中根 英朗(なかね ひでろう、1923年(大正12年)9月1… 中根 英朗(なかね ひでろう、1923年(大正12年)9月19日 - 1982年(昭和57年)2月25日)は、日本の実業家。 大衆保険市場のパイオニアとして長い歴史をもつ、安田財閥系の日動火災海上保険の社長に就任後、代理店連合会の発足、自動車保険損害調査を中心とするオンラインシステムの完成など、募集網強化と契約者サービス向上を推進。同社史上画期的と言われた首都圏営業体制の強化及び、全国拠点網の整備など、同社発展の礎をつくった。また、業容拡大と共に、資本金を86億円から120億円に増資し、業界上位企業としての地位を揺るぎないものにした。 社外に於いては、損保事業研究所幹事や、日本損害保険協会理事などを歴任し、業界の発展に尽力した。
平井 三郎(ひらい さぶろう、旧姓:生田、1923年9月4日… 平井 三郎(ひらい さぶろう、旧姓:生田、1923年9月4日 - 1969年7月23日)は、徳島県徳島市出身の元プロ野球選手(内野手)・コーチ。
松本 和雄(まつもと かずお、1923年8月18日 - )は… 松本 和雄(まつもと かずお、1923年8月18日 - )は、愛知県出身の元プロ野球選手。ポジションは遊撃手。
鍛冶 千鶴子(かじ ちづこ、1923年7月31日 - 201… 鍛冶 千鶴子(かじ ちづこ、1923年7月31日 - 2018年4月8日)は、日本の弁護士、著作家。日本婦人法律家協会会長、国民生活センター会長、市川房枝記念会理事長などを務めた。 熊本県阿蘇古城村出身。両親は教師。1936年に熊本第二高等女学校入学、3年生のときに、日本初の女性弁護士が3人(中田正子、久米愛、三淵嘉子)誕生という新聞記事に接する。同年父親を亡くす。 1942年、当時としては女性に法律専門家としての教育を唯一行っていた明治大学専門部に入学。太平洋戦争の激化で一時帰郷した後、1947年に明治大法学部に入学。大学同級生だった鍛冶良堅(明治大教授)と1950年に結婚し、後に一児をもうけた。
坪田 理基男(つぼた りきお、1923年6月23日 - 20… 坪田 理基男(つぼた りきお、1923年6月23日 - 2017年4月14日)は、日本の児童文学作家、児童文学研究者。「びわの実学校」同人。 東京生まれ。太平洋戦争時代は海軍に従軍。復員し、明治大学を卒業後、出版社に勤務。 児童文学作家、児童文学研究者である坪田譲治の三男。
高原 駿雄(たかはら としお、1923年〈大正12年〉5月1… 高原 駿雄(たかはら としお、1923年〈大正12年〉5月1日 - 2000年〈平成11年〉2月26日)は、日本の俳優。本名、高瀬 勲(たかせ いさお)。 東京府東京市(現:東京都区部)出身。明治大学専門部文科(文芸科)卒業。文学座に所属していた。 明大在学中の1941年に文学座研究所に入所し、1943年の舞台『田園』でデビュー。1966年のプロフィールでは、両親の知り合いである漫談家で俳優の徳川夢声に弟子入りし、徳川の勧めで文学座入りしたと紹介されている。また、芸名の高原 駿雄は、徳川の本名である福原 駿雄から採ったものである。 1953年に文学座を退座すると、岡田英次、木村功らと共に劇団青俳を結成。
李 鍾煥(イ・ジョンファン、韓国語:이종환、1923年5月〈… 李 鍾煥(イ・ジョンファン、韓国語:이종환、1923年5月〈戸籍上は1924年1月9日〉 - 2023年9月13日)とは、大韓民国の実業家、慈善家。三栄化学グループ(朝鮮語版)の創業者。号は「冠廷」。 慶尚南道宜寧郡生まれ。本貫は広州李氏。馬山中学校を卒業後、1942年に明治大学商経科に留学。「日本人を越えるには日本人より勉強しないといけない」と考えていたが、1944年に徴兵され満洲に送られた。1945年8月に部隊は沖縄へ移動となったが、その途中の朝鮮半島で終戦を迎える。この時の考えから、青年がお金の心配をせず勉強できなければならないという考えを抱いた。 戦後は精米所の事業を始め、朝鮮戦争後は東大門市場で小規模な商社を営み種銭を集める。
西山 広喜(にしやま こうき、1923年(大正12年)3月3… 西山 広喜(にしやま こうき、1923年(大正12年)3月31日 - 2005年(平成17年)2月24日)は、日本の右翼で、政財界をつなぐフィクサーとして知られた。財団法人日本政治文化研究所理事長。西山広喜事務所代表。 宮崎県出身。宮崎県立妻中学校(後の宮崎県立妻高等学校)、明治大学を卒業。 部落解放同盟初代執行委員長・松本治一郎の養子・松本英一と親交があった縁で、日本社会党宮崎県委員会青年部長を経て、社会党青年部の本部役員となり上京、治一郎の秘書となる。治一郎の紹介で大物右翼の三浦義一の知遇を受け、三浦の片腕である関山義人の興論社で活動。1961年(昭和36年)に興論社から独立して昭和維新連盟を発足させ、初代会長になる。
上口 政(かみぐち まさ、1923年3月28日 - 没年不明… 上口 政(かみぐち まさ、1923年3月28日 - 没年不明)は、茨城県出身の元プロ野球選手。 下妻中学校を経て明治大学でプレー。1943年の学徒出陣により兵役に就くと、満州・北支・台湾を転戦し、1946年正月過ぎに帰還。 上口は日本コロムビアへの就職が内定していたが、明治大学の同期であった大下弘の誘いを受けて、1946年3月にセネタースに投手兼外野手として入団。 開幕戦となる4月27日の東京巨人軍戦では6番ライトで先発出場。5月30日の中部日本戦で初登板し、明治大学の同期であった貫井丞治とバッテリーを組むが、6回0/3を自責点8と打ち込まれた。 1947年シーズン終了後に退団した。 制球力があり、球にクセがなかったことから、主砲の大下弘から好んで打撃投手に指名されていた。
江頭 匡一(えがしら きょういち、1923年〈大正12年〉3… 江頭 匡一(えがしら きょういち、1923年〈大正12年〉3月25日 - 2005年〈平成17年〉4月13日)は、日本の実業家。ファミリーレストランロイヤルホストなどを展開するロイヤル(現・ロイヤルホールディングス)の創業者。 福岡県三潴郡城島町(現在の久留米市)に父・江頭佳造、母・照代の長男として生まれる。旧制嘉穂中学校(現福岡県立嘉穂高等学校)卒業。授業を抜け出してプールで泳いだり、買い食いをしたりと父親泣かせであり、教師泣かせであったと本人は振り返っている。中学校卒業から3か月たって米子地方航空機乗員養成所に入所する。明治大学専門部中退。 1946年、米軍春日原ベース内のPX(売店)の指定商人を始めたことを切っ掛けに、1950年、ロイヤルの前身会社・キルロイ特殊貿易を設立。
浜野 栄次(はまの えいじ、1923年〈大正12年〉3月20… 浜野 栄次(はまの えいじ、1923年〈大正12年〉3月20日 - 1992年〈平成4年〉3月27日)は、日本の写真家、昆虫研究家。 1923年(大正12年)、東京下谷に生まれる。子供の頃から昆虫に興味があり、井之頭にあった平山博物館館長の平山修次郎の教えを受ける。第一東京市立中学校卒、1945年(昭和20年)に明治大学商学部を卒業。 戦後、暮しの手帖社の松本政利に写真を学び、編集長の花森安治の勧めで昆虫写真を専門とすることを志す。1964年(昭和39年)から東南アジア各国を取材で巡り、日本に帰国後は学習雑誌や図鑑などに多くの写真を発表する。特に台湾への訪問は30数次に渡り、その成果は『台湾産蝶類生態大図鑑』としてまとめられた。
田村 隆一(たむら りゅういち、1923年〈大正12年〉3月… 田村 隆一(たむら りゅういち、1923年〈大正12年〉3月18日 - 1998年〈平成10年〉8月26日)は、日本の詩人・随筆家・翻訳家。詩誌『荒地』の創設に参加し、戦後詩に大きな影響を与えた。府立三商業学校在学中から詩を書き始めた。明治大学文芸科卒。 鮎川信夫・中桐雅夫らを知り詩誌「LE・BAL」などに参加。戦後は、黒田三郎らも加わって、第2次「荒地」を創刊。現代文明への危機意識をこめ、叙情と理知とが絶妙のバランスをなす散文詩を生んだ。処女詩集は『四千の日と夜』(1956年)。『言葉のない世界』(1962年)で高村光太郎賞受賞。アガサ・クリスティーなどの推理小説の翻訳でも知られる。 東京府北豊島郡巣鴨村(現在の東京都豊島区南大塚)に生まれる。
羅 吉祚(ナ・ギルジョ、朝鮮語: 나길조、1923年2月3日… 羅 吉祚(ナ・ギルジョ、朝鮮語: 나길조、1923年2月3日 - 2008年4月11日)は、大韓民国の法曹、政治家。第11代韓国国会議員。本貫は羅州羅氏。 元教育部政策企画官の羅向栯(朝鮮語版)は従甥。 日本統治時代の慶尚南道馬山府出身。1943年に明治大学法学部卒。1947年に第1回朝鮮弁護士試験合格。釜山地方検察庁、全州地方検察庁、ソウル地方検察庁、大邱地方検察庁で検事を務めた後、1962年に清州地方検察庁検事長、1964年に全州地方検察庁検事長、1966年に法務部企画管理室長、1969年に大検察庁検事、1971年に釜山地方検察庁検事長、全国密輸合同捜査本部長、1973年に光州高等検察庁検事長、1975年に大法院判事、憲法委員、1981年に第11代国会議員を歴任した。
白羽 大介(しらば だいすけ、1923年1月23日 - 20… 白羽 大介(しらば だいすけ、1923年1月23日 - 2005年12月26日)は、日本の喜劇俳優。本名:勝俣定彦(かつまた さだひこ)。神奈川県足柄下郡箱根町出身。 明治大学卒業後、上宮高校教諭の傍ら、アルバイトで歌謡ショウの司会などしていた。 うめだ花月が開場した1959年、吉本興業に入社し吉本新喜劇の旗揚げに参加、一時は座長も務めた。 1965年、吉本首脳陣との対立から千土地興行に集団移籍。ルーキー新一、森信とのトリオを中心にルーキー爆笑劇団を結成しルーキーと漫才を組んだこともある、その後、マスコミを賑わせるような事件を起こし、人気低迷、千日劇場閉鎖などが重なり、劇団活動は頓挫、解散。 映画の端役、脇役を経て、1974年以降は松竹新喜劇に移り、主に脇役として活躍。
山本 謙一(やまもと けんいち、1922年11月18日 - … 山本 謙一(やまもと けんいち、1922年11月18日 - 2002年2月26日)は、青森県南津軽郡大鰐町出身のクロスカントリースキー選手。オリンピアン。 旧制五所川原農林学校 → 明治大学 → 青森営林局 中学時代から才能を発揮し、1940年の第18回全日本スキー選手権大会クロスカントリースキー個人長距離(18km)・少年の部で優勝。その後明大に進み、1942年から1943年の同大会個人長距離・成年の部を連覇。同じ1942年~1943年の全日本学生スキー選手権大会では、リレーで連覇した他、1943年の個人長距離で前年王者の落合力松(明大)を破り優勝。 戦後1948年に再開された全日本スキー選手権大会個人長距離では、ライバル落合に敗れるが、翌1949年の同大会同種目は山本が制した。
金 鍾喜(キム・ジョンギ、1922年11月12日 - 198… 金 鍾喜(キム・ジョンギ、1922年11月12日 - 1981年7月23日)は、韓国の実業家。ハンファグループの創設者。本貫は順天金氏。 1922年に出生。延禧専門学校(現延世大学校)を卒業後、1941年に日本の明治大学に留学。 1942年、朝鮮火薬共販株式会社に入社。 1952年に火薬メーカーの韓国火薬株式会社を設立。以降、次々に有力企業を立ち上げ、一代でハンファグループを創設。 1992年10月にグループの母体である韓国火薬株式会社を、株式会社ハンファへ社名変更すると共に、ハンファグループとして事業を展開。主なグループ企業に、ハンファ生命保険(旧・大韓生命)、ハンファ損害保険、ハンファ証券、ハンファケミカル、ハンファ建設、ハンファギャラリアなどがある。
工藤 榮(くどう さかえ、1922年9月28日 - 1993… 工藤 榮(くどう さかえ、1922年9月28日 - 1993年6月16日)は、日本の経営者。東京証券社長、会長を務めた。東京都出身。 1944年に明治大学専門部政治経済学部を卒業し、1947年4月に日興証券に入社。 1972年11月に専務に就任し、1975年11月には遠山証券社長に就任。1981年10月には東京証券社長に就任。1985年12月に会長に就任。 1992年7月から1993年2月までに日本証券業協会会長を務めた。 1985年11月に藍綬褒章を受章。 1993年6月16日呼吸不全のために死去。70歳没。
郡 順史(こおり じゅんし、1922年9月13日 - 201… 郡 順史(こおり じゅんし、1922年9月13日 - 2015年2月22日)は日本の歴史小説作家、時代小説作家。最初の筆名は「郡 恂史」。東京新宿・角筈生まれ。明治大学卒業。日本文芸家協会会員。本名は高山恂史。別名義に高山 潤。 中学時代に友人と太宰治を訪ね、小説家を志す。雑誌編集者時代に山手樹一郎の知遇を得て、作家活動に入る。1958年、林崎甚助を主人公に据えた『抜刀流旅日記』が人気を博す。「士道小説」と呼ばれる「武士道」を題材とした小説を得意とする。『葉隠』の研究家としても知られており、『葉隠士魂』『葉隠物語』『武士道の証明』などの著書を出している。また『日本の誇るサムライ達』などの歴史ノンフィクションも手掛ける。
水越 潔(みずこし きよし、1922年7月26日 - 199… 水越 潔(みずこし きよし、1922年7月26日 - 1999年12月22日)は、日本の経営学者・会計学者。経営学博士(論文博士・1973年)(学位論文「オーストラリア株式資本の一考察」)。明治大学名誉教授。 東京出身。明治大学経済学科卒、1973年「オーストラリア株式資本の一考察」で経営学博士の学位を取得。明治大学経済学部助教授、教授を務め、1991年退任、名誉教授となり、文京女子大学副学長を務めた。
大森 光章(おおもり こうしょう、1922年7月24日 - … 大森 光章(おおもり こうしょう、1922年7月24日 - 2009年3月26日)は日本の小説家、フリーライター、禅僧(上座)。幼名は倖二。今出光章、北町陽一郎名義による作品もある。弟に歌人の大森亮三。 北海道虻田郡倶知安町の禅寺の生まれ。少年期から父親の伴僧として葬儀や法事に出席。旧制中学卒業後、小学校の代用教員をつとめる。函館師範学校中退。明治大学専門部文芸科中退。戦争末期に召集される。 小学校教員をつとめるかたわら、1947年に倶知安で『新芸術派』を創刊。1949年上京し、中河与一主宰の「ラマンチヤ」に参加。のち、新日本文学会に参加。 工員や印刷会社社員や大学職員として働きつつ、「文芸日本」「円卓」「層」「凱」「公園」など数々の文芸同人誌に関わる。
阿部 英雄(あべ ひでお、1922年7月20日 - 2007… 阿部 英雄(あべ ひでお、1922年7月20日 - 2007年7月10日)は富士経済グループ代表取締役(会長)であった財界人。 静岡県沼津市出身で、千本松原に程近い場所に生家がある。地元で静岡県立沼津商業高等学校(卒業の後に同校は駿東郡清水町に移転)卒業まで過ごした。 地元で腕白な子供の一人として育ち、小学生時代には学校の道すがら空腹から学友の家の乾物屋(綾市商店)が露天に干していた乾物をくすねてかじったこともあったという。 明治大学文学部史学科で東洋史学を専攻。卒業論文の題は「”世説新語”とその思想―特に老荘思想について―」であった。同大卒業後、1962年にマーケティング調査会社富士経済を設立。
古賀 愛人(こが あいと、1922年(大正11年)2月5日 … 古賀 愛人(こが あいと、1922年(大正11年)2月5日 - 2009年(平成21年)12月10日)は、元テレビ西日本(TNC)社長、日本民間放送連盟副会長・顧問。 福岡県出身。明治大学政治経済学部に入学後、柔道部に所属し、大学には柔道界の名人・三船久蔵の自宅から通学した。学徒動員で南方戦線に従軍し、九死に一生を得て帰還し、復学。占領軍の指示で柔剣道が禁止されていた中、柔道部の復活に中心的な役割を果し、明柔クラブ監督なども務めた。 1949年に明大を卒業し、西日本新聞社に入社。東京政治部で活躍し、内閣記者会の幹事などを務め、大平正芳、佐藤栄作など、多くの大物政治家と交流をもち、一時期は政界進出が検討された。
石川 忠雄(いしかわ ただお、1922年(大正11年)1月2… 石川 忠雄(いしかわ ただお、1922年(大正11年)1月21日 - 2007年(平成19年)9月25日)は、日本の中国現代史家。慶應義塾長を戦後最長、鎌田栄吉以来歴代2番目の長さとなる4期16年務めた。 1991年文化功労者。1995年勲一等旭日大綬章、2000年文化勲章受章。弟に石川明 (法学者)がいる。 中国政治史研究者で、及川恒忠に師事。初期に中国憲法史と中国共産党史を研究。主著は中国共産党に関する先駆的業績となった『中国共産党史研究』。次いで中華人民共和国の政治及び外交の研究を行ない、同時に日中国交正常化へ至る政策決定にも関与した。1984年から日中友好21世紀委員会の日本側座長を務め、日中関係の基礎作りに邁進した。
高村 暢児(たかむら ちょうじ、1922年1月11日 - 1… 高村 暢児(たかむら ちょうじ、1922年1月11日 - 1998年10月18日)は、日本の著作家。 奈良県生まれ。本姓・篁。明治大学卒。産経新聞社に入社し、1958年度ボーン・上田記念国際記者賞受賞。22年の記者生活を送った後に作家に転身。
橋川 文三(はしかわ ぶんそう/ぶんぞう、1922年1月1日… 橋川 文三(はしかわ ぶんそう/ぶんぞう、1922年1月1日 - 1983年12月17日)は、日本の政治学者、評論家。弘文堂社員などを経て、明治大学政治経済学部教授。在任中に没した。 長崎県上県郡峰村(現・対馬市)の生まれ。父祖の地は広島県。橋川家は、代々対馬の海産物や木炭などを広島まで運ぶ商いをしていた。 文三3歳の時、父親の故郷・広島県安芸郡仁保村(現・広島市南区仁保)に一家で帰郷。安芸郡海田町などで育つ。青崎尋常小学校(現・広島市立青崎小学校)、広島高等師範学校附属中学校(現・広島大学附属高等学校)を経て上京、第一高等学校文科乙類に入学。文芸部に所属。1942年卒業。 同年、東京帝国大学法学部入学。
三木 慶介(みき けいすけ、1922年 - 2016年)は、… 三木 慶介(みき けいすけ、1922年 - 2016年)は、日本の山岳写真家。 写真雑誌の月例応募からスタートし、またたく間に「三木時代」なる言葉まで生み、山岳写真界に一時代を築いた。 1954年からアサヒカメラの月例に応募しはじめ、1956年にアサヒカメラ優秀作家賞、1959年にイタリアで開催された、世界国際山岳写真ビエンナーレ展で、「滑降」が日本人として初めて最優秀賞を受賞した。 1964年にも「友を気遣う」が、世界国際山岳写真ビエンナーレで2度目の最優秀賞を受賞した。 全日本山岳写真協会の理事長を務め会長に就任。東京野歩路会代表を経て顧問に就任、後進の指導にあたった。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
宮田 輝(みやた てる、1921年12月25日 - 1990… 宮田 輝(みやた てる、1921年12月25日 - 1990年7月15日)は、日本のアナウンサー、政治家。参議院議員(3期)。本名、宮田 輝(みやた あきら)。妻は声優の河口恵美子。 東京都足立区出身。血液型B型。明治大学専門部商科卒業。1942年にNHKに入局。NHKにおいて、高橋圭三や青木一雄らと同じく、「芸能番組向けアナウンサー」の先鞭を付けた人物の一人に数えられる。1974年に同局退職後、参議院議員(3期)を務めながらフリーアナウンサーとしても活躍。1990年、議員在職中に死去。 1942年9月に明治大学専門部商科卒業。同年NHKに入局。同期に高橋圭三がいる。1948年10月21日に東京放送劇団の団員であった河口恵美子と結婚。
五味 康祐(ごみ やすすけ、1921年12月20日 - 19… 五味 康祐(ごみ やすすけ、1921年12月20日 - 1980年4月1日)は、日本の小説家。 五味の本名は「康祐」であり、ヨミは「やすすけ」であるとされてきた。なお、(公財)練馬区文化振興協会が所蔵する五味自筆の年譜では、本名についての記述はない。一方で、『五味康祐の世界展』図録の添付年譜には、「幼少時は『欣一』または『欣吾』と呼ばれていた」と記載されている。 五味が在学した明治大学に残る史料によると、五味の本名は五味 欣一である。 剣豪を扱った歴史・時代小説を始め数々の作品を発表。特に柳生十兵衛など柳生一族を扱った作品で知られており「五味の柳生か、柳生の五味か」と評された。『週刊新潮』をはじめとする出版社系週刊誌の爆発的流行と軌を一にする、昭和30年代から40年代(1950年代後半から1970年代前半)の流行作家であった。
大西 寛介(おおにし ひろすけ、1921年11月11日 - … 大西 寛介(おおにし ひろすけ、1921年11月11日 - 1987年1月29日)は、愛知県岡崎市出身のプロ野球選手。
青木 來三郎(あおき らいざぶろう、1921年 <大正10年… 青木 來三郎(あおき らいざぶろう、1921年 <大正10年> 11月 - 2007年 <平成19年> 12月30日)は、茨城県の政治家。自由民主党所属の元茨城県議会議員。位階は正五位。旭日中綬章。 明治大学卒業。第76代茨城県議会議長。 古河市議会議員(3期)、同市助役(当時)を経て、1963年の茨城県議会議員選挙に出馬したが、落選。1967年の出直し県議選にて初当選。以後10期連続当選。古河市古河地区のJR宇都宮線高架化などに尽力した。県議会議長在職中にはつくば万博を成功させ、「万博議長」と呼ばれた。 2006年12月10日の県議選に出馬せず、政界を引退。同年秋の叙勲で旭日中綬章を受章。2007年12月30日、急性心不全により死去。
三宮 武夫(さんのみや たけお、1921年10月15日 - … 三宮 武夫(さんのみや たけお、1921年10月15日 - 2007年11月13日)は日本の実業家。 1921年、神奈川県大磯町にて出生。1942年、明治大学専門部卒業。 日本曹達入社後は、事業の柱のひとつとなるアグリビジネスなどを手掛け、現在に至る全国農業協同組合連合会との事業基盤などを築き上げた。 昭和期の十五大財閥の1つである、日曹コンツェルン(GHQによる財閥解体前の傘下企業数は42社)の中核企業であった日本曹達は、歴代トップが中央官僚トップ階層の天下りや、メインバンクであった日本興業銀行出身者などが主だったが、三宮は1983年に内部昇格により第10代社長に就任。後に会長となった。
手塚 明治(てづか あきはる、1921年10月10日 - )… 手塚 明治(てづか あきはる、1921年10月10日 - )は、長野県出身の元プロ野球選手。ポジションは三塁手。1956年の登録名は手塚 耀朗(てづか てるお)。
久保 登喜夫(くぼ ときお、1921年10月2日 - 194… 久保 登喜夫(くぼ ときお、1921年10月2日 - 1945年4月28日)は、北海道小樽市出身の元スキージャンプ、ノルディック複合選手。大日本帝国海軍軍人。神風特別攻撃隊隊員として戦死した悲劇のジャンプ選手として有名である。 1921年10月2日に北海道小樽市で生まれた。実家近く(小樽市奥沢・眞栄地区)にゲレンデが多かった影響もあり、少年時代よりスキーの才能を開花させた。1935年に旧制小樽中学(現・北海道小樽潮陵高等学校)入学後は、校内にジャンプ台・山小屋風ヒュッテ・夜間照明など恵まれた環境を活かし、メキメキ実力を上げていった。そして4年生だった1939年の第17回全日本スキー選手権大会ノルディックスキー・スペシャルジャンプ少年の部で65.5m,60mのジャンプを見せ、総合点222.5の成績で優勝を果たした。
山上 一夫(やまがみ かずお、1921年9月16日 – 20… 山上 一夫(やまがみ かずお、1921年9月16日 – 2013年(平成25年)8月30日)は、元日本公認会計士協会会長。 1921年出生。1942年、明治大学法学部卒業。1952年、公認会計士第3次試験合格、税理士試験合格。1989~1992年の間、日本公認会計士協会会長を務める。1984年に藍綬褒章、1992年に勲三等瑞宝章を受章。日本医科大学顧問税理士、日本公認会計士協会相談役なども務めた。 2013年、慢性心不全のため死去。92歳没。
大下 高明(おおしも たかあき、1921年9月3日 - 20… 大下 高明(おおしも たかあき、1921年9月3日 - 2010年7月1日)は、日本の経営者。フマキラー社長を務めた。広島県出身。長男は大下俊明。 1944年に明治大学商学部を卒業し、後に大下回春堂(現在のフマキラー)に入社。 1950年に取締役に就任し、1960年には社長に昇格。世界初の電気蚊取り器「ベープマット」の開発を進め、1963年には販売に漕ぎ着けた。1985年には会長に就任。 1981年4月に藍綬褒章を受章。 2010年7月1日老衰のために死去。88歳没。
塩澤 護(しおざわ まもる、1921年(大正10年)7月30… 塩澤 護(しおざわ まもる、1921年(大正10年)7月30日 - 2009年(平成21年)2月20日)は、日本の実業家。第8代養命酒製造社長。 長野県上伊那郡大草村(現中川村)出身。父の友茂は4代目と6代目と2度にわたって養命酒製造の社長をつとめた。明治大学商学部卒業。養命酒製造に入社。常務、専務をへて1973年、社長に就任。墓所は多磨霊園(22-1-29-2)
山口 吉暉(やまぐち よしてる、1921年7月27日 - 2… 山口 吉暉(やまぐち よしてる、1921年7月27日 - 2006年7月15日)は、日本の政治家。千葉県勝浦市長(8期)。 千葉県出身。1943年明治大学専門部卒。1963年勝浦市議会議員に当選し1期務める。1967年勝浦市長に当選。以来連続8期32年務める。在職中国際武道大学を勝浦市に誘致し、開学した。同大学の副理事長や日本武道館常任理事を務めた。1999年退任する。2002年勲三等旭日中綬章受章。2006年7月15日死去、84歳。死没日をもって従四位に叙される。
古角 俊郎(こすみ としろう、1921年7月19日 - 20… 古角 俊郎(こすみ としろう、1921年7月19日 - 2013年1月8日[1])は、日本の高校野球指導者。和歌山県立新宮高等学校硬式野球部元監督、明治大学硬式野球部OB会の駿台倶楽部顧問を務めた。
呉 鐸根(オ・タックン、ご たくこん、大正10年(1921年… 呉 鐸根(オ・タックン、ご たくこん、大正10年(1921年)6月12日 - 2013年9月15日)は、韓国の政治家。元検察総長、法務部長官。 元財務部長官の千炳圭は姉妹の夫。元国会議員の金龍周の息子の1人(金武星の兄)は娘婿。 1921年、慶尚北道義城にて出生。本貫は海州呉氏。1943年、明治大学法学部卒業(戦時下の繰り上げ卒業)。史上最年少で日本の高等文官試験(後の国家公務員Ⅰ種試験)に合格。1950年、大邱地検検事に着任して以降、累進し、検察総長、法務長官などを務めた。
溝口 一雄(みぞぐち かずお、1921年(大正10年)4月1… 溝口 一雄(みぞぐち かずお、1921年(大正10年)4月12日 - 1994年(平成6年)9月23日)は、日本の会計学者。神戸大学名誉教授。 1921年、東京都品川区生まれ。1943年、明治大学商学部卒。神戸大学経営学部助教授を経て、1957年、同教授。1972年、学部長。1985年に退官して名誉教授となり、広島修道大学教授を務めた。第13期日本学術会議会員。
本橋 保正(もとはし やすまさ、1921年(大正10年)3月… 本橋 保正(もとはし やすまさ、1921年(大正10年)3月7日 - 2015年(平成27年)9月21日)は、日本の政治家。東京都杉並区長(1期)。 杉並区内で生まれ育った。明治大学専門部政治経済学科卒業後東京都に入職。1963年芝授産事業所長を経て、1965年に杉並区役所に移る。土木部管理課長、1969年総務部総務課長、1971年区民部長、1974年総務部長を務める。 1979年にエコー保険企画社長に就任、1980年、安田火災海上保険顧問に就く。同年杉並区収入役、1983年に助役就任。 1995年4月23日に行われた杉並区長選挙に自民党・社会党・公明党の推薦を得て立候補。3人の候補者を破り初当選した。
三宅 宅三(みやけ たくぞう、 1921年2月22日 - 2… 三宅 宅三(みやけ たくぞう、 1921年2月22日 - 2006年4月16日)は、岡山県倉敷市出身のプロ野球選手(一塁手、外野手)。 玉島中(現・玉島商)では砲丸投で全国優勝。明治大学を経て、倉敷工の監督となる。1949年にチームを甲子園大会出場に導いた。 1950年、毎日オリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)の創立と同時にテスト入団。開幕から一塁手、六番打者に抜擢される。同年の松竹ロビンスとの日本シリーズでは、一塁手、代打として2試合に出場。1951年は外野手も兼ね、5月から四番打者に起用されるなど打線の主軸として活躍、初の規定打席(16位、打率.281)に達する。1952年には自己最高の打率.294(12位)、18本塁打を記録。
岩本 信一(いわもと のぶかず、 1921年1月26日 - … 岩本 信一(いわもと のぶかず、 1921年1月26日 - 2000年1月20日)は、広島県三次市出身のプロ野球選手(投手)・コーチ・審判員。 兄は元祖神主打法として知られる岩本義行。 旧制広陵中学では白石勝巳らの2学年下に当たり、中学時代は主力投手ではなかったが、卒業後の1939年に明治大学へ進学。谷沢梅雄監督率いる黄金時代で活躍し、戦後は明電舎を経て、1946年に広陵の先輩・平桝敏男や濃人渉、門前眞佐人らと広島駅前で遊興産業に携わっていた広島鯉城園のノンプロチームに参加。同年夏に戦後初の都市対抗野球大会へ出場し、初戦で先発・橋本正吾の後を継ぐ2番手としてマウンドに上がるも、この大会優勝した大日本土木に打ち込まれ惨敗した。
スマイリー小原(スマイリーおはら、1921年1月2日 - 1… スマイリー小原(スマイリーおはら、1921年1月2日 - 1984年4月30日)は、日本のジャズミュージシャン、指揮者である。小原真澄名義での活動もあった。本名栗原照夫。神奈川県中郡秦野町(現在の秦野市)生まれ、横浜市中区山手育ち。 印刷業組合長などを務めた横浜の有力者栗原佐輔の子として生まれる。佐輔は木曾義仲の忠臣・樋口兼光が先祖という曽屋の旧家栗原林太郎家に1881年12月23日に生まれ、26歳で横浜に出て横浜市中区松影町に於いて印刷業を始めた。 照夫(=スマイリー小原)は少年時代からスポーツ万能で、寿尋常小学校卒業後、旧制本牧中学校に入学し野球部に入部。ポジションはファーストで、苅田久徳コーチの指導のもと、若林忠志や劉瀬章と共にプレイしている。
森園 忠(もりぞの ちゅう、1921年 - 1983年2月1… 森園 忠(もりぞの ちゅう、1921年 - 1983年2月19日)は、日本の映画監督。本名は小鷹 忠(こだか ただし)。中国大連市出身。 明治大学文学部を卒業と同時に大映に入社。その後、松竹→民芸映画社を経てフリーとなる。社会派の作品で知られた。 1983年2月19日午前10時25分に脳内出血で代々木病院で死去(享年61歳)。
清水 信(しみず しん、本名の読み:しみず まこと〈漢字表記… 清水 信(しみず しん、本名の読み:しみず まこと〈漢字表記は同じ〉、1920年11月20日 - 2017年2月7日)は、日本の文芸評論家。。 長野県出身。明治大学専門部文科(文芸科)卒。大学時代には評論家・小林秀雄の講義を受講した。卒業後、外務省事務官として北京の日本大使館に勤務。この間、中薗英助らと文芸同人誌『燕京文学』を創刊。また、最初の評論集『日曜手帳』(北京書房刊)を刊行。 戦後になると、三重県鈴鹿市で中学校の国語科教諭を務める傍ら、評論活動を続けた。「読みたい文学は、自分たちの手で書く。その発表の方法も、自分たちで作る」という信念のもと、1949年に仲間4人で同人誌『北斗』を創刊主宰。
金 鍾哲(キム・ジョンチョル、朝鮮語: 김종철、1920年1… 金 鍾哲(キム・ジョンチョル、朝鮮語: 김종철、1920年11月7日 - 1986年11月4日)は、大韓民国の政治家、実業家。第4・7・8・9・10・12代韓国国会議員。 本貫は順天金氏(朝鮮語版)、号は白岩(ペガム、백암)。実業家の金鍾喜と第13代国会議員の金鍾植は弟、実業家の金升淵と金昊淵は甥。 忠清南道天安郡に生まれた。1942年、明治大学商科卒。解放後は右翼青年団体の大同青年団本部宣伝・教育部長を務め、士官学校と軍事英語学校の設立など韓国国軍の創設にも財政支援をした。1952年に弟の金鍾喜と共に現在のハンファグループ(当時は「韓国火薬」)を設立し、会長を務めた。他に韓国ベアリング・韓国化成・太平物産株式会社理事会会長、大韓フィールドホッケー協会会長も務めた。
杉元 恒雄(すぎもと つねお、1920年(大正9年)10月1… 杉元 恒雄(すぎもと つねお、1920年(大正9年)10月15日 - 1997年(平成9年)2月16日)は、日本の税理士、司法書士、政治家。参議院議員(1期)。 1920年、現在の宮城県大和町にて出生。 明治大学専門部商科卒後、杉元会計事務所を設立、税理士、司法書士として活動する。 政界に転じ、神奈川県議会議員から、県議会議長に就任し、党県連幹事長、県経営診断協会理事長、県遺族会副会長などを兼務。 1983年、第13回参議院議員通常選挙に神奈川県選挙区より自由民主党公認で立候補し、初当選。環境政務次官などを務めた。 任期中、体調を崩す。1988年10月24日、自民党神奈川県連は、病気療養中で政治活動が困難と判断し、翌年の参院選をめぐり杉元の出馬とりやめを決めた。
竹井 博友(たけい ひろとも、1920年(大正9年)10月9… 竹井 博友(たけい ひろとも、1920年(大正9年)10月9日 - 2003年(平成15年)7月29日)は、日本の実業家。不動産会社である地産の代表取締役社長。徳間書店と致知出版社の事実上の創業者。 栃木県黒磯町生まれ。福島県立白河中学校、明治大学政治経済学部を卒業後、1943年(昭和18年)に読売新聞社 に入社 する。読売新聞社会部記者などを歴任し、読売争議の際は急進的な組合側の急先鋒となる。 1946年(昭和21年)に読売新聞を退社してアサヒ芸能新聞社を経営し、『アサヒ芸能新聞』、『日東新聞』を創刊する。 1952年(昭和27年)の大阪讀賣新聞創刊と1975年(昭和50年)の中部讀賣新聞創刊に「読売の大番頭」務臺光雄の命で携わり、「務臺(読売)の黒子役」とも言われる。
林 摶秋(りん でんしゅう、ウェード式:Lin Tuan-c… 林 摶秋(りん でんしゅう、ウェード式:Lin Tuan-chiu、1920年10月6日 - 1998年4月4日)は、台湾の映画監督・劇作家。日本統治期から演出家として活動し、戦後は映画界に転身して台湾映画の近代化をすすめた。日本留学時には「林博秋(りん・はくしゅう)」を名乗っていた。 林は台北で8つの鉱山を管理する富裕な家に生まれ、1938年に高校を卒業後、明治大学政治経済学部へ留学した。この間に新劇への関心を深め、ムーランルージュ新宿座の座長の仲介により、在学中から東宝映画で助監督として働き始める。このときマキノ正博や阿部豊など著名監督の作品にも関わっている。卒業後はムーランルージュ新宿座の文芸部につとめ、このとき初の自作戯曲『奧山の社(深山的部落)』を執筆・上演。