小池 喜孝(こいけ きこう (別名よしたか))、1916年(… 小池 喜孝(こいけ きこう (別名よしたか))、1916年(大正5年)9月11日 - 2003年(平成15年)11月28日)は、日本の教育者、編集者、歴史研究者。東京都出身。 1916年(大正5年)9月11日、東京府北多摩郡東村山村(現:東京都東村山市)に小池喜八(東村山化成小学校の校長)とキク(または喜久)の長男として出生。1936年(昭和11年)に東京府青山師範学校を卒業。小学校教師として東郷小学校に勤務する傍ら、法政大学高等師範部に通い、歴史や社会学の教科研究を続ける。太平洋戦争中は鷺宮国民学校(現:中野区立鷺宮小学校)に赴任し、福島県へ児童らと疎開した。 戦後は、東京都教育労働組合執行委員に選出され、書記局員を務めるが、1948年(昭和23年)にGHQから教職追放令が下ると公職追放となった。
松下 繁二(まつした しげじ、1916年8月16日 - 戦死… 松下 繁二(まつした しげじ、1916年8月16日 - 戦死(年月不明))は、昭和時代前期に活躍したプロ野球選手。
保立 旻(ほたて あきら、1916年(大正5年)8月10日 … 保立 旻(ほたて あきら、1916年(大正5年)8月10日 - 2000年(平成12年)5月30日)は、日本の政治家。第5代東京都小金井市長。 京都府出身。1940年に法政大学経済学部を卒業。小金井市議会議員、市議会議長(1963年~1966年、1969年~1971年)、東京都市議会議長会会長を経て、1981年自民党・公明党・民社党・新自由クラブ推薦で市長に初当選。1985年に再選。 1987年、老人入院見舞金支給条例をめぐって市議会が紛糾。同年3月5日付で辞職。墓所は多磨霊園
鶴岡 一人(つるおか かずと(かずんど)、1916年7月27… 鶴岡 一人(つるおか かずと(かずんど)、1916年7月27日 - 2000年3月7日)は、広島県呉市東二河通(現:西中央)出身 のプロ野球選手(内野手)・監督、野球解説者。1946年から1958年までは「山本 一人(やまもと かずと)」。
赤根谷 飛雄太郎(あかねや ひゅうたろう、1916年1月5日… 赤根谷 飛雄太郎(あかねや ひゅうたろう、1916年1月5日 - 1969年8月22日)は、秋田県秋田市出身のプロ野球選手(投手)、野球指導者(秋田市立秋田商業高等学校硬式野球部監督)。プロ野球史上、最も漢字名の長い(7文字)選手として知られる。 なお、「ヒユウタロウ」は誤読である。巨人の星の星飛雄馬風に「ヒュウタロウ」である。 秋田商業を経て、法政大学に進学すると、東京六大学野球で活躍を見せる。その後、社会人野球の秋田コンマーシャルクラブ・帝国石油でプレー。 1948年に32歳にして急映フライヤーズに入団。新人ながら加藤正二(35歳)に次ぐ高齢の選手だった。1年目は二軍の急映チックフライヤーズの監督を兼任しながらドロップを武器に一軍で12試合に登板し2勝を挙げるが、9月28日に行われた対金星戦(後楽園球場)で坪内道則に史上初の1000本安打を打たれてしまう。
酒井 忠康(さかい ただやす、1915年〈大正4年〉4月24… 酒井 忠康(さかい ただやす、1915年〈大正4年〉4月24日 - 1967年〈昭和42年〉10月23日)は、日本の華族。正五位・子爵、旧松嶺藩主酒井家10代当主。
千葉 源蔵(ちば げんぞう、1915年(大正4年)3月25日… 千葉 源蔵(ちば げんぞう、1915年(大正4年)3月25日 - 1988年(昭和63年)9月21日)は、日本の実業家。文藝春秋名誉会長、日本雑誌協会・日本雑誌広告協会・出版健康保険組合各理事長を歴任した。
小島 信夫(こじま のぶお、1915年〈大正4年〉2月28日… 小島 信夫(こじま のぶお、1915年〈大正4年〉2月28日 - 2006年〈平成18年〉10月26日)は、日本の小説家。中国から復員後、教師を経て『小銃』で文壇に登場。「第三の新人」の一人と目されるも、抽象表現を帯びた前衛的手法の作品に独自の道を拓いた。評伝や文学論でも活躍。日本芸術院会員。文化功労者。位階は正四位。 岐阜県稲葉郡加納町(現・岐阜市加納安良町)出身。旧制岐阜中学校(現・岐阜県立岐阜高等学校)、第一高等学校を経て、1941年東京帝国大学文学部英文科卒業。卒業論文は『ユーモリストとしてのサッカレイ』。 1942年より中国東北部で従軍、敗戦でポツダム上等兵(伍長)。1946年復員し、1948年4月から千葉県立佐原女子高等学校で教え、1949年度より東京都立小石川高等学校に移る。
中野 文照(なかの ふみてる、1915年1月13日 - 19… 中野 文照(なかの ふみてる、1915年1月13日 - 1989年12月30日)は、岐阜県瑞浪市出身の男子テニス選手。法政大学卒業。1930年代後半から1950年代初頭にかけて、日本男子テニス界を代表する選手として活動した。時代的には、1934年に投身自殺した佐藤次郎のすぐ後に位置している。彼と同年代のライバル選手には、慶應義塾大学の山岸二郎や同じ法政大学の松本武雄などがいた。 1937年全米選手権、1938年全仏選手権で4回戦に進出。この結果は錦織圭が並ぶまで日本人男子シングルス最後の各大会4回戦以上進出記録だった(全米は71年ぶり、全仏は75年ぶりに進出)。 中野は1935年の全日本学生テニス選手権(通称インカレ)で初めてベスト4に入り、この年から「全日本テニスランキング」のトップ10位以内に入った。
安藤 之制(あんどう ゆきのり、1915年 - 没年月日不明… 安藤 之制(あんどう ゆきのり、1915年 - 没年月日不明)は、愛知県出身の元プロ野球選手(内野手)。
松村 達雄(、1914年〈大正3年〉12月18日 - 200… 松村 達雄(、1914年〈大正3年〉12月18日 - 2005年〈平成17年〉6月18日)は、日本の俳優。東京俳優生活協同組合所属。 大学時代はラグビー選手として活躍し、劇団を結成して舞台で活動するが、劇団の解散後は映画・テレビドラマに多く出演した。しやがれた声の独得な台詞まわしと、芝居臭さを感じさせないリアルで深味のある演技で個性的なバイプレイヤーとして活躍し、崩れたインテリ役に定評があった。映画『男はつらいよ』シリーズで2代目おいちゃん役を演じたことでも知られる。 神奈川県横浜市に父・武重と母・トエ(高橋榮太郎の長女)の3男2女の3男として生まれる。兄は錠司と重雄。父は大阪府の松村繁三郎の三男として1882年3月に生まれ、帝国蓄音機やスタンダード蓄音機、コロムビアレコードの取締役文芸部長となった。
戸倉 勝城(とくら かつき、1914年11月3日 - 199… 戸倉 勝城(とくら かつき、1914年11月3日 - 1997年6月6日)は、山口県出身のプロ野球選手(外野手)・監督。 豊浦中学を経て、法政大学を卒業。卒業後は、大連満倶・林兼商店でプレーイングマネージャーを務めた。1950年に社会人野球大洋漁業から河内卓司らと引き抜かれ、この年創立された毎日に入団。 35歳という高齢でのプロ入りながら、同年3月11日のパ・リーグ開幕戦(西鉄戦)で4番を打ち、初打席で木下勇から本塁打を放って初打席初本塁打とパ・リーグ第1号本塁打を記録した。この年の7月5日の大映戦(後楽園球場)では、ナイターでの第1号本塁打を記録する。最終的には21本塁打、96打点でチームの初優勝に貢献した。
大谷 昌行(おおたに まさゆき、1914年(大正3年)10月… 大谷 昌行(おおたに まさゆき、1914年(大正3年)10月31日 - 2002年(平成14年)5月9日)は、日本の実業家。元一畑電気鉄道社長、元日本海テレビジョン社長。 1914年(大正3年)10月31日、島根県平田市に生まれる。1938年(昭和13年)に法政大学法学部法律学科を卒業する。 三菱電機を経て、1945年(昭和20年)に一畑電気鉄道に入社する。1955年(昭和30年)に取締役、1957年(昭和32年)に常務、1965年(昭和40年)に社長に就任する。 一畑グループの総帥で、グループ数十社の社長・会長を務めた。また、日本海テレビジョン社長、松江商工会議所会頭、日本民営鉄道協会理事などを歴任した。
森谷 良平(もりや りょうへい、1914年10月16日 - … 森谷 良平(もりや りょうへい、1914年10月16日 - 1992年10月2日)は、静岡県出身のプロ野球選手。ポジションは一塁手。
大津 慶吾(おおつ けいご、1914年(大正3年)10月4日… 大津 慶吾(おおつ けいご、1914年(大正3年)10月4日 - 1990年(平成2年)1月15日)は、日本の実業家。元北海道放送会長。 1914年(大正3年)10月4日、北海道函館市に生まれる。 1949年(昭和24年)、法政大学を卒業。 1951年(昭和26年)、北海道新聞東京総局長の野口小太郎の推薦により、北海道放送に入社。1961年(昭和36年)、取締役に就任。1964年(昭和39年)常務に就任。1975年(昭和50年)、副社長に就任。1979年(昭和54年)、社長に就任。1984年(昭和59年)、会長に就任。 1990年(平成2年)1月15日、死去、75歳没。 1988年(昭和63年)に第26回衣笠賞を受賞している。
藤田 宗一(ふじた そういち、 1914年8月20日 - 1… 藤田 宗一(ふじた そういち、 1914年8月20日 - 1980年9月3日)は、大阪府大阪市出身のプロ野球選手(外野手)・コーチ・監督。
納家 米吉(なや よねきち、1914年7月15日 - 194… 納家 米吉(なや よねきち、1914年7月15日 - 1941年4月3日)は、和歌山県出身のプロ野球選手(投手、外野手)。 1914年に和歌山市で生まれた。雄小学校から和歌山高等小学校に進み、和歌山中学に進学した。和歌山中学で活躍していたが浪華商業学校にスカウトされる。浪華商時代は甲子園に合計4度出場(第9回選抜中等学校野球大会、第10回選抜中等学校野球大会、第19回全国中等学校優勝野球大会、第11回選抜中等学校野球大会)。昭和9年春の選抜では準決勝で享栄商・近藤金光と二日間にわたる投げ合いの末4対2で下し、同校初の決勝進出。決勝戦では東邦商(現・東邦高校)の立谷順市投手(専修大学)との投手戦となり、0対0のまま延長戦に突入。
藤倉 修一(ふじくら しゅういち、1914年〈大正3年〉3月… 藤倉 修一(ふじくら しゅういち、1914年〈大正3年〉3月12日 - 2008年〈平成20年〉1月11日)は、日本のアナウンサー、放送評論家。 昭和中期のラジオ全盛期にNHKに勤務し、第1回NHK紅白歌合戦の白組司会を務めたことで知られる。 現在の東京都大田区出身。家は御徒町で綿布問屋を営んでいた。常陸山谷右エ門を親類に持ち、幼時から相撲を愛好して育つ。法政大学卒業後の1940年、奢侈品等製造販売制限規則が公布されたため綿布問屋を継ぐことを諦め、NHKに放送員(アナウンサー。ただし、当時のアナウンサーは取材や企画などの担当を兼任していた)として入局。東京中央放送局を経て、1941年から1943年にかけて福島放送局に勤務。
姜 昌瑢(カン・チャンヨン、朝鮮語: 강창용、1914年3月… 姜 昌瑢(カン・チャンヨン、朝鮮語: 강창용、1914年3月2日 - 2000年9月25日)は、大韓民国の実業家、政治家。第2代韓国国会議員。本貫は晋州姜氏。 姜 昌鎔、姜 昌溶(それぞれ読み、ハングルともに同じ)とも表記される。 済州島北済州郡涯月面(現・済州市)出身。漢城商業学校卒業後は専売庁に就職した。咸鏡北道の出先支所に赴任したが、両親の懇願により2年ほどで済州島に帰郷した。1935年に涯月面書記に就任し、2年後に内地に留学に行った。1941年に法政大学政治経済科を卒業し、金融組合連合会理事見習試験に受験して合格した。慶尚北道・慶尚南道の金融組合で1950年ごろまでに朝鮮金融組合に10年勤務し、専務理事などを務めた。
内海 五十雄(うつみ いそお、1914年2月19日 - 19… 内海 五十雄(うつみ いそお、1914年2月19日 - 1992年)は、京都府出身のプロ野球選手(内野手)。
石川 利光(いしかわ としみつ、1914年2月3日 - 20… 石川 利光(いしかわ としみつ、1914年2月3日 - 2001年7月14日)は、日本の作家。宮中研三名義の官能小説も発表した。 弁護士を父に持ち、三男として大分県日田市に生まれる。日田中学(現在の大分県立日田高等学校)を卒業し、1932年早稲田高等学院を経て早稲田大学に入るが、1937年近藤忠義に誘われて法政大学国文科に転学し、1940年に卒業。1941年に同人誌を統合した『文藝主潮』の編集委員となる。1944年に日本文学報国会会員となり、日本航空機工業に勤務。1946年に九州書院を興す。丹羽文雄を中心とした会合に参加し、『文学者』の刊行を引き受ける。 1951年に執筆活動に入り、第25回芥川賞を『春の草』で受賞した。
三森 秀夫(さんもり ひでお、1914年 - 没年不明)は、… 三森 秀夫(さんもり ひでお、1914年 - 没年不明)は、愛媛県出身の社会人野球の選手(投手、内野手)。
児玉 英水(こだま ひでみ、1914年 - 1945年)は日… 児玉 英水(こだま ひでみ、1914年 - 1945年)は日本の舞台プロデューサー。宮崎県西都市出身。 西都市三宅に、教育者の長男として生まれる。法政大学法学部入学後、1939年のノモンハン事件に出征、九死に一生を得て帰国する。帰国後、東宝に入社、日劇の企画に配属。翌年上演される紀元2600年奉祝、第81回日劇ステージショー、「民族舞踊・日向」の、プロデューサーを任され、1940年11月、1か月にわたるロングランで、17万人もの観客を集める大成功をもたらした。1943年に報道班員としてマニラに渡り、終戦を前にした1945年7月20日、31歳で戦死した。 満映のスター李香蘭が初めて日本の舞台を踏んだ際(1941年2月11日:「歌う李香蘭」)、押し寄せたファンが日劇を取り巻く、いわゆる日劇七回り半事件が発生、警察官が出動して取り締まりに当たる騒ぎになったが、公演期間中エスコートしたのが英水であり、それを機会に李香蘭と交流することとなる。
松本 武雄(まつもと たけお、1914年 - 1976年11… 松本 武雄(まつもと たけお、1914年 - 1976年11月6日)は、日本の男子テニス選手・指導者。石川県鳳至郡(現鳳珠郡)出身。法政大学卒業。 松本は法政大学のテニス部で、中野文照と同期のライバルだった選手である。1937年、関東本学生テニストーナメントで男子シングルス準優勝。同年の全日本学生庭球選手権(現在の通称・インカレ)で男子シングルスのベスト4に進出する。1938年度の成績は、関東本学生テニストーナメントは2年連続準優勝であったが、全日本学生庭球選手権で初優勝を果たした。この年は「フィリピン選手権」の男子シングルスも制した。当時の全日本学生選手権では、同じ法政大学の松本と中野が優勝争いをすることが多かった。
布施 丑雄(ふせ うしお、1913年〈大正2年〉10月16日… 布施 丑雄(ふせ うしお、1913年〈大正2年〉10月16日 - 1966年〈昭和41年〉3月15日)は、日本の政治家、実業家。石川県鳳至郡穴水町長。布施林業部代表取締役。石川県山林協会副会長。大日本山林会評議員。穴水町森林組合長。 石川県鳳至郡(現鳳珠郡)穴水町出身。布施丑造の長男。1939年、法政大学経済学科卒業。1943年、北陸貨物自動車常務となり専務の後解散により退職する。 1952年3月、石川トヨタ自動車監査役に就任する。同年7月、町議に当選する。1954年4月、4ヵ町村合併の新穴水町初代町長に選ばれた。 趣味は読書。宗教は真宗大谷派。住所は石川県鳳至郡穴水町河内。別宅は金沢市味噌蔵町上中丁。
川原 幸男(かわはら ゆきお、1913年〈大正2年〉8月30… 川原 幸男(かわはら ゆきお、1913年〈大正2年〉8月30日 - 1985年〈昭和60年〉9月24日)は、昭和期の地方公務員、政治家。東京都港区長(3期)。 東京に生まれる。1937年(昭和12年)に法政大学専門部経済科を卒業する。 1935年(昭和10年)に東京市芝区役所に入り、港区総務部長、教育長、助役を務めた。1975年(昭和50年)に初の区長公選で港区長に当選する。三期連続当選するも、任期中の1985年(昭和60年)9月24日に死去。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
古沢 太穂(ふるさわ たいほ、1913年(大正2年)8月1日… 古沢 太穂(ふるさわ たいほ、1913年(大正2年)8月1日 - 2000年(平成12年)3月2日)は、俳人。本名は古沢 太保(ふるさわ たもつ)。「道標」主宰、新俳句人連盟会長、現代俳句協会顧問を歴任。第12回多喜二・百合子賞受賞。 富山県上新川郡大久保町(現・富山市)生まれ。生家は料理屋兼芸妓置屋。幼くして父を失い、一家は東京から横浜へ。法政大学商業学校(現在の法政大学中学校・高等学校)を経て、1938年、東京外国語学校(現在の東京外国語大学)専修科ロシヤ語学科卒業。その後結核のため療養生活に入る。療養所で俳句を勧められ、1940年、「馬酔木」を購読。のち加藤楸邨の「寒雷」創刊とともに参加。
由田 浩(よしだ ひろし、1913年2月23日 - 1977… 由田 浩(よしだ ひろし、1913年2月23日 - 1977年10月3日)は日本の教育者。由田学園理事長、横浜事件の関係者。 富山県礪波郡長源寺に生まれる。法政大学法文学部法律学科を卒業し、古河電気工業に入社する。そのかたわら1940年4月に昭和塾に入り、1941年3月に卒業する(同期に浅石晴世、板井庄作、黒木利克、武田満作、武田豊、学生組には永末英一ら総勢59名)。同年11月に昭和塾が解散したのを機に、12月に高木健次郎、浅石晴世、板井庄作らの昭和塾関係者とともに研究会の再編成を考え、細川嘉六にその研究会プログラムを相談する。 1941年10月、昭和塾友以外の知人らとともに「政治経済研究会」グループを発足させ、そのメンバーとして研究活動に携わる。
中村 信一(なかむら しんいち、1913年2月22日 - 没… 中村 信一(なかむら しんいち、1913年2月22日 - 没年不明)は、愛媛県出身のプロ野球選手(内野手)。 北予中学校(現松山北高)在学中に第8回選抜中等学校野球大会に出場、準々決勝に進出する。その後法政大学に進学し、1936年に東京セネタースへ入団。遊撃手として二塁手の苅田久徳、三塁手の高橋輝彦らとともに「百万ドルの内野陣」を形成した。1937年秋シーズン途中に応召し、1940年に復帰。1941年にチームが名古屋金鯱軍と合併し大洋軍と改称、金鯱軍で遊撃を守っていた濃人渉が大洋軍でもそのまま遊撃を守ったため三塁に転向する。終戦後の1946年はゴールドスターで復帰するが、翌1947年に退団、そのまま現役引退した。
小笠原 忠春(おがさわら ただはる、大正2年(1913年)2… 小笠原 忠春(おがさわら ただはる、大正2年(1913年)2月19日 - 昭和51年(1976年)5月27日)は、小笠原伯爵家第31代当主。第30代当主小笠原長幹長男。 弟に小笠原忠幸(小笠原長丕養子)、小笠原忠統、妹に鞠子(伊達興宗夫人)他。子に忠利、忠明。 法政大学に学ぶ。1935年(昭和10年)3月、父長幹の死去により、家督を相続する。1944年(昭和19年)、新劇女優と結婚したことで長幹の三男である忠統に家督を譲り隠居、分家させられた。次弟の忠幸はすでに旧安志藩の小笠原子爵家を継いでいたため、忠統が忠春の後継となったものである。 長清 - 長経 - 長忠 - 長政 - 長氏 - 宗長 貞宗 - 政長 - 長基 - 長将 - 長秀 - 持長 - 清宗 - 長朝 - 貞朝 - 長棟 - 長時 - 貞慶 秀政 - 忠脩 - 忠真 - 忠雄 - 忠基 - 忠総 - 忠苗 - 忠固 - 忠徴 - 忠嘉 - 忠幹 - 忠忱 長幹 - 忠春 - 忠統 - 長雅 光康 - 家長 - 定基 - 貞忠 - 信貴 - 信嶺 - 信之 - 政信 - 貞信 - 信辰 - 信成 - 信胤 - 信房 - 長教 - 長貴 - 長守 - 長育 - 勁一 - 牧四郎 - 長定
渡辺 敏夫(わたなべ としお、1913年2月11日 - 戦死… 渡辺 敏夫(わたなべ としお、1913年2月11日 - 戦死)は、兵庫県出身のプロ野球選手(二塁手)。
小原 重徳(おばら しげのり、1912年12月18日 - 1… 小原 重徳(おばら しげのり、1912年12月18日 - 1993年11月28日)は、日本のジャズベーシスト。ブルーコーツのバンドリーダー。本名は小原(おはら)重徳。 東京府に生まれ、1936年に法政大学経済学部を卒業する、学生時代にはハワイアンを演奏する。1936年に松本伸のバンドに参加し、1946年にベース奏者としてブルーコーツに加入、長尾正士の後をうけてバンドリーダーを務める。同バンドを日本の3大バンドのひとつに育て上げた。その後、ホテルニューオータニ専属のジョイフル・オーケストラの指揮者やNHK総合テレビジョン「ザッツミュージック」の準レギュラー出演などで活躍した。 この項目は、音楽家(演奏者・作詞家・作曲家・編曲家・バンドなど)に関連した書きかけの項目です。
大形 太郎(おおがた たろう、1912年(大正元年)11月 … 大形 太郎(おおがた たろう、1912年(大正元年)11月 - 1948年(昭和23年)11月16日)は日本の政治活動家、経済学者。 1912年(大正元年)11月に三重県鵜方村(現・志摩市)に生まれる。立命館大学予科をへて、1938年(昭和13年)に法政大学経済学部を卒業する。同年、都新聞に入社し、1942年(昭和17年)に退社、法政大学大学院に入り広域経済理論を専攻する。法政大学助手、東急電鉄調査課などで勤務し、応召され日本海軍に入隊する。 戦後、日本共産党に入党し、「アカハタ」編集部員、茨城県地区責任者、地方委員、党本部出版部書籍編集委員などを務める。 1948年(昭和23年)11月16日、国鉄池袋駅貨物列車引き込み路線上で轢死体で発見された。
高橋 庄次郎(たかはし しょうじろう、1912年(明治45年… 高橋 庄次郎(たかはし しょうじろう、1912年(明治45年)7月23日 - 1995年(平成7年)3月25日)は、日本の政治家。埼玉県議会議長、埼玉県蕨市長。 1912年(明治45年)7月23日、埼玉県に生まれる。1937年(昭和12年)に法政大学を卒業する。 埼玉県蕨町助役、町長を経て、蕨市長に就任する。埼玉県議会議員に当選し、1971年(昭和46年)に副議長、1977年(昭和52年)に議長に就任する。この間、1959年の第5回参議院議員通常選挙に埼玉選挙区から自由民主党公認で立候補して落選した。 1995年(平成7年)3月25日に死去、82歳。 蕨町の青年団長時代に、青年祭(のちに成年式)を主唱・企画し、1946年11月22日に実施する。
木村 謙二(きむら けんじ、1912年7月5日 - 没年不明… 木村 謙二(きむら けんじ、1912年7月5日 - 没年不明)は、日本の心理学者・教育者。稚内北星学園、北星学園女子短期大学の学長を務めた。専門は特殊児童心理学で、日本における障害児教育の先駆者の一人。 北海道夕張市出身。1935年、北海道札幌師範学校を卒業して深川尋常高等小学校の教員となる。しかしキリスト教徒のため天皇礼拝を拒んだ事などが原因で1937年に辞職し、同年に上京して東京市内の尋常小学校の代用教員などを務めながら1943年に法政大学法文学部を卒業した。 法政大学商業学校教員などを経て、1951年に北海道大学教育学部の助教授となる。1954年からは、北星学園が開設した一年制の幼児教育専修学校で教育心理学の講義を担当している。
戸谷 敏之(とや としゆき、1912年(明治45年)7月 -… 戸谷 敏之(とや としゆき、1912年(明治45年)7月 - 1945年(昭和20年)9月)は、日本の経済学者、歴史学者。日本常民文化研究所員。専門は農業経済史。
齋藤 磯雄(さいとう いそお、1912年5月26日 - 19… 齋藤 磯雄(さいとう いそお、1912年5月26日 - 1985年9月3日)は、日本の仏文学者。山形県庄内出身。 山形県東田川郡清川村(現:庄内町)生まれ。戸籍上は4月26日生まれ。実家は大庄屋格で、幼少時より漢籍と文語体聖書に親しんで育つ。 旧制酒田中学校在学中から仏文学を志す。辰野隆の教えを受けるつもりで、1929年、法政大学予科に入学。当時既に辰野は法政を退職していたために望みは果たせなかったが、戦後初対面した折にボードレール『悪の華』訳文を激賞された。法政で豊島与志雄や漢詩人阿藤伯海(あとう・はくみ)に師事。同級に安藤鶴夫と近藤光治がおり「三藤」と称して親しく交際した、在学時に次兄(筆名:西東徳之介)も加わり、文芸同人誌『秩序』(7号まで)を発行、プルースト短編やヴィリエ・ド・リラダンの翻訳を寄稿。
播上 英次郎(はたがみ えいじろう、1912年(明治45年)… 播上 英次郎(はたがみ えいじろう、1912年(明治45年)1月17日 - 2000年(平成12年)3月13日)は日本の実業家。岡山放送社長、サンケイ新聞専務、日本民間放送連盟副会長。 1912年(明治45年)1月17日に東京に生まれる。1935年(昭和10年)に法政大学経済学部を卒業する。1954年(昭和29年)にニッポン放送に入社し、1958年(昭和33年)にフジテレビに移り、1961年(昭和36年)にサンケイ新聞大阪本社販売局長に就任する。1963年(昭和38年)に広島テレビ取締役、1965年(昭和40年)にフジテレビ電波企画室長、1969年(昭和44年)にサンケイ新聞専務大阪本社代表、大阪新聞社長、日本工業新聞専務、1970年(昭和45年)に関西テレビ取締役、1973年(昭和48年)に同社副社長を経て、1980年(昭和55年)に岡山放送社長に就任し、1988年(昭和63年)に退任する。
一叩人(いっこうじん、本名命尾小太郎(めいお こたろう)、1… 一叩人(いっこうじん、本名命尾小太郎(めいお こたろう)、1912年1月16日 - 1999年4月9日)は、昭和時代から平成時代の川柳作家。 1912年、宝生流の地謡の能楽師である命尾家の子として東京府に生まれる。元は丹波猿楽の出といい、一族に命尾幾右衛門、命尾長左衛門、命尾与作、命尾(日吉)寿八、命尾寿六(その養子に工学者の命尾寿次)などがいる。 法政大学を卒業。プロレタリア川柳作家の鶴彬の作品や関係資料などを収集し、1977年(昭和52年)には「鶴彬全集」を刊行した。その後絶版となっていた同書は、1998年(平成10年)沢地久枝により増補改訂のうえ再版された。1999年(平成11年)4月9日死去。
内山榮一(うちやま えいいち、1911年(明治44年)11月… 内山榮一(うちやま えいいち、1911年(明治44年)11月25日 - 2012年(平成24年)4月10日)は、日本の政治家、税理士。東京都台東区長(4期)、台東区議会議員(4期)、東京都議会議員(3期)を歴任した。 埼玉県大里郡、のちの岡部町(現深谷市)出身。1935年、法政大学経済学部卒業。その後税理士事務所を開く。 1951年から台東区議会議員を4期務め、1967年、台東区選出の都議会議員の死去による補欠選挙に自由民主党公認で立候補し、当選し、都議会議員を3期務めた。1975年4月に台東区長に当選。1991年4月まで4期16年務めた。 旧東京音楽学校奏楽堂の老朽化にともなう移築問題が起きた際、愛知県の明治村に建物を移築する計画に対して、上野公園敷地内への移築を推進し台東区内での保存を守ったことで知られる。
高嶋 雄三郎(たかしま ゆうざぶろう、1911年10月2日 … 高嶋 雄三郎(たかしま ゆうざぶろう、1911年10月2日 - 1993年6月27日)は、医療研究家、文筆家。 東京市小石川区(現:東京都文京区)に東洋大学学長などを務めた高島米峰の三男として生まれる。東京府立第五中学校を経て、法政大学文学部国文科卒。東京宝塚劇場文芸部勤務、1939年中央公論社勤務、1949年学風書院を創設。健康雑誌『主治医』編集長、日本植物友の会参与、松葉を食べる会主宰。
乾 孝(いぬい たかし、1911年8月19日 - 1994年… 乾 孝(いぬい たかし、1911年8月19日 - 1994年2月27日)は、日本の心理学者、法政大学名誉教授。専門は発達心理学。 東京で法学者・乾政彦の子として生まれる。1935年法政大学法文学部哲学科心理学専攻卒。城戸幡太郎に師事。助手、助教授をへて1946年教授、1976年定年、名誉教授。1947年民主主義科学者協会(民科)の哲学部会に参加、のちに人間科学部会、さらに心理学部会の結成に参加し、その中心となって活動。一方、1953年東京保育問題研究会の結成に関与した。児童文化問題にも造詣が深く、人形劇の創作や実践も行い、育児などに関して多くの一般書を書いた。 な日本応用心理学会名誉会員・日本社会心理学会名誉会員。
橋岡 俊平(はしおか しゅんぺい、改姓名・岡本曠三(おかもと… 橋岡 俊平(はしおか しゅんぺい、改姓名・岡本曠三(おかもと こうぞう)、1911年7月7日 - 1978年8月7日)は、日本の元アマチュアボクシング選手。ベルリンオリンピックバンタム級日本代表。法政大学卒業。大阪府大阪市出身。 1936年、全日本選手権にバンタム級で優勝を収めた。 同年、ベルリンオリンピックにバンタム級の日本代表として出場し、1回戦にポイント勝ちを収め、2回戦でポイント負けとなった。 日本アマチュアボクシング連盟副会長、関西、近畿、大阪府各アマチュアボクシング連盟各会長を務めた。 1978年8月7日、急性肺炎と腎不全のため67歳で死去した。 この項目は、ボクシング関係者に関連した書きかけの項目です。
迫間 真治郎(はざま しんじろう、1911年4月16日 - … 迫間 真治郎(はざま しんじろう、1911年4月16日 - 1965年12月23日)は、日本の経済学者。日本大学経済学部教授。 和歌山県出身。旧制第一高等学校時代に社会主義運動に参加し、同校を中退。その後、法政大学経済学部に入り、1936年卒業。1938年以降法政大学講師、助教授、教授。1953年日本大学経済学部教授。國學院大學政経学部兼任教授。1960年「社会主義経済の理論」で経済学博士(日本大学)。 1965年12月23日、心臓麻痺のため日本大学駿河台病院で急逝、54歳。全日本労働総同盟(同盟)の機関誌『同盟』に1965年9月号(第85号)から「マルクス経済学批判」を連載中だった。
加計 慎太郎(かけ しんたろう、1911年〈明治44年〉4月… 加計 慎太郎(かけ しんたろう、1911年〈明治44年〉4月9日 - 没年不明)は、日本の実業家。蔵座林業社長。通称は八右衛門。加計隅屋23代当主。 広島県出身。加計正文の長男。1937年、法政大学経済科卒業。芸備銀行(現広島銀行)に入る。同行加計支店長に就任。広島県体育協会理事、広島県山県郡体育協会長を兼ねた。 趣味は読書、スポーツ、絵画。宗教は神道。住所は広島県広島市上柳町、山県郡加計町。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
長沢 正夫(ながさわ まさお、1911年(明治44年)3月2… 長沢 正夫(ながさわ まさお、1911年(明治44年)3月25日 - 2004年(平成16年)5月3日)は日本の実業家。元野村證券投資信託委託会長・野村證券専務。 大阪府に生まれる。1935年(昭和10年)に法政大学経済学部を卒業し、野村證券に入社する。1948年(昭和23年)に同社営業第一部長、1949年(昭和24年)に同社引受部長、1952年(昭和27年)に同社取締役、1959年(昭和34年)に同社常務、1962年(昭和37年)に同社専務を経て、1968年(昭和43年)に野村證券投資信託委託社長に就任する。1973年(昭和48年)に同社会長に就任し、1975年(昭和50年)に証券投資信託協会会長を務める。
月岡 朝太郎(つきおか あさたろう、1911年3月7日 - … 月岡 朝太郎(つきおか あさたろう、1911年3月7日 - 1984年)は、日本の自転車競技選手、指導者。 長野県下水内郡岡山村(現飯山市)に生まれ、1928年に上京し、法政大学専門部第二部政治経済学科卒業後、様々な職業を転々とする。1937年月刊雑誌『鉱業冶金』の編集長となり、1941年三井鉱業北越鉱山事業部長となる。また1937年には、日本自転車競技連盟関東支部が主催した第1回関東自転車断郊競走の実用車部門に出場したのをきっかけに、自転車競技に取り組み、1940年に予定されていた東京オリンピックの候補選手になった。 戦後、1947年に雑誌『自転車』を創刊、1949年には大宮競輪場の開設と同時に競輪予想紙「競輪新聞」(現在の赤競)を創刊。
小島 忠治(こじま ちゅうじ、1911年2月7日 - 197… 小島 忠治(こじま ちゅうじ、1911年2月7日 - 1974年1月9日)は、日本の教育者、教育学者。 神奈川県横浜市出身。1943年法政大学文学部国漢科卒。小学校教師を務め、東横学園小学校校長、和光学園主事。日本私立小学校連合会副会長。国語教育が専門。
劉 瀬章(りゅう せしょう、1911年 - 1972年)は、… 劉 瀬章(りゅう せしょう、1911年 - 1972年)は、中国出身の元プロ野球選手(投手)。 日本プロ野球の南海軍に在籍した。日本プロ野球初の中国出身の選手であり、現在でもNPBで一軍出場のある唯一の中国大陸出身選手である。 日本の本牧中学ではエース投手として活躍。右のアンダースロー投手であった。 本牧中を卒業後、法政大学へと進み同野球部へ入る。東京六大学野球リーグ戦1932年秋シーズンにおいて若林忠志と共に法政2度目の優勝に貢献した。 1938年に発足したばかりの南海軍へ入団。同年7月24日、南海初の公式戦となる「第2回読売優勝大会」の対ライオン軍戦に先発投手として登板したが、3回3失点で降板、チームも5対8で敗れている。
戸谷 喜一(とや きいち、1911年 - 没年不明)は、日本… 戸谷 喜一(とや きいち、1911年 - 没年不明)は、日本の小説家、元刑務官。 群馬県生まれ。1933年法政大学法科卒。1940年より大審院検事局記録係主任書記官を務める。1943年に出征し、華北方面に派遣される。1944年に復員し、看守長となる。仙台拘置所、大阪拘置所など各地の矯正施設に勤務。1972年に定年退職。その後堺簡易裁判所民事調停委員を11年間務めた。日本カウンセリング学会初回名誉会員、大阪地方裁判所名誉調停委員、勲五等瑞宝章受章。死刑廃止論者。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。