中田 吉雄(なかた よしお、明治39年(1906年)10月3… 中田 吉雄(なかた よしお、明治39年(1906年)10月30日 - 昭和60年(1985年)5月1日)は日本の政治家。参議院議員(3期、日本社会党)。 妻は日本初の女性弁護士で、鳥取県弁護士会長、日本弁護士連合会理事などを歴任した中田正子。 鳥取県八頭郡若桜町根安出身。竹次郎の長男。 1933年京都帝国大学農学部農林経済学科卒。1938年東亜研究所勤務、1945年若桜町農業会専務理事(以降農業関係の役職を歴任)、1947年4月鳥取県議会議員当選、1947年5月鳥取県議会議長。 1950年6月参議院議員(第2、3、5回通常選挙当選)、1954年参議院地方行政委員長、1955年日本社会党参議院副会長(1959年6月の第5回通常選挙では39票差で当選。
山辺 知行(やまのべ ともゆき、1906年10月27日 - … 山辺 知行(やまのべ ともゆき、1906年10月27日 - 2004年10月1日)は、日本の染織研究家。東京出身。京都帝国大学卒業。東京帝室博物館(のち東京国立博物館)退官後、多摩美術大学教授、遠山記念美術館館長。日本、インド、インドネシアの染織品・人形のコレクター。
藤井 駿(ふじい しゅん、1906年10月24日 - 198… 藤井 駿(ふじい しゅん、1906年10月24日 - 1989年7月19日)は、日本の歴史学者。専門は日本中世史。 岡山県の吉備津神社の神職の家に生まれる。岡山県立第一岡山中学校から第六高等学校文科に進学。1927年に同校を卒業し、京都帝国大学文学部史学科に入学。同期入学に山根徳太郎、池内義資らがいた。卒業論文「文藝復興期に於ける日本道への歸着」をまとめ、1930年に卒業。 大学卒業後は、六高における恩師でもある松本彦次郎の推薦により、その後任として第六高等学校講師となり、同年10月に同校教授。1950年に岡山大学法文学部教授。1972年に退官し、名誉教授となり、1978年まで山陽学園短期大学教授を務めた。
山本 源左衛門(やまもと げんざえもん、1906年(明治39… 山本 源左衛門(やまもと げんざえもん、1906年(明治39年)10月16日 - 1987年(昭和62年)10月26日)は、昭和期の実業家である。元東京海上火災保険会長。 1906年、兵庫県の生まれ。1925年に旧制山口高等学校卒業。1930年に京都帝国大学法学部を卒業。同年、東京海上火災保険に入社。1938年満州火災海上に出向し、営業部長として活躍した。 1947年東京海上火災に復帰。1966年同社の5代目社長として就任。1968年6月より1974年まで日本損害保険協会会長。1972年6月、同社会長に就任。1987年10月26日に81歳にて他界。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
宇都宮 徳馬(宇都宮 德馬、うつのみや とくま、1906年〈… 宇都宮 徳馬(宇都宮 德馬、うつのみや とくま、1906年〈明治39年〉9月24日 - 2000年〈平成12年〉7月1日)は、日本の政治家、実業家。位階は正三位、勲等は勲一等。 ミノファーゲン製薬創設者。板垣退助先生顕彰会創立発起人兼顧問。月刊誌『軍縮問題資料』創刊者。 参議院議員(2期)、衆議院議員(10期)、日中友好協会会長・名誉会長、日本北アフリカ協会会長。 東京府に生まれる。父は陸軍大将、朝鮮軍司令官を務めた宇都宮太郎。父の意志で旧制府立第一中学を経て、東京陸軍幼年学校(25期)に入学し、1924年に卒業。1925年に旧制水戸高等学校に入学。水戸高校時代はマルクス主義に傾倒し、水田とともに東京帝国大学ではなく、学生連合会の要請で京都帝国大学を志望校に選んだ。
北村 四郎(きたむら しろう、1906年9月22日 - 20… 北村 四郎(きたむら しろう、1906年9月22日 - 2002年3月21日)は、日本の植物学者。キク科植物研究の第一人者とされる。京都大学名誉教授。 昭和天皇の植物学研究の相談役としても活躍し、北村の葬儀の際には、天皇明仁・皇后から白いキクの花が下賜された。 1906年に生まれる。高等学校時代にはフランス文化に関心を深めた。京都帝国大学理学部の植物学教室に進学し、小泉源一助教授に師事した。卒業論文の題目は「アザミ属の研究」であった。次いでキク科植物の分類について研究した。1945年(昭和20年)に京都大学教授に就任してからも、キク科植物分類の整理を続け、第二次世界大戦による中断を挟みながらも20年がかりでまとめた。
毎田 周一(まいだ しゅういち、1906年〈明治39年〉9月… 毎田 周一(まいだ しゅういち、1906年〈明治39年〉9月22日 - 1967年〈昭和42年〉2月27日)は、日本の仏教思想家、詩人。金沢市出身。第四高等学校を経て、1929年京都帝国大学文学部哲学科卒業。1937年長野県師範学校教諭、1942年石川県師範学校教諭。 暁烏敏に師事し、西田幾太郎に学ぶ。雑誌『真』、『大雪山』を主宰。仏教の教えを日常の言葉で語り、多くの解説書や詩を残した。没後「毎田周一全集」が纏められた。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
黒田 巌(黑田 巖、くろだ いわお、1906年(明治39年)… 黒田 巌(黑田 巖、くろだ いわお、1906年(明治39年)9月18日 - 1981年(昭和56年)4月27日)は、日本の陸軍軍属、実業家、政治家。衆議院議員。 兵庫県印南郡阿弥陀村(現高砂市)で生まれる。1932年(昭和7年) 京都帝国大学法学部を卒業した。小学校訓導、兵庫県巡査、満州国ハルピン警察庁巡官、浜江省規画科長、北支那方面軍嘱託、済南治安維持会顧問、済南特務機関勤務、山東省会警察局顧問、同省公署顧問補佐官、日本陸軍師団・旅団の政治工作班長などを務めた。 1942年(昭和17年)4月、 第21回衆議院議員総選挙に兵庫県第3区から翼賛政治体制協議会の推薦を受け出馬して当選。当選後は翼賛政治会に参加し、終戦後は日本進歩党に所属して衆議院議員を1期務めた。
井村 恒郎(いむら つねろう、1906年9月17日 - 19… 井村 恒郎(いむら つねろう、1906年9月17日 - 1981年8月22日)は、日本の精神医学者。国立精神衛生研究所心理学部長等を歴任。日本大学名誉教授。学位は、医学博士(東京大学・1941年)。 千葉県銚子市生まれ。水戸高等学校卒、1929年京都帝国大学文学部哲学科卒業。1934年東京帝国大学医学部卒業、東京帝国大学医学部附属病院精神科副手。35年同助手、1940年同外来診療所医長。41年「失語症に於ける失行性症状」で東京大学より医学博士の学位を取得。同年軍事保護院傷痍軍人下総療養所医官。44年日本精神学会学会賞(森村賞)受賞。1947年国立国府台病院副院長兼神経科医長。49年国立東京第一病院神経科医長。
金井 久兵衛(かない きゅうべえ、1906年9月4日 - 1… 金井 久兵衛(かない きゅうべえ、1906年9月4日 - 1996年11月5日)は、日本の経営者。北陸電力社長を務めた。富山県富山市出身。 1930年に京都帝国大学工学部電気工学科を卒業、1932年に日本海電気に入社した。 1946年、北陸配電社長に就任し、1954年、北陸電力副社長を経て、1959年(昭和34年)9月9日、社長に就任。 1967年11月、北陸経済連合会の初代会長に就任した(1979年4月まで)。 1972年に会長に就任し、1979年には相談役に就任。 1964年11月19日、藍綬褒章を受章し、1976年に勲一等瑞宝章を受章。1968年(昭和43年)11月1日、中経産業功労賞(中部経済新聞社)を受賞。
相沢 巌夫(あいざわ いわお、1906年8月29日 - 19… 相沢 巌夫(あいざわ いわお、1906年8月29日 - 1945年10月2日)は、日本の陸上競技(短距離走)選手。陸軍司政官。 石川県金沢市生まれ。金沢の第四高等学校に入学。四高在学中の192年11月3日、神宮競技大会の100m走で10秒8を出し、当時の日本記録に並んだ。 京都帝国大学法学部に進む。1927年10月9日、近畿選手権の100m走で10秒7を記録し、日本記録を更新。日本陸上競技選手権大会では1927年に200m走で日本記録(21秒9)に並び優勝。 1928年5月中旬の日本陸上競技選手権大会では200mで21秒6の日本記録を更新し2連覇、100mでも優勝した。5月下旬に開催された第1回日本学生陸上競技対校選手権大会(インカレ)で100m、200m、4x400mリレーで優勝した。
副島 吉雄(そえじま よしお、1906年8月14日 - 19… 副島 吉雄(そえじま よしお、1906年8月14日 - 1974年6月9日)は、日本の機械工学者。大阪大学名誉教授。理学博士(京都帝国大学)。大阪工業大学工学部機械工学科元教授。 専門は、精密工学・光流体工学、応用物理学・分光学。 京都府出身。祖父は軍医の副島吉謙、父は京都帝国大学医学部教授・副島豫四郎。1931年京都帝国大学理学部物理学科卒業(分光学の権威である理化学研究所の木村正路の指導。1940年広島高等工業学校教授。1941年に召集され、陸軍工兵少尉として応召。1944年理学博士(京都帝国大学)。1947年神戸大学工学部教授、1959年大阪大学工学部精密工学科教授、第6講座(科学機器)を担当。
岡田 重吉(おかだ じゅうきち、1906年7月23日 - 1… 岡田 重吉(おかだ じゅうきち、1906年7月23日 - 1982年1月25日)は、日本の経営者。三重県出身。 1931年に京都帝国大学法学部を卒業し、同年4月にダンロップ護謨に入社。1955年12月に取締役に就任し、1960年7月に常務、1964年5月に専務を経て、1968年11月には社長に就任。1973年11月から会長を務めた。 1982年1月25日呼吸不全のために死去。75歳没。
名和 統一(なわ とういち、1906年<明治39年>6月18… 名和 統一(なわ とういち、1906年<明治39年>6月18日 - 1978年<昭和53年>7月8日)は、日本の経済学者。大阪市立大学名誉教授。 1906年に兵庫県に生まれる。父はキリスト教徒の株屋。京都帝国大学を卒業し、大阪商科大学(現大阪市立大学)教授となる。1943年に大阪商大事件で追放されるも、戦後復帰し、大阪市立大学教授となる。1951年に「国際価値論研究」で、京都大学から経済学博士の学位を取得する。1971年に定年退官し、大阪市立大学名誉教授、岐阜経済大学学長となる。マルクス経済学による貿易理論を展開した。門下に三辺信夫がいる。
竹中靖一(たけなか やすかず、1906年6月9日-1986年… 竹中靖一(たけなか やすかず、1906年6月9日-1986年12月19日)は、日本の経営学者。 1906年(明治39年)大阪府大阪市に生まれる。1929年(昭和4年)京都帝国大学経済学部卒。1932年(昭和7年)山口高等商業学校(旧制)講師、1934年(昭和9年)同校教授。1946年(昭和21年)同校を退職後、有邦建設取締役に就任。1949年(昭和24年)近畿大学教授。 1960年「石門心学の経済思想」で大阪大学経済学博士。1977年定年、名誉教授。石田梅岩の石門心学を研究し、1955年心学の講舎明誠舎を復活させた。1964年「石門心学の経済思想」で日本学士院賞受賞。 1984年(昭和59年)勤務先の近畿大学構内で脳梗塞のため倒れ、以降、自宅静養を余儀なくされ、大阪市から吹田市へ転居した。
松本 鼎一(まつもと ていいち、1906年(明治39年)5月… 松本 鼎一(まつもと ていいち、1906年(明治39年)5月31日 - 1986年(昭和61年)12月7日)は、昭和期の政治家、華族。貴族院男爵議員。 本籍・大阪府。華族・松本春造の長男として生まれる。父の隠居に伴い、1927年(昭和2年)6月15日、男爵を襲爵した。 1931年(昭和6年)3月、京都帝国大学法学部を卒業した。同年、三井生命保険に入社。その後、日産自動車、自動車統制会(参事)、日産重工業で勤務した。 1946年(昭和21年)6月29日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し、公正会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
井上 智勇(いのうえ ちゆう、1906年(明治39年)5月2… 井上 智勇(いのうえ ちゆう、1906年(明治39年)5月26日 - 1984年(昭和59年)6月5日)は、西洋史学者、浄土真宗の僧侶。 兵庫県出身。1930年京都帝国大学卒。第三高等学校教授、1943年京都帝大助教授。1948年「ローマ経済史の研究」で)文学博士、同年京都大学教授。1970年定年退官、名誉教授、奈良教育大学学長。西洋古代史が専門。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
田万 広文(廣文、たまん ひろふみ、1906年(明治39年)… 田万 広文(廣文、たまん ひろふみ、1906年(明治39年)5月17日 – 1986年(昭和61年)5月9日)は、昭和期の弁護士、政治家。衆議院議員。 香川県仲多度郡、のちの善通寺市中通で生まれる。1930年(昭和5年)京都帝国大学法学部を卒業。 1930年、高等試験司法科試験に合格し、有馬忠三郎事務所で研修した。1932年(昭和7年)丸亀市で法律事務所を開業した。高松弁護士会副会長、全日本農民組合香川県支部連合会顧問、日本弁護士連合会司法制度調査委員などを務めた。 1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙に香川全県区から日本社会党公認で出馬して初当選。1947年(昭和22年)4月の第23回総選挙に香川県第2区から出馬して落選。
山野 種松(やまの たねまつ、1906年 <明治39年> 3… 山野 種松(やまの たねまつ、1906年 <明治39年> 3月26日 - 1995年 <平成7年> 12月23日)は、日本の経営者。レンゴー社長を務めた。位階は正五位。 大阪府出身。1931年に京都帝国大学経済学部を卒業し、同年にレンゴーに入社。1947年に監査役に就任し、1950年に取締役、1960年11月に常務、1962年5月に専務を経て、1963年11月に社長に就任。1973年2月に会長に就任し、1984年6月に相談役に就任。 1978年4月に勲三等瑞宝章を受章。 1995年12月23日肺炎のために死去。89歳没。死没日付をもって正五位に叙された。
青木 精太郎(あおき せいたろう、1906年 <明治39年>… 青木 精太郎(あおき せいたろう、1906年 <明治39年> 2月27日 - 1991年 <平成3年> 7月13日)は日本の鉄道技術者、実業家。京阪電気鉄道社長、京福電気鉄道会長などを務めた。位階は正四位。 岡山県岡山市出身。旧制岡山中学校(在学中に第一岡山中学校に改称、現:岡山県立岡山朝日高等学校)、第六高等学校を経て、1928年(昭和3年)に京都帝国大学工学部電気工学科を卒業。当初、指導教官から日本電力への就職を紹介されたが、その年度の新卒採用がなかったため、代わりに紹介された京阪電気鉄道に入社した。当時京阪電気鉄道は、新京阪鉄道(現:阪急京都本線)の建設、名古屋急行電鉄の設立準備などをおこなっていた時期であったため、前例のない50余名もの大学・専門学校生を採用しており、のちに阪急電鉄社長を務めた森薫も同窓・同期で新京阪に入社している。
黒松巌(くろまついわお、1906年1月18日-1976年11… 黒松巌(くろまついわお、1906年1月18日-1976年11月8日)は、日本の経済学者。 鹿児島市生まれ。第七高等学校造士館卒、1931年京都帝国大学経済学部卒、1960年「日本工業の構造」で京都大学経済学博士。1938年建国大学助教授、1944年教授、1948年同志社大学経済学部教授。59-61年経済学部長、1976年定年、名誉教授となる。
柴田 實(しばた みのる、1906年1月11日 - 1997… 柴田 實(しばた みのる、1906年1月11日 - 1997年3月16日)は、日本の歴史学者。京都大学名誉教授。 1906年、京都市下京区で生まれた。京都府立第一中学校を経て、第三高等学校に進学。1925年に卒業し、京都帝国大学文学部史学科に入学。三浦周行、西田直二郎の指導を受け、1930年に卒業。 1930年、京都帝国大学文学部副手に採用された。1932年に助手昇格。 1946年に助教授昇格。1950年、京都大学分校(後の教養部)教授に昇格。1963年から1965年まで京都大学教養部長をつとめた。1969年3月に京都大学を定年退官し、名誉教授となった。同1969年4月より関西大学文学部教授。1970年からは財団法人元興寺仏教民俗資料研究所人文科学室長をつとめた。
児玉 信次郎(こだま しんじろう、1906年 - 1996年… 児玉 信次郎(こだま しんじろう、1906年 - 1996年1月17日)は、日本の化学者。 京都市に生まれる。第三高等学校(現在の京都大学)卒業後、1928年(昭和3年)京都帝国大学工学部工業化学科を卒業、理化学研究所に勤務した後に1932年(昭和7年)住友肥料製造所に転じる。1940年(昭和15年)京都帝国大学大学教授。1957年(昭和32年)に京都大学を退官後、住友化学の取締役となり、常務、専務を経て1965年(昭和40年)に副社長となった。 住友化学に勤務する傍ら、学術審議会委員、大学基準研究協議会委員、工業技術協議会臨時委員等の公職も務め、さらに日本化学会、化学工学協会、 日本特許協会、近畿化学工業会などの会長も歴任した。
清水 末雄(しみず すえお、1905年12月30日 - 19… 清水 末雄(しみず すえお、1905年12月30日 - 1993年6月21日)は、日本の経営者。奈良県出身。 1928年に京都帝国大学経済学部を卒業し、同年に朝日新聞社に入社。 1960年1月に神奈川新聞社に転じ、1969年1月には社長に就任した。1981年1月に会長に就任し、1982年1月に取締役相談役を経て、1984年1月には相談役に就任した。 1980年4月に勲三等瑞宝章を受章。 1993年6月21日脳血栓のために死去。87歳没。
長広 敏雄(長廣 敏雄、ながひろ としお、1905年12月2… 長広 敏雄(長廣 敏雄、ながひろ としお、1905年12月27日 - 1990年11月28日)は、日本の美術史学者。専攻は東洋美術史。文学博士(京都大学・論文博士・1962年)(学位論文「中国石窟寺院の研究」)。京都大学名誉教授。 東京府葛飾生まれ(牛込とする記述もあり)。1929年京都帝国大学文学部卒業、東方文化学院京都研究所所員となり、梅原末治の助手となる。1934年の中国旅行を経て仏教石窟研究へ関心が移り、1936年に水野清一と中華民国・河北省南北響堂山および河南省龍門石窟の調査を行った。1938年から1944年にかけては、山西省雲崗石窟の調査を行った。 1930年代後半には反ファシズムの隔週刊新聞『土曜日』の執筆に参加したこともある。
神保 光太郎(じんぼ こうたろう、1905年〈明治38年〉1… 神保 光太郎(じんぼ こうたろう、1905年〈明治38年〉11月29日 - 1990年〈平成2年〉10月24日)は、昭和期の日本の詩人・ドイツ文学者。本名は光太郎(みつたろう)(姓の読みを「じんぼう」とする文献もある)。 山形県山形市生まれ。山形県立山形中学校から山形高校を経て、京都帝国大学文学部独文科を卒業。在学中から同人誌に詩や短歌を発表して新散文詩運動の一翼を担った。 1934年、埼玉県浦和市(現:さいたま市)の別所沼のほとりに家を新築し、生涯にわたって活動拠点とした。この別所沼の家に、神保を兄と慕う立原道造の来訪をしばしば受けている。1935年、保田與重郎や亀井勝一郎らと『日本浪曼派』に参加し、詩誌『四季』などに作品を発表した。
江口 見登留(えぐち みとる、1905年11月20日 - 1… 江口 見登留(えぐち みとる、1905年11月20日 - 1993年6月13日)は、日本の官僚。海軍司政官。第62代警視総監。 実父が早くに亡くなったため、男児のなかった叔父・江口菅太郎の長男として養子となる。大分県宇佐郡高並村(現・宇佐市)出身。旅順中学校、三高、京都帝国大学法学部卒業後、内務省入省(兵庫県警部補)。内務官僚を経て内閣官房副長官、警視総監等を歴任。正四位勲一等瑞宝章。 防衛省・自衛隊の前身(草創期)に当たる警察予備隊で本部長官(認証官)に次ぐ本部次長を、その後わずか2週間ながら防衛研究所の前身に当たる保安研修所の初代所長を務めた。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
田部井 和(たべい かのう、1905年(明治38年)11月1… 田部井 和(たべい かのう、1905年(明治38年)11月18日 - 1976年(昭和51年)10月17日)は、日本の微生物学者、教育者、京都大学名誉教授。 東京出身。1931年、京都帝国大学医学部卒業後、京大助教授となる。軍部から多額の資金援助を得て微生物学の研究を進め、関東軍防疫給水部本部(いわゆる731部隊)が発足すると部隊に加わり、第一課課長としてチフス菌を用いた生物兵器を含む研究を指揮することとなった。 戦後は日本に引き揚げ、神戸医科大学教授などを経て、1956年には京大に戻り医学部微生物学教室で教授を務めた。1966年に定年退官した。1976年10月17日、気管支炎のため京都市左京区の自宅にて死去。
岡村 博(おかむら ひろし、1905年11月10日 - 19… 岡村 博(おかむら ひろし、1905年11月10日 - 1948年9月3日)は、日本の数学者。京都帝国大学教授。解析学や微分方程式の理論に貢献した。 1929年京都帝国大学理学部を卒業し、同学の教授を務めた。 主な業績として、常微分方程式の初期値問題を研究し、解の一意性のための必要十分条件を導いた。これにより、20世紀前半の微分方程式論で最も重要な問題の一つに終止符が打たれた。その他の業績としては、積分法の平均値の定理の改良がある。 第二次世界大戦中は航空力学の研究にも携わったが、戦後の食糧難による栄養失調で、42歳の若さで亡くなった。 父は法学者・弁護士の岡村司。教え子に溝畑茂・山口昌哉がいる。
仲原 善一(なかはら ぜんいち、1905年〈明治38年〉11… 仲原 善一(なかはら ぜんいち、1905年〈明治38年〉11月6日 - 1980年〈昭和55年〉4月4日)は、日本の農林技官、政治家。参議院議員(2期)。 鳥取県東伯郡旭村湯谷(現・三朝町湯谷)出身。農業・仲原勝治の長男。1932年(昭和7年)京都帝国大学農学部農林経済学科を卒業した。 農林省小作官、農林技師、海軍技師、鳥取県農地部長、同農林部長、同経済部長などを歴任。太平洋戦争初頭に海軍民政府要員として南方に派遣された。 1956年(昭和31年)7月の第4回参議院議員通常選挙に鳥取地方区から自由民主党所属で出馬して当選。第6回通常選挙でも当選し、参議院議員を2期務めた。この間、自民党鳥取県連会長、同党政務調査会農林部会副部会長、参議院自民党副幹事長、同国会対策副委員長、第1次池田内閣北海道開発政務次官、参議院農林水産委員長、同地方行政委員長などを務めた。
宇都宮 清吉(うつのみや きよよし、1905年10月2日 -… 宇都宮 清吉(うつのみや きよよし、1905年10月2日 - 1998年)は、日本の東洋史学者。名古屋大学名誉教授。 愛知県出身。1931年京都帝国大学文学部東洋史学科卒。台北帝国大学予科教授、京都帝国大学助教授を経て1948年名古屋大学文学部教授に転じる。名古屋大学では谷川道雄と共に教授にあたっており、学界を牽引した。1969年定年退官、名誉教授、橘女子大学教授。中国中世史の研究会を主宰した。
李 升基(リ・スンギ、朝鮮語: 리승기、1905年10月1日… 李 升基(リ・スンギ、朝鮮語: 리승기、1905年10月1日 - 1996年2月8日)は、北朝鮮の化学者、政治家。ビニロンの発明者の一人。 日本統治時代の朝鮮の全羅南道潭陽郡生まれ。中央普通学校を経て松山高等学校理科甲類を1928年3月に卒業した。その後、京都帝国大学工学部に進学して1931年3月に卒業し、その後、京都帝国大学化学研究所では助教授を務めた。1939年には桜田一郎、川上博(大日本紡績)らと共にビニロンを合成し、世界で2番目の合成繊維を作成した。しかし戦時中の日本の軍事政策に協力しなかったために治安維持法により拘束され、終戦を迎えるまでとらわれの身となった。なお同時期の京大化研では同じ朝鮮人化学者の李泰圭も助教授・教授として在籍している。
馬淵 威雄(まぶち たけお、1905年〈明治38年〉10月1… 馬淵 威雄(まぶち たけお、1905年〈明治38年〉10月1日 - 1988年〈昭和63年〉9月20日)は、昭和期の実業家。死去時の役職は東宝相談役、フジテレビ取締役。京都府出身。 水戸高等学校を経て1930年に京都大学法学部を卒業。戦時中は軍需省管理官、戦後は中央労働委員会で第一部長兼第二部長を務める。労働争議に悩んでいた東宝社長田辺加多丸(小林一三の実弟)の懇請により、1947年12月26日に東宝取締役(労務担当)に就任、新社長の渡辺銕蔵と共に人員整理に取り組み、翌1948年の第三次東宝争議を乗り切って、経営権や人事権を会社側の専権事項とした。 馬淵はそののち、1948年10月8日に代表取締役副社長に就任したが、1949年4月12日に常務取締役に降格するや、渡辺銕蔵と再建策をめぐって対立、1949年9月26日に辞任した。
大井 次三郎(おおい じさぶろう、1905年9月18日 - … 大井 次三郎(おおい じさぶろう、1905年9月18日 - 1977年2月22日)は、日本の植物学者。牧野富太郎と並んで、日本の植物分類学の基礎を築いた人物である。 カヤツリグサ科の植物を中心に分類を行い、多くの植物を命名した。またその植物分類に対する功績をたたえ、ツクシオオガヤツリ (Cyperus ohwii) など、大井に献名された植物もある。 命名者として学名に記載される際には Ohwi の綴りが用いられるが、大井自身は当初 Ohi と綴っていた。しかし「Ohi では呼び声の『オーイ』と同じになってしまうから」という小泉源一の提案があり、Ohwi と記載されることになった。 1905年、東京市深川区の木材商の家に生まれた。
中村 綗(なかむら けい、1905年〈明治38年〉9月10日… 中村 綗(なかむら けい、1905年〈明治38年〉9月10日 - 没年不詳)は、日本の都市計画家。建築行政家。建築家。建築行政と都市計画に広く関わった人物。日本国内の都市や建築の他、戦前期は台湾で活躍し、戦後は関西方面で活動する。京都市生まれ。 1928年(昭和3年)、京都帝国大学工学部建築学科卒業。同年に警視庁建築技師。1933年(昭和8年)から、都市計画地方委員会の技師として、愛知県に赴任。 1937年(昭和12年)から台湾に赴任。同地の都市計画令施行を受け、台湾総督府土木局都市計画技師に就任。2年前から台湾に赴任していた京都帝大の先輩である内務局土木系技師の早川透とともに、都市計画事業にまい進する。
竹内 喜三郎(たけうち きさぶろう、1905年9月4日 - … 竹内 喜三郎(たけうち きさぶろう、1905年9月4日 - 1989年3月7日)は、昭和時代の研究者、経営者。大阪府大阪市出身。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
庄司 光(しょうじ ひかる、1905年8月29日 - 199… 庄司 光(しょうじ ひかる、1905年8月29日 - 1994年11月23日)は、日本の環境衛生学者。専門は、環境衛生学・公衆衛生学。学位は、医学博士(京都帝国大学・1942年)。京都大学名誉教授。1975年勲三等旭日中綬章受章。京都府生まれ。 厚生省生活環境審議会委員、日本学術会議・公害問題特別委員会委員、日本学術会議・環境問題特別委員会委員、大阪府公害審査会委員、大阪府総合計画審議会委員、大阪府公害対策審議会委員、京都府公害対策審議会委員、京都市公害対策審議会会長、神戸市公害対策審議会委員、神戸市環境影響評価専門委員会会長、大阪市公害対策審議会委員などを歴任。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。
大島 一衛(おおしま いちえ、1905年8月22日 - 19… 大島 一衛(おおしま いちえ、1905年8月22日 - 1961年9月23日)は、昭和時代前期に活動した日本の新聞編集者。 1905年(明治38年)、石川県で山中一兵の長男として出生。1928年(昭和3年)に京都帝国大学経済学部を卒業し、新愛知新聞社に入社する。入社後に新愛知の創業者・大島宇吉の次男で愛知県守山町の第6代町長を務めた大島藤次郎の婿養子となり、1935年(昭和10年)に新愛知傘下の国民新聞社へ営業局長として出向した。 翌1936年(昭和11年)、新愛知編集主幹兼国民新聞代表取締役の田中斉が読売新聞の正力松太郎から職業野球への参入を持ち掛けられたことを契機として「大日本野球連盟」と称する独自のリーグ設立構想を立て、新愛知傘下で名古屋軍(大日本野球連盟名古屋協会)、国民新聞傘下で大東京軍(大日本野球連盟東京協会)をそれぞれ発足させたが、この時は一衛が大東京軍の監査役と名古屋軍の取締役を兼ねていただけでなく田中が両球団の専務、義兄(妻の実兄)の大島一郎が名古屋軍副会長兼大東京軍取締役、新愛知の社外から名古屋軍会長に迎えられた弁護士の大野正直が大東京軍の取締役を兼ねる名実共に「兄弟球団」の体制であった。
奥田 東(おくだ あずま、1905年(明治38年)8月19日… 奥田 東(おくだ あずま、1905年(明治38年)8月19日 - 1999年(平成11年)4月28日)は日本の農学者。京都大学総長、日本WHO協会理事長、ユネスコ国内委員などを務めた。位階は正三位。 1905年8月19日に奈良県畝傍で教師・奥田清の長男として生まれる。なお、戸籍は京都府熊野郡久美浜町(現:京丹後市)。父親の転勤に伴い広島県福山市に移り、福山南小学校に入学。その後さらに転勤のため京都市上京区の京極小学校に転校した。1918年に旧制京都府立京都第一中学校(現:洛北高校)に入学。同窓生には朝永振一郎、桑原武夫、湯川秀樹らがおり、全員が旧制高校と大学も一緒で、かつ後に京都大学の教授となっている。
和島 岩吉(わじま いわきち、1905年〈明治38年〉8月5… 和島 岩吉(わじま いわきち、1905年〈明治38年〉8月5日 - 1990年〈平成2年〉5月13日)は、日本の弁護士、大阪府羽曳野市名誉市民。和島法律事務所所長。大阪弁護士会会長、日本弁護士連合会人権擁護委員長、日本弁護士連合会会長を歴任。和島陶牛名義による句集もある。 大阪府南河内郡埴生村(現・羽曳野市向野)で馬肉卸商の家庭の三男として生まれる。 苦学して専検に合格。1928年、松江高等学校文科乙類卒業。1931年に京都帝国大学法学部を卒業。同年、弁護士を開業。加藤老事件、徳島ラジオ商殺し事件、狭山事件、甲山事件などで弁護活動を行う。 1946年、部落解放大阪青年同盟委員長。1953年、大阪府同和事業促進協議会会長。
堀尾 正雄(ほりお まさお、1905年7月20日 - 199… 堀尾 正雄(ほりお まさお、1905年7月20日 - 1996年12月21日)は、日本の化学者、京都大学名誉教授。専門は高分子化学。工学博士(1934年)。大阪府生まれ。
久富 武夫(ひさとみ たけお 1905年7月12日 - 19… 久富 武夫(ひさとみ たけお 1905年7月12日 - 1987年12月3日)は、元安田信託銀行社長。
飯島 連次郎(いいじま れんじろう、1905年〈明治38年〉… 飯島 連次郎(いいじま れんじろう、1905年〈明治38年〉7月4日 - 1992年〈平成4年〉10月15日)は、昭和期の農業技術者、政治家。位階は正五位。 参議院議員(1期)、群馬県邑楽郡多々良村長。 群馬県邑楽郡多々良村(現・館林市木戸町)出身。1923年(大正12年)旧制栃木県立佐野中学校(現・栃木県立佐野高等学校)卒業。1932年(昭和7年)京都帝国大学農学部農学科を卒業した。同年、満州国に渡り満蒙開拓移民の指導、訓練、研究に従事し、満蒙開拓訓練所長などを務めた。 1946年(昭和21年)帰郷して多々良村長兼同村農業協同組合長に就任。その他、群馬県酪農業協同組合理事、同県生産農業協同組合連合会長、同信用農業協同組合連合会理事、同農林統計協会長、全国指導農業協同組合連合会専務理事、農業電化協会副会長、全国厚生文化農業協同組合連合会理事、全国新聞情報農業協同組合連合会長などを務めた。
泉井 久之助(いずい ひさのすけ、1905年7月2日 - 1… 泉井 久之助(いずい ひさのすけ、1905年7月2日 - 1983年5月28日)は、日本の言語学者。京都大学を中心に、第二次世界大戦前後に活動した。 (出典:堀井令以知「泉井久之助先生 (1905-1983)」『言語研究』1983年1に所収) 月刊『言語』(大修館書店刊行)が、1977年5月号で当時の著名な言語学者に「かつて最も印象深く読まれた言語学及び言語論の図書を三点挙げていただき、簡単な感想をつけて」もらう特集を組んだ。泉井はそれに、以下の3点を挙げている。(なお感想も省略して付記する) なお、泉井は最後のメイエ『印欧語比較研究入門』を臨終の直前まで手放さず、4回目の購入本を使用していたという。
佐々木 勇蔵(ささき ゆうぞう、1905年 <明治38年> … 佐々木 勇蔵(ささき ゆうぞう、1905年 <明治38年> 6月7日 - 1985年 <昭和60年> 6月17日)は、日本の経営者、銀行家。大阪府出身。位階は従五位。 1931年に京都帝国大学経済学部を卒業し、同年に大阪府農工銀行に入行。 1937年3月に日本勧業銀行を経て、1951年1月に泉州銀行に転じ、常務に就任し、1958年4月に専務を経て、1963年10月に頭取に就任した。1974年11月に取締役相談役に就任した。 1973年に泉州高等学校の設立に携わり、泉州学園名誉理事長を務め、関西経済連合会顧問、日本少年野球連盟副会長なども歴任。 1972年9月に藍綬褒章を受章し、1982年5月に勲四等旭日小綬章を受章。
遠藤 嘉基(えんどう よしもと、1905年5月31日 - 1… 遠藤 嘉基(えんどう よしもと、1905年5月31日 - 1992年6月23日)は、日本の国語学者、京都大学名誉教授。 父は、遠藤金市(熊本高等工業学校第4代校長)。祖父(金市の義父)は、遠藤董(鳥取盲聾唖学校創立者)。 1930年に京都帝国大学国文科を卒業。京都府立第一中学校嘱託、成城高等学校講師、大阪外国語学校講師を経て、1935年に京都帝大講師、1939年に助教授、1949年に京都大学文学部教授、1950年に文学博士。1953年に国語審議会委員。 1969年に定年退官、大谷女子大学教授。 1975年に叙勲三等授旭日中綬章。1992年に叙正四位。 研究範囲は多岐にわたるが、その中核をなすものは「訓点語と訓点資料」と「王朝仮名文学作品」である。
川勝 政太郎(かわかつ まさたろう、1905年(明治38年)… 川勝 政太郎(かわかつ まさたろう、1905年(明治38年)5月22日 - 1978年(昭和53年)12月23日)は、日本の歴史学者・考古学者・美術史家。学位は、文学博士。専門はサンスクリット、石造美術の研究。京都市生まれ。 京都府京都市生まれ。京都市立第一商業学校(現:京都市立西京高等学校・附属中学校)卒業後、建築史家の天沼俊一に師事し、石造遺品への関心を深めた。1926年に自宅で書店をひらき、屋号をスズカケと称し、1928年にはスズカケ出版部を設け、『古美術史蹟 京都行脚』を刊行し、1929年、京都史蹟会の会誌『京都史蹟』の創刊に携わった。1930年、史迹美術同攷会(しせきびじゅつどうこうかい)を創立し、会の機関誌として研究雑誌『史迹と美術』を創刊した。
鎌原 正巳(かんばら まさみ、1905年5月14日 - 19… 鎌原 正巳(かんばら まさみ、1905年5月14日 - 1976年3月15日)は、日本の作家。 長野県埴科郡松代町(現:長野市)生まれ。松本高等学校文科乙類卒、京都帝国大学文科中退。 早稲田大学出版部にて雑誌編集等に携わる傍ら、1939年に古谷綱武、森三千代らと同人誌『文学草紙』を創刊。 1947年-1966年東京国立博物館に勤務し資料室長となる。 1954年「土佐日記」で芥川賞候補、「曼荼羅」で再度候補。70年文化財功労者となる。
石橋 岱城(いしばし たいじょう、1905年5月10日 - … 石橋 岱城(いしばし たいじょう、1905年5月10日 - 1936年9月25日)は、日本の宗教家。福岡県柳川市(旧 福岡県山門郡)出身で、京都帝国大学卒業後、浄土真宗本願寺派第22世法主鏡如(大谷光瑞)の秘書となり、内モンゴル・ハイラル(満州)に西本願寺末寺を開設した。本名は石橋 肇(いしばし はじめ)。 幼少の頃より聡明で、旧柳川藩主立花家から学年で一人だけに与えられる「殿さま御褒美」を毎年貰い神童と呼ばれた。矢留尋常高等小学校を卒業した14歳の時、柳川市恵比寿町の浄土真宗本願寺派法霊山西方寺へ上がって仏門に入り、そのつてから広島の同系寺院へ移り、広島高等師範学校を経て京都帝国大学へ進学。京都帝国大学卒業後、優秀な成績と人物を見込まれ、浄土真宗本願寺派第22世法主鏡如(大谷光瑞)の秘書となって薫陶を受けた。
東郷 豊治(とうごう とよはる、1905年4月28日 - 1… 東郷 豊治(とうごう とよはる、1905年4月28日 - 1969年3月17日)は、日本の心理学者、良寛研究家。 福井県敦賀市生まれ。1930年京都帝国大学文学部心理学科卒。1945年新潟県高田師範学校教授、1955年大阪外国語大学教授。 伝記『良寛』で1957年度読売文学賞受賞。堀口大學、鈴木虎雄と協力し良寛全集編さん・研究を行った。