早川 種三(はやかわ たねぞう、1897年(明治30年)6月… 早川 種三(はやかわ たねぞう、1897年(明治30年)6月6日 - 1991年(平成3年)11月10日)は、日本の実業家。戦後数々の大型倒産において管財人として企業再建に取り組み、「会社再建の神様」と呼ばれている。 宮城県宮城郡七郷村南小泉(現仙台市)に早川智寛・長子夫妻の子として生まれる。父智寛は土建業で財を成したが、すでに第一線を退き、仙台商業会議所会頭や米穀取引所理事長などの名誉職にあった。後に仙台市長にも就任した。 慶應義塾大学在学中は茶屋遊びをはじめとする放蕩生活で遺産を蕩尽した。慶大を5回落第し、卒業するのに10年もかかった。20歳の時に父が財産分けしてくれた30万円(今だと2、3億円になる)を10年間にほぼ使い果たした。
藤田 耕二(ふじた こうじ、1897年 <明治30年> 4月… 藤田 耕二(ふじた こうじ、1897年 <明治30年> 4月27日 - 1970年 <昭和45年> 5月10日)は、日本の経営者。第四銀行頭取を務めた。位階は従五位。 新潟県出身。1921年に慶應義塾理財科を卒業し、1924年に第四銀行に入行。1941年1月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1953年5月には頭取に就任。 1960年5月に紺綬褒章を受章し、1967年4月に勲四等旭日小綬章を受章。 1970年5月10日心筋梗塞のために死去。73歳没。死没日付をもって従七位から従五位に進階した。
寺田 甚吉(てらだ じんきち、1896年(明治29年)12月… 寺田 甚吉(てらだ じんきち、1896年(明治29年)12月21日 - 1976年(昭和51年)1月24日)は、日本の実業家、政治家。貴族院議員。寺田甚与茂の長男。妻は元女優の筑波雪子。正四位勲二等、研究会所属。職業野球チーム・南海軍(現在の福岡ソフトバンクホークス)創設者・初代オーナー。 大阪府出身。慶應義塾大学卒業。甚与茂の死去後は、寺田合名会社社長をはじめ、和泉銀行頭取、南海鉄道、岸和田紡績(後の大日本紡績、現在のユニチカ)、日本純生食品工業各社長を歴任した。南海鉄道社長時代には阪急電鉄の小林一三と阪神電鉄取締役の細野躋に誘われる形で現在の福岡ソフトバンクホークスの源流に連なる職業野球チームの南海軍を創設し、初代オーナーを務めた。
伊知地 寧次郎(いちぢ やすじろう、1896年8月8日 - … 伊知地 寧次郎(いちぢ やすじろう、1896年8月8日 - 1967年11月6日)は、日本の実業家。 福岡県出身。1915年福岡県立中学修猷館を経て、1922年慶應義塾大学部理財科(現・経済学部)卒業。 大同電力に入社。天竜川電力、矢作水力、矢作工業、昭和曹達の各理事を歴任。1943年7月鶴見曹達専務、1948年日東味の精社長、1952年2月東亞合成化学工業常務、1954年東北化学工業社長を経て、1958年鶴見曹達および東亞合成化学工業の社長に就任する。 1959年矢作製作所取締役、1960年寺岡製作所会長、1963年日本アクリル化学社長、東海興業監査役も務めた。 1964年藍綬褒章受章、1966年勲三等に叙せられる。
綿貫 佐民(わたぬき すけたみ、1896年〈明治29年〉4月… 綿貫 佐民(わたぬき すけたみ、1896年〈明治29年〉4月25日 - 1950年〈昭和25年〉9月7日)は、日本の政治家、実業家。元衆議院議員の綿貫民輔は長男。 兵庫県三原郡賀集村(現・南あわじ市)の南家に生まれる。父は兵庫県議、自由民権家の南嘉五郎。慶應義塾大学部理財科卒。卒論は交通経済学。卒業後は日本電力に入社し、日本電力社員として小牧ダム建設のため富山県井波町(現・南砺市)に入る。ダム建設反対運動のさなか、運動家たちとの接触を通じてダム反対派の中心メンバーの一人だった綿貫栄と知り合う。綿貫栄らが条件闘争派として反対運動からの分派行動をとる過程で親しくなり、綿貫栄の長女と結婚する。綿貫栄の長男が交通事故で亡くなったため婿として綿貫家に迎えられる。
山下 太郎(やました たろう、1896年4月19日 - 19… 山下 太郎(やました たろう、1896年4月19日 - 1970年2月26日)は、日本の実業家。元山下汽船社長、会長。父は山下汽船創業者山下亀三郎。
武田 正泰(たけだ まさやす、1896年 <明治29年> 3… 武田 正泰(たけだ まさやす、1896年 <明治29年> 3月29日 - 1969年 <昭和44年> 5月23日)は、日本の経営者。位階は従四位。 愛媛県出身。1916年に慶應義塾理財科を卒業し、同年に三井倉庫に入社。1943年11月に取締役に就任し、常務を経て、1947年に社長に就任し、1968年5月までに務めた。1959年に藍綬褒章を受章し、1966年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 1969年5月23日がん性腹膜炎のために死去。73歳没。死没日付をもって従四位に叙された。
松田 伊三雄(まつだ いさお、1896年3月10日 - 19… 松田 伊三雄(まつだ いさお、1896年3月10日 - 1972年6月23日)は、日本の実業家。元三越社長。 香川県三野郡詫間村(現 三豊市詫間町)出身。旧制香川県立三豊中学校、慶應義塾大学部理財科(現 慶應義塾大学経済学部)卒業。 両親と兄弟五人が早死にし、すぐ上の姉とその夫を後見人として、三豊中学、慶應義塾大学部で学ぶ。三豊中学在学中は、自宅から三里程の距離があったため、寄宿舎に入り通った。慶應義塾大学部では、マンドリンクラブに所属した。 1919年(大正8年)慶應義塾大学部卒業後、三越本店に入社。入社後の苦労は相当なものだった。和服に前掛け姿。初めは通信販売の仕事に携わったが、残業に次ぐ残業で連日帰宅は夜11時をまわっていた。
中鉢 常正(なかばち つねまさ、1895年〈明治28年〉11… 中鉢 常正(なかばち つねまさ、1895年〈明治28年〉11月14日 - 1978年〈昭和53年〉11月19日)は、日本の経営者。東京都出身。位階は正五位。 1919年に慶應義塾大学法科を卒業。古河鉱業での勤務を経て、1934年に古河電気工業に転じ、1949年に取締役に就任し、1955年3月に常務を経て、1957年2月に日本ゼオン副社長に就任し、1960年5月には社長に昇格。1962年11月には相談役に就任。 1971年4月に勲三等瑞宝章を受章。 1978年11月19日心不全のために死去。83歳没。死没日付をもって正五位に叙された。
9代九鬼 紋七(くき もんしち、1895年(明治28年)10… 9代九鬼 紋七(くき もんしち、1895年(明治28年)10月13日 - 1990年(平成2年)11月17日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員(1期)を務めた。旧名・徳三、号・寿園。 三重県出身。四日市で代々肥料商を営む大地主の長男として生まれる。家業を継いだ父親の先代紋七は三重県の多額納税者であり、九鬼産業の重役を務めた。1921年慶應義塾大学部理財科卒業。1927年に父親が死去し、家督を相続。英国留学、欧米視察の後、東洋紡績監査役、東洋電線監査役、日本無線電信取締役、三重銀行頭取などを務め、1942年の総選挙(いわゆる翼賛選挙)で翼賛政治体制協議会の推薦を受けて当選する。戦後、日本進歩党に加入するが、推薦議員のため公職追放となる。
有松 潤一郎(ありまつ じゅんいちろう、1895年8月28日… 有松 潤一郎(ありまつ じゅんいちろう、1895年8月28日 - 1980年12月27日)は、日本の経営者、銀行家。大和銀行社長を務めた。岡山県岡山市出身。 1922年に慶應義塾理財科を卒業し、同年に大和銀行に入行。1944年11月に専務に就任し、1947年1月に代表取締役を経て、1948年6月から1950年8月までに社長を務めた。 大阪銀行協会会長も務めた。 1965年に勲二等瑞宝章を受章。 1980年12月27日に老衰のために死去。85歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
佐々木 善七(ささき ぜんしち、1895年3月1日 - 19… 佐々木 善七(ささき ぜんしち、1895年3月1日 - 1994年8月11日)は、日本の経営者。島根県出身。 1918年に慶應義塾理財科を卒業。岩井商店、徳山鉄板での勤務を経て、1930年に関西ペイントに転じた。 1946年4月に取締役に就任し、1955年4月には社長に就任。1966年5月に会長を経て、1972年11月から顧問を務めた。 1961年に藍綬褒章を受章し、1966年4月に勲三等瑞宝章を受章し、1967年に紺綬褒章を受章。 1994年8月11日肺炎のために死去。99歳没。
八木 幸吉(やぎ こうきち、1895年(明治28年)2月25… 八木 幸吉(やぎ こうきち、1895年(明治28年)2月25日 - 1976年(昭和51年)7月26日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(1期)、参議院議員(2期)。 大阪府大阪市出身。八木商店創業者八木与三郎の二男として生まれる。1917年(大正6年)慶應義塾大学部理財科を卒業した。 鐘淵紡績(のちカネボウ)に入社し、営業部蚕業課長、兵庫工場長などを歴任。武藤山治の秘書となり、1919年(大正8年)ワシントンで開催の第1回国際労働会議に傭主側代表となった武藤に父の与三郎とともに随行して出席した。1921年(大正10年)武藤の次女二三子と結婚。 実業同志会理事に就任し、1930年(昭和5年)2月の第17回衆議院議員総選挙で兵庫県第3区から出馬して当選し、衆議院議員を1期務めた。
伊藤 與八(いとう よはち、1894年 <明治27年> 10… 伊藤 與八(いとう よはち、1894年 <明治27年> 10月1日 - 1979年 <昭和54年> 4月30日)は、日本の経営者、銀行家。千葉興業銀行頭取を務めた。新潟県出身。位階は従五位。 1924年に慶應義塾大学法学部を卒業。第九十八国立銀行支配人、千葉銀行取締役、常務、千葉興業銀行専務、副頭取を経て、1963年5月には頭取に就任。1969年4月には会長に就任。 1965年に黄綬褒章を受章し、1968年に勲四等瑞宝章を受章。 1979年4月30日に急性肺炎のために死去。84歳没。死没日付をもって従五位に叙された。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
日下 晃次郎(くさか こうじろう、1894年〈明治27年〉9… 日下 晃次郎(くさか こうじろう、1894年〈明治27年〉9月30日 - 没年不明)は、日本の実業家、広島県多額納税者。廣島證券商事社長。斎藤商店取締役。 広島県賀茂郡三津町(現・東広島市安芸津町三津)出身。酒造業・日下賛三の二男。広島県立広島第一中学校卒業。1921年、慶應義塾大学部理財科卒業。広島産業銀行員となる。1925年、家督を相続した。農業を営んだ。三津酒造専務取締役に就任した。 1930年、加奈陀サン生命保険に入り、広島支部長を務めた。廣島證券商事取締役、同社長を務めた。住友生命保険会社に勤務した。 貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有した。処世の信条は協力一致。趣味はスポーツ、読書、運動。
岩瀬 英一郎(いわせ えいいちろう、1894年9月13日 -… 岩瀬 英一郎(いわせ えいいちろう、1894年9月13日 - 1963年3月22日)は、日本の経営者。三越社長を務めた。 神奈川県出身。1918年に慶應義塾理財科を卒業し、同年に三井銀行に入行。 1938年に東京電燈常務に就任し、1942年に関東配電理事を経て、1943年6月に三越社長に就任。 1963年3月22日、死去。68歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
奥 主一郎(奧、おく しゅいちろう、1894年(明治27年)… 奥 主一郎(奧、おく しゅいちろう、1894年(明治27年)9月12日 - 1976年(昭和51年)11月22日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員、参議院議員。 京都府出身。政治家・奥繁三郎の長男として生まれる。1919年(大正8年)慶應義塾大学部理財科を卒業した。同年、三井銀行に入行した。 以後、京都倉庫社長、京都瓦斯副社長、愛宕山鉄道監査役、渡良瀬水電監査役、帝国瓦斯協会(現日本ガス協会)参事、丸物百貨店取締役、山城八幡銀行取締役、安田火災海上保険(現損害保険ジャパン)取締役、大日本政治会京都支部幹事長などを務めた。 1942年(昭和17年)京都府多額納税者として補欠選挙で貴族院多額納税者議員に互選され、同年5月19日に就任し、交友倶楽部に属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
上野 三郎(うえの さぶろう、1894年〈明治27年〉9月 … 上野 三郎(うえの さぶろう、1894年〈明治27年〉9月 - ?)は、日本の実業家。 栃木県宇都宮市生まれ。肥料商、栃木県多額納税者・上野松次郎の三男。1921年、慶應義塾大学部理財科卒業。 藤本ビルブローカー本店東京支店各勤務。下野製紙取締役東京支店長、三和製紙、旭土地各取締役をつとめる。 五代上野松次郎の三男、六代上野松次郎の弟である。1928年、分家した。趣味は洋画、登山、書道。宗教は曹洞宗。東京府在籍で、住所は東京市本郷区駒込上富士前町。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
佐藤 洋之助(さとう ようのすけ、1894年(明治27年)7… 佐藤 洋之助(さとう ようのすけ、1894年(明治27年)7月9日 - 1984年(昭和59年)7月7日)は、日本の政治家、実業家。所属政党は戦前は立憲政友会→政友会革新同盟→日本進歩党、公職追放解除後は自由党→自由民主党。衆議院議員を通算10期務めた。 茨城県猿島郡古河町(現在の古河市)の旧家・佐藤長之助の長男として生まれる。慶応義塾大学中退。古河町会議員、茨城県会議員、同副議長を経て、1932年の第18回衆議院議員総選挙で茨城県3区(当時)から政友会公認で立候補して初当選。1939年の政友会分裂に際しては中島知久平が総裁を務める政友会革新派に参加。1942年の翼賛選挙では翼賛政治体制協議会の推薦を受けて当選する。
大矢知 昇(おおやち のぼる、1893年11月25日 - 1… 大矢知 昇(おおやち のぼる、1893年11月25日 - 1970年1月30日)は、日本の経営者。東横百貨店(現在の東急百貨店)社長を務めた。 三重県出身。1916年に慶應義塾理財科を卒業し、同年に三井銀行に入行。1939年に取締役に就任し、1941年に常務を経て、戦後の三井銀行改め帝国銀行常務在任時の1946年、公職追放の発表に先立って帝銀万代順四郎会長、入間野武雄頭取(大蔵省出身)、戦前三井財閥のリーダー池田成彬らと共に、池田の子飼とみなされ、かつ万代の後継リーダーと目されていた大矢知も退任した。1948年5月に東横百貨店社長に就任し、1963年9月に相談役に退いた。 1970年1月30日脳血栓のために死去。
4代 瀬川 弥右衛門(せがわ やえもん、1893年〈明治26… 4代 瀬川 弥右衛門(せがわ やえもん、1893年〈明治26年〉11月4日 - 1967年〈昭和42年〉11月21日)は、日本の資産家、実業家、政治家(貴族院多額納税者議員)。「弥右衛門」の名前は代々襲名されており、本記事に記載するのは4代目である。 岩手県稗貫郡花巻町出身。出生名は周蔵。花巻町でも有数の豪農である瀬川家に、3代弥右衛門の子として生まれ、父の死去に伴い1922年(大正11年)1月に家督を相続し弥右衛門を襲名した。 慶應義塾大学経済学部を卒業。父が没した1922年の時点では瀬川家は県下一の多額納税者であった。この時期には農家から貸金業に中心は移っていたとみられている。豊富な資金を岩手軽便鉄道・花巻電気などに投資し、その役員となった。
前田 善治(まえだ ぜんじ、1893年(明治26年)5月31… 前田 善治(まえだ ぜんじ、1893年(明治26年)5月31日 - 1970年(昭和45年)6月2日)は、日本の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員。 和歌山県名草郡安原村字吉原(現・和歌山市)で前田和一の長男として生まれ、1910年、前田勝之助の養子となる。北海道庁立上川中学校を経て、慶應義塾大学部理財科で学んだ。北海道に戻り農業を営む。 旭川信用組合監事、北日本無尽 (株) 監査役、下村育英財団理事、前田和一商店社長、旭川小型モータース社長、旭川信用金庫理事、旭川瓦斯 (株) 常任監査役、人事調停委員などを務めた。 政界では、旭川市会議員、同議長、北海道会議員、同参事会員を歴任。この間、旭川市長候補者に推薦されたが承諾しなかった。
塩川 政巳(しおかわ まさみ、1893年〈明治26年〉3月2… 塩川 政巳(しおかわ まさみ、1893年〈明治26年〉3月29日 - 没年不明)は、日本の実業家、政治家。佐久銀行頭取。浅間山観光、塩久各社長。長野県会議員。曹洞宗玄江院総代会長。 長野県・塩川幸太の長男。塩川三四郎の甥。1917年、慶應義塾大学部政治学科を卒業。第一銀行に入行。1923年、佐久銀行に転じる。1936年、家督を相続する。 佐久銀行常務を経て頭取に就任。長野貯蓄銀行、千曲自動車各監査役、東京美術館取締役、浅間山観光、塩久各社長、県選管委員長などをつとめる。 宗教は曹洞宗、禅宗。趣味はスポーツ、美術品愛好、運動、俳諧。長野県小諸市在籍で、住所は長野県北佐久郡三岡村森山(現・小諸市森山)、東京宅は赤坂区丹後町。
木暮 武太夫(こぐれ ぶだゆう、旧名・正一(まさかず)、18… 木暮 武太夫(こぐれ ぶだゆう、旧名・正一(まさかず)、1893年〈明治26年〉2月17日 - 1967年〈昭和42年〉7月10日)は、日本の政治家、実業家、群馬県多額納税者。位階は正三位。衆議院議員(8期)、参議院議員(2期)、運輸大臣。伊香保温泉の旅館業、木暮旅館主。群馬県観光協会、日本温泉協会各会長。群馬銀行取締役会長、関東いすゞ自動車販売社長、群馬バス社長。25代目武太夫。 群馬県北群馬郡伊香保町(現・渋川市)出身。先代・木暮武太夫(元衆議院議員)の長男。 1912年(明治45年)、旧制前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)卒業。1917年(大正6年)、慶應義塾大学理財科を卒業。はじめ三井銀行に勤めたが、退社して家業の旅館業に従事した。
田川 誠治(たがわ せいじ、1892年(明治25年)8月5日… 田川 誠治(たがわ せいじ、1892年(明治25年)8月5日 - 1965年 <昭和40年> 9月2日)は、日本の商人(米穀並びに酒類商)、実業家、政治家。位階は従六位。 神奈川県三浦郡田浦町(現横須賀市)出身。田川平三郎の二男。1916年3月、慶應義塾大学部理財科卒業。米穀並びに酒類商を営む。神奈川県会議員に当選し、2期つとめた。 横須賀酒類商業組合理事長、横須賀タクシー会長、湘南商事、神奈川県容器各社長、田浦土地建物、神奈川無尽、神奈川県油工業、神奈川県食糧工業各取締役、神奈川県食糧営団専務理事などをつとめた。1965年死去。死没日付をもって従六位に叙された。 自由主義者で、福沢諭吉の「独立自尊」を信奉しており、子供には干渉しなかった。
坂東 舜一(ばんどう しゅんいち、明治25年(1892年)6… 坂東 舜一(ばんどう しゅんいち、明治25年(1892年)6月30日 - 昭和52年(1977年)11月3日)は、日本の航空実業家。日本航空株式会社創立者。 兵庫県津名郡五色町(現・洲本市)生まれ。大正5年(1916年)慶應義塾大学部理財科を卒業したのち、日本郵船に入社。大正7年(1918年)同社を退社し、中島飛行機の前身である合資会社日本飛行機製作所の創設に関わり、事務長に就任。大正9年(1920年)から川西機械製作所飛行機部支配人を務めた後、大正12年(1923年)には日本航空株式会社を創立し、取締役支配人となる。 以後、昭和3年(1928年)川西航空機械株式会社取締役常務、昭和12年(1937年)日本航空工業株式会社専務取締役などを歴任。
宮寺 敏雄(みやでら としお、1892年(明治25年)3月3… 宮寺 敏雄(みやでら としお、1892年(明治25年)3月31日 - 1968年(昭和43年)8月1日)は、昭和時代に活動した日本の実業家。大同電力取締役、揖斐川電気工業(現・イビデン)社長などを務めた。静岡県出身。 宮寺敏雄は1892年(明治25年)3月31日、宮寺昇作の次男として生まれた。出身は静岡県沼津市。沼津中学校を経て慶應義塾大学部理財科に進み、1915年(大正4年)卒業。親戚に銀行家が多かったため周囲から三井銀行への就職を勧められたがこれを断り、日本陶器に入るため名古屋市へ赴く。しかし同社への入社が叶わなかったため、福澤桃介に面会して彼が経営する電力会社名古屋電灯株式会社に入社することとなった。
川西 竜三(かわにし りょうぞう、1892年(明治25年)2… 川西 竜三(かわにし りょうぞう、1892年(明治25年)2月20日 - 1955年(昭和30年)1月24日)は、日本の実業家。阪神財閥系譜・川西財閥2代目総帥。位階勲等は従五位勲六等。大日本帝国海軍用航空機開発者、川西航空機・川西機械製作所社長、新明和工業創業者を務めたため、戦後は公職追放指定を受けた。 兵庫県神戸市須磨生まれ。川西清兵衛の次男で、川西清司の弟。 旧制姫路中学校(姫中)を経て上京し、慶應義塾大学部理財科を卒業。合資会社日本飛行機製作所(後の中島飛行機)で勤務し、飛行機の設計・製作を学ぶ。慶應義塾大学時代の学友に、坂東舜一が居る。1920年(大正9年)に父が神戸に創業した川西倉庫に川西機械製造所を設立すると、29歳で所長に就任。
平野 繁太郎(ひらの しげたろう、1891年 <明治24年>… 平野 繁太郎(ひらの しげたろう、1891年 <明治24年> 11月27日 - 1993年 <平成5年> 2月23日 )は、日本の経営者。静岡銀行頭取を務めた。位階は正四位。 静岡県出身。1915年に慶應義塾理財科を卒業し、1917年6月に西遠銀行に入行し、1920年1月には遠江銀行常務に就任。1943年3月には静岡銀行専務に就任し、1949年6月には頭取に昇格した。1970年4月から1975年5月までには会長を務めた。1958年7月から1969年5月までに全国地方銀行協会会長を務めた。1957年に黄綬褒章と紺綬褒章を受章し、1972年11月には勲二等瑞宝章を受章。 1993年2月23日、肺炎のために死去。
浅野 八郎(あさの はちろう、1891年(明治24年)8月 … 浅野 八郎(あさの はちろう、1891年(明治24年)8月 - 1966年(昭和41年)1月8日)は、日本の実業家。浅野財閥の創始者・浅野総一郎の三男で、同財閥の多数の系列会社重役を同時に務めた。 慶應義塾普通部を経て1917年(大正6年)に慶應義塾大学部理財科を卒業し、浅野造船所に勤務した。1923年(大正12年)に造船業・製鉄業視察で欧米を訪れた。1926年 (昭和元年) には電力事業視察で欧米を訪問した。 浅野カーリット(日本カーリット)社長、関東水力電気(佐久発電所)副社長、関東証券代表取締役、浅野セメント(太平洋セメント)常務取締役、浅野物産(丸紅)・鶴見製鉄造船(JFE、ジャパンマリンユナイテッド)・関東運輸(日の出興業)・日之出汽船(NYKバルク・プロジェクト)・鶴見木工・庄川水力電気(小牧ダム)・五日市鉄道(JR五日市線)・小倉築港(小倉興産)・上毛電力の取締役、浅野石材工業・日本ヒューム管(日本ヒューム)・信越木材・日本鋳造・南武鉄道(JR南武線)・小倉製鋼(日本製鉄)の監査役を務めた。
水野 智彦(みずの ともひこ、1891年2月5日 - 199… 水野 智彦(みずの ともひこ、1891年2月5日 - 1997年12月11日)は、日本の経営者。日本特殊陶業社長、会長を務めた。東京都出身。 1915年に慶應義塾大学部理財科を卒業し、同年に森村組に入社。1956年に取締役に就任し、1934年に日本陶器取締役にも就任し、1944年には日本特殊陶業専務に就任し、1949年に取締役、1961年に監査役、1963年に顧問を経て、1971年に社長に就任。1973年に会長に就任。 1972年に勲三等瑞宝章を受章。 1997年12月11日、呼吸不全のために死去。106歳没。
福澤 駒吉(ふくざわ こまきち、1891年〈明治24年〉1月… 福澤 駒吉(ふくざわ こまきち、1891年〈明治24年〉1月5日 - 1945年〈昭和20年〉3月18日)は、大正から昭和初期にかけて活動した日本の実業家である。 「電力王」と呼ばれた実業家福澤桃介の長男で、福澤諭吉の孫にあたる。父の電気事業に参加し矢作水力社長などを務めたほか、化学工業を起して東亞合成化学工業(現・東亞合成)初代社長となった。 福澤駒吉は1891年(明治24年)1月5日、福澤桃介(旧姓・岩崎、福澤家に婿入り)の長男として生まれた。母は福澤諭吉次女の房(ふさ)。当時桃介は北海道で炭鉱と鉄道を経営する北海道炭礦鉄道(北炭、後の北海道炭礦汽船)に勤めており、房を連れて札幌へと赴任していたが、出産にあたって東京に帰ったため、駒吉は東京三田の諭吉邸で生まれた。
新田 昌次(にった しょうじ、1890年〈明治23年〉10月… 新田 昌次(にった しょうじ、1890年〈明治23年〉10月 - 1948年〈昭和23年〉2月7日)は、日本の実業家。日本工業革製品統制社長。新田化学工業取締役。新田帯革製造所(現ニッタ)、新田ベニヤ製造所各無限責任社員。父は新田帯革製造所創業者の新田長次郎。族籍は大阪府平民。 大阪府大阪市出身。新田長次郎の四男、あるいは三男。新田宗一、新田長三の弟。新田愛祐の兄。慶應義塾大学理財科卒業。帯皮革製造業を営む。1923年、分家した。1948年死去。宗教は真言宗。大阪府在籍で、住所は大阪市住吉区帝塚山中、同市浪速区久保吉。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
岡野 豪夫(おかの たけお、1890年2月28日 - 196… 岡野 豪夫(おかの たけお、1890年2月28日 - 1964年8月22日)は、日本の経営者、銀行家。駿河銀行頭取を務めた。静岡県出身。 1912年に慶應義塾理財科を卒業し、後に駿河銀行に入行。1932年に取締役に就任し、1942年に副頭取を経て、1957年11月には頭取に就任した。 1964年8月22日心筋梗塞のために在任中に死去。74歳没。
秋元 良尚(あきもと よしひさ、1890年(明治23年) -… 秋元 良尚(あきもと よしひさ、1890年(明治23年) - 1955年(昭和30年))は、明治から昭和にかけて活躍した実業家(醸造業家)。「天晴味醂」の醸造元として広く知られた秋元家の第10代目三左衛門。 千葉県東葛飾郡流山町(現:流山市)に生まれる。流山小学校、開成中学を経て慶應義塾大学文科に入学するが、父秋元梧郎(9代目三左衛門)の死去により中退し家業を受け継ぐ。秋元家が醸造するみりんは1873年(明治6年)の先代当主の時、オーストリアの首都ウィーンで開かれた万国博に出品した際、栄誉ある賞牌が贈られるなど、その名を不動のものとしていた。良尚も先祖から受けつがれてきた良質のみりんにさらに改良を加え、天晴味醂の醸造に尽力した。
11代目右近 権左衛門(うこん ごんざえもん、前名・義太郎、… 11代目右近 権左衛門(うこん ごんざえもん、前名・義太郎、1889年〈明治22年〉11月3日 - 1966年〈昭和41年〉4月27日)は、日本の実業家、資産家、福井県多額納税者。右近商事社長。日本火災海上保険の会長。 福井県・右近権左衛門の長男。1914年3月、慶應義塾大学部理財科卒業。1917年、家督を相続し義太郎を改め襲名した。海運業を営み会社重役である。 趣味は洋画、園芸。宗教は真宗。住所は兵庫県芦屋市、大阪市西区西長堀北通5丁目。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
飯塚 茂(いいづか しげる、1889年(明治22年)7月4日… 飯塚 茂(いいづか しげる、1889年(明治22年)7月4日 - 1945年(昭和20年)1月12日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 栃木県下都賀郡三鴨村大字都賀(現:栃木市藤岡町都賀)で、飯塚茂十郎の長男として生まれる。叔父・飯塚国三郎(講道館幹部、慶應義塾柔道師範)の導きで講道館・嘉納塾に入塾し、最終的に段位は講道館柔道七段となる。 1915年、慶應義塾大学部法律学科を卒業し、同年4月、英国領シンガポールに渡り、英国領マレー半島ジョホール州でゴム栽培事業を経営。1918年、南進公司を設立して社長となり、南和公司常務、大倉スマトラ農場常務なども務めた。1927年12月、財団法人暹羅協会(現:日本タイ協会)の設立時に創立委員、その後、1935年3月まで理事を務めた。
尾崎 旦(おざき たん、1889年(明治22年)1月17日 … 尾崎 旦(おざき たん、1889年(明治22年)1月17日 – 1932年(昭和7年)6月4日)は、日本の歴史家・実業家。陽明社の創始者。高知県出身。中岡慎太郎の伝記を日本で初めて著した歴史家・尾崎卓爾の兄。 1889年(明治22年)1月17日、尾崎旦爾(手島熊吉)の三男として高知県安芸郡北川村大字野川896番地に生まれる。初名は「旦子(たんし)」のち、「子」がつくことによって女子を間違われるのを避けて「旦(たん)」と改名した。母は尾崎旦信(折蔵)の長女・亀。 1908年(明治41年)旧制高知県立安芸中学校を卒業し、慶應義塾大学部理財科(現・慶應義塾大学経済学部)へ進学。東京市芝区三田へ下宿。1913年(大正2年)3月31日、同校卒業。
勝 精(かつ くわし、1888年〈明治21年〉8月23日 -… 勝 精(かつ くわし、1888年〈明治21年〉8月23日 - 1932年〈昭和7年〉7月10日)は、日本の華族、実業家。爵位は伯爵。旧姓は徳川(とくがわ)。 1888年(明治21年)8月23日、徳川慶喜の十男として生まれる。母は新村信で、石工の望月宗兵衛のもとに預けられた。1892年(明治25年)2月8日、勝海舟は嫡子小鹿が早世したため、慶喜の子を孫娘の婿養子に迎えて伯爵の家督を譲ろうと考えた。勝は慶喜の七男・慶久を養子にと望んだが、慶喜は「あれは当家の嗣子であるので」といって断り、末男の精を養子に出したという。慶喜・家達に精との養子縁組を申し入れ、同年2月14日、父の慶喜は精の養子入りを承諾した。
稲垣 平太郎(いながき へいたろう、1888年7月4日 – … 稲垣 平太郎(いながき へいたろう、1888年7月4日 – 1976年4月23日)は、日本の実業家・政治家。前参議院議員。
岡田 幸三郎(おかだ こうさぶろう、明治21年(1888年)… 岡田 幸三郎(おかだ こうさぶろう、明治21年(1888年)4月 - 昭和47年(1972年))は日本の実業家。 小説家遠藤周作の妻順子の父。俳優岡田英次のおじ。フジテレビジョン代表取締役社長を務めた遠藤龍之介の外祖父。 千葉県海上郡銚子町(現銚子市)に生まれた。岡田幸吉の三男。 明治42年(1909年)長崎高商卒業。慶大理財科修業。 塩水港製糖入社。計算販売各課長、東京支店詰営業部長取締役を経て常務取締役に就任。 昭和14年(1939年)社長に挙げられ、塩水港パルプ、新栄産業、新日本食品工業、日立オーバーシーズ各社長、東台湾電力興業、花蓮港木材、日本砂糖工業社長、新興産業、満州製糖、北満産業各取締役、日本糖業連合会、糖業協会各理事を歴任す。
岩淵 勉(いわぶち つとむ、1888年〈明治21年〉2月 -… 岩淵 勉(いわぶち つとむ、1888年〈明治21年〉2月 - 1956年〈昭和31年〉1月14日)は、日本の実業家、政治家。青森県弘前市長。位階は従六位。勲六等瑞宝章。 青森県中津軽郡弘前に生まれる。青森県立弘前中学校(現・青森県立弘前高等学校)を経て、慶應義塾大学部理財科卒。卒業後は弘前電燈株式会社に就職し、会社支配人となる。その後、陸奥鉄道支配人、津軽鉄道常務となった。 1945年暮れに弘前市長の葛原運次郎が死去、1946年1月にその後任の市長に就任した。翌1947年、弘前市長選挙に立候補して当選した。4年後の市長選挙には不出馬、1955年の市長選挙に立候補して市長に返り咲いた。しかし、病気に倒れ、1956年、在職中のまま死去。
松本 庸之助(まつもと ようのすけ、1888年〈明治21年〉… 松本 庸之助(まつもと ようのすけ、1888年〈明治21年〉2月 - 1958年〈昭和33年〉4月4日)は、昭和時代の日本の実業家である。一貫して電力会社に関わり、福島電灯取締役兼支配人や中央電力社長、中部配電理事を務めた。熊本県出身。 松本庸之助は、1888年(明治21年)2月、熊本県天草郡富岡町(現・苓北町)の松本久太郎の長男として生まれた。父・久太郎(1935年没)は天草の政財界にて活動し富岡町長や熊本県会議員を務めた人物である。富岡小学校・熊本県立中学済々黌を経て慶應義塾大学部政治科に進み、1913年(大正2年)卒業した。 大学卒業後は福岡県福岡市に本社を置く電力会社九州電灯鉄道に入社し本社勤務となった。
渋谷 雄太郎(澁谷、しぶや ゆうたろう、1887年(明治20… 渋谷 雄太郎(澁谷、しぶや ゆうたろう、1887年(明治20年)12月19日 - 1961年(昭和36年)12月11日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員、東京府南葛飾郡寺島町長。 千葉県東葛飾郡、現在の市川市で、渋谷金蔵の長男として生まれる。1912年(明治45年)慶應義塾大学理財科を卒業した。 渋谷ゴム製作所を経営。その他、東京ゴム同業組合長、同ゴム製品工業組合理事長、日本再生ゴム材料卸商業組合連合会理事長、東京商工会議所議員、日本ゴム工業協同組合連合会副理事長、日本車輛ゴム社長、昭和実業社長、渋谷ゴム工業社長、渋谷商事社長、東部ゴム工業会理事長、日本ゴム工業会常任理事、市川商工会議所会頭などを務めた。
水上 瀧太郎(みなかみ たきたろう、1887年12月6日 -… 水上 瀧太郎(みなかみ たきたろう、1887年12月6日 - 1940年3月23日)は、日本の小説家、評論家、劇作家、実業家。本名阿部 章蔵。「三田文学」発表の「山の手の子」で出発。明治生命保険会社専務、大阪毎日新聞社取締役で長く実業と文学を両立した。強い道義性と文明批評性に特色がある。第2次「三田文学」復刊後は同誌の精神的主幹と呼ばれた。 東京市麻布区飯倉町三丁目(現・港区麻布台二丁目)に、明治生命の創業者阿部泰蔵の四男として生まれる。 小泉信三の同期生として共に御田小学校を経て慶應義塾普通部に入学。この頃から、泉鏡花の小説や与謝野寛・晶子の短歌に傾倒する。慶應義塾大学部理財科に進むが、文科の永井荷風や小山内薫の講義を熱心に聴く。
宮坂 作衛(作衞、みやさか さくえ、1887年〈明治20年〉… 宮坂 作衛(作衞、みやさか さくえ、1887年〈明治20年〉7月 - 1933年〈昭和8年〉10月21日)は、日本の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員、長野県諏訪郡上諏訪町長。 長野県諏訪郡上諏訪村角間(上諏訪町を経て現諏訪市)の白作呉服店・宮坂作之助の長男として生まれる。1906年(明治39年)諏訪中学校(現長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)を卒業。上京して、1911年(明治44年)慶應義塾大学部理財科を卒業した。 帰郷して家業の白作呉服店の経営に加わる。1920年(大正9年)家督を相続。呉服店を成長させ、諏訪電気取締役、長野農工銀行取締役、上諏訪商工会議所会頭などを務めた。 政界では、1921年(大正10年)上諏訪町会議員に選出され、1923年(大正12年)長野県会議員となる。
小野 秀一(おの しゅういち、1887年(明治20年)6月1… 小野 秀一(おの しゅういち、1887年(明治20年)6月11日 - 1972年(昭和47年)7月18日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員、福島町長。旧姓・宮下。 長野県西筑摩郡福島村(現木曽郡木曽町福島)で、宮下喜久市の長男として生まれ、小野広助の養子となる。1909年、慶應義塾大学部法律科を卒業。帰郷して、福澤桃介の木曽川水系電源開発事業に協力。木曽銀行重役、木曽川電力常務取締役、大同製鋼(現・大同特殊鋼)取締役、奥羽電灯取締役、長谷川鋳鋼取締役などを務めた。 政界では、福島町会議員、西筑摩郡会議員、長野県会議員、同参事会員、同議長などを歴任し、廃娼運動に取り組んだ。1940年、福島町長に当選。
中野 栄三郎(なかの えいざぶろう、旧姓・茂木、1887年(… 中野 栄三郎(なかの えいざぶろう、旧姓・茂木、1887年(明治20年)4月18日 - 1988年(昭和63年)7月9日)は、日本の実業家。野田醤油(現・キッコーマン)社長。小網商店無限責任社員。 千葉県東葛飾郡野田町(現・千葉県野田市)出身。茂木七郎右衛門の二男。茂木順三郎の弟。叔父・中野長兵衛の養子となった。1912年、慶應義塾大学部法律科卒業。1936年、養父退隠により家督を相続した。 野田醤油社長、同社常務取締役、柏屋商事、銚子醤油(現・ヒゲタ醤油)、満州野田醤油、野田運輸、総武鉄道各取締役、野田商誘銀行各監査役等をつとめた。 趣味は柔道。宗教は真言宗。住所は千葉県東葛飾郡野田町。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
河端 作兵衛(かわばた さくべえ、1887年(明治20年)2… 河端 作兵衛(かわばた さくべえ、1887年(明治20年)2月 - 1955年(昭和30年)11月19日)は、大正から昭和期の実業家。河端製作所創立者、貴族院勅選議員。正五位。 東京出身。1912年(明治45年)慶應義塾大学法学部卒業後、1936年(昭和11年)に電気通信機部品等を製造する河端製作所を設立。戦時下で軍需会社を中心に、高周波用セラミックコンデンサを唯一扱う会社となった。以後、精密分野に従事し、現在の村田製作所に繋がる、森安静太や佐藤彦八(佐藤航空無線器材製作所 (現・太陽誘電)創設者)など数多くの技術者を河端製作所で育てた。 1946年(昭和21年)8月21日に貴族院議員に勅選され、交友倶楽部に所属し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
内海 勝二(うつみ かつじ、1887年(明治20年)1月3日… 内海 勝二(うつみ かつじ、1887年(明治20年)1月3日 - 1967年(昭和42年)12月16日)は、大正から昭和期の実業家、華族。貴族院男爵議員、従三位。孫の貴子は朝香誠彦の妻。 男爵・内海忠勝の二男として東京都に生まれる。1912年(明治45年)に慶應義塾大学部政治科卒業後に渡米した。1905年(明治38年)2月22日、父の死去に伴い男爵を襲爵。 1919年(大正8年)内海化学研究所を設立して所長に就任。その他、発明協会評議員、国民工業学院評議員、慶應義塾評議員等を歴任し、東京民事地方裁判所調停委員となる。 1946年(昭和21年)5月11日、貴族院男爵議員に補欠選挙で当選し、公正会に所属し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。