宮川 竹馬(みやがわ たけま、1887年4月18日 - 19… 宮川 竹馬(みやがわ たけま、1887年4月18日 - 1964年8月27日)は、昭和時代に活動した日本の実業家。高知県幡多郡入野村早咲(現・幡多郡黒潮町)出身。 旧制中村中学校(現・高知県立中村高等学校)を経て、東京高等工業学校(現・東京工業大学)電気科電気機械分科を1912年(明治45年)に卒業後、九州電灯鉄道(後の東邦電力)に入社。以後電力業界を歩み、1951年電気事業再編成により発足した四国電力株式会社の初代社長となる。また、その再編成案を松永安左エ門と協力してつくったことでも知られる。孫の坂間英気は、電力業界を経て、現在はサイバーセキュリティ企業の株式会社 AppGuardに勤務する。
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石川 等(いしかわ ひとし、1886年2月18日 - 195… 石川 等(いしかわ ひとし、1886年2月18日 - 1953年5月27日)は、日本の技術者、実業家、工学博士。日本カーボン創立者・初代代表取締役社長。電気化学協会第11代会長。炭素協会初代会長。 長野県生まれ。1910年東京高等工業学校(現東京工業大学)電気化学科卒業。学科の1年先輩に冨山保(のちに初代横浜国立大学学長)がいた。同年設立された東京カーボン工業所に技師長として入り、電極の国産化に成功。1915年には原富太郎ら横浜財界の支援を得て独立して日本カーボンを設立。日本における安定的炭素工業企業の先駆けとなった。同社初代代表取締役社長。1930年工学博士(京都帝国大学)。1933年の電気化学協会創立に参画し、同協会関東支部長も務めた。
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大野 一造(おおの いちぞう, 1885年4月5日 – 19… 大野 一造(おおの いちぞう, 1885年4月5日 – 1967年3月6日)は、愛知県碧海郡刈谷町(現・刈谷市)出身の技術者・実業家・政治家。刈谷町会議員、愛知県会議員、刈谷町長、衆議院議員を務めた。刈谷市名誉市民。かんばん方式などの「トヨタ生産方式」を築いた大野耐一は息子。 1885年(明治18年)4月5日、愛知県碧海郡刈谷町緒川町(現・刈谷市八幡町6丁目78番地)にて旧刈谷藩士の大野介蔵の長男として生まれた。介蔵は刈谷城本丸隅の十朋亭を隠居家としており、1936年(昭和11年)には十朋亭を刈谷町に売却している。 刈谷町立亀城小学校を中途退学。兵庫県立神戸中学校(のちの兵庫県立神戸高等学校)を経て、東京高等工業学校(のちの東京科学大学)窯業科を卒業。
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江副 孫右衛門(えぞえ まごえもん、1885年(明治18年)… 江副 孫右衛門(えぞえ まごえもん、1885年(明治18年)2月6日 - 1964年(昭和39年)8月24日)は、明治期の実業家。日本特殊陶業初代社長、日本碍子社長、東洋陶器(現 TOTO)社長・会長を務めた。有田町初代町長。 佐賀県有田町上幸平の陶磁器製造業の父八蔵の長男として生まれる。祖先は佐賀藩の有田皿山代官所の役人だったと言われ、廃藩により明治時代は祖父・父ともに窯焼きを家業としていた。白川尋常高等小学校(現・有田小学校)、佐賀県立有田工業高等学校製陶科を経て、1909年に東京高等工業学校(現 東京科学大学)窯業科を卒業し、継ぐ予定だった家業が破綻したため、日本陶器に入社。 対立した飛鳥井孝太郎技師長が1910年に追放されたことで、白色硬質磁器研究体制の中心となる。
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西 済(西 濟、にし いつき、1884年 <明治17年> 1… 西 済(西 濟、にし いつき、1884年 <明治17年> 10月18日 - 1981年 <昭和56年> 4月27日)は、日本の経営者。十條製紙社長を務めた。位階は従四位。 長崎県平戸市出身。1906年に東京高等工業学校機械科を卒業し、同年に鈴木機械製作所に入社。 1910年に王子製紙に転じ、1941年に取締役を経て、1949年8月には十條製紙社長に就任。1957年11月に会長を経て、1968年5月には相談役に就任。 1960年に藍綬褒章を受章し、1965年11月には勲三等瑞宝章を受章。 1981年4月27日、心不全のために死去。96歳没。死没日付をもって従四位に叙された。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
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大野 政吉(おおの まさきち、1884年(明治17年)4月1… 大野 政吉(おおの まさきち、1884年(明治17年)4月14日 - 1970年(昭和45年)7月31日)は、日本の技術者、実業家。旭硝子(現AGC)社長や、窯業協会会長を務めた。 東京生まれ。1906年東京高等工業学校(現東京工業大学)窯業科卒業、農商務省入省。1907年島田硝子製造所入社。1908年に旭硝子入社後、尼崎工場長、鶴見工場長、牧山工場長、技術課長、支配人、取締役等を務め、日本初の窓ガラスの本格量産化を成功させた。 1927年大日本窯業協会理事長。旭硝子常務取締役を経て、山田三次郎会長が死去した1939年から旭硝子社長及び旭化学工業奨励会理事長を務めた。1940年緑綬褒章受章。 1941年日本光学工業取締役。
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貝塚 栄之助(かいづか えいのすけ、1882年〈明治15年〉… 貝塚 栄之助(かいづか えいのすけ、1882年〈明治15年〉8月10日 - 1947年〈昭和22年〉)は、大正から昭和時代前期の政治家、実業家。三重県桑名市長。 貝塚卯兵衛の三男として三重県桑名に生まれる。父卯兵衛は米穀商および株式取引を生業とし桑名紡績を立ち上げた人物。1910年(明治43年)東京高等工業学校を卒業後、名古屋電灯に入社し技師として勤務する。1915年(大正4年)家督を相続し、松阪工業学校教諭に転じた。1918年(大正7年)高岳製作所社長を経て、1926年(大正15年)桑名瓦斯社長となった。1930年(昭和5年)桑名町助役に挙げられ、1934年(昭和9年)桑名町長を経て、1937年(昭和12年)6月22日、市制施行と同時に桑名市長に就任した。
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梅野 猶太朗(うめの なおたろう、旧姓:高松、1881年(明… 梅野 猶太朗(うめの なおたろう、旧姓:高松、1881年(明治14年)12月20日 - 1940年(昭和15年)4月10日)は、日本の実業家である。岡山県高梁市出身。 1881年(明治14年)に岡山県上房郡松山村(現:高梁市)の備中松山藩士である高松元貞の五男として生れる。父の元貞は、父の母親の実家である高松家を相続し高松姓となっていた。猶太郎は祖父方の梅野家を相続し、再び名字を梅野へ戻した。梅野はその後、地元の旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ入学。 同期には、早稲田大学教授になる横山有策、大日本帝国海軍中将の杉政人、海軍大学校教頭を務めた中島権吉、衆議院議員になる則井万寿雄がいた。
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苫米地 義三(とまべち ぎぞう、1880年〈明治13年〉12… 苫米地 義三(とまべち ぎぞう、1880年〈明治13年〉12月25日 - 1959年〈昭和34年〉6月29日)は、日本の実業家、政治家。位階は正三位。運輸大臣(第8代)、内閣官房長官(第3代)、衆議院議員(3期)、参議院議員(1期)、サンフランシスコ講和会議全権委員。 1880年(明治13年)12月25日、青森県上北郡相坂村(藤坂村を経て現在の十和田市)に生まれる。父の金次郎は村の評議員で、明治22年の市町村制施行時は、藤坂村の第1期村会議員にも選ばれた地域の有力者だった。一方で北海道開拓に並々ならぬ関心を抱いており、翌1890年(明治23年)には全財産を担保にして土地を買い、後志国磯谷郡南尻別村大谷地(現在の北海道蘭越町大谷地)に移り住んだ。
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百木 三郎(ももき さぶろう、1880年8月12日 - 19… 百木 三郎(ももき さぶろう、1880年8月12日 - 1940年12月3日)は、日本の技術者、実業家。東洋陶器(現TOTO)取締役社長を務めた。 窯業家河原徳立の三男として東京深川に生まれる。順天求合社(現順天高等学校)を経て、1899年東京高等工業学校(現東京工業大学)窯業科卒業後、農商務省海外窯業練習生としてアメリカ合衆国に留学し、1903年コーネル大学大学院修了。父の親友だった大倉孫兵衛に雇われ、1904年の日本陶器設立時に同社入社。 日本陶器では解任された飛鳥井孝太郎の後任として技師長となり、同窓の西山貞を招聘するなどして衛生陶器の開発にあたり、"sanitary ware"の訳語として「衛生陶器」の語を考案するなどもした。
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安田 昌(やすだ まさる、1879年12月11日 - 193… 安田 昌(やすだ まさる、1879年12月11日 - 1931年10月27日)は、日本の実業家。 士族・安田仲元の長男として、福岡県に生まれる。1897年福岡県立尋常中学修猷館を経て、1900年東京高等工業学校(現・東京工業大学)を卒業。 日本鉄道に技手として入社し、機関庫主任などを務める。1907年明治製糖の創立に参画、後に同社常務取締役に就任する。 明治商店取締役、明治製菓取締役、河西鉄道監査役、十勝開墾監査役、東京高等工業学校講師なども務めている。
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松江 春次(まつえ はるじ、1876年(明治9年)1月15日… 松江 春次(まつえ はるじ、1876年(明治9年)1月15日 - 1954年(昭和29年)11月29日)は、日本の男性実業家。南洋興発の創業者で初代社長。 1876年(明治9年)、現在の福島県会津若松市で旧会津藩士・松江久平の次男として生まれる。 1895年(明治28年)会津中学を卒業(1回生)。特選生として通学していた野口英世と親交があった。 1899年(明治32年)に東京工業学校(東京高等工業学校、東京工業大学を経て、現東京科学大学)を卒業し、大日本製糖(現大日本明治製糖)に入社する。 1903年(明治36年)に農商務省の海外実業練習生試験に合格し、ルイジアナ州立大学に留学。同大学院で修士号(マスター・オブ・サイエンス)を取得した。
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橋本 増治郎(はしもと ますじろう、1875年(明治8年)4… 橋本 増治郎(はしもと ますじろう、1875年(明治8年)4月28日 - 1944年(昭和19年)1月18日)は、愛知県額田郡柱村(現・岡崎市柱)出身の技術者・実業家。 日産自動車、ダットサン、いすゞ自動車の前身である快進社の創立者。 1875年(明治8年)4月28日、愛知県額田郡柱村19番(現・岡崎市柱6丁目)に生まれた。父は橋本斧吉、母はくらであり、増治郎は次男だった。生家は「大橋本」と呼ばれる旧家であり、兄の橋本松次郎は岡崎村会議員や岡崎村長を務めている。 羽根小学校、額田郡高等小学校(現・岡崎市立梅園小学校)を卒業すると、1891年(明治24年)に東京工業学校(現・東京工業大学)に入学し、1895年(明治28年)に工芸部機械科を卒業した。
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登坂 又蔵(のぼりさか またぞう、1875年(明治8年)1月… 登坂 又蔵(のぼりさか またぞう、1875年(明治8年)1月2日 - 1944年(昭和19年)3月4日)は、大正から昭和時代前期の政治家、実業家。山形県米沢市長。 現在の山形県米沢市に生まれる。1897年(明治30年)京都市染織学校訓導を拝命し、1899年(明治32年)退職したのち、1905年(明治38年)東京高等工業学校染織科選科を卒業する。米沢義社取締役、奥羽電気常務取締役を経て、1915年(大正4年)9月、山形県会議員に当選し以来6期務めた。その間、米沢市会議員、同副議長、同議長を歴任。ついで1929年(昭和4年)3月、米沢市長に就任したのち、1933年(昭和8年)11月、山形県会議員に再選した。
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小林 豊造(こばやし とよぞう、1874年〈明治7年〉2月2… 小林 豊造(こばやし とよぞう、1874年〈明治7年〉2月27日 - 1921年〈大正10年〉3月20日)は、日本の技術者、経営者。兵庫県出身。ダイヤモンド研磨技術を欧州に学び日本に初めて導入し起業した。また日本初となる蓄音機のルビー針など多くの技術を開発した。文芸評論家小林秀雄の父。幼名・豊蔵。 農家の二男として生まれたが、幼少期に出石藩士・小林家の養子となり、兵庫県師範学校を経て、1899年 東京工業学校(後に東京高等工業学校と改称、現東京工業大学)工業教員養成所金工科卒業。同校の教員となり、1903年に文部省の派遣留学生として1年間欧米の金属技術を視察し研究した。 貴金属時計装身具卸売製造の「村松万次郎商店」の顧問を兼ねていたが、1908年に万次郎が死去すると、真珠養殖に成功していた御木本幸吉に乞われて1910年に御木本真珠店貴金属工場長に就任、社命により1911年にベルギーのアントワープのダイヤモンド研磨工場の研修生となり、日本人で初めて宝石用ダイヤモンド原石のカットと研磨技術を習得する。
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竹尾 年助(たけお としすけ、1873年8月10日 - 19… 竹尾 年助(たけお としすけ、1873年8月10日 - 1956年)は、明治時代の実業家、エンジニア。 1873年、愛知県八名郡賀茂村(現、豊橋市)の竹尾彦九郎の二男として生まれた。 1894年(明治27年)、東京高等工業学校を卒業。アメリカ・ニューヨークに渡り、高峰譲吉の研究所に入る。1896年、スティーブンス工科大学機械科に編入学、1898年に卒業。卒業後も、同大学でディーゼルエンジン開発研究などに10年間従事した。1908年、アメリカ機械学会(ASME, The American Society of Mechanical Engineers)会員に推挙される。 1903年に帰国。幸袋製作所と大阪鉄工所に勤務した。
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江田 鎌治郎(えだ かまじろう、1872年6月22日(明治5… 江田 鎌治郎(えだ かまじろう、1872年6月22日(明治5年5月17日) - 1957年(昭和32年)5月7日)は、日本の技術者、実業家。速醸酛の発明者として知られ、「酒聖」「酒造界の大恩人」と賞される。 1872年(明治5年)、新潟県糸魚川に生まれる。新潟師範学校、東京高等工業学校応用化学科(現・東京工業大学)卒業。東京税務監督局、大蔵省醸造試験所、大阪工業大学講師などを歴任。1909年、速醸酛を開発した。大蔵省を退官後、1933年(昭和8年)に江田醸造研究所(後の江田醸造株式会社)を設立。1916年に勲六等瑞宝章、1955年に紫綬褒章を受賞。 没後、日本生物工学会による生物工学奨励賞(江田賞)が創設された。
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濱田 彪(はまだ ひょう、1871年1月9日(明治3年11月… 濱田 彪(はまだ ひょう、1871年1月9日(明治3年11月19日) - 1938年(昭和13年)11月7日)は、日本の技術者、実業家。第3代三菱造船(現三菱重工業)会長を務めた。 長崎県東彼杵郡福重村野田郷(現大村市野田町)で、初代村長一瀬信造の次男として生まれた。大村中学校(現長崎県立大村高等学校)卒業後、1891年東京工業学校(現東京工業大学)機械科卒業、三菱合資入社。長崎造船所で「常陸丸」の受注にあたるなどし、同所機械工場支配人を経て、1898年三菱造船所電気主任技師。三菱造船所副長を経て、1917年三菱造船長崎造船所所長。1920年三菱造船常務取締役。1925年三菱造船会長。1931年蔵前工業会理事長。
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山田 三次郎(やまだ さんじろう、1870年9月14日(明治… 山田 三次郎(やまだ さんじろう、1870年9月14日(明治3年8月19日) - 1939年(昭和14年)6月23日)は、日本の技術者、実業家。旭硝子(現AGC)会長や、日本化成工業(のちの三菱化学、現在の三菱ケミカル)社長を務めた。 鹿児島県生まれ。東京数学院(現東京高等学校)を経て、1897年に東京工業学校(現東京工業大学)窯業科卒業後、1900年から1903年まで農商務省海外実業練習生としてブリュッセルのガラス工場に留学した。 農商務省嘱託を経て、1906年東洋硝子技師。1908年旭硝子工務長となり、岩崎俊弥による旭硝子創業に加わり、欧米の調査などを行った。1918年日米板ガラス取締役。旭硝子常務取締役を経て、初代社長の岩崎の死後、1931年から後継として旭硝子取締役会長(第2代社長)を務めた。
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山口 武彦(やまぐち たけひこ、1869年8月9日(明治2年… 山口 武彦(やまぐち たけひこ、1869年8月9日(明治2年7月2日) - 1962年(昭和37年)7月11日)は、日本の実業家。アズビルや、日本酸素ホールディングス、日本精工の創業者。 鹿児島県下西田町(現鹿児島市西田)生まれ。旧薩摩藩士の家だったが明治維新後に没落しており貧しく、農商務省に務める義兄・奥清輔(のち農商務省水産局長)を頼って東京に移り、東京職工学校(現東京科学大学)に進学。1891年に卒業すると、義兄の親友だった高橋是清(当時農商務省特許局長)の紹介で農商務省入省、特許局審査官補。その後、製釘事業を立ち上げようと考えていた安田善次郎からの依頼を受けていた高橋是清から推挙され、安田銀行に技師として入行して、1896年からオハイオ州クリーブランドで技術習得に従事。
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橋本 卯太郎(はしもと うたろう、明治2年3月25日(186… 橋本 卯太郎(はしもと うたろう、明治2年3月25日(1869年5月6日) - 昭和13年(1938年)7月7日)は、日本の実業家。大日本麦酒(現・サッポロビール)の常務取締役を務めた。酵母を扱う技師から常務に出世した、明治、大正期における郷土出身の立志伝中の一人である。東京府平民。 厚生大臣、文部大臣などを歴任した橋本龍伍の父。内閣総理大臣を務めた橋本龍太郎、高知県知事を務めた橋本大二郎の祖父。衆議院議員の橋本岳の曾祖父。 橋本源三郎の長男として岡山県下道郡秦下村(現総社市秦)の旧家に生まれた。 農民だった卯太郎は、わらじをつくって旅費をかせぎ、明治20年(1887年)、20歳のとき「男子一たび郷関を出づ、功ならずんば二度と郷土にまみえず」と意を決し、東京へ出た。
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羽室 庸之助(はむろ ようのすけ、1868年10月26日(明… 羽室 庸之助(はむろ ようのすけ、1868年10月26日(明治元年9月11日) - 1944年(昭和19年)12月30日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(1期)。 兵庫県出身。1890年、東京工業学校(現・東京工業大学)機械科卒。私立中学鳳鳴義塾教師となる。その後、農商務省製鉄所技手となり、ドイツに留学、住友製鋼所副支配人、羽室鋳鋼所所長、日本水道衛生、大阪機械工作所(株)監査役を歴任する。御影師範学校附属小学校保護者会役員であったことから、近隣の新中学として1923年から灘校設立運動を支援。 1924年の第15回衆議院議員総選挙において大阪3区から立候補したが落選。1926年の補欠選挙の再選挙に実業同志会公認で立候補して当選した。
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飛鳥井 孝太郎(あすかい こうたろう、慶応3年11月3日(1… 飛鳥井 孝太郎(あすかい こうたろう、慶応3年11月3日(1867年11月28日) - 昭和2年(1927年)7月29日)は、日本の実業家、技術者。同志社の教授を経て、ノリタケカンパニーリミテドや、鳴海製陶を創業した。 加賀国大聖寺藩(現石川県加賀市大聖寺町)出身。父は旧大聖寺藩士飛鳥井清。東京工業学校(現東京工業大学)陶器玻璃工科でゴットフリード・ワグネルに師事して青磁を研究し、1890年に卒業後、同志社波理須理化学校(のちの同志社大学理工学部)陶磁器科長・教授等を経て、1896年に森村組に入社し、名古屋支店で洋食器の研究開発に従事。1897年から農商務省海外貿易練習生としてヨーロッパに留学。
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笹村 吉郎(ささむら きちろう、1867年5月14日(慶應3… 笹村 吉郎(ささむら きちろう、1867年5月14日(慶應3年4月11日) - 1960年(昭和35年)7月24日)は、日本の技術者、実業家。日本で先駆け的にディーゼル機関を開発し、新潟鐵工所社長や同社会長を務めた。 長州藩士の長男として萩町川島村(現山口県萩市大字川島)に生まれる。父が「士族の商法」で事業に失敗したため中学校に進学する資金がなく、公費で通える山口師範学校(現山口大学教育学部)を1885年に卒業し、船木小学校校長となった。その後叔父の援助などもあり、1892年に東京工業学校(現東京工業大学)機械科を卒業し、東京石川島造船所へ入社した。 銅ヶ丸鉱山機械課長を経て、1897年日本石油付属新潟鉄工所技師長に就任。
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山崎 久太郎(やまざき きゅうたろう、1864年12月3日(… 山崎 久太郎(やまざき きゅうたろう、1864年12月3日(元治元年11月5日)- 1942年(昭和17年)9月28日)は、明治期の製鋼技術者、大正期から戦前昭和期に活躍した実業家。官営八幡製鉄所に先立ち、日本で最初の民間平炉を創設した。 肥前国(現佐賀県)唐津藩藩士の子として生まれる。官営八幡製鉄所に先立ち、日本で最初の民間平炉を創設した。製鉄技術習得のため官費でドイツ留学した際、鉄の技術の先端が鋼に転換する様子を目の当たりにして先進の製鋼技術を積極的に習得した。この時得た知識や経験、技術に基づく製鋼法の理解者や有力な支援者が集まり会社が設立され日本鋳鋼所(現日本製鉄株式会社関西製鉄所製鋼所地区)が創設された。
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上野 裕明(うえの ひろあき)は、日本の実業家、技術者、理学… 上野 裕明(うえの ひろあき)は、日本の実業家、技術者、理学博士。 田辺三菱製薬代表取締役社長を経て、日本製薬工業協会会長、日本製薬団体連合会副会長。
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伊藤 善計(いとう よしかず)は、日本の実業家。クノール食品… 伊藤 善計(いとう よしかず)は、日本の実業家。クノール食品株式会社代表取締役社長を務めた。 長野県松本深志高等学校を経て、東京工業大学卒業後、1983年に味の素に入社。アメリカ味の素副社長、味の素生産統括センター長、味の素理事川崎事業所長兼川崎工場長、川崎工業振興倶楽部会長、川崎温暖化対策推進会議理事などを歴任し、2017年からクノール食品代表取締役社長を務め、味の素パッケージングなどとの経営統合による、味の素食品設立にあたった。2020年味の素アドバイザー。2021年堺化学工業取締役。2023年カンロ取締役。
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田中 實(たなか みのる)は、日本の技術者、実業家。新日本製… 田中 實(たなか みのる)は、日本の技術者、実業家。新日本製鐵代表取締役副社長や、日新製鋼代表取締役会長兼社長、日本機械学会会長、日本人初のISSF(国際ステンレススチールフォーラム)会長等を歴任した。 父は元大日本帝国海軍軍人。日本の降伏後中華民国高雄市から佐賀県伊万里市に引き揚げ、佐賀県立唐津中学校(のちの佐賀県立唐津高等学校)を経て、1955年東京工業大学機械工学科卒業。1994年初代ステンレス構造建築協会会長。新日本製鐵副社長在任中の1995年から第73期日本機械学会会長を務めた。 1997年日新製鋼最高顧問。1998年日新製鋼会長。1999年からは日新製鋼会長兼社長として、ステンレス事業の新日本製鐵との統合を進め、2000年からは日本人初のISSF(国際ステンレススチールフォーラム)会長を兼務して、市場開拓にあたった。
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土橋 健夫(つちはし たけお、生没年不詳)は、日本の実業家。… 土橋 健夫(つちはし たけお、生没年不詳)は、日本の実業家。日清製粉専務取締役、日清エンジニアリング代表取締役社長を務めた。 長野県茅野市出身。長野県諏訪清陵高等学校を経て、東京工業大学卒業。日清製粉入社。1989年取締役。1996年生産技術研究所長、専務・エンジニアリング部門技術部・開発部・安全衛生環境担当。1999年社長補佐(エンジニアリング部門・GS〔技術・環境〕・安全衛生環境担当・生産技術研究所長)、専務。日清エンジニアリング代表取締役社長に就任。日本粉体工業技術協会会長、粉体工学情報センター理事長を務めた。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
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仲森 清(なかもり きよし)は、日本の経営者、化学技術者。 … 仲森 清(なかもり きよし)は、日本の経営者、化学技術者。 1930年東京工業大学(のちの東京科学大学)応用化学科卒業。日本窒素肥料水俣工場醋酸課長を経て、1947年の創立8ヵ月後の10月に積水産業(のちの積水化学工業)に代表取締役専務として入社。 ポリスチレン発泡体製造技術の開発育成に努め合成樹脂発泡技術の発展に寄与したとして、1975年に藍綬褒章を受章。同年度全国発明表彰日本商工会議所会頭発明賞受賞。1981年勲四等旭日小綬章受章。
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御法川 学(みのりかわ がく)は、日本の工学者、実業家。工学… 御法川 学(みのりかわ がく)は、日本の工学者、実業家。工学博士 (東京工業大学)。法政大学大学院理工学研究科教授。法政大学理工学部機械工学科教授。法政大学大学院アーバンエアモビリティ研究所所長。HIEN Aero Technologies 株式会社代表取締役。 1991年に法政大学工学部機械工学科を卒業後、法政大学大学院工学研究科にて機械工学を専攻。1993年から株式会社荏原総合研究所の所員となった後、法政大学工学部の助手を務める。2001年に東京工業大学より博士号を授与された。 2008年から法政大学理工学部准教授となり、2010年より同学部教授へと着任。 2021年にeVTOL(電動垂直離着陸航空機)を中心に研究開発を行う企業、HIEN Aero Technologies 株式会社を創設し、同社の代表取締役を務めている。
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