持田 達人(もちだ たつと、1965年4月3日 - )は、日… 持田 達人(もちだ たつと、1965年4月3日 - )は、日本の柔道家(講道館6段)。 現役時代は78kg級の選手。身長174 cm。 福岡県糸島郡志摩町(現・糸島市)出身。小学生の頃は町道場に籍を置いてはいたものの、主にラグビーをやっていてウィングとして活躍した。東京に柔道私塾・講道学舎が設立され、叔父の辰次が初代師範を務める事となると、生来より運動神経の良かった達人に白羽の矢が立ち、中学入学と同時に上京し講道学舎にて柔道を本格的に始める事となった。持田ら講道学舎の4期生はわずか6人だが、飛松秀樹や古賀元博(古賀稔彦の兄)ら小学生チャンピオンが3人おり、柔道未経験者で身長も150cmに満たない持田はゴミのように扱われた。
中西 英敏(なかにし ひでとし、1958年6月3日 - )は… 中西 英敏(なかにし ひでとし、1958年6月3日 - )は日本の柔道家。東海大学体育学部教授。
本松 好正(もとまつ よしまさ、1956年3月6日 - 20… 本松 好正(もとまつ よしまさ、1956年3月6日 - 2022年4月18日)は、福岡県飯塚市出身の日本の柔道家。 福岡大大濠高校から日大へ進学すると、4年の時には優勝大会で3位になった。卒業後、警視庁に入庁すると、団体戦の全国警察柔道大会で4度の優勝を飾った。 1988年に埼玉県の埼玉栄高校の柔道部監督に就任した。女子は1991年のインターハイ団体戦で決勝まで進むも、夙川学院高校に敗れて2位に終わった。その後も女子は全国大会で上位の常連になるも、なかなか優勝まで辿り着けなかったが、2005年にエースの白石のどか率いるチームが金鷲旗とインターハイでようやく全国大会優勝を飾った。2007年には高校選手権でも優勝した。
香月 清人(かつき きよと 1954年(昭和29年)9月25… 香月 清人(かつき きよと 1954年(昭和29年)9月25日 - )は、福岡県田川市出身の柔道家。身長166cm。得意技は小内刈、背負投。現在大阪府警察本部に所属し柔道部師範を務めている。8段。 小学校3年の時に大阪に引っ越して、大阪市立日本橋中学校1年の時に柔道を始めた。初芝高等学校(現・大阪立命館高等学校)に進学した。1971年(昭和46年)、1972年にインターハイの軽量級で連覇を果たした。東海大学に進学し卒業後は大阪府警察に就職した。 1979年世界柔道選手権大会の71kg級に出場し決勝でエツィオ・ガンバを破り金メダルを獲得した。モスクワオリンピックの日本代表にも選ばれたが日本のボイコットによりオリンピック出場は果たせなかった。
河野 満男(かわの みつお、1953年3月9日 - 2017… 河野 満男(かわの みつお、1953年3月9日 - 2017年12月30日)は、福岡県八女郡出身の、日本の柔道家である。階級は重量級。身長186cm。 矢部中学から柳川商業高校に進むと、九州大会の重量級で優勝した。その後、クラレ岡山に入社すると、1972年の実業個人選手権20歳未満の部で2位になった。1973年には中量級の世界チャンピオンである藤猪省太などとともに活躍して西日本実業柔道団体大会で優勝を飾った。また、国体にも5度の出場を果たした。 1985年には柳川高校の柔道部監督に就任すると、男子では後に世界選手権の60kg級で優勝する園田隆二や猿渡琢海などを指導した。一方、女子ではアテネオリンピックの78kg級金メダリストになる阿武教子や佐野奈津子、妹尾ひでみなどの指導にあたった。
重松 義成(しげまつ よしなり、1951年2月8日 - )は… 重松 義成(しげまつ よしなり、1951年2月8日 - )は福岡県福岡市出身の日本の柔道家。階級は中量級(80kg級)及び86kg級。得意技は大外刈。 柔道は中学の時に父親と叔父の影響で始めた。父親が師範を務めていた福岡大学附属大濠高校に進学すると、3年の時には金鷲旗で優勝を飾った。インターハイ団体戦では3位だった。。明治大学に進むと、1970年に初開催となった全日本ジュニア中量級に出場するが、決勝で天理大学の藤猪省太に敗れた選抜体重別では3位となった。1971年の全日本学生柔道優勝大会では岩田久和、上村春樹らとともにチームの優勝に貢献した。選抜体重別では決勝で警視庁の関根忍に敗れた。続く世界選手権では、決勝で藤猪に優勢負けして2位にとどまった。
橋本 昇(はしもと のぼる、1948年2月6日 - )は、福… 橋本 昇(はしもと のぼる、1948年2月6日 - )は、福岡県北九州市出身の、日本の柔道家。階級は中量級(80kg級)。
二宮 和弘(にのみや かずひろ、1946年11月28日 - … 二宮 和弘(にのみや かずひろ、1946年11月28日 - )は、日本の柔道家。1976年モントリオールオリンピック柔道男子93kg級金メダリスト。福岡県福岡市出身。柔道九段。 博多高校卒業後、天理大学を経て、正気塾にて岡野功に師事する。その後、当時の福岡県警柔道師範の誘いで、1972年4月より県警に入る。同年全日本選手権で3位入賞。 1973年のスイス・ローザンヌの世界選手権での無差別級で優勝、翌1974年の全日本選手権でも準優勝。永くライバル関係の上口孝文(同じく全日本柔道選手権準優勝経験者)を下して出場した1976年モントリオールオリンピックでは、当時の日本人選手が苦手にしていたクラスで金メダルを獲得。
園田 勇(そのだ いさむ、1946年11月5日 - )は、福… 園田 勇(そのだ いさむ、1946年11月5日 - )は、福岡県山門郡三橋町(現:柳川市)出身の日本の柔道家。1976年モントリオールオリンピック柔道男子80kg級金メダリスト。身長177cm。得意技は大外刈。5人兄弟の末っ子。 福岡電波高校から福岡工業大学に進学後、1969年世界柔道選手権大会の80kg級で金メダルを獲得した。この大会では兄の園田義男も63kg級で金メダルを獲得した。大学卒業後は丸善石油に入社し柔道を続けたが柔道は仕事が終了した夕方からしかできなかった。1972年6月に福岡県警察に入り警察官に対しての柔道コーチを始めた。 1973年世界柔道選手権大会で銀メダル、1976年のモントリオールオリンピックには4歳下の強力なライバル藤猪省三と競い代表の座を得ると本大会でも金メダルを獲得した。
園田 義男(そのだ よしお、1945年8月30日 - 201… 園田 義男(そのだ よしお、1945年8月30日 - 2018年1月29日)は、日本の柔道家(講道館9段)。弟はモントリオール五輪金メダリストの園田勇。 福岡工業大学在学中に全日本学生選手権大会や世界学生選手権大会、ユニバーシアード等で優勝を果たし、社会人になってからはメキシコシティで開催の世界選手権大会で弟の勇とともに兄弟同時優勝を成し遂げた。引退後は指導者として、福岡工大付属城東高校で谷亮子や日下部基栄等を育てた事でも有名。のち同校の校長を務めた。身長167cm。得意技は大外刈。 終戦直後の1945年8月、福岡県山門郡三橋町(現:柳川市)にて5人兄姉(4男1女)の3男として生まれる。実家は農業・養豚を営む家柄、父親は厳格で典型的な亭主関白であった。
重岡 孝文(しげおか たかふみ、1945年1月2日 - )は… 重岡 孝文(しげおか たかふみ、1945年1月2日 - )は福岡県出身の日本の柔道家。階級は軽量級。身長160cm。得意技は小内刈、掬投、飛びつきの腕挫十字固。 小学校5年の時に柔道を始めた。久留米商業高校時代は「小内刈の重岡」との異名をとり、地区大会では重量級の坂口征二にもその小内刈で一本勝ちしたことがあるという。その後、東京教育大学に進学すると、1963年にはプレオリンピックとなる東京国際スポーツ大会の軽量級で優勝した。しかし、翌年の1964年東京オリンピック代表にはなれなかった。卒業後は大分県で高校の教員になると、1967年の世界選手権では決勝で松田博文に優勢勝ちして優勝を果たした。また、軽量級の選手ながら全日本選手権にも出場したことがある。
川野 一成(かわの かずなり、1944年1月25日 - )は… 川野 一成(かわの かずなり、1944年1月25日 - )は、福岡県出身の日本の柔道家。段位は七段。 柔道は中学3年の時に始めた。常磐高校から国士舘大学へ進学するが、この当時大きな実績はあげていない。大学時代には指導者の上野孫吉から「オマエはもう柔道やめてくれ、邪魔だ!」と言われたこともあった。大学を卒業すると、地元に帰らずもう少し東京に留まっていたかったことから国士舘高校の教員になると、先輩から頼まれて柔道部監督にも就任した。最初はそれほど乗り気でなかったものの、柔道部を指導していくうちに勝てない悔しさからどんどん指導にのめりこんでいった。 後のロサンゼルスオリンピック及びソウルオリンピック95kg超級金メダリストの斎藤仁をスカウトした際には、直前に柔道部の寮が火事になってしまったことから着る物もなくて、やむを得ずペラペラのヤッケを重ね着して斉藤の住む青森県まで赴いた。
松田 博文(まつだ ひろふみ、1943年8月31日 - )は… 松田 博文(まつだ ひろふみ、1943年8月31日 - )は福岡県出身の日本の柔道家。身長162cm。得意技は背負投、内股。 嘉穂高校から関西大学進学後、1964年東京オリンピックの軽量級代表候補になるも今一歩のところで代表にはなれなかった。しかし1965年の世界選手権軽量級では優勝を果たした。その後フランス柔道連盟に招聘されて、一時期フランスで柔道を教えていた。帰国後は東レデュポンに所属していた。1967年の世界選手権中量級で優勝した丸木英二とは大学時代に同級生だった。
坂口 征二(さかぐち せいじ、1942年2月17日 - )は… 坂口 征二(さかぐち せいじ、1942年2月17日 - )は、昭和期に活躍した日本のプロレスラー、柔道家、実業家。福岡県久留米市出身。世界の荒鷲と呼ばれた。長男は格闘家・元プロレスラーの坂口征夫、次男は俳優の坂口憲二。 受験に失敗し、一年高校浪人して久留米市立南筑高校に入学。1960年、柔道三段を取得。高校卒業後、明治大学に進学。柔道部で神永昭夫の指導を受ける。1963年10月、バーデン=バーデンでのIOC総会で柔道の1968年メキシコシティーオリンピックからの除外が決定。国際柔道連盟(IJF)はIOCに再考を促す。坂口はその長身を生かし、1964年東京オリンピック前には「仮想ヘーシンク」として、神永の稽古相手を務めた。
松本 安市(まつもと やすいち、1918年(大正7年)5月2… 松本 安市(まつもと やすいち、1918年(大正7年)5月25日 - 1996年(平成8年)3月6日)は、日本の柔道家。段位は講道館8段。 昭和天覧試合(1940年)準優勝者、第1回全日本選手権大会(1948年)優勝者であり、後に天理大学等で柔道師範や1964年東京オリンピック日本代表の監督を務めた。 福岡県久留米市で洋品雑貨の卸売業を営む家の長男として生まれる。福岡県中学明善校入学後は授業で柔道を経験したが、クラブ活動ではバレーボール部に所属。中学3年の始めに上級生の強引な勧誘を受け、嫌々ながら柔道を始めたというのが柔道人生への第一歩となった。 1937年4月に武道専門学校に入学するも、親元を離れた解放感から酒色に溺れ、不摂生が祟って2年生の9月には体調を崩して結核を患い、故郷・福岡での安静生活を余儀なくされる。
新原 勇(しんばら いさむ、1911年7月15日 - 198… 新原 勇(しんばら いさむ、1911年7月15日 - 1987年5月18日)は、日本の柔道家(講道館9段)。 昭和初期に日本国内における最高峰の柔道大会であった全日本選士権大会や明治神宮競技大会等で活躍し、指導者としては朝鮮や台湾でその礎を築いたほか日本国内においては福岡県立嘉穂中学校を全国優勝に導いた実績を有す、戦前を代表する柔道家・柔道指導者の1人である。 現在の福岡県飯塚市幸袋に生まれる。県立嘉穂中学校に入学すると、当時福岡県下における柔道の大家であり同校の師範を務めていた榎本本吉より熱心に手解きを受け、 1929年に2段位で卒業して翌年京都の武道専門学校に入学した。武専で磯貝一、田畑昇太郎両範士に師事し、柔道教士であった福島清三郎、栗原民雄、森下勇らの胸を借りて稽古に励んだ新原は1932年に精錬証を受け、翌33年には講道館5段位、1934年の教士号試合では飯山栄作に競り勝って称号を拝受している。
緒方 久人(おがた ひさと、1895年10月1日 - 197… 緒方 久人(おがた ひさと、1895年10月1日 - 1970年)は、日本の柔道家(講道館9段)。 広島県呉市にて戦前の海軍はじめ各所で半世紀以上に渡り柔道指導を行い、広島市を中心に活動した倉田太一と共に県下柔道界の大家としてその振興・普及に尽力した。 福岡県の久留米市に生まれた。幼少時より扱心流の柔術を学び、旧制中学校を卒業後に上京して1912年3月に講道館へ入門。返し技(当時は“裏技”と言った)の名手として名高い高橋数良の元で専心修行し、ここで返し技に不可欠な足技を磨き終生の武器として会得した。 1914年2月に初段を許されると、翌1915年に郷里・久留米の憲兵隊柔道教師を拝命し、1918年5月には恩師高橋の斡旋により2段格として呉鎮守府海兵団および江田島海軍学校の柔道教師に着任した。
岡部 平太(おかべ へいた、1891年9月10日 - 196… 岡部 平太(おかべ へいた、1891年9月10日 - 1966年11月6日)は日本のスポーツ指導者、柔道家、日本で最初のアメリカンフットボール紹介者。スポーツ黎明期の日本に科学的トレーニングを導入した事から「近代コーチの祖」と呼ばれている。柔道8段、剣道5段。 福岡県糸島郡芥屋村(現在の糸島市)出身。 1891年(明治24年)養蚕業と櫨ろう業を営む農家の9人兄弟の長男として生まれる。 1908年(明治41年)福岡師範学校(現・福岡教育大学)入学。学校では持前の運動神経を発揮し、柔道、剣道、相撲、軟式テニス、陸上、野球、ボートと多岐にわたり活躍する。 1911年(明治44年)当時の武道界最大の大会で、京都武徳殿(旧武徳殿)で開かれた「青年大演武会」柔術16歳以上20歳未満 選抜勝負の部 で準優勝(金光弥一兵衛、宇土虎雄も出場)。
新免 純武(しんめん すみたけ、1889年10月23日 - … 新免 純武(しんめん すみたけ、1889年10月23日 - 1967年9月8日)は日本の柔道家(講道館9段)、レスリング選手。文献によっては新免 伊助とも。 古流柔術を経て講道館に学び鹿児島県や島根県を中心に後進の柔道指導を行ったほか、自身も戦前の全日本選士権等で活躍。アムステルダム五輪にはレスリングの日本代表として出場した。 福岡県福岡市出身。双水執流の家元である福岡市の隻流館で古流柔術を学び、中学生時代に17歳で上京して1907年5月付で講道館に入門。講道館の名物男で神田の錦城中学校(現・錦城学園高校)に通う徳三宝2段の推薦で1908年に同校の4年生に編入学し、1910年4月に2段位を取得した。
熊本 修治(くまもと しゅうじ)は、福岡県出身の日本の柔道選… 熊本 修治(くまもと しゅうじ)は、福岡県出身の日本の柔道選手である。階級は60kg級。 嘉穂高校3年の時にインターハイ軽量級で優勝した。1982年に亜細亜大学へ進学すると、1年の時に新人体重別60kg級で3位になった。2年の時には正力杯と正力国際で2位だったが、新人体重別で優勝を飾った。3年の時には正力国際の決勝で天理大学1年の斉藤光重を判定で破って優勝すると、4年の時には正力国際の決勝で大阪商業大学1年の今川義則を有効で破って2連覇を達成した。大学を卒業後は福岡県教育委員会の所属となった。福岡県高校教員校 (出典、JudoInside.com)。