宮崎 勝太郎(みやざき かつたろう、1892年〈明治25年〉… 宮崎 勝太郎(みやざき かつたろう、1892年〈明治25年〉4月16日 - 1946年〈昭和21年〉7月12日)は、日本の外交官。駐ルーマニア公使。 愛媛県松山市出身。1916年(大正5年)、高等文官試験と外交官及領事官試験に合格し、翌年に東京帝国大学法科大学法律科を卒業した。農商務省商工局、同臨時産業調査局に勤務した後、外務事務官に転じ、政務局第三課に勤務。さらにイギリス大使館三等書記官、同二等書記官、外務書記官・欧米局第一課長、フランス大使館一等書記官、イギリス大使館一等書記官、トルコ大使館参事官を歴任した。1939年(昭和14年)、駐ルーマニア公使に就任し、翌年に退官した。
志賀 勝(しが まさる、1892年3月29日 - 1955年… 志賀 勝(しが まさる、1892年3月29日 - 1955年8月1日)は、日本のアメリカ文学者。 愛媛県宇和島市出身。関西学院高等学部文科英文学科卒業、のち母校教授、戦後は関西学院大学英文科主任教授を務めた。早くからアメリカ文学に注目し、病気に苦しみながら著作、翻訳多数を上梓した。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
永井 英夫(ながい ひでお、1892年(明治25年)3月 -… 永井 英夫(ながい ひでお、1892年(明治25年)3月 - 没年不明)は、日本の発明家。 愛媛県宇和島市出身。1906年(明治39年)に大阪市で莫大小卸商を開業し、1909年(明治42年)に永井莫大小製造所と改め工場を新設した。1926年(大正15年)2月に新工場が竣工するとともに営業所を移転し、新たに輸出部を設けた。 莫大小編成機色染装置を発明した。この機械は1918年(大正7年)11月の第1回発明博覧会において、皇后陛下の台覧を賜り、1929年(昭和4年)6月に天覧を賜った。 1926年(大正15年)に帝国発明協会の全国発明表彰により、進歩賞が授与されている。
城戸 豊吉(きど とよきち、1891年(明治24年)11月3… 城戸 豊吉(きど とよきち、1891年(明治24年)11月30日 - 1965年(昭和40年)7月14日)は、日本の実業家、政治家。城戸商店(現ヤマキ)創業者で、同社社長や、初代伊予市長、全国削節工業組合連合会理事長を務めた。 愛媛県伊予郡北山崎村(現伊予市)出身。弓削商船学校(現弓削商船高等専門学校)中退。1908年城戸豊吉商店を創業し、削り節の製造・販売で成功した。1931年東京支店を設立し、長男城戸稔を支店長に任命。1940年全国削節工業組合連合会理事長。1950年城戸商店(現ヤマキ)設立。 郡中町長を経て、1955年初代伊予市長。1958年黄綬褒章受章。1965年に死去し市葬が行われた。
中野 義照(なかの ぎしょう、1891年10月5日 - 19… 中野 義照(なかの ぎしょう、1891年10月5日 - 1977年1月31日)は、真言宗の僧、インド哲学研究者。 1891年、愛媛県今治市生まれ。旧姓は白石。11歳で得度する。東京帝国大学文学部印度哲学科で学び、1921年に卒業。高楠順次郎に師事した。卒業後は九州帝国大学講師となり、1929年には高野山大学教授、1933年より中国天津日本図書館長、北京大学文学院教授。 戦後日本へ帰国し、1946年より高野山大学教授に復帰。同文学部長、1951年学長を務めた。1952年「ヤーヂユニヤワルキヤ法典の研究」を九州大学に提出して文学博士号を取得。1958年、密教文化研究所長となる。1964年には再度学長を務める。
河野 悦次郎(こうの えつじろう、1891年(明治24年)6… 河野 悦次郎(こうの えつじろう、1891年(明治24年)6月15日 - 1944年(昭和19年)9月8日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 愛媛県出身。木工業・河野民吉の二男として生まれる。松山中学校(現愛媛県立松山東高等学校)卒業を経て、1913年(大正2年)5月、陸軍士官学校(25期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第8連隊付となる。陸軍歩兵学校付などを経て、1924年(大正13年)11月、陸軍大学校(36期)を卒業した。 1926年(大正15年)2月、参謀本部付勤務(支那班)となり、支那駐屯軍参謀を務め、1928年(昭和3年)8月、歩兵少佐に昇進。1929年(昭和4年)3月、歩兵第1連隊大隊長となり、歩兵第75連隊付(竜井村駐在)、第3師団参謀、第8師団参謀を務め、1933年(昭和8年)8月、歩兵中佐に進む。
佗美 浩(たくみ ひろし、1891年5月2日 - 1970年… 佗美 浩(たくみ ひろし、1891年5月2日 - 1970年12月25日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。太平洋戦争開戦直後のコタバル上陸作戦を指揮した。
越智 二良(おち じろう、1891年1月26日 - 1991… 越智 二良(おち じろう、1891年1月26日 - 1991年4月18日)は愛媛県松山市出身の随筆家、評論家、郷土史家である。俳号は水草。柳号は緋威子、やなぎ丸。 小学校では藤野古白の弟である藤野滋と同級生であった。投書雑誌『文章世界』に「越智水草」「落二郎」という筆名で投稿していた(「サフラン酒」は『文章世界』の優秀作を厳選した田山花袋編『二十二篇』東雲堂1910年にも収録された)。1909年5月に創刊された雑誌『四国文学』では2巻5号まで編集者を務めた。愛媛県立松山商業学校(現・愛媛県立松山商業高等学校)を卒業後、海南新聞社(現在の愛媛新聞社)に入社。1913年5月に同紙一面に文芸欄が新設された際、担当者に就く。
玉島 愛造(たましま あいぞう、1890年12月19日 - … 玉島 愛造(たましま あいぞう、1890年12月19日 - 没年不明)は、日本の俳優。本名は菊沢 敬之助(旧姓は山内)。 1890年(明治23年)12月19日、愛媛県宇和島市に生まれる。東京の私立商工中学を中退後、独学で教員免状を取り、小学校に8年間勤務した。また、その間に川端画学校で西洋画を学び、十数年の間絵画の製作を続けた。 1925年(大正14年)、東亜キネマ甲陽撮影所に開設された佐藤紅緑主宰の俳優養成所に年齢超過で資格がないのを無理に頼んで入所する。同年に『海国の母』で映画デビューし、脇役として細山喜代松監督『赤熱の力』等に出演。やがて等持院撮影所に移籍し、多くの作品で老け役、敵役を演じた。
河合 長明(かわい たけはる、1890年(明治23年)11月… 河合 長明(かわい たけはる、1890年(明治23年)11月2日 - 1971年(昭和46年)5月9日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 愛媛県松山市出身。陸軍士官学校第25期卒業。陸軍重砲兵射撃学校に乙種学生として入学、成績優等につき卒業時拳銃を下賜される。陸士教官(兵器学部教官、32期区隊長)、高射砲第3連隊副官を経て、1940年(昭和15年)3月9日に甘木の高射砲第4連隊長(西部軍・西部軍砲兵隊)に就任し、8月1日に陸軍砲兵大佐に進級した。1941年(昭和16年)7月22日に西部軍司令部附となり、11月12日に防空第5連隊長(東部軍・東部防空旅団)に就任して市川に位置した。 1944年(昭和19年)6月に第19野戦高射砲隊司令官(第8方面軍)に就任し、ラバウルに出征した。
矢野 橋村(やの きょうそん、1890年(明治23年)9月8… 矢野 橋村(やの きょうそん、1890年(明治23年)9月8日 - 1965年(昭和40年)4月17日)は、日本画家。愛媛県越智郡(現今治市)出身。本名一智、別号「知道人」。晩年、日本南画院の設立に関わった。 1890年(明治23年)9月8日、愛媛県越智郡に生まれる。大阪陸軍造兵廠にて勤務中に左手首切断の負傷を負う。その後南画家を志し永松春洋へ師事し、右手一本で創作活動を行う。 1914年(大正3年)、第8回文展にて「湖山清暁」が褒章を受賞。1919年(大正8年)、直木三十五、福岡青嵐らと「大阪文化の抜本的改革を提唱する美術・文学・哲学などを文化総体として捉えた研究団体」として主潮社を結成、毎年東京と大阪で個展を開催する。
立花 芳夫(たちばな よしお、1890年(明治23年)2月2… 立花 芳夫(たちばな よしお、1890年(明治23年)2月24日 - 1947年(昭和22年)9月24日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。愛媛県出身。陸軍士官学校卒業(25期)。兵科は歩兵科。功四級。 立花三吉の二男として生まれる。私立金光中学を経て、1913年(大正2年)5月、陸軍士官学校を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第12連隊付となる。1916年(大正5年)9月から翌年1月まで陸軍戸山学校体操科で学んだ。1923年(大正12年)8月、歩兵大尉に進級。1924年(大正13年)3月、歩兵第12連隊中隊長となり、松山連隊区副官、第11師団副官、高松商業学校配属将校を経て、1930年(昭和5年)8月、歩兵少佐に進級。
窪田 文治郎(くぼた ぶんじろう、1890年(明治23年)-… 窪田 文治郎(くぼた ぶんじろう、1890年(明治23年)- 1975年(昭和50年))は、社寺建築棟梁、宮大工。 1890年(明治23年)、愛媛県(伊予国)久米郡久米村大字鷹子村(現在の愛媛県松山市鷹子町)に生まれる。先祖代々、社寺建築棟梁の家柄であった。明治末期より父親や、京都の名匠奥谷熊之輔に師事し、多くの設計工法を学んだ。1922年(大正11年)、4年の歳月をかけて四国八十八箇所の49番札所である浄土寺の仁王門を完成。このとき32歳であった。のち、50番札所である繁多寺の本堂・大師堂・山門、45番札所である岩屋寺の本堂・大師堂・山門、南久米町日尾八幡神社の神門・拝殿、また、道後湯神社の拝殿など、数多くの作品を残した。
高橋 雄豺(たかはし ゆうさい、明治22年(1889年)11… 高橋 雄豺(たかはし ゆうさい、明治22年(1889年)11月3日 - 昭和54年(1979年)8月26日)は、内務官僚、実業家、ジャーナリスト。香川県知事。 愛媛県西条市出身。高橋岩吉の長男として生まれる。明治40年(1907年)3月、北予中学(現松山北高校)卒業。明治42年(1909年)11月、警視庁巡査となる。 1909年12月、神田警察署勤務となり、深川警察署、三ノ橋警察署、本所相生警察署、早稲田警察署で勤務。大正4年(1915年)2月、警察官練習所を卒業。同年3月、内務省に転じ、内務属として警保局保安課に配属され、さらに同局図書課に異動。同年10月、文官高等試験行政科試験に首席で合格。
薬師神 岩太郎(やくしじん / やくしじ いわたろう、188… 薬師神 岩太郎(やくしじん / やくしじ いわたろう、1889年(明治22年)2月26日 ‐ 1953年(昭和28年)8月27日) は、大正から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員、愛媛県北宇和郡来村長。 愛媛県北宇和郡、のちの来村(現宇和島市)で生まれた。独学して青年団活動に従事した。森岡天涯の雑誌『南予之青年』の編集に従事。 来村会議員を経て、1925年(大正14年)宇和島市会議員に当選し1930年(昭和5年)まで在任。1931年(昭和6年)5月から1934年(昭和9年)5月まで来村長に在任。その後、宇和島市会議員に再選され1947(昭和22年)まで在任し、1942年(昭和17年)市会議長に就任。
池内たけし(いけのうち たけし、1889年2月21日 - 1… 池内たけし(いけのうち たけし、1889年2月21日 - 1974年12月25日)は、愛媛県出身の俳人。高浜虚子の兄池内信嘉の長男として松山市に生まれる。能楽の新興に務めた家風にならい当初は能楽師を志したが断念、1913年頃より虚子門に入り、「ホトトギス」発行所に務めながら虚子の指導を受けた。1932年「欅」を創刊・主宰。代表句に「仰向きに椿の下を通りけり」。大正中~後期の「ホトトギス」沈滞期に活躍した作家で、虚子の客観写生を忠実に実践。虚子は「平淡にして滋味がある」とその句風を評した。句集に『たけし句集』『赤のまんま』『その後』『父から聴いた話』『叔父虚子』などの著書がある。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・作詞家・作家・放送作家・随筆家(コラムニスト)・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
越智 孝平(おち こうへい、1889年(明治22年)2月3日… 越智 孝平(おち こうへい、1889年(明治22年)2月3日 - 1968年(昭和43年)6月25日)は、日本の海軍軍人、政治家。最終階級は海軍少将。松山市長。 愛媛県和気郡堀江村(現:松山市堀江町)で越智倉吉、ヨシ夫妻の息子として生れる。1907年、私立北予中学校を卒業し、海軍兵学校(38期)に入学。1910年7月、同校を卒業し、1911年12月に海軍少尉任官。海軍大学校で乙種学生、次いで海軍水雷学校高等科学生、同特修科学生として学んだ。第三水雷戦隊司令部付、米国駐在、第一水雷戦隊司令部付兼参謀、「陸奥」通信長心得などを経て、1924年11月、海大甲種22期を卒業した。 以後、軍令部参謀、第二遣外艦隊参謀、海軍大学校教官、在メキシコ国公使館付武官などを歴任。
薬師寺 志光(やくしじ しこう、1889年(明治22年)-1… 薬師寺 志光(やくしじ しこう、1889年(明治22年)-1984年(昭和59年)7月23日)は、日本の民法学者。法政大学名誉教授、元愛知大学・國學院大學教授。 愛媛県吉田町に生まれる。宇和島中学校、第一高等学校を経て、東京帝国大学法学部に入学する。1915年(大正4年)に東京帝国大学を卒業し、司法官試補をへて、1918年(大正7年)に東京地方裁判所判事に就任する。1920年(大正9年)に退官し、大学時代の恩師である乾政彦の法律事務所に勤務する。同年、法政大学法学部教授に就任する。1923年(大正12年)から1927年(昭和2年)までドイツ、イギリス、フランスに留学する。1934年(昭和9年)、『留置権論』により法学博士(東京帝国大学)を授与される。
近藤 兵太郎(こんどう ひょうたろう/へいたろう、1888年… 近藤 兵太郎(こんどう ひょうたろう/へいたろう、1888年7月17日- 1966年5月19日)は、日本人の野球指導者。愛媛・松山商や、台湾台南州立嘉義農林学校(現在の国立嘉義大学)野球部などで監督を務めた。松山商野球部を初の全国出場に導くなど戦前の黄金時代の礎を築いた監督として、また日本統治下の台湾の嘉義農林学校を率いて甲子園に出場し、準優勝に導いたことで台湾野球史にもその名を残した。
安達 東三郎(あだち とうさぶろう、1888年(明治21年)… 安達 東三郎(あだち とうさぶろう、1888年(明治21年)4月7日 - 1915年(大正4年)3月6日)は、日本の海軍軍人で海軍航空草創期の搭乗員。 試験飛行中に搭乗機が墜落し他の乗員二人とともに殉職したが、安達らの殉職は海軍搭乗員の日本国内における殉職としては最初の事例となった。最終階級は海軍大尉。 医師安達玄杏の五男として現在の愛媛県内子町に生まれる。松山中学を経て海軍兵学校36期に進んだ。36期の入校試験は2649名の志願者に対し正規合格者は192名(他に補欠合格者8名)で、安達の席次は200名中39番、卒業時は191名中67番であった。1910年(明治43年)1月、少尉任官。 前年の8月には臨時軍用気球研究会が発足し、空の軍事利用について研究が始まった。
高畠 華宵(たかばたけ かしょう、1888年(明治21年)4… 高畠 華宵(たかばたけ かしょう、1888年(明治21年)4月6日 - 1966年(昭和41年)7月31日)は、日本の画家。本名、高畠幸吉。 愛媛県宇和島市裡町に生まれ、京都市立美術工芸学校日本画科卒業。大正から昭和初期にかけて、華宵の絵は当時の少年少女の間で絶大な人気を得た。宇和島市長・衆議院議員を務めた高畠亀太郎は、実兄。 1905年京都市立美術工芸学校を中退、1906年関西美術院に学び、上京して寺崎広業に師事した。当座は生活苦に喘いでいたが、1911年(明治44年)に「華宵」名義で発表した津村順天堂「中将湯」の広告画で一躍有名になる。アール・ヌーボーやユーゲントシュティール、特にオーブリー・ビアズリーの影響を受けたとされるシャープなペン画によるモダンな絵はそれまでの広告イラストとは一線を画したもので、世間の注目を集めた。
村上 久米太郎(むらかみ くめたろう、1887年12月3日 … 村上 久米太郎(むらかみ くめたろう、1887年12月3日 - 1958年1月26日)は、日本の陸軍軍人。1934年に満洲で起きた人質事件の解決に貢献したことで知られる。 愛媛県越智郡津島村(現今治市吉海)に生まれた。小学校卒業後は農業に従事し、徴兵で18年間軍隊生活を送り、1925年奉天守備隊員を最後に除隊。その後、旅順や大連でも働いた。 吉林省の事務官時代の1934年8月30日に、ハルビン発新京行きの夜行列車で匪賊の襲撃に遭遇し、乗り合わせた外国人2人を含む9人が人質となって監禁されたときに、救助の日本軍捜索隊の「日本人はいるか?」の呼び声に、匪賊は人質たちに答えるなと命令したが、村上は「日本人ここにあり」と叫び、それを聞いて捜索隊が突入し全員が救助された。
菊池 慎三(きくち しんぞう、1887年(明治20年)11月… 菊池 慎三(きくち しんぞう、1887年(明治20年)11月30日 - 1943年(昭和18年)4月11日)は、日本の内務官僚、陸軍司政長官。官選秋田県知事、地方行政の専門家。 愛媛県西宇和郡二木生村(現・西予市)出身。同村長・菊池俊逸の長男として生まれた。小学校卒業後、独学で普通試験に合格。さらに1911年11月、文官高等試験行政科試験、同年12月、弁護士試験に合格。1912年4月、内務省に入省し内務属・大臣官房秘書課勤務となる。 以後、佐賀県理事官、静岡県理事官、軍需局書記官、国勢院書記官、拓殖局書記官・第二課長、内務省参事官、福井県警察部長、帝都復興院調査課長などを歴任。1921年5月から1922年4月まで欧米に出張した。
真鍋 頼一(まなべ よりいち、1887年5月7日 - 197… 真鍋 頼一(まなべ よりいち、1887年5月7日 - 1971年11月19日)は、日本基督教団の牧師である。 1887年に現在の愛媛県西条市に生まれる。1903年に洗礼を受ける。1913年に青山学院神学部を卒業し、日本メソジスト教会の牧師になる。日本メソジスト牛込教会牧師、日本メソジスト教会社会局長などを経て、1941年の日本基督教団の成立時に日本基督教団の第2部の牧師になる。そして阿部義宗の後をついで、1946年まで日本基督教団第2代議長になる。同年、日本基督教団池の上教会の牧師に就任する。空襲で会堂を失った日本基督教団牛込教会の会員が参集する。 牛込教会と池の上教会は真鍋の元で合同礼拝持ち、1948年3月に牛込教会と池の上教会が合併して日本基督教団美以教会が誕生、同年7月教団の指導により頌栄教会と改称され、真鍋が頌栄教会初代牧師になる。
白城 定一(しらき さだいち、1887年〈明治20年〉4月2… 白城 定一(しらき さだいち、1887年〈明治20年〉4月25日 - 1978年〈昭和53年〉11月4日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(1期)。 愛媛県北宇和郡、のちの喜佐方村(吉田町を経て現宇和島市)で、白城清太郎の二男として生まれた。同郷の山下亀三郎を頼り、横浜石炭商会(のちの山下汽船)に入る。山下汽船(株)取締役、山下(名)理事、尼ヶ崎築港(株)監査役、阪神築港(株)取締役、白城(名)社長、日満鉱業(株)取締役、同社長、同会長、満州鉛鉱(株)副社長、満州鉱山(株)取締役、日満石膏(株)会長となる。 1930年の第17回衆議院議員総選挙において愛媛3区(当時)から立憲政友会公認で立候補したが落選。
高畑 誠一(たかはた せいいち、1887年(明治20年)3月… 高畑 誠一(たかはた せいいち、1887年(明治20年)3月21日 - 1978年(昭和53年)9月19日)は、日本の実業家。日商株式会社(後の日商岩井、現・双日)の元会長。 愛媛県喜多郡内子町出身。父・宗次郎、母・タキセの長男。生家は内子町ではかなり古い家系で、誠一で14代目になる。呉服、食料品、日用雑貨までなんでも扱う小売店をやっていた。いわゆる“よろずや”だったが、誠一が小学校にあがる頃この“よろずや”を廃業し、生糸と木蝋の製造業を始めた。 旧制西条中学校(現・愛媛県立西条高等学校)を経て神戸高等商業学校(現・神戸大学)を卒業。同期に永井幸太郎、出光佐三、和田恒輔。神戸高商在学中は三井物産への入社を志望していたが、尊敬する同校校長の水島銕也の推薦ということで鈴木商店に入社する。
馬越 喜七(まこし きしち、1887年〈明治20年〉2月1日… 馬越 喜七(まこし きしち、1887年〈明治20年〉2月1日 - 1930年〈昭和5年〉9月20日)は、日本の海軍軍人。海軍航空草創期の搭乗員の一人であり、海軍初期国産機の製作に携わった。最終階級は海軍中佐。 愛媛県に生まれる。大洲中学校を経て1909年(明治42年)11月19日海軍兵学校(37期)を卒業、1911年(明治44年)2月27日海軍少尉任官。1912年(大正元年)中尉任官、1914年(大正3年)3月海軍航空術研究委員会練習将校(3期生)。同年の青島攻囲戦では水上機母艦若宮飛行隊に所属した。 帰国後は飛行高度・滞空時間の記録を樹て、海軍初期の国産機開発・生産に携わった。1916年(大正5年)12月1日大尉、1922年(大正11年)少佐、1927年(昭和2年)11月29日中佐に昇任したが、病を得て1930年(昭和5年)1月15日に予備役に編入され、同年9月20日に没した。
服部 嘉香(はっとり よしか、1886年(明治19年)4月4… 服部 嘉香(はっとり よしか、1886年(明治19年)4月4日 - 1975年(昭和50年)5月10日)は、日本の詩人・歌人・国語学者。 東京市日本橋区浜町の旧松山藩主久松家邸内で生まれた。愛媛県士族・服部嘉陳の長男。父の嘉陳は松山藩士・藤野正久の次男で、服部家を継いだ。 1889年(明治22年)に父の故郷である松山に移る。その後間もなく父が病没したため、叔父藤野漸の下で養育される。松山中学校を卒業後、1904年(明治37年)に再び上京して早稲田大学に入学。1908年(明治41年)、大学部文学科英文学科を卒業。同級生に北原白秋・三木露風・若山牧水・土岐善麿などがいた。中学時代から雑誌『少年世界』『中学世界』などに新体詩を投稿していたが、早大進学によって詩壇での活動はより活発になる。
大宮 庫吉(おおみや くらきち 1886年(明治19年)4月… 大宮 庫吉(おおみや くらきち 1886年(明治19年)4月1日 - 1972年(昭和47年)1月19日)は、大正・昭和時代の日本の実業家。寳酒造を日本有数の酒造会社にした宝酒造中興の祖。愛媛県宇和島市出身。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
佐々木 到一(ささき とういち、1886年1月27日 - 1… 佐々木 到一(ささき とういち、1886年1月27日 - 1955年5月30日)は、日本の陸軍の軍人。陸士18期、陸大29期。最終階級は陸軍中将。陸軍きっての中国通で、蔣介石以下国民党領袖のほとんどと親しく、国民党の革命にも理解をよく示した。人民服(中山装)の考案、デザインを行ったともされる。 愛媛県松山市生まれ、広島県広島市育ち。本籍は福井県小浜市。佐々木透(陸軍少佐)の長男として生れる。広島済美小学校(広島偕行社付属済美学校)、広島一中(現・広島県立国泰寺高校)を経て、1902年(明治35年)陸軍士官学校(第18期)入学。1905年(明治38年)11月卒業。同期に山下奉文大将・岡部直三郎大将・阿南惟幾大将ら。
大塚 信照(おおつか のぶてる、1886年(明治19年)1月… 大塚 信照(おおつか のぶてる、1886年(明治19年)1月1日 - 1958年(昭和33年)3月21日)は、日本の実業家。かつては大日本帝国陸軍の軍人であり、最終階級は陸軍少将であった。退役後、服部時計店取締役を務めた。 愛媛県宇和島市出身。北宇和島町神田川原に生まれる。1904年(明治37年)、兄が旅順要塞の東鶏冠山北砲台において戦死したのを受け、帝国軍人として尽くすことを決意する。兄の手紙には「明暁部下を率い一死以て敵陣に突入する死後は再日露戦争があるだろうからお前は軍人となって俺の敵を討って御国の為に尽くして呉れ」とあった。1907年(明治40年)5月、陸軍士官学校(19期)を卒業。砲工学校、東京帝国大学を卒業し、米国に派遣される。
喜安 健次郎(きやす けんじろう、1885年(明治18年)1… 喜安 健次郎(きやす けんじろう、1885年(明治18年)11月4日 – 1947年(昭和22年)8月29日)は、日本の鉄道官僚。帝都高速度交通営団総裁。 愛媛県伊予郡岡田村(現在の松前町)出身。1912年(明治45年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、高等文官試験に合格した。鉄道院副参事、同総裁秘書、同参事、鉄道省参事官、大臣官房文書課長、鉄道書記官、鉄道監察官、大臣官房法規課長、監督局長を歴任した。1934年(昭和9年)、鉄道次官に就任し、1940年(昭和15年)まで在任した。 退官後の1941年(昭和16年)に帝都高速度交通営団副総裁に就任し、1944年(昭和19年)に総裁に昇格した。
黒田 政一(くろだ まさいち、1885年(明治18年)9月1… 黒田 政一(くろだ まさいち、1885年(明治18年)9月13日 - 1975年(昭和50年)8月4日)は、明治から昭和時代前期の政治家、警察官。愛媛県松山市長、温泉郡三津浜町町長。 愛媛県和気郡新浜村(現・松山市新浜町)で生まれる。 1909年(明治42年)愛媛県巡査となり、1924年(大正13年)壬生川警察署長、1927年(昭和2年)宇和島警察署長、1929年(昭和4年)松山警察署長、1931年(昭和6年)県社寺兵事課長を歴任し、1935年(昭和10年)退職する。同年7月、松山市収入役に転じ、1939年(昭和14年)2月、三津浜町助役を経て、翌月同町長に就任する。さらに松山市との合併に伴い、1940年(昭和15年)10月、同市助役となり、1946年(昭和21年)3月29日に松山市長に就任。
伊藤 述史(いとう のぶふみ、1885年〈明治18年〉8月1… 伊藤 述史(いとう のぶふみ、1885年〈明治18年〉8月19日 - 1960年〈昭和35年〉4月3日)は、日本の外交官。情報局総裁、貴族院議員等を務めた後、戦後GHQにより公職追放された。 愛媛県新居郡宇高村(高津村を経て現新居浜市)で、医師・伊藤道冲の長男として生まれた。東京高等商業学校(現一橋大学)卒業後外務省入省。その後リヨン大学に留学。各赴任先で英語、フランス語、ドイツ語、イタリア語、ロシア語などを次々と習得し語学の天才と評された。法学博士。妻はフランス人。 満州事変前後を通じ国際連盟政府代表代理を務め日本の国際連盟脱退を実現。1937年から支那欧米諸国歴訪特命全権公使を務め、日独伊三国同盟推進派だった大島浩駐ドイツ大使や白鳥敏夫駐イタリア大使の説得にあたったのち、1940年からは内閣情報部長や初代内閣情報局総裁を務め情報統制を行った。
久保 より江(くぼ よりえ、1884年(明治17年)9月17… 久保 より江(くぼ よりえ、1884年(明治17年)9月17日 - 1941年(昭和16年)5月11日)は、日本の俳人。 1884年(明治17年)、鉱山技師の父・宮本正良と母ヤスの長女として、愛媛県松山市に生まれる。1895年(明治28年)、松山時代の夏目漱石が下宿し、正岡子規が寄宿していた「愚陀仏庵」の持ち主がより江の母方の祖父・上野義方であったことから、当時12歳の少女であったより江は、若くして漱石や子規と面識を持ち、可愛がられたという。漱石の『吾輩は猫である』に登場する女学生・雪江は、より江をモデルにしたとされる。 1899年(明治32年)、上京。東京府立第二高等女学校を卒業後、医学博士の久保猪之吉と結婚し、福岡市に転居。
砂田 重政(すなだ しげまさ、1884年〈明治17年〉9月1… 砂田 重政(すなだ しげまさ、1884年〈明治17年〉9月15日 - 1957年〈昭和32年〉12月27日)は、日本の政治家。防衛庁長官(第4代)、衆議院議員(9期)、自由民主党総務会長(第2代)などを歴任した。 愛媛県今治市生まれ。父親は退役軍人で、家が貧しかったため役所の給仕として働き、18歳で上京。1904年(明治37年)東京法学院(現・中央大学)を卒業後、司法官補を経て、弁護士を開業する。1920年(大正9年)に立憲国民党から旧兵庫1区にて衆議院議員に初当選。以後当選9回。犬養毅に師事し、立憲国民党→革新倶楽部→立憲政友会と渡り歩く。犬養内閣にて農林政務次官に就任。犬養亡き後は、政務次官時代に大臣として仕えた山本悌二郎派に身を寄せる。
鹿村 美久(しかむら よしひさ、1884年(明治17年)5月… 鹿村 美久(しかむら よしひさ、1884年(明治17年)5月11日 - 1939年(昭和14年)1月21日)は、日本の実業家。第2代富士瓦斯紡績社長。在任中死去した。 現在の愛媛県宇和島市に生まれる。1901年に東京府城北中学校(現・都立戸山高校)を卒業。1905年に東京高等商業学校(現・一橋大学)本科を首席総代で卒業し、岩崎久弥の知遇を得て三菱の海外研究生として、3年間欧米に遊学した。帰国後、三菱合資銀行部に入行した。豊川良平初代銀行部長の娘婿となった。 1909年に富士瓦斯紡績に入社。同社小山工場庶務主任、営業部次長を経て、1913年に川崎工場が設立されると、工場長に就任する。営業部長(1919年)。
大本 貞太郎(おおもと さだたろう、1884年〈明治17年〉… 大本 貞太郎(おおもと さだたろう、1884年〈明治17年〉4月18日 - 1944年〈昭和19年〉4月29日)は、日本の政治家。衆議院議員(3期)。伊予鉄道(現伊予鉄グループ)7代社長。 愛媛県温泉郡本町(現松山市本町)出身。松山商業会議所議員、愛媛県会議員、同参事会員、同副議長となる。伊予新報社社長、伊予鉄道社長、伊予銀行取締役、(資)弘文社代表社員、松山商工会議所顧問を務める。 1932年の第18回衆議院議員総選挙において愛媛1区(当時)から立憲政友会公認で立候補し当選。以来連続3回当選。1942年の第21回衆議院議員総選挙には立候補せず引退した。1944年死去。
十河 信二(そごう しんじ、1884年(明治17年)4月14… 十河 信二(そごう しんじ、1884年(明治17年)4月14日 - 1981年(昭和56年)10月3日)は、日本の鉄道官僚、政治家。愛媛県西条市長(在任1945年(昭和20年) - 1946年(昭和21年))、第4代日本国有鉄道(国鉄)総裁(在任1955年(昭和30年) - 1963年(昭和38年))を務めた。「新幹線の父」と呼ばれた。西条市名誉市民第1号。 1884年(明治17年)愛媛県新居郡中村(中萩村、中萩町を経て、現在の新居浜市)に十河鍋作・ソウの二男として生まれる。1897年(明治30年)愛媛県尋常中学校東予分校(現在の愛媛県立西条高等学校)に入学した。卒業後、上京し受験準備のために正則英語学校(現在の正則学園高等学校)に入学した。
西村 兵太郎(にしむら ひょうたろう、1884年(明治17年… 西村 兵太郎(にしむら ひょうたろう、1884年(明治17年)3月30日 - 1935年(昭和10年)9月13日)は、日本の政治家。愛媛県長浜町(現大洲市)町長を21年、愛媛県議会議員を16年務めた。愛媛の水産界に大きな影響を与えたとして、水産業界の父とも言われている。
片上 伸(かたがみ のぶる、1884年(明治17年)2月20… 片上 伸(かたがみ のぶる、1884年(明治17年)2月20日 - 1928年(昭和3年)3月5日)は、日本の文芸評論家、ロシア文学者。初期は「天弦」の号で執筆活動をしていたので、片上天絃(片上天弦)の名でも知られる。 1884年、愛媛県今治市波止浜生まれ。一族は裕福な庄屋であり、伸の父・良(つかさ)は月番所詰めの役人であった。幼いころから神童と呼ばれ、新聞・雑誌の投稿欄の懸賞金を学資に当てていたという。旧制愛媛県立松山中学校(現・愛媛県立松山東高等学校)を卒業後、1900年に東京専門学校(現・早稲田大学)予科に入学する。在学中は英文学を学んだが、一方で当時勃興期であった自然主義文学に傾倒。卒業後は『早稲田文学』の記者をとなり、後に早稲田大学の教員となった。
河鍋 きく子(かわなべ きくこ、1884年(明治17年) -… 河鍋 きく子(かわなべ きくこ、1884年(明治17年) - 1918年(大正7年)4月12日)は明治時代から大正時代にかけての女性日本画家。 1884年に愛媛県八幡浜に生まれた。蘭香と号す。始めは京都にでて菊池芳文について四条派を学び、その後、上京して寺崎広業に師事、人物を描いて名声を得た。1891年の日本青年絵画協会臨時研究会に「女福禄寿」を出品して五等褒状を得、1894年の日本青年絵画協会第3回絵画共進会に「近古美人」を出品、三等褒状を受けている。1918年4月12日に没した。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
増田 惟茂(ますだ これしげ、1883年12月29日 - 1… 増田 惟茂(ますだ これしげ、1883年12月29日 - 1933年8月6日)は、日本の心理学者。 愛媛県松山市出身。旧制松山中学、旧制四高、東京帝国大学文科大学哲学科心理学専修卒業。元良勇次郎、松本亦太郎に師事。欧米留学を経て、1922年東京帝大助教授。1933年「心理学ノ研究法-殊ニ数量的研究ニツイテ」で東京帝国大学文学博士。51歳で死去した。
安倍 能成(あべ よししげ、1883年〈明治16年〉12月2… 安倍 能成(あべ よししげ、1883年〈明治16年〉12月23日 - 1966年〈昭和41年〉6月7日)は、日本の哲学者、教育者、政治家。位階は正三位。法政大学教授、京城帝国大学教授、第一高等学校校長、貴族院勅選議員、文部大臣、貴族院帝国憲法改正案特別委員会委員長を歴任し、学習院院長などを務めた。 医師安倍義任(よしとう)、品(しな)の八男として松山城下の小唐人町(後の愛媛県松山市大街道)に生まれた。松山中(後の愛媛県立松山東高等学校)から第一高等学校を経て、東京帝国大学文科大学へと進む。ただし、家庭の経済事情により中学卒業後1年間、母校の助教諭心得(講師)として英語を教えているため、第一高等学校進学は1902年(明治35年)のことである。
重松 俊章(しげまつ しゅんしょう、1883年(明治16年)… 重松 俊章(しげまつ しゅんしょう、1883年(明治16年)11月18日 - 1961年(昭和36年)10月6日)は、日本の東洋学者・真言宗豊山派僧侶。 愛媛県温泉郡荏原村生まれ。1894年(明治27年)に得度し、私立豊山中学校を卒業。1909年(明治42年)、東洋大学本科を3年修了で退学した後、東京帝国大学文科大学史学科選科生として入学。1913年(大正2年)東京帝国大学文科大学の史学科を卒業。 1919年6月、松山高等学校教授、1926年から1年間の中国留学後、1927年11月、九州帝国大学法文学部東洋史学講座の初代教授として赴任。1944年9月、定年退官。退官後、松山市にある四国八十八箇所霊場第51番札所の熊野山石手寺の第41世住職に就任した。
菅源三郎(かん げんざぶろう、1883年(明治16年)2月2… 菅源三郎(かん げんざぶろう、1883年(明治16年)2月24日 - 1942年(昭和17年)5月20日)は、日本の航海士、船長。 1883年、愛媛県越智郡歌仙村(現在の菊間町)で生まれる。愛媛県の松尾尋常小学校、旧制西条中学校(現愛媛県立西条高等学校)を経て1908年に商船学校を卒業し、日本郵船に入社。その後日本郵船の外国航路の乗組船員として熱田丸、阿波丸などの乗務に就く。1916年に甲種船長免状を取得した後に三菱合資会社、近海郵船へ移籍して日華連絡航路、日台連絡航路の乗務に従事し、1939年に東亜海運に移って上海航路の乗務に就いた。 第二次世界大戦時に定期船長崎丸の船長として海軍の捜索要請に協力、揚子江河口にてアメリカの客船「プレジデント・ハリソン」を発見し、これを追跡して座礁させた。
高畠 亀太郎(たかばたけ かめたろう、1883年2月6日 -… 高畠 亀太郎(たかばたけ かめたろう、1883年2月6日 - 1972年9月23日)は、日本の実業家・政治家、衆議院議員(2期)。画家の高畠華宵は弟。 小間物商と生糸商を営んでいた高畠和三郎の長男として愛媛県北宇和郡宇和島町裡町4丁目(現・愛媛県宇和島市)に生まれた。実業界・地方政界で活動した後、1937年に中央政界に入る。1939年の政友会分裂に際しては久原房之助や鳩山一郎らとともに正統派に所属した。政党解消後は翼賛議員同盟に所属し、1942年の第21回衆議院議員総選挙では翼賛政治体制協議会の推薦候補として立候補し当選。その後は翼賛政治会・大日本政治会に所属した。 戦後は旧日政会系の日本進歩党の結党に参加したが、日政会を母胎にしたとはいえ進歩党所属議員の大半は政党解消以前は立憲民政党・政友会革新派・政友会統一派に所属しており、政友会正統派に所属していた議員で進歩党結党に参加した者は高畠以外では中井一夫・西川貞一・依光好秋・猪野毛利栄・三善信房・綾部健太郎の6名のみである。
河崎 蘭香(かわさき らんこう、1882年(明治15年)11… 河崎 蘭香(かわさき らんこう、1882年(明治15年)11月9日 - 1918年(大正7年)3月12日)は、西宇和郡郷村(現八幡浜市郷)生まれの日本画家。明治から大正にかけての女性日本画家。上村松園と並び称されることもあたったが、若くして他界した。 名を菊といい、実父は医師である神山謙斎であるが、明治8年(1890)郷村に開校した石堂小学校の校長河崎奨(たすく)郁(かおる)夫妻の養女となる。 小学校を卒業後、上京し音楽学校に入学。1年後に卒業すると、今度は画家を志し、明治32年(1899)には京都に移り住み菊池芳文(きくちほうぶん)の門下生となり、四条派の画法を学ぶ。 明治34年(1901)20歳の蘭香は、八幡浜栗野浦の八坂神社本殿の天井を飾る絵を30枚受け持ち、梶谷南海や他の郷土の画家とともに描き奉納。
桑山 鉄男(くわやま てつお、1881年(明治14年)11月… 桑山 鉄男(くわやま てつお、1881年(明治14年)11月1日 - 1936年(昭和11年)2月20日)は、日本の逓信官僚。貴族院勅選議員。従三位、勲二等。 愛媛県出身。桑山吉輝(大津事件の犯人津田三蔵巡査の上司(大津警察署長))の長男として生まれる。旧制第三高等学校を経て、1906年に東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業し、高等文官試験に合格。逓信省に入省し、通信事務官、京都郵便局管理課長、長野逓信管理局長、逓信省参事官、逓信官吏練習所教官、逓信監察官、逓信大臣秘書官などを歴任した。1920年、初代簡易保険局長に就任。1924年6月、逓信次官に就任し、1929年7月まで在任した。次官在任中、新設の逓信省航空局長を兼任し、大礼使参与官を務めた。
籾山 重幸(もみやま しげゆき、1881年9月11日 - 1… 籾山 重幸(もみやま しげゆき、1881年9月11日 - 1957年11月26日)は、日本海軍の軍人。 最終階級は海軍大佐。