中村 菊男(なかむら きくお、1919年11月11日 - 1… 中村 菊男(なかむら きくお、1919年11月11日 - 1977年5月17日)は、日本の政治学者、政治家。慶應義塾大学名誉教授。 三重県鳥羽町(現・鳥羽市)出身。慶應義塾大学予科時代に高畠基之門下である井原糺の薫陶を受け、1943年に慶大法学部を卒業。板倉卓造と米山桂三の推薦で助手となり、同時に文部省の特別研究生。1946年に助教授、1952年教授。 民主社会主義を唱え、1952年民主社会主義連盟の結成に参加。1955年左右社会党の統一に際しては右派代表として統一綱領を作成し、社会党右派が脱党して民主社会党を結成するとそのブレーン的存在となる。1958年にはワシントン大学のジャパン・セミナーで講師を務めた。
室井 鐵衛(むろい てつえ、1919年9月6日 - 2011… 室井 鐵衛(むろい てつえ、1919年9月6日 - 2011年4月5日)は、日本の商学者。元宣伝会議会長、東京国際大学教授。 米田清紀と並び、エリア・マーケティング研究の第一人者であった。商学博士。栃木県出身。 慶應義塾大学経済学部卒業後、時事通信社、中央調査社に勤務し、欧米の市場調査を日本に導入。その後、大広でマーケティング局長、常務取締役となり、広告の近代化と発展を牽引した。 実務の第一線から研究者に転じ、後年は千葉商科大学、東京国際大学大学院教授を務め、後進の育成に寄与した。 1993年から1999年まで株式会社宣伝会議取締役会長を務めた。 エリアマーケティングの第一人者で、長年にわたり広告マーケティング分野で活躍した。
神山 四郎(こうやま しろう、1919年8月10日 - 19… 神山 四郎(こうやま しろう、1919年8月10日 - 1996年12月31日)は、日本の西洋史学者、慶應義塾大学名誉教授。 東京生まれ。慶應義塾大学文学部卒業。慶大文学部助教授、教授、1985年定年退任、名誉教授。専門は歴史哲学、比較文明論、福沢諭吉研究。
和田木 松太郎(わだぎ まつたろう、1918年12月15日 … 和田木 松太郎(わだぎ まつたろう、1918年12月15日 - 1985年9月6日)は、日本の会計学者。 東京市向島区(現・墨田区)生まれ。1941年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、千代田生命保険相互会社に入社。1948年に退社し、同年から1951年まで経営研究所に勤務。1955年慶大経済学部講師、1958年助教授、1963年教授、1980年退職。1982年松阪大学教授となる。在任中、66歳で死去した。
青沼 吉松(あおぬま よしまつ、1918年12月6日 - 1… 青沼 吉松(あおぬま よしまつ、1918年12月6日 - 1990年2月12日)は、日本の経営学者。慶應義塾大学名誉教授。 東京生まれ。1943年慶應義塾大学経済学部卒。同年、短期現役海軍主計科士官(10期)を志願。同年9月、海軍経理学校に入学。1944年3月に経理学校を卒業し海軍主計中尉に任官。1945年3月、主計大尉に進み終戦を迎えた。 1949年慶大助教授、59年教授、60年「企業の社会的環境とその内的問題」で慶大経済学博士。84年定年、名誉教授、国際商科大学教授。
山路 健(やまじ たけし)、1918年3月31日 - 19… 山路 健(やまじ たけし)、1918年3月31日 - 1999年6月8日)は、日本の農業史学者、食文化研究家、文筆家。 三重県生まれ。筆名・梶山健。慶応義塾大学法学部法律学科卒業。 1952年農業発達史調査会研究員として『日本農業発達史』の執筆に参加。1959年より農政調査委員会、1960年企画部長、常任理事、専門委員。『食の科学』(光琳)編集長。1986年から文筆活動に専念。 1988年「文化的・社会経済的視座から考察した「食」の変貌に関する研究」で東京農業大学農学博士。
内山 正熊(うちやま まさくま、1918年1月13日 - 2… 内山 正熊(うちやま まさくま、1918年1月13日 - 2011年4月30日)は、日本の国際政治学者・外交学者。 東京都出身。本籍新潟県。1935年3月、第一東京市立中学校(のち東京都立九段高等学校)を卒業。1941年12月、慶應義塾大学経済学部を卒業。1942年1月、日本郵船に入社したが、同年12月に退職し慶応大学大学院に入学した。1943年6月、高等試験行政科に合格。 1943年10月、慶應義塾大学法学部助手となり、助教授を経て1953年4月、教授に就任。同年7月、ブリティッシュ・カウンシル留学生としてロンドン大学(ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス)に留学。1960年3月、論文「外交と国際政治」で法学博士(慶應義塾大学)を取得。
塚崎進(つかさきすすむ、1918年 - 2007年9月27日… 塚崎進(つかさきすすむ、1918年 - 2007年9月27日)は、日本の国文学者、民俗学者、歌人。筆号は東籬男(とう りお)。 1941年慶應義塾大学文学部国文学科卒業。折口信夫から国文学、民俗学、短歌作法を学び、折口春洋より短歌実作の指導を受ける。同時に柳田國男にもつき日本民俗学会に属す。
増井 健一(ますい けんいち、1917年(大正6年)7月8日… 増井 健一(ますい けんいち、1917年(大正6年)7月8日 - 2001年(平成13年)8月24日)は、日本の経済学者、慶應義塾大学名誉教授。交通経済学を専攻。 経済学者・増井幸雄の長男として静岡県浜松市に生まれる。慶應義塾幼稚舎、普通部、予科を経て、1940年3月に慶應義塾大学経済学部を卒業。同年4月から助手を務める。短期現役海軍主計科士官(4期)を志願し、同年5月、海軍経理学校に入学して海軍主計中尉に任官。同年9月に卒業。1942年3月、主計大尉に進む。1945年5月、海軍主計少佐に昇進して終戦を迎えた。 1945年10月に解員(復員)し、同助教授。1955年教授、1957年商学部教授、商学部長、1983年定年退任、名誉教授、松阪大学教授、1994年退職。
岡本 彰祐(おかもと しょうすけ、1917年(大正6年)1月… 岡本 彰祐(おかもと しょうすけ、1917年(大正6年)1月9日 - 2004年(平成16年)11月1日)は日本の医学者。止血剤:ε-アミノカプロン酸とトラネキサム酸、抗血栓薬:アルガトロバンの開発者として知られている。 東京生まれ。22歳で結核のために亡くなった長兄の「病気を治す薬の研究」の願いもあり、麻布中学卒業後、慶應義塾大学医学部へ進学。医学の真理を究めることが第一で、応用は邪道と考える当時の風潮の中、学問の真理の探究を通じて治療法を研究すべく、自由なテーマで研究のできる生理学教室を選ぶ。 1941年(昭和16年)6月、慶應義塾大学医学部を卒業、10月より生理学教室助手として、加藤元一、林髞の指導の下、神経・筋生理学の研究に従事。
矢崎 武夫(やざき たけお、1916年〈大正5年〉12月1日… 矢崎 武夫(やざき たけお、1916年〈大正5年〉12月1日 - 2005年〈平成17年〉1月30日)は、日本の都市社会学者。慶應義塾大学名誉教授、元明星大学教授。 1916年、東京の大森に生まれる。 1941年、慶應義塾大学経済学部卒業。東芝入社。1942-1946年、兵役で中国を転戦。 1949-1952年、シカゴ大学大学院留学。1954年、慶應義塾大学講師。1962年、慶應義塾大学教授。1967年、文学博士。1971-1972年、ハワイ大学客員ティーチング・プロフェッサー。 1975-1976年、香港中文大学崇基学院客員教授。1982年、慶應義塾大学名誉教授、明星大学教授。1993年、いわき明星大学教授。
澤田 允茂(さわだ のぶしげ、1916年9月26日 - 20… 澤田 允茂(さわだ のぶしげ、1916年9月26日 - 2006年4月14日)は、日本の哲学者、慶應義塾大学名誉教授。日本哲学会会長、日本科学哲学会会長を歴任。ヘーゲル批判を行ったことでも知られる。 1916年、東京府生まれ。愛媛県立松山中学校を経て、1934年3月、久留米市の福岡県立中学明善校を卒業。同年4月、慶應義塾大学に入学し、日吉の予科1期生となった。1940年3月、慶應義塾大学文学部西洋哲学科を卒業し、高等部の助手となった。 同年12月に陸軍に応召し麻布第3連隊に入隊。中国北部へ送られ、1941年1月、河南省の首都開封近隣に駐屯する第35師団の機関銃中隊に配属された。夏頃、保定に設けられた予備士官学校に入ったが、病気入院で卒業できず、乙種幹部候補生として原隊復帰し、軍曹となった。
佐々木 正五(ささき しょうご、1916年6月18日 - 2… 佐々木 正五(ささき しょうご、1916年6月18日 - 2014年11月20日)は、日本の海軍軍医(軍医大尉)、微生物学者、医学博士。慶應義塾大学名誉教授、東海大学名誉教授。東海大学医療技術短期大学学長。正七位(1945年)、勲二等瑞宝章(1994年)。 樺太の機関車を扱う商家に生まれた。1925年、慶應義塾幼稚舎入学。慶應義塾普通部卒業後、慶應義塾大学医学部予科修了、慶應義塾大学医学部本科卒業。1941年4月、慶應義塾大学医学部細菌学教室助手、5月に海軍二年現役軍医科士官となる。伊号第四潜水艦軍医長として真珠湾攻撃に参加し、詳細な日記を残した。1944年より陸上勤務。1945年に復員、慶應義塾大学医学部細菌学教室に戻り、小林六造に師事。
池田 彌三郎(いけだ やさぶろう、1914年12月21日 -… 池田 彌三郎(いけだ やさぶろう、1914年12月21日 - 1982年7月5日)は、日本の国文学者・民俗学者・随筆家。 1914年、東京市京橋区(現・東京都中央区)で生まれた。生家は銀座の天麩羅屋"天金"で、その次男。 京橋区立泰明小学校、東京市立第一中学校(のちの東京都立九段高等学校)を経て、1931年4月、慶應義塾大学経済学部予科に入学。同級には井筒俊彦や加藤守雄がいた。1934年4月、文学部国文科に転じ、折口信夫に師事。戸板康二たちと共に、折口主宰の短歌結社「鳥船社」に参加。1937年、慶應義塾大学文学部国文科を卒業。 卒業後は、慶應義塾大学文学部に勤務。1963年、学位論文『日本芸能伝承論』を慶應義塾大学に提出して文学博士号を取得。
八十島 信之助(やそしま しんのすけ、1914年(大正3年)… 八十島 信之助(やそしま しんのすけ、1914年(大正3年)10月1日 - 1990年(平成2年)7月16日)は、日本の法医学者。札幌医科大学名誉教授。 東京府出身。慶應義塾幼稚舎、慶應義塾普通部を経て、1938年に慶應義塾大学医学部を卒業。 東京都監察医として、1949年の下山事件で検視を行う。1951年「感電死の研究」で慶應義塾大学医学博士。慶應義塾大学講師。 1961年札幌医科大学教授。1985年定年退職、名誉教授。多くの司法解剖を行った。 1990年7月16日、死去。75歳没。 父は実業家の八十島親徳。岳父は医学者の川村麟也。兄に実業家の八十島親義、弟に土木工学者で東京大学名誉教授の八十島義之助。
今野 圓輔(こんの えんすけ、本名は圓助、1914年8月10… 今野 圓輔(こんの えんすけ、本名は圓助、1914年8月10日 - 1982年7月31日)は、日本の民俗学者、毎日新聞社員。 福島県出身。1941年慶應義塾大学文学部国文学科卒業。佐藤信彦、折口信夫から民俗学の薫陶を受けるとともに、柳田國男に師事。毎日新聞社に勤務しつつ、日本民俗学会評議員などを歴任。1947年民俗学研究所設立の際に牧田茂、直江広治らと共に実務面で尽力した。
井筒 俊彦(いづつ としひこ、1914年5月4日 - 199… 井筒 俊彦(いづつ としひこ、1914年5月4日 - 1993年1月7日)は、文学博士、言語学者、イスラーム学者、東洋思想研究者、神秘主義哲学者。慶應義塾大学名誉教授。エラノス会議メンバー、日本学士院会員。語学の天才と称され、大部分の著作が英文で書かれていることもあり、日本国内でよりも、欧米において高く評価されている。
武田 明(たけだ あきら、1913年12月15日 - 199… 武田 明(たけだ あきら、1913年12月15日 - 1992年7月29日)は日本の民俗学者。香川県出身。また、多度津町長も務めた。 1913年(大正2年)、香川県仲多度郡多度津町にて武田亮太郎、ハナの次男に生まれる。実家は、江戸末期からの北前船回船問屋を起源とする事業家。当時は県内の電力、金融等、社会資本関連企業の経営に広く携わっていた。 旧制香川県立多度津中学校(現・香川県立多度津高等学校)5年の時、柳田国男の『石神問答』を読み民俗学を志す。 1931年(昭和6年)、中学を卒業し、慶應義塾大学に入学。予科3年の時、初めて採集した昔話が関敬吾の編集する『昔話研究』第二巻に「祖谷 美馬郡昔話」として掲載され、関の紹介で柳田を自宅に訪ねる。
西岡 秀雄(にしおか ひでお、1913年10月6日 - 20… 西岡 秀雄(にしおか ひでお、1913年10月6日 - 2011年8月1日)は、日本の考古学者、人文地理学者。慶應義塾大学名誉教授。 仙台生まれ。1939年に慶應義塾大学文学部史学科卒業。1948年に慶應義塾大学予科講師、1956年に慶大助教授、1964年に教授、1979年に定年退任、名誉教授、大田区立郷土博物館館長に就任。2001年に退任。 1980年に東京都文化功労者。日本トイレ協会名誉会長、大森貝塚保存会名誉会長、日本旅行作家協会名誉会員なども務める。 音楽学者の西岡信雄は長男。
山本 登(やまもと のぼる、1912年〈大正元年〉11月5日… 山本 登(やまもと のぼる、1912年〈大正元年〉11月5日 - 1991年〈平成3年〉7月2日 )は、日本の経済学者、慶應義塾大学名誉教授。専門は植民政策学と国際経済学。 1912年、現在の東京都大田区大森で生まれる。1919年に入新井尋常高等小学校に入学、1921年に慶應義塾幼稚舎に編入。慶應義塾普通部を経て、1929年に慶應義塾大学経済学部予科入学。統計学者の寺尾琢磨に師事。 1935年同大学卒業、慶應義塾大学経済学部助手に就任、東南アジア学及び植民政策学、世界経済論を講義を担当する。ジャワ軍政監部調査部調査室主査となり、第二次世界大戦中は南洋経済・南方経済の研究に着手。大日本拓殖学会などに頻繁に論文を掲載し、開発経済学を研究した。
堀内 一彌(ほりうち かずや、1912年10月1日 - 19… 堀内 一彌(ほりうち かずや、1912年10月1日 - 1972年4月11日)は、日本の衛生学者。 慶應義塾大学附属医学専門部教授(1945年9月-1949年3月)、大阪市立医科大学(現・大阪市立大学大学院医学系研究科)教授(1947年3月-1972年4月11日)。重金属による環境汚染、とりわけ鉛中毒を専門とした。衛生学の分野に科学的手法を取り入れた、公害対策の第一人者であった。 東京都出身。1937年慶應義塾大学医学部を卒業し、同年聖路加病院内科に勤務する。1938年に陸軍の召集を受け、軍曹として軍務に付く。1939年6月少尉に任官し、1940年12月中尉に昇進する。1941年4月に召集解除となり、5月に慶應義塾大学医学部衛生学教室助手に就任。
手塚 豊(てづか ゆたか、1911年〈明治44年〉11月8日… 手塚 豊(てづか ゆたか、1911年〈明治44年〉11月8日 - 1990年〈平成2年〉4月14日)は、日本の法制史学者。慶應義塾大学名誉教授。 愛知県名古屋市出身。1935年慶應義塾大学法学部卒業。1958年「明治初期刑法史の研究」で、法学博士(慶應義塾大学)の学位を取得。慶應義塾大学法学部助教授、教授、1977年定年退任、名誉教授。
千種 義人(ちぐさ よしんど、1911年10月24日 - 2… 千種 義人(ちぐさ よしんど、1911年10月24日 - 2000年9月3日)は、日本の理論経済学者、慶應義塾大学名誉教授、関東学園大学名誉教授。広島修道大学学長。紫綬褒章受章。 1911年、兵庫県で生まれた。慶應義塾大学経済学部に入学し、金原賢之助のゼミナールに所属した。1937年に同大学を卒業し、ドイツ留学。 1937年、慶應義塾大学経済学部助手に採用された。1943年に助教授昇格。1944年からは警察大学校講師も兼任。 戦後も変わらず経済原論を担当した。1949年に教授に昇任。1960年、学位論文『資本主義計画経済の研究』を慶應義塾大学に提出して経済学博士を取得。1959年より1年間、ケンブリッジ大学およびハーバード大学に派遣研究留学。
山本秀夫(やまもと ひでお、1911年 - 1991年)は、… 山本秀夫(やまもと ひでお、1911年 - 1991年)は、日本の中国学者。東京府出身。 東京生まれ。1935年、慶應義塾大学文学部哲学科卒、東亜研究所に入る。1946年退職、1955年農業総合研究所中国研究室勤務。1977年退職。
籠山 京(篭山 京、かごやま たかし、1910年11月15日… 籠山 京(篭山 京、かごやま たかし、1910年11月15日 - 1990年6月16日)は、日本の衛生学者。 長崎県南高来郡小浜町(現・雲仙市)出身。1934年慶應義塾大学医学部卒。1938年「煖房に関する衛生気象学的研究」で医学博士。慶大講師、満鉄衛生研究所員、1944年同衛生試験所長。引き上げ後、中央労働学園大学教授、法政大学教授、1952年北海道大学教授。1969年上智大学教授。1981年定年、名誉教授。社会保障制度審議会委員など。1976年、著書の『戦後日本における貧困層の創出過程』について日本生活学会賞受賞、1983年勲二等瑞宝章受勲。著作集全8巻がある。 貧困層を調査、最低生活費について研究した。
石川 七郎(いしかわ しちろう、1910年4月20日 - 1… 石川 七郎(いしかわ しちろう、1910年4月20日 - 1986年6月27日)は外科医、慶應義塾大学教授。 京都府京都市中京区出身。1936年(昭和11年)慶應義塾大学医学部卒。慶應義塾大学医学部教授を経て国立がんセンター病院長、総長を務める。胸部外科の権威として知られ、慶應義塾大学病院、国立がんセンター病院で辣腕を振るう。墓所は多磨霊園。 孫は元NHKアナウンサーの石川光太郎。 専門は呼吸循環器外科であり、数々の肺癌摘出手術を行うも、本人はヘビースモーカーであった。親分肌の豪快な人物として知られ多くの部下に慕われた。軍医として戦陣医療に携わった経験もある。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
梅澤 純夫(うめざわ すみお、1909年11月22日 - 2… 梅澤 純夫(うめざわ すみお、1909年11月22日 - 2000年3月30日)は、日本の有機合成化学者。専門は抗生物質。慶應義塾大学名誉教授。 東京都生まれ。旧制武蔵高等学校を経て、北海道帝国大学理学部卒業。北海道帝国大学助教授、藤原工業大学助教授を経て、1944年慶應義塾大学工学部(現理工学部)教授となる。 1944年「ペニシリン委員会」のメンバーとして、次弟の梅澤濱夫博士と共同で研究にあたり、日本初のペニシリン採取に成功。ペニシリン、ストレプトマイシン等の抗生物質の研究で世界的に知られる。また、梅澤濱夫らが発見した国産初の本格的抗生物質カナマイシンの化学構造の決定に寄与した。世界に先駆け、ストレプトマイシン(1974年)その他の数多くの抗生物質の全合成を達成し、日本の有機合成化学、抗生物質の研究をリードした。
今井 善一郎(いまい ぜんいちろう、1909年〈明治42年〉… 今井 善一郎(いまい ぜんいちろう、1909年〈明治42年〉10月8日 - 1976年〈昭和51年〉1月10日)は、群馬県出身の民俗学者。日本民俗学会評議員。群馬県勢多郡北橘村議会議員を務めた。 1909年(明治42年)10月8日、群馬県勢多郡北橘村下箱田(現・渋川市北橘町下箱田)の今井善平と新子の長男として生まれる。今井家は農林業のかたわら質屋を経営していた。今井家は代々「善兵衛」の名を継ぐ旧家で祖父の今井善兵衛は1905年から1909年まで北橘村村長をつとめていた。1916年(大正5年)、橘尋常高等小学校に入学する。1922年(大正11年)、前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)に入学する。
三橋 富治男(みつはし ふじお、1909年〈明治42年〉4月… 三橋 富治男(みつはし ふじお、1909年〈明治42年〉4月10日 - 1999年〈平成11年〉5月2日)は、日本の東洋史学者。位階は従四位。 東京出身。慶應義塾大学文学部東洋史学科卒。外務省調査部嘱託、明治大学助教授を経て、千葉大学文理学部助教授、教授となる。1975年定年退官、名誉教授となる。トルコ史が専門。1999年死去。死没日付をもって従四位に叙された。
松下 隆章(まつした たかあき、1909年3月31日 - 1… 松下 隆章(まつした たかあき、1909年3月31日 - 1980年9月15日)は、日本の美術史家。中世日本美術を主として扱った。
梅澤 純夫(うめざわ すみお、1908年11月22日 - 2… 梅澤 純夫(うめざわ すみお、1908年11月22日 - 2000年3月30日)は、日本の有機合成化学者。専門は抗生物質。慶應義塾大学名誉教授。
冨田 恒男(とみた つねお、1908年<明治41年>10月8… 冨田 恒男(とみた つねお、1908年<明治41年>10月8日 - 1991年<平成3年>6月23日)は日本の生理学者。医学博士。慶應義塾大学医学部名誉教授で医学部長を務めた。アメリカ合衆国のイェール大学名誉教授。眼の網膜の情報処理機構の研究で知られ、視覚神経生理学、感覚生理学の世界的権威とされる。1972年(昭和47年)、紫綬褒章受章。1978年(昭和53年)、勲二等瑞宝章受章。位階は従四位。愛知県岡崎市出身。
気賀 健三(きが けんぞう、1908年〈明治41年〉10月6… 気賀 健三(きが けんぞう、1908年〈明治41年〉10月6日 - 2002年〈平成14年〉2月15日)は、日本の経済学者、慶應義塾大学名誉教授。 同じく経済学者であった気賀勘重の子として東京に生まれる。1930年慶應義塾大学経済学部経済学科卒業、同学部助手。1937年同助教授、1942年教授。1956年、「社会的進歩の原理 : 経済政策原理の社会哲学的研究」で慶應義塾大学より経済学博士を取得。1974年定年退職、名誉教授、成城大学教授。学校法人桑沢学園理事長、教科書正常化国民会議会長[要出典]。 はじめソ連経済を研究し、ソ連、東欧研究会代表理事だったが、スタンスは反共主義で民主社会主義研究会議理事であった。
村田 武雄(むらた たけお、1908年9月30日 - 199… 村田 武雄(むらた たけお、1908年9月30日 - 1997年3月16日)は、音楽評論家・国立音楽大学名誉教授。東京都出身。 1950年代から1980年代にかけて、クラシック音楽に関する書籍などを多数執筆し、その普及につとめた。海外の音楽関連の書籍の翻訳なども手がけている。晩年は、当時の音楽評論家の代表格として数えられる存在だった。 堀内敬三の後を受けてNHKラジオ第1放送のクラシック音楽専門の番組「音楽の泉」2代目パーソナリティとして、1959年度から1987年度まで、延べ30年近くの長きにわたって担当したことで知られた。永井荷風と疎開先の岡山で知り合った。また、慶應義塾大学・国立音楽大学などでは、教授として音楽史について教鞭を執っていた。
岩崎 良三(いわさき りょうぞう、1908年2月16日 - … 岩崎 良三(いわさき りょうぞう、1908年2月16日 - 1976年3月4日)は、日本の英文学・西洋古典学研究者、慶應義塾大学名誉教授。東京生まれ。慶應義塾大学文学部卒。慶大教授、1974年定年、名誉教授。戸板女子短期大学教授。妻・さくら子は太田秀穂の次女。
松林 久吉(まつばやし ひさきち、1907年(明治40年)9… 松林 久吉(まつばやし ひさきち、1907年(明治40年)9月7日 - 1978年(昭和53年)7月11日)は、日本の医師、医学博士、寄生虫学者。 慶應義塾大学医学部長(第7代)、初代琉球大学保健学部長、防衛医科大学校初代校長等を歴任。従四位。 山口県萩市の旧家真鍋家に生まれ、少年時代に東京に出て、のちに同じ萩出身の高名な日本画家・松林桂月の家に入って松林と姓を改めている。
高島 重孝(たかしま しげたか、1907年6月29日 - 1… 高島 重孝(たかしま しげたか、1907年6月29日 - 1985年1月23日)は、日本の医学者、皮膚科医。ハンセン病治療に貢献した。国立療養所栗生楽泉園、東北新生園、傷痍軍人武蔵療養所、同愛媛療養所、傷痍軍人駿河療養所(所長;国立駿河療養所)、国立療養所長島愛生園(園長)に勤務した。長島愛生園と本土を結ぶ、長島架橋に努力した。 1907年6月29日 東京府東京市麻布区(現・東京都港区麻布)に生まれる。1931年3月 慶應義塾大学医学部卒業。1931年4-8月 同予防医学教室助手。1933年2月 国立らい療養所栗生楽泉園嘱託。4月同医官。1938年9月 国立らい療養所東北新生園勤務。1940年8月 慶應義塾大学 医学博士 論文の題は 「癩の罹患素質と家庭内伝染について」。
峯村 光郎(みねむら てるお、1906年6月26日 - 19… 峯村 光郎(みねむら てるお、1906年6月26日 - 1978年2月18日)は、日本の法学者。慶應義塾大学名誉教授。 専門は法哲学、経済法、労働法。 長野県上水内郡水内村(現長野市)出身。旧制長野中学(長野県長野高等学校)を経て慶應義塾大学法学部卒。 慶應義塾大学助教授、1938年教授。1948年法学博士。のちに同大学法学部長。1972年定年退任、名誉教授、國學院大學教授。日本法哲学会理事長。 1976年勲一等瑞宝章叙勲。 1949年の公共企業体等労働関係法の施行以降には、公共企業体の労働関係問題に深く携わり、1956年からは公共企業体等労働委員会(中央労働委員会の前身)の会長代行、会長を務めた。
龍野 一雄(たつの かずお、1905年(明治38年)12月1… 龍野 一雄(たつの かずお、1905年(明治38年)12月19日 - 1976年)は医史学者、医学博士、漢方医学者。新字体表記は竜野一雄。 東京都千代田区出身。 独協中学校卒業後、1932年に慶應義塾大学医学部を卒業し、1935年に同大の医学部講師となる。東洋医学も積極的に研究し、1939年には拓殖大学の漢方講座講師、1951年には漢方研究会を発足させ、1952年にも漢方杏林会を発足させている。また、1950年設立の日本東洋医学会の初代会長(当時は理事長)に就任している。龍野は漢方の科学化を唱えたが、大塚敬節は漢方は学ではない、術だと主張し、龍野一雄を理事会から追放した。このことは山本巌が対談で明らかにしている。
小林 高四郎(こばやし たかしろう、1905年5月7日 - … 小林 高四郎(こばやし たかしろう、1905年5月7日 - 1987年1月2日)は、東洋史学者、横浜国立大学名誉教授。専攻はモンゴル史・元朝史。 1905年、新潟県で生まれた。慶應義塾大学文学部支那文学科で学び、1930年に卒業。1933年より北京に留学し、モンゴル語を学んだ。 帰国後、慶應義塾大学教授に就いた。外務省に調査官として入省し、満蒙の調査を担当した。第二次世界大戦中の1942年、ソ連経由でアンカラに赴任、日本大使館書記官をつとめた。1946年3月2日に帰国。 1949年、横浜国立大学教授となった。また、神奈川県立外語短期大学教授も兼任した。1953年に学位論文『元朝秘史の研究』を京都大学に提出し文学博士の学位を取得。
伊東 俊夫(いとう としお、1904年(明治34年)8月5日… 伊東 俊夫(いとう としお、1904年(明治34年)8月5日 - 1991年(平成3年)7月6日)は、愛知県出身の日本の解剖学者、医学博士。 1956年(昭和31年)、群馬大学医学部で教授として務めていた際に発見した伊東細胞の発見者として名高い。 慶應義塾大学を卒業し、慶應義塾大学にて助教授を務め、東京女子医学専門学校(現:東京女子医科大学)で教授を務める。その後は前橋医科大学、群馬大学、帝京大学にて教授を務める。 1956年に群馬大学医学部で教授を務めていた際に、肝臓を構成する微小組織で、ディッセ腔に存在する線維芽細胞の1つである伊東細胞を発見する。なお、伊東が発見報告した際の名称は「脂肪摂取細胞」であった。
西川 寧(にしかわ やすし、1902年〈明治35年〉1月25… 西川 寧(にしかわ やすし、1902年〈明治35年〉1月25日 - 1989年〈平成元年〉5月16日)は、20世紀を代表する日本の書家、金石学者、中国文学者、西域出土晋代墨蹟の書道史的研究で文学博士(慶應義塾大学)。字は安叔。号は靖闇。贈正三位(没時叙位)、贈勲一等瑞宝章(没時陞叙)。息子の西川杏太郎は奈良国立博物館長、東京国立文化財研究所所長を歴任した仏像を中心とした日本彫刻史の研究者。 明治の大家、西川春洞の三男として東京に生まれる。俗に「昭和の三筆」の一人とも言われる。現代の書壇に最も影響を及ぼし、書の巨人と呼ばれ、文字学研究者として、また書壇を驚かす強烈なインパクトの作品を数々残した。子に美術史研究者の西川杏太郎がある。
英 修道(はなぶさ ながみち、1902年1月17日 - 19… 英 修道(はなぶさ ながみち、1902年1月17日 - 1994年9月9日)は、日本の国際政治学者。学位は、法学博士(東京帝国大学・1945年)(学位論文「中華民国に於ける列国の条約権益」)。慶應義塾大学名誉教授。1975年勲三等旭日中綬章受章。 東京生まれ。1926年慶應義塾大学法学部卒業。1945年「中華民国に於ける列国の条約権益」で東京帝国大学より法学博士の学位を取得。慶應義塾大学法学部助教授、教授、1968年定年、名誉教授。1968-1972年日本国際政治学会理事長。1975年勲三等旭日中綬章受勲。 長男は医学博士の英清道(慶應義塾大学医学部卒)。次男は外交官の英正道(慶應義塾大学経済学部卒)。
藤原 守胤(ふじわら もりたね、1901年10月11日 - … 藤原 守胤(ふじわら もりたね、1901年10月11日 - 1977年12月14日)は、日本のアメリカ史学者。慶應義塾大学名誉教授。日本初の女性弁護士の一人である久米愛は実妹。 福岡県福岡市生まれ。1925年慶應義塾大学法学部政治学科卒業。翌年からイギリス、フランスに留学し、1927-1930年ハーバード大学大学院に在籍。1942年立教大学アメリカ研究所常務理事、1945年所長。1949年立教大学教授。1950年「アメリカ建国史論」で東京大学法学博士。1951年慶應義塾大学法学部教授。1958年同大学理事を務め、1964年義塾賞受賞。1970年退職、名誉教授。その後は京都外国語大学教授を務めた。
潮田 江次(うしおだ こうじ、1901年(明治34年)6月9… 潮田 江次(うしおだ こうじ、1901年(明治34年)6月9日 - 1969年(昭和44年)5月9日)は日本の政治学者。慶應義塾創立者福澤諭吉の孫で慶應義塾長、日本政治学会初代理事、第3代理事長を歴任。「政治概念論争」の口火をきったことで知られる。 1901年(明治34年)東京で、芝浦製作所技師・潮田伝五郎の次男として生まれる。福澤諭吉の五女光を母とする。つまり、福澤の孫にあたる。 慶應義塾幼稚舎から普通部を経て、1922年(大正11年)3月法学部政治学科第2学年を修了したのち、アメリカのコーネル大学に留学し、1923年(大正12年)7月帰国、1924年(大正13年)4月から法学部で教鞭をとった。
原島 進(はらじま すすむ、1901年5月17日 - 197… 原島 進(はらじま すすむ、1901年5月17日 - 1972年7月27日)は、日本の衛生学者。 東京出身。1926年慶應義塾大学医学部卒。1930年「麻醉の本態に関する研究」で医学博士。慶大助手、講師、1932年米国に渡り、1935年ジョンズ・ホプキンズ大学卒、帰国して慶大助教授、1946年教授。1967年定年、名誉教授、桃山学院大学教授。WHO専門委員、中央公害審議会委員、HLO労働衛生専門委員、厚生省生活環境審議会公害部会長を務めた。工業中毒、環境生理学、社会医学を研究した。
小高 泰雄(こだか やすお、1901年3月25日 - 196… 小高 泰雄(こだか やすお、1901年3月25日 - 1969年8月18日)は、日本の経営学者、会計学者。 神奈川県横浜市生まれ。1928年慶應義塾大学経済学部卒、1929年同助手となり、欧米留学を経て1937年助教授、1939年教授、1948年「企業に於ける資本計算制度の発展」で経済学博士の学位を取得。1963年商学部長。1969年定年となり、名誉教授。
宮本 延人(みやもと のぶひと、1901年2月8日 - 19… 宮本 延人(みやもと のぶひと、1901年2月8日 - 1988年7月12日)は、日本の民俗学者。 1901年、長野県上田市に生まれる。9歳の時に家族とともに東京に移り住んだ。1928年に慶應義塾大学文学部史学科卒業後、台湾に渡り、台北帝国大学で民俗学の講師をしながら台湾原住民の研究を行い、現在の台湾原住民に関する学問的基礎を築いた。1943年、京城帝国大学に転任し、人文科学研究所の助教授に就任した。 戦後は中華民国政府に請われて台湾に残り、台湾大学の教授を務めた。1948年に日本に帰国。その後は東海大学教授として文学部長など要職を歴任した。1972年に退官し、1975年に名誉教授となった。1988年に死去した。
菅沼 貞三(すがぬま ていぞう、1900年12月11日 - … 菅沼 貞三(すがぬま ていぞう、1900年12月11日 - 1993年2月20日)は、日本美術史学者。 静岡県小笠郡菊川町(現・菊川市)生まれ。慶應義塾大学卒。1946年慶大助教授、1960年「渡辺崋山 近世日本画家の研究」で慶大文学博士。1962年教授。崋山、池大雅など、近世文人画を研究。1966年定年退任。常葉美術館館長、のち名誉館長。
永澤 邦男(ながさわ くにお、1899年(明治32年)11月… 永澤 邦男(ながさわ くにお、1899年(明治32年)11月21日 - 1972年(昭和47年)4月9日)は、慶應義塾長、慶應義塾大学法学部長兼大学院法学研究科委員長、法学博士、名誉教授。日本私立大学連盟会長、私立大学振興政策委員会委員長、私立大学設置審議会会長、日本私学振興財団初代理事長を歴任。 従三位瑞宝大綬章[要出典]。家紋は丸に橘紋[要出典]。 東京都生まれ。1924年(大正13年)慶應義塾大学法学部法律学科卒業。法学部助手、助教授を経て1933年(昭和8年)に教授。刑事法を担当。1947年(昭和22年)1月神崎丈二と共に慶應義塾常任理事に就任。1956年(昭和31年)7月常任理事を退任し、1963年から法学部長。