伊東 勉(いとう つとむ、1908年6月 - 1992年8月… 伊東 勉(いとう つとむ、1908年6月 - 1992年8月24日)は、ドイツ文学者、名古屋工業大学名誉教授。 岐阜県岐阜市出身。1935年京都帝国大学文学部卒。同年名古屋高等工業学校教授、1949年合併により名古屋工業大学助教授、のち教授、1972年定年退官し中日本自動車短期大学教授を1978年まで務めた。 中世狐物語の研究のほかドイツ社会主義、ルカーチの文学論などを研究、翻訳した。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
国分 直一(國分 直一、こくぶ なおいち、1908年4月28… 国分 直一(國分 直一、こくぶ なおいち、1908年4月28日 - 2005年1月11日)は、日本の民族学者、考古学者。梅光女学院大学名誉教授。台湾の歴史、考古学などを研究した。 1908年、東京に生まれ、台湾で育つ。1930年、台湾総督府台北高等学校を卒業し、京都帝国大学文学部史学科に入学。1933年に卒業論文「近世初頭に於ける精神的轉向に就いて」をまとめて、卒業。 在学中に学生運動にかかわったため当局ににらまれ、台湾に戻って台南州立台南第一女学校教諭。鹿野忠雄の影響を受けて民族学や考古学に関心を持つようになり、1937年に鹿野・御園生暢哉とともに現地人シャーマン・カリヤルの助けを借りて蘭嶼で民族調査を行った。
波多野 善大(はたの よしひろ、1908年4月22日 - 1… 波多野 善大(はたの よしひろ、1908年4月22日 - 1998年5月11日)は、日本の東洋史学者。 三重県鈴鹿郡関町(現・亀山市)出身。京都帝国大学文学部東洋史学科卒、1962年「中国近代工業史の研究」で京都大学文学博士。1944-1946年東方文化学院研究員、名古屋大学文学部助教授、教授、1972年定年退官、名誉教授となり、愛知学院大学教授を務め、1980年退任。
若林 喜三郎(わかばやし きさぶろう、1908年4月19日 … 若林 喜三郎(わかばやし きさぶろう、1908年4月19日 - 1999年12月25日)は、日本の日本史学者。 京都府出身。1936年京都帝国大学文学部国史学科卒。金沢大学教育学部助教授、奈良女子大学教授を務め、1972年定年退官、龍谷大学教授、大手前女子大学教授を務めた。能登地方の市町村史誌を数多く手がけたことから「能登守」と呼ばれた。
田川 基二(たがわ もとじ、1908年4月11日 - 197… 田川 基二(たがわ もとじ、1908年4月11日 - 1977年7月19日)は、日本の植物学者。シダ植物の分類学的な研究で知られる。 1908年、大阪府大阪市で、3人兄妹の次男として生まれた。兄は陶芸家の田川基一、弟は独文学者の田川基三。 1930年に京都帝国大学(現:京都大学)理学部に入学、植物学教室で小泉源一に師事した。同時期には大井次三郎や北村四郎も在籍していた。1933年に同大学を卒業し、大学院に進学、本格的にシダの研究を始めた。 1939年に理学部副手を嘱託されたため、大学院を退学、1942年に理学部講師となる。1953年に助教授、1970年に教授へと昇進し、研究、教育活動を行った。1972年に定年退職、京都大学名誉教授となった。
野田 忠二郎(のだ ちゅうじろう、1908年4月1日 - 1… 野田 忠二郎(のだ ちゅうじろう、1908年4月1日 - 1992年11月10日)は、日本の鉄道実業家、工学博士。阪神電気鉄道社長を務めた。大阪府大阪市出身。 1908年(明治41年)大阪府生まれ。大阪高等学校 (旧制)を卒業後、京都帝国大学工学部電気工学科に入学し、1930年(昭和5年)に同校を卒業、同年に阪神電気鉄道に入社した。 技術者として、大型新造車の投入、ジェット・カーの開発などの車両の近代化を進めた。1952年5月に取締役に就任し、1957年5月に常務、1965年1月に専務、1967年11月に副社長を経て、1968年(昭和44年)1月12日に社長に就任し、輸送の近代化と乗客サービスの向上に取り組んだ。
松村 克己(まつむら かつみ、1908年〈明治41年〉4月1… 松村 克己(まつむら かつみ、1908年〈明治41年〉4月1日 - 1991年〈平成3年〉2月18日)は、日本の神学者(神学博士)。関西学院大学名誉教授。 1908年、東京生まれ。第三高等学校を経て、京都帝国大学哲学科に進学。1933年に卒業し、同大学大学院に進んだ。1937年に京都帝国大学講師に採用され、1942年に助教授昇格。 太平洋戦争終結後、戦時中の言動を元に京都大学文学部・教職員適格審査委員会による公職追放の対象となり、1946年に辞職。1950年、日本基督教団の正教師の按手を受ける。 1951年、関西学院大学文学部教授に就任。翌1952年の神学部復興とともに神学部教授、1954年に関西学院宗教総主事となり、1962年に神学部長に就任。
石川 太刀雄(いしかわ たちお、1908年3月29日 - 1… 石川 太刀雄(いしかわ たちお、1908年3月29日 - 1973年10月19日)は、医師、病理学者。父は同じく医学博士の石川日出鶴丸。別名「石川 太刀雄丸」(いしかわ たちおまる)、「石川 大刀雄」いしかわ たちお)。 1908年、石川日出鶴丸の息子・太刀雄丸として富山県射水郡下村で誕生。本人の弁によると、自分としては太刀雄であるが戸籍係の間違いで丸の字がついたのだ、といわれている。第四高等学校 (旧制)を経て、1931年、京都帝国大学医学部を卒業。 卒業後は、同大医学部講師に就任。1938年、医学博士の学位を取得した。京都帝国大学の病理学者清野謙次の勧めで、大日本帝国陸軍技師として満州国にわたった。
宮城 音弥(みやぎ おとや、1908年3月8日 - 2005… 宮城 音弥(みやぎ おとや、1908年3月8日 - 2005年11月26日)は、日本の心理学者。東京工業大学名誉教授。
五来 重(五來 重、ごらい しげる、1908年〈明治41年〉… 五来 重(五來 重、ごらい しげる、1908年〈明治41年〉3月7日 - 1993年〈平成5年〉12月11日)は、日本の民俗学者。大谷大学名誉教授。専門は日本仏教史、仏教民俗学。 茨城県久慈郡久慈町(現:日立市)に生まれる。旧制茨城県立太田中学校(現:茨城県立太田第一高等学校・附属中学校)、旧制水戸高等学校文科甲類を経て、1932年に東京帝国大学文学部印度哲学科を卒業。高野山大学助手に就任するも、歴史学を修めるため京都帝国大学文学部史学科に再入学し、1939年に京都帝国大学文学部史学科国史学専攻を卒業。卒業論文は「中世に於ける神仏習合思想の変遷と元寇の影響」。 以後、京都師範学校教諭、高野山大学助教授、同教授を経て、1955年、大谷大学文学部教授に就任。
中田 淳一(なかた じゅんいち、1908年(明治41年)1月… 中田 淳一(なかた じゅんいち、1908年(明治41年)1月25日 - 1970年(昭和45年)2月10日)は、日本の法学者。専門は民事手続法。学位は法学博士(京都大学・論文博士・1954年)。元日本民事訴訟法学会理事長。山田正三門下。弟子に鈴木正裕、谷口安平、中務俊昌、井上正三など。
於保 不二雄(おほ ふじお、1908年(明治41年)1月22… 於保 不二雄(おほ ふじお、1908年(明治41年)1月22日 - 1996年(平成8年)1月14日)は、日本の法学者。専門は民法。京都大学名誉教授。学位は、法学博士(京都大学・1955年)。山口県下関市出身。弟子に奥田昌道など。 この項目は、法学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝)。 この項目は、法曹に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝)。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
朝山 新一(あさやま しんいち、1908年(明治41年)1月… 朝山 新一(あさやま しんいち、1908年(明治41年)1月18日 - 1978年(昭和53年)11月7日)は、日本の性科学者、発生学者。戦前、労働者、学生の性行動を調べ、戦後「現代学生の性行動」を報告。日本のキンゼイ博士と言われた。 京都府生まれ。1934年(昭和9年)、京都帝国大学理学部動物学科卒業。大学院修了。1941年(昭和16年)、新京畜産獣医大学教授。1944年から1946年は応召され、満州時代は最も起伏の多い経験をしたと述べている。1947年(昭和22年)、神戸経済大学予科教授。1949年(昭和24年)、大阪市立大学理工学部教授(生物学教室動物発生形態学)、理学部長 (1967 - 1969) を経て、大阪市立大学名誉教授、1971年(昭和46年)3月定年退職。
可児 藤吉(かに とうきち、1908年1月1日 - 1944… 可児 藤吉(かに とうきち、1908年1月1日 - 1944年7月18日)は、日本の群集生態学者。「河川形態型」を提唱し、今西錦司と共に棲み分け理論の基礎を築いたが、陸軍に徴兵され、サイパンの戦いで戦死した。 1908年、岡山県勝田郡勝間田町(現:勝田郡勝央町)に生まれる。京都帝国大学農学部卒。河川の蛇行と、河床形態である瀬と淵に注目し、「河川形態型」を提唱した。また、昆虫が生息するそれぞれの環境を研究することで今西錦司とともに「棲み分け理論」の基礎を築いた。「河川形態型」が発表された同年、太平洋戦争において36歳という若さでサイパン島にて戦死した。藤吉の墓は勝央町勝間田の共同墓地にある。 河川における上流、中流、下流の形態を特徴的に示すことによって河川そのものの保護や維持、生息する生態系の保護に広く利用されている方法。
室賀 信夫(むろが のぶお、1907年12月21日 - 19… 室賀 信夫(むろが のぶお、1907年12月21日 - 1982年2月15日)は、日本の地理学者。筆名・須見五郎。 1907年、東京府豊多摩郡淀橋町角筈(現新宿区)に生まれる。東京府立第五中学校(現東京都立小石川中等教育学校)から第三高等学校(文科)を経て、1928年京都帝国大学文学部史学科に入学。体調を崩し休学時期があり、1933年卒業となる。1937年、京都帝国大学文学部講師に就き、1938年より立命館大学講師を兼任する(1944年まで)。1943年には京都帝国大学助教授に昇進、同志社女子専門学校(現同志社女子大学)講師を兼任(1944年まで)。 しかし、太平洋戦争が終結すると、京都帝国大学文学部の地理学講座は戦中に地政学研究に大きく傾いた責任を問われ、全員が総辞職することとなった。
山本 清(やまもと きよし、1907年11月23日 - 20… 山本 清(やまもと きよし、1907年11月23日 - 2001年12月29日)は、日本の考古学研究者、島根大学名誉教授。 島根県八束郡生馬村(現・松江市西生馬町)に生まれる。旧制松江高等学校(8期文甲)を経て、1934年、京都帝国大学文学部史学科(国史学専攻)卒業。島根県八束郡本庄村尋常高等小学校代用教員、島根県立松江中学校講師、同教諭、島根師範学校教授を経て、1950年、島根大学教育学部助教授、1951年、島根大学文理学部助教授。1965年、島根大学文理学部教授。1971年退官。1972年島根大学名誉教授。 1947年、梅原末治博士と金崎1号墳(島根県松江市)の発掘調査を行い、本格的に山陰の考古学研究に取り組む。
姫岡 勤(ひめおか つとむ、1907年11月14日 - 19… 姫岡 勤(ひめおか つとむ、1907年11月14日 - 1970年10月19日)は、日本の社会学者・文化人類学者。 大阪生まれ。1933年京都帝国大学文学部哲学科社会学専攻卒。天理大学助教授、1949年京都大学教育学部教授。1962年、「封建的社会意識の社会学的考察」で、京都大学より文学博士の学位を取得。 1970年1月から京都大学教育学部長を務めていたが、在任中の同年10月19日、心筋梗塞により京都市内の自宅にて死去。
柏 祐賢(かしわ すけかた、1907年〈明治40年〉11月1… 柏 祐賢(かしわ すけかた、1907年〈明治40年〉11月10日 - 2007年〈平成19年〉3月12日)は、日本の農学者、農業経済学者。京都大学名誉教授、第2代京都産業大学学長。李登輝(第4代中華民国総統)の京大農学部在籍時の恩師として知られる。 1907年、富山県立山町生まれ。京都帝国大学農学部農林経済学科で学び、1933年に卒業。 卒業後は同1933年に農林省入省。1936年、京都帝国大学農学部助手に任じられる。1939年、同大学農学部講師に昇進。11月、京都帝国大学人文科学研究所助教授となる。 1945年、太平洋戦争が終結。1947年4月、京都帝国大学人文科学研究所教授に昇進。1948年8月に学位論文『経済秩序個性論:中国経済の理論的研究』を京都大学に提出して農学博士を提出。
上野照夫(うえの てるお、1907年10月22日 - 197… 上野照夫(うえの てるお、1907年10月22日 - 1976年1月17日)は、日本の美術史学者、京都大学名誉教授。専門はインド美術、ヒンドゥー教美術。 徳島県出身。1932年京都帝国大学文学部美学美術史学科卒。1951年京大文学部美術史学科教授。71年定年退官、名誉教授。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
井上 良雄(いのうえ よしお、1907年9月25日 - 20… 井上 良雄(いのうえ よしお、1907年9月25日 - 2003年6月10日)は、日本の文芸評論家、翻訳家、神学者。 東京府生まれ。東京府立第一中学校(現:東京都立日比谷高等学校)、第一高等学校を経て、1930年京都帝国大学文学部独文科卒。 神保光太郎、北川冬彦らと同人誌『磁場』などで文芸評論を書く。『磁場』1932年4月に「芥川龍之介と志賀直哉」を発表。1939年法政大学で教える。 1935年治安維持法違反で検挙、不起訴。 1936年日本大学講師。1945年3月東京信濃町教会で洗礼を受ける。1947年東京神学大学専任講師、1951年教授、1971年定年退任。 1997年、これらの功績が認められ、日本キリスト教文化協会よりキリスト教功労者の表彰を受ける。
長尾 雅人(ながお がじん、1907年8月22日 - 200… 長尾 雅人(ながお がじん、1907年8月22日 - 2005年3月13日)は、日本の仏教学者・チベット学者。京都大学名誉教授。日本学士院会員。仏典に対する文献学的な研究を推し進め、また、チベット学の樹立に対しても貢献した。 1907年、宮城県仙台市生まれ。父雲龍は広島の寺院住職であった。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
舩山 信一(ふなやま しんいち、1907年7月29日 - 1… 舩山 信一(ふなやま しんいち、1907年7月29日 - 1994年3月16日)は、日本の哲学者・マルクス主義者。立命館大学名誉教授。マルクス、ヘーゲル、フォイエルバッハの研究を通じて人間学的唯物論を確立した。船山信一とも書かれる。 山形県東置賜郡吉島村(現:川西町)生まれ。米沢中学校(現:山形県立米沢興譲館高等学校)、山形高等学校を経て、1930年、京都帝国大学文学部哲学科卒業。西田幾多郎の下で哲学を学ぶ。マルクス主義者であることから、学派的には三木清、戸坂潤らとともにいわゆる西田左派に属する。1932年、戦前の著名なマルクス主義団体である唯物論研究会を戸坂潤らと結成。1933年、日本プロレタリア科学同盟に参加。
織田 武雄(おだ たけお、1907年6月29日 - 2006… 織田 武雄(おだ たけお、1907年6月29日 - 2006年10月18日)は、日本の地理学者(人文地理学)。京都大学名誉教授。 1907年、京都府京都市生まれ。京都府立一中、七高を経て、1929年に京都帝国大学文学部に進学。地理学を専攻し、1932年に同大学文学部を卒業。 卒業後は、龍谷大学予科、関西学院高等商業学校、立命館大学講師を務めた。1940年、関西学院高等商業学校教授に就任。 1946年4月、立命館大学文学部教授に就任。しかし、翌1947年3月に母校である京都大学文学部助教授に転じた。これは、戦中京都大学地理学教室は地政学研究に走ったため、戦後全ての教官が辞任することとなったためであった。
内田 吟風(うちだ ぎんぷう、1907年(明治40年)6月2… 内田 吟風(うちだ ぎんぷう、1907年(明治40年)6月26日 - 2003年(平成14年))は、日本の東洋史学者、神戸大学名誉教授。 1907年、東京にドイツ語学者・内田新也の次男として生まれる。1931年京都帝国大学文学部東洋史学科卒。同助手、東方文化研究所研究嘱託。神宮皇學館大學助教授、(旧制)姫路高等学校教授、1949年神戸大学文学部教授。文学部長、1956年「古代アジア遊牧民族史の研究」で京都大学文学博士。1971年神戸大を定年退官、名誉教授、佛教大学教授、龍谷大学教授。1978年勲三等旭日中綬章受勲。
玉井 茂(たまい しげる、1907年6月15日 - 1998… 玉井 茂(たまい しげる、1907年6月15日 - 1998年2月28日)は、日本の哲学者、岐阜大学名誉教授。 大阪府出身。1932年(昭和7年)京都帝国大学文学部哲学科卒業。報知新聞や東亜研究所に勤務したのち、日本医科大学教授、岐阜農業専門学校教授を経て、1949年(昭和24年)岐阜大学教授、1971年(昭和46年)岐阜歯科大学教授、1981年(昭和56年)学長(途中で朝日大学に改名)、1989年退職。日本学術会議会員。
鷲尾 健三(わしお けんぞう、1907年4月24日 - 19… 鷲尾 健三(わしお けんぞう、1907年4月24日 - 1985年5月28日)は、兵庫県出身の日本の建築構造学者。工学博士(京都帝国大学)。大阪大学名誉教授。日本建築学会元副会長。武田五一の教え子で、構造学の研究に関する業績を残している。 ついても先駆的な業績を残した。このような実践を通し、構造力学という純粋で厳密な学問の大切さとともに実務に密着する鋼構造学の設計・施工の実態を踏まえた地道な技術者教育とその基礎にある人間教育がすべての根源であるとの認識を固めたように思われている。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
小中 正(こなか せい、明治40年(1907年)4月18日 … 小中 正(こなか せい、明治40年(1907年)4月18日 - 没年不明)は日本の数学者、教育学者。鳥取大学教授。 鳥取県境港市竹内町出身。 昭和7年(1932年)京大卒。朝鮮元山公立中学校、鳥取二中各教諭、鳥師教授を経て鳥取大学学芸学部教授。 趣味は俳句。宗教は禅宗。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
島田 修二郎(しまだ しゅうじろう、1907年3月29日 -… 島田 修二郎(しまだ しゅうじろう、1907年3月29日 - 1994年4月11日)は、日本の美術史学者。プリンストン大学名誉教授。考古学者の島田泉は次男。 兵庫県出身。京都帝国大学卒。京都国立博物館美術室長、1964年プリンストン大学教授。中国の画論「松斎梅譜」や正倉院の「鳥毛立女屏風」などの研究がある。1991年朝日賞受賞。
山田 良之助(やまだ りょうのすけ 1907年3月19日 -… 山田 良之助(やまだ りょうのすけ 1907年3月19日 - 1990年6月13日)は日本の金属工学、材料工学者、教育者。 1907年(明治30年)京都府に生まれる。京都府立第二中学校、第三高等学校を経て京都帝国大学機械工学科に入学。1921年(大正10年)に卒業すると、そのまま同大の講師を務めた。1923年(大正12年)東北帝国大学助教授、1927年(昭和2年)には東京高等工業学校の講師を兼ねた。1928年(昭和3年)ドイツに留学、1930年(昭和5年)に帰国後、京都大学教授。その後、東京工業大学金属科長、静岡大学学長兼短期大学学長、武蔵工業大学学長などを務めた。
鈴木 成高(すずき しげたか、1907年(明治40年)3月1… 鈴木 成高(すずき しげたか、1907年(明治40年)3月11日 - 1988年(昭和63年)3月7日)は、日本の西洋史学者(専門は西洋中世史)。京都学派の一人。正五位勲三等瑞宝章。 1907年、高知県生まれ。旧制高知高等学校を経て、1929年京都帝国大学文学部西洋史学科を卒業。戦前は第三高等学校教授、1942年より京都帝国大学助教授を務めた。戦時下には大東亜戦争(太平洋戦争)を「世界史の哲学」の立場から思想的に位置付けようと試みた「世界史的立場と日本」座談会や「近代の超克」座談会に参加。 戦後、思想的事由により不適格と判定され京都大学を公職追放により離れる。1951年の追放解除の後に早稲田大学教授を務めた。
吉村 寿人(よしむら ひさと、1907年2月9日 - 199… 吉村 寿人(よしむら ひさと、1907年2月9日 - 1990年11月29日)は、日本の医学者、生理学者。ヒトの環境適応に関する研究と蛋白栄養に関する研究をした。日本生気象学会会長、日本栄養食糧学会会長等歴任。 京都大学の正路倫之助(兵庫県立医科大学、後の神戸医科大学初代学長)の元で学生時代を送り、卒業後引き続き助手、講師を務める。その後、正路に命じられて満洲の731部隊に赴任し、通称「吉村班」で凍傷を防ぐための研究に従事した(昭和13年から)(吉村を含め京都大学から8名の若手教官が派遣された)。軍での身分は陸軍技師。 戦後京都大学に戻った後、正路倫之助が学長になった兵庫県立医科大学(現在の神戸大学医学部)に移動して研究を続け、その後京都府立医科大学の教授となり、同大学の学長を務めた。
湯川 秀樹(ゆかわ ひでき、1907年〈明治40年〉1月23… 湯川 秀樹(ゆかわ ひでき、1907年〈明治40年〉1月23日 - 1981年〈昭和56年〉9月8日)は、日本の理論物理学者。京都大学・大阪大学名誉教授。学位は理学博士(大阪帝国大学・1938年)。位階は従二位。勲等は勲一等旭日大綬章。 京都府京都市出身。京都帝国大学理学部物理学科卒。大阪帝国大学にて学位取得。原子核内部において、陽子や中性子を互いに結合させる強い相互作用の媒介となる中間子の存在を1935年に理論的に予言した。1947年、イギリスの物理学者セシル・パウエルが宇宙線の中からパイ中間子を発見したことにより、湯川の理論の正しさが証明され、これにより1949年(昭和24年)、日本人として初めてノーベル賞を受賞した。
遠山正瑛(とおやま せいえい、1906年12月14日 - 2… 遠山正瑛(とおやま せいえい、1906年12月14日 - 2004年2月27日)は、日本の農学者・園芸学者。鳥取大学名誉教授。中国内モンゴル自治区のクブチ砂漠の約2万ヘクタールの砂漠の緑化に成功し、その取り組みが高く評価されている。 1906年12月14日、山梨県南都留郡瑞穂村新倉(後の旧下吉田町新倉、現・富士吉田市新倉)に生まれる。実家は浄土真宗本願寺派の寺院である大正寺で、6人兄弟の3番目だった。旧制山梨県立日川中学校(現:山梨県立日川高等学校)、旧制第二高等学校を卒業。高校時代に旧制第二高等学校の先輩である、菊池秋雄教授に出会い農学を志す。京都帝国大学農学部農学科に入学。京都大学で卒業後は同大で助手として働いた。
重澤 俊郎(しげさわ としお、1906年12月13日 - 1… 重澤 俊郎(しげさわ としお、1906年12月13日 - 1990年5月21日)は、日本の中国哲学者。京都大学名誉教授。 1906年、東京で生まれた。京都帝国大学文学部に入学し、支那哲学科で小島祐馬に師事した。1932年に卒業 卒業後は第三高等学校教授に就いた。1942年、母校の京都帝国大学文学部助教授に任じられた。 戦後の1950年、学位論文『経学研究』を京都大学に提出して文学博士号を取得。同1950年、教授に昇格。1970年に定年退官し、名誉教授となった。 学風は小島祐馬や侯外廬に近く、マルクス主義歴史学的手法をとった。戦後の京大の学内政治に左翼的立場から関与した。指導学生には戸川芳郎や加地伸行がいる。
森 鹿三(もり しかぞう、1906年11月5日 - 1980… 森 鹿三(もり しかぞう、1906年11月5日 - 1980年8月10日)は、日本の東洋史学者。京都大学名誉教授。 1906年、兵庫県神戸市生まれ。旧制神戸第二中学校から第三高等学校文科丙類に進学。1926年、京都帝国大学文学部東洋史学科へ入学し、1929年に卒業した。 卒業後は、東方文化学院京都研究所の助手となった。翌1930年より研究員。研究所の歴史地理学研究室で研究に従事。戦後、東方文化学院が京都大学の機関となると、1949年より京都大学人文科学研究所教授となった。1963年から67年(第4代)、1969年から70年(第6代)の2期にわたって所長を務めた。1961年 京都大学にて文学博士を取得。
北村 四郎(きたむら しろう、1906年9月22日 - 20… 北村 四郎(きたむら しろう、1906年9月22日 - 2002年3月21日)は、日本の植物学者。キク科植物研究の第一人者とされる。京都大学名誉教授。 昭和天皇の植物学研究の相談役としても活躍し、北村の葬儀の際には、天皇明仁・皇后から白いキクの花が下賜された。 1906年に生まれる。高等学校時代にはフランス文化に関心を深めた。京都帝国大学理学部の植物学教室に進学し、小泉源一助教授に師事した。卒業論文の題目は「アザミ属の研究」であった。次いでキク科植物の分類について研究した。1945年(昭和20年)に京都大学教授に就任してからも、キク科植物分類の整理を続け、第二次世界大戦による中断を挟みながらも20年がかりでまとめた。
井村 恒郎(いむら つねろう、1906年9月17日 - 19… 井村 恒郎(いむら つねろう、1906年9月17日 - 1981年8月22日)は、日本の精神医学者。国立精神衛生研究所心理学部長等を歴任。日本大学名誉教授。学位は、医学博士(東京大学・1941年)。 千葉県銚子市生まれ。水戸高等学校卒、1929年京都帝国大学文学部哲学科卒業。1934年東京帝国大学医学部卒業、東京帝国大学医学部附属病院精神科副手。35年同助手、1940年同外来診療所医長。41年「失語症に於ける失行性症状」で東京大学より医学博士の学位を取得。同年軍事保護院傷痍軍人下総療養所医官。44年日本精神学会学会賞(森村賞)受賞。1947年国立国府台病院副院長兼神経科医長。49年国立東京第一病院神経科医長。
副島 吉雄(そえじま よしお、1906年8月14日 - 19… 副島 吉雄(そえじま よしお、1906年8月14日 - 1974年6月9日)は、日本の機械工学者。大阪大学名誉教授。理学博士(京都帝国大学)。大阪工業大学工学部機械工学科元教授。 専門は、精密工学・光流体工学、応用物理学・分光学。 京都府出身。祖父は軍医の副島吉謙、父は京都帝国大学医学部教授・副島豫四郎。1931年京都帝国大学理学部物理学科卒業(分光学の権威である理化学研究所の木村正路の指導。1940年広島高等工業学校教授。1941年に召集され、陸軍工兵少尉として応召。1944年理学博士(京都帝国大学)。1947年神戸大学工学部教授、1959年大阪大学工学部精密工学科教授、第6講座(科学機器)を担当。
竹中靖一(たけなか やすかず、1906年6月9日-1986年… 竹中靖一(たけなか やすかず、1906年6月9日-1986年12月19日)は、日本の経営学者。 1906年(明治39年)大阪府大阪市に生まれる。1929年(昭和4年)京都帝国大学経済学部卒。1932年(昭和7年)山口高等商業学校(旧制)講師、1934年(昭和9年)同校教授。1946年(昭和21年)同校を退職後、有邦建設取締役に就任。1949年(昭和24年)近畿大学教授。 1960年「石門心学の経済思想」で大阪大学経済学博士。1977年定年、名誉教授。石田梅岩の石門心学を研究し、1955年心学の講舎明誠舎を復活させた。1964年「石門心学の経済思想」で日本学士院賞受賞。 1984年(昭和59年)勤務先の近畿大学構内で脳梗塞のため倒れ、以降、自宅静養を余儀なくされ、大阪市から吹田市へ転居した。
井上 智勇(いのうえ ちゆう、1906年(明治39年)5月2… 井上 智勇(いのうえ ちゆう、1906年(明治39年)5月26日 - 1984年(昭和59年)6月5日)は、西洋史学者、浄土真宗の僧侶。 兵庫県出身。1930年京都帝国大学卒。第三高等学校教授、1943年京都帝大助教授。1948年「ローマ経済史の研究」で)文学博士、同年京都大学教授。1970年定年退官、名誉教授、奈良教育大学学長。西洋古代史が専門。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
児玉 信次郎(こだま しんじろう、1906年 - 1996年… 児玉 信次郎(こだま しんじろう、1906年 - 1996年1月17日)は、日本の化学者。 京都市に生まれる。第三高等学校(現在の京都大学)卒業後、1928年(昭和3年)京都帝国大学工学部工業化学科を卒業、理化学研究所に勤務した後に1932年(昭和7年)住友肥料製造所に転じる。1940年(昭和15年)京都帝国大学大学教授。1957年(昭和32年)に京都大学を退官後、住友化学の取締役となり、常務、専務を経て1965年(昭和40年)に副社長となった。 住友化学に勤務する傍ら、学術審議会委員、大学基準研究協議会委員、工業技術協議会臨時委員等の公職も務め、さらに日本化学会、化学工学協会、 日本特許協会、近畿化学工業会などの会長も歴任した。
長広 敏雄(長廣 敏雄、ながひろ としお、1905年12月2… 長広 敏雄(長廣 敏雄、ながひろ としお、1905年12月27日 - 1990年11月28日)は、日本の美術史学者。専攻は東洋美術史。文学博士(京都大学・論文博士・1962年)(学位論文「中国石窟寺院の研究」)。京都大学名誉教授。 東京府葛飾生まれ(牛込とする記述もあり)。1929年京都帝国大学文学部卒業、東方文化学院京都研究所所員となり、梅原末治の助手となる。1934年の中国旅行を経て仏教石窟研究へ関心が移り、1936年に水野清一と中華民国・河北省南北響堂山および河南省龍門石窟の調査を行った。1938年から1944年にかけては、山西省雲崗石窟の調査を行った。 1930年代後半には反ファシズムの隔週刊新聞『土曜日』の執筆に参加したこともある。
田部井 和(たべい かのう、1905年(明治38年)11月1… 田部井 和(たべい かのう、1905年(明治38年)11月18日 - 1976年(昭和51年)10月17日)は、日本の微生物学者、教育者、京都大学名誉教授。 東京出身。1931年、京都帝国大学医学部卒業後、京大助教授となる。軍部から多額の資金援助を得て微生物学の研究を進め、関東軍防疫給水部本部(いわゆる731部隊)が発足すると部隊に加わり、第一課課長としてチフス菌を用いた生物兵器を含む研究を指揮することとなった。 戦後は日本に引き揚げ、神戸医科大学教授などを経て、1956年には京大に戻り医学部微生物学教室で教授を務めた。1966年に定年退官した。1976年10月17日、気管支炎のため京都市左京区の自宅にて死去。
宇都宮 清吉(うつのみや きよよし、1905年10月2日 -… 宇都宮 清吉(うつのみや きよよし、1905年10月2日 - 1998年)は、日本の東洋史学者。名古屋大学名誉教授。 愛知県出身。1931年京都帝国大学文学部東洋史学科卒。台北帝国大学予科教授、京都帝国大学助教授を経て1948年名古屋大学文学部教授に転じる。名古屋大学では谷川道雄と共に教授にあたっており、学界を牽引した。1969年定年退官、名誉教授、橘女子大学教授。中国中世史の研究会を主宰した。
李 升基(リ・スンギ、朝鮮語: 리승기、1905年10月1日… 李 升基(リ・スンギ、朝鮮語: 리승기、1905年10月1日 - 1996年2月8日)は、北朝鮮の化学者、政治家。ビニロンの発明者の一人。 日本統治時代の朝鮮の全羅南道潭陽郡生まれ。中央普通学校を経て松山高等学校理科甲類を1928年3月に卒業した。その後、京都帝国大学工学部に進学して1931年3月に卒業し、その後、京都帝国大学化学研究所では助教授を務めた。1939年には桜田一郎、川上博(大日本紡績)らと共にビニロンを合成し、世界で2番目の合成繊維を作成した。しかし戦時中の日本の軍事政策に協力しなかったために治安維持法により拘束され、終戦を迎えるまでとらわれの身となった。なお同時期の京大化研では同じ朝鮮人化学者の李泰圭も助教授・教授として在籍している。
大井 次三郎(おおい じさぶろう、1905年9月18日 - … 大井 次三郎(おおい じさぶろう、1905年9月18日 - 1977年2月22日)は、日本の植物学者。牧野富太郎と並んで、日本の植物分類学の基礎を築いた人物である。 カヤツリグサ科の植物を中心に分類を行い、多くの植物を命名した。またその植物分類に対する功績をたたえ、ツクシオオガヤツリ (Cyperus ohwii) など、大井に献名された植物もある。 命名者として学名に記載される際には Ohwi の綴りが用いられるが、大井自身は当初 Ohi と綴っていた。しかし「Ohi では呼び声の『オーイ』と同じになってしまうから」という小泉源一の提案があり、Ohwi と記載されることになった。 1905年、東京市深川区の木材商の家に生まれた。
庄司 光(しょうじ ひかる、1905年8月29日 - 199… 庄司 光(しょうじ ひかる、1905年8月29日 - 1994年11月23日)は、日本の環境衛生学者。専門は、環境衛生学・公衆衛生学。学位は、医学博士(京都帝国大学・1942年)。京都大学名誉教授。1975年勲三等旭日中綬章受章。京都府生まれ。 厚生省生活環境審議会委員、日本学術会議・公害問題特別委員会委員、日本学術会議・環境問題特別委員会委員、大阪府公害審査会委員、大阪府総合計画審議会委員、大阪府公害対策審議会委員、京都府公害対策審議会委員、京都市公害対策審議会会長、神戸市公害対策審議会委員、神戸市環境影響評価専門委員会会長、大阪市公害対策審議会委員などを歴任。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。
奥田 東(おくだ あずま、1905年(明治38年)8月19日… 奥田 東(おくだ あずま、1905年(明治38年)8月19日 - 1999年(平成11年)4月28日)は日本の農学者。京都大学総長、日本WHO協会理事長、ユネスコ国内委員などを務めた。位階は正三位。 1905年8月19日に奈良県畝傍で教師・奥田清の長男として生まれる。なお、戸籍は京都府熊野郡久美浜町(現:京丹後市)。父親の転勤に伴い広島県福山市に移り、福山南小学校に入学。その後さらに転勤のため京都市上京区の京極小学校に転校した。1918年に旧制京都府立京都第一中学校(現:洛北高校)に入学。同窓生には朝永振一郎、桑原武夫、湯川秀樹らがおり、全員が旧制高校と大学も一緒で、かつ後に京都大学の教授となっている。
堀尾 正雄(ほりお まさお、1905年7月20日 - 199… 堀尾 正雄(ほりお まさお、1905年7月20日 - 1996年12月21日)は、日本の化学者、京都大学名誉教授。専門は高分子化学。工学博士(1934年)。大阪府生まれ。
遠藤 嘉基(えんどう よしもと、1905年5月31日 - 1… 遠藤 嘉基(えんどう よしもと、1905年5月31日 - 1992年6月23日)は、日本の国語学者、京都大学名誉教授。 父は、遠藤金市(熊本高等工業学校第4代校長)。祖父(金市の義父)は、遠藤董(鳥取盲聾唖学校創立者)。 1930年に京都帝国大学国文科を卒業。京都府立第一中学校嘱託、成城高等学校講師、大阪外国語学校講師を経て、1935年に京都帝大講師、1939年に助教授、1949年に京都大学文学部教授、1950年に文学博士。1953年に国語審議会委員。 1969年に定年退官、大谷女子大学教授。 1975年に叙勲三等授旭日中綬章。1992年に叙正四位。 研究範囲は多岐にわたるが、その中核をなすものは「訓点語と訓点資料」と「王朝仮名文学作品」である。