石原 憲治(いしはら けんじ、1895年(明治28年)2月2… 石原 憲治(いしはら けんじ、1895年(明治28年)2月28日 - 1984年(昭和59年)7月11日)は、日本の都市計画学者、都市計画家、建築家。工学博士。 日本都市計画学会第五代会長を務めた都市計画学者である一方、民家建築研究家、農民建築研究のパイオニアでもあったが、同時に日本で1920年代に開始された都市美運動の立役者でもあった。さらに旧・東京都立大学工学部建築工学科教授で、1952年に東京都立大学建設工学科ではじめて都市計画の講義をした人物でもある。建築家としては旧東京市建築技師で退職後は石原建築設計事務所を主宰。新興建築家連盟主力メンバー名を連ねる。キリスト教徒で基督教世界平和同盟、愛隣会に属した。
もっと読む
篠遠 喜人(しのとお よしと、1895年2月20日 - 19… 篠遠 喜人(しのとお よしと、1895年2月20日 - 1989年9月16日)は、日本の遺伝学者、科学史家、東京大学名誉教授。国際基督教大学元学長。 1895年(明治28年)、長野県下諏訪町生まれ。旧制長野県立諏訪中学(のち長野県諏訪清陵高等学校)、第八高等学校を経て、東京帝国大学理学部植物学科で学んだ。1920年(大正9年)に卒業。 1923年(大正12年)頃より、徳川生物学研究所に研究員として在籍。1929年(昭和4年)、学位論文『Chromosome studies in some dioecious plants : with special reference to allosomes(雌雄異株植物の染色體に関する研究 : 殊にアロゾームに就て)』を東京帝国大学に提出して理学博士号を取得。
もっと読む
平泉 澄(ひらいずみ きよし、 1895年〈明治28年〉2月… 平泉 澄(ひらいずみ きよし、 1895年〈明治28年〉2月15日 - 1984年〈昭和59年〉2月18日)は、日本の国史学者。文学博士。専門は日本中世史。東京帝国大学教授。号は布布木の屋、寒林子、白山隠士[要出典]。 福井県出身の国史学者。東京帝国大学教授、平泉寺白山神社第4代宮司、皇學館大学学事顧問等を歴任。白山神社名誉宮司、玄成院第二十四世。 国体護持のための歴史を生涯にわたって説き続けたことから、「代表的な皇国史観の歴史家」といわれており、彼の歴史研究は「平泉史学」と称されている。近衛文麿など政界とのつながりも深かった。 日本を守る国民会議の結成に際して、発起人として参加している。著作に『中世に於ける社寺と社会との関係』(1926年11月15日)、『国史学の骨髄』(1932年9月18日)など。
もっと読む
淡路 円治郎(淡路 圓治郎、あわじ えんじろう、1895年2… 淡路 円治郎(淡路 圓治郎、あわじ えんじろう、1895年2月13日 - 1979年4月30日)は、日本の心理学者、社会学者、教育者。立教大学名誉教授・初代社会学部長、東京帝国大学教授・航空研究所教授。心理学および労務管理学の権威で、立教大学社会学部の創設者である。労働、通産、文部各省の審議会委員も歴任し、日本労務研究会理事長や雇用問題研究会会長なども務めた 兵庫県神戸市生まれ。1919年(大正8年)、東京帝国大学文学部心理学科を卒業した。その後、大学院に学び、1925年(大正14年)からドイツに留学し、ベルリン大学、ハンブルク大学で学ぶ。 1927年(昭和2年)、立教大学教授に就任。1929年(昭和4年)に東京帝国大学助教授、1939年に(昭和14年)教授となった。
もっと読む
山羽 儀兵(やまは ぎへい、1895年(明治28年)2月2日… 山羽 儀兵(やまは ぎへい、1895年(明治28年)2月2日 - 1948年(昭和23年)2月4日)は、日本の植物学者である。 三重県に生まれ、東京帝国大学理科大学(現在の東京大学大学院理学系研究科・理学部)植物学科に入学する。1918年(大正7年)に卒業後は、翌1919年(大正8年)から1928年(昭和3年)まで母校で教鞭を執った。東京帝大勤務中の1927年(昭和2年)には理学博士を取得している。翌年には留学のため離日し、ドイツを経てフランスで学んだ。 帰国後は東京文理科大学および東京高等師範学校(いずれも後の東京教育大学、現在の筑波大学)で教鞭を執り、その傍らで原形質を中心に細胞学等の研究に携わる。
もっと読む
河石 九二夫(かわいし くにお、1895年(明治28年)1月… 河石 九二夫(かわいし くにお、1895年(明治28年)1月17日 - 1973年(昭和48年)1月28日)は、日本の医師、医学者。 水泳選手で、1932年ロサンゼルスオリンピック銀メダリストの河石達吾は親戚に当たる。 1895年(明治28年)1月17日、現在の広島県江田島市大柿町大原に生まれる。 第一高等学校を経て東京帝国大学医学部に進み、1921年(大正10年)に大学を卒業。その後、愛知医科大学・名古屋医科大学斉藤外科の講師・助教授となる。1938年(昭和13年)には、台北帝国大学教授となり、河石外科教室を創設。1944年から1945年にかけて、医学部付属病院の第4代院長を務めた。 1949年(昭和24年)に日本に帰国し、広島医科大学教授、後に学長となる。
もっと読む
中原 益治郎(なかはら ますじろう、1895年〈明治28年〉… 中原 益治郎(なかはら ますじろう、1895年〈明治28年〉1月5日 - 1958年〈昭和33年〉2月22日)は、日本の工学者。工学博士。大阪大学名誉教授。三菱重工業、芝浦共同工業各顧問。 大阪府大阪市で、中原庄兵衛の二男として生まれる。中原繁之助の弟である。分家した。1916年、東京帝国大学工科大学機械工学科に入学する。 1921年、東京帝国大学工学部機械工学科を卒業する。1923年、横浜高等工業学校教授となり、1927年、東京帝国大学工学部講師、1929年、大阪工業大学助教授を歴任。同大学が大阪帝国大学工学部に昇格後、引き続き助教授の任にあり1935年、教授に進む。 1934年、工学博士の学位を受く。
もっと読む
八田 四郎次 (はった しろうじ、1895年1月2日 - 1… 八田 四郎次 (はった しろうじ、1895年1月2日 - 1973年3月21日) は日本の化学工学者。石川県出身。
もっと読む
王 謨(おう ぼ/おう も、1895年 - 1958年)は、… 王 謨(おう ぼ/おう も、1895年 - 1958年)は、中華民国の教育者・地理学者・政治家。字は献芻。南京国民政府(汪兆銘政権)の要人。 民国初期に日本へ留学し、1919年(民国8年/大正8年)3月に東京高等師範学校理科第三部乙班を卒業している。次いで東京帝国大学理学部地理学科に入学し、1922年(民国11年/大正11年)3月に卒業、理学士の称号を取得した。 帰国後は、国立武昌大学、国立北京師範大学、国立清華大学、国立北京大学女子文理学院などの地理学系教授や講師を歴任し、北京政府時代には参議院議員もつとめた。1942年(民国31年)まで北京師範学院院長をつとめ、その後に北京師範大学教授をつとめる。
もっと読む
張 心沛(ちょう しんぱい、1895年 – 没年不明)は、中… 張 心沛(ちょう しんぱい、1895年 – 没年不明)は、中華民国の教育官僚・哲学者。字は犀海。中華民国臨時政府、南京国民政府(汪兆銘政権)華北政務委員会の教育部門で要職をつとめた。また、汪兆銘政権最末期に北京大学図書館館長となる。 青年時代に日本へ留学している。1920年(民国9年/大正9年)、東京帝国大学工学部冶金学科に入学し、1924年(民国13年/大正13年)3月卒業、工学士の称号を取得した。同年、京都帝国大学文学部哲学科に入学し、少なくとも同年中は在学している。帰国後は国立北平大学女子文理学院教授、国立北京大学文学院講師、私立中法大学文学分院哲学系主任を歴任し、また、長く私立中国学院哲教系講師を兼ねた。
もっと読む
内田 勇三郎(うちだ ゆうざぶろう、1894年12月15日 … 内田 勇三郎(うちだ ゆうざぶろう、1894年12月15日 - 1966年11月18日)は、日本の心理学者・心理検査開発者。 クレペリンの作業曲線のアイデアとクレッチマーの性格類型論を結びつけた性格理論を提唱し、それに基づいた内田クレペリン精神検査(クレペリン検査)を開発した。内田クレペリン精神検査の販売と実施・判定を中心に、幅広い心理学関連業務を行っている日本・精神技術研究所(1947年創設)の創設者。
もっと読む
伊藤 徳之助(正字:德之助)(いとう とくのすけ、1894年… 伊藤 徳之助(正字:德之助)(いとう とくのすけ、1894年(明治27年)12月11日 - 1961年(昭和36年)2月9日)は日本の物理学者。別名:伊藤徳之。専門は地球物理学。
もっと読む
原 彪(はら ひょう / たけし、男性、1894年(明治27… 原 彪(はら ひょう / たけし、男性、1894年(明治27年)11月24日 - 1975年(昭和50年)12月17日)は、日本の政治家、政治学者。衆議院副議長。本名は彪之助。 岡山県小田郡金浦村(現・笠岡市)に生まれる。岡山一中、第一高等学校を経て、1921年東京帝国大学法学部政治学科を卒業。その後は文部省嘱託、鉄道省鉄道講習所講師、明治大学講師を経て、1928年法政大学教授に就任。政治学・政治史を講じていた。 学生時代より社会主義に共鳴し、1924年安部磯雄らと社会主義研究団体「日本フェビアン協会」を結成する。以後安部に付き従い、1932年安部を委員長とする社会大衆党が結成されると原も入党し中央執行委員になる。
もっと読む
竹内 時男(たけうち ときお、1894年(明治27年)10月… 竹内 時男(たけうち ときお、1894年(明治27年)10月26日 - 1944年(昭和19年)4月24日)は、日本の物理学者。科学ジャーナリストとして著名であったが、医療効果を謳った人工放射性食塩事件で世間を騒がせた。 1894年(明治27年)10月26日、元金沢藩士・竹内一元(のち煙草商)の二男として石川県金沢市で生まれる。1918年(大正7年)に東京帝国大学理科大学実験物理科を卒業後、三菱造船技師を経て東京高等工業学校講師となる。 1927年に『新量子力学及波動力学論叢』を出版し、量子力学を極めて早く日本で紹介した。1928年から1930年にかけて渡欧し、フランス滞在中はルイ・ド・ブロイのもとで量子力学を研究する。
もっと読む
加藤 常賢(かとう じょうけん、1894年10月19日 - … 加藤 常賢(かとう じょうけん、1894年10月19日 - 1978年8月3日)は、中国古代学者、東京大学文学部名誉教授。東大退官後は二松学舎大学文学部中国文学科教授。号は「維軒」。 1894年、愛知県中島郡大里村で生まれた。第八高等学校を経て、東京帝国大学文学部に進んだ。支那哲学文学科で学び、1920年に卒業。 卒業後は、静岡高等学校教授に就いた。その後、京城帝国大学として勤務。1933年、広島文理科大学教授となった。1938年(昭和13年)、学位論文『爾雅釈親を通じて見たる支那古代家族制度研究』を東京帝国大学に提出して文学博士号を取得。 1947年(昭和22年)、高田眞治の公職追放による退職に伴って東京帝国大学中国哲学科教授となった。
もっと読む
矢追 秀武(やおい ひでたけ、1894年10月11日 - 1… 矢追 秀武(やおい ひでたけ、1894年10月11日 - 1970年9月23日)は、大正から昭和にかけて活躍した日本の細菌・ウイルス学者。東京帝国大学教授、国立予防衛生研究所部長、横浜医科大学(現:横浜市立大学)細菌学教授(1951年-1961年)、神奈川歯科大学教授を歴任。精製痘苗の精製(矢追抗原、PVL, Purified vaccine lymph)、溶連菌毒素のトキソイド化の研究で知られる。 1894年(明治27年)、奈良県高畑町番外1番地(菩提町1番地)で生まれた。1920年12月、東京帝国大学医学部を卒業。 同大学衛生学教室に研究生として入室。翌年、副手、助手になった。酸類の細菌に及ぼす影響を研究した。
もっと読む
国崎 定洞(くにざき ていどう、1894年(明治27年)10… 国崎 定洞(くにざき ていどう、1894年(明治27年)10月5日 - 1937年(昭和12年)12月10日)は、日本の衛生学者・共産主義者・社会主義者。社会衛生学の創始者。ドイツで日本人の社会主義者グループを組織して、ドイツ共産党日本語部を結成した。しかしソビエト連邦移住後に大粛清により処刑された。 1894年に熊本県熊本市に生まれる。父の宗英は医師で、村医をしていた対馬で育った。13歳で単身、姉の嫁ぎ先である埼玉県川越町(現・川越市)の田中家に移り寄宿して川越高等小学校、川越中学校(現・埼玉県立川越高等学校)を卒業。さらに第一高等学校第3部(英語組)を卒業。一高では常に3番以内の成績だったという。
もっと読む
浅野 三千三(あさの みちぞう、1894年(明治27年)9月… 浅野 三千三(あさの みちぞう、1894年(明治27年)9月18日 - 1948年(昭和23年)4月17日)は、日本の薬学者、化学者である。 千葉県の生まれ。東京帝国大学(現在の東京大学)に入学し、同大学の教授だった朝比奈泰彦に師事し薬学の研究に携わった。卒業後は金沢医科大学(現在の金沢大学医学部)の薬学専攻の教授となり、後に薬学の研究及び留学のためドイツに移住し、フライブルク大学に入り同大学の教授だったハインリッヒ・ヴィーラントから学ぶ。帰国後は主に生化学の研究について学び、1938年(昭和13年)に母校の帝大の伝染病研究所における化学部長及び教授となった。 その後は薬学博士を取得し、結核菌等の感染症の化学療法剤や脂肪酸の合成及び5型の分離、ベンゾキノン等の植物色素、地衣成分等の多くの研究に携わり、特にジフテリア菌の脂肪酸やピルビン酸系地の色素の研究に関してはこの業績により後に受賞している。
もっと読む
永野 芳夫(ながの よしお、1894年8月29日 - 196… 永野 芳夫(ながの よしお、1894年8月29日 - 1967年12月22日)は、日本の哲学・教育学者、広島大学名誉教授。 大分県生まれ。東京帝国大学哲学科卒。大正大学教授、広島大学教授、1950年「デューイ教育学の基本諸原理」で広島大文学博士。1958年定年退官、玉川大学教授。1957年日本デューイ学会初代会長。笹山三次の名で蘭の研究もおこない、日本蘭協会会長。
もっと読む
今田 恵(いまだ めぐみ、1894年8月26日 - 1970… 今田 恵(いまだ めぐみ、1894年8月26日 - 1970年11月25日)は、心理学者・哲学者、文学博士。関西学院大学名誉教授。関西学院第6代院長。ウィリアム・ジェームズの研究で知られる。山口県佐波郡三田尻村(現・防府市)生まれ。子は今田寛。 1917年、関西学院神学部卒業後、カナダのメソヂスト教会の牧師を兼ねつつ、1922年東京帝国大学文学部心理学科卒業。同年、関西学院専門部文学部教授。1929年からアメリカ、イギリスに留学。1934年、関西学院大学法文学部開設に伴って教授となり、1940年、法文学部長に就任。1946年、関西学院大学文学部長。1950年、初の公選による関西学院院長(第6代院長)に選任される。
もっと読む
石井 悌(いしい てい、1894年8月6日 - 1959年1… 石井 悌(いしい てい、1894年8月6日 - 1959年11月19日)は、日本の昆虫学者。学位は、農学博士(東京大学・論文博士・1932年)。 神奈川県出身。東京帝国大学農科大学実科卒。農商務省入省、農事試験場技手、1932年、「日本産跳小蜂亜科ニ関スル研究(英文) 」で、東京大学より農学博士の学位を取得。1935年東京高等農林学校(現東京農工大学)教授。のち日本植物防疫協会常務理事・研究所長、日本応用動物昆虫学会評議員・会計監査。病害虫防除、農業昆虫や寄生バチの研究を行った。
もっと読む
北野 政次(きたの まさじ、1894年(明治27年)7月14… 北野 政次(きたの まさじ、1894年(明治27年)7月14日 - 1986年(昭和61年)5月17日)は、日本の陸軍軍人、医師、細菌学者。陸軍軍医中将。勲三等。東京帝国大学医学博士。博士論文は「チフス及パラチフス菌属の血清耐性に関する実験的研究」。 兵庫県出身。旧制第八高等学校を経て、東京帝国大学医学部を卒業後、大日本帝国陸軍に入隊。第2代731部隊長を務め、人体実験や細菌攻撃を推進する立場であったとされている。 第二次世界大戦後は、文部省に奉職しながら日本ブラッドバンクの創業に関わり、顧問に就任。 凍結乾燥装置を用いた乾燥血漿製造の研究成果を応用し、血液製剤の製造、販売を行った。同社設立期においては、朝鮮戦争における米軍向けの輸血用血液製造を行った。
もっと読む
沼田 政矩(ぬまた まさのり、1894年(明治27年)6月2… 沼田 政矩(ぬまた まさのり、1894年(明治27年)6月24日 - 1979年(昭和54年)5月9日)は、大正から昭和時代の土木工学者、鉄道官僚。 鳥取県に生まれる。1919年(大正8年)東京帝国大学工学部土木工学科を卒業し、鉄道院総裁官房研究所に入る。同研究所および鉄道省教習所の講師を務めたのち、1926年(大正15年)同省神戸改良事務所に転じ、1928年(昭和3年)から2年間、在外研究員として欧米へ留学した。1933年(昭和8年)鉄道大臣官房研究所に戻り、第四科長、1942年(昭和17年)鉄道技術研究所第二部長兼東京帝国大学第二工学部教授、1945年(昭和20年)鉄道技術研究所長を歴任し、同年退官した。
もっと読む
岡部 弥太郎(岡部 彌太郎、おかべ やたろう、1894年6月… 岡部 弥太郎(岡部 彌太郎、おかべ やたろう、1894年6月20日 - 1967年3月14日)は、昭和期に活躍した日本の心理学者、教育者。東京大学教授、立教大学教授、国際基督教大学教養学部教授、上智大学文学部教授。幼少教育の先駆者であり、教育心理学の分野で多くの業績をあげた。 長野県北佐久郡春日村(現・佐久市)出身。1919年(大正8年)、東京帝国大学文学部哲学科を卒業。同年、同大学助手となり、女子英学塾(現・津田塾大学)、立教大学の各講師を兼務する。 1930年(昭和5年)、東京大学助手を辞め、立教大学教授に就任。教育学、教育史を講じ、心理学演習を担当した。1935年(昭和10年)からは、東京大学に戻り助教授となり、1948年(昭和23年)に東大教授となった。
もっと読む
南波 松太郎(なんば まつたろう、1894年〈明治27年〉3… 南波 松太郎(なんば まつたろう、1894年〈明治27年〉3月15日 - 1995年〈平成7年〉7月3日)は、日本の船舶工学者、海事史研究者、古地図蒐集家。本業は船舶工学だが、余技であった海事史研究でも多くの業績を残した。日本有数の古地図コレクターとしても知られており、そのコレクションの多くは神戸市立博物館に寄贈されている。 1894年(明治27年)3月15日、大阪に生まれる。 大阪府立今宮中学校在学中の同級生に、のちに地理学者となる秋岡武次郎がおり、終生にわたり親交を結んだ。 1916年(大正5年)6月、第三高等学校二部甲類卒業。9月、東京帝国大学工科大学船舶工学科入学。1919年(大正8年)7月、卒業、三菱造船神戸造船所に技師として入社。
もっと読む
浅見 與七(浅見 与七、あさみ よしち、明治27年(1894… 浅見 與七(浅見 与七、あさみ よしち、明治27年(1894年)3月12日 - 昭和51年(1976年)11月6日)は、大正・昭和期の園芸学者。東京大学名誉教授。農学博士。園芸学会会長、学術会議委員などをつとめた。岐阜県恵那郡岩村町出身 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
もっと読む
高木 正得(たかぎ まさなり、1894年〈明治27年〉1月2… 高木 正得(たかぎ まさなり、1894年〈明治27年〉1月20日 - 1948年〈昭和23年〉11月5日[矛盾 ⇔ 高木正得])は、日本の昆虫学者、華族。爵位は子爵。貴族院子爵議員。次女は崇仁親王妃百合子。 旧河内丹南藩の最後の藩主・高木正善の子として生まれる。1920年(大正9年)2月、父・正善の死去により、家督を相続し、子爵となる。1922年(大正11年)、東京帝国大学理学部動物学科を卒業する。その後、東京帝国大学大学院で昆虫学、寄生虫学を専攻。1932年(昭和7年)4月7日、補欠選挙で貴族院議員に当選し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在職、この間司法参与官も歴任。公務の傍ら、チョウやカミキリムシを研究した。
もっと読む
鈴木 義男(すずき よしお、1894年1月17日 - 196… 鈴木 義男(すずき よしお、1894年1月17日 - 1963年8月25日)は、日本の政治家、法学者、弁護士。位階は正三位、勲等は勲一等。 衆議院議員(7期)、司法大臣・法務総裁を歴任。日本国憲法における生存権の制定・平和主義の誕生に寄与した。 1894年(明治27年)1月17日に福島県西白河郡白河町で生まれる。その後、東北学院普通科に進学し、同学校の第2代院長のD.B.シュネーダーら宣教師たちからキリスト教に基づく教育を受けた。同校卒業後は、仙台の第二高等学校(旧制二高)に進学した。そして1915年に東京帝国大学法科大学法律学科に進学し、美濃部達吉・吉野作造・牧野英一らのもとで学んだ。卒業後は同大の助手を務め、任期満了後の1921年(大正10)年から2年8ヶ月にわたり、欧米留学に向かった。
もっと読む
橋本 重郎(はしもと じゅうろう、1894年 - 1988年… 橋本 重郎(はしもと じゅうろう、1894年 - 1988年)は日本の農学者。世界で初めてひよこの雄雌の鑑別法を発見した。農学博士。 1894年、宮城県で橋本亮と嘉治(よしぢ)との間で誕生。1921年(大正10年)東京帝国大学農学部農学科を卒業。農商務省畜産試験場勤務、イギリス留学、宮崎高等農林学校教授を経て、1942年(昭和17年)5月、九州帝国大学農学部教授に就任。 1924年に仲間と共にニワトリのヒナの雌雄鑑別法を発表した。初生雛雌雄鑑別法とは、生まれたばかりのひよこの肛門の内側にある突起があるものが雄、無いものが雌と見分ける方法。当時は雄雌を見分けるのが非常に困難で、世界中が模索していた。
もっと読む
成瀬 正二(なるせ せいじ、1893年12月26日 - 19… 成瀬 正二(なるせ せいじ、1893年12月26日 - 1960年1月29日)は、日本の工学者・海軍軍人。海軍技術少将正五位勲四等。海軍航空技術廠雷撃部長。
もっと読む
山本 由松(やまもと よしまつ、1893年〈明治26年〉12… 山本 由松(やまもと よしまつ、1893年〈明治26年〉12月15日 - 1947年〈昭和22年〉6月28日)は、日本の植物学者である。台湾の植物の研究を行い、台湾で没した。 福井県今立郡片上村乙坂今北(現 鯖江市)にて誕生した。福井県師範学校を卒業し、惜陰小学校(現 鯖江市惜陰小学校)訓導(小学校の正規教員の旧称)を経て、広島高等師範学校に入学、その後、鹿児島第一師範学校教諭に就任した。1914年、東京大学理学部に入学し、早田文蔵に師事した。在学中より台湾総督府中央研究所林業部の嘱託となり、台湾における植物研究に没頭した。1923年に東京大学の植物学科を卒業後、小石川植物学研究所に入所した。1928年に台北帝国大学理学部助教授、台北帝国大学農林専門部の教授となった。
もっと読む
伊藤 武男(いとう たけお、1893年12月10日 - 19… 伊藤 武男(いとう たけお、1893年12月10日 - 1976年10月1日)は、日本の蚕糸学者。上田繊維専門学校の校長、信州大学の学長を務めた。農学博士。山口県岩国市出身。 絹のタンパク質の物理化学的研究で知られ、絹糸を構成するフィブロインおよびセリシンについて、そのアミノ酸組成を解明し、「農芸化学会誌」に発表した。
もっと読む
高木 貞二(たかぎ さだじ、1893年12月3日 - 197… 高木 貞二(たかぎ さだじ、1893年12月3日 - 1975年10月28日)は、日本の実験・動物心理学者、東京大学名誉教授。 大阪市生まれ。旧制天王寺中学、旧制一高を経て、1918年(大正7年)に東京帝国大学文学部哲学科心理学専修卒業。1919年(大正8年)から1921年(大正10年)にかけてアメリカのコーネル大学に留学。1922年(大正11年)に第三高等学校教授(1929年から1933年京都帝大文学部講師兼任)、1933年(昭和8年)に東京帝大文学部心理学助教授、1943年(昭和18年)に同大教授。戦後、東京大学文学部教授、1947年(昭和22年)から1950年(昭和25年)に文学部長、1949年(昭和24年)から1952年(昭和27年)に教育学部長、1950年(昭和25年)から1953年(昭和28年)に附属図書館長、1952年(昭和27年)から1954年(昭和29年)に教養学部長、1954年(昭和29年)に定年退官、名誉教授。
もっと読む
尼子 富士郎(あまこ ふじろう、1893年12月1日 - 1… 尼子 富士郎(あまこ ふじろう、1893年12月1日 - 1972年3月17日)は日本の医師、老年医学者。医学博士。 広島出身の医師で医学中央雑誌の創設者でもある尼子四郎の長男として山口県下松市で生まれ、まもなく一家で上京する。誠之小学校では中川一政と同級生であり、また東京高等師範学校附属中学校の受験のため夏目漱石に英語の個人教授を受けていた。 世界に先駆けて老年医学の重要性に着目し、その研究と教育の先駆者と評価されている。日本老年医学会は「尼子賞」を設けている。 その一方、父から医学中央雑誌の編集を引き継ぎ、全ての文献の採択、抄録の編集、校正に目を通し、それを優先するため生涯国外に出なかった。
もっと読む
溝口 三郎(みぞぐち さぶろう、1893年〈明治26年〉11… 溝口 三郎(みぞぐち さぶろう、1893年〈明治26年〉11月26日 - 1962年〈昭和37年〉9月10日)は、日本の農業土木学者、農林技官、政治家。参議院議員(1期)、農学博士。 長野県、現在の上田市で溝口多門司の長男として生まれる。1920年(大正9年)東京帝国大学農学部農学科を卒業した。新潟県産業技師となり、青森県耕地課長を経て、1928年 (昭和3年)農林省農務局に転じた。1938年(昭和13年)青森県三本木原開墾国営事務所長兼秋田県田沢疎水開墾国営事務所長に就任した。1941年(昭和16年)農林省耕地課長に転じ、農地開発法の制定や、戦時下の食糧増産政策の推進を担った。 戦後、1945年(昭和20年)農林省開拓局第二部長に就任し、復員者などの生活支援と、切迫した食糧不足に対応するため開拓事業を進めた。
もっと読む
富塚 清(とみつか きよし、1893年11月3日 - 198… 富塚 清(とみつか きよし、1893年11月3日 - 1988年3月9日)は、日本の機械工学者。内燃機関技術の研究改良における先駆的人物として知られる。 千葉県山武郡生まれ。5歳で小学校に入学し、1903年、大網高等小学校、1906年、旧制千葉中学校に入学する。1911年、第一高等学校に無試験入学。1917年、東京帝国大学工学部機械工学科卒業。1918年4月、東京帝国大学航空学調査委員会(のち航空研究所)の嘱託、同年11月、東京帝国大学助教授。1932年、教授。日本におけるガソリンエンジン国産化の初期から研究に携わり、日本の航空エンジン研究の先駆者の役割を果たすと共に、多くの技術者および研究者を育てた。
もっと読む
矢田部達郎(やたべ たつろう、1893年10月24日-195… 矢田部達郎(やたべ たつろう、1893年10月24日-1958年3月24日)は、心理学者、京都大学名誉教授。
もっと読む
石本 巳四雄(いしもと みしお、1893年(明治26年)9月… 石本 巳四雄(いしもと みしお、1893年(明治26年)9月17日 - 1940年(昭和15年)2月4日)は、日本の地震学者。シリカ傾斜計や加速度地震計を発明したことで知られる。 石本新六陸軍中将の四男として東京小石川で生れる。巳年生まれの四男であったことから巳四雄と命名された。東京高等師範学校付属中学校、第一高等学校を経て、1917年(大正6年)東京帝国大学理科大学実験物理学科を卒業した。同工科大学造船学科に勤務、1919年(大正8年)三菱造船研究所勤務の後、1921年(大正10年)から1924年(大正13年)までフランスへ留学しポール・ランジュバンの指導を受ける。 帰国後の1925年(大正14年)11月東京帝国大学助教授(地震研究所)に赴任、土地の傾斜をはかるシリカ傾斜計や加速度地震計などを考案し地震の原因としてマグマ貫入説(岩漿貫入地震説)をとなえた。
もっと読む
坪井 誠太郎(つぼい せいたろう、1893年9月8日 - 1… 坪井 誠太郎(つぼい せいたろう、1893年9月8日 - 1986年9月22日)は、日本の地球科学者。専門は、地質学・鉱物学・岩石学。
もっと読む
加藤 成之(かとう よしゆき、1893年(明治26年)9月6… 加藤 成之(かとう よしゆき、1893年(明治26年)9月6日 - 1969年(昭和44年)6月30日)は、大正から昭和期の音楽教育者、音楽学者、政治家、華族。貴族院男爵議員。日本での音楽史研究、音楽美学の開拓者の一人。 医師・加藤照麿の二男として東京で生まれる。父の死去に伴い、1925年(大正14年)11月2日、男爵を襲爵した。 1920年(大正9年)東京帝国大学文学部を卒業し、さらに同大学院を修了した。1922年(大正11年)から1924年(大正13年)までフランス、ドイツに留学する。帰国して、東京美術学校講師、東京高等音楽院講師、女子美術専門学校講師、東北帝国大学法文学部講師などを務めた。
もっと読む
佐山 総平(さやま そうへい、1893年9月1日 - 197… 佐山 総平(さやま そうへい、1893年9月1日 - 1975年2月17日)は、大正時代から昭和時代の鉱山学者。専門は採鉱学。工学博士。位階は正三位。 北見工業大学初代学長。北海道大学および北見工業大学の名誉教授。栃木県下都賀郡部屋村(のち藤岡町、現在の栃木市)出身。門下生に石濱渉・木下重教・磯部俊郎など。 第一高等学校卒業。1919年東京帝国大学工科大学採鉱科卒業。1919年三菱鉱業に入社。1923年新設される北海道帝国大学工学部の教員就任を見込んで、三菱鉱業を退社。文部省留学生として、アメリカ、イギリス、ドイツ、フランスで留学。1925年北海道帝國大學工学部教授。1957年北海道大学停年退官。
もっと読む
高田 眞治(たかた しんじ、1893年8月6日 - 1975… 高田 眞治(たかた しんじ、1893年8月6日 - 1975年11月24日)は、日本の漢学者。文学博士。東京帝国大学教授、大東文化大学教授。漢学会設立者。号は陶軒。西洋由来の支那学(シノロジー)ではなく日本伝統の漢学を重視した。 中国文学者、学習院大学名誉教授の高田淳は長男。 1893年、大分県宇佐郡宇佐町(現・宇佐市)生まれ。高田豊市の三男。1917年、東京帝国大学文科大学支那哲学科卒業。 卒業後は水戸高等学校教授、1924年より京城帝国大学予科教授。1928年から1930年までドイツ留学。1930年より東京帝国大学助教授。アメリカ合衆国、中華民国に留学し、帰国後の1934年より教授。1936年、文学博士が授与される。
もっと読む
青木 楠男(あおき くすお、1893年(明治26年)7月23… 青木 楠男(あおき くすお、1893年(明治26年)7月23日 - 1987年(昭和62年)3月18日)は、大正から昭和時代の土木工学者、内務官僚。青木定謙の子。青木戒三 、青木得三の弟。 内務官僚青木定謙の七男として高知県に生まれる。1918年(大正7年)東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業し、内務省土木局に入る。1926年(大正15年)内務省土木試験所に転じ、1942年(昭和17年)同試験所長となる。この間、欧米出張を経て1930年(昭和5年)東京帝国大学講師を兼任した。 1946年(昭和21年)官職を辞し、創設間もない早稲田大学理工学部土木工学科教授となり、1954年(昭和29年)理工学部長、1956年(昭和31年)大学院工学研究科委員長を歴任し、1964年(昭和39年)退職した。
もっと読む
松本 潤一郎(まつもと じゅんいちろう、1893年7月22日… 松本 潤一郎(まつもと じゅんいちろう、1893年7月22日 - 1947年6月12日)は、日本の社会学者。理論社会学を専門とした。 千葉県銚子市出身。裕福な地主の旧家に生まれる。旧制銚子中学校に入学するが、肋膜炎にかかり旧制佐原中学校に転校。第一高等学校、東京帝国大学文科大学哲学科社会学専攻卒。建部遯吾に師事。大学院を中退後、大阪毎日新聞の外国通信部記者として、英文和訳や海外事情調査などに従事。1年ほどで退社し、外遊を経て日本大学講師、法政大学教授、東京女子大学講師、東京帝国大学講師を歴任。1938年、東京高等師範学校教授。1942年、日本文学報国会理事。戦災により蔵書1万冊を焼失してからは諦観の人となり、戦後間もなく糖尿病で死去した。
もっと読む
山中 謙二(やまなか けんじ、1893年7月18日 - 19… 山中 謙二(やまなか けんじ、1893年7月18日 - 1974年2月15日)は、日本の西洋史学者。専門はドイツ中世史。 長野県諏訪郡上諏訪町(現諏訪市)出身。長野県立諏訪中学校(現長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)を経て、1918年(大正7年)東京帝国大学西洋史学科卒業。日本大学予科講師、東京府立第一高等女学校(現東京都立白鷗高等学校・附属中学校)講師、第一高等学校講師を経て、1925年(大正14年)東京帝国大学文学部講師、助教授。1938年(昭和13年)同大学教授。退官後、東京大学名誉教授。日本大学文理学部講師。 1950年(昭和25年)6月から7月にかけて、昭和天皇は歴史関係の科学委員による合同進講を催し、山中は委員の1人となった。
もっと読む
斎藤 潔(さいとう きよし、1893年7月6日 - 1971… 斎藤 潔(さいとう きよし、1893年7月6日 - 1971年2月21日)は、日本の公衆衛生学者、小児科学者。 山梨県出身。1920年東京帝国大学医学部卒業、1927年ハーバード大学公衆衛生学部卒業、1930年医学博士。聖路加国際病院勤務を経て、1937年東京特別地区保健館館長。国立公衆衛生院の創設に参加し、1938年同教授、1956年院長となり、日本の公衆衛生事業を推進した。大気汚染研究協会賞(斎藤潔賞)が設定された。1966年に第18回保健文化賞受賞、勲二等旭日重光章受章。
もっと読む
内山 敬二郎(うちやま けいじろう、1893年5月19日 -… 内山 敬二郎(うちやま けいじろう、1893年5月19日 - 1977年12月24日)は、元旧制高等学校教授、元信州大学、元文教大学教授、西洋古典文学(ギリシア悲劇)研究家、西洋古典学会会員。 新潟県生まれ。1917年東京帝国大学文科大学英文科卒業。1922年旧制松江高等学校に英語の教授として奉職、1941年まで務める。1941年旧制松本高等学校に英語の教授として奉職、1949年5月に信州大学に包括されると、文理学部の英語の教授となり、1959年まで務める。その後、文教大学教授を1977年3月まで務めた。 上述の通り、西洋古典学の専門教育を受けた訳ではなく、在学中に田中秀央から西洋古典学を学んだ程度である。
もっと読む
野田 信夫(のだ のぶお、1893年4月24日 - 1993… 野田 信夫(のだ のぶお、1893年4月24日 - 1993年4月30日)は、日本の経営学者、元成蹊大学学長。 長野県飯田市生まれ、北海道旭川市育ち。旧制北海道立上川中学、旧制第一高等学校卒業。1918年(大正7年)、東京帝国大学文科大学哲学科を卒業後、1921年に同経済学科を卒業した 同年三菱財閥合資会社に入社する。のち三菱経済研究所研究員となり、東京帝国大学工学部の講師も務めた。1946年(昭和21年)に三菱重工業企画室調査役となるが、翌1947年(昭和22年)に政府の経済安定本部に迎えられ生産局長となる。物価庁次長(1948年)を経て、1949年には経済安定本部副長官を務めた。 1949年に成蹊大学政治経済学部教授となり、1958年から1969年まで学長を務めた。
もっと読む
小倉 強(おぐら つよし、1893年3月7日 - 1980年… 小倉 強(おぐら つよし、1893年3月7日 - 1980年2月23日)は、日本の建築家、建築史家。東北大学名誉教授。東北地方の民家についての調査を精力的に行ったことで知られ、仙台の歴史的建造物の保存にも影響を与えた。 1893年(明治26年)、宮城県仙台市で実業家・歌人の小倉長太郎(小倉茗園)の八男として生まれる。1916年(大正5年)、東京帝国大学工科大学建築学科を卒業。大学では、高橋貞太郎、小林政一らと同期であった。 1921年、東京府営繕技師となる。平和記念東京博覧会(1922年)の設計を担当。1922年、東北帝国大学技師に採用される。1929年、仙台高等工業学校教授に着任準備のため文部省在外研究員としてドイツ留学。
もっと読む
三島 徳七(みしま とくしち、1893年(明治26年)2月2… 三島 徳七(みしま とくしち、1893年(明治26年)2月24日 - 1975年(昭和50年)11月19日)は、日本の冶金学者。アルニコ磁石を発見し、その一つとしてMK鋼の発明者として知られる。東京大学名誉教授。文化功労者。勲一等旭日大綬章追贈。 1893年(明治26年)、兵庫県津名郡広石村下組(現:洲本市五色町広石下)の農家である喜住甚平の5男として生まれる。1907年(明治40年)に広石尋常高等小学校を卒業した後、独学で学び1911年(明治44年)に立教中学校への編入試験の末、同校に入学した。その後、旧制第一高等学校を経て、1920年(大正9年)、東京帝国大学工学部冶金学科を卒業した。同年に三島通良と養子縁組し娘の三島二三子と結婚して三島姓となっている。
もっと読む