福持通(ふくもちとおる、1922年 - 2014年)は日本の… 福持通(ふくもちとおる、1922年 - 2014年)は日本の実業家。元都ホテル(現ウェスティン都ホテル京都)社長。伊勢本街道保存会相談役。三重県名張市出身。祖父・善之丞は立憲憲政会員、名賀郡会議員。
京都大学:667人
福持通(ふくもちとおる、1922年 - 2014年)は日本の… 福持通(ふくもちとおる、1922年 - 2014年)は日本の実業家。元都ホテル(現ウェスティン都ホテル京都)社長。伊勢本街道保存会相談役。三重県名張市出身。祖父・善之丞は立憲憲政会員、名賀郡会議員。
三木 良一(みき りょういち、1921年12月23日 - 1… 三木 良一(みき りょういち、1921年12月23日 - 1991年7月8日)は、日本の経営者。神戸新聞社社長を務めた。 兵庫県神戸市出身。1946年に京都帝国大学法学部を卒業し、同年に神戸新聞社に入社。1967年に取締役に就任し、1975年に常務、1981年に専務を経て、1982年12月に社長に就任。 1987年2月から1990年2月までに会長を務め、デイリースポーツ社社長も務めた。 1991年7月8日、膵臓癌のために死去。69歳没。
森下 泰(もりした たい、1921年12月21日 - 198… 森下 泰(もりした たい、1921年12月21日 - 1987年11月14日)は、日本の実業家、政治家。森下仁丹社長、参議院議員(3期)。 大阪府大阪市出身。森下仁丹創業者森下博の孫。旧制甲南高校から京都帝国大学に進学するも、在学中の1943年3月に祖父の死去に伴い森下仁丹社長に就任。同年9月には戦争の激化に伴い大学を繰り上げ卒業し、短期現役海軍主計科士官(10期)を志願し、1943年9月、海軍経理学校に入学し、1944年(昭和19年)3月に卒業して海軍主計中尉に任官。海軍艦政本部出仕兼海軍航空本部出仕となる。1945年(昭和20年)3月、海軍主計大尉に昇進。東京監督官事務所監査官付を経て、監督会計官付で終戦を迎えた。
西川 建三(にしかわ けんぞう、1921年12月1日 - 2… 西川 建三(にしかわ けんぞう、1921年12月1日 - 2014年4月20日)は、日本の経営者。大阪建物(現在のダイビル)社長、会長を務めた。 滋賀県出身。1945年11月に大阪商船に入社し、1946年に京都帝国大学法学部法律学科を卒業。1974年1月に大阪商船三井船舶取締役に就任し、1976年6月に常務、1979年6月に専務を経て、1981年6月には大阪建物社長に就任。1986年6月に会長に就任し、1991年6月に相談役を経て、1998年6月には特別顧問に就任。 2014年4月20日肺炎のために死去。92歳没。
中島 爾(なかじま みつる、1921年11月29日 - 20… 中島 爾(なかじま みつる、1921年11月29日 - 2004年9月1日 )は、日本の経営者。日本触媒社長を務めた。 京都府出身。1944年に京都帝国大学工学部を卒業し、1949年に日本触媒化学工業(のちの日本触媒)に入社。1967年7月に取締役に就任し、1973年8月に常務、1979年2月に専務を経て、1984年2月には副社長に就任し、1986年2月には社長に昇格。1990年2月には会長に就任。 1984年4月に藍綬褒章を受章し、1995年11月に勲三等瑞宝章を受章。 2004年9月1日肺炎のために死去。82歳没。
岸 信和(きし のぶかず、1921年〈大正10年〉11月26… 岸 信和(きし のぶかず、1921年〈大正10年〉11月26日 - 2017年〈平成29年〉10月7日)は、日本の実業家。元内閣総理大臣秘書官。元西部石油会長。 1921年、当時農商務省の官僚だった岸信介(後の第56・57代内閣総理大臣)の長男として生まれる。3歳の時に小児麻痺を患い、生涯足を引きずって歩く。 京都帝国大学在学中に、戦犯として収監されていた岸信介が接見に来た福家俊一に「信和が、難波大助になってもらっちゃ困る」と伝えたため、卒業後の1948年に信介の同級生が専務だった宇部興産 (現・UBE)に入社する。 信介が総理大臣を務めていた一時期に、総理秘書官を務めていた義弟の安倍晋太郎が衆院選出馬で辞めたため、代役で内閣総理大臣秘書官を務め、信介の総理辞任後は西部石油に入社し、後に会長に就任した。
白川 宏(しらかわ ひろし、1921年11月20日 - 19… 白川 宏(しらかわ ひろし、1921年11月20日 - 1991年8月16日)は、日本の経営者。東陶機器社長を務めた。 福岡県行橋市出身。1946年に京都帝国大学法学部政治学科を卒業し、同年に東洋陶器に入社。 1965年1月に取締役に就任し、常務、専務、副社長を経て、1985年2月から1987年2月までに社長を務めた。 1985年に藍綬褒章を受章。
妹尾 親尚(せのお ちかひさ、1921年〈大正10年〉11月… 妹尾 親尚(せのお ちかひさ、1921年〈大正10年〉11月16日 - 2012年〈平成24年〉1月7日)は、日本の実業家。富士銀行専務取締役、オカモト社長。 福岡県に生まれる。1939年福岡県中学修猷館、1942年旧制福岡高等学校文科甲類を経て、1944年、京都帝国大学法学部政治学科を卒業し陸軍主計少尉となる。在学中の1943年12月には学徒出陣をしている。 1946年5月、安田銀行(1948年富士銀行と改称し現みずほ銀行)に入行。1970年5月取締役となり名古屋支店長、1973年4月取締役大阪支店長、同年5月常務取締役、1975年5月専務取締役となる。1978年6月、富士銀行を退任し、岡本理研ゴム(現・オカモト)取締役副社長、1979年6月同社取締役社長に就任する。
広野 寛(廣野、ひろの ゆたか、1921年 <大正10年> … 広野 寛(廣野、ひろの ゆたか、1921年 <大正10年> 10月4日 - 2006年 <平成18年> 5月19日)は、日本の経営者、銀行家。滋賀銀行頭取を務めた。位階は正五位。 滋賀県出身。1944年に京都帝国大学経済学部を卒業。日本銀行での勤務を経て、1954年10月に滋賀銀行取締役に就任し、1959年10月に常務、1963年10月に専務、1967年11月に副頭取を経て、1971年11月に頭取に就任。1979年6月に会長に就任し、1997年6月には相談役に就任。 1984年11月に藍綬褒章を受章し、1992年4月に勲三等瑞宝章を受章。 2006年5月19日肺炎のために死去。84歳没。死没日付をもって正五位に叙された。
阪本 龍児(さかもと りゅうじ、1921年8月31日 - 2… 阪本 龍児(さかもと りゅうじ、1921年8月31日 - 2003年10月21日 )は、日本の経営者。南都銀行頭取を務めた。 奈良県出身。1949年に京都大学農学部を卒業し、1950年に南都銀行に入行。1968年に取締役に就任し、1972年11月に常務、1976年1月に専務を経て、1979年2月に頭取に就任。1990年6月に会長に就任し、1997年6月に取締役相談役を経て、1998年6月には相談役に就任。1985年6月から1997年6月までに近畿日本鉄道取締役も務めた 1981年2月に紺綬褒章を受章し、1984年11月に藍綬褒章を受章し、1991年11月に勲三等瑞宝章を受章。 2003年10月21日心筋梗塞のために死去。
若林 法雄(わかばやし のりお、1921年8月5日 - 20… 若林 法雄(わかばやし のりお、1921年8月5日 - 2006年4月14日)は、日本の経営者。野村不動産社長、会長を務めた。 兵庫県出身。1944年に京都帝国大学経済学部を卒業。野村建設工業、安井建築設計事務所での勤務を経て、1961年1月に野村不動産に転じ、取締役に就任し、1963年1月に常務、1967年1月に専務を経て、1972年11月に副社長に就任し、1978年10月には社長に昇格。1981年12月に会長に就任し、1983年11月から1987年12月までに監査役を務めた。 2006年4月14日胆嚢癌のために死去。84歳没。
片岡 明(かたおか あきら、1921年7月20日 - 199… 片岡 明(かたおか あきら、1921年7月20日 - 1997年8月14日)は、日本の経営者。ヒガシマル醬油社長を務めた。兵庫県出身。 1944年に京都帝国大学法学部を卒業し、1952年4月にヒガシマル醬油に入社。1966年に取締役に就任し、1971年5月に常務、1978年3月に専務を経て、1986年3月に副社長に就任し、1990年3月には社長に昇格。1996年3月には副会長に就任。 1997年8月14日急性呼吸不全のために死去。76歳没。
青砥 昇(あおと のぼる、1921年(大正10年)6月28日… 青砥 昇(あおと のぼる、1921年(大正10年)6月28日 - 1986年(昭和61年)5月4日)は日本の実業家。元山陰放送社長。 父は元米子信用金庫会長青砥喜三郎、弟は元米子信用金庫会長青砥順。 鳥取県米子市出身。旧制鳥取県立米子中学校、旧制広島高等学校を経て、1945年(昭和20年)京都帝国大学工学部卒業。1948年(昭和23年)米子大栄社長、昭和28年(1953年)ラジオ山陰(現:山陰放送)創設と同時に取締役に就任。1955年(昭和30年)常務取締役を経て昭和49年(1974年)山陰放送社長に就任。 1980年(昭和55年)~昭和61年(1986年)米子商工会議所副会頭のほか鳥取県経営者協会副会長、米子市監査委員、米子ライオンズクラブ会長、日本民間放送連盟理事、ビーエスエス企画・山陰興発・米子空港ビル各取締役などを歴任した。
渡辺 寿男(わたなべ としお、1921年4月11日 - 20… 渡辺 寿男(わたなべ としお、1921年4月11日 - 2008年11月19日)は、日本の経営者。山陽電気鉄道社長、会長を務めた。兵庫県神戸市出身。 1942年に京都帝国大学工学部機械工学科を卒業し、1945年に山陽電気鉄道に入社。1966年11月に取締役に就任し、1973年5月に常務、1977年6月に専務を経て、1981年6月に社長に就任。1986年6月に会長を経て、1991年6月から相談役を務めた。 2008年11月19日に死去。87歳没。
村田 昭(むらた あきら、1921年(大正10年)3月25日… 村田 昭(むらた あきら、1921年(大正10年)3月25日 - 2006年(平成18年)2月3日)は、実業家である。村田製作所創業者・名誉会長・元会長・社長。 京都府京都市東山区泉涌寺生まれ。父親が陶器店を営む。 幼少期の頃は「病気のデパート」と呼ばれるほど病弱で、病床で文学書、子供向けの科学誌「子供の科学」などを読んで過ごしていた。 1936年(昭和11年)、京都市立第一商業学校(現:京都市立西京高等学校・附属中学校)を肺結核のため中退後、家業に専念。特殊陶器、精密特殊磁器に注目し、製品化することにより事業を拡大。1944年(昭和19年)10月、村田製作所を創業する。 1950年(昭和25年)、法人化の後、京都大学との「産学協同」で酸化チタンコンデンサの開発に成功。
角田 寛(すみた ひろし、1921年 <大正10年> 2月2… 角田 寛(すみた ひろし、1921年 <大正10年> 2月25日 - 2001年 <平成13年> 5月22日)は、日本の実業家。京阪電気鉄道社長、会長などを務めた。位階は正四位。 大阪府出身。1943年9月京都帝国大学工学部電気工学科を卒業。 第四陸軍航空技術研究所、鉄道省での勤務を経て、1947年10月、京阪神急行電鉄に入社。1949年の京阪神急行電鉄からの再分離で京阪電気鉄道に移籍。 1967年11月に取締役に就任し、1972年7月に常務、1977年6月に専務、1979年6月に副社長を経て、1985年3月には社長に就任。1989年6月に会長に就任し、1995年6月には取締役相談役に就任。 1981年11月に藍綬褒章を受章し、1993年11月に勲二等瑞宝章を受章。
三鬼 彰(みき あきら、1921年2月16日 - 2000年… 三鬼 彰(みき あきら、1921年2月16日 - 2000年6月22日)は、日本の実業家。八幡製鐵の初代社長を務めた三鬼隆の長男で、後身会社である新日本製鐵の会長や、日本経済団体連合会副会長を務めた。また、タレントの出川哲朗の外従父に当たる。 岩手県釜石市出身。官立新潟高等学校、京都帝国大学法学部を経て、戦時中の1943年に日本製鐵へ入社。過度経済力集中排除法による日本製鐵解体後は富士製鐵で秘書室長、総務部長など主に管理畑を経験した。 新日本製鐵発足後は、父・隆が八幡製鐵社長だった人脈を通じて社内融和に尽力。専務、副社長就任以降はプラザ合意による円高不況対策などに努め、高炉休止など合理化を推進した。
村上 一平(むらかみ いっぺい、大正10年(1922年)1月… 村上 一平(むらかみ いっぺい、大正10年(1922年)1月8日 - )は、日本の実業家。医療法人 同愛会 博愛病院理事長。ハクアイ社長。裁判所調停委員。 元米子市長野坂寛治は、父常三のいとこにあたる 鳥取県米子市尾高町出身。 啓成小学校、米子中学校(現在の米子東高校)を経て昭和19年(1944年)京都帝国大学経済学部卒業。昭和21年(1946年)米子市国民健康保険組合常務理事。昭和23年(1948年)米子信用金庫勤務、昭和29年(1954年)米子駅前支店長(初代)、昭和33年(1958年)米子西支店長。 昭和36年(1961年)市長である野坂が大山観光開発の社長になったので手伝うために入社する。
中村 正秀(なかむら まさひで、1920年12月10日 - … 中村 正秀(なかむら まさひで、1920年12月10日 - 没年不明)は、日本の経営者。第四銀行頭取、会長を務めた。新潟県出身。 1946年に京都帝国大学法学部政治学科を卒業し、1947年1月に第四銀行に入行した。1974年11月に取締役に就任し、1976年11月に常務、1978年11月に専務を経て、1983年3月に頭取に就任した。1990年3月に会長に就任し、1996年6月から1998年6月までに取締役を務めた。 1988年11月に藍綬褒章を受章し、1993年11月に勲三等瑞宝章を受章した。
奥村 輝之(おくむら てるゆき、1920年 <大正9年> 9… 奥村 輝之(おくむら てるゆき、1920年 <大正9年> 9月23日 - 2009年 <平成21年> 5月11日 )は、日本の経営者。太陽神戸銀行頭取を務めた。位階は正四位。 大阪府大阪市出身。1941年に高文行政科に合格し、1942年に京都帝国大学経済学部を卒業し、同年に大蔵省に入省。1972年11月に神戸銀行(のちの太陽神戸銀行)常務に就任し、常務、専務、副頭取を経て、1983年6月には頭取に昇格した。1987年6月に会長に就任し、1990年4月に太陽神戸三井銀行(のちのさくら銀行)会長に就任し、1991年6月に相談役、1998年7月に常任顧問、2000年4月に名誉顧問を歴任した。 関西テレビ放送監査役、兵庫県公安委員会委員長も務めた。
伊達 得夫(だて とくお、1920年9月10日 - 1961… 伊達 得夫(だて とくお、1920年9月10日 - 1961年1月16日)は日本の編集者、出版社経営者。書肆ユリイカ代表。 釜山広域市生まれ。旧制京城中学校卒業まで、京城で過ごす。旧制福岡高等学校を経て、1943年、京都帝国大学経済学部卒業。出征して北支や内蒙古で転戦し、戦後に上京して前田出版社に勤務。 原口統三『二十歳のエチュード』の出版を手がけ、同書をベストセラーとする。1948年、同書の紙型を持って独立し、書肆ユリイカを創立。1950年頃から主に詩書を出版。1956年、詩誌『ユリイカ』を創刊。没後の1962年に遺稿集『ユリイカ抄』が刊行され、その業績により第1回藤村記念歴程賞を受けた。
篠原 晃(しのはら あきら、1920年5月7日 - 2010… 篠原 晃(しのはら あきら、1920年5月7日 - 2010年2月24日)は、日本の経営者。電気化学工業社長を務めた。 神奈川県出身。1943年に京都帝国大学法学部を卒業し、同年に電気化学工業に入社。1972年11月に取締役に就任し、1974年11月に常務、1977年10月に専務を経て、同年12月に副社長に就任し、1981年6月には社長に昇格。1988年6月に会長に就任し、1990年6月に相談役に就任。 1986年11月に藍綬褒章を受章し、1999年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 2010年2月24日に急性心不全のために死去。89歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
高井 太郎(たかい たろう、1920年(大正9年) - 20… 高井 太郎(たかい たろう、1920年(大正9年) - 2010年(平成22年)1月23日)は、日本の海軍軍人、実業家。海兵70期。岐阜県出身。 海軍兵学校卒業後すぐに実戦配備となり測的士として「古鷹」に乗組となり第一次ソロモン海戦を経験する。サボ島沖海戦で「古鷹」が撃沈されるも「初雪」に救助される。その後「雪風」乗組となりケ号作戦に参加、ガダルカナル島撤退作戦において陸兵輸送を行う。撤退作戦が終わると一度は内地に戻され横須賀鎮守府付となるが、本人の希望もあり見張分隊長として「瑞鶴」乗組を命ぜられマリアナ沖海戦などを歴戦する。レイテ沖海戦にて「瑞鶴」が撃沈されると、4時間にわたる漂流ののちまたも僚艦に救助される。
山口 吉雄(やまぐち よしお、1919年6月24日 - 19… 山口 吉雄(やまぐち よしお、1919年6月24日 - 1999年10月29日)は、日本の経営者。安田信託銀行社長を務めた。東京都出身。 1944年に京都帝国大学法学部を卒業し、1948年に中央信託銀行(のちの安田信託銀行)に入行。1968年5月に取締役に就任し、1972年5月に常務、1976年6月に専務を経て、1980年6月には社長に就任。1986年6月に会長に就任し、1992年4月には相談役に就任。 1984年11月に藍綬褒章を受章し、1990年4月に勲二等瑞宝章を受章。 1999年10月29日に肺炎のために死去。80歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
服部 謙太郎(はっとり けんたろう、1919年 <大正8年>… 服部 謙太郎(はっとり けんたろう、1919年 <大正8年> 4月6日 - 1987年 <昭和62年> 9月1日)は、日本の経営者。服部時計店(現・セイコーグループ)の第4代社長・会長を務めた。位階は正四位。 東京都出身。慶應義塾幼稚舎、慶應義塾普通部、慶應義塾大学予科を経て、1940年に慶應義塾大学経済学部を卒業。 終戦後の1946年4月、京都帝国大学文学部に入学。1949年に京都大学文学部国史学科卒業。卒業後、日本中世史の研究を継続するために京大3年次から東京に戻り、通い続けてきた東大史料編纂所への入所を希望したが、採用者がなく、紆余曲折の末に1950年、母校の慶大経済学部副手に採用。1951年、同経済学部助教授に昇格するも、翌1952年度限りで辞職した。
金 宅述(キム・テクスル、朝鮮語: 김택술/金宅述、1918… 金 宅述(キム・テクスル、朝鮮語: 김택술/金宅述、1918年12月2日 - 1981年10月28日)は、大韓民国の公務員、政治家、実業家。第2・3代韓国国会議員。本貫は道康金氏(朝鮮語版)、別名は春江。 日本統治時代の全羅北道井邑郡七宝面(現・井邑市)出身。中央大学法学部、京都帝国大学(現・京都大学)経済学部卒。全羅北道労働課長、大韓労働総連盟全羅北道副委員長などを歴任し、1950年の第2代総選挙に井邑乙選挙区より大韓労働総連盟所属で出馬して初当選した。第3代国会議員の退任以降は全羅商工社、全南商工新報社、大韓旅客自動車株式会社の社長を歴任し、1967年頃は民主共和党に所属しながら韓国貨物車会社の社長を務めた。
小野 義一郎(おの ぎいちろう、1918年〈大正7年〉11月… 小野 義一郎(おの ぎいちろう、1918年〈大正7年〉11月2日 - 2007年〈平成19年〉11月4日)は、日本の実業家、工学者、陸軍軍人。工学博士(京都大学・1970年)。小野測器創業者。 1918年、日本統治下の朝鮮半島平安北道新義州(現在の朝鮮民主主義人民共和国新義州市)に生まれる。旅順工科大学予科、旅順工科大学電気工学科卒業。1942年4月、陸軍兵技中尉任官。最終階級陸軍技術大尉で終戦を迎える。 戦後、1954年、小野測器製作所を設立。1957年、会社を株式会社に改組し社長に就任。1970年11月24日、京都大学工学博士(論文博士、機械工学科)。1983年、「微小角変位のディジタル変換とそのトルク計への応用」で、計測自動制御学会技術賞を受賞。
岡庭 益男(おかにわ ますお、1918年10月8日 - 19… 岡庭 益男(おかにわ ますお、1918年10月8日 - 1998年9月24日)は、日本の経営者。住友倉庫社長、会長を務めた。兵庫県出身。長女は写真家の岡庭加奈(聖心女子大学英文科卒業)。 1941年に京都帝国大学法学部を卒業し、1942年に住友倉庫に入社。1966年11月に取締役に就任し、1971年5月に常務、1974年11月に専務、1976年6月に副社長を経て、1981年6月には社長に就任。1987年6月に会長に就任。 1982年11月に藍綬褒章を受章し、1988年11月に勲二等旭日重光章を受章。 1998年9月24日心不全のために死去。79歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
熊谷 清(くまがい きよし、1918年 <大正7年> 8月5… 熊谷 清(くまがい きよし、1918年 <大正7年> 8月5日 - 2010年 <平成22年> 2月20日)は、日本の経営者。川崎汽船社長、会長を務めた。位階は正四位。 兵庫県出身。1941年に京都帝国大学経済学部を卒業し、1942年に川崎汽船に入社。1967年5月に取締役に就任し、1970年11月に常務、1979年6月に専務を経て、1979年12月に副社長に就任し、1980年6月には社長に昇格。1985年6月に会長に就任し、1988年6月に相談役に就任。 1980年11月に藍綬褒章を受章し、1988年11月に勲二等旭日重光章を受章。 2010年2月20日に死去。91歳没。叙正四位。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。
千代 賢治(ちしろ けんぢ、1918年2月16日 - 201… 千代 賢治(ちしろ けんぢ、1918年2月16日 - 2017年3月14日)は、日本の経営者。住友生命保険社長、会長を務めた。 鳥取県西伯郡西伯町(現南部町)出身。旧制鳥取県立米子中学校、旧制松江高等学校文科乙類を経て、1944年に京都帝国大学法学部を卒業し、同年住友生命保険に入社。短期現役海軍主計科士官(7期)を志願し、1941年8月、海軍経理学校に入校し海軍主計中尉に任官。同年12月、経理学校を卒業し摩耶に配属された。1943年(昭和18年)6月、主計大尉に進み、海軍艦政本部付で終戦を迎えた。 1946年1月に終戦により復職。1963年1月に経理部長に就任し、人事部長、取締役、常務、専務を経て、1978年7月に副社長に就任し、翌年7月に社長に昇格した。
横瀬 恭平(よこせ きょうへい、1918年 <大正7年> 1… 横瀬 恭平(よこせ きょうへい、1918年 <大正7年> 1月6日 - 2017年 <平成29年> 11月7日)は、日本の経営者。住友ゴム工業4代目社長を務めた。位階は従四位。 兵庫県出身。1941年に京都帝国大学工学部工業化学科を卒業し、1942年に住友電気工業に入社。1969年5月に取締役に就任し、1972年5月には常務に就任。1974年5月に住友ゴム工業専務に就任し、1977年9月に副社長を経て、1980年3月には社長に就任。1984年3月に副会長に就任し、1985年10月に会長、1991年3月に取締役相談役を経て、1992年3月から相談役を務めた。 1984年11月に藍綬褒章を受章し、1989年11月に勲三等旭日中綬章を受章。
草場 敏郎(くさば としろう、1917年10月11日 - 2… 草場 敏郎(くさば としろう、1917年10月11日 - 2002年10月23日)は、日本の経営者。三井銀行社長、会長を務めた。東京都出身。 1941年に京都帝国大学法学部を卒業し、翌年に三井銀行に入行した。1971年5月に取締役に就任し、1975年3月に常務、1977年12月に専務、1980年4月に副社長を経て、1982年2月に社長に就任した。1984年6月に会長に就任し、1988年6月に取締役相談役を経て、1993年4月からさくら銀行相談役を務めた。 全国銀行協会連合会会長、日本銀行政策委員なども歴任した。 1987年11月に勲二等旭日重光章を受章した。 2002年10月23日脳出血のために死去。
田中 利治(たなか としはる、1917年9月14日 - 20… 田中 利治(たなか としはる、1917年9月14日 - 2005年3月23日)は、日本の実業家。元三菱自動車工業会長。元三菱重工業副社長。 長兄は、元阪神電気鉄道社長の田中隆造 香川県三豊郡和田村(現 観音寺市豊浜町)出身。旧制香川県立三豊中学校、旧制松山高等学校を経て、京都帝国大学工学部機械工学科卒業。 1940年(昭和15年)京都帝国大学卒業後、三菱重工業に入社し、長崎兵器製作所に配属。1941年(昭和16年)陸軍に入隊。前橋予備士官学校を経て満州に配備。1944年(昭和19年)陸軍除隊後、三菱重工業長崎に復帰。 1946年(昭和21年)三菱重工業長崎造船所に異動。1969年(昭和44年)同社横浜造船所に異動。
趙 洸熙(チョ・グァンヒ、朝鮮語: 조광희、1917年9月1… 趙 洸熙(チョ・グァンヒ、朝鮮語: 조광희、1917年9月12日 - 2017年4月5日)は、大韓民国の土木学者、実業家、政治家。第4代韓国国会議員。 本貫は豊壌趙氏。字は学汝(ハギョ、학여)、号は貫洲(クァンジュ、관주)。カトリック教徒。 日本統治時代の慶尚北道尚州郡出身。ソウル大学校師範大学付属初等学校、京畿中学校、京畿高等学校、ソウル大学校農科大学を経て、1943年に京都帝国大学(現・京都大学)農学部農業土木学科を卒業。東洋拓殖株式会社勤務を経て、ソウル大学校農科大学農業土木学科教授、同大工科大学土木学科教授、農林部農地管理局技佐、農業土木技術院養成所所長、農地保存技術院養成所所長、尚州郡洛東・青里水利組合創立委員長、文教部国定教科書編纂委員・審査委員、自由党所属の第4代国会議員、高麗生命保険株式会社社長、農業振興公社社長、豊壌趙氏大宗会会長(1994年10月29日 - 1998年2月22日)を務めた。
持田 信夫(もちだ のぶお、1917年(大正6年)8月30日… 持田 信夫(もちだ のぶお、1917年(大正6年)8月30日 - 1986年(昭和61年)6月19日)は日本の実業家、元持田製薬社長・会長。東京都出身。同社創業者でもある持田良吉は父、3代目社長を務めた持田英は弟。写真通としても知られ、数々の作品を残した。
小泉 英信(こいずみ ひでのぶ、1917年5月25日 - 1… 小泉 英信(こいずみ ひでのぶ、1917年5月25日 - 1985年11月3日)は、日本の経営者。東京都出身。 1941年に京都帝国大学法学部を卒業し、同年に東京ガスに入社。 1973年9月に関東タール製品社長に就任し、1976年6月には北海道ガス社長に就任。 1985年11月3日心筋梗塞のために死去。68歳没。
反町 誠一(そりまち せいいち、1917年5月3日 - 19… 反町 誠一(そりまち せいいち、1917年5月3日 - 1990年12月4日)は、日本の経営者。東京都出身。 1947年に京都大学経済学部を卒業し、同年に大東京火災海上保険に入社。1962年6月に取締役に就任し、1964年6月に常務、1966年4月に専務を経て、1970年6月に副社長に就任し、1976年7月には社長に昇格。1982年11月に会長に就任。 1979年11月に藍綬褒章を受章。 1990年12月4日急性心不全のために死去。73歳没。
川本 信彦(かわもと のぶひこ、1917年3月29日 - 2… 川本 信彦(かわもと のぶひこ、1917年3月29日 - 2011年8月21日)は、日本の経営者。小西六写真工業(現在のコニカミノルタ)社長、会長を務めた。兵庫県出身。 1939年に京都帝国大学経済学部を卒業し、同年に三菱銀行に入行。 1968年5月に小西六写真工業取締役に就任し、1970年5月に常務、1973年11月に専務を経て、1978年12月に副社長に就任し、1979年12月には社長に昇格。1983年12月から1989年3月までに会長を務めた。 2011年8月21日老衰のために死去。94歳没。
柴田 敏夫(しばた としお、1917年3月27日 - 198… 柴田 敏夫(しばた としお、1917年3月27日 - 1984年6月29日)は、日本のジャーナリスト、経営者。九州朝日放送社長を務めた。大阪府大阪市出身。 1941年に京都帝国大学法学部政治学科を卒業し、同年に朝日新聞社に入社。1977年6月に九州朝日放送専務に就任し、1981年6月には社長に就任。 1984年6月29日に心不全のために死去。67歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
鈴木 鎮郎(すずき しずお、1916年〈大正5年〉10月4日… 鈴木 鎮郎(すずき しずお、1916年〈大正5年〉10月4日 - 2006年〈平成18年〉3月10日)は、日本の経営者。三楽オーシャン((現在のメルシャン)社長、会長を務めた。東京都出身。 1939年に京都帝国大学経済学部を卒業し、同年に昭和酒造(のちの三楽オーシャン)に入社。1946年に取締役に就任し、1958年に常務、1970年に専務を経て、1977年には社長に就任。1985年に会長、1987年に取締役相談役を経て、1988年には相談役に就任。 1980年に藍綬褒章を受章し、1986年に勲三等瑞宝章を受章。 2006年3月10日、心不全のために死去。89歳没。
鳥越 俊雄(とりごえ としお、1916年(大正5年)7月28… 鳥越 俊雄(とりごえ としお、1916年(大正5年)7月28日 - 1990年(平成2年)3月30日)は、日本の実業家。鳥越製粉専務。鳥越製粉創業者鳥越彦三郎の孫。ジャーナリスト鳥越俊太郎の父。 福岡県浮羽郡吉井町(現・うきは市)出身。1939年、京都帝国大学経済学部卒業。住友本社に勤務。札幌の北日本鉱業所に配属された。現場で鉱山労働者などから相手にされず、いじめにあい、神経症を発症した。1940年、長男の俊太郎が誕生したときは九大の精神科の病棟に入院していた。1943年、退職。対人恐怖症を克服しようと、仏教に傾倒した。京都帝国大学文学部に入学した。 1946年5月、同大学中退。同年10月、鳥越商店入社、監査役。
薮田 東三(やぶた とうぞう、1916年6月16日 - 19… 薮田 東三(やぶた とうぞう、1916年6月16日 - 1986年8月3日)は、日本の経営者。滋賀県大津市出身。 1940年に京都帝国大学工学部機械工学科を卒業し、同年にトヨタ自動車工業に入社。 取締役を経て、1972年9月に常務に就任した。1977年3月に愛知製鋼副社長に就任し、1980年3月から社長を務めた。 1986年8月3日転移性肺腫瘍のために死去。70歳没。
平井 滋二(ひらい しげじ、1916年 <大正5年> 5月2… 平井 滋二(ひらい しげじ、1916年 <大正5年> 5月26日 - 2006年 <平成18年> 4月8日)は、日本の経営者。工学博士。四国電力社長、会長を歴任。位階は正四位。 愛媛県西条市出身。1941年に京都帝国大学工学部を卒業し、技術士官として、海軍技術研究所での勤務を経て、1947年5月に四国配電(のちの四国電力)に入社。 1968年5月に取締役に就任し、1969年6月に常務、1974年11月に副社長を経て、1981年6月には社長に就任。1985年6月に相談役に就任。 1978年5月に藍綬褒章を受章し、1987年11月に勲二等旭日重光章を受章。 2006年4月8日老衰のために死去。89歳没。
河田 龍介(かわた りゅうすけ、1916年5月13日 - 1… 河田 龍介(かわた りゅうすけ、1916年5月13日 - 1995年7月9日)は、日本の経営者。関西相互銀行社長を務めた。大阪府出身。 1940年に京都帝国大学法学部を卒業し、同年に住友銀行に入行した。1968年11月に取締役に就任し、1972年3月に常務、同年5月に関西相互銀行専務を経て、1973年11月から1978年12月までに社長を務めた。社長在任時に1978年6月に住友銀行との合併計画を発表し、進めたが、当行の従業員組合の反対により、挫折。 1995年7月9日急性呼吸不全のために死去。79歳没。
浅野 賢澄(あさの よしずみ、1916年〈大正5年〉4月19… 浅野 賢澄(あさの よしずみ、1916年〈大正5年〉4月19日 - 1997年〈平成9年〉7月31日)は、日本の官僚、実業家。郵政事務次官、フジテレビジョン社長、日本民間放送連盟第5代会長を務めた。岐阜県出身。 京都帝国大学法学部卒業後、逓信省入省。経理局に配属される。短期現役海軍主計科士官(5期)を志願し、1940年(昭和15年)9月に海軍経理学校に入学し海軍主計中尉に任官。1941年(昭和16年)1月に経理学校を卒業。工作艦明石に配属され、以後、海南警備府司令部付副官事務、舞鶴海軍航空隊主計長兼副官、第31航空廠会計科長、第三南遣艦隊司令部付、第33警備隊主計長兼副官を歴任。ミンダナオ島の戦いで辛酸をなめた。
相京 昌信(あいきょう まさのぶ、1916年4月17日 - … 相京 昌信(あいきょう まさのぶ、1916年4月17日 - 1991年12月28日)は、日本の経営者。住友倉庫社長、会長を務めた。愛知県出身。位階は従四位。 1941年に京都帝国大学法学部を卒業し、同年に住友倉庫に入社。1966年11月に取締役に就任し、1971年5月に常務を経て、1974年11月に専務に就任し、1976年6月に社長に昇格。1981年6月に会長を経て、1987年6月取締役相談役を経て、1989年6月には相談役に就任。 1980年11月に藍綬褒章を受章し、1986年4月に勲三等旭日中綬章を受章した。 1991年12月28日呼吸不全のために死去。75歳没。死没日付をもって従七位から従四位に進階した。
鈴木 博章(すずき ひろあき、1916年4月15日 - 19… 鈴木 博章(すずき ひろあき、1916年4月15日 - 1976年9月16日)は、日本の実業家。神戸製鋼所社長を務めた。 京都府京都市出身。1944年に京都帝国大学法学部を卒業し、神戸製鋼所に入社した。総務部長、取締役、常務、専務を経て、1974年5月から副社長を務め、同年11月社長に就任した。 しかし、1976年9月16日在任中に急性心不全により死去。60歳没。
建内 保興(たけうち やすおき、1915年(大正4年)12月… 建内 保興(たけうち やすおき、1915年(大正4年)12月20日 - 2011年(平成23年)1月7日)は、日本の石油実業家。日本石油社長及び会長を16年、石油連盟会長を11年務めた。 オイルショック後の時期に、日本石油社長及び会長を16年、石油連盟会長を11年務め、中東産油国との連携、石油業界の是正、石油エネルギーの安定供給に貢献した。この功績が認められ、1988年に瑞宝大綬章を授与された。日本石油「中興の祖」、「天皇」などと評される。 戦前の甲陽中学で野球が盛んだったこともあり、野球愛好家であった。1956年から1973年まで日本石油野球部長を務めた。その間、都市対抗野球大会では、初優勝を含めて5回の優勝を果たした。
西田 堯(にしだ たかし、1915年12月8日 - 2004… 西田 堯(にしだ たかし、1915年12月8日 - 2004年12月19日)は、日本の経営者。同和鉱業社長、会長を務めた。 大阪府出身。1939年に京都帝国大学工学部採鉱学科を卒業し、同年に藤田組に入社。1963年に同和鉱業取締役に就任し、1971年5月に常務、1977年6月に副社長を経て、1981年6月に社長に就任。1987年6月に会長に就任し、1991年6月には相談役に退いた。 1963年に藍綬褒章を受章し、1986年11月に勲二等旭日重光章を受章。
河野 典夫(こうの すけお、1915年11月19日 - 20… 河野 典夫(こうの すけお、1915年11月19日 - 2000年2月18日)は、日本の経営者。日立金属社長を務めた。 山口県出身。1940年に京都帝国大学経済学部を卒業し、同年に日立製作所に入社。1956年10月に日立金属に転じ、1964年5月に取締役に就任し、1965年5月に常務、1969年5月に副社長を経て、1971年1月には社長に就任。1985年6月に会長に就任し、1989年6月から相談役を務めた。 1978年4月に藍綬褒章を受章し、1986年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 2000年2月18日心不全のために死去。84歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。