伊藤 文吉(いとう ぶんきち、1885年(明治18年)12月… 伊藤 文吉(いとう ぶんきち、1885年(明治18年)12月15日 - 1951年(昭和26年)11月25日)は、日本の実業家。華族、貴族院男爵議員。 初代内閣総理大臣伊藤博文の実子。伊藤家に行儀見習いに来ていた多摩出身の女性との間にできた婚外子で、当初は、博文の後妻の兄である木田幾三郎の長男として育てられたが、後に戸籍上伊藤の養子となる。旧制山口県立豊浦中学校(第1期)、山口高等学校卒業。1908年(明治41年)東京帝国大学法科大学法律科を卒業し、農商務省の商工局に勤務、文官高等試験を経て翌年山林事務官兼農商務書記官となり、1910年(明治43年)休職し、渡英。農商務省参事官、同山林局書記官、外務書記官、内閣総理大臣秘書官、軍需省顧問、鮎川義介が創立した日本産業(日産)取締役、日本鉱業社長などを務めた。
俵田 明(たわらだ あきら、1884年〈明治17年〉11月1… 俵田 明(たわらだ あきら、1884年〈明治17年〉11月13日 - 1958年〈昭和33年〉3月21日)は、日本の実業家、UBE (旧・宇部興産)初代社長。 山口県宇部市出身。士族・俵田勘兵衛の二男。俵田家は宇部領主福原氏家臣の家であったが、他の士族と同様に没落の一途を辿っていた。 興成義塾卒業後は、高輪の大村徳敏の家に書生として住み込みながら築地の工手学校を卒業。その後、電気技術者として陸軍砲兵工廠に職を得るが、1915年(大正4年)、渡辺祐策の誘いを受け沖ノ山炭鉱に入社。炭鉱技師として炭鉱経営に携わる。1928年(昭和3年)に専務に就任し、1942年(昭和17年)に沖ノ山炭鉱、宇部窒素工業、宇部鉄工所、宇部セメント製造を統合して宇部興産を設立し、同社の初代社長に就任した。
山田 晁(やまだ あきら、1884年(明治17年)11月12… 山田 晁(やまだ あきら、1884年(明治17年)11月12日 - 1973年(昭和48年)2月12日)は、日本の実業家。1924年(大正13年)、後にダイキン工業となる合資会社大阪金属工業所を設立、初代社長を務めた。フロン冷凍機技術とフッ素樹脂などを独自開発した事で知られ、ダイキンの主力となるエアコン開発の礎を築いた。位階は正五位。 1884年(明治17年)11月12日、山口県厚狭郡船木村(現:宇部市)に、かつて厚狭毛利家の家臣であった松田隆三の二男として出生したが、当時の松田家は裕福ではなかった。 船木尋常高等小学校高等科2年終了後、一時漢方医の書生となったが、小倉で紙箱製造販売をしていた3歳年上の兄松田隆亮の誘いで小倉へ移り、2年間の受験勉強ののち福岡県立小倉工業学校機械科に入学した。
杉 道助(すぎ みちすけ、1884年(明治17年)2月20日… 杉 道助(すぎ みちすけ、1884年(明治17年)2月20日 - 1964年(昭和39年)12月14日)は、日本の実業家。第二次世界大戦後における大阪・関西財界の代表者。曽祖父は吉田松陰の父である杉常道、祖父は松陰の兄の杉民治。 八木商店社長となり、大阪商工会議所会頭を23年間務め、日本商工会議所副会頭、新日本放送(現・MBSメディアホールディングス)社長、海外市場調査会(現・日本貿易振興機構(略称:JETRO(ジェトロ)を設立後、理事長となる。鳩山一郎内閣において日ソ交渉全権顧問、日韓会談首席代表として政界にも関与した。位階は正三位、勲等は勲一等。 山口県山口市に生まれた。父の相次郎は県庁勤めをしていた。
植田 末蔵(うえだ すえぞう、1881年〈明治14年〉 - … 植田 末蔵(うえだ すえぞう、1881年〈明治14年〉 - 1943年〈昭和18年〉)は、日本の政治家、実業家。山口県豊浦郡彦島町長。山口県会議員。植田商事常務取締役。植田合名会社員。植田商店代表。山口県参事会員。 山口県豊浦郡彦島町(現・下関市)出身。長い間町村会議員、郵便局長、郡会議員をつとめた。1923年、満場の推選で町長となった。また会社の重役であった。 彦島で海運業、運送業、貸地貸家業、労力請負業などを営んでいた植田惣五郎の二男。性格は純で、正直な事で有名であった。趣味は釣り。宗教は真宗。住所は山口県下関市江ノ浦町。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
鮎川 義介(あゆかわ よしすけ/あいかわ よしすけ、 188… 鮎川 義介(あゆかわ よしすけ/あいかわ よしすけ、 1880年(明治13年)11月6日 – 1967年(昭和42年)2月13日)は、日本の実業家、政治家。日産コンツェルン創始者である。満洲重工業開発株式会社総裁、貴族院議員、帝国石油株式会社社長、石油資源開発株式会社社長、参議院議員などを歴任した。 明治13年(1880年)、旧長州藩士・鮎川弥八(第10代当主)を父とし、明治の元勲・井上馨の姪を母として山口県吉敷郡大内村(現在の山口市大内地区)に生まれる。 山口県立山口尋常中学校、旧制山口高等学校を経て、1903年(明治36年)に東京帝国大学工科大学機械科を卒業。芝浦製作所に入社。身分を明かさない条件で日給48銭の職工となる。
坂田 幹太(さかた みきた、1879年(明治12年)12月1… 坂田 幹太(さかた みきた、1879年(明治12年)12月13日 - 1958年(昭和33年)10月18日)は、日本の内務官僚、政治家、実業家。県知事、貴族院議員。旧姓・水谷。
三隅 哲雄(みすみ てつお、1878年(明治11年)11月1… 三隅 哲雄(みすみ てつお、1878年(明治11年)11月12日 – 1949年(昭和24年)2月12日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員。 山口県厚狭郡、のちの厚南村(現宇部市)で、豪農・三隅城介の長男として生まれる。山口中学校(現山口県立山口高等学校)を卒業。 1902年(明治35年)厚狭郡青年会を組織し、農会の活動にも参画した。1912年(明治45年)長門銀行の第3代頭取に就任し、1918年(大正7年)まで在任。その他、宇部軽便鉄道取締役、船木軽便鉄道取締役、美弥軽便鉄道監査役、山口県農会副会長、厚狭郡農会長、防長米同業組合副組長などを務めた。 政界では、山口県会議員、同参事会員を務めた。
河野 徳之助(こうの とくのすけ、1878年〈明治11年〉1… 河野 徳之助(こうの とくのすけ、1878年〈明治11年〉10月1日 - 没年不明)は、日本の政治家(下関市会議員)、商人(米穀商)、山口県多額納税者、下関米穀取引所取引員、日本米穀市場員、実業家。埴生養殖場代表。炭鉱会社吉豊公司取締役。第一証券監査役。族籍は山口県平民。 山口県豊浦郡彦島町(現・下関市)出身。河野仁左衛門の三男、同久蔵の弟。彦島の一介の農家の生まれだが、幼い頃から才気縦横、僻村の一農民として終始すべき器でなかった。 小学校を出ると米穀商の前途があることを察知し16歳にして自ら店員に甘んじて下関市江村商店に入った。番頭、支配人と進級する。 26歳の頃独立して米穀仲買店舗を開いた。
植田 松蔵(うえだ まつぞう、1876年(明治9年)9月30… 植田 松蔵(うえだ まつぞう、1876年(明治9年)9月30日 - 没年不明)は、日本の実業家。彦島運輸社長。植田合名会社代表。日本紙製造取締役。 山口県豊浦郡彦島町(現・下関市)出身。彦島の素封家・植田惣五郎の長男。弟は彦島町長の植田末蔵。由緒ある家系の血を享けて悠然貴公子のごとく何等の煩悶もなく成育した。 1921年、家督を相続した。天性磊落、名利に恬淡であった。政治に野心なく、社交に趣味がなかったため、比較的世に知られなかった。 『商工資産信用録 第43回』によると植田松蔵(調査年月・1940年2月)は「正身身代・H、年扱高又は年収・不詳、信用程度・Cb、職業・貸地貸家、労力請負」である。
秋田 寅之介(あきた とらのすけ、旧姓・秋富、1875年〈明… 秋田 寅之介(あきた とらのすけ、旧姓・秋富、1875年〈明治8年〉4月1日 - 1953年〈昭和28年〉9月11日)は、日本の政治家(衆議院議員、下関市会議員・同議長)、資産家、実業家。秋田商会社長。族籍は山口県平民。 山口県厚狭郡藤山村(現・宇部市)生まれ。秋富傳五郎の二男。秋富久太郎の弟。11歳の時叔父の許に小僧となり追い使われるが、忠実に働いて僅かな暇にも『立志伝』を読む。 1893年、19歳で先代松次郎の養子となる。1917年、家督を相続する。家業の海運業に従事する傍ら、海陸産物の売買にも事業を拡げる。日清戦争中には食糧・雑貨などを朝鮮、満州方面へ輸送し、戦後は台湾へ木材や食糧を販売して大きな利益を得る。
高橋 武太郎(たかはし たけたろう、1874年〈明治7年〉5… 高橋 武太郎(たかはし たけたろう、1874年〈明治7年〉5月1日 - 1951年〈昭和26年〉4月18日)は、明治後期から昭和時代にかけて活動した日本の電気技術者、実業家である。長野県の電力会社信濃電気で常務取締役を務めたのち独立し研削材メーカーの信濃電気製錬(旧・大正電気製錬所)を起業した。岡山県出身。 岡山県民・山形和吉の六男として1874年(明治7年)5月1日に生まれる。出身地は岡山県苫田郡津山町(現・津山市)。1878年(明治11年)2月高橋家に養子入りし家を継いだ。山口県立山口中学校を経て山口高等学校に入り、1896年(明治29年)7月に卒業。次いで1899年(明治32年)7月東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業した。
末光 鉄之助(鐡之助、すえみつ てつのすけ、1873年〈明治… 末光 鉄之助(鐡之助、すえみつ てつのすけ、1873年〈明治6年〉6月 - 1950年〈昭和25年〉5月29日)は、日本の実業家、ジャーナリスト 。関門日日新聞社社長。関門日報社顧問。同盟通信社理事。山口県多額納税者。 閑院宮載仁親王受賞者。日本新聞協会総裁受賞者。 山口県豊浦郡赤間関(現下関市)で同県人・末光貞右衛門の長男として生まれ、1929年に家督を相続する。住所は山口県下関市阿弥陀寺町(赤間神宮の所在地)、山口県在籍。 山口県内の新聞社である馬関物価日報、下関実業日報、関門日日新聞社などの複数の新聞社及び東京等複数の支社の社長等を務める。 中でも、関門日日新聞社は、当時の山口県下では、発行部数トップの新聞社であった。
磯部 検三(いそべ けんぞう、明治5年10月13日(1872… 磯部 検三(いそべ けんぞう、明治5年10月13日(1872年11月13日) - 1949年(昭和24年)8月3日)は、日本の医師、学校経営者。日本医科大学の前身・日本医学校の創立に事務責任者(肩書は「幹事」)として関与し、のちに日本医科大学の維持員となった。かつては本人の主張に基づき日本医科大学の創立者として扱われていたが、現在では創立者と見なされていない。磯部の申し立てた経歴や業績には詐称や虚飾が多かったことが判明している。 名前は検蔵とも表記される。また嬰賓、孔夏、椿軒とも号した。 明治5年(1872年)10月13日、長門国厚狭郡(現・山口県山陽小野田市埴生)の医師・重枝化甫の三男として生まれ、叔父の磯部禎太郎の養子となった。
高良 宗七(こうら そうしち、1872年2月15日(明治5年… 高良 宗七(こうら そうしち、1872年2月15日(明治5年1月7日)– 1946年(昭和21年)8月13日)は、明治から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員。 山口県厚狭郡小串村(宇部村を経て現宇部市)で、農業、鉱山業・高良政右衛門の長男として生まれる。山口西鄙黌で学んだ。1904年(明治37年)家督を相続した。 山陽採炭 (株) を設立し、1900年(明治33年)に第二鵜ノ島炭礦、1907年(明治40年)西沖ノ山炭礦、1913年(大正2年)大正炭礦を起業して各頭取となり、1925年(大正14年)採掘完了に伴い辞任した。また、1912年(明治45年)6月、広島の矢部銀行を買収して宇部銀行に改称して取締役となり、1927年(昭和12年)頭取に就任し、1944年(昭和19年)他行と合併して山口銀行が設立されるまで在任した。
岡 十郎(おか じゅうろう、旧姓・西村、1870年7月27日… 岡 十郎(おか じゅうろう、旧姓・西村、1870年7月27日〈明治3年6月29日〉 - 1923年〈大正12年〉1月8日)は、大日本帝国の実業家。朝鮮勧農、東洋捕鯨(現・ニッスイ)の各社長。近代的な捕鯨船による捕鯨を日本で始めて行い、「捕鯨王」、「日本捕鯨の父」などと呼ばれた。族籍は山口県平民。 1870年、長門国阿武郡奈古村(現・山口県阿武郡阿武町)の西村利右衛門の5男として生まれた。西村家は奈古村に住し、代々農業並びに生蝋製造を業としていた。後に岡吉輔の養嗣子になった。 1868年の明治維新以降、日本の近代化が急速に進み、多くの人々が西洋の知識と技術を学ぶために欧米に渡った。当時、日本は遠東での勢力を拡大しようとしていたが、捕鯨は江戸時代以来の網取法による沿岸捕鯨が続いていた。
嶋谷 徳三郎(島谷 徳三郎、しまたに とくさぶろう、1867… 嶋谷 徳三郎(島谷 徳三郎、しまたに とくさぶろう、1867年12月2日〈慶応3年11月7日〉 - 1928年〈昭和3年〉5月20日)は、日本の実業家、資産家、山口県多額納税者。嶋谷汽船株式会社の創立者で社長を務めた。族籍は山口県平民。 周防国玖珂郡由宇村(現・山口県岩国市)に、廻船業を営む徳右衛門の長男として生まれる。若い頃から父の下で家業を習得する。 1889年、父・徳右衛門が亡くなり、徳三郎は22歳で家督を相続して家業を継承した。徳三郎は1895年に、それまで保有していた和式帆船を売却して、日本郵船から中古の蒸気船「浦門丸」(元はイギリス製で土佐藩が購入)を購入する。当時、由宇の廻船業者はすべて和式帆船を使い、高額な蒸気船の導入をためらっていた中で、徳三郎は親族の反対を押し切って実行した。
藤本 閑作(ふじもと かんさく、1867年11月26日(慶応… 藤本 閑作(ふじもと かんさく、1867年11月26日(慶応3年11月1日)- 1936年(昭和11年)12月12日)は、明治から昭和初期の政治家、実業家、銀行家。宇部銀行頭取。貴族院多額納税者議員。族籍は山口県士族。 藤本蔓平の長男として後の長門国厚狭郡宇部村(現在の山口県宇部市)に生まれた。岩国の東沢瀉塾で学んだ。漢学を修めた。1877年(明治10年)7月に家督を相続する。 1896年(明治29年)以降、石炭鉱業を経営し、宇部電気、宇部銀行、宇部鉄工所各取締役、宇部村信用購買販売組合理事のほか、宇部商工会議所議員、防長林業、宇部セメント(後の宇部興産、現在のUBE/UBE三菱セメント)各取締役、大和護謨栽培監査役などを務める。
渡邊 祐策(渡辺 祐策、わたなべ すけさく/ゆうさく、元治元… 渡邊 祐策(渡辺 祐策、わたなべ すけさく/ゆうさく、元治元年6月16日(1864年7月19日) - 昭和9年(1934年)7月20日)は、日本の実業家、政治家(立憲政友会)。UBE(旧・宇部興産)の前身である冲ノ山炭鉱組合の創業者。旧姓・國吉。 幕末の長門国厚狭郡船木宰判の小串村(現在の山口県宇部市)で國吉恭輔(その後、福原家家臣渡邊詠蔵の渡邊家を継いだため、渡邊姓となる)の次男として生まれる。國吉家は畔頭ながらも苗字帯刀を許された家柄であったが、祖父に当たる國吉藤輔が周辺集落一体を焼き尽くす火事を起こしたために財産を失い、また明治維新以降他の士族と同様に俸禄を失ったことにより生活は苦しかったという。
久保 通猷(くぼ つうゆう、文久3年9月16日(1863年1… 久保 通猷(くぼ つうゆう、文久3年9月16日(1863年10月28日) – 昭和12年(1937年)5月2日)は、日本および同統治下台湾の官僚、政治家、実業家。衆議院議員(立憲政友会→中正会)。福岡県若松町長。 長門国厚狭郡厚西村(現在の山陽小野田市)出身。小学校卒業後、独学で文学、政治、経済、法律を学び1895年(明治28年)、高等文官試験に合格し、内務省、台湾総督府、地方官として勤務した。退官後は1912年(明治45年)、第11回衆議院議員総選挙に出馬し当選、そのほか若松町長も務めた。その他に私立興風中学校理事長を務め、その後大連に渡り、大連大正米製造合資会社の代表を務めた。
植田 謙輔(うえだ けんすけ、1860年9月13日(万延元年… 植田 謙輔(うえだ けんすけ、1860年9月13日(万延元年7月28日) - 1927年(昭和2年)2月3日)は、日本の篤農家、政治家(山口県豊浦郡彦島村長)、実業家。彦島電気取締役。族籍は山口県平民。大彦島建設第一の功労者であった。 長門国彦島(現・山口県下関市)出身。植田藤左衛門の長男。第2代村長田代寅次郎に用いられて1890年、助役に就職し、1891年、第3代村長の要職に就いた。一意村治のために村長として約30年の永きにわたり心血を注いだ。 郡の町村長会副会長となり、種々な公的名誉職に関与した。自治功労者として表彰された。『彦島大観』で「彦島の元勲として崇敬すべき歴史的人物である。」と紹介されている。
岡田 治衛武(おかだ じえむ、1860年1月2日(安政6年1… 岡田 治衛武(おかだ じえむ、1860年1月2日(安政6年12月10日) - 大正年間没)は、日本の実業家。政治家、衆議院議員(2期)。 岡田治右衛門の長男として、長門国美祢郡伊佐村(現美祢市)に生まれる。漢学を学ぶ。村会議員、同議長、山口県会議員、共栄汽船社長、大日本製薬(株)専務取締役、総武鉄道(株)顧問、真宗信徒生命保険会社社長、徴兵保険、武蔵電気鉄道各(株)社長となる。 1902年の第7回衆議院議員総選挙において山口県郡部から立憲政友会公認で立候補したが落選。1903年の第8回衆議院議員総選挙において無所属で立候補して初当選する。1904年の第9回衆議院議員総選挙ではトップで再選。衆議院議員を2期務め、1908年の第10回衆議院議員総選挙では大同倶楽部公認で立候補したが落選した。
賀田 金三郎(かだ きんざぶろう、安政4年9月16日/グレゴ… 賀田 金三郎(かだ きんざぶろう、安政4年9月16日/グレゴリオ暦 1857年11月2日 - 1922年7月4日)は、日本の実業家である。日本統治時代の台湾における実業界の大物。相場師「賀田金」としても知られる。 1857年11月2日(安政4年9月16日)、長門国萩(現在の山口県萩市)の札差商家に生まれる。漢学を学び、やがて家業を継ぐ。 1885年(明治18年)、東京に移り、藤田伝三郎の藤田組(藤田財閥)に入社する。その後、大倉喜八郎の大倉組(大倉財閥)に移り、同社広島支店長を経て、1895年(明治28年)に日清戦争が終結すると、同社台湾総支配人に就任する。台湾統治初期のインフラ整備需要を利用し、1897年(明治30年)には、台湾で大倉喜八郎・山下秀実らと駅伝社設立し、台湾での郵便や国庫金の逓送、苦力供給などを業務とする交通業を手がける。
伊藤 欽亮(いとう きんすけ(きんりょう)、安政4年8月4日… 伊藤 欽亮(いとう きんすけ(きんりょう)、安政4年8月4日(1857年9月21日) - 昭和3年(1928年)4月28日)は、日本の実業家。新聞『時事新報』編集長、新聞『日本』社長。交詢社理事、慶應義塾評議員。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
藤岡 市助(ふじおか いちすけ、安政4年3月14日〈1857… 藤岡 市助(ふじおか いちすけ、安政4年3月14日〈1857年4月8日〉 - 大正7年〈1918年〉3月5日)は、日本の工学者・実業家。東京電気株式会社(後の東芝)創業者。日本に電気および電球灯を普及させた功績があり、「日本のエジソン」、「電力の父」と評される。 安政4年3月14日(1857年4月8日)、周防国岩国(現在の山口県岩国市)に生まれた。父は岩国藩士の藤岡喜介、母はウメであり、市助は長男だった。慶応元年(1865年)には岩国藩藩校の養老館に入った。 14歳だった1871年(明治4年)には新設された岩国兵学校に入学し、1872年(明治5年)には岩国英国語学所に移った。1873年(明治6年)には英語教師がいなくなったことで、しばらく藤岡が英語の授業を担当したという逸話もある。
植田 惣五郎(うえだ そうごろう、1855年9月12日(安政… 植田 惣五郎(うえだ そうごろう、1855年9月12日(安政2年8月2日) - 没年不明)は、日本の篤農家、実業家。植田合名会社代表社員。族籍は山口県平民。 長門国彦島(現・山口県下関市)出身。植田惣三郎の長男。1874年、家督を相続した。三菱を背景として弟子待及び江ノ浦一帯の海岸を埋築して貯炭場を作り、あるいは数10隻に余る帆船を造り、ほとんど全国にまたがり海運業を営み、日清、日露戦役から欧州大戦にかけてにわかに家運膨張し、一躍巨万の富をなした。 三菱の引立てがあったといえども惣五郎の手腕と英断がなければ成功は成し遂げられなかった。蓄財の反面子弟の教養に意を注ぎ、末子2人は帝大を卒業して三菱社員となった。
手塚 猛昌(てづか たけまさ、1853年12月22日(嘉永6… 手塚 猛昌(てづか たけまさ、1853年12月22日(嘉永6年11月22日) - 1932年(昭和7年)3月1日)は、「時刻表の父」として知られる、明治期の実業家。日本最初の月刊時刻表とされる「汽車汽船旅行案内」の発行者。 現在の山口県萩市須佐出身。元の名は岡部緒三郎。 長州藩士の家柄だが家貧で四書五経を独学で修めた。長州藩永代家老の益田家が設けた郷校・育英館で学び、33歳の時に上京し慶應義塾(現・慶應義塾大学)に進んだ。 その後、庚寅新誌社を創立し政治経済雑誌を発行する一方『庚寅新誌』を発行し、政治活動を始める。1894年(明治27年)に恩師福沢諭吉の勧めで、英国の時刻表を手本に「汽車汽船旅行案内」を発行。
植田 治作(うえだ じさく、1853年(嘉永6年) - 19… 植田 治作(うえだ じさく、1853年(嘉永6年) - 1925年(大正14年))は、日本の篤農家、政治家(山口県豊浦郡会議員、同郡彦島村会議員)、実業家。 長門国彦島西山(現・山口県下関市)出身。植田甚之丞の嫡子。1889年、町村制が実施されると推されて村会議員となり30余年間その公職にあって村政に参与し、その間には郡会議員となり信用組合・漁業組合の理事及び各種の名誉職に挙げられた。 1915年11月、彦島村長より、1919年10月、山口県知事より村治功労者として同年10月には彦島町長より1922年4月、豊浦郡長より自治功労者として表彰され、里人の手によって頌徳碑が建設された。 貧困な家を復興すると同時に全身熱血を注いで部落の青年を薫陶し、常に誠意をもって不言実行した。
瀧川 辨三(たきがわ べんぞう、嘉永4年11月21日(185… 瀧川 辨三(たきがわ べんぞう、嘉永4年11月21日(1851年12月13日) - 大正14年(1925年)1月12日)は、日本の実業家、政治家。 1884年、神戸で興したマッチ製造会社(精燧社)が成功、精燧社は数々の会社を吸収して東洋燐寸株式会社と改名し、辨三は「日本のマッチ王」と呼ばれるようになる。神戸のガス・水道・電気・築港などの公共事業にも参画した。神戸商工会議所会頭、貴族院多額納税者議員(1915年1月21日 - 1918年9月28日)などを歴任し1925年没。享年75。 嘉永4年(1851年)11月21日長府藩士瀧川清の二男として生まれた(戸籍では兵庫県平民)。幼名は百十郎、通称は武熊。
井上 省三(いのうえ せいぞう、弘化2年10月15日〈184… 井上 省三(いのうえ せいぞう、弘化2年10月15日〈1845年11月14日〉 - 1886年〈明治19年〉12月14日)は、日本の実業家、技術者。明治時代初期の官吏。「日本の毛織物工業の父」と呼ばれた。 1845年11月14日(弘化2年10月15日)に厚狭郡宇津井村(現下関市)の庄屋である伯野家に次男として生まれ、同郡厚狭村(現山陽小野田市)の厚狭毛利家の家臣である井上家の養子となる。山口兵学校で蘭学を学び、奇兵隊隊長として倒幕に参加、1869年(明治2年)に木戸孝允と出会う。翌年に上京し、半年後に北白川宮能久親王に随行しドイツのベルリンへ留学。 当初は兵学を目的としていたが、殖産興業に変更し織物工場にて製絨技術を学ぶ。
藤田傳三郎(ふじた でんざぶろう、1841年7月3日(天保1… 藤田傳三郎(ふじた でんざぶろう、1841年7月3日(天保12年5月15日) - 1912年(明治45年)3月30日)は、日本の商人、実業家、華族。明治時代の大阪財界の重鎮で、藤田組(後の藤田財閥、現・DOWAホールディングス)の創始者。男爵。 建設、土木、鉱山、電鉄、電力開発、金融、紡績、新聞などの経営を手がけ、今日の多くの名門企業の前身を築いた。また有能な経営者を多数育て、美術品の収集家、慈善事業家、数寄者としても名高い。号を香雪と称す。現在の山口県萩市出身。元奇兵隊士だとされるが詳細は不詳。 長州藩の萩(現・山口県萩市)で醸造業を営む藤田半右衛門常徳の四男に生まれる。家業は醸造業の他、藩の下級武士に融資を行う掛屋を兼営していた。
吉富 簡一(よしとみ かんいち、旧名: 吉富 藤兵衛(よしと… 吉富 簡一(よしとみ かんいち、旧名: 吉富 藤兵衛(よしとみ とうべえ)、天保9年1月19日(1838年2月13日) - 大正3年(1914年)1月18日)は、日本の江戸時代末期(幕末)から明治時代の実業家、政治家。幼名は美之助。 周防国矢原村(現・山口県山口市湯田)の裕福な豪農・庄屋に生まれ、井上聞多(後の井上馨)の幼馴染でもあり、尊王攘夷運動及び倒幕運動に参加。農民ではあるが大地主として裕福だった吉富は高杉晋作の奇兵隊に資金提供する他、鴻城軍(長州藩諸隊)を組織し井上を総裁に据える。 明治維新後は長州閥の一員として活動。木戸孝允に認められて明治3年(1870年)に上京して官吏となり士族に列せられ吉富簡一と改名するが、翌明治4年(1871年)に廃藩置県のあおりで長州藩への多額の貸し付けが焦付き、家計の立て直しの為に山口県に帰る。
伊藤 房次郎(いとう ふさじろう、1831年8月12日〈天保… 伊藤 房次郎(いとう ふさじろう、1831年8月12日〈天保2年7月5日〉 - 1907年〈明治40年〉2月3日)は、日本の実業家・地方政治家。山口県赤間関市(現・下関市)の初代市長。慶長から代々薬種商を営む亀屋伊藤家の当主。 下関市成立期において公職・要職を歴任。商業活動、地方自治、商工会、社会事業など、老舗の家業運営と並行し多方面で活動。地域社会の行政・経済に広く携わった人物である。 伊藤房次郎は、山口県出身。山口市中市古熊・河野善九郎の次男。伊藤源左衛門の養子となり、薬種商の老舗「亀屋喜三郎商店」の家督を相続。当家は鎌倉時代の嘉禎年間に、祖先が長門國目代として京都から下向したことに始まり、慶長から薬舗を開業したと伝わる亀屋伊藤家である 1863年(文久3年)攘夷の令にあたり、赤間関在番所の用務を任命される。
岡崎 富夢 は、日本の実業家である。木造住宅専用屋上テラス『… 岡崎 富夢 は、日本の実業家である。木造住宅専用屋上テラス『COLORS』を販売する株式会社PASIO代表取締役社長。
宇賀 伊津緒(うが いつお、? - 1950年)は、日本の実… 宇賀 伊津緒(うが いつお、? - 1950年)は、日本の実業家、翻訳、文筆家。ペンネームは、宇賀一男、宇賀一朗。日本ではじめてカレル・チャペック『ロボット』を翻訳し、「人造人間」という造語を造った。 山口県周南市出身。1915年、東京高等商業学校に入学。一橋俳句会加入。1917年、東京高等商業学校を卒業し、鈴木商店に就職した。 1919年末から1925年にかけてニューヨーク支社に勤務。宇賀一男のペンネームで『紐育新報』『日米時報』の年賀広告を執筆。テニスプレーヤーとしても活躍した。1923年には、 俳句誌『層雲』にアントン・チェーホフ『手帖』の抄訳やエッセイ「紐育にて」が掲載された。同年7月、『人造人間』を刊行。
西岡 竜一朗 は、日本の男性実業家、元俳優。山口県光市出身。… 西岡 竜一朗 は、日本の男性実業家、元俳優。山口県光市出身。既婚で1児の父。
松下 秀司(まつした しゅうじ)は日本の実業家である。そごう… 松下 秀司(まつした しゅうじ)は日本の実業家である。そごう・西武、阪急阪神百貨店などに在籍し、そごう神戸店最後の店長、神戸阪急(2019年以降)の初代店長を務めた。 山口県岩国市出身。1980年(昭和55年)3月に広島修道大学を卒業後、株式会社そごう(社長:水島廣雄)に入社し、神戸店に配属された。広島からやってきた当時、雑誌には神戸在住の読者モデルが多数登場してエレガンスなスタイルが掲載されており、おしゃれな街に驚いたという。婦人服の担当が長く、ほぼ全ての婦人服アイテムを担当した。当時は珍しかった自主編集売場を2か所作ったこともある。それまで問屋から商品を仕入れていたので慣れないながら、この自主編集売場を作るため、商品のタグの裏にある電話番号に電話して自らで商品を仕入れたのが一番大変な仕事だったという。