権 煥(クォン・ファン、朝鮮語: 권환/權煥、1903年1月… 権 煥(クォン・ファン、朝鮮語: 권환/權煥、1903年1月6日 - 1954年7月30日)は、日本統治時代の朝鮮及び大韓民国の詩人。本貫は安東権氏。 本名は権 景完(クォン・ギョンワン、권경완)、または権 允煥(クォン・ユヌァン、권윤환)。 大韓帝国慶尚南道昌原郡鎮田面に生まれ、渡日し山形高校を経て京都帝国大学(現・京都大学)独文科卒業。1925年に雑誌『学潮』に作品を発表し、それに関連して拘束された。同時期に留学中であった金孝植や安漠、林和らと親交を結び、朝鮮プロレタリア芸術家同盟東京支部などで活躍した。1930年に林和らとともに帰国し朝鮮プロレタリア芸術家同盟を主導し、『行くなら行こう』(朝鮮之光1930年3月)、『頭を地まで下げるまで』(音楽と詩1930年8月)や、そのほか『無産芸術運動の別故と将来の展開策』、『朝鮮芸術運動の当面の具体的過程』などの文学批評を発表している。
栗原 善夫(くりはら よしお、1902年〈明治35年〉12月… 栗原 善夫(くりはら よしお、1902年〈明治35年〉12月26日 - 1977年〈昭和52年〉11月21日)は、日本の皮膚科学者、皮膚科医。医学博士。大阪医科大学名誉教授、日本皮膚科学会名誉会員。趣味は蝶の収集。 新潟県西蒲原郡味方村大字西白根(現 新潟市南区西白根)の白根尋常高等小学校訓導・栗原九十九の長男として出生。1908年(明治41年)4月の父の吉田尋常高等小学校への異動に伴って新潟県西蒲原郡吉田村(現 燕市)に転居。 吉田尋常高等小学校を経て、1921年(大正10年)3月に新潟中学校を卒業、1925年(大正14年)3月に新潟高等学校を卒業、1930年(昭和5年)3月に京都帝国大学医学部医学科を卒業。
大塚 正(おおつか ただし、1902年〈明治35年〉12月1… 大塚 正(おおつか ただし、1902年〈明治35年〉12月11日 - 没年不明)は、昭和時代前期の政治家。台湾総督府官僚。陸軍司政官。大阪府堺市長。 大阪市に生まれる。1927年(昭和2年)3月、京都帝国大学経済学部を卒業し、1930年(昭和5年)10月、高等試験行政科に合格する。1933年(昭和8年)5月、台湾総督府専売局書記を拝命し、1936年(昭和11年)10月、地方理事官に進み、台北州蘇澳郡守に任じた。その後、総督官房調査課外務企画各部勤務、新竹州花蓮港庁各総務課長などを経て、1942年(昭和17年)8月、陸軍司政長官に任じた。 戦後、堺市長を務めた。堺市長退任後の1960年(昭和35年)の第29回衆議院議員総選挙に旧大阪5区から自由民主党公認で立候補したが落選した。
大山 敷太郎(おおやま しきたろう、1902年12月1日 -… 大山 敷太郎(おおやま しきたろう、1902年12月1日 - 1975年1月31日)は、日本の経済学・経済史学者。 1902年、愛知県渥美郡花田村で生まれた。京都帝国大学経済学部で学び、1928年に卒業した。同大学大学院に進学。 1932年、京都帝国大学経済学部の助手に採用された。1933年から1940年まで、大蔵省の委託で『明治・大正財政史』の編纂にあたった。1941年、立命館大学経済学部教授に就いた。1950年、学位論文『近世交通経済史論』を立命館大学に提出して経済学博士の学位を取得。戦後の1956年、甲南大学経済学部教授。1973年に甲南大を定年退職し、名誉教授となった。1975年に死去。
高田 三郎(たかだ さぶろう、1902年〈明治35年〉11月… 高田 三郎(たかだ さぶろう、1902年〈明治35年〉11月14日 - 1994年〈平成6年〉5月12日)は、日本の西洋哲学史(中世哲学)研究者、京都大学名誉教授。 大阪府に生まれる。1927年(昭和2年)京都帝国大学文学部哲学科(西洋古代中世哲学専攻)卒業。同年大学院に進学。1929年(昭和4年)から1932年(昭和7年)までの3年間ヨーロッパに留学し、オックスフォード大学のウィリアム・デイヴィッド・ロス(英語版)や、ベルリン大学のヴェルナー・イェーガーらのもとで西洋古典哲学を学んだ。 帰国後に広島文理科大学哲学科に講師として赴任。1936年(昭和11年)同大助教授、1947年(昭和22年)より京都大学文学部助教授、1950年(昭和25年)同大教授、1966年(昭和41年)定年退官し名誉教授。
三宅 儀(みやけ ただし、1902年(明治35年)10月29… 三宅 儀(みやけ ただし、1902年(明治35年)10月29日 - 1993年(平成5年)5月18日 )は、岡山県高梁市出身の医学者。京都大学名誉教授。佳木斯医科大学講師、岐阜県立医科大学教授・学長心得(代理)を経て京大医学部教授となる。第21代京都大学医学部附属病院長、国立京都病院長を務めた。 1902年(明治35年)に岡山県川上郡大賀村(現:高梁市)で生まれる。その後、1915年(大正4年)旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高校)へ進学した。同校は、後に三宅の上司となる井上硬の出身校でもあり、三宅も井上と同じ学歴を歩むだけでなく、医者としても同じコースを歩むこととなる。 1920年(大正9年)に卒業し、旧制第六高等学校へ進学する。
磯部 喜一(いそべ きいち、1902年10月18日 - 19… 磯部 喜一(いそべ きいち、1902年10月18日 - 1987年8月15日)は、日本の経済学者・経営学者。専門は、工業経済学、中小企業論。東京工業大学・武蔵大学名誉教授。 大阪府大阪市生まれ。1926年京都帝国大学経済学部卒。1949年「日本漆器工業論」で、京都大学より経済学博士の学位を取得。1928年関西大学専任講師、助教授、教授、1944年東京工業大学生産工学部助教授、教授、1963年定年退官、名誉教授、広島大学工学部教授・武蔵大学教授。1972年武蔵大学名誉教授。日本工業経営学会会長。
奥村 竹之助(おくむら たけのすけ、1902年10月17日 … 奥村 竹之助(おくむら たけのすけ、1902年10月17日 - 1960年2月1日)は、日本の元ラグビー選手。主なポジションはセカンドロー (LO)。 大阪府大阪市靱出身。神戸一中(現:兵庫県立神戸高等学校)、第三高等学校を経て京都帝国大学へと進む。京大のラグビー部では主将を務め、本場、イギリスに倣い、『3・2・3』の8人制フォワードシステムを取り入れるなどした成果が現れ、東西学生ラグビーフットボール対抗王座決定戦で優勝に貢献。また、京大在籍時代に高等文官試験にも合格したが、1926年に卒業後は三菱商事に入社。三菱商事時代も、イギリス勤務時代は現地のクラブでプレーするなどして活動した他、谷村順蔵、吉田義人とともに、『全三菱ラグビー倶楽部』の結成に尽力した。
河盛 好蔵(かわもり よしぞう、1902年10月4日 - 2… 河盛 好蔵(かわもり よしぞう、1902年10月4日 - 2000年3月27日)は、日本のフランス文学者、評論家、翻訳家。仏文学者としてはモラリストの著作を日本に紹介した。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。 大阪府堺市出身。1920年に旧制大阪府立堺中学校から第三高等学校へ入学し、1923年に同校を卒業。京都帝国大学文学部仏文科で落合太郎・河野与一に師事。1926年、京都帝国大学仏文科を卒業して関西大学に赴任し、フランス語を教える。 1928年学校騒動で関西大学を辞職して渡仏し、ソルボンヌ大学に学ぶ。1930年に帰国。堺の生家でジャン・コクトー『山師トマ』を翻訳。 上京後、ファーブル『昆虫記』を三好達治と共訳。
大和田 弥一(おおわだ やいち、1902年(明治35年)9月… 大和田 弥一(おおわだ やいち、1902年(明治35年)9月10日 - 1999年(平成11年)3月13日)は、日本の政治家。初代福島県いわき市長。旧平市(現・いわき市)長。 福島県出身。弘前高校を経て、1927年、高等文官試験(行政科)に合格。1928年、京都帝国大学法律学科卒。卒業後は関東庁に勤務する。1936年、関東庁警察部長となり、1939年、帰国。帰国後は岩手、鳥取、茨城、京都、福島の各府県に勤務する。この間、司政官としてシンガポールに派遣される予定だったが、出発直前に終戦となり、派遣は取りやめになった。 終戦後は福島県総務部長となり、1947年、福島県副知事に就任。1953年の第3回参議院議員通常選挙において福島地方区から自由党公認で立候補したが落選した。
大谷 一雄(おおや かずお、1902年9月8日 - 1985… 大谷 一雄(おおや かずお、1902年9月8日 - 1985年6月28日)は、日本の実業家。住友化学元社長。富山県出身。 1928年に京都帝国大学法学部を卒業し、住友合資本社に入社した。 1935年に住友化学工業に転職、1944年から1946年まで住友金属工業で勤務したのち、1946年に住友化学工業に復帰し、1956年から専務を務め、1963年2月から1965年2月まで社長を務めた。 関西経済同友会幹事や全日本剣道連盟顧問、副会長なども務めた。 1963年11月に藍綬褒章を受章し、1972年11月に勲二等瑞宝章を受章。 1985年6月28日心筋梗塞のために大阪市内の病院で死去。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
青山 政次(あおやま まさじ、1902年8月31日 - 19… 青山 政次(あおやま まさじ、1902年8月31日 - 1999年10月20日)は、日本の実業家。京都セラミツク(現在の京セラ)社長を務めた。兵庫県出身。 1928年に京都帝国大学工学部電気工学科を卒業。日本電磁器、松風工業での勤務を経て、1959年に稲盛和夫らと共に京都セラミックを創立し、専務に就任し、1964年には社長に昇格。1966年には会長に就任し、1971年に取締役相談役を経て、1973年から監査役を務めた。 趣味は音楽で、1987年には私財を投じて、京都市郊外に青山音楽記念館を建設した。 1999年10月20日急性心筋梗塞のために死去。97歳没。
水谷川 忠麿(みやがわ ただまろ、1902年〈明治35年〉8… 水谷川 忠麿(みやがわ ただまろ、1902年〈明治35年〉8月27日 - 1961年〈昭和36年〉5月20日)は、日本の男爵、貴族院議員。旧姓、近衛。 公爵近衛篤麿の四男として生まれた。兄に内閣総理大臣の近衛文麿、指揮者の近衛秀麿、ホルン奏者の近衛直麿がいる。 男爵水谷川忠起の養子となり家督を相続する。学習院中等科時代から有島生馬について洋画を習い、画家を志す。学習院高等科在学中、1921年(大正10年)に養母堯子を亡くした。1923年(大正12年)京都帝国大学文学部哲学科に入学した直後に養父忠起を亡くし、男爵位を相続。京大在学中は京都帝大オーケストラに参加してオーボエを吹き、京都音楽協会の設立に参加。
安藤 徳器(あんどう とくき、1902年〈明治35年〉8月2… 安藤 徳器(あんどう とくき、1902年〈明治35年〉8月24日 – 1953年〈昭和28年〉1月15日)は、大正から昭和にかけての文筆家・翻訳者・報道記者。別名義として安藤十九木や杉森鵬程もあり、他にもXYZや十九気などの筆名もあったという。維新史の研究者から実録文学の執筆に転じ、また、西園寺公望や野口遵に関する書籍を特に多く出版した。 山口県岩国市の警察官・安藤徳明の子として生まれる。最初は軍人を志し、広島陸軍地方幼年学校第21期生として入学。善通寺歩兵第43連隊士官候補生を経て、陸軍士官学校第36期生となる。しかしこの後の安藤は、軍人としてのキャリアを進まなかった。 軍人の道を諦めた安藤は京都帝国大学史科に転じ、維新史を専攻した。
秋月 康夫(あきづき やすお、1902年8月23日 - 19… 秋月 康夫(あきづき やすお、1902年8月23日 - 1984年7月11日)は、日本の数学者。京都大学名誉教授。 自身の研究室から2人のフィールズ賞受賞者(広中平祐、森重文)を輩出している。 和歌山県出身。旧制大阪府立天王寺中学校四年修了、旧制第三高等学校卒業。1926年京都帝国大学理学部数学科卒業。第三高等学校教授を経て、1948年京都大学教授。退官後、1951年から東京教育大学教授を兼ね、京都大学数理解析研究所の設立に尽力。1967年群馬大学学長。 日本数学会理事を務め、専門の代数幾何学を研究し数学教育にも力を入れた。1984年7月11日死去。81歳。 ヴォルフガング・クルル、オスカー・ザリスキ、永田雅宜に並び、可換環論の初期の基本的かつ重要な仕事をしたことで有名である。
上原 準三(うえはら じゅんぞう、1902年(明治35年)8… 上原 準三(うえはら じゅんぞう、1902年(明治35年)8月19日 - 没年不明)は日本の弁護士、政治家。元鳥取県弁護士会長。元米子市教育委員長。元米子市会議員。 妻の美貴子は元鳥取県弁護士会長君野順三の長女で、弁護士 君野駿平の姉。 鳥取県八頭郡河原町(現:鳥取市)出身。弥太郎三男。 1927年(昭和2年)京都帝国大学法学部卒。1928年(昭和3年)判事、1931年(昭和6年)弁護士開業。 趣味は囲碁、長唄。宗教は真言宗。住所は米子市西町。 安田光昭(元鳥取県議会議員、米子市教育長)の著書『「あの人この人」私の交友録』130頁によると、「昭和三十一年公選制の教育委員に議会選出で、上原準三さんが出て来られた。
吉岡 金市(よしおか かねいち、1902年7月26日 - 1… 吉岡 金市(よしおか かねいち、1902年7月26日 - 1986年11月20日)は、日本の農学者。 岡山県井原市に生まれる。1930年京都帝国大学農学部農林経済学科を卒業する。倉敷労働科学研究所員、労働科学研究所を経て、岡山理科大学教授、同朋大学教授、金沢経済大学(現・金沢星稜大学)学長、龍谷大学教授などを歴任した。1961年、萩野昇とともに富山県神通川流域のイタイイタイ病の原因がカドミウムであることを突き止めた。ほかに1950年の第2回参議院議員通常選挙で全国区から立候補したが辞退した。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
森田 民夫(もりた たみお、1902年(明治35年)7月18… 森田 民夫(もりた たみお、1902年(明治35年)7月18日 - 没年不明)は、昭和時代前期の台湾総督府官僚。 和歌山県那賀郡に生まれる。1928年(昭和3年)3月、京都帝国大学経済学部を卒業し、同年高等試験行政科に合格。1930年(昭和5年)4月、台湾総督府内務局に出仕する。1933年(昭和8年)10月、地方理事官となり新竹州中壢郡守に任じ、花蓮港庁庶務課長、府事務官、興亜院事務官、官房情報課長などを歴任し、1942年(昭和17年)1月に官を辞し、皇民奉公会中央本部参事となった。
梯 明秀(かけはし あきひで、 1902年7月16日 - 1… 梯 明秀(かけはし あきひで、 1902年7月16日 - 1996年4月14日は、日本の哲学者(経済哲学)。立命館大学名誉教授。 ヘーゲル、マルクスを専門とし、京都学派左派の戦時下抵抗思想と三木哲学批判で知られる。 徳島県出身。1928年京都帝国大学文学部哲学科(社会学)卒。西田幾多郎・田辺元にも師事。唯物論研究会に所属するが、1938年に検挙され転向。戦後は第六高等学校教授を経て、1950年に立命館大学教授。1959年「資本論の学的体系性 マルクス主義経済哲学の基礎づけのために」で立命館大学経済学博士。立命館大学経済学部教授、1963年定年退任、名誉教授。橘女子大学教授。1964年に廃止された立命館大学吉田寮の寮監を務めていた。
三品 彰英(みしな あきひで、みしな しょうえい、1902年… 三品 彰英(みしな あきひで、みしな しょうえい、1902年7月5日 - 1971年12月19日)は、日本の歴史学者、神話学者。海軍教授、大谷大学教授、同志社大学教授、大阪市立博物館館長、佛教大学教授などを歴任。 1928年、京都帝国大学文学部史学科を卒業。戦前は、智山大学講師、京都帝国大学講師、海軍教授などを務めた。 戦後の1945年、海軍教授を退職して大谷大学講師となり、1946年に同教授、1955年から同志社大学教授を1960年まで務める。退職後は大阪市立博物館館長・佛教大学教授など歴任。朝鮮古代史で著名な東北大学名誉教授の井上秀雄などを指導したほかに、1960年から日本書紀研究会を主宰するなどして関西の日本古代史研究者を多く育てた。
淡野 安太郎(だんの やすたろう、1902年(明治35年)7… 淡野 安太郎(だんの やすたろう、1902年(明治35年)7月2日 - 1967年(昭和42年)9月28日)は、日本の哲学者。台北帝国大学助教授、東京大学教授、学習院大学教授を歴任。 兵庫県出身。京都帝国大学哲学科卒。台北帝国大学助教授、東京大学教養学部助教授、1957年教授、63年定年退官、学習院大学教授。専門はフランス哲学、社会思想史。
猪熊 兼繁(いのくま かねしげ、1902年7月1日 - 19… 猪熊 兼繁(いのくま かねしげ、1902年7月1日 - 1979年1月7日)は、日本の歴史学者、国学者。京都大学名誉教授。専門は日本法制史。 京都府京都市生まれ。父は有職故実学者の猪熊浅麻呂。祖父の猪熊夏樹は白鳥神社の10代宮司・宮中進講(皇族のための教師)。兄に猪熊兼幹。妻は吉村伊助の娘。子に猪熊兼勝。甥に猪熊兼年。孫に猪熊兼樹。 旧制第三高等学校文科乙類を経て、1928年に京都帝国大学法学部を卒業。1962年「倭国法研究序説」で京都大学より法学博士の学位を取得。 1947年京都大学法学部教授となり、1966年退官。 家学である有識故実の研究にも従事。京都の葵祭や時代祭、都をどりなどの時代考証を行った。
外島 健吉(としま けんきち、1902年6月30日 - 19… 外島 健吉(としま けんきち、1902年6月30日 - 1994年1月23日)は、日本の実業家。神戸製鋼所社長、会長を務めた。奈良県出身。 1927年に京都帝国大学工学部を卒業し、1932年11月に神戸製鋼所に入社した。1949年8月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1958年11月から社長に就任し、在任中は鉄鋼業界で初めてプラントの輸出に手掛けたり、同社で初の海外事務所を開設し、海外進出にも積極的に取り組んだ。1972年5月から1974年11月までに会長を務めた。 1976年11月から1982年10月までに神戸商工会議所会頭と日本商工会議所副会頭を務め、1981年の神戸ポートアイランド博覧会の開催に尽力した。
島 芳夫(しま よしお、1902年5月20日 - 1985年… 島 芳夫(しま よしお、1902年5月20日 - 1985年11月)は、日本の倫理学者、京都大学名誉教授。 福井県生まれ。1926年京都帝国大学文学部哲学科卒。1936年、同助教授、京大教授、1966年、定年退官、大谷大学教授。文学博士。
佐藤 匡玄(さとう きょうげん、1902年5月19日 - 1… 佐藤 匡玄(さとう きょうげん、1902年5月19日 - 1993年10月7日)は、日本の東洋学者、教育者。第2代愛知学芸大学(現・愛知教育大学)学長、東方文化研究所研究員、建国大学助教授などを務めた。 愛知県豊橋町または豊岡村に生まれる(現在の豊橋市東田町)。京都帝国大学文学部支那哲学科卒業。1935年(昭和10年)、第三高等学校講師となる。 1938年(昭和13年)から2年間、文部省文化事業部在支特別研究員として中国に留学した。1940年(昭和10年)、東方文化研究所研究員を命ぜられる。1941年(昭和16年)、満州国の建国大学助教授に就任。東洋文化の解明に学究的情熱を傾注した。 終戦まで建国大学に在職。
武安 千春(たけやす ちはる、1902年 <明治35年> 4… 武安 千春(たけやす ちはる、1902年 <明治35年> 4月29日 - 1991年 <平成3年> 2月13日)は、日本の経営者。日本セメント社長、会長を務めた。山口県出身。位階は正四位。 1927年に京都帝国大学経済学部を卒業し、同年4月に浅野セメント(のちの日本セメント)に入社。1949年12月に取締役に就任し、1961年12月に常務、1964年12月に副社長を経て、1966年12月には社長に就任。1974年12月に会長に就任し、1982年7月には相談役に就任。 1972年11月に勲二等瑞宝章を受章。 1991年2月13日呼吸不全のために死去。88歳没。死没日付をもって正八位から正四位に進階した。
豊田 幸太郎(とよた こうたろう、1902年(明治35年)4… 豊田 幸太郎(とよた こうたろう、1902年(明治35年)4月21日 - 1979年(昭和54年)6月29日)は、昭和期の地方公務員、政治家。徳島市長。 徳島県三好郡三野町芝生(現在の三好市)に生まれ、京都帝国大学法学部を卒業。 1947年、徳島市助役、1951年、徳島県出納長に就任。1959年から1967年まで徳島市長を2期務めた。市長在任中は徳島刑務所の移転や徳島市立高等学校の創設などを手掛けた。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
東畑 謙三(とうはた けんぞう、1902年4月11日 - 1… 東畑 謙三(とうはた けんぞう、1902年4月11日 - 1998年4月29日)は、日本の建築家。 三重県一志郡豊地村(現:松阪市)の地主の家に生まれた。東畑吉之助の三男。 1923年に第三高等学校理科乙類、1926年に京都帝国大学工学部建築学科を卒業。1932年に東畑謙三建築事務所を設立。以後、武田五一の弟子として関西の建築業界を牽引した。日本建築家協会名誉会長。日本建築学会名誉会員。
門田 勲(かどた いさお、1902年3月20日 - 1984… 門田 勲(かどた いさお、1902年3月20日 - 1984年10月27日)は、ジャーナリスト。 東京生まれ。1927年京都帝国大学法学部卒。東京朝日新聞入社、社会部長、学芸部長、1950年大阪本社編集局長。学生時代は、京大教授・厨川白村の息子(厨川文夫)の家庭教師をしていた。鎌倉に住んでおり、『外国拝見』には川端康成の推薦文がついた。
梅溪 通虎(梅渓、うめたに みちとら、1902年(明治35年… 梅溪 通虎(梅渓、うめたに みちとら、1902年(明治35年)3月8日 - 1984年(昭和59年)8月9日)は、昭和期の実業家、政治家、華族。貴族院子爵議員。旧姓・松平。梅溪家12代当主。 三重県で、実業家・松平家晃、則子夫妻の二男として生まれる。生まれてすぐ母方の梅溪家当主・梅溪通魯の養子となり、養父の死去に伴い、1920年(大正9年)6月21日に子爵を襲爵した。 1925年(大正14年)3月、京都帝国大学法学部法律学科を卒業。さらに同大学院を修了した。日本鉱業監査役、日本水産本店庶務課長、日本海洋漁業統制(株)理事などを務めた。 1945年(昭和20年)10月25日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し、1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
坂野 常礼(さかの つねひろ、1902年(明治35年)2月2… 坂野 常礼(さかの つねひろ、1902年(明治35年)2月27日 - 没年不明)は、日本の実業家。阪急バス監査役。 岡山県出身。坂野鉄次郎の長男。1927年、京都帝国大学法科卒業。新京阪電鉄に入社。1954年、関西観光自動車専務取締役に就任。 宗教は日蓮宗。趣味は囲碁、園芸。住所は兵庫県芦屋市宮塚町。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
西山 市三(にしやま いちぞう、1902年〈明治35年〉2月… 西山 市三(にしやま いちぞう、1902年〈明治35年〉2月19日 - 1999年〈平成11年〉7月16日)は、日本の遺伝学者。京都大学名誉教授・農学博士。専門は細胞遺伝学。位階は正四位。 群馬県利根郡沼田町(現在の沼田市)町田町に生まれる。旧制沼田中学校(現・群馬県立沼田高等学校)を経て、京都帝国大学農学部農林生物学科に入学、木原均に就いて学び、1927年に卒業。 卒業後は同大学でカラスムギの細胞遺伝の研究に取り組む。1937年に助教授、1946年には教授となり、同大食糧科学研究所に勤務。1956年、京都大学農学部に配置替えとなる。1965年定年により退官、同大学名誉教授となる。 退官後も1965年から67年まで米国ウィスコンシン大学客員教授、1967年から68年までミズーリ大学客員教授、帰国後の1971年から84年まで財団法人木原研究所評議員、1972年から74年まで名城大学教授を務めた。
土井 虎賀壽(どい とらかず、1902年2月19日 - 19… 土井 虎賀壽(どい とらかず、1902年2月19日 - 1971年3月10日)は、哲学者・文学者。香川県出身。 香川県木田郡の医師の家に生まれる。旧姓久保。第三高等学校理科乙類(ドイツ語クラス)から京都帝国大学理学部(物理)へ進むが、哲学科へ再入学、1926年卒業。学生時代は大山定一と下宿が同じで、親友であった。卒業後いったん実家に帰り女学校に勤め結婚する。しかし、二年で妻に先立たれ京都へ戻って大学院に進む。1929年、三高講師となる。1941年、三高教授、京都帝国大学講師となる。1948年、三高、京大を辞職、東京大学仏文科大学院に入学して二年間学ぶ。1953年、相模女子大学教授、学習院大学講師となる。
川上 六馬(かわかみ むつま、1902年(明治35年)2月1… 川上 六馬(かわかみ むつま、1902年(明治35年)2月13日- 1986年(昭和61年)7月28日)は、日本の医学者であり、満州国ハンセン病療養所・同康院の初代院長を務めた後、厚生省医務局長を務めた。国立がん研究センターの設立に深く関わり、顧問となっている。岡山県高梁市出身。位階は正五位。 1902年(明治35年)岡山県川上郡成羽町吹屋(現:高梁市)の川上佐源太の三男として出生する。地元の旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学し、同期には、京都大学医学部名誉教授になる三宅儀、言語学者の鳴瀬恒太郎がいた。1920年(大正10年)同校を卒業し、慶應義塾大学予科へ進学する。その後、慶應義塾大学医学部へ入学し、小林六造教授に従う。
李 泰圭(イ・テギュ、朝鮮語: 이태규、1902年1月26日… 李 泰圭(イ・テギュ、朝鮮語: 이태규、1902年1月26日 - 1992年10月26日)は、大韓民国の化学者。日本の植民地統治期には数少ない朝鮮人の博士号取得者・帝国大学教員の一人であった。 本貫は全州李氏。政治家の李会昌の伯父に当たる。 大韓帝国忠清南道礼山郡に生まれた。京城高等普通学校を経て1922年に広島高等師範学校(現・広島大学)を卒業。 1927年に京都帝国大学理学部(現在の京都大学理学部)化学科を卒業し、1931年に『還元ニッケルの存在に於ける一酸化炭素の分解』という論文で理学博士号を取得した。 その後、同大学で教鞭を執り、1935年には同大学化学研究所助教授、1938年にプリンストン大学に派遣され研究者として在職し、1941年に京都帝国大学に戻り量子化学を研究、1943年に化学研究所教授となった。
田所 怜(たどころ さとし、1902年1月10日 - 198… 田所 怜(たどころ さとし、1902年1月10日 - 1983年11月12日)は、日本の経営者。日鉄鉱業社長を務めた。高知県出身。 1925年に京都帝国大学法学部政治学科を卒業し、1928年に八幡製鉄所に入社した。1934年に日本製鉄を経て、1946年に日鉄鉱業に転じ、1947年に取締役に就任し、1954年に常務を経て、1961年11月に副社長に就任し、1963年11月から1967年11月までに社長を務めた。 1983年11月12日老衰のために死去。81歳没。
今西 錦司(いまにし きんじ、1902年(明治35年)1月6… 今西 錦司(いまにし きんじ、1902年(明治35年)1月6日 - 1992年(平成4年)6月15日)は、日本の生態学者、文化人類学者、登山家。京都大学名誉教授、岐阜大学名誉教授。位階は従三位。日本の霊長類研究の創始者として知られる。理学博士(京都帝国大学・1939年)。京都府出身。 今西の活動は登山家、探検隊としてのものと、生態学者としてのものがあり、彼の中では両者が不可分に結びついている。探検家としては国内で多くの初登頂をなし、京都大学白頭山遠征隊の隊長などを務めた。生態学者としては初期のものとしては日本アルプスにおける森林帯の垂直分布、渓流の水生昆虫の生態の研究が有名である。後者は住み分け理論の直接の基礎となった。
井上 定雄(いのうえ さだお、1902年1月1日 - 198… 井上 定雄(いのうえ さだお、1902年1月1日 - 1985年8月23日)は、日本の実業家。京王帝都電鉄(現:京王電鉄)代表取締役社長(第2代)。京王プラザホテル代表取締役社長(初代)。東急車輛製造(現:総合車両製作所)取締役。 西新宿(淀橋浄水場跡地)で初の超高層ビルとなった京王プラザホテルの創業者であり、“西新宿をつくった男”の異名がある。京王帝都電鉄の初代社長であった三宮四郎の後任として、1960年代の高度成長期に京王帝都電鉄と京王グループの発展に寄与した。 京王電気軌道の実力者で30年の長きにわたって社長を務めた井上篤太郎とは、同姓であるが血縁関係は無い。旧京王電気軌道ではなく、旧小田急電鉄の出身者である。
小林 太市郎(こばやし たいちろう、1901年12月27日 … 小林 太市郎(こばやし たいちろう、1901年12月27日 - 1963年5月7日)は、美術史家・芸術学者。 京都西陣生まれで生家も西陣織の織り元である。母テウは京都御所の東で塾を開いていた宮津藩士宮城盛信の次女。京都帝国大学哲学科卒。 ソルボンヌ大学に三年間留学し、帰国後、東方文化学院研究嘱託、大阪市立美術館学芸員を経て、1950年、神戸大学教授となり芸術学の講座を担当した。1947年、『大和絵史論』で毎日出版文化賞受賞(また、同論文によって東大より博士号を授与されている)。没後、淡交社から『小林太市郎著作集』が刊行された。膨大な蔵書が神戸大学に寄贈され、神戸大学人文科学図書館に「小林文庫」として保管されている。
栗本 順三(くりもと じゅんぞう、1901年 <明治34年>… 栗本 順三(くりもと じゅんぞう、1901年 <明治34年> 12月16日 - 1979年 <昭和54年> 4月28日)は、昭和時代の経営者。位階は正四位。勲二等旭日重光章。 1901年(明治34年)12月16日生まれ。 生家は江戸時代末期に華岡青洲を生んだ華岡家。 栗本鐵工所創業者の栗本勇之助に見込まれ養子となる。 1927年(昭和2年)、京都帝国大学工学部電気工学科を卒業し、栗本鐵工所に入社。常務、専務を経て社長、会長をつとめる。 この間、大阪商工会議所副会頭、大阪市助役、阪神高速道路公団理事長、大阪府教育委員長、関西経済連合会副会長、帝塚山学院理事長などの要職を歴任した。 1979年(昭和54年)、77歳で死去。
平井 寛一郎(ひらい かんいちろう、1901年 <明治34年… 平井 寛一郎(ひらい かんいちろう、1901年 <明治34年> 12月15日 - 1978年 <昭和53年> 1月23日)は、日本の経営者。京都府京都市出身。位階は従三位。勲一等瑞宝章。 1930年に京都帝国大学工学部電気学科を卒業し、同年に大同電力に入社。日本発送電を経て、1952年11月に関西電力取締役に就任し、1958年5月に常務を経て、1959年11月に副社長を経て、1962年12月に東北電力社長に就任。1969年11月に会長に就任。 1960年に藍綬褒章を受章し、1973年4月に勲二等旭日重光章を受章。 1978年1月23日脳梗塞のために死去。76歳没。死没日付をもって従三位に叙され、勲一等瑞宝章を追贈された。
豊崎 稔(とよさき みのる、1901年11月28日 - 19… 豊崎 稔(とよさき みのる、1901年11月28日 - 1984年9月13日)は、日本の経済学者。京都大学名誉教授。 1901年、徳島県徳島市生まれ。徳島県立徳島中学校(現徳島県立城南高等学校)を卒業し、山口高等商業学校を経て、1927年東北帝国大学法文学部経済学科を卒業した。 卒業後、母校の東北帝国大学助手に採用。1931年より大阪商科大学講師。1932年に同助教授、1941年に同教授に昇進。1945年に大阪商科大学に学位論文を提出して経済学博士号を取得。1946年、京都帝国大学経済学部教授となった。1949年より経済学部長。1951年からは日本学術会議会員となった。また、1959年税制調査会委員。
楠根 宗生(くすね むねお、1901年10月25日 - 19… 楠根 宗生(くすね むねお、1901年10月25日 - 1989年8月10日)は、日本の実業家。 西日本鉄道社長を務め、西鉄ライオンズオーナーも歴任した。 1901年10月25日に大分県中津市で生まれる。1931年に京都帝国大学経済学部を卒業し、翌年に西日本鉄道の前身である九州電気軌道に入社した。 庶務課長、総務部長、取締役を経て1963年から社長に就任し、西鉄ライオンズのオーナーにも就任した。しかし、社長在任時に黒い霧事件が発生し、チームの八百長事件の責任を取る形で1970年に社長と球団オーナーを辞任した。社長は吉本弘次が、球団オーナーは木本元敬が継いだ。 1966年に藍綬褒章を受章し、1973年に勲二等瑞宝章を受章した。
近藤 文二(こんどう ぶんじ、1901年10月24日 - 1… 近藤 文二(こんどう ぶんじ、1901年10月24日 - 1976年11月25日)は、日本の経済学者。大阪市立大学名誉教授。保険学、社会保障論を研究。 戦前から保険の歴史や民間保険を研究。1942年の共著『労働者年金保険法論』では「戦費調達説」を提起し、同書刊行または1948年の『社会保険』刊行の頃から社会保険の研究に関心を移した。社会保険を重視する社会保障論を展開し、社会保険の社会事業化・公的扶助化を批判した。1963年の『社会保険』は「社会保険に関する理論・歴史・政策が三位一体となったこの分野の名著」「近藤自身のこれまでの研究の総仕上げ」だと評価されている。第6回日経・経済図書文化賞を受賞した。
曽我部 静雄(そがべ しずお、1901年10月7日 - 19… 曽我部 静雄(そがべ しずお、1901年10月7日 - 1991年1月2日)は、日本の東洋史学者。 徳島県美馬郡美馬町(現美馬市)出身。1927年京都帝国大学文学部史学科卒、1947年「宋代財政史」で文学博士。 京都帝大副手、東北帝国大学法文学部助教授を経て、1940年教授。東北大学教授、1965年定年退官し名誉教授。1966年国士舘大学教授。1973年退職。
木村 常信(きむら つねのぶ、1901年9月4日 - 199… 木村 常信(きむら つねのぶ、1901年9月4日 - 1991年4月24日)は、日本の民法学者。京都大学名誉教授。長女は推理小説家の山村美紗、長男は政治学者で北海道大学名誉教授の木村汎、孫は女優の山村紅葉。
宮崎 市定(みやざき いちさだ、1901年〈明治34年〉8月… 宮崎 市定(みやざき いちさだ、1901年〈明治34年〉8月4日 - 1995年〈平成7年〉5月24日)は、日本の東洋史家。京都大学名誉教授。 1901年、長野県下水内郡秋津村(現在の飯山市)静間で宮崎市蔵・悦の次男として生まれた。父の市蔵は、飯山小学校の教師であった。 その後、秋津小学校、県立飯山中学校(現:長野県飯山北高等学校)を卒業し、1919年に新設まもない松本高校(現:信州大学)文科甲類に入学する。同校の後輩には、後の東洋史学者、曽我部静雄と仁井田陞がいた。 1922年に京都帝国大学文学部史学科に入学、東洋史を専攻し、内藤湖南・桑原隲蔵・羽田亨・狩野直喜らに師事する。卒業論文は、南宋滅亡期の中国社会と北方民族との交渉の一場面を題目とした。
山崎 敏夫(やまざき としお、1901年〈明治34年〉7月3… 山崎 敏夫(やまざき としお、1901年〈明治34年〉7月30日 - 1978年〈昭和53年〉4月3日)は、日本の歌人・国文学者。愛知県立大学元学長、同大名誉教授。位階は従三位。勲二等瑞宝章受章。 東京出身。第八高等学校卒、1926年京都帝国大学文学部国文科卒。八高時代石井直三郎に師事し、歌誌「青樹」を経て「水甕」(尾上柴舟)所属。愛知県立第一高等女学校(愛知県立明和高等学校の前身の一つ)校長などを経て、愛知県立女子大学教授、1964年学長、1966年愛知県立大学学長を務めた。1969年定年退官、名誉教授となり、椙山女学園大学短期大学部教授を務め、1977年退職。1972年勲二等瑞宝章受章。1978年死去。
日野 草城(ひの そうじょう、1901年(明治34年)7月1… 日野 草城(ひの そうじょう、1901年(明治34年)7月18日 - 1956年(昭和31年)1月29日)は、日本の俳人。東京都出身。本名は克修(よしのぶ)。 『ホトトギス』で学んだ後、『旗艦』を創刊、男性が眼差す女性のエロスを主題とした句や無季俳句を作り、昭和初期の新興俳句運動を主導。戦後は『青玄』を創刊・主宰し、一転して静謐な句を作った。 東京市下谷区上野山下町(現在の東京都台東区上野)に生まれる。1905年より朝鮮に移住し、京城(現在のソウル特別市)の小学校を経て京城中学校(現在のソウル高等学校)で学ぶ。その後帰国し、1918年、第三高等学校第一部乙類(英文科)入学。歌俳をたしなんだ父の影響で、草城もその影響で10代から文学に親しんだ。
竹脇 又一郎(たけわき またいちろう、1901年 <明治34… 竹脇 又一郎(たけわき またいちろう、1901年 <明治34年> 7月11日 - 1979年 <昭和54年> 6月29日)は、日本の物理学者。主な著書に「物理学」(三省堂)がある。大阪大学名誉教授。位階は正四位。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。