松山 義雄(まつやま よしお、1903年(明治36年)3月3… 松山 義雄(まつやま よしお、1903年(明治36年)3月31日 - 1958年(昭和33年)10月25日)は、日本の政治家、弁護士。衆議院議員、埼玉県副知事。正五位勲三等に叙せられた。 長崎県諌早市出身。中央大学法学部卒業。 1936年、弁護士登録。1938年、東京弁護士会常議員に就任。1941年、日本弁護士会理事に就任。 その後は中央政界への進出をもくろみ、1946年4月の第22回衆議院議員総選挙に進歩党公認で立候補したが落選。1947年4月の第23回衆議院議員総選挙では民主党公認で埼玉2区から立候補したが落選。1949年1月の第24回衆議院議員総選挙でも落選した。同年、埼玉県知事大沢雄一の要請により、埼玉県副知事に就任。
細田 義安(ほそだ ぎあん、1903年(明治36年)3月14… 細田 義安(ほそだ ぎあん、1903年(明治36年)3月14日 - 1962年(昭和37年)9月28日)は、東京都出身の都職員、政治家(衆議院議員)、弁護士。 小平市小川町出身。中央大学卒業後、東京都庁に入り、総務、主税の各局長を経て、第28回衆議院議員総選挙に旧東京7区で自由民主党より立候補し当選した。東京都職員時代は都知事であった安井誠一郎と近かった。自民党内では、佐藤派に属した。佐藤派の同期は、後に総理大臣になる竹下登と金丸事件で有名な金丸信のみである。第29回総選挙において再選された。 しかし、任期途中の1962年(昭和37年)9月28日、東京都立大久保病院で死去した。59歳没。翌29日、特旨を以て位五級を追陞され、死没日付で正七位から従四位勲三等に叙され、瑞宝章を追贈された。
中川 俊思(ながかわ しゅんじ、1903年(明治36年)1月… 中川 俊思(ながかわ しゅんじ、1903年(明治36年)1月20日 - 1973年(昭和48年)11月30日)は、日本の政治家。位階は従三位。 衆議院議員(8期)を務めた。娘婿は衆議院議員を務めた中川秀直、孫は衆議院議員を務めた中川俊直。 広島県賀茂郡荘野村(現竹原市)出身。堀川市助の三男に生まれ、禎助の養子となる。 1923年(大正12年)中央大学法学部中退。中国新聞や國民新聞の記者を経て1949年の第24回衆議院議員総選挙に吉田茂率いる民主自由党公認で広島2区から立候補し初当選、通算8回当選(当選同期に池田勇人・佐藤栄作・岡崎勝男・前尾繁三郎・橋本龍伍・麻生太賀吉・小渕光平・西村英一・橋本登美三郎・福永健司・塚原俊郎・藤枝泉介・木村俊夫・稲葉修・河本敏夫・森山欽司・床次徳二・有田喜一など)。
南雲 正朔(なぐも せいさく、旧姓・鳥山、1903年(明治3… 南雲 正朔(なぐも せいさく、旧姓・鳥山、1903年(明治36年)1月1日 - 1954年(昭和29年)4月7日)は、日本の弁護士、政治家。立憲民政党所属の衆議院議員で大東亜参与官を務めた。 群馬県勢多郡横野村(現在の渋川市)に生まれる。鳥山源吉の二男。後に南雲貞三の養子となった。1926年(大正15年)に高等試験司法科に合格し、翌年に同行政科に合格した。1928年(昭和3年)に中央大学法学部を卒業し、弁護士を開業した。 1936年(昭和11年)、民政党公認で第19回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。その後3回連続当選を果たした。その間、鈴木貫太郎内閣で大東亜参与官を務めた。 戦後、公職追放となり、追放解除後の1952年の第25回衆議院議員総選挙に改進党から立候補したが、落選した。
大沢 雄一(おおさわ ゆういち、1902年(明治35年)12… 大沢 雄一(おおさわ ゆういち、1902年(明治35年)12月13日 - 1984年(昭和59年)7月23日)は、日本の政治家。埼玉県知事(公選第2、3代)、参議院議員(1期)、衆議院議員(1期)、内務官僚。 1902年、埼玉県北葛飾郡三輪野江村(現吉川市)に生まれる。 野口英世のような存在を目指して医師を志し、父も村で開業医になることを望んでいた。だが旧制新潟高等学校入学後に結核にかかり、5年の療養後に今度は弁護士を目指して中央大学専門部法学科に入学。 1929年大学卒業後は内務省に入り、佐賀県赴任を経て中国開封領事として終戦を迎え、引き揚げ。 埼玉に戻ると県教育部長や総務部長になった後の1949年、埼玉県知事に当選。
三和 精一(みわ せいいち、1902年(明治35年)8月10… 三和 精一(みわ せいいち、1902年(明治35年)8月10日 - 1964年(昭和39年)6月14日)は、昭和期の新聞編集者、実業家、政治家。衆議院議員。 青森県北津軽郡相内村(市浦村を経て現五所川原市)で、三和松三郎、ユキの三男(5人兄弟の末子)として生まれる。生家は「相清」と呼ばれた旧家で、幼少時は西津軽郡十三村で水戸口役人を務めていた祖父のもとで成長し薫陶を受けた。1914年(大正3年)3月、金木明治高等小学校を卒業し、朝鮮在住のリンゴ業者の伯父のもとに寄寓した。開成夜学校を経て、中央大学専門部法科で学んだが1923年(大正12年)9月に中退した。 1927年(昭和2年)4月、東京民友新聞社に入社。
伊藤 五郎(いとう ごろう、1902年〈明治35年〉2月28… 伊藤 五郎(いとう ごろう、1902年〈明治35年〉2月28日 - 1992年〈平成4年〉6月4日)は、日本の弁護士、政治家。参議院議員(2期)、衆議院議員(3期)。 山形県北村山郡常盤村(尾花沢町を経て現尾花沢市)出身。1928年中央大学法学部卒。弁護士となり、1936年横浜弁護士会副会長に就任。翌1937年の第20回衆議院議員総選挙で山形2区(当時)から立憲民政党公認で立候補して当選する。次の1942年の第21回衆議院議員総選挙(いわゆる翼賛選挙)では翼賛政治体制協議会の推薦を受けて当選した。大麻唯男国務大臣秘書官、鈴木貫太郎内閣文部参与官を歴任。戦後、推薦議員のため公職追放となる。追放解除後の1952年の第25回衆議院議員総選挙で山形2区から改進党公認で立候補して以降落選続きで(1955年の保守合同以後は自由民主党)、1960年の第29回衆議院議員総選挙で再選された。
陳 憲植(チン・ホンシク、朝鮮語: 진헌식、1902年2月9… 陳 憲植(チン・ホンシク、朝鮮語: 진헌식、1902年2月9日 - 1980年9月19日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の教員、実業家、政治家。制憲韓国国会議員、第2代忠清南道知事、第10代内務部長官を歴任した。本貫は驪陽陳氏。 忠清南道燕岐郡(現・世宗特別自治市)出身。養正高等普通学校を経て、1929年中央大学法学部卒。同年から普成専門学校講師・法科教授、1933年から養正高等普通学校教諭、朝鮮鉱業株式会社常務取締役、東林機械株式会社取締役、大韓民国臨時政府内務部政治工作隊秘書長、大韓独立促成国民会中央本部調査部長・文教部長・情報部長・青年部長・組織部長・総務部長、亜洲土建株式会社・東成商業株式会社顧問、韓国民族外交後援会外交部長、京畿道成人教育協会理事、財団法人国民大学理事、韓国民族代表者大会ソウル市代議員、制憲国会議員、第2代忠清南道知事(1951年12月17日~1952年8月29日)、第10代内務部長官(1952年8月29日~1953年9月19日)、養友実業倶楽部理事長、忠南大学校総長、東一工業会長、制憲同志会副会長を務めた。
春日井 秀雄(かすがい ひでお、1902年1月27日 - 1… 春日井 秀雄(かすがい ひでお、1902年1月27日 - 1986年1月11日)は日本の政治家。荒川区議(2期)、東京市議(2期)、東京都議(8期)、第22代都議会議長を歴任した。 1902年1月27日、岐阜県に生まれる。1934年に中央大学法学部を卒業。1936年から荒川区会議員を2期11年務める。また、1939年3月14日から1943年6月30日まで東京市会議員を務めた。1949年3月2日の東京都議会議員補欠選挙で荒川区選挙区より立候補して、初当選する。都議会では、決算委員会委員長(1951年から1952年)、東京都議会改進党政調会長(1953年から1954年)、東京都議会改進党幹事長(1954年)、日本民主党都議団幹事長(1954年から1955年)、都議会自民党幹事長(1958年から1959年)、財務主税委員会委員長(1962年から1963年)、都議会自民党幹事長(再任・1965年から1966年)を歴任した。
金 鏞化(キム・ヨンファ、朝鮮語: 김용화、1902年1月2… 金 鏞化(キム・ヨンファ、朝鮮語: 김용화、1902年1月23日 - 1970年)は、中華民国、満洲国および大韓民国の教授、政治家。制憲・第2代韓国国会議員。 本貫は全州金氏。字は星光、号は竹山。父は旧韓末の正3品議官を務めた金精気。 咸鏡南道興南市生まれ、忠清南道天安郡出身。中央大学法学部、日本大学政治学部卒。北京大学政治科修了。北京基青付専・新京外国語専門学校教授を務めた。帰国後は1939年より天安で果樹園農場を経営し、そのまま解放を迎えた。その後は文化大学副理事長、大韓雄弁会中央委員、大韓国民党天安郡党委員長を歴任した。1948年の初代総選挙では天安郡選挙区に金を含めて10人が立候補したため、激戦で落選した。
仲内 憲治(なかうち けんじ、1902年(明治35年)1月1… 仲内 憲治(なかうち けんじ、1902年(明治35年)1月12日 - 1971年(昭和46年)2月10日)は、昭和期の外交官、教育者、政治家。位階は従三位。 衆議院議員(2期)。在アフガニスタン日本大使を務めた。 千葉県海上郡、後の銚子市で生まれる。1919年(大正8年)銚子商業学校(現千葉県立銚子商業高等学校)を卒業。中央大学専門部法科で学ぶ。三井物産を経て、1922年(大正11年)外務省に入省し外務書記生に任官。1929年(昭和4年)10月、第38回高等試験外交科試験に合格。1930年(昭和5年)6月、アメリカ合衆国に派遣されクラーク大学で学ぶ。以後、外務属、外交官補、領事官補、外務事務官、領事、駐タイ国一等書記官、外務書記官、終戦連絡中央事務局連絡官などを歴任し、外務省政務局第四課長で退官した。
牧野 寛索(まきの かんさく、1902年1月6日 - 196… 牧野 寛索(まきの かんさく、1902年1月6日 - 1963年9月22日)は、日本の政治家。衆議院議員(4期)。弁護士。 山形県西村山郡溝延村(現:河北町)生まれ。村山農学校を経て、上京し、中央大学に入る。在学中に高等試験司法科試験に合格し、1931年同大学を卒業する。卒業後は弁護士として活動し、中央大学講師となる。 1942年の翼賛選挙では郷里の山形1区(当時)から非推薦で立候補したが落選した。 戦後の1946年の第22回衆議院議員総選挙で山形県(全県1区)から日本自由党公認で立候補して初当選。翌1947年の第23回衆議院議員総選挙で旧山形1区から立候補したが落選。1949年の第24回衆議院議員総選挙では民主自由党公認で立候補して再選。
鄭 海駿(チョン・ヘジュン、朝鮮語: 정해준、1902年また… 鄭 海駿(チョン・ヘジュン、朝鮮語: 정해준、1902年または1903年12月17日 - 1993年5月4日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の独立運動家、ジャーナリスト、政治家、画家。制憲韓国国会議員。 本貫は河東鄭氏(朝鮮語版)。号は元斉または元斎。 全羅北道(現・忠清南道)錦山郡出身。錦山公立普通学校、錦山簡易公立農業学校、京城普成高等普通学校、早稲田大学政経科、東京文学院(現・中央大学)または東京大学大学院卒。第3次共産党事件により1年6ヶ月間服役し、1931年に治安維持法違反により8ヶ月間服役した。朝鮮日報社学芸部長、忠南モダス会社支配人、大韓独立促成国民会文芸部長・組織部長・文教部長・全国大会議長、民族代表外交後援会宣伝部次長、民族統一総本部事務局員、独立戦取決起大会宣伝部長、工業新聞編集顧問、制憲国会財政経済委員長・交通逓信委員長、韓米経済協定韓国側代表、韓国重石顧問を務めた。
保利 茂(ほり しげる、1901年〈明治34年〉12月20日… 保利 茂(ほり しげる、1901年〈明治34年〉12月20日 - 1979年〈昭和54年〉3月4日)は、日本の政治家、元ジャーナリスト。位階は従二位。 衆議院議員(12期)、内閣官房長官(第8代・第33・34代)、衆議院議長(第59代)、労働大臣(第45・46代)、農林大臣(第19代)、自由民主党幹事長(第12代)、自由民主党総務会長(第7代)などを歴任した。 佐賀県東松浦郡鬼塚村(現・唐津市)の零細農家に生まれる。生家は貧しく、父親は車夫、母親や兄弟姉妹は野良仕事や養蚕、行商などで生計を立てていた。保利は家の仕事を手伝いながら小学校に通った。高等小学校を優等の成績で卒業したが、経済的な理由で中学への進学はかなわず、地元の唐津鉄工所の見習工になった。
大久保 傳藏(おおくぼ でんぞう、1901年12月4日 - … 大久保 傳藏(おおくぼ でんぞう、1901年12月4日 - 1986年9月11日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。山形市長(第13代、3期)。山形市名誉市民。勲四等旭日小綬章、紺綬褒章を受章。位階は従五位。 山形県山形市出身。1928年中央大学法学部卒。東洋モスリンに入り、東洋紡績労務課長を経て、1942年の第21回衆議院議員総選挙(いわゆる「翼賛選挙」)では山形1区(当時)から翼賛政治体制協議会の推薦を受けずに立候補したため落選した。その後、恩賜財団戦災援護会啓発課長となる。 1946年の第22回衆議院議員総選挙において山形県から日本進歩党公認で立候補して当選する。進歩党内では遊説部長となったが、翌年、公職追放となった。
金 相舜(キム・サンスン、朝鮮語: 김상순、1901年10月… 金 相舜(キム・サンスン、朝鮮語: 김상순、1901年10月10日 - 没年不詳)は、大韓民国の政治家。制憲韓国国会議員。 全羅南道長城郡北二面出身。中東学校高等科、中央大学専門部・経済学科卒。中央大学在学中に在日湖南留学生会代表を務めた。帰国後は合資会社三養社に入社し、大韓独立促成国民会宣伝部、韓国民主党、大同青年団、民族青年団で活動したほか、長城中学校理事長、制憲国会議員を務めた。 1979年5月29日付の東亜日報に掲載されたコラムによれば、すでに故人とされている。
寺本 斎(齋、てらもと いつき、1901年(明治34年)8月… 寺本 斎(齋、てらもと いつき、1901年(明治34年)8月9日 - 1981年(昭和56年)6月2日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員。 熊本県出身。1937年(昭和12年)中央大学専門部法律科を卒業した。 熊本県属、台湾総督府属、中央食糧営団主事、逓信省事務官兼国務大臣秘書官、中央食糧営団総務部文書課長、全国食糧営団連合会庶務課長などを歴任した。 1947年(昭和22年)4月の第23回衆議院議員総選挙に熊本県第1区から民主党所属で出馬して当選。第24回総選挙でも当選し、自由党に所属して衆議院議員を連続2期務めた。この間、第3次吉田内閣・郵政政務次官、民主党政調会労働委員長、党会計監督などを務めた。
原 国(國、はら くに、1901年(明治34年)2月10日 … 原 国(國、はら くに、1901年(明治34年)2月10日 - 1982年(昭和57年)11月24日)は、大正から昭和期の歯科医師、政治家。衆議院議員。 鹿児島県薩摩郡山崎村二渡(山崎町、宮之城町を経て現さつま町)で生まれる。1922年(大正11年)日本歯科医学校(現日本歯科大学)を卒業し、1924年(大正13年)中央大学専門部法律科を卒業した。 東京で歯科医師を開業。東京都大森区会議員を務めた。 日本農本党組織代表となり、1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙で鹿児島県全県区から出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。この間、日本国有鉄道宮之城線各駅の新設、川内川治水の推進などに尽力した。
中田 政美(なかた まさみ、1901年(明治34年)1月20… 中田 政美(なかた まさみ、1901年(明治34年)1月20日 - 1976年(昭和51年)7月15日)は、大正から昭和期の官僚、政治家。位階は従三位。衆議院議員(1期)、建設事務次官。 鳥取県出身。自作農・中田亀太郎の長男として生まれる。1915年(大正4年)安井尋常高等小学校高等科を卒業。同年4月、日下部村役場戸籍係となる。1920年(大正9年)4月、鳥取県八頭郡書記となり、1921年(大正10年)普通文官試験に合格。1922年(大正11年)6月、徴兵され輜重兵第16連隊に入隊し、同年8月に満期除隊となる。同年9月、簡易保険局書記補に転じ、1923年(大正12年)5月、同書記に任官。同年6月、高文予備試験七条試験に合格。
山崎 岩男(やまざき いわお、1901年1月9日 - 196… 山崎 岩男(やまざき いわお、1901年1月9日 - 1964年11月23日)は日本の政治家。衆議院議員や青森県知事を務めた。 1901年、北海道久遠村(現せたな町大成区)に青森県出身の漁師の末子として生まれる。実家は貧しく、父は本籍地を捨てて出奔した状態だったので戸籍上は母の私生児扱いであった。1915年、父の郷里である八戸市に移住。八戸中学(現青森県立八戸高等学校)に入学するもストライキ騒動の責任者とされて退学処分を受ける。その後は中央大学の予科に進学。箱根駅伝の走者として活躍し、第2回から第7回まで出場した。在学中に結婚し、長男の竜男が生まれている。 中央大学法学部卒業後、青森県立青森商業高等学校の英語兼民法の教師となるが、大学の先輩である梅村大の衆議院議員立候補を応援するために退職。
後藤 義隆(ごとう よしたか、 1900年9月20日 - 1… 後藤 義隆(ごとう よしたか、 1900年9月20日 - 1986年1月2日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員(1期)。参議院議員(3期)。弁護士。大豊殖産無尽(現豊和銀行)社長。 大分県宇佐郡安心院村(現宇佐市)出身。1922年中央大学専門部卒。大分市で弁護士を開業する。その後大分弁護士会会長、大分市議、同副議長、大分県議を経て、戦後、公職追放となる。 1949年に看做無尽として設立された大豊殖産無尽(現:豊和銀行)を設立し、同社の初代社長を務めた。 追放解除後の1952年の第25回衆議院議員総選挙に大分1区から改進党公認で立候補して当選。翌1953年の第26回衆議院議員総選挙で落選した。
小玉 治行(こだま はるゆき、1900年(明治33年)9月1… 小玉 治行(こだま はるゆき、1900年(明治33年)9月12日 - 1972年(昭和47年)5月8日)は、大正末から昭和期の裁判官、弁護士、政治家。衆議院議員。 大分県大野郡犬飼村石井(犬飼町石井を経て現豊後大野市)で小玉土五郎の二男として生まれる。小学校卒業後、家業を手伝い講義録で独学し、1921年(大正10年)専検に合格。1922年(大正11年)中央大学法学科に入学して特待生となり、1924年(大正13年)首席で卒業して特別賞を受けた。 1924年、高等試験司法科試験に合格。裁判所書記兼司法属を経て、1925年(大正14年)司法官試補に任官し、1926年(大正15年)長崎地方裁判所判事に発令された。
愛野 時一郎(あいの ときいちろう、1900年2月19日 -… 愛野 時一郎(あいの ときいちろう、1900年2月19日 - 1952年12月31日)は、日本の実業家、政治家。祐徳自動車創立者、衆議院議員(4期)、佐賀県藤津郡鹿島村(現・鹿島市)長。 1900年(明治33年)祐徳軌道2代目社長愛野文次郎の息子として、佐賀県藤津郡鹿島村(現・鹿島市)に生まれる。1921年(大正10年) 中央大学経済学部卒業後、横浜興信銀行(現在の横浜銀行)に入行。 1931年(昭和6年)横浜興信銀行を退職。翌1932年(昭和7年)祐徳軌道の廃止・会社解散(1931年)に伴い、地元の要請により同社の乗合バス事業を承継するため、祐徳自動車を創立。 1935年(昭和10年)6月、鹿島村長に就任。
江口 繁(えぐち しげる、1899年12月6日 - 1971… 江口 繁(えぐち しげる、1899年12月6日 - 1971年9月19日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員(1期)。 佐賀県出身。1920年中央大学法律科卒。弁護士と弁理士の業務に従事する。福岡精華女学校(現・精華女子高等学校)を経営し、福岡市議、同参事会員、福岡県議、福岡県弁護士会長、帝国弁護士会理事、大日本弁護士会常任理事、皇教塾、大憲塾塾頭、九州椎茸輸出協同組合理事長を務める。 1937年の第20回衆議院議員総選挙では福岡1区(当時)から立憲民政党公認で立候補して落選。1942年の第21回衆議院議員総選挙では翼賛政治体制協議会の推薦を受けて当選する。戦後は日本進歩党に入ったが、推薦議員のため公職追放となった。
曺 奉岩(チョ・ボンアム、そう ほうがん、朝鮮語: 조봉암、… 曺 奉岩(チョ・ボンアム、そう ほうがん、朝鮮語: 조봉암、1899年9月25日または1898年9月 - 1959年7月31日)は、朝鮮の独立運動家、のちに韓国の政治家。本貫は昌寧曺氏(朝鮮語版)、号は竹山(チュクサン、죽산)。社会民主主義者で、第一共和国時代における革新政党である進歩党の委員長を務めた。 妻は活動家の金祚伊。姓の「チョ」は真ん中の部分が曲の「曹」ではなく由の「曺」。 京畿道江華郡(現在の仁川広域市)出身。農業補習学校を卒業し江華郡庁の職員として働くが、三・一独立運動に参加して投獄される。釈放後の1921年に日本へ留学し、正則英語学校を経て中央大学で一年間政治学を学び、朴烈らと共に在日朝鮮人による社会主義団体「黒濤会」を結成した。
李 英燮(イ・ヨンソプ、朝鮮語: 이영섭、1899年5月22… 李 英燮(イ・ヨンソプ、朝鮮語: 이영섭、1899年5月22日 - 1982年8月17日)は、大韓民国の政治家。始興郡新東面長、第3代韓国国会議員を歴任した。 京畿道始興郡出身。中央高等普通学校、安養中等普通学校、中央大学卒。新幹会始興郡責任者、始興郡新東面長、京畿道教育会評議員、大韓農民会中央委員、大韓復興建設団始興郡支部理事長、大韓蚕糸会中央理事・副会長、自由党始興郡党委員長、京畿道肥料株式会社取締役副社長、安養中高等学校設立者・理事長を務めた。 1982年8月17日、老衰によりソウル市江南区の自宅で死去。88歳没。
佐野 保房(さの やすふさ、1899年 <明治32年> 3月… 佐野 保房(さの やすふさ、1899年 <明治32年> 3月25日 - 1980年 <昭和55年> 12月12日)は日本の政治家。東京都世田谷区長。位階は従五位。勲四等旭日小綬章。 山梨県(南巨摩郡身延町常葉竹之島)生まれ。中央大学法学部卒。1927年弁護士として活動を始めた。1932年世田谷区会議員、1947年都議会議員、都選管委員長、笹塚館社長、公明選挙連盟評議員、選挙制度調査会委員を経て、1959年から1975年まで世田谷区長(4期)。1966年から1968年まで特別区区長会会長も務めた。1980年12月12日、肺梗塞のため81歳で死去。墓所は世田谷区慈眼寺。死没日付をもって従五位に叙され、勲四等旭日小綬章を追贈された。
高木 松吉(たかぎ まつきち、1898年(明治31年)10月… 高木 松吉(たかぎ まつきち、1898年(明治31年)10月4日 - 1965年(昭和40年)12月9日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員。 福島県双葉郡広野村(現広野町)で生まれる。1922年(大正11年)中央大学法律科を卒業。弁護士となり、報知新聞法律相談所長に就任した。 1948年(昭和23年)、政治資金に関する問題で衆議院不当財産取引調査特別委員会に証人喚問された。1949年(昭和24年)1月、第24回衆議院議員総選挙で福島県第3区から民主自由党公認で出馬して当選。その後、第27回総選挙まで連続4回当選した。1958年(昭和33年)5月の第28回総選挙では落選した。この間、運輸大臣秘書官、裁判官訴追委員会代理委員長、第3次吉田内閣・法務政務次官、衆議院行政監察特別委員長、日本民主党全国委員会副委員長、同代議士会副会長、日本交通公社法律顧問などを歴任した。
成 得煥(ソン・ドゥクァン、朝鮮語: 성득환、1898年8月… 成 得煥(ソン・ドゥクァン、朝鮮語: 성득환、1898年8月23日 - 没年不詳)は、大韓民国の政治家。第2代韓国国会議員。 本籍は忠清南道大田市(現・大田広域市)。本貫は昌寧成氏。 中央大学経済科卒。漢城銀行(のちの朝興銀行)に勤めたほか、時期は不明だが民主国民党に入党し、中央実行委員を務めた。 1950年の第2代国会議員当選時には、商売をしている、と当時の媒体に記載がある。没年月日は不明だが、1979年時点ではすでに死去していると報道されている。
高石 幸三郎(たかいし こうざぶろう、1898年(明治31年… 高石 幸三郎(たかいし こうざぶろう、1898年(明治31年)8月4日 - 1986年(昭和61年)1月28日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員、埼玉県川口市長(第4代・第7代)。 埼玉県北足立郡川口町(現:川口市)で、鋳物商・高石喜太郎、きの夫妻の三男として生まれる。1918年、中央大学経済科を卒業し、実家の高石喜太郎商店を継承した。 三協鋳造取締役会長、埼玉燃料取締役社長、高石本店会長、関東銑鉄取締役などを務めた。 1933年、川口市会議員となり、同議長も務めた。1938年4月28日、第4代川口市長に就任し、1947年1月15日まで在任。この間、第1回市民体育大会の開催、下水道第1期事業の着手、戦時下の対応、戦災の復興に尽力し、全国市長会幹事、川口国民健康保険組合理事長を務めた。
渡辺 忠雄(わたなべ ただお、1898年(明治31年)7月1… 渡辺 忠雄(わたなべ ただお、1898年(明治31年)7月15日 - 1980年(昭和55年)5月6日)は、日本の政治家、弁護士。衆議院議員(1946年)、広島市長(1期、1955年-1959年)。 広島県山県郡北広島町(旧・大朝町)出身。1924年(大正13年)に中央大学法律科を卒業後に、大阪地方裁判所、大阪地方検事局に勤務の後、1928年(昭和3年)に弁護士として開業。東京弁護士会常議員や日本弁護士会理事などを務めた。また、広島精機や昭和造機の代表取締役も務めていた。 1946年(昭和21年)4月10日の第22回衆議院議員総選挙では、広島県全県区に日本自由党から出馬して当選したが、間もなく公職追放の憂き目に遭う。
崔 瑗浩(チェ・ウォノ、朝鮮語: 최원호、1898年4月16… 崔 瑗浩(チェ・ウォノ、朝鮮語: 최원호、1898年4月16日 - 1980年2月27日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の公務員、政治家。第2・5代韓国国会議員。 漢字表記は崔援浩とも。 慶尚南道金海郡(現・釜山広域市江西区菉山洞)出身。私立普成中学校、中央大学理科専門部、中央大学商科卒。日本統治時代には金海青年会会長、女子夜学会・労働夜学会設立者、衡平社員、洛東江工事促進期成会代表、金海郡洛東江河口地域海水防止会委員を歴任した。解放後は朝鮮開拓株式会社社長、韓国民主党慶南道党部副委員長、国民会金海郡支部副委員長、大韓民族青年団金海郡団部委員長、大同青年団慶南道団部後援会会長、金海農場長、金海産業組合理事、慶南帆船組合長、民主国民党慶尚南道党委員長、民主党慶尚南道党最高委員、慶尚北道商工局長を務めた。
洪 性夏(ホン・ソンハ、朝鮮語: 홍성하、1898年1月15… 洪 性夏(ホン・ソンハ、朝鮮語: 홍성하、1898年1月15日 - 1978年)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の教授、政治家、サッカー組織幹部。制憲韓国国会議員。政界では金融通として知られる。 慶尚南道東萊(現・釜山広域市)または全羅南道光山出身。中央大学政治科もしくは経済科卒。日本統治時代は普成専門学校(現・高麗大学校)教授・評議員、京城第一プリント社経営者を務め、解放後は韓国民主党中央執行委員・中央常務委員・労農部長・青年部長、中央労働調整委員、非常国民会議代議員、大韓国民代表民主議院特別経済専門委員、民族統一総本部宣伝部長、過度政府立法議院議員などを務めた。李承晩が大統領に就任し、ソウル東大門甲選挙区の制憲国会議員に欠員が出た後に実施した1948年の補欠選挙で、韓国民主党の候補として国会議員に当選し、国会財経委員長・金融通貨委員長・財政金融委員長・税制分科委員長を務めた。
北村 一男(きたむら かずお、1897年11月17日 - 1… 北村 一男(きたむら かずお、1897年11月17日 - 1965年3月29日)は日本の政治家、参議院議員、新潟県知事。 1897年、新潟県見附市出身。新潟県立加茂農林学校を経て1920年(大正9年)に中央大学商科を卒業後、堤商会(のちに旧日魯漁業、輸出食品と合同して社名を日魯漁業に、現マルハニチロ)に入社して樺太-カムチャツカ間を往復。この際ゲーペーウーに拿捕されるなどの苦労があったが、これによって堤清六社長の信頼を得た。戦後は自由党に所属し、1947年(昭和22年)の第1回参議院議員通常選挙に新潟地方区から出馬して初当選。2期にわたって議員を務め、農林政務次官、国土総合開発審議会、米価審議会各委員、参議院法務委員長、党の政務調査会副会長、参議院幹事長などを歴任した。
永山 忠則(ながやま ただのり、1897年(明治30年)10… 永山 忠則(ながやま ただのり、1897年(明治30年)10月14日 - 1984年(昭和59年)6月13日)は、昭和期の政治家。位階は正三位。 衆議院議員(11期)、自治大臣・国家公安委員会委員長、広島県庄原市長を歴任した。勲一等旭日大綬章受章(1969年)。広島県比婆郡敷信村(現・庄原市)出身。庄原市名誉市民(1981年)。 広島県立広島中学校(現・広島県立国泰寺高校)出身で岩畔豪雄と同級。1924年に中央大学法学部予科を卒業後、女子師範学校の教師を務めた。1926年、20代で敷信村(現・庄原市)村長となり、八期務めた。その後、広島県議会議員を経て1936年の第19回衆議院議員総選挙に昭和会公認で初当選。
矢野 酉雄(やの とりお、1897年(明治30年)10月6日… 矢野 酉雄(やの とりお、1897年(明治30年)10月6日 - 1963年(昭和38年)11月20日)は、大正から昭和期の教育者、雑誌編集者、政治家。参議院議員(1期)。号・孤山。 福岡県三池郡上内村大字上内(銀水村を経て現大牟田市大字上内)で矢野巽の息子として生まれる。福岡県立八女中学校を経て、1917年(大正6年)福岡師範学校を卒業。その後、中央大学法科、日本大学高等師範科で学び、同年、福岡県三池郡内各尋常小学校訓導を務めた。その後、文部省教員検定試験に合格し中等教員免状を取得。以後、沖縄県女子師範学校教諭兼訓導兼同県立高等女学校教諭、鹿児島県第二師範学校教諭兼訓導、福岡県立嘉穂中学校教諭、同県実業補習学校指導員などを務めた。
佐竹 晴記(さたけ はるき、1896年〈明治29年〉9月6日… 佐竹 晴記(さたけ はるき、1896年〈明治29年〉9月6日 - 1962年〈昭和37年〉4月24日)は、日本の政治家、弁護士。社会民衆党、社会革新党、民主社会党に属し、片山内閣では司法政務次官を務めた。 高知県高岡郡窪川町(現在の四万十町)に生まれる。窪川高等小学校を卒業後、窪川郵便局員、大連航路汽船の三等油差しなどに従事する。その後上京し、中央大学法科に学び弁護士試験に合格。24歳で弁護士として東京で開業したが、1923年(大正12年)、関東大震災のため高知市に帰り北奉公人町(現在の高知市上町)で再度開業した。 1929年(昭和4年)社会民衆党高知支部を結成および支部長となる。同年と1933年(昭和8年)に高知市会議員に当選した。
西岡 斌(にしおか さかん、1896年(明治29年)8月20… 西岡 斌(にしおか さかん、1896年(明治29年)8月20日 - 1960年(昭和35年)9月26日)は、日本の政治家。北海道稚内市長(3期)。 北海道出身。1924年、中央大学法律専門部卒。卒業後はアメリカに留学し、オックス・フォード・ラスキンカレッジ経済学部で学んだ。帰国後は宗谷日日新聞を創刊、1932年に北海道会議員となり、稚内町長に就任するまで務めた。この間、調陽塾を開き、青少年の教育に力を注いだ。1947年、稚内町長に就任。2年後の1949年の市制施行に伴い、稚内市長に就任した。1951年の市長選挙で再選。1955年の市長選挙で三選。1959年に市長を退任した。同年、市の顧問となったが、翌1960年に死去した。
遠山 丙市(とうやま へいいち、1896年(明治29年)7月… 遠山 丙市(とうやま へいいち、1896年(明治29年)7月14日 - 1978年(昭和53年)8月14日)は、昭和期の弁護士、政治家。参議院議員(1期)。 岐阜県本巣郡、のちの鷺田村(現瑞穂市)で、遠山観治郎の長男として生まれる。1929年(昭和4年)中央大学法学部を卒業。 1930年(昭和5年)弁護士となる。東京弁護士会常議員(3期)、万国博覧会評議員、国際オリンピック東京委員などを務めた。 政界では、東京市会議員(4期)、同市参事会員、東京府会議員(2期)、同府参事会員、東京都議会議員を務めた。1947年(昭和22年)4月の第1回参議院議員通常選挙に東京都地方区から日本自由党公認で出馬して当選(補欠、任期3年)し、参議院議員に1期在任した。
原 玉重(はら たましげ、1896年7月5日 - 1983年… 原 玉重(はら たましげ、1896年7月5日 - 1983年7月31日)は、日本の政治家。衆議院議員(3期)。弁護士。 岐阜県出身。1920年中央大学法律学科卒。弁護士となり、三木武吉の法律事務所で働く。その後、牛込区議、東京府議を経て、1936年の第19回衆議院議員総選挙で東京1区(当時)から立憲民政党公認で立候補して初当選。続く第20回衆議院議員総選挙でも再選された。1942年の第21回衆議院議員総選挙(いわゆる翼賛選挙)では翼賛政治体制協議会の推薦を受けて立候補したが次点で落選した。しかし、翌年大神田軍治の死去により繰り上げ当選となった。 戦後、翼賛政治体制協議会の推薦議員のため、公職追放となった。
大神 善吉(おおがみ ぜんきち、1896年(明治29年)6月… 大神 善吉(おおがみ ぜんきち、1896年(明治29年)6月21日 - 1967年(昭和42年)10月27日)は、大正末から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(1期)、福岡県筑紫郡春日村長。位階は従五位。勲四等瑞宝章。 福岡県福岡市中小路(現博多区上呉服町)で、大神鹿吉、イノの二男として生まれる。幼くして父が死去し、御供所小学校(現福岡市立博多小学校)在学中は野菜の行商を行う。小学校卒業後、石屋、大工として奉公したが、上京し苦学して、1923年(大正12年)中央大学経済科を卒業した。 品川区会議員、立憲政友会院外団などで活動した。1938年(昭和13年)兄・恒吉の死去に伴い福岡県筑紫郡春日村(春日町を経て現春日市)に戻り、大神組を継承し土木建築請負業を営んだ。
本多 市郎(ほんだ いちろう、1895年(明治28年)11月… 本多 市郎(ほんだ いちろう、1895年(明治28年)11月11日 - 1959年(昭和34年)4月5日)は、日本の政治家。衆議院議員、参議院議員、行政管理庁長官(第4・10代)、地方自治庁長官(第2代)、自治庁長官(第2代)。位階は正三位、勲等は勲二等。 長崎県南高来郡南有馬町(現南島原市)に、農業・本多福四郎の長男として生まれる。長じて上京し、両国税務署員として働きながら、1925年中央大学法科を卒業する。上京時の下宿先では小澤佐重喜と起居を共にしていた。 関東大震災が起きると、復興局に勤務する傍ら、深川区(現在の江東区北西部)の自宅に法律無料相談所を開いて罹災者の相談に乗り、地元住民の信望を集めていった。
椎熊 三郎(しいくま さぶろう、1895年4月11日 - 1… 椎熊 三郎(しいくま さぶろう、1895年4月11日 - 1965年7月27日)は、日本の政治家。位階は従三位、勲等は勲一等。 衆議院議員(9期)、衆議院副議長(第39代)、衆議院議院運営委員長(第10代)などを務めた。 北海道利尻郡鴛泊村(現・利尻富士町)に生まれ、単身で小樽市に渡る。苦学しながら1914年に小樽中学校(現・北海道小樽潮陵高等学校)を卒業後、へき地教育に携わった後に1918年に『小樽新聞』社会部記者となる。社内の賃上げ争議に加わって退職処分に遭うが、小樽商業会議所会頭だった山本厚三に認められ、秘書として迎えられる。小樽に普通選挙期成同盟を設立して幹事長となり、普選運動に邁進する。
島村 一郎(しまむら いちろう、1894年(明治27年)9月… 島村 一郎(しまむら いちろう、1894年(明治27年)9月7日 - 1977年(昭和52年)2月1日)は、日本の政治家。衆議院議員。正三位勲一等。 自由民主党元衆議院議員島村宜伸は六男。 東京府南葛飾郡小松川町平井(現在の東京都江戸川区平井)に生まれる。 中央大学中退。小松川町会議員、小松川町長、東京府議、江戸川区会議長、東京市議、同都議などを経て大蔵大臣秘書官となった。 昭和21年(1946年)東京1区(のち東京6区→10区)から立候補し、次点となるが、鳩山一郎の公職追放による繰上当選となり、衆院議員となる。以来連続当選12回。 1955年(昭和30年)第2次鳩山内閣の通商産業政務次官。衆院大蔵、商工、懲罰、東京オリンピック大会準備促進特別委員長を歴任。
成 元慶(ソン・ウォンギョン、朝鮮語: 성원경、1894年2… 成 元慶(ソン・ウォンギョン、朝鮮語: 성원경、1894年2月14日 - 1975年7月30日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の実業家、政治家。忠清南道議会議員、第3・5代韓国国会議員を歴任した。 忠清南道牙山郡道高面生まれ、礼山郡出身。日本中央大学経済科卒。東亜日報創刊発起人・取締役、湖西銀行天安支店長、忠清南道評議会員、忠清南道議会議員、中枢院参議、面協議員、農会特別議員、忠南製糸株式会社取締役社長、皇軍慰問団員、愛国婦人会忠南支部顧問、赤十字社正社員、東一銀行常務理事、大韓独立促成国民会礼山郡支部運営委員長・支部長、反託闘委礼山支部支部長、礼唐水利組合長、大韓農地開発営団理事長、民主党中央委員会議長を務めた。
田村 虎一(たむら とらいち、1894年(明治27年)2月1… 田村 虎一(たむら とらいち、1894年(明治27年)2月1日 – 1983年(昭和58年)7月11日)は、大正から昭和期の弁護士、政治家。衆議院議員、山口県玖珂郡川下村長。 山口県で田村與兵衛の三男として生まれる。1918年(大正7年)中央大学専門部法律科を卒業。 卒業後、農商務省、東京鉄道局などで勤務。1922年(大正11年)弁護士試験に合格し、のちの岩国市で開業した。1938年(昭和13年)川下村長に就任。その他、川下村会議員、岩国町会議員、山口県会議員、同副議長、岩国市会議員、同市助役、山口県監査委員、岩国弁護士会長などを務めた。 1947年(昭和22年)4月、第23回衆議院議員総選挙に山口県第2区から日本自由党公認で出馬して当選し、その後、民主自由党に所属して衆議院議員に1期在任した。
青木 善祐(あおき よしすけ、1892年〈明治25年〉11月… 青木 善祐(あおき よしすけ、1892年〈明治25年〉11月1日 - 1974年〈昭和49年〉8月14日)は、日本の内務官僚、政治家。長崎市長、宮崎県宮崎市長、延岡市長を歴任した。 宮崎県東臼杵郡延岡町(現在の延岡市)出身。師範学校を卒業した後、1917年(大正6年)に中央大学専門部法科を卒業し、翌年に高等試験に合格した。鉄道院書記を経て、内務属、茨城県警視、岡山県理事官、熊本県事務官・地方課長、大阪府事務官・地方課長、同商務課長、山形県書記官・学務部長、同警察部長、熊本県書記官・警察部長を歴任した。 1935年(昭和10年)11月2日、長崎市助役に就任。1938年(昭和13年)8月29日、助役を退任し、長崎市長となった。
須磨 弥吉郎(すま やきちろう、1892年〈明治25年〉9月… 須磨 弥吉郎(すま やきちろう、1892年〈明治25年〉9月9日 - 1970年〈昭和45年〉4月30日)は、日本の外交官、政治家。スペイン特命全権公使・衆議院議員。 秋田県南秋田郡土崎新城町(現秋田市)生まれ。旧制秋田中学校卒業後広島師範学校に進学するも、一転して法律家を志し中央大学法学部に転学。卒業後、1919年に外務省入省。 外国語6カ国語に堪能でイギリス、ドイツ等の在外公館に勤務を経て、1927年、在中国大使館二等書記官として赴任。在広東領事館領事等を経て、1932年、在上海日本公使館情報部長となり、対蔣介石政権の情報収集に努める。その後、南京総領事に転じる。 この中国での諜報活動の経験から、情報の一元管理と総合判断の必要性を痛感、帰国後、同じ考えを抱いていた山本五十六海軍次官とともに奔走し、1937年、対外情報収集と対外広報を目的にした内閣情報部を設立する。
高田 富與(たかだ とみよ、1892年5月11日 - 197… 高田 富與(たかだ とみよ、1892年5月11日 - 1976年10月17日)は、日本の弁護士、政治家。札幌市議、第5代札幌市長(在任1947年 - 1959年。3期。初代公選市長)、自由民主党所属の衆議院議員(2期)。 福島県石城郡大野村(現・いわき市)生まれ。従兄の子に鯨岡兵輔がいる。11歳で渡道し、豊平村(現・札幌市豊平区)の知人宅に身を寄せる。100日余で野幌兵村(現・江別市野幌)の親戚を頼って転居。江西尋常高等小学校(現・江別第二小学校)高等科卒業までの3年半を過ごす。卒業後、札幌郵便局通信伝習生養成所で学び、電信の取り扱いを習得。修了後は郵便局職員として岩見沢に赴任。1908年7月から江別郵便局勤務。
最上 政三(もがみ まさぞう、1891年8月21日 - 19… 最上 政三(もがみ まさぞう、1891年8月21日 - 1977年2月19日)は、日本のジャーナリスト・政治家。衆議院議員(4期)、逓信院政務官を務めた。 群馬県群馬郡室田村(現・高崎市)出身。逓信省逓信講習所から中央大学へ進み、大学卒業後万朝報に入社。政治部長を務めた後、1930年の衆議院議員選挙に立憲民政党公認で群馬県第2区に出馬して辛くも当選を果たす(定員4名)。以後、衆院議員を通算4期務め、この間1945年に逓信院政務官の任についた。 戦後、日本進歩党結成に参加するが公職追放に遭い、身代わりとして妻の最上英子が総選挙に立ち、日本最初の女性議員の一人となった。公職追放後の1955年に高崎市長選挙に出馬するが、住谷啓三郎に敗れた。