名誉教授。理学博士(京都帝国大学、1933年)。広島県尾道市生まれ。
三村 明(みむら あきら、1901年1月6日 - 1985年… 三村 明(みむら あきら、1901年1月6日 - 1985年12月23日)は、大正、昭和期の撮影監督、映画監督。日本映画カメラマン創始者の一人。海外ではハリー・三村 (Harry Mimura) の名前で知られる。 父は戦艦霧島や戦艦日向の艦長を務めた海軍少将・三村錦三郎。広島県安芸郡江田島町(現江田島市)生まれ。1919年(大正8年)逗子開成中学を卒業し、同年9月に渡米した。シアトルのスクールを経て、1924年、シカゴのニコラスセン大学予科を卒業した。全米で拡がりつつあった排日運動の払拭に際し、「キャメラマンとなってアメリカ人に日本の正しい姿を見せたい」との思いで映画界に入ることを決意したといわれる。
弘津 千代(ひろつ ちよ、1901年1月5日 - 1983年… 弘津 千代(ひろつ ちよ、1901年1月5日 - 1983年)は、日本の劇作家、小説家。 山口県熊毛郡伊保庄村(現、山口県柳井市伊保庄)上八(こうじょう)生まれ。広島女学校附属小学校、広島県師範学校附属小学校、広島県立広島高等女学校を経て、日本女子大学校文科国文学科を1922年卒業。在学中より中村吉蔵らに師事。卒業後も東京で劇作に専念した。本名はチヨ。 1921年、日本女子大学校在学中に卒論のかわりに、印度の阿育王の伝説を題材にした戯曲・華子城物語(かしじょう・ものがたり)を、同級生の山原鶴、宮田範と共作、翌1922年6月、新光社より出版される。 代表作は、1925年(大正14年)7月号の「舞台批評」に発表した「天樹院」。
土井美夫(どい よしお、1901年 - 1986年)は日本の… 土井美夫(どい よしお、1901年 - 1986年)は日本の植物学者である。 広島県尾道市出身、広島高等師範学校付属臨時教育育成養成所を卒業し、鹿児島県、広島県で中学、高校の教員を務めた。鹿児島県旧制伊集院中学の教員、教頭時代などに多くの新種の植物を採集した(沖縄、台湾等でも採取を行った)。鹿児島を訪れた天皇へご進講した。後に、広島県山中女子師範学校等に勤務。原爆投下時、2.5㎞地点で被爆した。長年にわたり採集、分類した多くの標本は、広島大学の宮島分所に保管されている。著書に、『薩摩植物誌』(文明堂書店、1926年-1931年)、『広島県植物目録』(博新館、1983年)(広島県の植物目録として、初期のものである。
佐竹 新市(さたけ しんいち、1900年(明治33年)12月… 佐竹 新市(さたけ しんいち、1900年(明治33年)12月5日 - 1982年(昭和57年)6月20日)は、広島県出身の政治家。衆議院議員を4期務めた。
畝 美与吉(うね みよきち、1900年11月15日 - 19… 畝 美与吉(うね みよきち、1900年11月15日 - 1971年9月7日)は、将棋棋士。七段。神田辰之助九段門下。広島県呉市出身。 1931年、神田辰之助に入門。翌1932年に四段昇段。 戦後は戦災のために第1期順位戦は不参加。1947年の第2期順位戦からC級に参加。1954年11月2日、第9期順位戦(C級2組)で当時14歳の加藤一二三と対戦したが、敗れている。1956年の第11期順位戦でC級2組から降格し、翌1957年は56歳にして予備クラス(現在の三段リーグに相当)で対局することになったが、1957年前期の予備クラスでも1勝11敗と大きく負け越し、1957年前期限りで引退した。 1954年の第9期順位戦(C級2組・西組)では当時14歳の加藤一二三と2局対局しいずれも敗れている。
吉川 潔(きっかわ きよし、1900年〈明治33年〉11月3… 吉川 潔(きっかわ きよし、1900年〈明治33年〉11月3日 - 1943年〈昭和18年〉11月25日)は、日本海軍の軍人。戦死後、二階級特進して海軍少将。広島県広島市段原町出身。海兵50期。 父は漢学者。七男四女のうち、四男。旧制広陵中学(現・広陵高等学校)を卒業後、海軍兵学校を受験するが身長と胸囲不足で不合格。口惜しさから器械体操と陸軍被服廠での積荷作業で体を鍛え上げた。翌1919年(大正8年)兵学校(海兵50期)に合格。兵学校時代は成績も下の方で「寡黙の吉川」といわれるほど目立たなかった。「量も大切だが最後を決するのは質と精神だ」を口癖としていたという。 1922年(大正11年)6月1日、海軍兵学校を卒業し、同日附で少尉候補生。
桐山 利三郎(きりやま りさぶろう、1900年9月21日 -… 桐山 利三郎(きりやま りさぶろう、1900年9月21日 - 1995年11月5日)は、日本の経営者。広島県出身。位階は正六位。 1912年に広陵中学校を卒業。 1932年に神戸屋専務を経て、1953年に社長に就任し、1971年には会長に退いた。 1969年10月に藍綬褒章を受章し、1976年に勲四等瑞宝章を受章。 1995年11月5日老衰のために死去。95歳没。死没日付をもって正六位に叙された。
桑田 笹舟(くわた ささふね、1900年〈明治33年〉6月2… 桑田 笹舟(くわた ささふね、1900年〈明治33年〉6月24日 - 1989年〈平成元年〉7月31日)は、日本の書道家。福山市名誉市民。本名・桑田 明。 広島県福山市坪生町出身。1922年、神戸市立教員養成所に入学し、安東聖空に師事。1924年、文部省師範学校中学校高等女学校教員検定試験習字科に合格し、教員生活を始める一方、西谷卯木らとかな書の研究を始め、古筆研究家の田中親美に師事。同年、一楽書学院(一楽書芸院)を設立して笹舟と号す。1927年『かなとうた』発刊。1932年、関西書道会展、東方書道会展で最高賞受賞。1940年、教員を退職し、創作と学院の運営に専念する。 戦後は日本かな書道界を牽引し、現代かな書の先駆けとなる。
杉本 五郎(すぎもと ごろう、明治33年(1900年)5月2… 杉本 五郎(すぎもと ごろう、明治33年(1900年)5月25日 - 昭和12年(1937年)9月14日)は、日本の陸軍軍人。遺言本『大義』が大ベストセラーとなり、当時の思想に影響を与えた。
土井 忠生(どい ただお、1900年(明治33年)3月16日… 土井 忠生(どい ただお、1900年(明治33年)3月16日 - 1995年(平成7年)3月15日)は、日本の国語学者。キリシタン文献の国語学的研究を専門とする。
英 百合子(はなぶさ ゆりこ、1900年3月7日 - 197… 英 百合子(はなぶさ ゆりこ、1900年3月7日 - 1970年2月7日)は日本の女優。広島県呉市吉浦町出身。日本初の本格的映画女優といわれる。同じ女優の永井百合子は柳永二郎との娘[4]、俳優の長谷部健は中野英治との息子[4][5]。
村田 可朗(むらた よしあき、1900年〈明治33年〉2月1… 村田 可朗(むらた よしあき、1900年〈明治33年〉2月15日 - 1989年〈平成元年〉9月15日)は、日本の実業家。中国電力副社長、中国電気工事社長、広島商工会議所会頭を歴任した。 広島市生まれ。旧制広島高等師範学校附属中学校、旧制第三高等学校を経て、1925年(大正14年)3月東京帝国大学工学部電気工学科卒業、同年大同電力株式会社入社。 1939年(昭和14年)国家総力戦体制を構築しようとする当時の日本政府の電力国家管理政策により日本発送電が発足するに伴い入社、関東支店工務部長、山梨支社長、電力技術研究所長、理事を歴任。 1941年の配電統制令を経て、1951年(昭和26年)電気事業再編成令による日本発送電解散に伴い帰郷、発足したばかりの中国電力株式会社に入社し、理事および技術研究所長に就任。
坂本万七(さかもと まんしち、1900年1月13日 - 19… 坂本万七(さかもと まんしち、1900年1月13日 - 1974年4月19日)は、日本の写真家。特に民藝品や仏像の撮影に才能を発揮した。その遺作「沖縄・昭和10年代」は戦前の沖縄各地で撮影した貴重な写真が掲載されており、テレビ放送等で資料として使用されている。 戦前では、築地小劇場の舞台写真が有名。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
吉田 五郎(よしだ ごろう、1900年 - 1993年)は、… 吉田 五郎(よしだ ごろう、1900年 - 1993年)は、日本の技術者で、キヤノンのルーツである精機光学研究所の創業者。 広島県福山市出身。小学生からカメラを分解し組み立てるというカメラ少年で、これが病みつきになり福山中学(現・福山誠之館高校)を学業半ばにして1917年上京。機械知識を生かして光学精密機械の輸入商社に出入りしたのが切っ掛けで映画の世界に入り、映写機関係の仕事に身を託した。この期の技術習得が実を結び、昭和の初めには映写機の修理、改良の域を脱し、製作にも手を伸ばしていた。日本初の本格的なトーキー映画といわれる『マダムと女房』(1931年)で使われた土橋式の録音機は土橋武夫・土橋晴夫兄弟の製作した物であるが、再生機は吉田が中国の上海で買って来た物が使われたという。
アンドウ ゼンパチ(本名 安藤潔、1900年(明治33年) … アンドウ ゼンパチ(本名 安藤潔、1900年(明治33年) - 1983年(昭和58年))は、広島県出身の著述家、啓蒙活動家。ブラジル日系社会の文化的発展に貢献。
片山牧羊(かたやま ぼくよう、1900年(明治33年) - … 片山牧羊(かたやま ぼくよう、1900年(明治33年) - 1937年(昭和12年)8月26日)は、大正、昭和初期の日本画家。庄田鶴友、蔦谷龍岬、荒木十畝に師事し、旧帝展特選1回入選3回に及んでいた。 1900年、尾道市長江町に生まれる。本名健三。父は漢学者の片山辰之助。1915年、大阪で南画を学ぶ。また、合川澄水に書道を学ぶ。1917年、京都で、庄田鶴友に師事し日本画を学ぶ。また、山本竟山に書道を学ぶ。この頃、短歌集『曼珠華沙』を作る。1921年上京し、蔦谷龍岬塾・鐸鈴社に入門、本格的に日本画を学びはじめる。1927年、第8回帝展に「おぼろ」(広島県立美術館所蔵)を出品、初入選で特選を受賞する。
灘尾 弘吉(なだお ひろきち、1899年(明治32年)12月… 灘尾 弘吉(なだお ひろきち、1899年(明治32年)12月21日 - 1994年(平成6年)1月22日)は、昭和時代の内務・厚生官僚、政治家。位階は従二位。 衆議院議長(60・61代)、文部大臣(74・75・77・82・83・90代)、厚生大臣(36代)、自由民主党総務会長(18代)等を歴任した。 1899年12月21日広島県佐伯郡大柿村(のち大柿町、現・江田島市)に生まれる。灘尾家は農業の傍ら、木綿の製造と醤油の醸造を営んでいた。父の灘尾夫子俟(なだお ふじまつ)は、早稲田大学の講義録で独学した後、政治に興味を持ち、地元で村会議員、町会議員、村長を務めた。なお、遠縁に5代目三遊亭圓楽がいる(灘尾弘吉の父方のいとこの妻が、圓楽の母の姉にあたる)。
池田 勇人(いけだ はやと、1899年〈明治32年〉12月3… 池田 勇人(いけだ はやと、1899年〈明治32年〉12月3日 - 1965年〈昭和40年〉8月13日)は、日本の政治家、大蔵官僚。同国58,59,60代内閣総理大臣。 大蔵次官、衆議院議員(7期)、大蔵大臣(第55・61・62代)、通商産業大臣(第2・6・17代)、経済審議庁長官(第3代)、自由党政調会長・幹事長などを歴任した。全日本居合道連盟創立者及び初代会長。 大蔵官僚を経て終戦後まもなく政界入りすると、吉田茂の右腕として頭角を顕し、第3次吉田内閣の外交・安全保障・経済政策に深く関与した。佐藤栄作と並ぶ「吉田学校」の筆頭格である。保守合同後は自民党の宏池会の領袖として一派をなし、1960年に首相に就任した。
友近 美晴(ともちか よしはる、1899年(明治32年)11… 友近 美晴(ともちか よしはる、1899年(明治32年)11月16日 - 1980年(昭和55年)3月26日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 愛媛県出身。呉服卸商・友近彦次郎の三男として生まれる。広島高等師範学校附属中学校(現広島大学附属中学校・高等学校)、広島陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1920年(大正9年)5月、陸軍士官学校(32期)を卒業。同年12月、砲兵少尉に任官し野戦重砲兵第4連隊付となる。1923年(大正12年)12月、陸軍砲工学校高等科(29期)を卒業した。陸軍野戦砲兵学校付などを経て、1928年(昭和4年)11月、陸軍大学校(41期)を卒業し野戦重砲兵第4連隊中隊長に就任。
石井 謙三(いしい けんぞう、1899年(明治32年)10月… 石井 謙三(いしい けんぞう、1899年(明治32年)10月7日 - 没年不明)は、日本の政治家。広島県松永市(現・福山市)長(2期)。 広島県松永町(のち松永市、現・福山市)出身。1918年(大正7年)旧制広島県立福山中学校(現・広島県立福山誠之館高等学校)卒業。旧制第六高等学校を経て、1925年(大正14年)東京帝国大学文学部英文学科卒業。翌年広陵中学校(現・広陵高等学校)教諭を経て、熊本県立中学済々黌(現・熊本県立済々黌高等学校)教諭、1929年(昭和4年)佐賀県立武雄中学校(現・佐賀県立武雄青陵中学校・武雄高等学校)、同佐賀中学校(現・佐賀県立佐賀西高等学校)、山口県立豊浦中学校(現・山口県立豊浦高等学校)各教諭を経て、1942年(昭和17年)山口県立萩中学校(現・山口県立萩高等学校)校長となる。
河野 貞子(こうの さだこ、1899年9月11日 - 198… 河野 貞子(こうの さだこ、1899年9月11日 - 1984年2月12日)は、日本の料理研究家。 山口県熊毛郡田布施村(現田布施町)出身。広島県立広島高等女学校卒業。1919年から十数年にわたり商社勤務の夫とともにアメリカ合衆国に滞在、料理と家事を研究。1930年帰国後、西洋料理の知恵を日本料理に取り入れながら新しい家庭料理を創出、テレビ番組でも人気だった。1981年勲五等宝冠章受勲。
沖森 源一(おきもり げんいち、1899年8月25日 - 1… 沖森 源一(おきもり げんいち、1899年8月25日 - 1951年8月14日)は、大正・昭和期の内務官僚・政治家。最終学歴は高等小学校ながら、高等文官試験に合格して内務官僚となり、最後は佐賀県知事を務めた。 広島県御調郡市村(現在の尾道市)出身。高等小学校卒業後、苦学の末に高等文官試験に合格して内務省へ入った。香川県経済部長・岡山県経済部長・長野県内務部長を歴任後、1945年10月27日に官選知事として佐賀県知事に就任した。ところが翌1946年7月8日になって食糧供出に非協力的であるとして更迭された。その後、新憲法下の最初の知事選挙に立候補し、沖森の後任官選知事であった戸沢盛男らを破って当選を果たした。
真野 房子(まの ふさこ、1899年7月15日 - 1986… 真野 房子(まの ふさこ、1899年7月15日 - 1986年12月22日)は、日本の美容家、教育者。日本に於ける洋髪美容の先駆者の一人で、真野美容専門学校設立者。 旧姓・畦地、本名・フサコ。広島県世羅郡東村(現世羅町)出身。 広島県立甲山高等女学校(現広島県立世羅高校)卒業後、近隣の農家に嫁ぐ。写真家になりたいという夫と共に上京、夫婦で写真館に住み込み修業。房子も家事の合間に客の髪や着付を始める。「いつかは夫と自分の店を持ちたい」と本格的に美容師修業。1923年、神田区猿楽町に小さな店を持つ。1階が写場、2階が髪結いの部屋であった。しかし半月もたたない9月、関東大震災で店は全壊、重傷を負う。炎に追われ混乱の中で見たのは、無意識に髪に手をやり、乱れを直そうとする女たちの姿だった。
佐藤 儀一(さとう ぎいち、1899年(明治32年)6月13… 佐藤 儀一(さとう ぎいち、1899年(明治32年)6月13日 - 1967年(昭和42年)7月2日)は、広島県出身のゴルファー、ゴルフ場設計者。 佐藤儀一は、1899年(明治32年)6月13日、広島県福山市に生まれ、16歳でハワイに渡り、イオラニハイスクール卒業後、カリフォルニア大学美術科で学んだ。1930年(昭和5年)、大学生の時、プロのジミー・ダンカンに誘われてゴルフを始めた。 1931年(昭和6年)、サンフランシスコ市ゴルフ選手権で2位になった。1932年(昭和7年)、サンフランシスコ市ゴルフ選手権で優勝、多くの競技大会に参加し、全米パブリックリンク選手権に優勝した。また、全米ゴールドメダル選手権4連覇など活躍し、100以上のアマチュアタイトルを獲得した。
豊嶋 弥左衛門(てしま やざえもん、旧字体:豐嶋 彌左衞門、… 豊嶋 弥左衛門(てしま やざえもん、旧字体:豐嶋 彌左衞門、1899年(明治32年)5月1日 - 1978年(昭和53年)1月3日 )は、シテ方金剛流能楽師。重要無形文化財保持者(人間国宝)。本名は豊嶋 弥平(てしま やへい)、前名は豊嶋 一(てしま はじめ)。 ワキ方高安流豊嶋一松の長男として広島市上幟町に生れ厳島町に育つ。豊嶋家は旧広島藩浅野家お抱えの能楽師で、兄弟6人はみな能楽師となった。1904年(明治34年)『鞍馬天狗』の子方で初舞台。1913年(大正2年)正式にシテ方に転向するため、京都金剛家の内弟子となる。金剛謹之輔、初世金剛巌、金剛右京に師事。1948年(昭和23年)父と弟の追善能で家名の弥左衛門を襲名。
佐々木 丙二(ささき へいじ、1899年(明治32年)3月1… 佐々木 丙二(ささき へいじ、1899年(明治32年)3月15日 - 1945年(昭和20年)9月1日)は、日本海軍の軍人。海軍兵学校48期。太平洋戦争末期のミンダナオ島防衛戦において、第32特別根拠地隊ザンボアンガ派遣隊長兼第33警備隊副長として戦死。最終階級は海軍中佐。五・一五事件を契機に予備役に編入され、満州国軍政部に籍を置いた時期もあった。 広島県広島市出身。代々広島藩の上士の家系。広島高等師範学校附属中学校(現:広島大学附属中学校・高等学校)を卒業し、1917年(大正6年)江田島の海軍兵学校(48期)に進んだ。卒業直前に、宮中御内儀として明治天皇の皇后(昭憲皇太后)に仕えた叔母マチと養子縁組した。
野津 謙(のづ ゆずる、1899年(明治32年)3月12日 … 野津 謙(のづ ゆずる、1899年(明治32年)3月12日 - 1983年(昭和58年)8月27日)は、広島県広島市出身の医師(医学博士・小児科医)、サッカー選手(日本代表)。 サッカー指導者でもあり、第4代日本サッカー協会会長、アジアサッカー連盟副会長、国際サッカー連盟理事を歴任した。柔和でおだやかな人柄で、回りから敬意と親しみをこめて「のづけん」さんと呼ばれた。元日本損害保険協会会長の河野俊二は甥に当たる。 1899年(明治32年)、広島県広島市生まれ。父親も開業医だった。虚弱児童であったが、1911年(明治44年)4月、広島県立広島第一中学校(現・広島県立広島国泰寺高校)に進学すると在学中に蹴球部(サッカー部)が創部されサッカーを始めた。
林 興一郎(はやし こういちろう、1899年3月1日 - 1… 林 興一郎(はやし こういちろう、1899年3月1日 - 1965年1月4日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 広島県出身。1919年広島県立忠海中学校(現・広島県立忠海高等学校)卒。漁業を営み、広島県水産会長、同漁業組合連合会長、瀬戸内海水産連合会理事長、中央水産業会理事、中国五県水産連合理事長、倉橋島漁業会長を務め、広島県会議員、同県議会議員、同議長を務めた。 1946年の第22回衆議院議員総選挙で広島県から諸派で立候補したが次点で落選する。しかし、6月に同じ選挙区から当選した田中貢の辞職により、繰り上げ当選となった。当選後は協同民主党に入った。翌1947年3月には国民協同党と変わり、国民協同党代議士会副会長となった。
山県 道義(やまがた みちよし、1899年(明治32年) -… 山県 道義(やまがた みちよし、1899年(明治32年) - 没年不明)は、日本の発明家。 広島市出身。広島工業学校を卒業し、東京高等工業学校(現在の東京工業大学)に在籍した。その後、陸軍運輸部、合資会社天洋工業所技師長を経て、1928年に大阪市港区で山縣機械工作所(現在の山縣機械)を創業し、写真製版用腐食機械の設計製造を始めた。
田中 敬孝(たなか よしたか、1899年(明治32年) - … 田中 敬孝(たなか よしたか、1899年(明治32年) - 1985年(昭和60年)3月6日)は、日本のサッカー指導者。広島県広島市翠町(現・南区翠町)出身。 息子は東洋工業や日本代表でもプレーした田中雍和。 戦前における「サッカー王国広島」の歴史を拓いた人物である。 旧制広島中学(現広島県立広島国泰寺高等学校)在学中の1914年(大正3年)同校に初めて蹴球部(サッカー部)が出来て入部。それまでは同好会的なものだった。田中はレフトウイングで、後に日本サッカー協会会長となる野津謙もサッカー部の同期でフルバック、広島カープの設立で知られる谷川昇も同期でハーフセンターだった。サッカー部の一年上が関西学院大学体育会サッカー部創設者・平田一三 と山口高等学校 (再興山高)サッカー部創設者・武田邦次郎。
山田 節男(やまだ せつお、1898年12月26日 - 19… 山田 節男(やまだ せつお、1898年12月26日 - 1975年1月8日)は、広島県出身の政治家。広島市長、参議院議員。
廿日出 要之進(はつかで ようのしん、1898年11月30日… 廿日出 要之進(はつかで ようのしん、1898年11月30日 - 1973年9月26日)は、広島県出身の実業家。アヲハタ創業者。 広島県豊田郡大長村(現在の呉市豊町)生まれ。大長村は広島ミカン発祥の地で廿日出の実家も果物農家を営んでいた。旧制忠海中学校(現広島県立忠海高等学校)~農林省水産講習所(現・東京海洋大学)卒業(1923年)。同講習所の先輩で中島董一郎が創業した中島董商店に入社。大長村の同郷で、ミカン缶詰のアルカリ剥皮法で名を残す加島正人に協力して郷里でみかんの缶詰作りに取り組む。ところが加島が中島董商店を通さず、直接英国と取り引きを始めたことから、中島の全額出資を得て1932年、みかんの缶詰加工とオレンジママレードなどジャム類の製造を目的として広島県竹原市忠海に「旗道園株式会社」を創業した。
三好 康之(みよし やすゆき、1898年(明治31年)8月1… 三好 康之(みよし やすゆき、1898年(明治31年)8月12日 - 1989年(平成元年)11月6日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 広島県出身。広島地裁判事・三好康親の息子として生まれる。広島高等師範学校附属中学校(現広島大学附属中学校・高等学校)卒業を経て、1919年(大正8年)5月、陸軍士官学校(31期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第42連隊付となる。1922年(大正11年)12月、歩兵中尉に昇進。1923年(大正12年)2月から10月まで、陸軍航空学校で操縦学生として学んだ。1923年11月、飛行第3大隊付となる。1925年(大正14年)5月、兵科を航空兵に転科し航空兵中尉に任官し飛行第3連隊付となる。
児玉 希望(こだま きぼう、1898年 <明治31年> 7月… 児玉 希望(こだま きぼう、1898年 <明治31年> 7月5日 - 1971年 <昭和46年> 5月2日)は、日本画家、日本芸術院会員。位階は従四位。 広島県高田郡来原村原田(現・安芸高田市高宮町原田)出身。本名・省三。尾竹竹坡門下を経て、1918年に川合玉堂の門に入る。「希望」の号は竹坡がつけたもの。帝展に出品し、1921年「夏の山」で初入選。1928年帝展では洋画の手法を取り入れた「盛秋」で特選となる。以後、新文展、日展に出品。1950年日展運営会参事、伊東深水門下の白鳥映雪らとともに日月社を結成。1952年の作品「室内」により日本芸術院賞を受賞。1958年日展評議員、1959年日本芸術院会員。