野口 保市郎(のぐち やすいちろう、1883年3月21日 -… 野口 保市郎(のぐち やすいちろう、1883年3月21日 - 1952年8月5日)は、日本の地理学者。 茨城県出身。1912年に東京帝国大学西洋史学科を卒業した。 郁文館中学校・開成中学校・成蹊中学校教諭、浦和高等学校講師などを経て、1921年より法政大学で教授を務めた。また、中央大学教授も務めている。 1949年に「常陸風土記の歴史地理学的研究」で東北大学より文学博士号を取得した。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
広部 達三(廣部 達三、ひろべ たつぞう、1883年〈明治1… 広部 達三(廣部 達三、ひろべ たつぞう、1883年〈明治16年〉3月9日 - 没年不明)は、日本の農学者。東京帝国大学農学部教授。農林省農事試験場技師。旧姓・太田。 宮城県仙台市生まれ。太田可一の弟。1907年、東京帝国大学農学科卒業。1912年、広部銀行頭取・広部清兵衛の養子となる。農科大学講師兼農事試験場嘱託同技師農林技師歴職。また広部拓殖社員である。 『広部農具論』、『広部農用機具』などの著書がある。趣味は庭球、柔道、弓道、スケート、写真。住所は東京市渋谷区神山町。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
今村 明光(いまむら あきみつ、1883年(明治16年)2月… 今村 明光(いまむら あきみつ、1883年(明治16年)2月19日 - 1950年〈昭和25年〉4月7日)は、日本の医学者、内科学者。旧制東京女子医学専門学校(現・東京女子医科大学)教授。学位医学博士。 1883年、鹿児島県の士族今村明清の六男として鹿児島市にて生まれた。中学造士館を経て、1904年7月に第七高等学校造士館を卒業(第三部医科志望、第1回卒業生)。1909年12月東京帝国大学医科大学卒業。続けて同大学の病理学教室で研究、次いで大学附属医院に勤務。1919年東京帝国大学医学部講師嘱託となる。1921年12月8日、東京帝国大学より医学博士の学位を受領。1922年6月東京帝国大学医学部助教授に任じられる。
久保 勉(くぼ まさる、1883年2月17日 - 1972年… 久保 勉(くぼ まさる、1883年2月17日 - 1972年5月24日)は、日本のギリシア哲学者。 1883年、愛媛県伊予市で生まれた。松山中学校を卒業後、1901年に海軍兵学校へ進んだ。日露戦争終結後に退役し、東京帝国大学哲学科選科に入学した。大学ではラファエル・ケーベルの教えを受け、その後助手を務めた。1912年、東京帝国大学を卒業。同大学大学院に進んだ。 1925年よりドイツに留学し、ハイデルベルク大学やベルリン大学に滞在して研究を行った。1928年に帰国し、翌1929年、東北帝国大学法文学部助教授となった。大学では阿部次郎と同僚であり、『ソクラテスの弁明・クリトン』などの刊行を共に進めていった。
緒方 知三郎(おがた ともざぶろう、1883年1月31日 -… 緒方 知三郎(おがた ともざぶろう、1883年1月31日 - 1973年8月25日)は、日本の病理学者。東京生まれ。正三位・勲一等。 緒方洪庵の次男である緒方惟準の四男。緒方章は弟。緒方富雄、緒方安雄は甥。岳父(妻の父)は岡村輝彦。岡村昭彦、岡村春彦は義甥(妻の甥)。佐藤泰然は曾祖父。 旧制第三高等学校を経て、東京帝国大学医科大学(現在の東京大学医学部)を卒業。山極勝三郎に師事。脚気や結核、腫瘍の発生、「唾液腺内分泌に関する研究」等を研究。ドイツに留学し、ベルリン市ウエストエンド病院病理研究室などでの研究を終えて、1913年帰国、東京帝国大学医科大学医学科講師に嘱託、翌年助教授になる。1923年に東京帝国大学医学部教授となり、1943年に退官し、同大学名誉教授となる。
羽原 又吉(はばら ゆうきち、1882年12月5日 - 19… 羽原 又吉(はばら ゆうきち、1882年12月5日 - 1969年3月19日)は、日本の経済史学者。 大分県直入郡都野村(現・竹田市)出身。1909年7月東京帝国大学理科大学動物学科卒業。1912年北海道庁技師として小樽水産試験場勤務。1918年農林省水産講習所(現東京海洋大学)嘱託となり、1931年に教授、1942年退官。 学生時代の専攻分野は水産動物学であり、卒業後は漁業経済学、ついで漁業経済史の分野を開拓、全国の水産漁業史料・古記録を調査・研究し、1950年「近世日本水産業の発展過程に関する経済史的研究」により、経済学博士(慶応義塾大学)の学位を授与される。1950年朝日賞受賞。「日本漁業経済史」で1955年日本学士院賞受賞。
小泉 丹(こいずみ まこと、1882年(明治15年)11月2… 小泉 丹(こいずみ まこと、1882年(明治15年)11月23日 - 1952年(昭和27年)10月21日)は、日本の動物学者。 京都府出身。東京帝国大学理学部動物学科卒。伝染病研究所で宮島幹之助に師事。台湾で熱帯病を研究。1924年新設の慶應義塾大学医学部教授、寄生虫学を担当。マラリアやデング熱の研究、『蛔虫の研究』、進化論の解説などの業績がある。名前は「たん」と通称される。墓所は多磨霊園。 弟の小泉鉄(鐵、まがね、1886-1954)は作家、翻訳家で、第二次『新思潮』に谷崎潤一郎らと参加、のち『白樺』に参加した。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
中井 猛之進(なかい たけのしん、1882年11月9日 - … 中井 猛之進(なかい たけのしん、1882年11月9日 - 1952年12月6日)は、日本の植物分類学者。東大教授、小石川植物園長、ボゴール植物園長、国立科学博物館長。小説家の中井英夫は息子。 チョウノスケソウ Dryas octopetala L. var. asiatica (Nakai) Nakai などを命名したほか、ノジギク Chrysanthemum japonense (Makino) Nakai、ミヤギノハギ Lespedeza thunbergii (DC.) Nakai などの分類学的検討を行い、名を残した。また、セリ目 Apiales Nakai、インドカラムス属 Indocalamus Nakai、ムニンヤツデ属 Boninofatsia Nakai などの分類群を設立した。
青山 徹蔵(あおやま てつぞう、1882年11月2日 - 1… 青山 徹蔵(あおやま てつぞう、1882年11月2日 - 1953年1月10日)は日本の医学者(外科学)、華族(男爵)。 長野県東筑摩郡洗馬村(現塩尻市)の代々医家の熊谷家に生まれる。熊谷陸蔵の次男で、元東北帝国大学総長熊谷岱蔵の実弟。 明治39年(1906年)東京大学医科大学(東京大学医学部)卒業。在学中に同大内科教授青山胤通の娘芳子と結婚、青山姓となった。大正5年(1916年)「胆石形成に関する実験的研究」で医学博士号取得。同8年(1919年)東京帝大外科学助教授、同14年(1925年)外科学第1講座教授。外国留学後、昭和11年(1936年)視力障害を理由に依願退職。従三位勲三等。 腹部外科、特に胆石症や胃潰瘍などの権威として知られ、著作に「小外科総論」がある。
郡場 寛(こおりば かん、Kwan Koriba、1882年… 郡場 寛(こおりば かん、Kwan Koriba、1882年(明治15年)9月6日 - 1957年(昭和32年)12月15日)は、日本の植物生理生態学者。理学博士。旧姓白戸。 青森市浪打新町(現:栄町)にて津軽藩士の家に生まれる。父直世は酸ヶ湯温泉の開発者で、同地で温泉宿を経営。母フミ(旧姓三上)は薬草を中心に八甲田山の植物を採取して標本を作り、全国の大学や研究機関に送った功績がある。 1900年、青森県第一中学校(現在の青森県立弘前高等学校)を卒業。同年、旧津軽藩時代の旧姓郡場に改姓。第二高等学校を経て、1907年、東京帝国大学理科大学植物学科卒業。同大学院で三好学に師事し、生長現象と外部環境の関連など植物生理学の研究を行う。
野田 鞆雄(のだ ともお、1882年〈明治15年〉9月 - … 野田 鞆雄(のだ ともお、1882年〈明治15年〉9月 - 没年不詳)は、日本の法律家、朝鮮総督府官僚。佐賀市長。 佐賀県に藤井鴻雲の二男として生まれ、野田常貞の養子となった。1909年(明治42年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業した。統監府検事、ついで朝鮮総督府検事となり、京城地方法院検事、大邱覆審法院検事、釜山地方法院検事、京城覆審法院検事、同地方法院検事を歴任した。1922年(大正11年)、府道事務官に転じ、忠清南道警察部長、咸鏡北道警察部長、全羅北道内務部長、黄海道内務部長を歴任した。 1929年(昭和4年)に退官し、1931年(昭和6年)に佐賀市長に選出された。市長退任後は、奉天高等検察庁次長を務めた。
寺沢 寛一(てらざわ かんいち、1882年7月15日 - 1… 寺沢 寛一(てらざわ かんいち、1882年7月15日 - 1969年2月5日)は、日本の理論物理学者・数学者。日本学士院会員、東京帝国大学名誉教授。学位は理学博士(1917年・東京帝国大学)。東北帝国大学教授、東京帝国大学教授、同総長事務取扱、同理学部長、同地震研究所所長、同航空研究所所長、逓信省高等逓信講習所所長、千葉工業大学学長、電気通信大学学長などを歴任。著書『自然科学者のための数学概論』は応用数学の名著として名高い。 1882(明治15)年7月15日、米沢藩士寺澤兵吉の次男として、現在の山形県米沢市上矢来町に生まれる。 興譲尋常高等小学校から米沢中学興譲館入学。後に上京し、1902年、大成中学校卒業。
黒河内 四郎(くろかわち しろう/くろこうち しろう、188… 黒河内 四郎(くろかわち しろう/くろこうち しろう、1882年(明治15年)7月 - 1960年(昭和35年)6月3日)は、日本の鉄道省官僚、土木工学者(工学博士)。鉄道省工務局長を最後に退官し、東京高速鉄道技師長として現在の銀座線新橋、渋谷間の開通に貢献。第31代土木学会会長、初代日本保線協会会長。 福島県士族香川源左衛門の次男として若松町に生まれ、同士族黒河内源治の養子となる。1901年(明治34年)会津中学を卒業。大島破竹郎が同級生である。二高を経て、1907年(明治40年)東京帝国大学を卒業。席次は29名中3番である。 逓信省鉄道作業局に入り、生涯にわたる鉄道への関わりが始まる。1915年(大正4年)に米国留学し、帰国後は工務局保線課に配属され、保線業務、軌道の改善に努めた。
長谷部 言人(はせべ ことんど、1882年6月10日 - 1… 長谷部 言人(はせべ ことんど、1882年6月10日 - 1969年12月3日)は東京市麹町区(現・東京都千代田区)出身の人類学者、解剖学者。日本学士院会員。
青木 保(あおき たもつ、1882年6月4日 - 1966年… 青木 保(あおき たもつ、1882年6月4日 - 1966年3月10日)は、機械工学者。大分県出身。旧姓は工藤。東京帝国大学工学部卒。1920年東京帝大教授。1943年定年退官、名誉教授。兵器の研究、精密機器の研究から、時計の研究に進んだ。1949年に日本時計学会初代会長に就任。
宮本 英脩(みやもと ひでなが、1882年5月17日 - 1… 宮本 英脩(みやもと ひでなが、1882年5月17日 - 1944年4月22日)は、日本の刑法学者・裁判官。茨城県出身。 学説においては近代学派の立場に立つが、牧野英一の主観主義犯罪論が罪刑法定主義の解消の可能性さえ含んでいたのと異なり、可罰類型阻却原因という概念を立てて刑法の謙抑主義を強調した。弟子に前期旧派の立場に立つ佐伯千仭がいる。また、滝川事件のさいの「復帰組」教官の一人として知られる。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。
今沢 慈海(いまざわ じかい、1882年3月24日 - 19… 今沢 慈海(いまざわ じかい、1882年3月24日 - 1968年12月31日)は、明治-昭和期の僧侶・図書館学者。幼名は市次郎。別号は天瑞・南岳。愛媛県西条町(現在の西条市)出身。 熱心な仏教徒だった母の意向で、西条市にある臨済宗の名刹保国寺の養子となり、同寺を継ぐべく育てられる。西条中学校(現 愛媛県立西条高等学校)卒業後、第五高等学校を経て、1907年に東京帝国大学哲学科倫理学科を卒業。1908年7月同大学大学院修了。 1913年東京市立日比谷図書館の職員となり、1914年には31歳で館長に抜擢され、日本図書館協会副会長に就任する。また、1921年から20年にわたって図書館員教習所講師を務めた。
小倉 清三郎(おぐら せいざぶろう、1882年2月28日 -… 小倉 清三郎(おぐら せいざぶろう、1882年2月28日 - 1941年1月14日)は、大正時代に活躍した日本の性科学者、社会運動家。性の研究のため「相対会」を設立し、雑誌『相対』を出版した。山本宣治と共に「自慰」という言葉を作り、オナニーの有害説を否定した[要出典]。 1882年、福島県須賀川生まれ。国民英学会で英語を学ぶ。同級生に辻潤がいた。キリスト教に傾倒し、熱心なクリスチャンになったが、肉欲との葛藤に悩み、性の研究を始める。26歳で東京帝国大学文学部哲学科に入学し、イギリスの性科学者ハヴロック・エリスの著作を読み、性科学の研究を本格的に始める。 29歳のとき「相対会」を設立し、1913年,『相対会第一組合小倉清三郎研究報告』を発行。
柴田 雄次(しばた ゆうじ、1882年〈明治15年〉1月28… 柴田 雄次(しばた ゆうじ、1882年〈明治15年〉1月28日 - 1980年〈昭和55年〉1月28日)は、日本の化学者。東京大学名誉教授。正三位勲一等瑞宝章。東京府出身。 薬学者柴田承桂の息子として東京市神田区駿河台に生まれる。父は当時、東京医学校(東京大学医学部の前身)教授。先祖は代々、尾張藩で侍医を務めた。兄柴田桂太は、のち植物生理学者、東京帝国大学教授。長男は著名な作曲家にして音楽評論家の柴田南雄。 東京高等師範学校附属尋常中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)から旧制第一高等学校を経て、1904年、東京帝国大学理科大学化学科入学、桜井錠二や池田菊苗たちに師事し、1907年卒業。東京帝国大学大学院に進んで松原行一に師事した。
金平 亮三(かねひら りょうぞう、1882年1月1日 - 1… 金平 亮三(かねひら りょうぞう、1882年1月1日 - 1948年11月27日)は、日本の植物学者・林学者。九州帝国大学教授、陸軍司政長官を歴任。 金平惣伍の三男として岡山県に生まれる。東京帝国大学を卒業後、台湾総督府技師となり、同府営林局、中央研究所林業部長などを歴任した。1928年(昭和3年)九州帝国大学教授となり、1942年(昭和17年)3月に退官した。同年11月、陸軍司政長官に就任した。台湾のほかフィリピン、ニューギニア、ペルーなどで植物、特に森林資源の調査を行った。 この項目は、植物学に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。
余 棨昌 (よ けいしょう、1882年 – 1949年)は中… 余 棨昌 (よ けいしょう、1882年 – 1949年)は中華民国の裁判官・法学者。北京政府時代に大理院院長(最高裁判所長官)となり、法学者としても法学教育や司法教育に功績があった。字は戟門。 清末に日本へ留学する。1911年(宣統3年・明治44年)7月、東京帝国大学法学部法律学科(ドイツ法兼修)を卒業し、併せて法学士の称号を取得した。帰国後、戸部主事に任じられている。 中華民国成立後の1912年(民国元年)に財政部弁事、法制局参事、籌備国会事務局委員会委員を歴任する。翌1913年(民国2年)、12月には高等文官懲戒委員会委員となり、更に大理院推事兼庭長に抜擢された。その後も高等文官甄別委員会委員、約法会議議員資格審定会会員、高等捕獲審検庁首席評事、司法官懲戒委員会委員を歴任(兼任)している。
久慈 直太郎(くじ なおたろう、1881年〈明治14年〉12… 久慈 直太郎(くじ なおたろう、1881年〈明治14年〉12月29日 - 1968年〈昭和43年〉6月26日)は、日本の産婦人科学者である。 神奈川県横浜市金沢区に生まれ、岩手県盛岡市にて育つ。盛岡中学卒業。東京帝国大学医科大学に入学し、1906年(明治39年)に同大学を卒業した。卒業後は留学のため渡米し、帰国後は母校の東大医科大学の副手や盛岡市に所在する岩手病院(現在の岩手県立中央病院)の産婦人科の科長として活動する。その後は朝鮮総督府に渡り同府が運営する医院の副医官や、1916年(大正5年)には京城医学専門学校にて教鞭を執った。 1921年(大正10年)には医学博士を取得し、翌々年の1923年(大正12年)より旧制の金沢医科大学(現在の金沢大学医学部)の教授として活動する。
草間 偉(くさま いさむ、1881年(明治14年)6月1日 … 草間 偉(くさま いさむ、1881年(明治14年)6月1日 - 1972年(昭和47年)5月12日)は、明治時代後期から昭和時代の土木工学者。 長野県東筑摩郡寿村(現・松本市)の草間代次郎の二男・偉瑳武として生まれる。旧制第一高等学校を経て、1906年(明治39年)東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業し、九州鉄道に入社。別府線建設に従事したのち鉄道院に転じ日豊線建設を担当する。1909年(明治42年)母校の東京帝国大学工科大学助教授に転じ、1918年(大正7年)から衛生工学の研究のため、2年間の欧米留学でイリノイ大学、コーネル大学、ハーバード大学などでに微生物学、水理学などを学び、帰国後は逝去した中島鋭治に代わり1921年(大正10年)教授に進み土木工学講座担任となり、1942年(昭和17年)退官した(名誉教授)。
中川 維則(なかがわ これのり、1881年(明治14年)6月… 中川 維則(なかがわ これのり、1881年(明治14年)6月 - 1945年(昭和20年))は、日本の鉱物学者。 神奈川県中郡旭村(現在の平塚市)出身。出縄善太郎の二男として生まれ、中川隣之助の養子となった。1904年(明治37年)、東京帝国大学工科大学採鉱冶金科を卒業し、農商務省東京鉱務署に勤務した。1908年(明治41年)、ドイツに留学。1910年(明治43年)、私立明治専門学校(現在の九州工業大学)教授嘱託となり、1921年(大正10年)に同校が文部省に移管されると教授に就任した。採鉱冶金科長を経て、1933年(昭和8年)からは校長を務めた。1941年(昭和16年)、退官。 その他、九州帝国大学講師、戸畑商工会議所顧問、海外鉱業協会仏印研究所長を務めた。
西松 唯一(にしまつ ただいち、1881年<明治14年>5月… 西松 唯一(にしまつ ただいち、1881年<明治14年>5月6日 - 1951年<昭和26年>9月16日)は、明治時代から昭和時代の科学者。火薬学の権威として知られ、「火薬博士」と呼ばれた。位階は従三位、勲等は勲二等旭日重光章。 1881年5月6日、愛媛県下浮穴郡麻生村(原町村を経て現在は砥部町麻生)で西松和十郎とカツ(愛媛県白形熊治の二女)の長男として生まれる。 1892年、麻生小学校を卒業。1900年、松山中学校を卒業。岡山県の第六高等学校を経て、1907年に東京帝国大学工科大学火薬科を卒業する。 卒業後は東京砲兵工廠火薬試験所に入所したが、間もなく東京帝大に移り、1908年から1942年の35年間、東京帝大火薬学教室に在籍した。
朝比奈 泰彦(あさひな やすひこ、1881年〈明治14年〉4… 朝比奈 泰彦(あさひな やすひこ、1881年〈明治14年〉4月16日 - 1975年〈昭和50年〉6月30日)は、日本の薬学者、薬化学者。東京大学名誉教授。薬学博士。帝国学士院会員、文化勲章受章者。 東京市本所区(現・東京都墨田区)生まれ。東京府士族・朝比奈和四郎の長男。旧制府立一中、旧制第一高校を経て、東京帝国大学医科大学薬学科卒業。大学院に入り助手となる。 1909年、ヨーロッパに渡り、リヒャルト・ヴィルシュテッター、エミール・フィッシャーに師事する。1910年、薬学博士の学位取得。1912年、東京帝国大学助教授、1918年、教授。 1923年、「漢薬成分の化学的研究」で帝国学士院恩賜賞、1943年、文化勲章受章。
三宅 市郎(みやけ いちろう、1881年3月24日 - 19… 三宅 市郎(みやけ いちろう、1881年3月24日 - 1964年2月15日)は、日本の植物病理学者。 1881年、岐阜県恵那郡串原村(現・恵那市)に生まれた。第一高等学校を経て、東京帝国大学農科大学農学科(現・東京大学)を1906年に卒業、1907年に同大学助手となった。 1910年に清国・北京大学教授に招かれるが、政変により1914年に帰国。東京農業大学講師を勤め、植物病理学講座を開設して担当した。1924年に教授に昇格。玉川大学教授なども務めた。
田中 芳雄(たなか よしお、1881年3月9日 - 1966… 田中 芳雄(たなか よしお、1881年3月9日 - 1966年5月8日)は、日本の応用化学者。東京大学名誉教授。 埼玉県生まれ。東京帝国大学工科大学応用化学科卒。 石油、油脂、ゴムの権威として、化学工業界の発展に尽力した。1918年東京帝国大学教授、後に東京工業大学教授兼任。1927年(昭和2年)「本邦産石油の成分並びに応用に関する研究」で帝国学士院賞受賞。1938年(昭和13年)帝国学士院会員。1961年(昭和36年)文化功労者。主著に『化学工業総論』、『有機工業化学』等。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
藤懸 静也(ふじかけ しずや、1881年2月25日 - 19… 藤懸 静也(ふじかけ しずや、1881年2月25日 - 1958年8月5日)は、日本美術史学者、東京帝国大学教授。 茨城県古河市に生まれる。号は獅埼庵、獅子庵。父方祖父の五郎左衛門は旧古河藩国家老。江戸家老鷹見泉石は母方の曾祖父である。 第一高等学校を経て、1910年東京帝国大学文科大学史学科国史科を卒業し、直ちに大学院に入つて日本絵画史を専攻した。1914年以降は同大学文学部副手となり、そのかたわら、岡倉天心らが創刊し瀧精一を主幹とする、日本および東洋古美術研究誌『國華』の編集部員を1911年から勤め、広く美術工芸品への知識を得ていった。また女子美術学校、日本大学の講師、1917年國學院大學教授となる。
中村 古峡(なかむら こきょう、1881年2月20日-195… 中村 古峡(なかむら こきょう、1881年2月20日-1952年9月12日)は日本の文学者、心理学者。本名は蓊(しげる)。奈良県出身 一高を経て、東京帝国大学文学部に入学。心理学を専修する一方で、夏目漱石の門下生となった。1922年、41歳にして、東京医専に入学する。卒業後は、千葉医科大学の研究所に勤務する一方、弟が精神病であったことから心理学研究に関心を持ち、1917年5月日本精神医学会を設立して会長となり、雑誌『変態心理』を創刊した。同誌は1926年10月まで刊行された。1929年には自ら診療所を開業した。この診療所が現在の中村古峡記念病院である。心理学者としても、二重人格の研究などの業績がある。
渡辺 三郎(渡邊 三郎、わたなべ さぶろう、1880年(明治… 渡辺 三郎(渡邊 三郎、わたなべ さぶろう、1880年(明治13年)12月2日 - 1951年(昭和26年)1月8日)は、日本の工学者、実業家、政治家。工学博士、貴族院勅選議員。旧姓・大河原。「特殊鋼」の命名者。 群馬県碓氷郡松井田駅(現安中市)で、商業・大河原新七、野恵夫妻の三男として生まれる。松井田町尋常高等小学校、群馬尋常中学校、第一高等学校工科を経て、1907年(明治40年)6月、東京帝国大学工科大学採鉱冶金学科を卒業。 大学卒業後、古河鉱業所 (株)(現古河機械金属)に入社し足尾鉱業所精錬課溶鋼係長に就任。1908年(明治41年)6月、実業家・渡辺福三郎、多満子夫妻の五女で従姉妹の那べと入夫縁組して渡辺と改姓。
野村 伝四(のむら でんし、1880年(明治13年)10月2… 野村 伝四(のむら でんし、1880年(明治13年)10月20日 - 1948年(昭和23年)7月26日)は、日本の英文学者、方言学研究者、民俗学者、教育者。 1880年(明治13年)、鹿児島県肝属郡高山町(現・肝付町)で生まれた。父伝之助は漢学者で槍の名人、文武両道に秀でていたというが、伝四が五歳の時、西南戦争の被弾がもとで没した。1900年(明治33年)、鹿児島県中学造士館卒業、一級上に橋口五葉がいた。1903年(明治36年)7月に第一高等学校卒業し同年9月、東京帝国大学英文学科に入学、1906年(明治39年)7月卒業。同級に中川芳太郎、森田草平、栗原古城らがいた。3年先輩に皆川正禧と野間真綱がおり、野間の熊本五高時代の1年先輩に寺田寅彦がいた。
井上 柳梧(いのうえ りゅうご、1880年(明治13年)9月… 井上 柳梧(いのうえ りゅうご、1880年(明治13年)9月21日 - 1962年(昭和37年)3月6日)は、日本の蚕糸学者、政治家。上田蚕糸専門学校第2代校長、上田市長。農学博士。勲二等旭日重光章。 東京府本郷区駒込千駄木町(現東京都文京区)で、官僚・井上廉の息子として生まれた。1893年(明治26年)高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)を卒業[要出典]。1898年(明治31年)高等師範学校附属尋常中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業[要出典]。官界を志していたが科学分野への興味がまさり 東京帝国大学農科大学に進み農芸化学を専攻。1908年(明治41年)7月に卒業して大学院に進み、1911年(明治44年)蚕糸研究のためフランス、ドイツ帝国に留学。
岩本 勇次郎(いわもと ゆうじろう、1880年〈明治13年〉… 岩本 勇次郎(いわもと ゆうじろう、1880年〈明治13年〉8月30日 - 1938年〈昭和13年〉6月24日)は、日本の裁判官、弁護士、大学教授。 1880年愛媛県生まれ。東京帝国大学卒業後、裁判官となり、東京控訴院部長判事などを歴任後、大審院判事に就任。また、弁護士としては、東京第二弁護士会会長などを務めた。 また、明治大学法学部教授を務めたほか、慶應義塾大学講師、早稲田大学講師、中央大学講師、東京大学野球連盟理事長などを務めた。
愛知 敬一(あいち けいいち、1880年〈明治13年〉7月2… 愛知 敬一(あいち けいいち、1880年〈明治13年〉7月25日 - 1923年〈大正12年〉6月23日)は、日本の物理学者。東北帝国大学理科大学物理学科教授を務めた。 1880年(明治13年)東京府生まれ。 東京帝国大学卒業。東京帝大講師、京都帝大助教授。ヨーロッパへの留学を経て、1911年(明治44年)に東北帝国大学理科大学(理学部)の教授に就任した。1912年には、総長推薦によって同大学から博士号(物理学)を授与された。 1922年(大正11年)のアルベルト・アインシュタイン訪日時には、神戸港に出迎え、仙台市公会堂で行われた講演会でも通訳を務めた。 1923年(大正12年)、食中毒(フグ毒による)により急死、42歳没。
西川 義方(にしかわ よしかた、1880年6月28日 - 1… 西川 義方(にしかわ よしかた、1880年6月28日 - 1968年8月27日)は、日本の医師、内科学者。 和歌山県出身。東京帝国大学医学部卒。日本医学専門学校教授、東京医科大学教授。1919年宮内省侍医として大正天皇を診た。1922年の主著「内科診療の実際」はロングセラーとなった。温泉に関する随筆でも知られ、短歌も詠んだ。
橋本 増吉(はしもと ますきち、1880年6月12日 - 1… 橋本 増吉(はしもと ますきち、1880年6月12日 - 1956年5月19日)は、日本の東洋史学者。 1880年、長崎県諫早で生まれた。長崎中学校、第六高等学校を経て、東京帝国大学文科大学史学科に進学。大学では白鳥庫吉、市村瓚次郎の指導を受け、羽田亨、原田淑人らと同学であった。1908年に卒業した。 1909年、早稲田大学文学科講師に就いた(1919年まで)。1910年からは慶應義塾にも出講し、1920年に慶應義塾大学教授となった。1944年に同大学を退任し、名誉教授となった。慶応大学在職中には、1935年から1年間東京文理科大学講師、1939年に東洋大学講師(翌年教授に昇格)を兼任した。1941年4月、学位論文『支那古代暦法史研究』を東京帝国大学に提出して文学博士の学位を取得。
神津 俶祐(こうづ しゅくすけ、1880年(明治13年)6月… 神津 俶祐(こうづ しゅくすけ、1880年(明治13年)6月5日 - 1955年(昭和30年)2月11日)は、日本の岩石学者・鉱物学者・地球科学者。東北大学名誉教授。理学博士。日本学士院会員。 長野県北佐久郡志賀村(現・佐久市)生まれ。神津清三郎の四男。1905年、東京帝国大学地質学科を卒業。大学院に学んだ。 1907年、農商務技師に任じ、地質調査所技師などを経て1916年、東北帝国大学教授となり、岩石鉱物鉱床学教室を設立した。1917年、理学博士の学位を授与された。1932年、帝国学士院会員。1942年、退官。 1929年、兄で長野電鉄創設者の神津藤平方より分家した。住所は長野県北佐久郡志賀村、宮城県仙台市米ヶ袋下町。
斎藤 玉男(さいとう たまお、1880年〈明治13年〉4月1… 斎藤 玉男(さいとう たまお、1880年〈明治13年〉4月14日 - 1972年〈昭和47年〉10月13日)は日本の医師、精神医学者。高村智恵子の晩年の主治医であった。 1880年(明治13年)、群馬県南勢多郡苗ヶ島村(勢多郡宮城村を経て現・前橋市苗ヶ島町)に生まれる。祖父は幕末から明治時代にかけて活躍した国学者・医師であった斎藤多須久(たすく)。群馬県中学校(現・群馬県立前橋高等学校)、旧制第二高等学校を経て、1906年(明治39年)東京帝国大学医科大学を卒業した。その後、ドイツやアメリカに留学。 東京府巣鴨病院医員として勤務。巣鴨病院の後輩には斎藤茂吉がおり親交を結んだ。1916年(大正5年)日本医学専門学校教授に就任し、1944年(昭和19年)まで務める。
大槻 快尊(おおつき かいそん、1880年4月13日 - 1… 大槻 快尊(おおつき かいそん、1880年4月13日 - 1936年6月2日)は、日本の心理学者。かつ真言宗智山派の僧である。 愛知県海部郡甚目寺村(現:あま市)生まれ。幼年の時期に長久寺・鈴木快秀の下に出家し真言宗智山派の僧籍を持つ。日本において最も早い時期に、欧米の実験心理学を紹介した人物の一人である。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。 この項目は、心理学に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ 心理学)。 この項目は、社会科学に関連した書きかけの項目です。
佐野 利器(さの としかた、1880年(明治13年)4月11… 佐野 利器(さの としかた、1880年(明治13年)4月11日 - 1956年(昭和31年)12月5日)は、日本の建築家、建築構造学者。東京帝国大学名誉教授、日本大学教授、清水組副社長を歴任。宮内省工務課長、明治神宮造営局参与、帝都復興院理事、東京都建築局長、日本建築学会会長なども務めた。1950年日本学士院会員。芸術としての建築より、工学としての建築、とくに耐震工学に重きを置き、日本の構造学の発展に貢献した。 山形県西置賜郡荒砥村(現:白鷹町)の旧家の四男、山口安平として生まれた。生家(山口家)は大地主であったが次第に没落し、また実父の山口三郎兵衛が早くに病死したため、米沢中学在籍時に天童織田家の藩士だった佐野誠一郎の養嗣子となった。
布施 現之助(ふせ げんのすけ、1880年1月24日 - 1… 布施 現之助(ふせ げんのすけ、1880年1月24日 - 1946年12月12日)は、解剖学者。医学博士。専攻は神経解剖学。
杉村 七太郎(すぎむら しちたろう、1879年(明治12年)… 杉村 七太郎(すぎむら しちたろう、1879年(明治12年)12月19日 - 1960年(昭和35年)11月25日)は、日本の医学者。専門は、外科学・泌尿器科学。東北帝国大学第一外科初代教授。東北帝国大学名誉教授。 1879年(明治12年)、静岡県磐田郡池田村に生まれる。同村尋常小学校、見附町高等小学校、静岡県立静岡中学校、第二高等学校第3部を経て、東京帝国大学医科大学、さらに同大学院に進学。佐藤三吉の下で外科学を専攻。当時新設予定の新潟医学専門学校の外科教授として外科総論及び泌尿器外科を担当することが内定したため、1908年(明治41年)、皮膚科泌尿器科、土肥慶蔵の指導も受けた。ドイツに留学し外科学を研鑽。
田丸 節郎(たまる せつろう、1879年11月1日 - 19… 田丸 節郎(たまる せつろう、1879年11月1日 - 1944年8月5日)は、日本の化学者。 岩手県盛岡市出身、盛岡中学卒業。 1904年に東京帝国大学理科大学化学科を卒業した。1908年から1917年にかけてドイツのフリッツ・ハーバーの許でアンモニア合成の研究に携わった。1917年に帰国し理化学研究所の研究員となり、1929年に東京工業大学の教授に就任した。日本学術振興会の創設にも尽力した。 田中舘愛橘や寺田寅彦とともに、東京帝大運動会の短距離競走で使用された電気計測器の製作にも携わった。1902年の運動会では、100メートル競走優勝者に対して実施された「優勝者競走」というタイムトライアルに初めてこの装置が使用され、出走した藤井實(当時法科大学生)が10秒24という記録を出したとされる(この記録に関する詳細や議論については藤井の記事を参照)。
倉塚 良夫(くらつか よしお、1879年10月21日 - 1… 倉塚 良夫(くらつか よしお、1879年10月21日 - 1942年11月17日)は、日本の水道工学者。北海道帝国大学名誉教授。 福岡県に生まれる。1898年福岡県立尋常中学修猷館、1901年第五高等学校工科を経て、1904年東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業する。東大では「日本水道の開祖」といわれる中島鋭治の指導のもと水道工学、衛生工学を学んだ。 1904年陸軍省第1師団経理部に採用され、1905年満州軍倉庫雇員として出征。同年大連軍政署より大連経営の諸設計を嘱託され、関東州民政署技師となる。1906年関東都督府(のち関東庁)技師として民政部土木課大連出張所長となり、関東州における土木事業、主として大連および旅順の上下水道の事業に従事した。
石原 忍(いしはら しのぶ、1879年9月25日 - 196… 石原 忍(いしはら しのぶ、1879年9月25日 - 1963年1月3日)は、東京府東京市麹町区永田町(現在の東京都千代田区)出身の医学者・眼科医・陸軍軍人(最終階級は軍医少将)。東京帝国大学教授。文化功労者。 石原式色覚異常検査表と呼ばれる色覚検査表(石原表と略される)の考案者として有名である。石原表は1933年の第14回国際眼科学会で認定されたことなどから国際的にも高い評価を得ており、色覚検査表といえば石原表と同義語と解されるほど日本では普及している。 その他、石原は視力・色覚・屈折異常など、機能検査表の研究を行ったり、1色覚(先天性全色盲)を発見するなどし、眼科分野の先駆者となった。 1879年(明治12年)9月25日、東京府東京市麹町区永田町(現在の東京都千代田区)に生まれた。
中井 宗太郎(なかい そうたろう、1879年(明治12年)9… 中井 宗太郎(なかい そうたろう、1879年(明治12年)9月19日 - 1966年(昭和41年)3月16日)は、日本の美術史家。日本・東洋美術史の研究・評論を行った。 京都府出身。東京帝国大学卒業。1909年新設の京都市立絵画専門学校(現・京都市立芸術大学)講師、教授、1942年校長。戦後は立命館大学教授。 江戸時代の洋画家として知られる司馬江漢について書いた自書『司馬江漢』の序文で、 と述べ、第4章「画人として また理学人としての江漢」、第8章「江漢の究理学と地動説」へと論を展開している。
川村 麟也(かわむら りんや、1879年〈明治12年〉9月1… 川村 麟也(かわむら りんや、1879年〈明治12年〉9月11日 - 1947年〈昭和22年〉10月31日)は、日本の医師、病理学者。著名なツツガムシ病の研究の他、日本住血吸虫症の研究や脂肪染色法など一般病理学面での業績も残している 。 東京大学医科学研究所名誉教授の川村明義は三男。 1879年(明治12年)川村将徳の四男として山梨県北巨摩郡志田村(現・甲斐市)に生まれる。 中学校卒業後東京の独逸語学校にてドイツ語を学んだ後、第一高等学校を経て東京帝国大学医科大学に入り病理学教室の山極勝三郎に師事。1906年同大を卒業しすぐに病理学教室に入る。 1908年(明治41年)に奨学金を受けてイギリスとドイツに渡り、特にベルリンのヨハネス・オルト (Johannes Orth) とフライブルクのルードヴィッヒ・アショフ (Ludwig Aschoff) に師事した。
小出 満二(こいで まんじ、1879年8月13日 - 195… 小出 満二(こいで まんじ、1879年8月13日 - 1955年5月29日)は、農政学者。 兵庫県養父郡伊佐村で、9代続く医家の6人兄弟の次男として生まれる。学制尋常4年を卒業後上京し、13歳で郁文館中学校に進学。同期生に石原純、橋元昌矣(石原の妻の兄)、三宅恒方、物集高量、浮田修身らがいた。 第一高等学校に首席で合格したが、一学年期に落第して人生に悩み、読書を通じて内村鑑三とキリスト教に出会い、隣に住んでいたクリスチャンの村田勤(1866 〜1921、牧師・教育者)と親交した。村田は同志社出身で、イエール大学で教会史学者のウィリストン・ウォーカー(en:Williston Walker)に学び、日本女子大学や明治中学校で教鞭をとった人物。
米沢 与三七(よねざわ よそしち、1879年(明治12年)8… 米沢 与三七(よねざわ よそしち、1879年(明治12年)8月1日 - 1966年(昭和41年)5月9日)は、大正から昭和時代の電気工学者、通信技術者。子に電電公社総裁を務めた米沢滋がいる。 富山県に生まれる。1906年(明治39年)東京帝国大学電気工学科卒業後、逓信省に入り、通信技手、同技師、名古屋郵便局電話課長、鹿児島郵便局工務課長などを経て、1920年(大正9年)逓信省臨時電話局第3課長、工務局電話課長、工務局長となる。この間欧米留学、1932年(昭和7年)にはマドリードの万国無線会議に政府代表委員として出席した。1934年(昭和9年)退官すると、日本放送協会理事、技術局長、電波技術協会会長などを歴任した。