清水 泰(しみず ゆたか、1894年〈明治27年〉1月28日… 清水 泰(しみず ゆたか、1894年〈明治27年〉1月28日 - 1969年〈昭和44年〉9月13日)は、国文学者。 山梨県北巨摩郡安都那村(現・北杜市)生まれ。水上勘三郎の次男として生まれ、清水有文の養子となった。1925年京都帝国大学(現・京都大学)文学部国文科卒。龍谷大学教授、1941年立命館大学教授。1964年退任、名誉教授。1962年「継子物語の研究」で京都大学文学博士。 弟に水上達三がいる。
植場 鉄三(うえば てつぞう、1894年(明治27年)1月2… 植場 鉄三(うえば てつぞう、1894年(明治27年)1月22日 - 1964年(昭和39年)1月30日)は、日本の拓務官僚。実業家。 大阪府に郡正光の子として生まれ、衆議院議員植場平の養子となった。1921年(大正10年)京都帝国大学経済学部を卒業し、翌年に高等試験に合格した。秋田県平鹿郡長、同農林課長、同庶務課長、同知事官房主事、長崎県事務官・社会課長、兵庫県事務官・社会課長、樺太庁農林部長などを務めた。1933年(昭和8年)より拓務書記官・農林課長、拓務大臣秘書官・官房秘書課長、管理局長、殖産局長を歴任。1941年(昭和16年)8月に退官するが、12月に拓務次官として復帰した。 1943年(昭和18年)より中支那振興株式会社副総裁を務め、翌年には内閣綜合計画局長官に就任した。
一戸 二郎(いちのへ じろう、1894年(明治27年)1月2… 一戸 二郎(いちのへ じろう、1894年(明治27年)1月20日 - 1938年(昭和13年)10月2日)は、日本の農商務・内務官僚。官選県知事。旧姓・西。 東京府出身。西大助の二男として生まれ、1897年に一戸氏を再興。第一高等学校を卒業。1917年7月、京都帝国大学法科大学政治経済学科を卒業。同年10月、文官高等試験行政科試験に合格。農商務省に入省し農商務属となる。 以後、臨時産業調査局事務官兼農商務大臣秘書官、製鐵所副参事、農商務事務官、同書記官、内務省社会局事務官、同書記官、台湾総督府事務官兼同秘書官、岐阜県書記官・学務部長、内務省社会局書記官・労働部労政課長などを歴任。 1932年6月、愛媛県知事に就任。
金原 舜二(きんばら しゅんじ、1894年 <明治27年> … 金原 舜二(きんばら しゅんじ、1894年 <明治27年> 1月1日 - 1974年 <昭和49年> 3月20日)は、日本の弁護士・政治家。衆議院議員(1期)。位階は従五位。勲四等旭日小綬章。 静岡県出身。1920年京都帝国大学法律科卒。裁判官となり、弁護士となる。 1946年の第22回衆議院議員総選挙で静岡県から日本自由党公認で立候補するが落選。翌1947年の第23回衆議院議員総選挙において静岡3区から立候補して落選。1949年の第24回衆議院議員総選挙では民主自由党公認で立候補して当選した。この間裁判官訴追委員会代理委員長を務めた。1952年の第25回衆議院議員総選挙では自由党公認で立候補して落選。
絹川武良司(きぬがわ むらじ、1894年 - 1968年、秋… 絹川武良司(きぬがわ むらじ、1894年 - 1968年、秋田県南外村(現・大仙市)生まれ)は、日本の物理化学者、鉄鋼技術者であり特にステンレス鋼研究の権威で知られる。理学博士。学士会会員。東海大学教授。 1894年秋田県南外村(現・大仙市)の貧しい農家に生まれる。教職の道を目指して秋田県立師範学校、東京高等師範学校の修学を経て京都帝国大学に進学する。1921年京都帝国大学理学部を卒業。金属業界への就職を恩師から勧められて、住友合資会社伸銅製作所尼崎工場に入社して研究係を務める。1937年学位論文(絹川 1937)にて東京帝国大学より理学博士の学位を授与する。1938年故金子英雄氏遺兒養育資金募集の発起人に参画する。
竺 縵卿(じく まんけい、1894年〈光緒20年〉 – 没年… 竺 縵卿(じく まんけい、1894年〈光緒20年〉 – 没年不明)は、中華民国の実業家・官僚・外交官。字は華雲。初期は主に実業家として活動したが、後に親日政権の中華民国維新政府や南京国民政府(汪兆銘政権)で要職に就いた。 日本に留学し、1920年(民国9年/大正9年)に東京高等師範学校理科第三部甲班を卒業した。1921年(民国10年/大正10年)からは京都帝国大学経済学部に入学し、1924年(民国13年/大正13年)に卒業している。当初は洮江第四中学主任教員兼舎監となったが、まもなく国民政府に入り、外交部江寧交渉員公署秘書兼金陵関監督公署秘書となる。その後は実業界に転じ、中日実業有限公司上海分行経理、中華電気製作廠董事、上海閘北水電公司顧問などをつとめた。
纐纈 弥三(こうけつ やぞう、旧字体: 纐纈 彌三、明治26… 纐纈 弥三(こうけつ やぞう、旧字体: 纐纈 彌三、明治26年(1893年)12月19日 - 昭和53年(1978年)3月15日)は、日本の内務官僚・政治家。警視庁特別高等警察課長、大分県知事、衆議院議員(4期)、複数の政務次官等を歴任した。
上山 薫(うえやま かおる、1893年〈明治26年〉12月8… 上山 薫(うえやま かおる、1893年〈明治26年〉12月8日 - 1964年〈昭和39年〉10月7日)は、日本の実業家。内外除虫菊・陽和地所各社長。紀陽銀行取締役。和歌山県除虫菊製品工業組合理事長。 上山市郎兵衛の弟。元:池田銀行頭取清滝一也は長男。プリンストン大学教授清滝信宏は孫。 和歌山県有田郡保田村(現・有田市)出身。1918年、京都帝国大学法学部政治経済学科卒業。1921年、分家した。 内外除虫菊社長となり、和歌浦土地、和歌山県除虫菊貿易、和歌山除虫菊工業各社長。また、各種の会社重役を務めた。 趣味は読書。宗教は浄土宗。住所は和歌山市湊通丁南、兵庫県尼崎市。 上山家は古くより保田村に土着する地主だった。
江藤 昌之(えとう まさゆき、1893年(明治26年)11月… 江藤 昌之(えとう まさゆき、1893年(明治26年)11月25日 - 1984年(昭和59年)4月17日)は、昭和時代前期の台湾総督府官僚。 江藤作吉の長男として福岡県遠賀郡遠賀村島津(現:遠賀町大字島津)に生まれる。1914年(大正3年)福岡県小倉師範学校を卒業し、久留米荘島小学校訓導となる。のち広島高等師範学校に入学。1919年(大正8年)3月、同校を卒業し、京都師範学校訓導兼教諭を拝命する。さらに1922年(大正11年)京都帝国大学法学部法律学科に入学し、在学中の1924年(大正13年)11月に高等試験行政科に合格。1925年(大正14年)卒業と同時に渡台し、台湾総督府に出仕する。 台北州内務部地方課勤務を振り出しに、1927年(昭和2年)地方理事官に進み、台中州勧業課長、台北州勧業課長、台湾総督府事務官営林所兼水産課勤務、文教局学務課勤務、学務課長、社会課長兼図書館長、財務局税務課長、高雄州内務部長、米穀局総務課長、興亜院廈門連絡部書記官を経て、大使館一等書記官に就任。
松平 康昌(まつだいら やすまさ、1893年(明治26年)1… 松平 康昌(まつだいら やすまさ、1893年(明治26年)11月12日 - 1957年(昭和32年)1月4日)は、昭和期の日本の華族、官僚。旧福井藩主家(越前松平家)第19代当主。従二位勲一等侯爵。明治大学政治経済学部教授や相模女子大学学長を務めた。夫人は徳川家達二女の綾子。
古田 良一(ふるた りょういち、1893年11月7日 - 1… 古田 良一(ふるた りょういち、1893年11月7日 - 1967年7月12日)は、日本の日本史学者。 愛知県愛知郡熱田町(現・名古屋市熱田区)出身。京都帝国大学文科大学史学科で、内田銀蔵に師事した。1918年卒業。卒業論文は「徳川時代に於ける史学の発達」。神戸市史編纂員を経て、東北帝国大学法文学部助教授となり、1929年教授。東北大学教授となり1957年定年退官、名誉教授、宮城学院女子大学教授。1947年「東廻海運及び西廻海運の研究」で文学博士。東北史学会を創立し、「宮城県史」「仙台市史」などを編集した。
長谷川 万吉(はせがわ まんきち、1893年(明治26年)1… 長谷川 万吉(はせがわ まんきち、1893年(明治26年)11月3日 - 1970年(昭和45年)7月14日)は、日本の地球物理学者。京都大学名誉教授。 新潟県西蒲原郡漆山村(現・新潟市西蒲区)出身。1916年(大正5年)広島高等師範学校卒業後、熊本県立済々黌中学の理科教師となるが1年で退職し、1917年(大正6年)広島高等師範学校研究科に入るが4カ月で中退。1921年(大正10年)京都帝国大学(現京都大学)理学部卒業。1924年(大正13年)同大学助教授。1928年(昭和3年)にドイツに留学し、ポツダムの地球物理学研究所で研究に当たる。1930年(昭和5年)8月にストックホルムで開催された国際測地学・地球物理学連合総会に参加した後、11月に帰国。
御木本 隆三(みきもと りゅうぞう、1893年(明治26年)… 御木本 隆三(みきもと りゅうぞう、1893年(明治26年)10月27日 - 1971年(昭和46年)6月6日)は、日本の著述家、ジョン・ラスキン研究者。 三重県志摩郡鳥羽町(現鳥羽市)に生まれる。御木本幸吉の長男。第一高等学校を経て東京帝国大学文科に学ぶ。1914年に京都帝国大学に進み、河上肇のもと、イギリスの思想家、美術評論家のジョン・ラスキンを学ぶ。同校中退後、父親の会社で働きはじめるも、ラスキンは「海の底で真珠を探してドレスを飾るために100人のダイバーを雇うべきではない」(原文は「袖に縫い付けるビーズを見つけるために100人のダイバーを雇ってはいけない」)と述べているとして家業に批判的であった。
岡村 新市(おかむら しんいち、1893年10月5日 - 1… 岡村 新市(おかむら しんいち、1893年10月5日 - 1977年1月11日)は、日本の経営者。大和証券社長を務めた。 岡山県出身。第六高等学校 (旧制)卒。1921年に京都帝国大学経済学部を卒業し、同年に藤本ビルブローカー銀行に入社。1943年2月に大和証券取締役に就任し、常務、専務を経て、1953年11月には社長に就任。1957年11月から1959年12月までに会長を務めた。 1966年9月に黄綬褒章を受章。1977年1月11日、心不全のために死去。83歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
三野 昌治(みの しょうじ、1893年9月25日 - 197… 三野 昌治(みの しょうじ、1893年9月25日 - 1978年7月20日)は、日本の法学者、弁護士、裁判官、教育者。 1893年(明治26年)、香川県に生まれる。1919年京都帝国大学法学部卒業。東京地方裁判所、東京控訴院の判事や秋田地方裁判所所長などを務めた後、1948年より弁護士として活動。東洋大学で博士号を取得後、同大学で教授となる。1967年に東洋大学学長に就任。学生運動の最中ということもあり、学生の強い反発を受ける中で教養課程の川越キャンパスへの移転、図書館、学生会館建設の問題収拾にあたった。1969年に学長を辞任した。 1978年7月20日、老衰のため東京都大田区の自宅にて死去。84歳。
渡辺 宗太郎(わたなべ そうたろう、1893年9月17日 -… 渡辺 宗太郎(わたなべ そうたろう、1893年9月17日 - 1983年9月4日)は、日本の法学者。専門は憲法学、行政法。法学博士(京都帝国大学)。帝塚山大学第2代学長。京都大学名誉教授。 愛媛県出身。1922年京都帝国大学法学部卒。佐々木惣一門下。24年同助教授、31年教授。33年には滝川事件に遭遇し辞表を提出するも慰留され大学に残留した。1935年「地方自治の本質」で京都帝国大学法学博士。同年の天皇機関説事件において同説の踏襲者として大学の憲法講義担当から外れることとなる。同様に高等文官試験司法科憲法担当試験委員からも除かれた。1943-45年法学部学部長。 戦後は1949年に新制大学として発足した岡山大学に招かれ法文学部教授、初代学部長、(第六高等学校校長を兼任、1949-50年)。
杜 聡明(と そうめい、1893年8月25日 - 1986年… 杜 聡明(と そうめい、1893年8月25日 - 1986年2月25日)は、台湾人として初めて医学博士号を取得した医学者。字は思牧。従四位勲三等。 1893年、清朝統治下の台湾・淡水(現在の新北市淡水区)生まれ。9歳の時から淡水北新庄の車埕書房で学ぶ。11歳で滬尾公学校に入学し、滬永吉街での寄宿生活を送りながら17歳の時に首席で卒業する。1909年、台湾総督府医学校に首席で合格。しかし体格検査(丙下)で本来は不合格となるところであったが、当時の医学校校長・長野純蔵の計らいで入校が許された。在学中も勉学は一番であり、併せて体操、水泳、登山で体を鍛えた。1910年、清朝腐敗に対する革命の動きが高まると、同級生の翁俊明(中国語版)と共に中国同盟会に加入した。
東 前豊(ひがし まえとよ、1893年(明治26年)8月6日… 東 前豊(ひがし まえとよ、1893年(明治26年)8月6日 - 1974年(昭和49年)5月6日)は、日本の政治家。岐阜市長。 戦後の地方自治法による公選で選ばれた、最初の岐阜市長である。 鹿児島県大島郡知名村(現在の知名町)出身。鹿児島県師範学校(現鹿児島大学)を経て1918年(大正7年)広島高等師範学校(現広島大学)地歴科を卒業し、岐阜県師範学校教諭・訓導となった。1923年(大正12年)京都帝国大学(現京都大学)経済学部選科修了。その後、高知県師範学校教諭、熊本県立人吉高等女学校教諭を歴任した。1930年(昭和5年)に岐阜市視学・学務兵事課長に就任した。 1932年(昭和7年)から1946年(昭和21年)1月まで岐阜市助役を務めた後、辞職。
小野 行守(おの ゆきもり、1893年7月21日 - 194… 小野 行守(おの ゆきもり、1893年7月21日 - 1947年8月3日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 高知県幡多郡中村(現:四万十市)で生まれる。県立第三中学卒業を経て、1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業。同年12月、工兵少尉に任官。1916年(大正5年)、陸軍砲工学校卒業、翌年、同高等科卒業。その後、陸軍派遣学生として京都帝国大学工科大学機械工学科で学び、1922年(大正11年)3月に卒業する。 1923年(大正12年)、陸軍工兵学校の教官になる。1929年(昭和4年)、英国駐在武官、1932年(昭和7年)、陸軍技術本部付などを歴任。1936年(昭和11年)8月、砲工学校教官に就任し、1938年(昭和13年)3月、工兵大佐に昇進。
東 令三郎(ひがし れいさぶろう、1893年7月9日 - 1… 東 令三郎(ひがし れいさぶろう、1893年7月9日 - 1968年6月26日)は、日本の経営者。西日本相互銀行社長を務めた。愛媛県出身。 1920年に京都帝国大学法学部政治学科を卒業。野村銀行での勤務を経て、1944年12月に西日本無尽(のちの西日本相互銀行)社長に就任。1962年10月から1965年5月までに会長を務めた。 1957年に黄綬褒章を受章。 1968年6月26日肺癌のために死去。74歳没。
吉田一枝(よしだ かずえ、男性、1893年7月3日-1974… 吉田一枝(よしだ かずえ、男性、1893年7月3日-1974年4月1日)は、日本の法学者。 秋田県出身。札幌第一中学校卒、1918年京都帝国大学法学部卒、大阪鉄工所(日立造船〈現:カナデビア〉の前身)に入り1920年より社命で米国に学ぶ。22年帰国、康徳学園で教え、1928年関西大学法学部教授、1949年大阪商業大学・大阪学芸大学教授(兼任)、1957年退職し弁護士を開業、京都産業大学・梅花女子大学教授を兼ねる。
山内 義文(やまうち よしふみ、1893年(明治26年)7月… 山内 義文(やまうち よしふみ、1893年(明治26年)7月 - 1945年(昭和20年)1月19日)は、日本の内務・警察官僚。官選県知事。陸軍司政長官。旧姓・伊藤。 三重県出身。伊藤茂右衛門の四男として生まれ、山内家(本籍:愛知県)の養子となる。第八高等学校を卒業。1918年7月、京都帝国大学法科大学政治経済学科を卒業。1919年10月、高等試験行政科試験に合格。1920年、内務省に入省し警保局嘱託となる。 以後、高知県警部・警務課長、神奈川県警視・監察官、福井県警視・特別高等課長、山口県書記官・警察部長、岐阜県書記官・警察部長、熊本県書記官・警察部長、和歌山県書記官・警察部長、高知県書記官・総務部長、鹿児島県書記官・総務部長、静岡県書記官・総務部長などを歴任。
酒井 忠正(さかい ただまさ、1893年〈明治26年〉6月1… 酒井 忠正(さかい ただまさ、1893年〈明治26年〉6月10日 - 1971年〈昭和46年〉2月16日)は、日本の政治家・篤志家・華族。中央農業会長、日本中央競馬会理事長、横綱審議委員会初代委員長、相撲博物館初代館長、雅楽頭系酒井家26代当主、大東文化学院総長・大東文化学院専門学校校長(第11代)などを歴任した。 備後福山藩の最後の藩主だった華族の阿部正桓伯爵の次男として生まれ、旧姫路藩主家で伯爵家の酒井家の当主酒井忠興の娘・秋子を娶り婿養子となる。1918年(大正7年)に京都帝国大学法科大学を卒業する。1923年(大正12年)9月22日に貴族院伯爵議員補欠選挙で当選し1945年(昭和20年)12月17日まで務める。
持永 義夫(もちなが よしお、1893年6月4日 - 197… 持永 義夫(もちなが よしお、1893年6月4日 - 1979年8月31日)は、日本の内務・厚生官僚、政治家。県知事、北海道庁長官、衆議院議員。旧姓・小牧。子に衆議院議員の持永和見、自治事務次官の持永堯民。 宮崎県北諸県郡庄内村、現在の都城市出身。持永善一の養子となる。宮崎県師範学校から広島高等師範学校を経て、1921年、京都帝国大学法学部英法科を卒業。同年11月、高等試験行政科試験に合格し、内務省に入り衛生局属となる。以後、和歌山県西牟婁郡長、同県海草郡長、広島県理事官、社会局事務官、社会局社会部の福利課長・保護課長・庶務課長、厚生大臣官房会計課長、傷兵保護院業務局長などを歴任。 1939年7月、愛媛県知事に就任。
中御門 経民(なかのみかど つねたみ、1893年(明治26年… 中御門 経民(なかのみかど つねたみ、1893年(明治26年)5月13日 - 1989年(平成元年)12月31日)は、大正から昭和期の官僚、政治家、華族。貴族院男爵議員。 海軍士官・男爵、中御門経隆の三男として生まれた。父の隠居に伴い、1915年(大正4年)10月30日、男爵を襲爵した。 1917年(大正6年)7月、京都帝国大学法科大学政治経済学科を卒業。同年、拓殖局嘱託となる。その後、衆議院書記官兼拓務書記官、衆議院秘書課長、同調査部二課長、衆議院事務局議事課長、海軍省事務官、議院制度調査会幹事、議会制度審議会幹事などを務めた。 1939年(昭和14年)6月21日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し、公正会に所属して1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで2期在任した。
稲垣 潤太郎(いながき じゅんたろう、1893年〈明治26年… 稲垣 潤太郎(いながき じゅんたろう、1893年〈明治26年〉4月17日 - 没年不詳)は、日本の内務官僚。 鳥取県出身。1917年(大正6年)に京都帝国大学法科大学独法科を卒業し、高等文官試験に合格した。長野県警視、同理事官、宮内事務官・参事官、帝室林野管理局事務官、岡山県事務官、北海道庁学務部長、秋田県警察部長、北海道庁警察部長、富山県警察部長、兵庫県警察部長などを経て、1935年(昭和10年)に香川県書記官・総務部長に就任した。 1939年(昭和14年)に退官した後は、1942年(昭和17年)まで福島県若松市(現:会津若松市)助役を務めた。
佐々部 晩穂(ささべ くれお、1893年3月26日 - 19… 佐々部 晩穂(ささべ くれお、1893年3月26日 - 1979年1月23日)は、日本の実業家。中部日本放送初代社長。元名古屋商工会議所会頭。元大同大学理事。 福岡県山門郡塩塚村で医者だった父・田尻常太郎(福岡県士族)の息子に生まれる。1914年(大正3年)旧制一高を卒業して、京都帝国大学(現京都大学)に進学、同期の卒業生には汐見三郎、高山義三、岸要、酒井忠正、森本寛三郎がいた。京都帝国大学を首席(恩賜の銀時計組)で卒業後、1918年(大正7年)に日本銀行へ入行する。日銀の同期には一万田尚登がいた。営業局を経て、のちに日銀総裁となる結城豊太郎が支店長を務める大阪支店、ロンドン支店などで勤務する。
清水 良策(しみず りょうさく、1893年2月27日 - 1… 清水 良策(しみず りょうさく、1893年2月27日 - 1989年9月7日)は、日本の内務官僚、実業家。県知事、川崎重工業取締役。 現在の石川県七尾市出身。清水栄蔵の二男として生まれる。第四高等学校を経て、1916年、京都帝国大学法科大学政治科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入り京都府属となる。 以後、京都府理事官、栃木県学務部長、内務事務官、内務省土木局道路課長、同港湾課長、静岡県書記官・内務部長などを歴任。 1932年6月、和歌山県知事に就任。1934年11月に退任し、満州国民政部総務司長に転じた。1936年6月、徳島県知事となり、次いで、宮城県知事に異動。1940年4月、宮城県知事を辞任して退官し、川崎重工業取締役に就任し、1946年まで在任。
岸田 幸雄(きしだ さちお、1893年2月24日 - 198… 岸田 幸雄(きしだ さちお、1893年2月24日 - 1987年10月16日)は、日本の政治家、実業家。京都府出身。 兵庫県知事(官選1期・公選2期)、参議院議員(2期)を歴任した。 1893年(明治26年)、山口県士族・岸田氏美の三男として京都府に生まれる。第三高等学校を経て1916年(大正5年)に京都帝国大学法科を卒業し、高等文官試験に合格するも官僚とはならず大阪商船(現在の商船三井)に入社した。1920年(大正9年)、イタリアのジェノヴァで開催された国際労働者会議に使用者代表の随行員として参加する。日本に帰国後、大阪商船子会社の大阪海上火災(現在の三井住友海上)へ出向して神戸支店および東京支店長を務めた。
小湊 潔(こみなと きよし、1893年(明治26年)- 19… 小湊 潔(こみなと きよし、1893年(明治26年)- 1974年(昭和49年))は、日本の化学者、理研化学工業社長。 茨城県水戸市生まれ。1914年茨城県立工業学校応用化学科卒、17年上田蚕糸専門学校製糸科卒、満鉄中央試験所勤務、志賀潔に見出され、京城医学専門学校助教授、1927年京都帝国大学農学部入学。30年卒業、36年ニンニクの無臭有効成分をスコルヂニンと命名。40年日生化学研究所を設立。1953年「「にんにく」の生化学的研究」で京大農学博士。紫綬褒章、勲三等瑞宝章受勲。理研化学工業社長。「にんにく博士」として知られた。 次男の小湊壌(ゆずる、1940 - )はのち理研化学工業社長。
紀 俊忠(きい としただ、1892年(明治25年)12月5日… 紀 俊忠(きい としただ、1892年(明治25年)12月5日 - 1970年(昭和45年)1月22日)は、大正から昭和期の技術者、実業家、政治家、華族。貴族院男爵議員。旧姓・今園。 男爵・今園国映の二男として生まれ、男爵・紀俊秀の養子となる。養父の死去に伴い、1940年(昭和15年)11月1日、男爵を襲爵した。 1917年(大正6年)京都帝国大学理工科大学機械科を卒業。三井鉱山に入社。1936年(昭和11年)石炭液化工業の視察のためドイツに出張。1937年(昭和12年)満州合成燃料錦州工場の設計・建設に従事。1942年(昭和17年)朝鮮飛行機製作所長に就任。1944年(昭和19年)日本人造石油取締役に出向した。
3代辰馬 悦蔵(たつうま えつぞう、前名・寛爾、1892年〈… 3代辰馬 悦蔵(たつうま えつぞう、前名・寛爾、1892年〈明治25年〉12月2日 - 1980年〈昭和55年〉8月17日)は、日本の酒造家・実業家・慈善家。兵庫県多額納税者。辰馬悦蔵商店社長。北辰馬家第三代当主。紺綬褒章を多数回受章。 兵庫県西宮市出身。先代辰馬悦蔵の長男。1917年、家督を相続し前名・寛爾を改め襲名した。1918年、京都帝国大学史学科卒業。 酒造業を営み、銘酒白鷹の醸造元として知られたが、1929年、酒造業の全般を株式会社辰馬悦蔵商店に移して自らその社長となり、経営に努めた。後これを退き、その取締役となった。1976年、辰馬考古資料館設立。 3代悦蔵は京都帝国大学に学び、家業の酒造のかたわら、考古学の研究と考古資料の収集に努めた。
綾小路 護(あやのこうじ まもる、1892年〈明治25年〉1… 綾小路 護(あやのこうじ まもる、1892年〈明治25年〉10月27日 - 1973年〈昭和48年〉10月21日)は、大正から昭和期の政治家、華族。貴族院子爵議員。綾小路家19代当主。旧姓・野宮。位階は正四位。 東京において、子爵・野宮定穀の五男として生まれ、綾小路家18代当主・綾小路家政の養子となる。養父の死去に伴い、1921年(大正10年)4月30日、子爵を襲爵した。 1920年(大正9年)京都帝国大学経済学部卒業。十五銀行に入行。その後、横山工業監査、帝国鉱業開発監事などを務めた。また、歌会始講頌として披講の講頌役を務めた。 1925年(大正14年)7月10日、貴族院子爵議員に選出され、研究会に所属して活動し大蔵省委員、税制調査会委員などを務め、1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
阪谷 俊作(さかたに しゅんさく、1892年9月27日 - … 阪谷 俊作(さかたに しゅんさく、1892年9月27日 - 1977年2月15日)は、日本の司書、名古屋図書館館長。子爵・阪谷芳郎の次男。兄に子爵阪谷希一。母は渋沢栄一(子爵、実業家)の次女・阪谷琴子。母方の従兄弟に渋沢敬三、穂積重遠がいる。義父に八十島親徳。 1892年(明治25年)9月27日、阪谷芳郎と妻琴子の次男として生まれる。幼少の頃より祖父・栄一の影響を受け、読書を好むようになる(栄一も論語を愛読書とする読書家であった)。 京都帝国大学を卒業(なお、従弟である渋沢信雄も京都帝国大学を卒業している)、卒業後は幼少の頃からの読書好きを活かし東京帝国大学図書館事務嘱託として勤務する。同図書館館長である和田万吉の推薦により名古屋市に招かれ、市立名古屋図書館(現・名古屋市鶴舞中央図書館)の初代館長となった。
朝倉 昇(あさくら のぼる、1892年〈明治25年〉9月14… 朝倉 昇(あさくら のぼる、1892年〈明治25年〉9月14日 - 没年不詳)は、朝鮮総督府官僚。 山口県玖珂郡新庄村(柳井市)出身。宮本鶴松の二男として生まれ山口県朝倉林助の養子となった。石川県立七尾中学校を経て、1914年(大正3年)に上田蚕糸専門学校養蚕科を卒業。長野県吏員、山口県養蚕取締吏員、富山県立農学校教諭、岐阜県安八農学校教諭を務めた。1924年(大正13年)、高等試験行政科に合格し、翌年に京都帝国大学経済学部を卒業した。朝鮮総督府に入り、慶尚北道保安課長、京畿道保安課長、警務局事務官、慶尚南道産業課長、平安北道財務部長を経て、1934年(昭和9年)に鎮南浦尹に就任した。 その後、平壌専売支局長、平壌地方専売局長を務めた。
岡田 利兵衞(おかだ りへえ、1892年(明治25年)8月2… 岡田 利兵衞(おかだ りへえ、1892年(明治25年)8月27日 - 1982年(昭和57年)6月5日)は、国文学者。号は柿衞。聖心女子大学名誉教授。伊丹市長、伊丹市名誉市民。柿衞文庫設立者。逸翁美術館元館長。位階は従五位。 1892年、兵庫県伊丹市生まれ。生家は江戸時代より続く酒造業を営む岡田家であり、22代目当主として利兵衛を襲名。1918年、京都帝国大学文科大学国文科を卒業。 卒業後は梅花女子専門学校で教鞭をとる。1937年10月から1939年7月まで伊丹町長をつとめた。戦後の1945年12月17日、第4代伊丹市市長に就任。1946年11月26日に退任するまで、戦後復興に尽力した。市長退任後は公職追放となった。
北村 文衛(きたむら ふみえ、1892年(明治25年)7月2… 北村 文衛(きたむら ふみえ、1892年(明治25年)7月25日 - 1957年(昭和32年)1月12日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党)。弁護士。 宮城県桃生郡鷹来村(現在の東松島市)出身。第二高等学校を経て、1917年(大正6年)に京都帝国大学法科大学を卒業。大阪商船株式会社に入社し、上海、神戸、大阪の支店で勤務した。1923年(大正12年)、仙台市に弁護士事務所を開業し、仙台弁護士会副会長を務めた。1927年(昭和2年)からは宮城県会議員に選出された。 1939年(昭和14年)、衆議院補欠選挙で当選を果たした。 1942年(昭和17年)の第21回衆議院議員総選挙では大政翼賛会の推薦を受けたが落選した。
田万 清臣(たまん きよおみ、1892年(明治25年)7月8… 田万 清臣(たまん きよおみ、1892年(明治25年)7月8日 - 1979年(昭和54年)5月22日)は、昭和時代の政治家、弁護士。労働運動家。衆議院議員(3期)。配偶者は婦人活動家の田万明子。 香川県に生まれる。1919年(大正8年)京都帝国大学独法科を卒業する。大学では弁論部初代部長を務め、河上肇に傾倒した。 卒業後、弁護士を開業し労働運動に参加。大阪市会議員、同参事会員、同学務委員、借地借家調停委員、大日本興亜同盟理事を歴任した。1936年(昭和11年)2月の第19回衆議院議員総選挙では大阪府第1区から社会大衆党所属で出馬し当選。つづく第20回、第21回総選挙でも当選し、衆議院議員を通算3期務めた。
阿部 清(あべ きよし、1892年(明治25年)6月1日 -… 阿部 清(あべ きよし、1892年(明治25年)6月1日 - 1979年(昭和54年)5月24日)は、大正から昭和時代の電気工学者、通信技術者。工学博士。京都大学名誉教授。 徳島県徳島市蔵本元町に生まれる。徳島県立徳島中学校(現:徳島県立城南高等学校)、第六高等学校を経て京都帝国大学工科大学電気工学科に入学。1918年(大正7年)同校を卒業後、財団法人青柳研究所(現:公益財団法人応用科学研究所)に入る。のち京都大学講師、助教授を経て1940年(昭和15年)教授となった。この間の1935年(昭和10年)に学位論文「特別高圧回路自働遮断器」により 工学博士 (京都帝国大学)の学位を取得している。1955年(昭和30年)退官後は、同志社大学工学部教授、日本放送協会経営委員会委員などを歴任した。
佐藤 一男(さとう かずお、1892年5月23日 - 195… 佐藤 一男(さとう かずお、1892年5月23日 - 1959年10月29日)は、日本の鉄道技術者、実業家。 広島県福山市出身。1918年に京都帝国大学工学部電気工学科を卒業し、京阪電気鉄道に入社。 車両技術部門で活躍し、全鋼製ロマンスカー京阪1550型電車の設計、製作に携わり、欧米での留学で得た知識を生かして、日本最初の連接車である京阪60型電車(びわこ号)を立案、建造した。 取締役、常務、専務を経て、1943年に陸上交通事業調整法による阪神急行電鉄との統合により、京阪神急行電鉄副社長に就任した。 1946年11月に公職追放を受け、副社長を辞任し、相談役に就任した。 1959年10月29日死去。
石川 興二(いしかわ こうじ 1892年5月16日 - 19… 石川 興二(いしかわ こうじ 1892年5月16日 - 1976年3月25日)は、昭和時代に活動した日本の経済学者、教育者。経済学博士(京都帝国大学)。京都大学名誉教授。 第六高等学校を経て、1917年に京都帝国大学法科大学政治経済科を卒業。在学時には西田幾多郎の指導を受け、日本では先例のない経済哲学を研究した。経済学は河上肇を師として慕った。1920年より京都帝国大学経済学部講師、彦根高等商業学校教授を務め、1926年から京都帝国大学経済学部助教授、次いで1930年には教授となった。同年、同大学経済学博士。1937年から評議員として大学運営に参画、1939年に経済学部長に就任。1943年には著書『新体制の指導原理』(1940年)の記述内容が帝国議会に於いて問題視され休職処分を受けている(いわゆる石川事件)。
牧 健二(まき けんじ、1892年5月(戸籍上は11月14日… 牧 健二(まき けんじ、1892年5月(戸籍上は11月14日) - 1989年7月24日)は、日本の法制史家。京都大学名誉教授。 京都府天田郡下川口村(現福知山市)出身。京都府立第三中学校・広島高等師範学校を経て、1918年7月に京都帝国大学文科大学史学科、また1921年に京都帝国大学法学部卒業。1923年に同大学法学部助教授となり、2年間訪欧し在外研究。帰国して後、1930年に教授となり、1933年の瀧川事件に際しては、大学当局の措置に対して辞表を撤回し残留。1935年「鎌倉時代ノ封建制度ノ研究、殊ニ封建的恩地私領ノ成立ニ就テ」により京都帝国大学法学博士。1941年からは法学部長を務め、1945年に退職する。
赤石 二郎(あかし じろう、1892年4月22日 - 197… 赤石 二郎(あかし じろう、1892年4月22日 - 1977年3月27日)は、日本の経営者、銀行家。群馬県前橋市出身。 1919年に京都帝国大学法学部を卒業し、同年に加島銀行に入行。1929年に野村銀行に転じ、1938年に庶民金庫理事を経て、1948年に近畿無尽社長に就任。1963年に会長を経て、1967年4月には相談役に退いた。 1958年に黄綬褒章を受章し、1965年に勲四等瑞宝章を受章。 1977年3月27日心不全のために死去。84歳没。
野﨑 丹斐太郎(のざき にいたろう、明治25年(1892年)… 野﨑 丹斐太郎(のざき にいたろう、明治25年(1892年)4月18日 - 昭和51年(1976年)9月8日)は、昭和時代の製塩業を営んだ実業家。野﨑続太郎の子(母は祖父野﨑武吉郎の娘)。妻は板倉勝憲の娘(長女)。姉に階(佐谷有吉妻)、妹に正(舟橋清賢妻)。子女は、保子(三女、大塚斌妻)ら。 京都帝国大学卒業。大正14年に祖父武吉郎が没した為、家業(製塩業)を継ぐ。昭和9年(1934年)株式会社野﨑事務所カナワ式、真空式、流下式と新しい製塩法を次々と取り入れ近代化をはかった。昭和21年(1946年)に内海塩業株式会社に社名変更し、昭和44年(1969年)にはイオン交換樹脂膜法を採用した。昭和49年(1974年)にはナイカイ塩業株式会社と社名を変更した。
佐藤 久喜(さとう ひさよし、1892年 <明治25年> 3… 佐藤 久喜(さとう ひさよし、1892年 <明治25年> 3月25日 - 1970年 <昭和45年> 8月11日)は、日本の経営者。三井金属鉱業元社長。位階は正五位。 熊本県出身。1917年に京都帝国大学採鉱冶金学科を卒業し、同年に三井鉱山に入社。 1945年に取締役に就任し、1947年に常務を経て、1950年には神岡鉱業(のちの三井金属鉱業)社長に就任し、1958年8月までに務めた。 1960年に藍綬褒章を受章し、1965年11月に勲三等瑞宝章を受章。 1970年8月11日冠状動脈硬化症のために死去。78歳没。死没日付をもって正五位に叙された。
松川 昌藏(まつかわ しょうぞう、1892年(明治25年)2… 松川 昌藏(まつかわ しょうぞう、1892年(明治25年)2月3日 - 1973年(昭和48年)4月23日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、一関市長、弁護士。位階は正五位。勲三等旭日中綬章。 岩手県東磐井郡松川村(のち東山町、現在の一関市)出身。1918年、京都帝国大学法科大学独法科を卒業。司法官試補から岐阜、水戸各地裁検事、福島地裁若松支部判事を歴任した後、1923年に退官して弁護士になる。一関町議、岩手県議、一関町長などを務め、1936年の第19回衆議院議員総選挙で立憲政友会公認で立候補して当選し、以来3期務める。戦後の1946年の総選挙で日本自由党公認で立候補して当選。自由党では政調会行政機構改革部長を務めた。
石田 文次郎(いしだ ぶんじろう、1892年 - 1979年… 石田 文次郎(いしだ ぶんじろう、1892年 - 1979年)は、日本の民法学者・裁判官・弁護士。法学博士(京都帝国大学)。東北帝国大学法文学部民法講座教授や、京都帝国大学法学部教授を歴任。 1892年、奈良県添上郡平和村(現:大和郡山市)生まれ。1913年(大正2年)第三高等学校卒。1917年(大正6年)京都帝国大学法学部を卒業。同年、司法官試補。1919年(大正8年)大阪地方裁判所判事。1920年(大正9年)神戸高等商業学校教授。1922年(大正11年)イギリス・フランス・ドイツ・アメリカ合衆国に留学。同時期に留学していた同僚の八木助市、坂本彌三郎、田中金司、五百籏頭眞治郎、北村五良、平井泰太郎や、東京高等商業学校の本間喜一、渡邉大輔、大塚金之助、金子鷹之助、井藤半彌、吉田良三、名古屋高等商業学校の宮田喜代蔵、赤松要らと、日本料理店や日本人クラブで研究会を開いたり将棋をしたりするなどして交流した。
徐 家桓(じょ かかん、1892年 – 1951年7月30日… 徐 家桓(じょ かかん、1892年 – 1951年7月30日)は、中華民国・満洲国の官僚。字は純煕。変名は馬希援。中華民国時代は張学良の副官で、満洲国時代は行政官を歴任した。 清末は旧学を学び、辛亥革命勃発の頃に吉林第一中学に入学した。1914年(民国3年)、成績優秀故に一等官費生として日本へ留学することになる。第一高等学校を経て京都帝国大学工科大学に入学して電気を学んだが、病気のため一度退学を余儀なくされる。しかし体調が回復したため、1919年(民国8年/大正8年)、京都帝国大学法学部法律学科に入学し、1926年(民国15年/大正15年)3月、卒業して法学士の称号を取得した。 徐家桓は留学期間中に張学良と知り合い、その通訳をつとめるようになった。
水谷 秀雄(みずたに ひでお、1891年(明治24年)12月… 水谷 秀雄(みずたに ひでお、1891年(明治24年)12月24日 - 没年不詳)は、日本の内務官僚。関東州官僚。 愛知県出身。1915年(大正4年)、広島高等師範学校英語科を卒業。1921年(大正10年)、高等試験行政科に合格し、翌年に京都帝国大学法学部法律科を卒業した。内務属、山形県置賜郡長、同産業課長、同庶務課長、長野県蚕糸課長、関東庁事務官、内務局地方課長、長官官房調査課長、同文書課長代理、警務局高等警察課長、同文書課長、関東局専売局長・大連民政署長を歴任。1935年(昭和10年)、群馬県書記官・学務部長となり、宮城県学務部長、福岡県学務部長、長野県総務部長を歴任した。 1941年(昭和16年)に退官した後、住宅営団参事・名古屋支所長を務めた。
増山 正興(ましやま / ますやま まさおき、1891年〈明… 増山 正興(ましやま / ますやま まさおき、1891年〈明治24年〉12月12日 - 1939年〈昭和14年〉2月21日)は、明治から昭和期の宮内官、政治家、華族。貴族院子爵議員。旧姓・中川、旧名・興功。 男爵・中川興長の七男として生まれ、子爵・増山正治の養子となる。養父の隠居に伴い、1924年(大正13年)11月15日に子爵を襲爵した。 1919年(大正8年)7月、京都帝国大学法学部政治学科を卒業。 1901年(明治34年)侍従職出仕となる。以後、臨時帝室編修局書記、高松宮御用掛兼宮内省御用掛などを務めた。 1936年(昭和11年)1月18日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し死去するまで在任した。