島田 秀夫(しまだ ひでお、1915年6月27日 - 200… 島田 秀夫(しまだ ひでお、1915年6月27日 - 2005年11月3日)は、岡山県出身の会社役員、サッカー選手、第7代日本サッカー協会会長。 1928年に東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)、1933年に同附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。附属中の同級生には、石川馨(東京大学名誉教授)、中村光夫(文芸評論家)、小川平四郎(初代駐中国大使)などがいる。 旧制水戸高校(現・茨城大学)を経て、1936年に東北帝国大学法文学部に入学。1940年3月に大学を卒業して三菱重工業に入社した。1941年に太平洋戦争の召集を受けて従軍、1945年にシベリア抑留に遭い、1947年に帰国。
杉山 尚(すぎやま たかし、1915年3月21日 - 200… 杉山 尚(すぎやま たかし、1915年3月21日 - 2004年4月20日)は、日本の内科学者。専門は温泉医学、リハビリテーション、消化器病学。医学博士 宮城県仙台市生まれ。 1939年、東北帝国大学医学部卒業後、同医学部内科教室(教授 黒川利雄)に入局。医学博士(東北大学)、論文「各種胃疾患の胃曲線に関する研究」。1948年、同内科助教授。1955年、東北大学医学部附属温泉医学研究実験所教授・附属鳴子分院院長。日本温泉物理医学会、日本温泉科学会、日本リウマチ学会、宮城県温泉審議会、日本リハビリテーション医学会などの会長を歴任。1987年、勲三等旭日中綬章受章。2004年(平成16年)逝去、享年89。
桜井 茂尚(さくらい しげなお、1915年(大正4年)1月2… 桜井 茂尚(さくらい しげなお、1915年(大正4年)1月25日 - 没年不明)は、昭和期の文筆家、政治家。衆議院議員、千葉県教育委員会委員長。 千葉県匝瑳郡福岡町(八日市場町、八日市場市を経て現匝瑳市)で生まれる。1940年(昭和15年)東北帝国大学法文学部法科を卒業した。 南満州鉄道に入り経理部勤務、同東亜経済調査局員・副参事を務めた。その後、国民経済研究所農業担当研究員、農林省嘱託、社会主義政治経済研究所参事、九十九里種畜場経営、日本農民組合千葉県連統制委員長、公選の千葉県教育委員、同委員長、労働大学主事、同講師、習志野市立習志野高等学校社会科担当教師、世界芸術協会常務理事、日本社会党千葉県連書記長、同政審会長、同党本部政審会事務局次長、同常任参与、同書記局員などを務めた。
斉藤 達雄(さいとう たつお、1914年11月30日 - 2… 斉藤 達雄(さいとう たつお、1914年11月30日 - 2012年11月4日)は、日本の内科学者。専門は、糖尿病、癌化学療法。医学博士。 福島県福島市生まれ。 福島中学(現福島県立福島高等学校)を経て第二高等学校 (旧制)から、東北帝國大学医学部卒業。1938年、同医学部内科教室(教授・山川章太郎)に入局。1947年、青森医学専門学校教授。1952年、東北大学医学部内科助教授(教授・黒川利雄)。1959年から1年間、アメリカ国立がん研究所 (NCI) に留学。1963年、東北大学抗酸菌病研究所教授(癌化学療法部門、1969年臨床癌化学療法部門と改称)、1974年、同研究所所長・東北大学評議員。
佐竹 義栄(義榮、さたけ よしなが、1914年〈大正3年〉9… 佐竹 義栄(義榮、さたけ よしなが、1914年〈大正3年〉9月17日 - 1983年〈昭和58年〉12月6日)は、昭和期の華族。佐竹宗家35代当主。貴族院侯爵議員。位階は正五位。 華族・佐竹義春、兼子(九条道実長女)夫妻の長男として生まれる。1938年(昭和13年)、東北帝国大学法文学部(現・東北大学法学部、文学部、経済学部)を卒業。以後、保険院嘱託、企画院嘱託、技術院嘱託、技術院参技官を歴任。父の死去に伴い1944年(昭和19年)5月15日、侯爵を襲爵。同年9月17日、満30歳に達し貴族院侯爵議員に就任し、火曜会に所属して1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。 戦後は、子どもの家理事(埼玉県)、秋田県育英会理事長を務めた。
木下 康民(きのした やすたみ、1914年〈大正3年〉8月2… 木下 康民(きのした やすたみ、1914年〈大正3年〉8月24日 - 1982年〈昭和57年〉)は、日本の医学博士、新潟大学名誉教授。 鳥取県鳥取市西町の鳥取士族で、衆議院議員(鳥取市選出)、鳥取市会議長、鳥取県会議員などをつとめた木下義之の五男。 東北大学医学部卒業。1945年に台北帝大助手。1949年に新潟医大講師、1950年に助教授。1952年に新潟大医学部助教授を経て1960年に教授。1973年に腎研究施設長。 住所は新潟市浜浦町。 木下家は鳥取藩主の御殿医をつとめた。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
髙橋俊英(たかはし としひで、1914年6月24日 - 19… 髙橋俊英(たかはし としひで、1914年6月24日 - 1979年11月5日)は、日本の大蔵官僚。理財局次長、銀行局長、住宅金融公庫理事、同副総裁、公正取引委員会委員長などを歴任。 茨城県出身。1938年10月 高等試験行政科を合格。東北帝国大学法文学部卒業。1939年 大蔵省入省。預金部資金局監理部。1955年8月10日 理財局総務課長兼理財局国庫課長。同年9月1日 理財局総務課長。1956年7月20日 理財局総務課長兼理財局資金課長。同年10月22日 理財局総務課長。1957年6月 経済企画庁調整部参事官。同年8月 経済企画庁調整局参事官。1958年7月18日 東京税関長。1959年8月1日 銀行局検査部長。
早坂 寿雄(はやさか としお、1914年(大正3年)6月10… 早坂 寿雄(はやさか としお、1914年(大正3年)6月10日 - 2004年(平成16年)3月9日)は、日本の電気音響学者。 1914年6月10日生まれ。1937年3月、東北帝国大学工学部電気工学科卒業。同年4月、同学部助手。1941年3月、逓信省電気試験所技師。1945年7月、工学博士。1952年11月、日本電信電話公社電気通信研究所音響研究課長。1959年2月、同電気通信研究所次長。1963年4月、同理事・所長。1967年5月、沖電気工業常務取締役。1970年5月、同専務取締役。1984年11月、勲三等瑞宝章受章。 1956年5月から1958年5月まで、日本音響学会会長。
河部 利夫(かわべ としお、1914年〈大正3年〉5月27日… 河部 利夫(かわべ としお、1914年〈大正3年〉5月27日 - 2011年〈平成23年〉3月9日)は、日本の歴史学者。専門は東南アジア史。東京外国語大学名誉教授、東京国際大学名誉教授。文学博士。 群馬県高崎市に生まれる。旧制群馬県立前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)、旧制第二高等学校を経て、1938年(昭和13年)に東北帝国大学法文学部西洋史学科を卒業。 1939年(昭和14年)に東北大助手となり、1942年(昭和17年)よりタイへ留学。帰国後の1944年(昭和19年)に文部省民族研究所員となり、1945年(昭和20年)東京外事専門学校(1949年より東京外国語大学)教授に就任。1964年(昭和39年)にはアジア・アフリカ言語文化研究所教授を兼任。
葛西 清美(かさい きよみ、1914年(大正3年)4月10日… 葛西 清美(かさい きよみ、1914年(大正3年)4月10日 - 1995年(平成7年)2月20日)は、日本の銀行家、実業家。みちのく銀行頭取、青森朝日放送初代社長を務めた。 青森県出身。青森県立弘前中学校(現・青森県立弘前高等学校)、東北帝國大学法学部法律学科を卒業後、東北興業に入社。子会社等を担当する。 その後、持病を再発したこともあり、前夫人の祖父にあたる唐牛敏世のすすめで弘前無尽(弘前相互銀行の前身)に入社する。入社早々、いきなり支配人兼営業部長をまかせられ困惑したという。役員昇格後は、主に内部改革をまかせられ、コンピューターを業界に先駆けて導入するなどして、弘前相銀は、バイタリティあふれる相互銀行として急成長を果たした。
大久保 忠正(おおくぼ ただまさ、1914年3月17日 - … 大久保 忠正(おおくぼ ただまさ、1914年3月17日 - 2002年8月20日)は、日本の経営者。藤田観光社長を務めた。 東京都出身。1939年に東北帝国大学法文学部法律学科を卒業。日本興業銀行、神島化学工業での勤務を経て、1969年6月に同和鉱業に転じ、取締役にも就任し、1975年5月に常務を経て、1979年3月にに藤田観光副社長に就任し、、1981年3月には社長に昇格。1985年3月に会長に就任し、1990年11月に取締役相談役を経て、1991年3月から相談役を務めた。 2002年8月20日肺炎のために死去。88歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
吾郷 寅之進(あごう とらのしん、1914年3月12日 - … 吾郷 寅之進(あごう とらのしん、1914年3月12日 - 1983年6月28日)は、日本の国文学者。文学博士(東北大学・1976年)(学位論文「中世小歌と小歌集の成立に関する研究」)。奈良教育大学名誉教授。 島根県大田市生まれ。旧制福岡県立嘉穂中学校、旧制第五高等学校を経て、1938年に東京帝国大学文学部国文学科を卒業。1950年奈良学芸大学助教授、1959年教授、1966年校名変更で奈良教育大学教授、1976年「中世小歌と小歌集の成立に関する研究」で東北大学より文学博士の学位を取得。1979年奈良教育大学を定年退官、名誉教授、武庫川女子大学教授。同志社大学学長で国文学者の植木朝子は孫。
大久保 利春(おおくぼ としはる、1914年1月20日 - … 大久保 利春(おおくぼ としはる、1914年1月20日 - 1991年11月30日)は、日本の実業家。 1914年(大正3年)、大久保利賢(横浜正金銀行頭取、大久保利通八男)と和喜子(高橋是清次女)の長男として生まれた。大久保利通の孫、かつ、高橋是清の孫にあたる。妻は和子(事業家の坂内虎次の娘で、与謝野馨の叔母)。姉・百合子の夫は安田一(安田財閥当主)。 同姓同名の人物に、1946年設立の時計店・宝飾品店の経営者がいる。 1938年(昭和13年)東北帝国大学法科を卒業後、三和銀行に入行。 戦後の1949年(昭和24年)、日本海商事の代表取締役に就任し、朝鮮戦争のあいだ、児玉誉士夫設立の東京レアメタルの輸送部門を請け負っていた。
三浦 淳史(みうら あつし、1913年11月1日 - 199… 三浦 淳史(みうら あつし、1913年11月1日 - 1997年10月13日)は、日本の音楽評論家。秋田市生まれ。イギリス音楽の第一人者として知られた。 父は北海道帝国大学工学部で冶金学の教授を務めていた。札幌第二中学校(現札幌西高等学校)で伊福部昭、佐藤忠良らと知り合う。北大予科在学中の1934年、伊福部らと共に「新音楽連盟」を結成する。当時に映画『慕情』のモデルとなるイアン・モリソン(映画ではマーク・エリオット)に英語のてほどきを受ける。その後“落第”して東北帝国大学に転じる。1940年、同大学法文学部を卒業する。ここでは村岡典嗣による日本思想史の講義を受講したという。北大予科在学中から音楽誌『月刊楽譜』に「札幌楽信」等を寄稿、戦後音楽誌の復活に伴い、音楽ジャーナリズムで活躍するようになった。
木羽 敏泰(きば としやす、1913年11月1日 - 201… 木羽 敏泰(きば としやす、1913年11月1日 - 2017年2月20日)は、日本の化学者、教育者。 1913年(大正2年)大阪市に生まれる。大阪府立浪速高等学校を経て東北帝国大学に進学。1937年(昭和12年)同大理学部化学科卒業。1939年(昭和14年)金沢高等工業学校に勤務。1941年(昭和16年)名古屋帝国大学工学部助教授、1949年(昭和24年)金沢大学教授。金沢大学では理学部分析化学講座を担当した。1969年(昭和44年)同大学理学部長,1979年(昭和54年)同大を定年退職、金沢工業大学教授に就任。1984年(昭和59年)金沢工業大学学長。1988年(平成元年)任期満了により同学長を退職。
小秋元 隆輝(こあきもと たかてる、1913年9月14日 -… 小秋元 隆輝(こあきもと たかてる、1913年9月14日 - 2004年12月20日)は、日本光学工業(後のニコン)の技術者。電気露出計や光電素子を研究、カメラ用検査機器を開発して、高性能で安定した品質のニコン製品の供給を実現した。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
林 克己(はやし かつみ、1913年3月30日 - 没年不詳… 林 克己(はやし かつみ、1913年3月30日 - 没年不詳)は、日本の翻訳家、医学博士。東京生まれ。東北大学医学部卒。小児科医のかたわら英米のSF、ミステリ、ファンタジーの翻訳を行った。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
山形 敞一(やまがた しょういち、1913年2月27日 - … 山形 敞一(やまがた しょういち、1913年2月27日 - 1998年9月14日)は、日本の内科医。専門は、消化器病学(特に膵臓疾患)。東北大学名誉教授。1986年勲二等瑞宝章受章。 宮城県石巻市生まれ。石巻中学校(旧制)、第二高等学校(旧制)、東北帝国大学医学部卒業。1936年、内科学第三講座(教授山川章太郎、助教授黒川利雄)に入局。1957年に黒川利雄の後任として東北大学医学部第三内科講座教授、尚仁会第二代会長に就任。 宮城県対がん協会会長、日本癌治療学会総会会長、日本内科学会総会会頭、日本医史学会会長などを歴任。日本対がん協会賞、石巻市民功労賞などを受賞。アララギ派歌人としても著名で、多くの歌集があるほか、医学史特に仙台藩の医学史を研究した。
安藤 武伯(あんどう たけのり、1913年(大正2年) - … 安藤 武伯(あんどう たけのり、1913年(大正2年) - 2010年 <平成22年> 9月19日)は、日本の建築家。位階は正五位。 仙台高等工業学校(現・東北大学工学部)卒業後の1938年(昭和13年)から宮内省に奉職、内匠寮匠生に採用され、1939年(昭和14年)に宮内技手を拝命。その後招集、復員を経て、宮内庁に勤務した。 1956年(昭和31年)に宮内庁管理部工務課建築第一係に所属、1957年(昭和32年)からは宮殿造営調査室積算主任、そして係長となる。1963年(昭和38年)には臨時皇居造営部造営課の課長績佐、および総括課長補佐をつとめる。1969年(昭和44年)から管理部工務課に戻り課長補佐、および宮殿造営記録編集員として勤務、1973年(昭和48年)に工務隷長。
塩田 紀和(しおた のりかず、1913年〈大正2年〉 - 没… 塩田 紀和(しおた のりかず、1913年〈大正2年〉 - 没年不詳)は、日本の国語学者。1938年東北帝国大学文学部国文科卒、1941年東京帝国大学大学院修了、聖学院中学校教諭、府立武蔵高等女学校教諭、文部省国語課専門員、星美学園短期大学教授、東京キリスト教短期大学教授。
斎藤 錬一(さいとう れんいち、1913年 - 1983年1… 斎藤 錬一(さいとう れんいち、1913年 - 1983年10月31日)は、日本の気象学者。理学博士。 1913年、静岡県生まれ。旧制静岡県立静岡中学校、旧制静岡高等学校理科甲類、東北帝国大学理学部物理学科卒業。札幌気象台予報課長・観測課長、気象庁海上気象課長、気象庁統計課長、気象庁予報課長、福岡管区気象台長、気象庁観測部長、気象庁予報部長、気象大学校講師。(判明分) この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
佐々木 慶市(ささき けいいち、1912年12月20日 – … 佐々木 慶市(ささき けいいち、1912年12月20日 – 2002年 8月21日)は、日本の歴史家。 宮城県大崎市生まれ、1930年に第二高等学校に入学。柔道部の選手でもあった。3年生のときに日本史の本を読むようになり、特に三浦周行『国史上の社会問題』を読んだことが室町期の社会に興味を持つきっかけとなった。また、在学中に 武内義範らと歴史同好会の活動をし、そこで伊東信雄と知り合い、東北帝国大学への進学を勧められた。1933年に二高を卒業する。同年、東北帝国大学法文学部に入学。古田良一に師事するとともに、中村吉治の指導も受けた。また、伊木寿一から古文書学を学び、実習で飯野八幡宮文書の調査を行ったことが、のちの好嶋荘や岩城氏の研究につながった。
佐藤 儀一郎(さとう ぎいちろう、1912年11月5日 - … 佐藤 儀一郎(さとう ぎいちろう、1912年11月5日 - 1997年6月13日)は日本の柔道家(講道館9段)、政治家。 宮城県角田市坂津田出身。1928年に旧制東北中学校(現・東北高等学校)を卒業。病弱な体を克服するために柔道を始めて恩師・佐久間弥太郎より厳しい指導を受け、後には高橋喜三郎、高橋勇蔵らにも師事した。記録上の講道館入門は1930年12月8日付だが、関東・東北・北海道柔道大会では同年と翌31年に個人戦・団体戦とも連覇を達成。身長180cm・体重95kgの恵まれた体躯と、得意技である固技や横捨身技が武器であった。 1934年より5年間は仙台鉄道局に籍を置き、1940年より6年間は旧制第二高校(現・東北大学)の柔道師範を務めた。
飛島 斉(とびじま ひとし、1912年10月2日 - 200… 飛島 斉(とびじま ひとし、1912年10月2日 - 2006年4月11日 )は、日本の経営者。飛島建設社長、会長を務めた。 福井県出身。1937年に東北帝国大学工学部化学工学科を卒業し、同年に飛島組(のちの飛島建設)に入社した。1943年8月に社長に就任し、1985年6月に会長に就任。1991年6月に再び社長に就任し、1994年4月に相談役を経て、1998年6月には相談役に就任。 1974年11月に藍綬褒章を受章し、1983年11月に勲二等瑞宝章を受章。 2006年4月11日、急性心不全のために死去。93歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
中野 正(なかの ただし、1912年9月28日 - 1985… 中野 正(なかの ただし、1912年9月28日 - 1985年2月1日)は、日本の経済学者。法政大学名誉教授。 福岡県生まれ。東北帝国大学経済学部卒。1959年「価値形態論」で東北大学経済学博士。法政大学経済学部助教授、教授、経済学部長、1983年定年、名誉教授、長野経済短期大学学長。
佐藤 喜代治(さとう きよじ、1912年9月19日 - 20… 佐藤 喜代治(さとう きよじ、1912年9月19日 - 2003年5月7日)は、日本の国語学者。東北大学名誉教授。 宮城県宮城郡根白石村(現・仙台市泉区)に生まれる。 第二高等学校卒、1935年東北帝國大學法文学部国語学科卒業。山田孝雄に師事。1938年満洲・建国大学助教授、1942年神宮皇學館大學助教授、1948年東北大学法文学部助教授、1949年文学部助教授、1951年教授、1962年「日本文章史の研究」で文学博士の学位を取得、1964年から翌年ミシガン大学へ出張。1967年文学部長、1976年定年退官、名誉教授、聖和学園短期大学教授、1977年から1989年フェリス女学院大学客員教授。1984年勲二等旭日重光章叙勲。
北住 敏夫(きたずみ としお、1912年9月18日 - 19… 北住 敏夫(きたずみ としお、1912年9月18日 - 1988年5月26日)は、日本の国文学者、東北大学名誉教授。 三重県生まれ。東北帝国大学法文学部国文科卒。宮城県女子専門学校教授、東北大学助教授、55年「文芸に於ける写生説の研究」で東北大文学博士。59年教授。76年定年退官、山形女子短期大学教授。75年「写生説の研究」「写生派歌人の研究」などで学士院賞受賞。岡崎義恵、阿部次郎らに学び、「万葉集」から長塚節まで研究。 この項目は、文学に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJライトノベル)。 項目が小説家・作家の場合には {{Writer-stub}} を、文学作品以外の本・雑誌の場合には {{Book-stub}} を貼り付けてください。
鹿間 時夫(しかま ときお、1912年6月6日 - 1978… 鹿間 時夫(しかま ときお、1912年6月6日 - 1978年12月12日)は、日本の古生物学者。 1912年、京都府で生まれた。旧制成蹊高等学校を経て、東北帝国大学理学部に進学。1931年から1939年にかけて、栃木県葛生町周辺に広く分布する古生代石灰岩の割れ目にたまった第四紀の堆積物の中から発見された化石を調査。東北帝国大学理学部を卒業。 1942年、満洲国の新京工業大学教授に就任。 戦後は1947年から3年間、長野県飯田高松高校教諭として勤務。このとき直接の影響を受けた卒業生には長谷川善和、鎮西清高、加賀美英雄(海洋地質学)、山田哲雄(岩石学)、松島信幸(日本地質学会名誉会員)がいる。ほか、本多勝一(ジャーナリスト)や富永明夫(仏文学者)、近藤信道(画家)もその時期の教え子であった。
高田 富之(たかだ とみゆき、1912年3月26日 - 19… 高田 富之(たかだ とみゆき、1912年3月26日 - 1999年10月14日)は、日本の政治家。位階は従三位。 衆議院議員(10期)。埼玉県深谷市出身。 実業家・高田良平の長男として生まれる。旧制松江高等学校を経て1937年に東北帝国大学法文学部を卒業後、宇野弘蔵の元で東北大学法文学部経済学教室副手となる。 繊維需給調整協議会調査課長・全国商工経済会企画部主事・日農県連会長・全国連書記長を歴任。 人民戦線事件で宇野と共に逮捕されるが起訴猶予となる。 戦後、日本共産党に入党し、1949年の第24回衆議院議員総選挙で埼玉3区で当選する。しかし、1951年に共産党が51年綱領を出して武装闘争に舵を切り、翌年の第25回衆議院議員総選挙ではそのあおりで落選(共産党の全議員が落選した)。
椿原 健督(つばはら けんすけ、1912年3月26日 - 1… 椿原 健督(つばはら けんすけ、1912年3月26日 - 1986年12月29日)は、日本の経営者。北海道ガス社長を務めた。福岡県柳川市出身。 1939年に東北帝国大学工学部応用学科を卒業し、同年に東京ガスに入社。後に北海道ガスに転じ、1974年12月から1976年6月まで社長を務めた。 1986年12月29日心不全のため死去した。74歳没。
石原 俊(いしはら たかし、1912年 <明治45年> 3月… 石原 俊(いしはら たかし、1912年 <明治45年> 3月3日 - 2003年 <平成15年> 12月31日)は、日本の実業家である。日産自動車社長、日本自動車工業会会長、経済同友会代表幹事として、日本の自動車産業や財界活動に大きな影響を与えた。位階は正三位。 東京の府立四中を経て、旧制浦和高校入学。浦和高時代に学生ストライキを煽ったとして停学処分を受け、2年遅れで東北帝国大学法文学部法科入学。1937年(昭和12年)に東北帝大法科卒業後、日産自動車に入社。経理・財務関係に勤め、その後専務や副社長として長く川又克二社長を支えた。 1954年(昭和29年)、42歳の時に取締役に就任し、将来の「日産の社長候補」と目された。
日景 一郎(ひかげ いちろう、1911年12月25日 - 没… 日景 一郎(ひかげ いちろう、1911年12月25日 - 没年不明)は、日本の経営者。高砂熱学工業社長を務めた。 東京都出身。1936年に東北帝国大学工学部機械工学科を卒業し、同年に高砂熱学工業に入社。1955年に取締役に就任し、1963年に常務、1967年に専務を経て、1975年に副社長に就任し、1976年8月には社長に昇格。1986年4月に会長を経て、1989年6月から相談役を務めた。
加藤 陸奥雄(かとう むつお、1911年12月2日 - 19… 加藤 陸奥雄(かとう むつお、1911年12月2日 - 1997年3月8日)は日本の生物学者。位階は正三位。 宮城県仙台市生まれ。専門は昆虫生態学。 兄に化学者の加藤多喜雄(仙台名誉市民)、地球物理学者の加藤愛雄、弟に地質学者の加藤磐雄がいる。大甥(甥の息子)に数学者の加藤文元。 指導学生に松田達郎などがいる。
李 太熙(イ・テヒ、朝鮮語: 이태희、1911年11月8日-… 李 太熙(イ・テヒ、朝鮮語: 이태희、1911年11月8日- 1999年10月27日)は、大韓民国の検察官、弁護士。第8代検察総長。日本名は三江 達夫。 平安南道江東郡出身。平壌高等普通学校を経て、1934年佐賀高等学校文科甲類卒業。1937年東北帝国大学法文学部法科卒業。高等文官試験司法科に合格し、1960年に許政内閣で検察総長に任命されたが、5・16軍事クーデター後、弁護士に転じた。日本名は三江達夫。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
佐々木 洋興(ささき ひろおき、1911年10月22日 - … 佐々木 洋興(ささき ひろおき、1911年10月22日 - 2008年6月19日 )は、日本の有機化学者。民間財団法人経営者。理学博士。 1911年(明治44年)、佐々木隆興の長男として、東京に生まれた。東京高等学校修了後、東北帝国大学理学部化学科で学び、卒業。 卒業後は同大学副手に採用された。1945年、財団法人佐々木研究所研究員となり、理事を兼ねた。1958年、学位論文『グリシンから出発するアミノ酸の生成およびその関連反応について』を東北大学に提出して理学博士号を取得。1965年、慶應義塾大学教授に就任。1966年、父の佐々木隆興の後を受けて(財)佐々木研究所第2代理事長に就任。以後35年間理事長職にあったが、2001年に(財)佐々木研究所名誉理事長・特別顧問に引いた。
平 重道(たいら しげみち、1911年10月18日 - 19… 平 重道(たいら しげみち、1911年10月18日 - 1993年7月2日)は、日本の歴史学者、東北大学名誉教授。 仙台市生まれ。1934年に東北帝国大学法文学部国史学科に入学し、村岡典嗣の指導を得て、1937年卒業。卒業論文は「承久の乱の史論と解釈」。1968年「吉川神道の基礎的研究」で東北大学より文学博士の学位を取得。東北大学教養部助教授、教授、宮城教育大学教授。仙台の歴史などを研究した。1986年11月、勲三等旭日中綬章受章。
村岡晢(むらおか あきら/せき、1911年9月6日 - 19… 村岡晢(むらおか あきら/せき、1911年9月6日 - 1996年5月7日)は、日本の西洋史学者。早稲田大学名誉教授。ドイツ近代史。 1911年、村岡典嗣の長男として東京に生まれる。東北帝国大学文学部で学ぶ。1956年に「ランケ研究序説」を東京大学に提出して文学博士号を取得。山形大学助教授、早稲田大学教育学部教授。1981年に定年退官し、名誉教授となった。
結城 陸郎(ゆうき りくろう、1911年 <明治44年> 9… 結城 陸郎(ゆうき りくろう、1911年 <明治44年> 9月 - 1999年 <平成11年> 3月23日)は、日本の教育史学者。位階は従四位。 石川県宇出津生まれ。1940年、東北帝国大学法文学部国史学科を卒業。教師を経て、1944年、東京第三師範学校助教授、翌年教授となる。1949年6月からは東京学芸大学助教授。1965年4月に名古屋大学教授となり、1975年に定年退官、名誉教授。同年、皇學館大學教授となり、1982年3月まで務める。1960年に「金沢文庫の教育史的研究」により、日本大学から文学博士の学位を授与される。1999年死去。死没日付をもって従四位に叙された。
角谷 静夫(かくたに しずお、1911年(明治44年)8月2… 角谷 静夫(かくたに しずお、1911年(明治44年)8月28日 - 2004年(平成16年)8月17日 )は、日本の数学者。イェール大学名誉教授。娘は日系アメリカ人文芸批評家のミチコ・カクタニ(角谷美智子)。関数解析や確率論の研究で著名。 大阪市生まれ。旧制甲南高等学校文科を経て、1934年東北帝国大学理学部数学科卒業。大阪帝国大学助教授、1940年、アメリカのプリンストン高等研究所に留学。太平洋戦争中も同研究所で研究を続けるが、1942年に母親の意志を受けて帰国。1948年、再びプリンストン高等研究所に戻る。1949年イェール大学准教授、1952年同教授。1982年、定年退職。 コネティカット州ニューヘブンにて死去。
祇園寺 信彦(ぎおんじ のぶひこ、1911年8月27日 - … 祇園寺 信彦(ぎおんじ のぶひこ、1911年8月27日 - 1998年11月23日)は日本の西洋史学者。 宮城県大崎市古川(旧・古川市)生まれ。宮城県古川中学校(現:宮城県古川高等学校)卒業、第二高等学校(独法)卒業、東北帝国大学法文学部西洋史学科卒業。1962年「古ローマの社会と政治」で東北大学文学博士。東北大学文学部助教授、教授。1975年定年退官、名誉教授、東京国際大学教授。 専門は西洋古代史で、主としたのは、古代ローマにおける政治権力のあり方とその歴史的変遷、さらにその過程において個人が織り成した役割の問題の解明であった。研究は大類伸、原随園の学問的伝統を継承しつつ、マックス・ヴェーバーの歴史学方法論をよりどころとし、西洋古代史の研究と後進の指導に当たり、古代ローマ史研究において開拓者的な役割を果たした。
澤柳 大五郎(沢柳 大五郎、さわやなぎ だいごろう、1911… 澤柳 大五郎(沢柳 大五郎、さわやなぎ だいごろう、1911年8月23日 - 1995年11月3日)は、日本の美術史家。東京教育大学名誉教授。 東京生まれ。父は明治・大正期の教育官僚、教育者の澤柳政太郎。 西洋美術研究を開拓した児島喜久雄(東北帝国大学・東京帝国大学教授)の弟子の一人で後継者。 木下杢太郎(太田正雄)の研究・著作画集の編集を行った。新書などを除き歴史的仮名遣いで著訳書を刊行した。 弟子・同僚らによる『アガルマ 澤柳先生古稀記念美術史論文集』(同編集委員会編、同朋舎出版、1982年)がある。 (古田光、藤田健治、木田献一、屋形禎亮、澤柳大五郎、廣川洋一、中野幸次、秀村欣二、兼岩正夫、清水富雄、裾分一弘、下村寅太郎、西沢龍生、永井博による共編著) (澤柳大五郎、関根正雄、村治能就、浅野順一、中野幸次、秀村欣二、兼岩正夫、清水富雄、渡辺金一、下村寅太郎、西沢龍生、藤田健治、永井博による共編著)
渥美 かをる(あつみ かおる、1911年(明治44年)7月2… 渥美 かをる(あつみ かおる、1911年(明治44年)7月20日 - 1977年(昭和52年)12月10日)は、愛知県出身の国文学者。『平家物語』の研究で知られる。 夫は名古屋市で区長や教育長を務めた渥美善三、娘に実業家・著述家の渥美育子がいる。 以後、愛知県立女子短期大学教授、愛知県立女子大学教授、愛知県立大学教授を歴任
羽田野 伯猷(はたの はくゆう、1911年7月13日 - 1… 羽田野 伯猷(はたの はくゆう、1911年7月13日 - 1985年1月9日)は、日本の仏教史学者。東北大学名誉教授。日本学士院賞受賞。 愛知県三河国出身。1933年第四高等学校卒業。1936年東北帝国大学法文学部卒業、文学士。1939年大日本帝国陸軍歩兵少尉。1941年大日本帝国陸軍中尉。大日本帝国陸軍大尉として満州で従軍したのち、1944年東北帝国大学着任。1951年東北大学助教授。1955年日本学士院賞受賞。1959年から東北大学教授を務め印度学第二講座を担当した。1960年東北大学文学博士。1975年退官。勲三等旭日中綬章。指導学生に磯田熙文東北大学名誉教授など。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
上法 快男(じょうほう よしお、1911年〈明治44年〉5月… 上法 快男(じょうほう よしお、1911年〈明治44年〉5月29日 - 2001年 )は、日本の陸軍軍人、実業家。陸軍主計将校として勤務。戦後は出版業界に入り、芙蓉書房社長や会長を務めた。 秋田県士族、上法眞廣(従五位勲三等陸軍主計中佐)次男。 弟は上法眞男(1945年1月、海上挺進第9戦隊長としてフィリピン ルソン島にて戦死、陸軍少佐)、上法達男(陸軍大尉)。 仙台一中・二高を経て東北帝国大学法文学部独法学科を卒業し、陸軍に入る。 主計将校として近衛歩兵第3連隊、歩兵第59連隊、第2師団、関東軍司令部、戦車第3師団、陸軍燃料本部総務部等で勤務し、階級は陸軍主計少佐に昇る。 1945年8月15日、陸軍省人事局附となり、人事局補任課にて復員軍人の職業輔導業務に従事。
戸頃 重基(ところ しげもと、1911年5月14日 - 19… 戸頃 重基(ところ しげもと、1911年5月14日 - 1977年3月1日)は、日本の倫理学者。日蓮宗の仏教学者。 東京生まれ。1935年立正大学文学部宗教学科卒業。1939年同大学院修了。1944年東北帝国大学法文学部哲学科修了。金沢大学法文学部助教授、教授。文学博士。
松永 藤雄(まつなが ふじお、1911年〈明治44年〉5月1… 松永 藤雄(まつなが ふじお、1911年〈明治44年〉5月12日 - 1997年〈平成9年〉10月11日)は、日本の内科医。専門は、消化器病学(特に、大腸疾患)。弘前大学名誉教授。勲二等瑞宝章、従三位。医学博士。 群馬県利根郡沼田町(現・沼田市)上久屋町に生まれる。旧制沼田中学校(現・群馬県立沼田高等学校)、第二高等学校を経て東北帝国大学医学部卒業。1936年、同医学部内科教室(教授山川章太郎、助教授黒川利雄)に入局。 1942年医学博士。1948年、弘前医科大学教授(1952年、弘前大学に改称)。1959年から1963年まで同大学附属病院長。1972年から1975年まで同大学医学部長。1975年、同大学退官後、都立駒込病院院長に就任、1984年より同病院名誉院長。
近藤 いね子(こんどう いねこ、1911年4月25日 - 2… 近藤 いね子(こんどう いねこ、1911年4月25日 - 2008年11月13日)は、日本の英文学者。津田塾大学名誉教授。旧姓は佐藤 いね子。 神奈川県中郡秦野町(現:秦野市曽屋)出身。父親は第2代秦野町長を務めた佐藤政吉。1944年に近藤正夫(物理学者、学習院大学教授)と結婚し、1950年に一女をもうける。 1924年、東京女子高等師範学校附属高等女学校入学。1929年、女子英字塾本科入学。1932年東北帝国大学英文科に入学し、1935年卒業、文学士。1937年ケンブリッジ大学大学院に入学し、1939年に修了、Master of Letters。帰国後の1941年夏目漱石『こゝろ』を英訳、翌42年にその功績により、第11回岡倉賞を受賞。
黒田 了一(くろだ りょういち、1911年〈明治44年〉3月… 黒田 了一(くろだ りょういち、1911年〈明治44年〉3月16日 - 2003年〈平成15年〉7月24日)は、日本の法学者(憲法)・政治家・弁護士。大阪府知事(2期)。憲法改悪阻止各界連絡会議代表委員。 大阪市北区大淀町生まれ。旧制北野中・旧制三高から東北帝国大学法学部法律学科を卒業後、東北帝国大学法学部助手を経て満洲国高等鉄路警護学校教官などを歴任。終戦後5年間シベリア抑留を経験し、1950年(昭和25年)に帰国。大阪市立大学法学部助教授に就任し、憲法学を担当した。1956年に教授に昇任し学生部長・法学部長を歴任、日本学術会議「学問・思想の自由」委員会委員長・日本科学者会議全国参与・大阪護憲連合代表委員なども務めた。
小高根 二郎(おだかね じろう、1911年3月10日 - 1… 小高根 二郎(おだかね じろう、1911年3月10日 - 1990年4月14日)は、日本の詩人、作家。 東京出身。東北帝国大学卒。会社勤務のかたわら、保田與重郎らの『コギト』同人となり、伊東静雄と親しかった。1938年1月、上京し、病臥中の立原道造に古いマリア観音を贈った。詩集を刊行。戦後は1956年、同人誌『果樹園』を創刊し主宰、伝記、企業小説などを書いた。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
長谷川 松治(はせがわ まつじ、1911年3月4日 - 19… 長谷川 松治(はせがわ まつじ、1911年3月4日 - 1998年1月28日)は、日本の言語学者、英語学者、翻訳家。 翻訳に多くの業績があり、1948年(昭和23年)ルース・ベネディクトの『菊と刀』の翻訳に携わった。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。