大口 喜六(おおぐち きろく、1870年6月23日(明治3年… 大口 喜六(おおぐち きろく、1870年6月23日(明治3年5月25日) - 1957年(昭和32年)1月27日)は日本の政治家。豊橋市長や明治憲法下の衆議院議員などを務めた。 大口喜六は廃藩置県前の三河国豊橋藩船町(現愛知県豊橋市船町)で明治3年5月25日(1870年6月23日)に生まれた。幼名理一郎、号は蓊山。東京帝国大学選科で薬学を学び、帰郷後薬局を開業した。 政治家を志し、1893年(明治26年)、改進党に入党。1895年(明治28年)、豊橋町議に当選、1898年(明治31年)三浦碧水の後継者として豊橋町長に就任した。 1906年(明治39年)8月1日市制を施行し、初代市長に選ばれた。翌年1907年(明治40年)に豊橋市長に就任、1912年(明治45年)に市長を退任した。
濱口 雄幸(はまぐち おさち、1870年5月1日〈明治3年4… 濱口 雄幸(はまぐち おさち、1870年5月1日〈明治3年4月1日〉- 1931年〈昭和6年〉8月26日)は、日本の大蔵官僚、政治家。位階は正二位。勲等は勲一等。号は空谷。 大蔵大臣(第25代)、内務大臣(第43代)、内閣総理大臣(第27代)、立憲民政党総裁(初代)などを歴任した。その風貌から「ライオン宰相」と呼ばれた。大日本帝国憲法下で、衆議院から総理大臣となった3人のうちの1人である。 1870年5月1日(明治3年4月1日)、土佐国長岡郡池村唐谷(のちの五台山村を経て現:高知市)の林業を営む水口家に水口胤平の3人兄弟の末子として生まれる。 1889年(明治22年)、高知県安芸郡田野村(現:田野町)の素封家・濱口義立の16歳の長女・夏と結婚し、濱口家の養嗣子となる。
杉山 四五郎(すぎやま しごろう、1870年2月6日〈明治3… 杉山 四五郎(すぎやま しごろう、1870年2月6日〈明治3年1月6日〉- 1928年〈昭和3年〉6月13日)は、日本の内務官僚、政治家。政友会系府県知事、衆議院議員。 越後国蒲原郡島潟村出身。大庄屋役・小川右平太の四男[要出典]として生まれ、1894年(明治27年)に大蔵省官吏・杉山叙(松本藩士・杉山叙主の次男[要出典]。明治維新後官界に入り、丸亀税務監督局長を務めた)の養子となる。開成中学、第一高等学校を経て、1894年7月、帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年8月、内務省に入り、愛知県属として内務部第一課長に発令された。1895年(明治28年)11月、高等文官試験行政科試験に合格した。 1896年(明治29年)1月、内務属となり土木局に配属された。
井坂 孝(いさか たかし、1870年1月9日(明治2年12月… 井坂 孝(いさか たかし、1870年1月9日(明治2年12月8日)- 1949年(昭和24年)6月19日)は、日本の実業家、政治家。貴族院勅選議員、枢密顧問官。 常陸国茨城郡水戸(現在の茨城県水戸市)で水戸藩士・井坂幹の三男として生まれる。茨城県尋常中学校、第一高等学校を経て、1896年(明治29年)7月、東京帝国大学法科大学を卒業し、東洋汽船会社に入社。 以後、東洋汽船会社取締役兼営業部長、横浜海上火災保険 (株) 専務取締役、同社長を務めた。経営破綻した七十四銀行の整理を行い、受け皿となる横浜興信銀行を設立し、副頭取、頭取を務めた。1921年(大正10年)4月、横浜商業会議所会頭に就任し関東大震災の復興に尽力した。
小川 平吉(おがわ へいきち、1870年1月2日〈明治2年1… 小川 平吉(おがわ へいきち、1870年1月2日〈明治2年12月1日〉- 1942年〈昭和17年〉2月5日)は、日本の政治家、弁護士。号は射山。東京府平民。 衆議院議員、国勢院総裁、司法大臣、鉄道大臣等を歴任した。警視総監を務めた斎藤樹は娘婿、宮沢喜一は孫にあたる。 1892年(明治25年)、弁護士となり、1901年(明治34年)には近衛篤麿に従って上海の東亜同文書院創立に参画。 1903年(明治36年)、衆議院総選挙に出馬し当選、以来当選10回。 日露主戦論の急先鋒となった。日比谷焼打事件が起きた1905年(明治38年)9月5日の国民大会の主催者8名の1人であったことなどから芝警察署に検挙されたが無罪。
伊沢 多喜男(いさわ たきお、旧字体: 伊澤 多喜男、186… 伊沢 多喜男(いさわ たきお、旧字体: 伊澤 多喜男、1869年12月26日〈明治2年11月24日〉 - 1949年〈昭和24年〉8月13日)は、日本の内務官僚、政治家。 信濃国高遠藩士伊澤勝三郎(文谷)(高遠藩士武井堀右衛門の子で、高遠藩主内藤頼寧に召しだされた伊澤清治の子)の子として生まれる。慶應義塾普通部、第三高等中学校を経て、1895年(明治28年)、東京帝国大学法科大学を卒業、一旦愛知県属となり1897年(明治30年)内務省に入省する。以後山梨県と岐阜県の各県参事官、岐阜県・福井県・滋賀県の各県書記官、滋賀県事務官などを歴任した。1907年(明治40年)に内務大臣であった原敬に引き立てにより警視庁警視、次いで和歌山県知事を務めた。
南 弘(みなみ ひろし、1869年11月13日〈明治2年10… 南 弘(みなみ ひろし、1869年11月13日〈明治2年10月10日〉- 1946年〈昭和21年〉2月8日)は、日本の官僚・政治家。 後の富山県氷見市仏生寺の豪農岩間覚平の次男・鉄郎として生まれる。岩間家は3代にわたり県会議員を輩出した名望家で、広大な屋敷地や山林を所有していた。生家の近くに御田神社があり、幼少時よりその宮司平井正承の教えを受けた。その後仏生寺小学校、富山中学校、第四高等学校に進み、1896年(明治29年)に東京帝国大学法科大学政治学科を卒業、文官高等試験に合格し官僚となった。 その後、同県高岡の旧家出身で第2代富山県会議長を務めた南兵吉の養子となり、その長女・操と結婚した際、「弘」と改名した。
勝田 主計(しょうだ かずえ、1869年10月19日〈明治2… 勝田 主計(しょうだ かずえ、1869年10月19日〈明治2年9月15日〉- 1948年〈昭和23年〉10月10日)は、日本の大蔵官僚、政治家。理財局長、大蔵次官、蔵相、文相、内閣参議を歴任。同郷の俳人・正岡子規や海軍軍人・秋山真之の友人だった。勝田宰州、勝田明庵は俳号。 1869年(明治2年)、伊予国松山一番町(現在の愛媛県松山市)に生まれた。松山藩士・勝田久廉の五男。 勝山学校、伊予尋常中学、一高を経て、1895年(明治28年)に東京帝国大学法科大学を卒業、大蔵省に入省。主税局属。1901年(明治34年)6月の函館税務管理局長兼税関長時代に関税法などの調査のために2年間ヨーロッパに派遣される。
斯波 貞吉(しば ていきち、明治2年8月17日(1869年9… 斯波 貞吉(しば ていきち、明治2年8月17日(1869年9月22日) - 昭和14年(1939年)10月14日)は、日本の衆議院議員(憲政会→立憲民政党)、ジャーナリスト。 越前国福井に、藩士斯波有造の長男として生まれる。1891年(明治24年)にオックスフォード大学を卒業した後、東京帝国大学文科大学英文科に入り、1896年(明治29年)にその選科を卒業した。盛岡中学校と高輪中学校で教鞭をとり、さらに仏教大学(現在の龍谷大学)の教授を務めた。 1899年(明治32年)、黒岩涙香に招かれて「萬朝報」に入社した。当初は英文記者であったが、やがて編集局長、さらに主筆を務めた。特に普選運動には積極的に取り組んだ。
折原 巳一郎(おりはら みいちろう、明治2年8月7日〈186… 折原 巳一郎(おりはら みいちろう、明治2年8月7日〈1869年9月12日〉 - 1933年〈昭和8年〉11月13日)は、日本の内務官僚、政治家。政友会系官選県知事、衆議院議員。 上野国邑楽郡、のちの群馬県邑楽郡大箇野村(現板倉町)に、村長・県会議員として活躍した折原逸太郎の長男として生まれる。第一高等学校を経て、1896年(明治29年)に帝国大学法科大学を卒業。内務省に入り警保局属に任官し戸籍課に配属。同年12月、文官高等試験行政科試験に合格。 1897年(明治30年)愛媛県参事官となり、以後、静岡県・和歌山県の各参事官、大阪府第三部長、滋賀県事務官・第一部長兼第三部長、福岡県・兵庫県の各内務部長などを歴任。
宇佐美 勝夫(うさみ かつお、1869年6月21日〈明治2年… 宇佐美 勝夫(うさみ かつお、1869年6月21日〈明治2年5月12日〉 - 1942年〈昭和17年〉12月26日)は、日本の内務官僚、政治家。幼名は慎平。富山県知事、東京府知事、貴族院議員などを歴任した。 山形県士族宇佐美駿太郎の弟。 米沢藩士(馬廻組、100石。上杉斉憲〈戊辰戦争時の米沢藩主〉の御側役)で、戸長を務めていた宇佐美勝作の二男として生まれる。米沢中学、第一高等学校を経て、1896年7月、帝国大学法科大学政治学科を卒業。内務省に入り内務属として県治局に配属された。同年10月、文官高等試験に合格。 1897年4月26日、徳島県参事官に就任。以後、京都府参事官、内務書記官・宗教局、宗教局第一課長兼第二課長、大臣官房文書課長、兼内務省参事官などを歴任。
俵 孫一(たわら まごいち、1869年6月16日〈明治2年5… 俵 孫一(たわら まごいち、1869年6月16日〈明治2年5月7日〉- 1944年〈昭和19年〉6月17日)は、日本の官僚、政治家。衆議院議員。商工大臣、立憲民政党幹事長などを歴任した。従二位勲一等。 1869年(明治2年)5月7日、石見国浜田(現:島根県浜田市)に俵家の3代目・三九郎、ミナの五男として生まれる。幼少の頃から家業の醤油醸造、ろうそくの製造販売等を手伝う。 浜田中学(現・島根県立浜田高等学校)、泊園書院(現:関西大学)、共立学校(現:開成中学校)、第一高等学校を経て1895年(明治28年)帝国大学法科大学英法科(現:東京大学法学部)を卒業する。卒業後は内務官僚として官界に入り、1907年(明治40年)大韓帝国の学部次官、1910年(明治43年)同国の土地調査局副総裁(後の朝鮮総督府臨時土地調査局副総裁)に就任。
菅原 通敬(すがわら みちよし、1869年2月16日(明治2… 菅原 通敬(すがわら みちよし、1869年2月16日(明治2年1月6日)– 1946年(昭和21年)12月18日)は、日本の大蔵官僚・政治家。大蔵次官、貴族院議員、枢密顧問官、錦鶏間祗候。 仙台藩士・郡長、菅原通実の長男として生まれる。仙台中学、第一高等学校を経て、1895年7月、帝国大学法科大学政治学科を卒業。大蔵省に入省し大蔵属となり、主税局に配属された。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。 1895年11月、横浜税関倉庫課長に就任。以後、沖縄県収税長、司税官・熊本税務管理局、税務監督官・主税局内国税課、函館税務管理局長、丸亀税務管理局長、神戸税務管理局長、神戸税務監督局長、大蔵書記官・主税局内国税課長、主税局長などを歴任。
伊藤 祐一(いとう すけかず、明治元年11月12日(1868… 伊藤 祐一(いとう すけかず、明治元年11月12日(1868年12月25日) - 大正6年(1917年)10月23日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→立憲同志会)。農商務官僚。 陸奥国弘前(青森県弘前市)出身。1896年(明治29年)、東京帝国大学法科大学を卒業。林務官、農商務参事官、山林局事務官、札幌鉱山監督署長を歴任した。 1912年(明治45年)、第11回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。
百瀬 興政(ももせ おきまさ、1868年10月27日〈明治元… 百瀬 興政(ももせ おきまさ、1868年10月27日〈明治元年9月12日〉- 1939年〈昭和14年〉4月21日)は、長野県出身の医師、政治家。松本市長。旧姓・柳野。 信濃国松本城下(現:長野県松本市)に松本藩士・柳野興一の次男として生まれ、百瀬元章の養子となる。1888年(明治21年)東京帝国大学医科大学別科を卒業。翌年、松本に医院を開業。医院を経営する傍ら、従兄弟の木下尚江らとともに普選運動や禁酒運動に参加する。1901年(明治34年)東筑摩郡看護婦会を組織する。1922年(大正11年)5月1日、松本信用組合(現:松本信用金庫)を設立し組合長に就任。 1898年(明治31年)松本町会議員に当選。
秋山 定輔(あきやま ていすけ、慶応4年7月7日(1868年… 秋山 定輔(あきやま ていすけ、慶応4年7月7日(1868年8月24日) - 昭和25年(1950年)1月19日)は、岡山県出身の政治家、実業家。衆議院議員。『二六新報』社長。 備前国窪屋郡、のちの岡山県都窪郡倉敷町(現倉敷市)で生まれる。父の秋山儀四郎は倉敷の出身で、堂島の米相場で成功したのち道頓堀の角座・浪花座を買収した大阪興行界の大物であった。東京帝国大学卒業後、会計検査院に勤務。1893年に大石正巳・稲垣満次郎を顧問に『二六新報』を社長として創刊。資金難のため1895年休刊。1900年再刊し、三井財閥攻撃、娼妓自由廃業などの醜聞暴露キャンペーンによって民衆の人気を博す。同様に有名人のスキャンダルを売り物とする『萬朝報』紙と売り上げを二分した。
木村 艮(きむら ごん、1868年8月19日(明治元年7月2… 木村 艮(きむら ごん、1868年8月19日(明治元年7月2日)- 1930年(昭和5年)10月2日)は、明治から昭和初期の農業技術者、実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・西川。 山城国綴喜郡、のちの京都府綴喜郡田辺村(田辺町を経て現京田辺市)で、西川長次の二男として生まれ、1885年(明治18年)木村艮司の養子となり、1891年(明治24年)4月、家督を相続した。1896年(明治29年)7月、帝国大学農科大学農学科を卒業した。 京都府技師となる。同年8月、京都府農会技師兼幹事となり1908年(明治41年)4月まで在任。この間、京都府立農林学校嘱託教師、京都蚕業講習所嘱託教師、京都府立農事試験場嘱託なども務め、京都府下の農業振興に尽力した。
湯川 寛吉(ゆかわ かんきち、慶応4年5月24日(1868年… 湯川 寛吉(ゆかわ かんきち、慶応4年5月24日(1868年7月13日) - 昭和6年(1931年)8月23日)は、第5代住友総理事である。 慶応4年(1868年)5月24日、紀伊国東牟婁郡新宮町841番地(現和歌山県新宮市千穂1丁目)で紀伊新宮藩の藩医湯川寛斎と八重の長男として生まれた。新宮小学校を卒業後、和歌山中学校へ入学したが中退し、東京ドイツ協会学校に在籍した。明治15年(1882年)東京大学予備門に入学して医科大学へ進む予定であったが、独法科が設置された法科大学に転学し、明治23年(1890年)東京帝国大学法科大学独法科を卒業した。 同年逓信省に入り、明治27年(1894年)日清戦争の野戦高等郵便局長として戦地で活躍、明治28年(1895年)東京郵便電信学校の校長となる。
長島 鷲太郎(ながしま わしたろう、慶応4年4月8日(186… 長島 鷲太郎(ながしま わしたろう、慶応4年4月8日(1868年4月30日) - 昭和9年(1934年)7月27日)は、衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。法学博士。キリスト教徒。 安房国安房郡勝山(現在の鋸南町)に安房勝山藩士長島永豊の長男として生まれ、1872年(明治5年)に一家は東京に移住した。1890年(明治23年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、司法省参事官試補となるが、1893年(明治26年)に辞して弁護士を開業し、後には東京弁護士会会長に就任した。また日本法律学校・明治法律学校・和仏法律学校・東京法学院・専修学校で講師を務め、日本法律学校では幹事となった。 1908年(明治41年)、第10回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。
松井 慶四郎(まつい けいしろう、1868年3月28日〈慶応… 松井 慶四郎(まつい けいしろう、1868年3月28日〈慶応4年3月5日〉- 1946年〈昭和21年〉6月4日)は、日本の外交官、政治家。男爵。大阪府出身。松井保蔵二男。 妻の照子は西日本の鉄道王と呼ばれた実業家の今村清之助の娘。長女に日本の洋裁教育と服飾デザインの礎を作った田中千代、二女・貞子は安川電機社長の安川寛(安川敬一郎孫)の妻。長男はフランス大使となった松井明。慶四郎の死後、長男の明は襲爵手続をしなかった。
丸山 嵯峨一郎(まるやま さがいちろう、慶応4年1月21日(… 丸山 嵯峨一郎(まるやま さがいちろう、慶応4年1月21日(1868年2月14日) - 昭和19年(1944年)2月5日)は、日本の衆議院議員(自由党→憲政党→立憲政友会→政友本党)、弁護士。 越後国魚沼郡馬場村(現在の新潟県十日町市)出身。1887年(明治20年)に第一高等中学校に入学し、1891年(明治24年)に卒業。同年、東京帝国大学法科大学に入学し、1894年(明治27年)に卒業した。卒業後は弁護士事務所を新潟市に開いた。 1898年(明治31年)、第5回衆議院議員総選挙に出馬し当選。以後、第6回、第9回、第13回、第14回の計5回当選を果たした(第9回は補欠当選)。 その他、新潟商業会議所特別会員、新潟県弁護士会長、新潟県競馬倶楽部会長を務めた。
水野 錬太郎(みずの れんたろう、1868年2月3日〈慶応4… 水野 錬太郎(みずの れんたろう、1868年2月3日〈慶応4年1月10日〉- 1949年〈昭和24年〉11月25日)は、日本の内務官僚、政治家。勲等は勲一等。内務大臣、朝鮮総督府政務総監、文部大臣、貴族院議員などを歴任した。 江戸詰の秋田藩士水野立三郎の子として1868年2月3日(慶應4年1月10日)、江戸浅草鳥越町の秋田藩邸で生まれた。立三郎は秋田の出でなく埼玉の出で、江戸で取り立てられた武士である。立三郎は秋田藩主佐竹義堯の弟佐竹義諶(よしつま)に仕えた。佐竹義諶は秋田藩の支藩岩崎藩主で、1869年(明治2年)義諶(1870年死去)、13歳の佐竹義理(よしただ)が継いだ。 立三郎は戊辰戦争で官軍についた秋田藩のために、妻生後間もない水野と2人の姉を連れて現在の秋田県湯沢市岩崎に避難。
宮尾 舜治(みやお しゅんじ、1868年2月1日〈慶応4年1… 宮尾 舜治(みやお しゅんじ、1868年2月1日〈慶応4年1月8日〉- 1937年〈昭和12年〉4月3日)は、日本の官僚、外地行政官、政治家。官選県知事、貴族院議員、錦鶏間祗候。新潟県出身。 越後国頸城郡広島村の名主・宮尾権九郎の長男として生まれた。父はこののち同村の助役となるが、この村は宮尾家の祖先が開いた地として知られていた。1881年(明治14年)、小島荷裳塾に入塾。1886年(明治19年)、第一高等中学校予科に入学、1889年(明治22年)には本科に進学する。下宿の隣家に寄寓していた神戸の瓦煎餅の職人が店の出資者を探しているとの話に興味を持ち、実家の父を説得して資金を出してもらい翌年11月には両国でせんべい屋「紀文堂」を開業したところ、これが大当たりとなって多忙を極めるようになり、そのため学校の方は欠席がかさんで1891年(明治24年)に本科2年を落第の憂き目に遭う。
中村 是公(なかむら よしこと、通称: なかむら ぜこう、な… 中村 是公(なかむら よしこと、通称: なかむら ぜこう、なかむら これきみ、1867年12月20日〈慶応3年11月25日〉- 1927年〈昭和2年〉3月1日)は、日本の官僚・実業家・政治家である。南満洲鉄道株式会社(満鉄)総裁、鉄道院総裁、東京市長、貴族院議員などを歴任した。 作家・夏目漱石の親友としても知られ、官僚出身らしからぬ豪放磊落な性格で、「べらんめい総裁」「フロックコートを着た猪」「独眼龍」などの異名をとった。 安芸国佐伯郡五日市村(五日市町を経て現:広島県広島市佐伯区)に酒造業・柴野宗八の五男として生まれる。柴野家の墓は現在でも広島市佐伯区五日市の光禅寺にある。兄は大審院検事・鈴木宗言。
鈴木 喜三郎(すずき きさぶろう、1867年11月6日〈慶応… 鈴木 喜三郎(すずき きさぶろう、1867年11月6日〈慶応3年10月11日〉- 1940年〈昭和15年〉6月24日)は、日本の司法官僚、政治家。立憲政友会第7代総裁。旧姓は川島。鳩山和夫の長女カヅと結婚し、鳩山一郎は義弟にあたる。司法官僚から、貴族院議員、清浦奎吾内閣の司法大臣、田中義一内閣の内務大臣を歴任し、衆議院議員から再度貴族院議員となった。犬養毅暗殺後の立憲政友会第7代総裁(在任、昭和7 - 昭和12、1932年 - 1937年)を務めた。位階勲等は従二位勲一等。 慶応3年10月11日(1867年11月6日)、武蔵国橘樹郡大師河原村(後の神奈川県川崎市)の川島富右衛門の三男に生まれる。
高橋 作衛(たかはし さくえ、1867年11月5日(慶応3年… 高橋 作衛(たかはし さくえ、1867年11月5日(慶応3年10月10日)- 1920年(大正9年)9月12日)は、日本の法学者・政治家。専門は国際法。学位は、法学博士。東京帝国大学名誉教授。帝国学士院会員、貴族院議員、法制局長官。 信濃国高遠藩儒で、維新後に長野県立長野中学教諭となった高橋白山の長男として肥前国(長崎県)に生まれる。第一高等学校を経て、1894年9月、帝国大学法科大学政治学科を首席で卒業。海軍教授となり、日清戦争に際し常備艦隊司令長官付の幕僚(法律顧問)、さらに旅順口根拠地司令長官付(通訳)に異動。1895年5月、海軍大学校勤務となり1896年3月まで務めた。1897年9月から英仏独に留学。
平沼 騏一郎(ひらぬま きいちろう、1867年10月25日〈… 平沼 騏一郎(ひらぬま きいちろう、1867年10月25日〈慶応3年9月28日〉- 1952年〈昭和27年〉8月22日)は、日本の司法官僚、政治家。位階勲等爵位は正二位勲一等男爵。学位は法学博士。号は機外。 大審院検事局検事総長(第8代)、大審院長(第11代)、日本大学総長(第2代)、大東文化学院総長(初代)、財団法人大東文化協会会頭(第3代)、司法大臣(第26代)、貴族院議員、枢密院副議長(第11代)、枢密院議長(第17・21代)、内閣総理大臣(第35代)、国務大臣、内務大臣(第62代)を歴任。 美作国津山藩士平沼家に生まれる。東京帝国大学法科卒業後、明治21年から司法省に入省し、東京控訴院検事に補せられて以降、検事畑を進み、1905年(明治38年)には大審院検事、1906年(同39年)には司法省民刑局長に就任した。
黒金 泰義(くろがね やすよし、1867年8月12日(慶応3… 黒金 泰義(くろがね やすよし、1867年8月12日(慶応3年7月13日)- 1941年(昭和16年)3月24日)は、日本の内務官僚、政治家。憲政会系官選県知事、衆議院議員、函館区長。 米沢藩士・黒金泰乗の長男として生まれる。第一高等学校を経て、1896年、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。内務省に入り警視庁属となる。1897年12月、文官高等試験行政科試験に合格。 以後、警視庁警部・第二部第二課長、警視・小石川警察署長、京橋警察署・本所警察署・深川警察署・神田警察署・品川警察署の各署長、山口県警部長、栃木県警部長、警視庁第二部長などを歴任。1907年1月、北海道庁に転じ、事務官・第五部長、拓殖部長、庶務部長などを歴任。
岸 清一(きし せいいち、慶応3年7月4日(1867年8月3… 岸 清一(きし せいいち、慶応3年7月4日(1867年8月3日) - 1933年(昭和8年)10月29日)は、日本の弁護士、政治家。国際オリンピック委員会(IOC)委員。日本の体育・スポーツ界発展のため尽力し、“近代スポーツの父”として慕われた。法学博士。 慶応3年7月4日(1867年8月3日)、松江雑賀町(現在の島根県松江市雑賀町)に松江藩の下級武士・岸伴平の次男として生まれる。小学校時代の同級生に若槻禮次郎(第25代・第28代内閣総理大臣)がいる。岸と若槻は血のつながりはないが、近い親類だった。 松江雑賀小学校、島根県第一中学校(現在の島根県立松江北高等学校)、大学予備門を経て東京帝国大学法科大学英法科に進学。
今泉 嘉一郎(いまいずみ かいちろう、慶応3年6月27日〈1… 今泉 嘉一郎(いまいずみ かいちろう、慶応3年6月27日〈1867年7月28日〉 - 1941年〈昭和16年〉6月29日)は、日本の実業家、政治家。鉄鋼技術者として官営八幡製鉄所に勤務したのち、日本鋼管(後のJFEホールディングス)を創業。衆議院議員(1期)も務めた。工学博士。 慶応3年(1867年)、上野国勢多郡東村花輪に生まれる。父・彦右衛門(のち彦作)は幕府代官付の村吏を務め、明治維新後には区長となった。母・常子は伊勢崎藩の藩医だった原(入婿し田村)常益の二女として生まれ、12歳で江戸へ出て浅田宗伯に学んだのち、17歳で漢方医となっている。 1873年(明治6年)に祥禅寺で花輪小学校が開校されると嘉一郎は直ちに入学。
綾部 惣兵衛(あやべ そうべえ、慶応3年6月6日(1867年… 綾部 惣兵衛(あやべ そうべえ、慶応3年6月6日(1867年7月7日) - 大正12年(1923年)10月5日)は、日本の衆議院議員(憲政本党→立憲国民党→立憲同志会→憲政会)。薬剤師。 武蔵国入間郡川越町(現在の埼玉県川越市)出身。東京帝国大学医科大学製薬科や日本薬学校で薬学を学んだ後、郷里に薬局を開き、後には日本薬剤師会埼玉支部長となった。また川越町会議員、入間郡会議員、同参事会員、埼玉県会議員、同参事会員に選出された。 1908年(明治41年)、第10回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第14回に至るまで4回当選を果たした。 その他に川越商業会議所副会頭を務め、また日本薬剤株式会社取締役、帝国化学製麻株式会社取締役、中武銀行取締役、関東印刷株式会社取締役、東日本炭鉱株式会社監査役を務めた。
佃 安之丞(つくだ やすのじょう、慶応3年5月16日(186… 佃 安之丞(つくだ やすのじょう、慶応3年5月16日(1867年6月18日) - 大正10年(1921年)10月22日)は、日本の衆議院議員(新政会)、医師。 伊勢国飯野郡機殿村(現在の三重県松阪市)出身。東京帝国大学医科大学別科を卒業。飯南郡医、三重県臨時検疫部検疫官、三重県警察医を務め、飯南郡医師会長、三重県医師会長、大日本医師会理事を歴任した。また飯南郡会議員、同議長、三重県会議員、同副議長、同議長に選出された。 1917年(大正6年)、第13回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。
一木 喜徳郎(いちき きとくろう、旧字体: 一木 喜德郞、1… 一木 喜徳郎(いちき きとくろう、旧字体: 一木 喜德郞、1867年5月7日〈慶応3年4月4日〉- 1944年〈昭和19年〉12月17日)は、日本の内務官僚、法学者(公法学)、政治家。位階勲等は従一位大勲位。爵位は男爵。旧名は岡田 丘平(おかだ きゅうへい)。号は梁舟。 公法学を専門とする法学者で、帝国大学の法科大学では教鞭を執り、帝国学士院会員にも選任された。天皇機関説を提唱したことでも知られており、美濃部達吉ら後進の育成に努めたが、のちに天皇機関説事件において美濃部らとともに激しい批判に晒された。貴族院勅選議員に勅任されてからは、第1次桂内閣の法制局長官をはじめ、第2次大隈内閣の文部大臣や内務大臣など要職を歴任した。
神崎 東蔵(東藏、かんざき とうぞう、1867年4月14日(… 神崎 東蔵(東藏、かんざき とうぞう、1867年4月14日(慶應3年3月10日)- 没年不詳)は、明治から大正期の裁判官・弁護士・政治家。衆議院議員、佐賀市会議長。 武蔵国江戸麻布(現東京都港区)で佐賀藩士・神崎要助、のせ の四男として生まれる。1889年(明治22年)帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業した。 司法官に任官し、判事試補、和歌山地方裁判所判事、佐賀地方裁判所判事などを歴任し、1891年(明治24年)に退官し佐賀市で弁護士を開業し、その後、福岡市、長崎市、小倉市、久留米市などにも出張所を開設した。 1897年(明治30年)憲政本党に入党し、佐賀市会議員、同議長、佐賀県会議員、佐賀商業会議所議員、九州鉄道顧問などを務めた。
小林 源蔵(こばやし げんぞう、慶応3年3月6日(1867年… 小林 源蔵(こばやし げんぞう、慶応3年3月6日(1867年4月10日) - 大正10年(1921年)1月9日)は、日本の鉄道官僚、衆議院議員(立憲政友会)。位階勲等は正四位勲三等。 出羽国旧米沢藩士の秋山家に生まれ、小林家の養子となった。1894年(明治27年)、東京帝国大学法科大学を卒業。逓信省に入り、鉄道書記となった。1897年(明治30年)、鉄道事務官に昇進。1902年(明治35年)から翌年にかけて欧米各国の鉄道事務を視察した。 日露戦争が勃発すると野戦鉄道経理部庶務課長に任命されたが、戦地に赴く途中、乗船していた佐渡丸がロシアの攻撃を受け、捕虜となった。1年半にわたって虜囚生活を送ったが、1905年(明治38年)に帰国することができた。
神村 吉郎(かみむら きちろう、1867年4月9日(尚泰20… 神村 吉郎(かみむら きちろう、1867年4月9日(尚泰20年3月5日) - 1942年(昭和17年)1月24日)は、沖縄県出身の政治家、実業家。衆議院議員。琉球政府で行政副主席を務めた神村孝太郎は長男。 具志川間切天願(現うるま市字天願)で、代々地頭代を務める神村家の神村孝吉の長男として生まれる。1889年、沖縄県尋常師範学校を卒業し、帝国大学農科大学実科で学び、1892年に卒業した。 1894年、沖縄県属に就任。その後退官し、1898年、沖縄県農工銀行創立委員となり、1899年に設立後、監査役に就任。同年、謝花昇らと沖縄倶楽部を結成し自由民権運動に加わったが、1900年、農工銀行重役改選において支配者層につき取締役に選出された。
原 嘉道(はら よしみち(かどう)、1867年3月23日〈慶… 原 嘉道(はら よしみち(かどう)、1867年3月23日〈慶応3年2月18日〉- 1944年〈昭和19年〉8月7日)は、日本の官僚、弁護士、法学者、政治家。男爵、法学博士。帝国弁護士会名誉会員。第9代中央大学学長。 田中義一内閣の司法大臣や太平洋戦争開戦当時の枢密院議長を歴任した。 1867年3月23日信濃国高井郡小山村(現在の長野県須坂市小山)に原茂作の長男として生まれる。幼名は亀太郎。父は旧須坂藩の足軽小頭を務めたが、もともとは原虎胤の末裔を称する庄屋格の農家の出である。明治維新で秩禄処分後も、農家だったのでさほど生活苦を味わわずに済んだ。 大学予備門を経て、旧制第一高等学校、1890年(明治23年)帝国大学法科大学(現・東京大学法学部)英法学部を首席で卒業する。
堀 啓次郎(ほり けいじろう、1867年2月7日(慶応3年1… 堀 啓次郎(ほり けいじろう、1867年2月7日(慶応3年1月3日)- 1944年(昭和19年)10月8日)は、明治から昭和前期の実業家、政治家。大阪商船社長、阪神電気鉄道社長、貴族院勅選議員。 加賀国石川郡金沢(現在の石川県金沢市)で加賀藩士・堀五平の長男として生まれ、親族・堀霞の養子となる。1890年(明治23年)第一高等中学校を卒業し、1893年(明治26年)7月、帝国大学法科大学法津学科を卒業した。官界に進むことを好まず、郷里の先輩早川千吉郎に民間企業への紹介を依頼し、中橋和之の推薦で1893年7月、大阪露油合資会社に入社し手代格となる。 大阪露油での働きが認められ、1895年(明治28年)12月、系列の大阪商船に転じ試験雇を務めた。
床次 竹二郎(とこなみ たけじろう、1867年1月6日〈慶応… 床次 竹二郎(とこなみ たけじろう、1867年1月6日〈慶応2年12月1日〉- 1935年〈昭和10年〉9月8日)は、日本の官僚、政治家(衆議院議員)。内務大臣、鉄道大臣、逓信大臣を歴任し、政友本党総裁も務めた。鹿児島県士族。「床次竹次郎」は誤りである。 慶応2年12月1日(1867年1月6日)、薩摩藩士の床次正精・友子の長男として、現在の鹿児島県鹿児島市新照院町に生まれる。幼名は竹熊。1872年(明治5年)に父の正精は上京して検事を務めていたが、6歳の竹二郎を含む家族は薩摩に残った。1877年(明治10年)に勃発した西南戦争では西郷死後に大久保利通の留守宅(空き家)を友人と叩き壊した。戦争で家や学校が焼かれたため、父の招きにより上京し、以後東京で教育を受けることとなった。
石塚 英蔵(いしづか えいぞう、1866年9月1日〈慶応2年… 石塚 英蔵(いしづか えいぞう、1866年9月1日〈慶応2年7月23日〉- 1942年〈昭和17年〉7月28日)は、日本の官僚、政治家。台湾総督、貴族院議員、枢密顧問官、日本赤十字社常議員。 現在の福島県会津若松市出身。会津藩士・石塚和三郎の長男として生まれる。共立学校、第一高等学校を経て、1890年(明治23年)7月、帝国大学法科大学政治学科を首席で卒業。同年同月、法制局試補となり、以後、法制局参事官、兼法制局書記官などを歴任。1894年(明治27年)12月から翌年7月まで内閣顧問官として朝鮮国に出張した。 1898年(明治31年)3月、医学系テクノクラートとしては実績があるものの、児玉源太郎台湾総督の下で行政全般を扱う民政局長起用には不安が持たれた後藤新平を補うため、同総督府の文官ナンバーツーとして勅任参事官に就任。
小林 丑三郎(こばやし うしさぶろう、慶応2年6月12日〈1… 小林 丑三郎(こばやし うしさぶろう、慶応2年6月12日〈1866年7月23日〉 - 1930年〈昭和5年〉1月16日)は、日本の衆議院議員(公友倶楽部→公正会)、経済学者。 上野国邑楽郡小泉村(現在の群馬県邑楽郡大泉町)に、慶次郎の次男として生まれる。1894年(明治27年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業。大蔵省に入省した後、1896年(明治29年)に法制局参事官、1898年(明治31年)に法制局書記官に任じられた。1907年(明治40年)に台湾総督府財務局長に転じ、また法学博士の学位を授けられた。 1915年(大正4年)、第12回衆議院議員総選挙に立候補し、当選を果たした。1917年(大正6年)、海外駐箚財務官に任命され中華民国に赴任した。
斎藤 宇一郎(さいとう ういちろう、慶応2年5月18日(18… 斎藤 宇一郎(さいとう ういちろう、慶応2年5月18日(1866年6月30日) - 大正15年(1926年)5月10日)は、日本の衆議院議員(憲政本党→立憲国民党→立憲同志会→憲政会→革新倶楽部)、農業指導者。三男の憲三はTDKの創業者。 出羽国由利郡平沢町(現在の秋田県にかほ市)に斎藤茂介(茂助)の長男として生まれる。生家は旗本仁賀保氏の家老格の家柄であった。1890年(明治23年)、帝国大学農科大学を卒業し、一年志願兵として近衛歩兵第4連隊に入隊した。1892年(明治25年)12月20日、予備役陸軍少尉に任ぜられ、翌年に後備役となった。日清戦争がおきると召集され、海城まで従軍し、中尉に昇進した。
藻寄 鉄五郎(鐵五郎、もより てつごろう、1866年6月13… 藻寄 鉄五郎(鐵五郎、もより てつごろう、1866年6月13日(慶応2年5月1日)- 1935年(昭和10年)9月8日)は、明治から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員。 能登国珠洲郡北方村(石川県珠洲郡上戸村字北方を経て現珠洲市)で、医師・藻寄行蔵の五男として生まれた。父から医師となるべく学業の指導を受け、1885年(明治18年)上京して東京大学医学部に入学。20歳頃から星亨に私淑して政界を目ざし、医学部を退学して星の指導を受けた。 1891年(明治24年)に帰郷し上戸村助役に就任。同年7月、珠洲郡会議員に当選し2期在任。同年10月、石川県会議員に選出され2期在任した。1896年(明治29年)北陸新聞社社長に就任し1897年(明治30年)まで在任した。
宮古 啓三郎(みやこ けいざぶろう、慶応2年4月8日(186… 宮古 啓三郎(みやこ けいざぶろう、慶応2年4月8日(1866年5月22日) - 昭和15年(1940年)4月9日)は、日本の衆議院議員(壬寅会→立憲政友会)、弁護士。 常陸国行方郡行方村(現在の茨城県行方市)出身。今泉源兵衛の二男で、縁戚の宮古氏の跡を継いだ。1884年(明治17年)に司法省法学校に入学するが、学制の改正により第一高等中学校に移り、1889年(明治22年)に卒業した。その後、東京帝国大学法科大学に入学し、1892年(明治25年)に卒業した。卒業後は弁護士を開業し、また日本法律学校(日本大学)の講師も務めた。 1902年の第7回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、9回の当選回数を数えた。
山谷 徳治郎(やまや とくじろう、1866年5月5日(慶応2… 山谷 徳治郎(やまや とくじろう、1866年5月5日(慶応2年3月21日) - 1940年(昭和15年)5月27日)は、日本の医師、政治家、衆議院議員(1期)、医学博士。兄は衆議院議員の山谷虎三。長男は俳人・日新書院取締役の山谷太郎で、その次男が脚本家・演出家の倉本聰である。 東京都出身。岡山県医学校を経て、東京帝国大学医学部で内科及び病理学を専攻する。1907年、ドイツに留学し、ギーセン大学とゲッチンゲン大学で学び、ドクトル・メジーネ(医学博士)を授けられる。帰国後は津山町(現・津山市)で病院を開業する。その後、大阪の病院の副院長、三共(資)理事、(株)日新医学社を創立、取締役社長となる。その他、医学雑誌や図書の出版に従事した。
若槻 禮次郞(わかつき れいじろう、慶応2年2月5日(186… 若槻 禮次郞(わかつき れいじろう、慶応2年2月5日(1866年3月21日) - 昭和24年(1949年)11月20日)は、日本の大蔵官僚、政治家。栄典は正二位勲一等男爵。旧姓は奥村。幼名は源之丞。号は克堂。新字体にて若槻 礼次郎(わかつき れいじろう)と表記されることもある[注釈 1]。
副島 義一(そえじま ぎいち、慶応2年1月5日(1866年2… 副島 義一(そえじま ぎいち、慶応2年1月5日(1866年2月19日) - 昭和22年(1947年)1月27日)は、日本の衆議院議員、法学者。専門は憲法学で、天皇機関説を唱えた。 肥前国佐賀郡本庄村(現在の佐賀県佐賀市)出身。1894年(明治27年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、大学院に進んだ。さらにベルリン大学に留学し、1901年(明治33年)から1902年(明治34年)にかけて、渡辺廉吉に代わって東京高等商業学校(現一橋大学)で憲法を講じた。 1908年(明治41年)に法学博士の学位を受けた。早稲田大学で教授・評議員を務めるかたわら、辛亥革命の際には寺尾亨とともに南京の臨時政府の法律顧問に就任し、また1920年(大正9年)には第14回衆議院議員総選挙に出馬して当選を果たした。
中川 小十郎(なかがわ こじゅうろう、1866年2月18日(… 中川 小十郎(なかがわ こじゅうろう、1866年2月18日(慶応2年1月4日) - 1944年(昭和19年)10月7日)は、元貴族院議員、文部省官僚で、京都法政学校(現在の立命館大学)創立者。丹波国南桑田郡馬路村(現在の京都府亀岡市馬路町)生まれ。 官僚 教育者 実業家
森 正隆(もり まさたか、1866年1月9日(慶応元年11月… 森 正隆(もり まさたか、1866年1月9日(慶応元年11月23日) - 1921年(大正10年)10月28日)は、日本の内務官僚、政治家。政友会系県知事、貴族院議員。 米沢藩下士・遠藤庄右衛門の二男として生まれ、秋田県書記官・森長義の養子となる。第一高等学校を経て、1893年7月、帝国大学法科大学法律学科(仏法)を卒業。司法官試補となる。同年11月、内務属となり警保局に配属された。 1894年6月、香川県参事官・第一課長兼第三課長に就任。以後、新潟県参事官、長野県・香川県・千葉県・和歌山・三重県・熊本県の各書記官、熊本県第一部長、静岡県第一部長などを歴任。 1907年10月、茨城県知事に就任。
矢野 猪之八(やの いのはち、慶応元年11月9日(1865年… 矢野 猪之八(やの いのはち、慶応元年11月9日(1865年12月26日) - 昭和3年(1928年)3月31日)は、日本の政治家。元徳島市長。弁護士。 阿波国名東郡富田浦町(現在の徳島県徳島市)出身。1887年(明治20年)、東京帝国大学別科法学部を卒業。1895年(明治28年)、検事となり、大垣区裁判所検事、岐阜地方裁判所検事、台湾総督府法院判官、台湾覆審法院判官、台南地方法院判官、台湾覆審法院部長を歴任した。1910年(明治43年)に退職した後は、台北市で弁護士を開業した。 1915年(大正4年)の第12回衆議院議員総選挙に出馬するが落選。 1926年(大正15年)に武市彰一に代わって徳島市長に就任、翌1927年(昭和2年)まで市長を務めた。