小竹 文夫(おだけ ふみお、1900年1月18日 - 196… 小竹 文夫(おだけ ふみお、1900年1月18日 - 1962年10月16日)は、日本の東洋史学者。 1900年、石川県で生まれた。上海の東亜同文書院で学び、1922年6月に卒業後(第19期生)。1928年。その後、京都帝国大学文学部東洋史学科を卒業。 修了後は、東亜同文書院大学教授となった。 戦後は金沢大学、東京教育大学で教授を務めた。1961年、学位論文『清代社会経済史の基礎研究:人口と耕地の問題』を東京教育大学に提出して文学博士号を取得。1962年に死去。 司馬遷『史記』の全訳を弟の小竹武夫と共に行った。
宮崎 松記(みやざき まつき、1900年(明治33年)1月1… 宮崎 松記(みやざき まつき、1900年(明治33年)1月10日 - 1972年(昭和47年)6月14日)は、日本の医学者。国立療養所菊池恵楓園の園長を勤め、その後インドで救らいセンターを作った。ハンセン病研究・患者の治療を行い、「日本のシュヴァイツァー」と呼ばれた。熊本県八代市日奈久町生まれ。位階は従三位。 第五高等学校学生時代、ハンナ・リデルの回春病院にいきハンセン病に興味をもつ。京都帝大をへて大阪赤十字病院外科部長。1934年(昭和9年)九州療養所所長。本妙寺事件、龍田寮事件などに関与した。1951年(昭和26年)の参議院に参考人として招かれ、光田健輔と共に隔離政策の強化を主張したが、批判をあび、後に発言を取り消した。
三木 克己(みき かつみ、1900年 - 1972年)は日本… 三木 克己(みき かつみ、1900年 - 1972年)は日本の中国文学者。 1900年兵庫県生まれ。1972年死去。京都大学中国文学科卒。大谷大学教授を務める。三木清の弟。 古今東西の文学、特に小説を耽読する。中国の史書が時に小説よりも小説的であることを、いち早く見抜いていた。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
堀 健夫(ほり たけお、1899年12月7日 - 1994年… 堀 健夫(ほり たけお、1899年12月7日 - 1994年6月9日)は、日本の物理学者。 富山県生まれ。京都帝国大学理学部物理学科を1923年に卒業、旅順工科大学教授を経て、1935年(昭和10年)、北海道帝国大学理学部教授となる。分子が発する光のスペクトルを実験的に調べ、量子力学を使って解析するという、分光学の実験的研究を行い、この分野の後進の育成にもあたった。戦後は二度にわたって北海道大学低温科学研究所の所長を務め、霧についての「総合的研究」をリードする。北大を辞してからは、関西学院大学、京都産業大学で教壇に立った。 堀は25歳のとき京都の旧制第三高等学校で講師として力学の授業を担当する。
池田 勇人(いけだ はやと、1899年〈明治32年〉12月3… 池田 勇人(いけだ はやと、1899年〈明治32年〉12月3日 - 1965年〈昭和40年〉8月13日)は、日本の政治家、大蔵官僚。同国58,59,60代内閣総理大臣。 大蔵次官、衆議院議員(7期)、大蔵大臣(第55・61・62代)、通商産業大臣(第2・6・17代)、経済審議庁長官(第3代)、自由党政調会長・幹事長などを歴任した。全日本居合道連盟創立者及び初代会長。 大蔵官僚を経て終戦後まもなく政界入りすると、吉田茂の右腕として頭角を顕し、第3次吉田内閣の外交・安全保障・経済政策に深く関与した。佐藤栄作と並ぶ「吉田学校」の筆頭格である。保守合同後は自民党の宏池会の領袖として一派をなし、1960年に首相に就任した。
石山 脩平(いしやま しゅうへい、旧姓:小林、1899年11… 石山 脩平(いしやま しゅうへい、旧姓:小林、1899年11月18日 - 1960年6月18日)は、日本の教育学者。東京教育大学初代教育学部長。専門はギリシア教育史。梅根悟とともに教育課程「コア・カリキュラム」を推進した。伝統的な三読法(通読・精読・味読)を提唱した。 静岡県出身。静岡県浜松師範学校、東京高等師範学校を経て、1929年に京都帝国大学文学部哲学科を卒業。東京文理科大学教授、1949年、東京教育大学初代教育学部長。1952年、「ポリス教育の成立と性格」で広島文理科大学より文学博士の学位を取得。1955年6月、小、中学校における教科書関係事件に関し衆議院行政監察特別委員会に証人喚問された。
16代上山 勘太郎(うえやま かんたろう、前名・英夫、189… 16代上山 勘太郎(うえやま かんたろう、前名・英夫、1899年〈明治32年〉11月3日 - 1984年〈昭和59年〉1月8日)は、日本の実業家。大日本除虫菊会長を務めた。大日本除虫菊の創業者上山英一郎の三男。同社会長を務めた上山英介の実父、同じく会長を務めた上山直武の養父。 和歌山県有田郡保田村山田原(現・有田市山田原)出身。1924年、京都帝国大学経済学部卒業。日本勧業銀行に入り、検査役・鑑定役・大阪支店副支配人などを歴任し、1938年、退職して大日本除虫菊会社副社長に就任。1943年、勘太郎を襲名し第3代社長に就任。1981年、会長に就任。 上山英一郎の三男、十五代勘太郎、英三の弟であり、1932年に分家した。
那波 光正(なわ みつまさ、1899年11月3日 - 196… 那波 光正(なわ みつまさ、1899年11月3日 - 1968年12月7日)は、岐阜県出身の実業家・興行師。京都帝国大学卒業。株式会社東京楽天地社長などを歴任した。土木工学者・鉄道官僚の那波光雄は父。日本郵船社長の有吉義弥は義兄。 1899年(明治32年)11月3日に岐阜県に生まれた。父は土木工学者・鉄道官僚の那波光雄である。愛媛県の旧制松山高等学校を第1回生として卒業後、1926年(大正15年)に京都帝国大学法学部を卒業した。旧制松山高校の同窓には後に三和銀行頭取となる上枝一雄、後に日本郵船社長となる有吉義弥などがいた。大学卒業後には小林一三が率いる東宝グループの阪神急行電鉄、東京瓦斯、東京宝塚劇場などに勤務した。
篠田 統(しのだ おさむ、1899年9月21日 - 1978… 篠田 統(しのだ おさむ、1899年9月21日 - 1978年8月10日)は、日本の食物史学者。東アジア食物史の開拓者として知られる。栄養生理学から食物史研究に転じた。 大阪府出身。1923年京都帝国大学理学部化学科卒業、同大学院動物学科に入学。1926年から1928年までユトレヒト大学(オランダ)、ミュンヘン大学(ドイツ)、ナポリ水族館(イタリア)に留学。1928年ユトレヒト大学から学位授与。1929年、京都帝大講師、同年「昆虫の腸の分泌に就て」で京大理学博士。1938年、関東軍防疫技師として従軍し、1940年には北支軍軍医部所属として昆虫防疫に従事。1945年8月まで北京衛生試験所技師を勤め、同年12月に引き揚げた。
砂野 仁(いさの まさし、1899年9月15日 - 1979… 砂野 仁(いさの まさし、1899年9月15日 - 1979年6月30日)は、日本の実業家。川崎重工業社長、会長を務めた。 京都府与謝郡加悦町出身。1926年に京都帝国大学経済学部を卒業し、1927年に川崎造船所に入社した。主に労務畑に携わり、1954年に川崎航空機副社長に就任し、同社の再建に尽力し、1959年に川崎重工業取締役に就任し、1961年12月に社長に就任した。1969年12月から1973年11月までに会長を務めた。 1969年6月から1976年11月までに神戸商工会議所会頭と日本商工会議所副会頭を務め、日本ルーマニア経済委員会会長、ソ連東欧貿易会会長、関西経済連合会常任理事なども歴任した。
八木 日出雄(やぎ ひでお、1899年(明治32年)8月18… 八木 日出雄(やぎ ひでお、1899年(明治32年)8月18日 - 1964年(昭和39年)5月6日)は日本の医学者、医師(産婦人科医)。岡山大学教授、同大医学部長、1958年-1962年まで第3代学長などを歴任した。義兄(妻の兄)に競泳選手の松沢一鶴。 兵庫県出身。第三高等学校(旧制)、京都帝国大学を卒業し、岡山医科大学(旧制)教授に招かれ産婦人科教室を主宰した。新制岡山大学に移行し、同医学部教授となる。昭和32年8月医学部長、翌33年6月1日より昭和37年5月31日まで岡山大学長(第3代)に就任。 第三高等学校在学時代からエスペラントに惹かれ、普及のための講演活動に従事したが、生涯継続した。
柴田 等(しばた ひとし、1899年8月12日 - 1974… 柴田 等(しばた ひとし、1899年8月12日 - 1974年2月17日)は、昭和期の農林官僚。戦後、千葉県知事となる。宮崎県出身。 1928年(昭和3年)、京都帝国大学農学部から農林省に入る。戦時中は大東亜省に出向してハノイ・サイゴンの両総領事を務める。戦後は物価庁に移った。 日本国憲法が施行された1947年(昭和22年)、旧知であった千葉県の元県議会議長・川口為之助が初代民選県知事となると、農業再建を掲げる川口の依頼で千葉県副知事となった。ところが、3年後の1950年(昭和25年)に川口が突如知事を辞任すると、国民民主党・日本社会党両党の支援を受けて県知事に初当選して以後3期務めた。だが、県議会の大半を抑えた自由党を野党にした事から県政運営に苦慮してきたが、当時は保守・革新両陣営ともに離合集散の時代が続き、県議会でもこれに中立な立場を取る立場を取る無所属会派「千葉クラブ」の台頭もあり、不安定ながらも知事の地位を維持してきた。
加藤 辨(弁)三郎(かとう べんざぶろう、1899年(明治3… 加藤 辨(弁)三郎(かとう べんざぶろう、1899年(明治32年)8月10日 - 1983年(昭和58年)8月15日)は、日本の実業家。協和醱酵工業(現:協和キリン)会長。従三位勲一等。工学博士。 島根県簸川郡荒茅村(現:出雲市荒茅町)に加藤伊三郎の長男として生まれた。生家は代々清酒醸造業を営んでいたが祖父の代に没落。父は村役場の書記をしていた。1923年京都帝国大学工学部卒業。四方合名会社(現:宝ホールディングス)に入社。1949年協和醱酵工業株式会社が発足。代表取締役社長に就任。1968年同社取締役会長に就任。 1952年在家仏教協会を設立。1961年東レ科学技術賞受賞。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。
細野 史郎(ほその しろう、1899年8月1日 - 1989… 細野 史郎(ほその しろう、1899年8月1日 - 1989年5月6日)は、日本の医者。東洋医学の発展に貢献した人物の一人。 京都府綾部市出身。1927年京都帝国大学医学部卒業。幕末から明治時代にかけて活躍した浅田宗伯の流れを汲む漢方医学の医師新妻良輔の弟子となり、東洋医学を学んだ。弟子には坂口弘らがいる。1950年に日本東洋医学会が設立され、坂口らとともに参加した。また、漢方エキス製剤の臨床研究を重ね、今日のエキス製剤による漢方治療の道を開いた。
松方 三郎(まつかた さぶろう、1899年(明治32年)8月… 松方 三郎(まつかた さぶろう、1899年(明治32年)8月1日 - 1973年(昭和48年)9月15日)は、日本の登山家、ジャーナリスト、実業家。ボーイスカウト日本連盟第6代総長。共同通信社専務理事、東京ロータリークラブ会長。従三位勲一等瑞宝章。松方家第3代当主。本名は義三郎。筆名として後藤 信夫(G.N.)など。 日本の登山界の草分けの一人で、キスリング・ザックを日本に紹介し、その名称を定着させた人物でもある。 父は明治の元勲で第4代、第6代内閣総理大臣の松方正義。兄は川崎造船所(現・川崎重工)、川崎汽船、国際汽船などの社長を務めた松方幸次郎(幸次郎は三男、義三郎は十五男の末子である)。
望月 信成(もちづき しんじょう、1899年6月14日 - … 望月 信成(もちづき しんじょう、1899年6月14日 - 1990年5月28日)は、日本の美術史学者。 1899年、京都府京都市で生まれた。東京帝国大学文学部美学美術史学科を卒業し、大学院は京都帝国大学大学院に進んだ。1929年に京都帝国大学大学院を修了。 卒業後の1929年9月に、恩賜京都国立博物館鑑査員となった。1931年4月より文部省帝国美術院付属美術研究所嘱託を勤め、1936年に大阪市美術館主事に転じた。 1949年9月に大阪市立美術館館長に任命され、1950年には大阪市立大学教授にも任命された。大阪府史跡名勝天然記念物調査協力委員など多数の役職を兼ね、大阪の文化の発展に尽くした。1965年に大阪市立美術館を定年退職した後は、帝塚山学院大学教授として教鞭をとった。
左藤 義詮(さとう ぎせん、1899年〈明治32年〉6月3日… 左藤 義詮(さとう ぎせん、1899年〈明治32年〉6月3日 - 1985年〈昭和60年〉1月9日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)、参議院議員(3期)、防衛庁長官(第9代)、大阪府知事(公選第4代 - 6代)。学校法人大谷学園理事長(第2代)。郵政大臣、法務大臣、国土庁長官を歴任した左藤恵は息子。 三重県出身。1924年、京都帝国大学文学部卒業。 欧米留学の後、真言宗京都大学、臨済宗大学、神戸高等商船学校の教授を経て1946年4月、第22回衆議院議員総選挙で大阪府第2区に日本自由党から出馬し当選し、衆議院議員を1期務める。 1958年、第2次岸内閣で防衛庁長官として初入閣。9月2日から9月16日にかけて衆議院決算委員会において航空機購入問題で現役閣僚として証人喚問を受ける。
春木 榮(はるき さかえ、1899年5月23日 - 2000… 春木 榮(はるき さかえ、1899年5月23日 - 2000年10月25日)は、昭和時代の研究者、経営者。島根県出身。京都帝国大学卒。富士フイルム株式会社社長を歴任。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
李 晶来(イ・ジョンネ、朝鮮語: 이정래/李晶來、1899年… 李 晶来(イ・ジョンネ、朝鮮語: 이정래/李晶來、1899年5月7日 - 1989年7月28日)は、大韓民国の実業家、政治家。制憲・第5・6代韓国国会議員。 本貫は広州李氏(朝鮮語版)。号はウギョン(우경)。4人息子のうち2人は記者で1人は画家。妻の実家は潭陽郡昌平面で、元国務総理の李漢基(朝鮮語版)の父とは同郷であり、李晶来は彼の母方のおばの夫に当たる。 全南宝城兼白面またはソウル市鐘路区出身。私立中央学校3学年修了。正則英語学校を経て、早稲田大学専門部政治経済学科修了。1943年、京都帝国大学(現・京都大学)経済学部卒。1932年からソウル市鐘路で東光堂書店・出版社を経営し、代表取締役を務めた。
廣田 壽一(ひろた ひさかず、1899年5月7日 - 198… 廣田 壽一(ひろた ひさかず、1899年5月7日 - 1984年1月15日)は昭和期の実業家。住友金属工業元社長・会長。 京都府出身。1923年に京都帝国大学工学部卒業後、住友製鋼所へ入社。1949年に新扶桑金属工業社長となり、1952年に住友金属社長、1962年に会長を務め、1973年より相談役を務めた。また、1956年に財団法人関西生産性本部の創立に力を尽くし、20年間にわたり会長を務めるなど、関西の財界で活躍した。1958年日本金属学会会長。その他には毎日放送取締役なども務めた。1984年1月15日、84歳で死去。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
武智 馨(たけち かおる、1899年4月20日 - 1987… 武智 馨(たけち かおる、1899年4月20日 - 1987年12月3日)は、日本の機械工学者。大阪工業大学名誉教授。工学博士(名古屋大学)。元広海軍工廠鋳物実験部長・海軍技術者。日本鋳造協会関西支部元顧問。鋳物工学研究の第一人者の一人。 専門は、鋳造工学・鋳物工学。 1899年愛媛県松山市生まれ。1923年京都帝国大学工学部機械工学科卒業。広海軍工廠・横須賀海軍工廠などで、鋳物砂の調査に携わる。1935年ドイツ留学(技術監督官)、国際鋳物会議へ出席。1940年広海軍工廠鋳物実験部所長、戦艦のプロペラ鋳造に従事。1944年東京軍儒省鋳造技術指導班班長(第1級鋳物工場の技術指導)を経て、広海軍工廠素材部長兼鋳物実験部長。
池田 源太(いけだ げんた、1899年4月18日 - 199… 池田 源太(いけだ げんた、1899年4月18日 - 1995年11月18日)は、日本の日本文化史学者、奈良教育大学名誉教授。 大分県宇佐市生まれ。1932年京都帝国大学文学部国史科卒業。西田直二郎に師事。京都市立第一商業学校、京都府立第一中学校教諭、龍谷大学講師、橿原文庫主事。1949年、奈良学芸大学教授、奈良教育大学教授。1961年、「歴史の始源と口誦伝承」で京都大学文学博士。1963年、定年退官、名誉教授、龍谷大学教授。1978年、勲三等瑞宝章を受章。
肥後 和男(ひご かずお、1899年(明治32年)4月8日 … 肥後 和男(ひご かずお、1899年(明治32年)4月8日 - 1981年(昭和56年)2月24日)は、日本の歴史学者。東京教育大学文理科教授を経て、東京教育大学名誉教授。日本古代史の重鎮であった。茨城県久慈郡大子町出身。従三位勲三等旭日中綬章。 茨城県久慈郡大子町生まれ。茨城県立下妻中学校、東京高等師範学校を卒業後、福岡県立東筑中学校、長野師範学校で教鞭をとる。1927年(昭和2年)京都帝国大学史学科(国史科専攻)卒業。同大学院入学。1932年(昭和7年)より東京文理科大学(後の東京教育大学)講師となり、1933年(昭和8年)同大助教授、1943年(昭和18年)同大教授。1946年(昭和21年)公職追放。
福井 孝治(ふくい こうじ、1899年4月1日 - 1977… 福井 孝治(ふくい こうじ、1899年4月1日 - 1977年3月13日)は日本の経済学者・社会科学者。大阪経済大学、旧制大阪商科大学、大阪市立大学の学長を歴任。学位は経済学博士(大阪商科大学)。大阪市立大学名誉教授。 愛知県出身。第八高等学校を経て1922年京都帝国大学経済科卒、同大学院に進学、河上肇に師事した。1925年、福島高等商業学校(現・福島大学経済学部)教授。1929年に旧制大阪商科大学助教授に就任し1933年教授、経済学原論やドイツ語を講じた。戦後は学制改革に伴い1949年に大阪商科大などを母体に発足した大阪市立大学経済学部教授。翌1950年からは前年に急逝した黒正巌に代わり大阪経済大学の学長(第2代)も務めた(-1960年)。
広瀬 永造(ひろせ えいぞう、1899年(明治32年)3月 … 広瀬 永造(ひろせ えいぞう、1899年(明治32年)3月 - 1951年(昭和26年)1月7日)は、日本の内務・警察官僚。官選和歌山県知事。 兵庫県出身。第三高等学校を卒業。1922年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1923年、京都帝国大学法学部法律学科を卒業。内務省に入省し静岡県属となる。 以後、静岡県警視、神奈川県勤務、福岡県勤務、兵庫県勤務、宮崎県書記官・警察部長、高知県書記官・警察部長、岡山県書記官・警察部長、福岡県書記官・警察部長、兵庫県書記官・警察部長、大阪府書記官・警察部長、警視庁警務部長を歴任した。 1941年10月、和歌山県知事に就任。戦時下の対応に尽力。1944年8月1日、知事を依願免本官となり退官した。
佐保田 鶴治(さほだ つるじ、1899年2月11日 - 19… 佐保田 鶴治(さほだ つるじ、1899年2月11日 - 1986年9月11日)は、日本の宗教学者、哲学者。大阪大学名誉教授、文学博士。インド哲学・宗教学専攻。 30数年に及ぶ教授生活を送ったが、若年の頃から虚弱体質で悩み続けていた。ところが、還暦を過ぎた62歳の時に、インド人の手ほどきによるヨーガに出会うことにより、健康をめきめき取り戻し、それまでの不健康な生活が一変し、周囲が驚くほどの健康体となった(典拠『ヨーガ入門』)。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
桜井 三郎(さくらい さぶろう、1899年1月26日 - 1… 桜井 三郎(さくらい さぶろう、1899年1月26日 - 1960年4月8日)は日本の政治家、内務官僚。熊本県知事(官選第34代、公選初代-第3代)、参議院議員(1期)。位階は正三位。医学者、参議院議員の高桑栄松は弟。 新潟県西蒲原郡地蔵堂町(現燕市)に10人兄弟の長兄として生まれる。旧制新潟県立巻中学校、旧制第四高等学校を経て、1926年に京都帝国大学法学部を卒業。内務省に入省し、島根県書記官・警察部長、警視庁部長・消防部長、徳島、福岡両県の内政部長などを歴任。戦中は熊本県で官選知事を務め、1947年の熊本県知事選挙に出馬。細川隆元らを退けて当選した。この際、GHQの幹部が桜の枝を持って投票所を回り、桜井を暗に支持する選挙干渉があったという。
五十嵐 播水(いがらし ばんすい、1899年1月10日 - … 五十嵐 播水(いがらし ばんすい、1899年1月10日 - 2000年4月23日)は、日本の俳人、内科医。本名は久雄(ひさお)。兵庫県出身。 姫路市鍛冶町に生まれる。野里尋常小学校、姫路中学校、第三高等学校を経て、1923年京都帝国大学医学部卒業。卒業後に松尾内科勤務を経て、神戸市立中央市民病院に勤務。同病院の副院長・院長を1959年まで務める。1961年に神戸市生田区で五十嵐内科を開業、1993年まで医師として務めた。 大学在学中の1920年より句作をはじめ、京大三高俳句会で高浜虚子と出会い師事する。1922年、「京鹿子」同人。1930年、山本梅史の跡を継いで「九年母」選者。1932年、「ホトトギス」同人。
三上 武之助(みかみ たけのすけ、1899年(明治32年)-… 三上 武之助(みかみ たけのすけ、1899年(明治32年)- 1933年(昭和8年))は、日本の建築技師。 主な作品に東宮仮御所倉庫(1925年)、秩父宮邸(1927年)などがある。 京都生まれ。1924年(大正13年)京都帝国大学工学部建築学科卒業。当初鉄道省にはいるが、同年技手として宮内省にはいる。構造設計を担当。1931年(昭和6年)から技師となり、臨時帝室博物館造営課勤務となる。
羽根 盛一(はね せいいち、1898年(明治31年)12月1… 羽根 盛一(はね せいいち、1898年(明治31年)12月19日 - 1974年(昭和49年))は、昭和期の内務官僚、政治家。官選第35代富山県知事、公選第3代(通算第39代)福井県知事(在任期間は1955年4月26日~1959年4月22日、1期4年)。 三重県多気郡出身。羽根貞助の長男として生まれ、幼少期に富山県上新川郡大沢野村(現富山市)へ移住した。立命館中学校、大阪市立高等商業学校を卒業。1926年12月、高等試験行政科試験に合格。1927年、京都帝国大学経済学部を卒業。立命館大学助教授となる。 1929年、内務省に入省し岐阜県属となる。以後、高知県書記官・警察部長、栃木県部長・警察部長、新潟県警察部長、愛知県警察部長などを歴任。
岡田 信次(おかだ しんじ、1898年〈明治31年〉12月1… 岡田 信次(おかだ しんじ、1898年〈明治31年〉12月13日 - 1986年〈昭和61年〉3月22日)は、昭和時代の土木工学者、政治家、鉄道官僚、運輸官僚。参議院議員。運輸政務次官。陸軍司政長官。 岡田竹五郎の子として東京府に生まれる。1923年(大正12年)京都帝国大学工学部土木工学科を卒業し、鉄道省工務局改良課に奉職する。同年、関東大震災による鉄道被害の復旧のため国府津改良事務所で東海道線の復旧、改良工事に従事し、のち国府津改良事務所長となる。1932年(昭和7年)から2年間、在外研究員として欧米に留学した。1939年(昭和14年)広島鉄道局工務部長、1942年(昭和17年)鉄道省工務局計画課長を経て、1944年(昭和19年)陸軍司政長官となり、フィリピンに赴任した。
坂田 徳男(さかた とくお、1898年12月7日 - 198… 坂田 徳男(さかた とくお、1898年12月7日 - 1984年7月19日)は、日本の哲学研究者、大阪市立大学名誉教授。 1898年、兵庫県で生まれた。京都帝国大学文学部哲学科で学び、卒業。 修了後は、関西学院大学教授に就いた。戦後、大阪市立大学教授。1961年に大阪市立大学を定年退官し、名誉教授となった。その後は、帝塚山大学教授として教鞭を執った。1984年に死去。
瀧 庸(たき いさお、1898年(明治31年)12月6日 -… 瀧 庸(たき いさお、1898年(明治31年)12月6日 - 1961年(昭和36年)5月18日)は、日本の軟体動物学者。理学博士。3歳下の弟に軟体動物学者の瀧巖をもち、共に多板類などの軟体動物の記載を行った分類学者である。甥に花井哲郎を持つ。 1898年(明治31年)12月6日、愛媛県松山市に瀧幾太郎の次男として生まれる。長男は幼くして亡くなったため、相続者となる。愛媛県師範学校附属尋常小学校・附属高等小学校を終え、1年後の1914年(大正3年)に師範学校に入学した。当時、子供たちに昆虫採集のような博物趣味がブームとなっており、彼はいつとはなしにそうした趣味を持つようになっていた。それが実家の近くに住んでいた小松崎三枝に知られたことが、入学の動機の一つであった。
西松 三好(にしまつ みよし、1898年 <明治31年> 1… 西松 三好(にしまつ みよし、1898年 <明治31年> 10月6日 - 1971年 <昭和46年> 10月22日)は、日本の経営者。西松建設社長を務めた。位階は従四位。 新潟県出身。1922年に京都帝国大学工学部土木学科を卒業し、1926年12月に西松組(のちの西松建設)に入社。1936年に代表幹事を経て、1937年10月に副社長に就任し、1947年5月には社長に昇格。 1956年に藍綬褒章を受章し、1968年11月に勲三等瑞宝章を受章。 1971年10月22日、急性心筋梗塞のために死去。73歳没。死没日付をもって従四位に叙され、勲三等旭日中綬章を追贈された。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
増田 甲子七(ますだ かねしち、1898年(明治31年)10… 増田 甲子七(ますだ かねしち、1898年(明治31年)10月4日 - 1985年(昭和60年)12月21日)は、昭和戦後期の政治家。吉田茂の側近として、運輸大臣、労働大臣、内閣官房長官、自由党幹事長などを歴任。
池田 清就(いけだ きよなり、1898年〈明治31年〉9月1… 池田 清就(いけだ きよなり、1898年〈明治31年〉9月16日 - 1966年〈昭和41年〉6月4日)は、因幡若桜藩(鳥取西館新田藩)池田家当主、会社役員。最後の藩主であった池田徳定の子。母は、池田慶徳の養女・池田常子(池田敬三郎の長女)。1910年から1947年まで子爵であった。 池田徳定の三男。1910年(明治43年)に襲爵し、学習院高等科を経て、1923年(大正12年)に京都帝国大学経済学部を卒業する。横浜正金銀行に入る。1946年(昭和21年)に退行する。 1951年(昭和26年)にエース商会監査役となり1952年(昭和27年)に取締役、1960年(昭和35年)に常務となる。 菩提寺は向島の弘福寺で、関東大震災後の区画整理により昭和3年に清就が合葬したという記載がある。
志村 茂治(しむら しげはる、男性、1898年(明治31年)… 志村 茂治(しむら しげはる、男性、1898年(明治31年)9月10日 – 1971年(昭和46年)8月9日)は、神奈川県出身の政治家、経済学者。衆議院議員(3期)。 三浦郡初声村和田(現・三浦市)に、志村広太郎の長男として生まれる。1921年(大正10年)東京帝国大学農学部実科、1925年(大正14年)京都帝国大学経済学部を卒業、東京帝国大学農学部教授・佐藤寛次の研究室に入り農業経済学を専攻。ベルリン大学、ハイデルベルク大学にも学び、帰国後は専修大学経済学部講師、日本大学商経学部教授、中央物価統制協力会議調査部長を務める。 戦後、神奈川県農地委員を務めていた1952年(昭和27年)、第25回衆議院議員総選挙において、旧神奈川2区にて 左派社会党から立候補し当選。
中村 俊夫(なかむら としお、1898年(明治31年)7月3… 中村 俊夫(なかむら としお、1898年(明治31年)7月30日 - 1984年(昭和59年)7月7日)は、大正末から昭和期の弁護士、政治家。衆議院議員、全日本スキー連盟副会長。 兵庫県出身。1923年(大正12年)京都帝国大学法学部法律学科を卒業した。 弁護士となる。日本冷却器専務取締役、神戸保護観察所嘱託保護司、兵庫県司法保護委員、同県体育連盟副会長、同県教育審議会委員などを務めた。 1947年(昭和22年)4月の第23回衆議院議員総選挙で兵庫県第2区から民主党公認で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。その後、第24回、第26回総選挙に立候補したがいずれも落選した。 以後、全日本スキー連盟副会長、日本体育協会(現日本スポーツ協会)評議員、兵庫県スキー連盟会長などを務めた。
児玉 忠康(こだま ただやす、1898年 <明治31年> 7… 児玉 忠康(こだま ただやす、1898年 <明治31年> 7月29日 - 1990年 <平成2年> 10月27日)は、日本の経営者。日本郵船社長、会長を務めた。位階は従三位。広幡忠朝の三男として生まれ、兒玉秀雄の婿養子となった。 東京都出身。1922年に京都帝国大学経済学部を卒業し、同年に日本郵船に入社。1947年1月に取締役に就任し、1952年12月に常務を経て、1958年11月に副社長に就任し、1961年1月には社長に昇格。1965年11月に会長に就任し、1971年5月には相談役に就任。 1990年10月27日肺炎のために東京都新宿区の国立病院医療センターで死去。92歳没。墓所は多磨霊園(8-1-17-1)。
白石 凡(しらいし ぼん、1898年7月25日 - 1984… 白石 凡(しらいし ぼん、1898年7月25日 - 1984年3月31日)は、朝日新聞社元企画部顧問。 山口県出身。京都帝国大学卒業後の1925年に大阪朝日新聞へ入社。その後、学芸部長、出版局長、論説主幹、企画部編集顧問を歴任。 文芸部記者時代に、横山エンタツ・花菱アチャコと引き合わせて秋田實を漫才作家に転身させるきっかけを作り、日本の演芸史の大きなターニングポイントの立役者となった。 アジア・アフリカ作家会議日本評議会委員長や日中文化交流協会常任理事など務めるほかに、1974年から1981年まで大佛次郎賞選考委員も務めた。 『サンチョ・パンサの言葉』(中央公論社)などの著作がある。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
守田 道隆(もりた みちたか、1898年(明治31年)7月3… 守田 道隆(もりた みちたか、1898年(明治31年)7月3日 - 1970年(昭和45年)11月26日)は、公選初代の福岡県八幡市長。八幡製鐵所職員。位階は正五位。勲四等旭日小綬章。 鳥取県鳥取市長谷で生まれる。第五高等学校を経て1925年(大正14年)、京都帝国大学工学部土木科を卒業し、同年に東京市吏員となる。1929年(昭和4年)に当時の図師兼弐市長に招聘される形で八幡市に入り土木課長に就任、製鉄事業の副産物として産出されるセメントを利用する形で小学校の校舎を鉄筋コンクリート造りに改築し、黒崎駅前の区画整理事業にも携わった。その後、長野県道路課長を経て1942年(昭和17年)に日本製鐵へ入社し土木部長・工務部長を歴任。
岡本 茂(おかもと しげる、1898年〈明治31年〉5月7日… 岡本 茂(おかもと しげる、1898年〈明治31年〉5月7日 – 1980年〈昭和55年〉9月30日)は、日本の内務官僚、政治家。山口県知事(官選第27代)、富山県知事(官選第31代)、衆議院議員(4期)。旧姓は小野。 奈良県出身。小野は奈の三男として生まれ、岡本佐七の養子となる。1924年、京都帝国大学法学部政治学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。大学にさらに一年間在学し、1925年に法学部法律学科を卒業。内務省に入省し滋賀県属となる。 1927年、島根県に移り、会計、学務、庶務の各課長を務める。以後、香川県警察部・新潟県警察部の各特別高等警察課長、満洲国国務院民政部総務科長、内務省社会局事務官、滋賀県書記官・警察部長、警視庁衛生部長、同保安部長、内務省計画局都市計画課長、同地方局振興課長、大阪府書記官・総務部長、同内政部長などを歴任。
須田 銓造(すだ せんぞう、1898年(明治31年)4月24… 須田 銓造(すだ せんぞう、1898年(明治31年)4月24日 - 没年不明)は、昭和時代前期の公吏。東京市赤坂区長、日本橋区長、浅草区長。 須田勝三郎の二男として大阪市に生まれる。1923年(大正12年)京都帝国大学経済学部を卒業し東京市に奉職する。同市商工課勤務、神田、江東各青果市場勤務、中央卸売市場企画課長、同監理課長を務めた。その後、赤坂区長、日本橋区長、浅草区長を歴任した。
三林 隆吉(みばやし りゅういち、1898年4月19日 - … 三林 隆吉(みばやし りゅういち、1898年4月19日 - 1977年2月7日)は、日本の産婦人科学者。京都大学医学部附属助産婦学校第4代校長を歴任。 基靭帯基底部に浸潤した子宮癌に対する超広汎性子宮全摘術や、子宮癌の放射線治療に回転照射術式を考案した。 石川県で生まれる。旧制第四高等学校を経て、1923年(大正12年)に京都帝国大学医学部を卒業する。新潟医科大学(現・新潟大学医学部)の講師を務め、1926年(大正15年) に助教授となる。1929年(昭和4年)医学博士を修める。1930年(昭和5年)ドイツに留学する。 帰国後、1936年(昭和11年)に新潟医科大学産婦人科の第4代教授となる。1938年(昭和13年)、京都帝国大学教授に転任。
中村 隆一(なかむら りゅういち、1898年4月12日 - … 中村 隆一(なかむら りゅういち、1898年4月12日 - 1992年6月27日)は、日本の経営者。日立金属社長を務めた。 山口県出身。松田忠治の六男として生まれ、芳治の養子となる。弟は元衆議院議員の林佳介。1926年に京都帝国大学法学部を卒業。 藤田銀行での勤務を経て、1928年に戸畑鋳物(のちの日立製作所)に転じ、1947年に取締役に就任し、1955年に常務を経て、1956年に日立金属初代社長に就任し、1971年2月には会長に就任。1977年6月からは相談役を務めた。 1965年に藍綬褒章を受章し、1968年に勲三等瑞宝章を受章。 1992年6月27日、肝不全のために死去。94歳没。
並川 義隆(なみかわ よしたか、1898年(明治31年)4月… 並川 義隆(なみかわ よしたか、1898年(明治31年)4月11日 - 1975年(昭和50年)1月2日)は、日本の内務及び警察官僚。官選滋賀県知事。 京都府出身。並川栄慶の長男として生まれる。第三高等学校を卒業。1921年11月、高等試験行政科試験に合格。1922年、京都帝国大学法学部を卒業。内務省に入省し大阪府属となる。 以後、地方警視・宮崎県警察部保安課長、徳島県警察部保安課長、地方事務官・秋田県農務課長兼知事官房秘書課長兼文書課長、奈良県地方課長、同勧業課長、福井県学務部長、岡山県学務部長、島根県総務部長などを経て、1939年4月、富山県総務部長となる。1940年4月、東京府書記官・経済部長に就任。
富久 力松(とみひさ りきまつ、1898年 <明治31年> … 富久 力松(とみひさ りきまつ、1898年 <明治31年> 3月23日 - 1988年 <昭和63年> 12月28日)は、日本の経営者、工学博士。東洋ゴム工業社長、会長を務めた。位階は従四位。 岡山県生まれ。第六高等学校 (旧制)を経て、1923年に京都帝国大学工学部工業化学科を卒業し、同大学で助手を務めた。師は喜多源逸。在学中に喜多とともにベークライトの製法特許を取得している。1929年学位論文「ヴィスコースの研究」により京都帝国大学より工学博士号を取得。昭和レーヨン、東洋紡での勤務を経て、1945年8月に東洋ゴム工業社長に就任。1965年5月に会長に就任し、1971年5月に取締役相談役、1975年5月に相談役を経て、1978年6月には名誉顧問に就任。
田崎 秀夫(たざき ひでお、1898年3月3日 - 1989… 田崎 秀夫(たざき ひでお、1898年3月3日 - 1989年12月19日)は広島文理科大学(現広島大学)の理学研究者。 福島県出身。X線および電子線による結晶解析の研究においてで、メタ硼酸の結晶構造の解析にフーリエ解析法を用いる方法を提案した。 広島大学退官後は、大阪電気通信大学学長に就任し、持ち前の温厚な性格と冷静な発言で、学生紛争を平和裏に終結に導いた。1970年、勲三等瑞宝章受章。1989年、腎不全のため死去。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
喜志 邦三(きし くにぞう 1898年3月1日 - 1983… 喜志 邦三(きし くにぞう 1898年3月1日 - 1983年5月2日)は日本の詩人、作詞家。 長男は京都大学文学部名誉教授の喜志哲雄。 1898年(明治31年)大阪府堺市に生まれる。1915年(大正4年)大阪府立堺中学校を卒業後、早稲田大学高等予科入学。翌年英文学科第二部に入学。1917年(大正6年)在学中に三木露風が主宰する第三次「未来」「リズム」の同人となる。1919年(大正8年)早稲田大学卒業、同年に大阪時事新報社に入社。1925年(大正14年)大阪時事新報社を退社し、神戸女学院大学部専任講師に就任。以降、中断期間も挟みながら1963年(昭和38年)定年まで教授を務める。1966年(昭和41年)園田学園女子大学文学部教授に就任。
本田 弘人(ほんだ ひろと、1898年2月17日 - 197… 本田 弘人(ほんだ ひろと、1898年2月17日 - 1978年4月10日)は、日本の教育者。官僚。 1898年、熊本県に生まれる。1916年、第五高等学校一部甲類に進学、1922年、東京帝国大学法学部卒業後、京都帝国大学文学部哲学科に入学。1925年に大学院に進学、同時に龍谷大学講師となった。1926年、福岡県女子専門学校教授、1928年に旧制静岡高等学校教授に就任。1936年に文部書記官、専門学務局学芸課長を務めた後、1945年7月、京都帝国大学事務監に転出。1949年に日本学術振興会事務局長となる。 1964年から1965年に熊本大学学長、文化財保護審議会委員、日本学術会議理事などを経て、1974年から1978年3月まで中九州短期大学の初代学長を務める。