宮原 武熊(みやはら たけくま、1874年(明治7年)12月… 宮原 武熊(みやはら たけくま、1874年(明治7年)12月13日 - 没年不明)は鹿児島県出身の医学者、眼科医で、日本統治時代の台湾における政治家。台湾台中市のスイーツ専門店「宮原眼科(日出宮原眼科)」の由来として知られている。 鹿児島県川辺郡知覧村(現・南九州市)で出生。 同年退官し、東京で眼科開業。その後台湾に再渡航し、1927年(昭和2)に民間開業医として台中州台中市栄町に宮原眼科医院を開業。 1933年(昭和8)12月29日に陳炘および台湾文化協会や台湾民衆党を率いていた林献堂らとともに台湾人による台湾自治を目指す『東亜共栄協会』を設立し、一時は1万人超の会員数となったが、次第に日本の右翼団体の圧力で劣勢となり、1936年に解散に追い込まれている。
小森 雄介(こもり ゆうすけ、1874年(明治7年)12月1… 小森 雄介(こもり ゆうすけ、1874年(明治7年)12月11日)- 1942年(昭和17年)5月3日)は、明治後期から昭和前期の銀行家、政治家。衆議院議員。 鹿児島県鹿児島郡鹿児島城下高麗町(現鹿児島市高麗町)で、旧鹿児島藩士・小森新蔵の六男として生まれる。1896年(明治29年)7月、鹿児島高等中学造士館本科卒業。1899年(明治32年)東京帝国大学法科大学政治学科を卒業した。 衆議院事務局に入り同属に任官。1902年(明治35年)台湾銀行に転じて書記に就任。植民経済研究のため1905年(明治38年)アメリカ合衆国に留学しハーバード大学で学んだ。その後、ボストンのキタピポヂー銀行での実務研修、欧州各国の視察旅行を経て、1908年(明治41年)に帰国した。
前田 利定(まえだ としさだ、1874年〈明治7年〉12月1… 前田 利定(まえだ としさだ、1874年〈明治7年〉12月10日 - 1944年〈昭和19年〉10月2日)は、日本の政治家、華族(子爵)。逓信大臣(第26代)、農商務大臣(第32代)を務めた。東京府出身。 加賀前田家の分家の一つである旧七日市藩主家に、最後の藩主(藩知事)前田利昭の子として生まれる。 1894年(明治27年)、日清戦争に歩兵中尉として従軍。1902年(明治35年)、東京帝国大学法科大学を卒業。その後、司法官試補となる。1904年(明治37年)7月10日、貴族院子爵議員に選出され、研究会に所属し1944年(昭和19年)2月2日に辞職するまで在任した。 1922年(大正11年)に加藤友三郎内閣の逓信大臣となり初入閣。
西大路 吉光(にしおおじ よしみつ、1874年(明治7年)1… 西大路 吉光(にしおおじ よしみつ、1874年(明治7年)11月6日 - 1953年(昭和28年)12月12日)は、大正から昭和期の農林技官、政治家、実業家、華族。貴族院子爵議員。 雅楽部長・竹屋光昭の四男として生まれる。子爵・西大路隆修の死跡を相続し、1896年(明治29年)2月3日、子爵を襲爵した。 1901年(明治29年)東京帝国大学農科大学林学実科を修了。同年、営林技手に就任。以後、同主事兼大林区署書記、山林局技手兼林務官官補、山林技師、林務技師などを歴任し、森林主事教習講師、農商務省嘱託も務めた。 1911年(明治44年)7月10日、貴族院子爵議員に選出され、研究会に所属して活動し、1947年5月2日の貴族院廃止まで在任した。
池田 敬八(いけだ けいはち、旧姓・赤坂、1874年(明治7… 池田 敬八(いけだ けいはち、旧姓・赤坂、1874年(明治7年)7月3日 - 1963年(昭和38年)3月23日)は、日本の政治家・衆議院議員(立憲民政党)、大蔵官僚、弁護士。カナモジ会理事。 三重県度会郡宇治山田町(宇治山田市を経て現在の伊勢市)出身。三重平民・赤坂敬二の三男、あるいは六男として生まれ、池田房明の養子となった。 1901年(明治34年)、東京帝国大学法科大学仏法科を卒業し、翌年に高等文官試験に合格した。大蔵省専売局事務官、専売局参事、専売局長官官房監理課長などを経て、1917年(大正6年)からは印刷局長を務めた。 1928年(昭和3年)、退官。三重県第二区より第16回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。
濱口 梧洞(はまぐち ごとう)または10代目 濱口 儀兵衛(… 濱口 梧洞(はまぐち ごとう)または10代目 濱口 儀兵衛(じゅうだいめ はまぐち ぎへえ、1874年(明治7年)4月24日 - 1962年(昭和37年)1月31日)は、和歌山県出身の実業家・貴族院議員。明治後期から昭和戦前期にかけて、ヤマサ醤油株式会社を経営する濱口儀兵衛家の当主を務めた。「醤油王」と謳われた。銚子市名誉市民。 1874年(明治7年)、4月24日、和歌山県有田郡広村大字広(現在の和歌山県有田郡広川町)に、ヤマサの屋号で知られる濱口儀兵衛家の8代濱口儀兵衞の二男として生まれた。出生名は濱口慶次。1895年(明治28年)、立教学校(現・立教大学)卒業。その後、帝国大学理科に進み、イギリスに留学して化学を専攻した。
土屋 岩保(つちや いわほ、1874年(明治7年)4月16日… 土屋 岩保(つちや いわほ、1874年(明治7年)4月16日 – 1928年(昭和3年)8月22日)は、日本の衆議院議員(新正倶楽部)。内科医。 山梨県東八代郡祝村(現在の甲州市)で土屋順周の次男として生まれる。1901年(明治34年)、東京帝国大学医科大学を卒業し、同大学の助手となった。1907年(明治40年)より1909年(明治42年)までドイツに留学し、ハレ大学、ベルリン大学で学んだ。1911年(明治44年)、医学博士号を授与。同年、侍医に任命され、皇太子(後の大正天皇)の診察にあたった。 1921年(大正10年)、侍医を辞して医院を開業し、その傍ら日本住血吸虫症の研究にあたった。その後、赤坂区医師会長を務めた。
堀田 義次郎(ほりた ぎじろう、1874年(明治7年)4月1… 堀田 義次郎(ほりた ぎじろう、1874年(明治7年)4月14日 - 1942年(昭和17年)11月19日)は、日本の政治家、内務官僚。衆議院議員、滋賀県知事、大津市長。弓道家(大日本武徳会弓道範士)。 福岡県御井郡、のちの三井郡大城村(北野町を経て現久留米市)出身。第五高等学校を卒業。1902年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。1904年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し内務属となる。 以後、愛媛県事務官、島根県事務官・第四部長、長野県事務官・警察部長、三重県内務部長、滋賀県内務部長、愛知県内務部長などを歴任。 1919年4月、原内閣により滋賀県知事に登用され、1923年10月まで在任。
白河 鯉洋(しらかわ りよう、1874年(明治7年)3月2日… 白河 鯉洋(しらかわ りよう、1874年(明治7年)3月2日 - 1919年(大正8年)12月25日)は、衆議院議員(立憲国民党)、ジャーナリスト、東洋学者。本名は次郎。 福岡県京都郡豊津村(現在のみやこ町)出身の豊津藩(小倉藩)士で、豊前宇都宮氏の末裔である。 1897年(明治30年)、東京帝国大学文科大学漢学科を卒業。卒業後は神戸新聞、九州日報の主筆を務めた。1903年(明治36年)、清に渡って南京の江南高等学堂の総教習を務めた。帰国後は、早稲田大学講師、関西日報客員を務めた。1917年(大正6年)、第13回衆議院議員総選挙に出馬し、当選した。 墓所は多磨霊園(6-2-6)と日光市浄光寺(田岡嶺雲との連理塚)。
風間 礼助(かざま れいすけ、明治7年(1874年)2月4日… 風間 礼助(かざま れいすけ、明治7年(1874年)2月4日 - 昭和34年(1959年)9月10日)は、日本の政治家・ジャーナリスト。衆議院議員、号は冠峯。 長野県更級郡稲荷山村(現千曲市)生まれ。成立学舎、旧制第一高等学校を経て、帝国大学法科大学政治学科を卒業。明治36年(1903年)茅原華山の後任として『長野新聞』主筆となる。その後、横浜港湾改良期成委員会書記長、横浜精糖会社営業部長などを務めた。同45年(1912年)第11回衆議院議員総選挙に初当選し、同年末には憲政擁護、藩閥打破の見地から第一次護憲運動を推進した。大正2年(1913年)第1次山本内閣に際して、尾崎行雄らと政友会を脱党して政友倶楽部を結成し、営業税全廃運動でも先陣に立って活動した。
芳澤 謙吉(よしざわ けんきち、1874年〈明治7年〉1月2… 芳澤 謙吉(よしざわ けんきち、1874年〈明治7年〉1月24日 - 1965年〈昭和40年〉1月5日)は、日本の外交官、政治家。従二位勲一等旭日桐花大綬章。新潟県中頸城郡下堀之内村(現:上越市諏訪)出身。犬養毅の娘婿。 大日本帝国きっての亜細亜通の外交官として知られ、日ソ基本条約締結による日ソ国交回復等に関わる。義父は犬養毅であり、犬養内閣においては外務大臣を務めた。第二次世界大戦終結後に公職追放を受けるが、解除後は1952年から3年間駐中華民国大使を務め、辞任後も自由アジア擁護連盟代表、自由アジア協会長として台湾擁護に奔走した。 1925年1月20日の北京での日ソ基本条約締結時、その5日前にスケートで腰の骨を折った為、ベッドの上で調印した。
岡田 文次(おかだ ぶんじ、1874年〈明治7年〉1月1日 … 岡田 文次(おかだ ぶんじ、1874年〈明治7年〉1月1日 - 1943年〈昭和18年〉7月23日)は、日本の内務官僚、政治家、実業家。官選栃木県知事、樺太庁長官、警視総監、貴族院議員。旧姓・浜田。 山形県出身。米沢市関東町にて餌差(足軽階級)であった浜田長之助の長男として生まれ、岡田義質の養子となる。米沢尋常中学興譲館を経て、1898年7月、東京帝国大学法科大学撰科を卒業。同年12月、文官高等試験に合格し、内務属となり警保局に配属された。 1899年5月、沖縄県参事官兼臨時沖縄県土地整理事務局事務官に就任。以後、山梨県警察部長、千葉県警察部長、新潟県事務官・第四部長、警視庁第二部長、同官房主事などを歴任。
山川 端夫(やまかわ ただお、1873年(明治6年)12月1… 山川 端夫(やまかわ ただお、1873年(明治6年)12月15日 - 1962年(昭和37年)3月2日)は、日本の海軍・外務官僚、政治家、国際法学者。法学博士、貴族院議員、法制局長官。 長崎県出身。山川景範の長男として生まれる。長崎中学、第五高等学校を経て、1898年(明治31年)7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業し大学院に進む。同年12月、文官高等試験に合格。1899年(明治32年)3月、海軍省に入り参事官に就任。その後、兼高等捕獲審検所事務官、兼鉄道院理事、海軍教官兼海軍省参事官、講和会議全権委員随員などを歴任。1919年(大正8年)4月、法学博士号を取得。 1920年(大正9年)4月、外務省に移り臨時平和条約事務局第1部長に就任し、さらに条約局長となる。
坂野 鉄次郎(さかの てつじろう、1873年(明治6年)11… 坂野 鉄次郎(さかの てつじろう、1873年(明治6年)11月14日 - 1952年(昭和27年)6月5日)は、日本の逓信官僚、政治家・貴族院議員(多額納税)、実業家。 岡山県津高郡菅野村(後の御津郡野谷村菅野、現在の岡山市北区菅野)出身。岡山県士族・坂野半四郎の長男。1898年(明治31年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、高等文官試験に合格した。 逓信省通信局に入る。1899年(明治32年)、逓信事務官に任ぜられた。大阪郵便局に転じ、監理課長を務めた。北清事変の際には野戦郵便事務視察官を務めた。1901年(明治34年)、長野郵便局長に任ぜられ、1902年(明治35年)、本省書記官となり、日露戦争の際には大本営野戦高等郵便局長を務めた。
河原 直孝(かわはら なおたか、1873年(明治6年)11月… 河原 直孝(かわはら なおたか、1873年(明治6年)11月5日 - 1945年(昭和20年)7月2日)は、大正から昭和時代前期の政治家・実業家。北海道小樽市長。 河原一郎の長男として石川県金沢城下に生まれ、1922年(大正11年)家督を相続する。1897年(明治30年)7月、第四高等学校大学予科第一部を修了後、1903年(明治36年)東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、1905年(明治38年)4月に北海道庁立小樽中学校(現・北海道小樽潮陵高等学校)の嘱託教員となる。 実業界に転じ、小樽電気・北海道精米・小樽電燈などの取締役を務め、さらに、小樽商業会議所議員、小樽区会議員などを歴任する。市制施行すると、1922年(大正11年)10月、小樽市会議員に就任し、同議長を兼任した。
堀 正一(ほり しょういち、1873年(明治6年)10月22… 堀 正一(ほり しょういち、1873年(明治6年)10月22日 - 1920年(大正9年)4月3日)は、明治から大正期の地主、教育者、実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。 山口県都濃郡、のちの末武北村(花岡村を経て現下松市)で、豪農・堀済三の長男として生まれる。山口高等中学校を経て、1899年(明治32年)7月、東京帝国大学文科大学史学科を卒業し、さらに同研究科を修了した。 1900年(明治33年)以降、滋賀県立第二中学校(現滋賀県立膳所高等学校)教諭、日本大学講師、学習院講師、宮内省図書寮勤務などを務めた。1905年(明治38年)3月、家督を相続した。 1907年(明治40年)に帰郷し農業経営を行う。
若王子 文健(にゃくおうじ / にゃこうじ あやたけ、187… 若王子 文健(にゃくおうじ / にゃこうじ あやたけ、1873年(明治6年)10月14日 - 1942年(昭和17年)8月1日)は、明治から昭和期の実業家、政治家、華族。貴族院男爵議員。 京都(現:上京区岡松町)で華族・若王子遠文の長男として生まれた。父の死去に伴い、1898年(明治31年)3月2日、男爵を襲爵した。 学習院高等科を経て、1900年(明治33年)7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年、東京府属となる。その後、有隣生命保険重役、箱根土地監査役、日本大博覧会評議員、奉仕会副会長などを務めた。 1904年(明治37年)7月10日、貴族院男爵議員に選出され、公正会に所属して活動し、1925年(大正14年)7月9日まで3期在任した。
高瀬 梅吉(たかせ うめきち、1873年9月28日 - 19… 高瀬 梅吉(たかせ うめきち、1873年9月28日 - 1932年11月29日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 茨城県出身。1899年、東京帝国大学政治科卒。帝国商業銀行員、上海東亜同文書院教授となり、朝鮮銀行大阪、東京の各支店長、京城本店営業局長、東洋拓殖(株)理事、佐賀炭礦(株)社長、中島鉱業(株)取締役となる。 1930年の第17回衆議院議員総選挙において茨城2区から立憲民政党公認で立候補して当選し、衆議院議員を1期務めた。1932年の第18回衆議院議員総選挙には出馬しなかった。同年11月に死去した。
児玉 右二(こだま ゆうじ、1873年(明治6年)9月10日… 児玉 右二(こだま ゆうじ、1873年(明治6年)9月10日 - 1940年(昭和15年)1月23日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→昭和会)、ジャーナリスト。号は篁南。 山口県美祢郡綾木村(現在の美祢市)出身。東京帝国大学法科大学を卒業後、サミュエル・サミュエル商会に入社。やがて新聞記者を志し、東京朝日新聞記者となり、さらに議会春秋、新聞の新聞などで主筆を務めた。その後、二六新報社長を経て、大陸通信と哈爾浜日日新聞社の社長を務めた。 1917年(大正6年)、第13回衆議院議員総選挙に群馬選挙区から出馬し、当選。秋田清・小川郷太郎らと院内会派「新政会」を結成したが、普通選挙論者であった児玉は他と意見が合わず、脱会した。
橋本 正治(はしもと まさはる、1873年(明治6年)5月1… 橋本 正治(はしもと まさはる、1873年(明治6年)5月17日 - 1956年(昭和31年)10月8日)は、日本の内務官僚、政治家。北海道札幌市長、山口県知事、鹿児島県知事、呉市長、札幌観光協会長。札幌市栄誉市民。旧姓・吉田。 福井県吉田郡円山西村(現在の福井市)出身。吉田伝七の二男として生まれ、のち橋本久と結婚し橋本と改姓。1901年(明治34年)、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。高等文官試験に合格して内務省に入省。北海道勧業部長、山口県知事、鹿児島県知事などを経て1927年、札幌市長に就任。1937年、札幌市長を退任した。後任は三沢寛一。 市長在任中は上下水道事業の推進、札幌市営バスの運行開始などを行った。
伊藤 安吉(いとう やすきち、1873年(明治6年)5月14… 伊藤 安吉(いとう やすきち、1873年(明治6年)5月14日 - 1951年(昭和26年)9月15日)は、明治後期から昭和前期の海軍軍人、政治家、華族。海軍造機少将、貴族院男爵議員。 東京府出身。海軍士官・伊藤雋吉の長男として生まれる。父・雋吉の死去に伴い、1921年(大正10年)5月10日、家督を相続し男爵を襲爵した。 1898年(明治31年)10月、海軍造船学生となり、1899年(明治32年)6月、東京帝国大学工科大学機械工学科を卒業。同年6月、海軍造船中技士に任官し横須賀海軍造船廠造機科主幹に就任。以後、艦政本部部員、造船監督官、舞鶴海軍工廠造機部長、艦政局第三課長などを歴任し、1917年(大正6年)6月、横須賀海軍工廠造機部長に就任。
池田 泰親(いけだ やすちか、1873年(明治6年)5月10… 池田 泰親(いけだ やすちか、1873年(明治6年)5月10日 – 1943年(昭和18年)10月15日)は、衆議院議員(立憲政友会→政友本党→立憲民政党)。 熊本県天草郡富岡町(現在の苓北町)に桜井勝九郎の三男として生まれ、池田泰之の養子となった。1901年(明治34年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、一年志願兵として陸軍歩兵少尉となった。御領村長、同村会議員、天草郡会議員、同参事会員、熊本県会議員を歴任し、九州実業新聞社社長、九州新聞社副社長を務めた。 1920年(大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第15回衆議院議員総選挙でも再選を果たした。 その他大谷石材株式会社社長、中国稲荷山鋼索鉄道株式会社社長、苓州銀行取締役を務めた。
井伊 直方(いい なおかた、1873年(明治6年)2月28日… 井伊 直方(いい なおかた、1873年(明治6年)2月28日 - 1936年(昭和11年)2月3日)は、大正から昭和戦前期の政治家、華族。貴族院子爵議員。 旧与板藩主・井伊直安の長男として生まれる。父の隠居に伴い、1922年(大正11年)11月30日、子爵を襲爵した。 学習院高等科を卒業し、東京帝国大学法科大学政治学科を修了した。内親王浴場之儀鳴弦控、皇子浴場之儀鳴弦などを務めた。 1928年(昭和3年)1月19日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し死去するまで在任した。 共保 - 共宗 - 宗綱 - 共章 - 共家 - 共直 - 惟直 - 盛直 - 良直 - 彌直 - 泰直 - 行直 - 景直 - 忠直 - 直氏 - 直平 - 直宗 - 直盛 - 直親 - ※(直虎) 直政 - 直孝 - 直澄 - 直興 - 直通 - 直恒 - 直治 - 直惟 - 直定 - 直禔 - 直定 - 直幸 - 直中 - 直亮 - 直弼 - 直憲 - 直忠 - 直愛 - 直豪 - 直岳 直勝 - 直好 - 直武 - 直朝 - 直矩 - 直陽 - 直員 - 直存 - 直郡 - 直朗 - 直暉 - 直経 - 直充 - 直安 - 直方 - 英彰 - 修 - 達夫
三浦 倫吉(みうら りんきち、1873年(明治6年)2月21… 三浦 倫吉(みうら りんきち、1873年(明治6年)2月21日 - 1916年(大正5年)8月7日)は、衆議院議員(立憲同志会)、弁護士。 島根県那賀郡浜田町(浜田市)出身。山口高等学校を経て、1901年(明治34年)に東京帝国大学法科大学英法科を卒業した。卒業後は司法官となり、岡山区裁判所判事、京都区裁判所兼地方裁判所判事を歴任した。1904年(明治37年)に退官した後は、京都市で弁護士・弁理士・破産管財人として活動した。 1915年(大正4年)、第12回衆議院議員総選挙に出馬し、当選した。
光行 次郎(みつゆき じろう、明治6年(1873年)1月20… 光行 次郎(みつゆき じろう、明治6年(1873年)1月20日 - 昭和20年(1945年)8月6日)は、日本の検察官、政治家。検事総長、貴族院議員。 佐賀県出身。1902年、東京帝国大学法学部英法科を卒業し司法省に入る。司法省人事局長、大阪控訴院検事長、東京控訴院検事長等を歴任し、1935年検事総長となる。1936年に(佐賀人が複数関与した)二・二六事件が起こった日に登庁せずに待合「梅乃井」に身を潜めたことについて東京区検・地検検事が検事総長弾劾に立ち上がり、少壮検事約50人が総長辞職を求める連判状が取りまとめられた。この影響もあり同年12月に退官した。 1939年貴族院議員。 1945年死去。
塚本 清治(つかもと せいじ、1872年12月5日〈明治5年… 塚本 清治(つかもと せいじ、1872年12月5日〈明治5年11月5日〉- 1945年〈昭和20年〉7月11日)は、明治から昭和にかけての内務官僚・政治家。 兵庫県揖東郡旭陽村(現在の姫路市)出身。初めは河田姓を名乗っていたが、1884年(明治17年)に塚本家の養子に入った。第三高等学校を経て東京帝国大学法科大学を卒業、1902年(明治35年)11月の高等文官試験に合格した。 初め東京府職員であったが、翌年には内務省に移籍して、以後1915年(大正4年)に神社局長、1920年(大正9年)に地方局長、1922年(大正11年)に社会局長を務め、1923年(大正12年)の第2次山本内閣成立と同時に内務次官に任じられた。
木村 秀興(きむら ひでおき、1872年11月3日(明治5年… 木村 秀興(きむら ひでおき、1872年11月3日(明治5年10月3日)- 1941年(昭和16年)4月5日)は、大正から昭和前期の実業家・政治家。衆議院議員。 三重県員弁郡北大社村(稲部村大字北大社、東員村を経て現東員町大字北大社)で、豪農木村誓太郎の長男として生まれる。1897年(明治30年)東京帝国大学文科大学史学科を卒業。1919年(大正8年)家督を相続し、農業を営む。 員弁郡信用購買組合連合会長、三重県信用組合会会長、同県畜産組合連合会副会長、産業組合中央会三重支部理事、員弁郡農会会長などを務め、農事改良、農業振興に尽力した。実業界では、東海電線取締役、三重県農工銀行監査役、北勢電気鉄道(三岐鉄道北勢線)監査役などを務めた。
赤塚 正助(あかつか しょうすけ、1872年10月8日(明治… 赤塚 正助(あかつか しょうすけ、1872年10月8日(明治5年9月6日) - 1942年(昭和17年)5月6日)は、明治から昭和前期の外交官、衆議院議員(立憲民政党→立憲政友会)。 鹿児島県姶良郡蒲生村(現在の姶良市)に旧薩摩藩士・赤塚源太郎の三男として生まれた。1892年(明治25年)7月、鹿児島高等中学造士館予科卒業、1894年(明治27年)7月、鹿児島高等中学造士館本科卒業。1897年(明治30年)、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業し、外交官及領事官試験に合格した。1898年(明治31年)外務省に入省し、廈門領事、釜山領事、マニラ領事、外務省通商局第一課長などを歴任し、1912年(明治45年)に広東総領事に就任した。
池田 政時(いけだ まさとき、1872年10月1日〈明治5年… 池田 政時(いけだ まさとき、1872年10月1日〈明治5年8月29日〉 - 1940年〈昭和15年〉7月9日)は、明治から昭和期の政治家、華族。貴族院子爵議員。位階勲等は正三位勲二等。 元岡山藩主・池田慶政の四男として生まれる。その後、旧備中生坂藩主・池田政礼の養子となる。養父の死去に伴い、1907年(明治40年)10月25日に子爵を襲爵した。 1887年(明治20年)アメリカ合衆国に留学し、その後、東京帝国大学法科大学を修了。1903年(明治35年)友隣生命保険に入社し、その後、十五銀行(現・みずほ銀行、三井住友銀行)などで勤めた。 1911年(明治44年)7月10日、貴族院子爵議員に選出され、研究会に所属して活動し、死去するまで5期在任した。
鵜澤 總明(うざわ ふさあき、1872年9月4日(明治5年8… 鵜澤 總明(うざわ ふさあき、1872年9月4日(明治5年8月2日)- 1955年(昭和30年)10月21日)は、日本の弁護士、政治家。学位は法学博士。新字体で鵜沢 総明(うざわ ふさあき)とも表記される。旧名・惣一。 第一東京弁護士会会長、衆議院議員、貴族院議員、大東文化学院総長、明治大学総長、明治大学理事長、国際基督教大学評議員会議長などを歴任した。 青山学院大学学長を務めた経営学者の鵜澤昌和は次男。 1872年、千葉県長柄郡上太田村(長生郡新治村、本納町を経て現在の茂原市上太田)にて、富農、鵜沢巳之松の長男・惣一として誕生する。1886年に地元の太田小学校高等科を卒業。間もなく、校長鶴岡清治郎との縁故もあって、最年少の教員として同校に就職する。
黒川 幹太郎(くろかわ かんたろう、1872年9月1日(明治… 黒川 幹太郎(くろかわ かんたろう、1872年9月1日(明治5年7月29日)- 1930年(昭和5年)10月27日)は、明治から昭和期の農林技官、政治家、華族。貴族院男爵議員。 陸軍省出仕・黒川通軌の長男として生まれる。父の死去に伴い、1903年(明治36年)3月28日に男爵を襲爵した。 1899年(明治32年)東京帝国大学農科大学林学科実科を卒業した。1902年(明治35年)営林技手に就任。その後、帝室林野管理局技師、同東京支局東京出張所長などを務めた。 1918年(大正7年)7月10日、貴族院男爵議員に選出され、公正会に所属して活動し死去するまで2期在任した。
安田 伊左衛門(やすだ いざえもん、安田 伊左衞門、1872… 安田 伊左衛門(やすだ いざえもん、安田 伊左衞門、1872年8月31日(明治5年7月28日) - 1958年(昭和33年)5月18日)は、日本の陸軍軍人、政治家。位階勲等は正五位勲三等旭日中綬章。軍人としての最終階級は陸軍騎兵大尉。衆議院議員ののち貴族院議員。他に日本競馬会理事長、日本中央競馬会理事長を務める。 安田は「日本競馬の父」「日本ダービーの生みの親」と呼ばれる。 陸軍騎兵大尉として中央馬廠戸山厩舎長であった1904年、競馬会設立の議に加わる。 1908年に馬券の発売が禁止されると、馬券発売を合法化すべく旧競馬法の制定に奔走した。 1936年の競馬倶楽部統合、日本競馬会創設に関与。同会初代理事長松平頼寿の退任を受け、第2代理事長を勤めた。
飯田 精一(いいだ せいいち / きよかず[要出典]、187… 飯田 精一(いいだ せいいち / きよかず[要出典]、1872年6月21日(明治5年5月16日) - 1945年(昭和20年)9月15日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 山口県玖珂郡、現在の岩国市で旧岩国藩士・飯田文輔の長男として生まれた。1896年、東京帝国大学独法科卒。卒業後は郵便事業研究のためドイツに留学する。通信事務官、逓信書記官、一等郵便局長を歴任する。日本製樽、讃岐電気軌道、加富登麦酒、高野登山鉄道、電気信託、宮島瓦斯、小野田セメント各(株)取締役を務め、大阪商業会議所議員、大阪株式取引所理事となる。 1908年の第10回衆議院議員総選挙において山口県郡部から立憲政友会公認で立候補して当選した。
市来 乙彦(いちき おとひこ、正体字:市來 乙彥、明治5年壬… 市来 乙彦(いちき おとひこ、正体字:市來 乙彥、明治5年壬申4月13日〈1872年5月19日〉 - 昭和29年〈1954年〉2月19日)は、日本の大蔵官僚、政治家。位階は従三位、勲等は勲一等。大蔵次官、大蔵大臣(加藤友三郎内閣)、日本銀行総裁、東京市長、貴族院議員(勅選)、参議院議員(1期3年)などを歴任した。 旧薩摩藩士の三男として、鹿児島県鹿児島市春日小路町に生まれる。地元の中学造士館を卒えて、1888年(明治21年)鹿児島高等中学造士館予科に進むが、家計の都合で中退。1889年(明治22年)に上京し、田尻稲次郎の書生となって苦学する。1890年(明治23年)10月に第一高等中学校予科へ編入学し、翌年本科へ進む。
西風 重遠(にしかぜ しげとお、1872年 5月13日(明治… 西風 重遠(にしかぜ しげとお、1872年 5月13日(明治5年4月7日)– 1942年(昭和17年)11月30日)は、明治から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員。幼名・伊之輔。 和歌山県那賀郡、のちの粉河村(粉河町を経て現紀の川市)で西風清五郎の長男として生まれた。1899年(明治32年)7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。1916年(大正5年)5月に家督を相続した。 大学卒業後、大阪商船に入社し、長崎、台湾、宇品、朝鮮の各支店長を歴任。1909年(明治42年)に退社して和歌山市で回漕業を営んだ。その他、富島組取締役、武庫酒造取締役、摂陽商船取締役、大阪商運監査役などを務めた。 1912年(明治45年)5月、第11回衆議院議員総選挙で和歌山県郡部から立憲政友会所属で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。
佐々木 春作(ささき しゅんさく、1872年4月26日(明治… 佐々木 春作(ささき しゅんさく、1872年4月26日(明治5年3月19日) - 1942年8月13日)は、日本の医師、政治家。衆議院議員(1期)。 山形県山形市五日町出身。1889年、第二高等学校医学部、1893年、東京帝国大学卒。陸軍に入り、三等軍医から一等軍医に進み、日清戦争、日露戦争に参加。山形市会員、山形県会議員、同参事会員、山形市医師会長、山形県産婆試験委員、帝国在郷軍人会山形市連合分会長、専売局顧問医、鉄道嘱託医となる。 1898年、山形市八日町に佐々木病院を開業、院長となる。山形市内のはり師・きゅう師・あんま師らによって1913年に設立された私立山形盲学校の初代校長を勤め、1921年まで任に当たった(のち県立に移管され、山形県立山形盲学校となる)。
香川 保忠(かがわ やすただ、明治5年3月8日(1872年4… 香川 保忠(かがわ やすただ、明治5年3月8日(1872年4月15日) - 昭和15年(1940年)4月13日)は、日本の衆議院議員(憲政会)、医師。 富山県中新川郡西加積村(現在の滑川市)出身。1894年(明治27年)に第四高等学校医学部を卒業後、東京帝国大学医科大学選科で学んだ。新潟県の小出病院で副院長を務めた後、帰郷して開業した。中新川郡医師会長、同衛生会副会長、富山県医師会長を歴任。さらに西加積村会議員、富山県会議員、同参事会員、同副議長に選ばれた。 1920年(大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 その他、立山鉄道専務取締役、立山製紙株式会社取締役、加積水力電気株式会社取締役、大岩電気株式会社監査役、滑川銀行監査役などを務めた。
太田 政弘(おおた まさひろ、1871年11月16日〈明治4… 太田 政弘(おおた まさひろ、1871年11月16日〈明治4年10月4日〉- 1951年〈昭和26年〉1月24日)は、日本の内務官僚、政治家。正三位。警視総監(第30代)、関東長官(第6代)、台湾総督(第14代)、貴族院議員。 山形県出身。鶴岡藩士・弁護士、太田政道の長男として生まれる。山形中学、第一高等学校を経て、1898年(明治31年)7月、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。内務属となり内務省警保局警務課勤務となる。1899年(明治32年)11月、文官高等試験に合格。1900年(明治33年)2月、三重県事務官に就任し、さらに同県内務部第1課長を務める。 1902年(明治35年)3月、宮崎県警察部長に就任。
添田 敬一郎(そえだ けいいちろう、1871年10月12日(… 添田 敬一郎(そえだ けいいちろう、1871年10月12日(明治4年8月28日) - 1953年(昭和28年)10月20日)は、日本の内務官僚、政治家。衆議院議員、埼玉県知事、山梨県知事、山形県知事などの要職を歴任した。 小浜県遠敷郡西津村(後の雲浜村西津、現・福井県小浜市)に、旧小浜藩士、福井県大飯郡長[要出典]、滋賀県神崎郡長[要出典]を務めた添田良平の長男として生まれる。第三高等学校を経て、1898年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。東京帝大では一木喜徳郎のもとで学んだ[要出典]。同年7月、内務省に入省し内務属・庶務局地理課勤務となり、同年10月、兵庫県属・内務部第一課勤務に異動。
大隈 信常(おおくま のぶつね、1871年9月30日(明治4… 大隈 信常(おおくま のぶつね、1871年9月30日(明治4年8月16日) - 1947年(昭和22年)1月11日)は、明治から昭和(戦後初期)にかけての日本の教育者、政治家、実業家、華族(侯爵)である。衆議院議員、貴族院議員、大日本東京野球倶楽部代表取締役会長(初代)、日本職業野球連盟総裁(初代)などを歴任した。また、早稲田大学名誉総長などの名誉職も務めた。大隈重信の養嗣子である。 平戸県平戸(現:長崎県平戸市)の出身。実父は旧平戸藩主松浦詮で、旧名は松浦常(まもる)である。 1899年(明治32年)東京帝国大学法科大学を卒業後、三井物産に入社する。1902年(明治35年)に大隈重信の養女・光子の婿となり、養子となる。
中原 徳太郎(なかはら とくたろう、明治4年7月20日(18… 中原 徳太郎(なかはら とくたろう、明治4年7月20日(1871年9月4日) - 昭和2年(1927年)11月17日)は、日本の衆議院議員(憲政会→立憲民政党)、整形外科医。日本医科大学学長。憲政会幹事長を歴任。 京都出身。1900年(明治33年)、東京帝国大学医科大学を卒業後、同大学助手に任命されたが、楽山堂病院副院長に転じた。日露戦争中は陸軍篤志医員として活動した。1907年(明治40年)、ドイツに留学し、医学博士の学位を得た。1914年(大正3年)、楽山堂病院を辞職して、中原病院を開いた。 同年、日本医学専門学校教授に就任し、1918年(大正7年)に校長になった。1926年(大正15年)に日本医学専門学校が日本医科大学に昇格すると、引き続き学長を務めた。
川村 竹治(かわむら たけじ、1871年9月1日〈明治4年7… 川村 竹治(かわむら たけじ、1871年9月1日〈明治4年7月17日〉- 1955年〈昭和30年〉9月8日)は、大正から昭和にかけて活躍した官僚・政治家。南満洲鉄道(満鉄)社長、台湾総督、司法大臣等を歴任。 江刺県鹿角郡花輪村(現:秋田県鹿角市花輪)出身。日本中学などから一高を経て、1897年(明治30年)、東京帝国大学法科大学英法科卒業。同年、内務省に入省した後、逓信省書記官、内務省書記官、内務参事官、台湾総督府内務局長などを歴任し、1911年(明治44年)より和歌山県知事を務めた。1914年(大正3年)、香川県知事。1917年(大正6年)、青森県知事。1918年(大正7年)、内務省警保局長。
横堀 治三郎(よこぼり じさぶろう、明治4年3月20日(18… 横堀 治三郎(よこぼり じさぶろう、明治4年3月20日(1871年5月9日) - 昭和13年(1938年)5月27日)は、衆議院議員(立憲政友会)、冶金学者。 上総国長柄郡茂原町(現在の千葉県茂原市)出身。共立学校、第一高等中学校を経て、1894年(明治27年)に東京帝国大学工科大学採鉱冶金学科を卒業。三菱合資会社高島炭鉱技師となったが、1896年(明治29年)に東京帝国大学工科大学助教授に就任した。翌年よりドイツに留学し、1899年(明治32年)に帰国した後は京都帝国大学理工科大学教授に迎えられた。1901年(明治34年)、工学博士号を受ける。 1913年(大正2年)に澤柳事件により京都帝国大学を辞したが、1917年(大正6年)に秋田鉱山専門学校校長に就き、1925年(大正14年)まで在職した。
尾澤 良助(おざわ りょうすけ、1871年4月18日《旧暦明… 尾澤 良助(おざわ りょうすけ、1871年4月18日《旧暦明治4年2月29日》 - 1921年(大正10年)2月14日)は、日本の薬剤師、政治家。学位は薬学士(帝国大学・1892年)。姓の「澤」は「沢」の旧字体のため、尾沢 良助(おざわ りょうすけ)と表記されることもある。長男の尾澤良靖も、のちに「良助」を襲名しているため、混同しないように注意を要する。 尾澤総本店店主、東京府東京市牛込区会議員などを歴任した。 浦和県豊島郡出身の薬剤師である。「脈をとらせても当代一」と謳われた薬種商の尾澤良甫の長男として生まれ、私立薬学校を経て薬舗開業試験に合格し、のちに帝国大学でも学んだ。大学卒業後は、家業である尾澤薬舗を継承し、尾澤総本店の店主となった。
中馬 興丸(ちゅうま おきまる、旧姓・天崎、1871年4月1… 中馬 興丸(ちゅうま おきまる、旧姓・天崎、1871年4月1日(明治4年2月12日) – 1936年(昭和11年)3月14日)は、日本の政治家、医師。衆議院議員(兵庫県第二区選出、当選3回)。尼崎中馬病院主。族籍は兵庫県士族。 摂津国川辺郡尼崎(現在の兵庫県尼崎市)で、浄土真宗本願寺派西性寺の天崎紹印の三男として生まれ、中馬譲吉の養子となった。1898年(明治31年)、東京帝国大学医科大学を卒業。日露戦争に従軍し、陸軍一等軍医に任ぜられた。姫路県立病院副院長を務めた後、中馬病院を開業した。一般の診療に従事した。また尼崎市医師会長、琴浦育児院長、尼崎市訓盲院長などを務めた。 1920年(大正9年)の第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。
川崎 卓吉(かわさき たくきち、1871年3月8日〈明治4年… 川崎 卓吉(かわさき たくきち、1871年3月8日〈明治4年1月18日〉- 1936年〈昭和11年〉3月27日)は、日本の官僚、政治家。広島県賀茂郡広村(現:呉市広町)生まれ。 医師の二男として生まれる。旧制広島中学校(現:広島県立広島国泰寺高等学校)に入学するも4年で中退し、千葉中学校(現:千葉県立千葉高等学校)に編入。旧制第一高等学校を経て、1903年(明治36年)に東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。自治制度研究のため大学院に進み、修了後に内務省入りした。 1916年(大正5年)、福島県知事。1919年(大正8年)、台湾総督府内務局長、さらに殖産局長となる。1922年(大正11年)、名古屋市長。
井上 孝哉(いのうえ こうさい、1870年11月7日(明治3… 井上 孝哉(いのうえ こうさい、1870年11月7日(明治3年10月14日) - 1943年(昭和18年)11月22日)は、日本の官僚・政治家。元衆議院議員。岐阜県出身。岐阜中学(現在の岐阜県立岐阜高等学校)、第一高等学校を経て東京帝国大学(現在の東京大学)卒業。 東京帝国大学卒業後、高等文官試験行政科に合格。内務書記官などを経て、1908年に佐賀県知事に就任。1917年、富山県知事に就任。1919年、神奈川県知事に就任。1922年、大阪府知事に就任。1923年、内務次官に就任した。 1919年ごろ現職の知事も衆議院議員に立候補できる制度が制定された。当時この制度を利用していたのは井上孝哉と警視総監を務めた宮田光雄の2名だけであった。
安田 善三郎(やすだ ぜんざぶろう、1870年11月3日(明… 安田 善三郎(やすだ ぜんざぶろう、1870年11月3日(明治3年10月10日) - 1930年(昭和5年)1月9日)は、日本の実業家、政治家。実業家伊臣忠一の子で、安田善次郎の婿養子。安田財閥を指導し、様々な企業の重役を務めた。高学歴の人材登用など財閥の近代化を図ったが、善次郎と対立し離縁される。貴族院議員。オノ・ヨーコの祖父。 1870年(明治3年)10月10日生まれ。宇和島藩士伊臣忠一の子で、旧名を伊臣貞太郎という。1892年、帝国大学法科大学卒業後、安田製釘所に入社。1895年、安田財閥総帥安田善次郎の次女・暉子と結婚(媒酌人は穂積陳重)。同時に善次郎の養嗣子となる。 明治商業銀行、京都銀行、安田商事、安田銀行、第三銀行などの監督、大垣共立銀行、帝国製麻の社長、百三十銀行、日本商業銀行などの頭取、信濃銀行取締頭取、東京火災海上運送保険、東京建物、横浜電気鉄道などの取締役、鐘淵紡績、共済生命保険、水戸鉄道、肥後銀行などの監査役を務めた。
小橋 一太(こばし いちた、1870年10月25日〈明治3年… 小橋 一太(こばし いちた、1870年10月25日〈明治3年10月1日〉- 1939年〈昭和14年〉10月2日)は、日本の官僚、政治家。族籍は熊本県士族。 熊本県士族・小橋元雄の長男。旧制第五高等学校卒業。1898年(明治31年)、東京帝国大学法科大学英法科卒業。内務省の各局長を歴任。1918年(大正7年)、原内閣で内務次官に就任。1920年(大正9年)、立憲政友会より衆議院議員に当選(以後、3期連続当選)。1924年(大正13年)、清浦内閣で内閣書記官長に就任。 政友本党に参加し、政務調査会長・幹事長を歴任。1927年(昭和2年)、立憲民政党の結成に関わる。1929年(昭和4年)、濱口内閣で文部大臣に就任。
伊藤 俊介(いとう しゅんすけ、1870年9月5日(明治3年… 伊藤 俊介(いとう しゅんすけ、1870年9月5日(明治3年8月10日)- 1924年(大正13年)1月24日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員、神戸基督教青年会会長。 播磨国宍粟郡、のちの兵庫県宍粟郡染河内村(一宮町を経て現宍粟市一宮町)で生まれた。のち伊藤繁右衛門の養子となる。同志社、第三高等学校を経て、1896年(明治29年)帝国大学法科大学政治学科を卒業した。 兵庫県農工銀行に入り、のち取締役兼支配人に就任。伊藤博文の別名と間違えられて有名となり、1902年(明治35年)8月、第7回衆議院議員総選挙(兵庫県郡部、壬寅会)で当選し、衆議院議員に1期在任した。しかし、農工銀行の経営に支障が起こり、その責めを負って退社した。