岩田 次男(いわた つぎお、1915年11月6日 - 没年不… 岩田 次男(いわた つぎお、1915年11月6日 - 没年不明)は、愛知県出身のプロ野球選手。 名古屋市立第三商業学校(現・名古屋市立桜台高等学校)から早稲田大学(中退)を経て、1936年名古屋軍に入団。 1936年9月23日、甲子園球場で行われた名古屋金鯱軍戦にて内藤幸三からプロ野球初の満塁本塁打を放った。 1937年秋季東京セネタース、1941年朝日軍に移籍。1942年を最後に兵役のため引退。 戦後はプロ野球に復帰せず、社会人野球の東邦ガスで選手兼任監督として活動した。
高間 直道(たかま なおみち、1915年10月5日 - 19… 高間 直道(たかま なおみち、1915年10月5日 - 1996年1月12日)は、日本の哲学者、評論家。 大阪府出身。1940年(昭和15年)早稲田大学文学部哲学科卒業、1941年(昭和16年)学徒出陣で入営。満州、北支などを転戦し、陸軍大尉。復員後、大阪商業大学助教授、1955年(昭和30年)東京医科大学教授。1986年(昭和61年)定年、名誉教授。若者向けの啓蒙書、顔診断の著作を多く執筆した。
前田 豊(まえだ ゆたか、1915年9月25日 - 1997… 前田 豊(まえだ ゆたか、1915年9月25日 - 1997年1月11日)は、日本のバレーボール選手(日本代表)、指導者。バレーボール日本男子代表監督、バレーボール日本女子代表初代監督、日本バレーボール協会副会長、国際バレーボール連盟(FIVB)副会長、アジアバレーボール連盟会長、日本体育協会理事、日本文化出版創業・社長など多くの要職に就き“バレー界の天皇”とも言われた。戦後日本のバレーボールの、国際舞台での活躍と底辺の広がり、両輪の発展に大きな役割を果たしたバレーボール指導者、日本のバレーボール育ての親。広島県佐伯郡廿日市町地御前(現廿日市市)出身。 全国家庭婦人バレーボール連盟(ママさんバレー)名誉会長を務めた前田琴子は妻、JOCマーケティング副委員長などを務めた元電通社員・前田実は長男、イトーヨーカドープリオール監督などを務めた前田健は三男。
鯨岡 兵輔(くじらおか ひょうすけ、1915年(大正4年)9… 鯨岡 兵輔(くじらおか ひょうすけ、1915年(大正4年)9月15日 - 2003年(平成15年)4月1日)は、日本の政治家である。正三位勲一等旭日大綬章。 福島県石城郡四倉町(現・いわき市)出身。4歳の時に東京都足立区千住に転居。早稲田大学商学部卒業後召集され、陸軍航空大尉で終戦を迎えた。戦後、父の経営する鯨岡製袋に入り、1947年足立区議、1955年東京都議を経て、1963年旧東京10区から衆議院議員に初当選。連続12回当選した。鈴木善幸内閣の環境庁長官として、日中渡り鳥保護協定への調印や水俣病患者との対話を行った。1993年に非自民・非共産連立政権が誕生し土井たか子が衆議院議長に選出された際には、衆議院副議長として政治改革に協力した。
山本 満夫(やまもと みつお、1915年9月8日 - 没年不… 山本 満夫(やまもと みつお、1915年9月8日 - 没年不明)は、日本の経営者。中国放送社長を務めた。広島県出身。 1941年に早稲田大学政治経済学部政治学科を卒業し、同年に同盟通信社に入社。1946年に共同通信社、1949年に中国新聞社を経て、1952年に中国放送に転じ、1971年に取締役に就任し、1973年に常務、1977年に専務を経て、1980年3月から1986年6月までに社長を務めた。
青木 茂男(あおき しげお、1915年9月5日 - 1987… 青木 茂男(あおき しげお、1915年9月5日 - 1987年7月22日)は、日本の会計学者。 1915年、神奈川県浦賀町(現横須賀市)生まれ。1938年に早稲田大学商学部を卒業し、卒業と同時に同大学助手となる。1941年より講師、1947年より助教授、1949年より教授。1960年には「近代内部監査の研究」で早稲田大学より商学博士の学位を取得。1966年から1968年には商学部学部長を務めた。1986年に定年退任し、名誉教授となる。その後も、亜細亜大学客員教授を務めるなど教鞭をとった。1987年に死去。
松尾 靖秋(まつお やすあき、1915年8月29日 - 20… 松尾 靖秋(まつお やすあき、1915年8月29日 - 2007年2月12日)は、日本の国文学者。工学院大学名誉教授。 愛媛県生まれ。早稲田大学文学部国文科卒業。工学院大学教授、1986年定年退任、名誉教授、富士フェニックス短期大学教授。近世俳諧を専門とした。 1987年、勲四等瑞宝章を受章。2007年2月12日、心不全のため死去。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
竹中 宏平(たけなか こうへい、1915年8月24日 - 1… 竹中 宏平(たけなか こうへい、1915年8月24日 - 1977年8月24日)は、日本の経営者。兵庫県神戸市出身。 1938年に早稲田大学理工学部建築学科を卒業し、同年に竹中工務店に入社。取締役を経て、1945年2月に副社長に就任し、1977年3月には社長に就任。 1977年8月24日肝硬変のために社長在任中に死去。62歳没。
山岡 喜久男(やまおか きくお、1915年8月10日 - 2… 山岡 喜久男(やまおか きくお、1915年8月10日 - 2000年2月21日)は、日本の経済学者。早稲田大学名誉教授。ドイツの神学者・ブルトマンの提唱した神学の研究でも知られる。位階は従四位。 長野県諏訪郡湊村(現・岡谷市)出身。長野県諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)を経て、1938年早稲田大学政治経済学部卒業。1942年同大学大学院経済研究科理論経済学専攻修了、同大学非常勤講師。千葉大学教授を経て、1964年早稲田大学教授。同大学学生部長、同大学教育学部長、同大学評議員、早稲田実業学校校長、早稲田大学常任理事、同大学名誉教授。埼玉女子短期大学学長など歴任した。 1988年勲三等旭日中綬章受章。
宮崎 吉政(みやざき よしまさ、1915年8月8日 - 20… 宮崎 吉政(みやざき よしまさ、1915年8月8日 - 2006年3月3日)は、日本のジャーナリスト、政治評論家。
井上 孝(いのうえ たかし、1915年8月2日 - 2002… 井上 孝(いのうえ たかし、1915年8月2日 - 2002年6月17日)は、日本の小説家。 山口県生まれ。早稲田大学仏文科卒業。『早稲田文学』に小説を発表し、1940年「ある市井人の一生」で芥川賞候補。戦後は『早稲田文学』の編集に携わりながら作家活動をおこなった。 2002年6月17日、肺炎のため山口県下関市の病院で死去。86歳没。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
青木 半治(あおき はんじ、1915年7月16日 - 201… 青木 半治(あおき はんじ、1915年7月16日 - 2010年5月30日)は、日本のスポーツ指導者、日本陸上競技連盟第5代会長。日本体育協会第11代会長。また国際陸上競技連盟とアジア陸上競技連盟でも役員を歴任し、副会長を務めた。後に終身名誉副会長。 千葉県長生郡太東村(現いすみ市)出身。旧制銚子商業学校(現在の千葉県立銚子商業高等学校)卒業。1938年(昭和13年)に早稲田大学商学部を卒業。 日立製作所に入社し、同年日本陸上競技選手権大会の砲丸投競技で優勝。その後は三徳工業、昭和電工を経て、1945年(昭和20年)に独立し、1946年(昭和21年)青木金属興業株式会社を設立。 会社経営の傍ら、母校の早稲田大学競走部監督を務めた。
金 沃周(キム・オクチュ、朝鮮語: 김옥주、1915年6月3… 金 沃周(キム・オクチュ、朝鮮語: 김옥주、1915年6月3日 - 1980年9月12日)は、日本統治時代の朝鮮の労働運動家、独立運動家、大韓民国の教員、政治家。制憲韓国国会議員。 元国会議員の金善周(朝鮮語版)は兄。 全羅南道光陽郡津上面出身。光陽公立普通学校(現・光陽西初等学校(朝鮮語版))、ソウル養正高等普通学校、早稲田大学法科卒。朝鮮化学工業株式会社に入社したが、朝鮮人の労働者待遇改善を求めた運動および反日思想事件に関与したため、10ヶ月間投獄された。解放後は光陽津上国民学校教員、無所属の制憲国会議員、大韓民国憲法・政府組織法起草委員を務めた。国会議員在任中の1949年に国会フラクチ事件の連座により懲役6年を言い渡された。
牧野 正蔵(まきの しょうぞう、1915年(大正4年)5月1… 牧野 正蔵(まきの しょうぞう、1915年(大正4年)5月15日 - 1987年(昭和62年)2月12日)は、日本の競泳選手。1932年ロサンゼルスオリンピックの1500m自由形銀メダリスト、1936年ベルリンオリンピックの400m自由形銅メダリスト。400mおよび800m自由形で世界記録を更新した。 静岡県浜名郡鷲津町(現在の湖西市)出身。吉津尋常小学校(現 湖西市立鷲津小学校)に入学。1932年ロサンゼルスオリンピックに出場し、男子100m自由形で金メダルを獲得した宮崎康二は吉津尋常小学校で牧野の1年後輩である。旧制静岡県立見付中学校(現在の静岡県立磐田南高等学校)から早稲田大学に進学する。
黄 順元(ファン・スンウォン、ファン・スノン、1915年3月… 黄 順元(ファン・スンウォン、ファン・スノン、1915年3月26日 - 2000年9月14日)は韓国の小説家、詩人。淡い同性愛とサディズム、マゾヒズムを抱く「落胆したロマンチスト」を描写する黄の作風は、詩人として出発した抒情的感性から来るのかもしれない。50年代以降、党派文学に対する批判が起こる韓国文壇で、感受性で美学を形象化してきた黄は純文学のひとつの頂きをなしている。 1915年3月26日、平安南道大同郡在京面氷庄里175番地に生まれる。父は黄賛永。母は張賛朋。三人兄弟の長男。1919年、黄が4歳のとき、三・一運動に父が関わり、日帝当局に逮捕される。それは後に『父』を書く土台になった事件である。
古屋 哲男(ふるや てつお、1915年3月14日- 2009… 古屋 哲男(ふるや てつお、1915年3月14日- 2009年11月27日 )は、日本の経営者。富国生命保険社長、会長を務めた。 山梨県出身。1936年に早稲田大学商科を卒業し、同年に富国生命保険に入社した。1963年5月に取締役に就任し、1965年5月に常務、1968年85月に専務を経て、1971年3月に社長に就任。1991年4月に会長に就任し、1997年7月に相談役に就任。東武鉄道・アサヒビール・昭和電工・日清紡績各監査役、富士急行・後楽園スタヂアム各取締役、日本航空顧問なども歴任した。 1975年9月に藍綬褒章を受章した。 2009年11月27日、肺炎のために死去。94歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
大塚 全一(おおつか ぜんいち、1915年3月6日 - 19… 大塚 全一(おおつか ぜんいち、1915年3月6日 - 1996年4月21日)は、日本の土木系都市計画家。都市計画研究者。早稲田大学理工学部教授。 東京出身。旧制武蔵高等学校から東京帝国大学工学部土木科に進学し1939年に卒業後、内務省都市計画地方委員会に入省し山口県に赴任。山口地方委員会に勤め都市計画を担当。その後1943年に海軍に勤務した。戦後は短期間武蔵工業専門学校講師を経て戦災復興で再び都市計画を担当することになり, 京都府や大阪府の都市計画課, 奈良県の道路課に足掛け11年奉職し, 1957年に建設省 (現国土交通省)に移る。途中2年ほど首都高速道路公団に出向したが, 技術審議官や都市局技術参事官を歴任し、1966年に中国地方建設局長(現中国地方整備局長)で退官するまで、都市計画と道路の分野で活躍した。
増田 冨寿(ますだ とみじゅ、1915年3月1日 - 198… 増田 冨寿(ますだ とみじゅ、1915年3月1日 - 1989年8月5日)は、近代ロシア経済史の研究者。早稲田大学名誉教授。 増田冨寿は、1915年(大正4年)に東京府東京市下谷区(現東京都台東区)に生まれ、早稲田大学文学部史学科に入学した。一年生の時に煙山専太郎の講義、二年生の時には浮田和民の「フランス革命史」の講義を聴き、両者から影響を受けた。「フランス大革命」のロシアへの影響を扱った卒業論文を提出し、主査を煙山、副査を浮田が務めた。さらに研究を進めたいと考えた増田は、政治経済学部に学士入学した。学士入学した増田は、講義よりも図書館で時間を過ごすことが多かったという。この頃に増田は、煙山専太郎の研究室において個人的に指導を受けたと記している。
松永 義正(まつなが よしまさ、1915年 <大正4年> 2… 松永 義正(まつなが よしまさ、1915年 <大正4年> 2月11日 - 1995年 <平成7年> 11月4日)は、日本の経営者。日本軽金属社長、会長を務めた。位階は正四位。 東京都出身。1937年に早稲田大学商学部を卒業。富士川電力での勤務を経て、1939年に日本軽金属に転社。1963年5月に取締役に就任し、1965年5月に常務、1967年5月に副社長を経て、1975年5月に社長に就任。1983年11月に会長に就任し、1987年6月に取締役相談役、1989年6月に取締役名誉会長を経て、1990年6月に名誉会長に就任。 1980年4月に藍綬褒章を受章し、1986年4月に勲二等旭日重光章を受章。 1995年11月4日心不全のために死去。
加茂 健(かも たけし、1915年2月8日 - 2004年3… 加茂 健(かも たけし、1915年2月8日 - 2004年3月26日)は、静岡県出身のサッカー選手。ポジションはインナーレフト。加茂正五は弟。 静岡県浜松師範学校付属小学校4年時にサッカーを始める。浜松一中では5年時にキャプテンを務め、中部大会に優勝した。 早稲田大学入学後はア式蹴球部に所属。在学中の1936年に開催されたベルリンオリンピックのサッカー日本代表に選出され、背番号10を付けた。1回戦のスウェーデン代表戦に出場し、ベルリンの奇跡の立役者となった。また、2回戦のイタリア代表戦にも出場した。 また、1938 FIFAワールドカップ・予選および1940年東京オリンピック の日本代表にも選出されたが、試合会場となるベトナムへの渡航に難色を示した大日本蹴球協会(現:日本サッカー協会)によりW杯予選への不参加が決定された。
池田 雅雄(いけだ まさお、1915年1月19日 - 198… 池田 雅雄(いけだ まさお、1915年1月19日 - 1988年11月27日)は、日本のジャーナリスト、相撲評論家である。 長年にわたり、ベースボール・マガジン社の雑誌『相撲』の編集者・顧問として幅広く相撲研究に取り組み、多くの記事やエッセイを著した。本名での執筆とともに、〈国立浪史〉〈葛飾太郎〉のペンネームもしばしば使用した。奈良県桜井市出雲名誉区民、実兄はベースボール・マガジン社創設者の池田恒雄、息子は早稲田大学教授の池田雅之、姪はエッセイストの工藤美代子、姪は池田晶子、從孫は産経新聞記者の猪谷千香。 東京市本所区南二葉町(現在の墨田区亀沢)出身。「相撲の神様」として有名な野見宿禰神社の近くで育ち、少年時代は本場所前に相撲部屋の親方に連れられて必勝祈願に参詣するのを楽しみにしていたという。
不破 整(ふわ せい、1915年 - 1982年11月)は、… 不破 整(ふわ せい、1915年 - 1982年11月)は、東京府出身のサッカー選手。ポジションはGK。 東京府立第五中学校(現:東京都立小石川中等教育学校)を卒業して、第一早稲田高等学院へ、その後早稲田大学に入学。ア式蹴球部に在籍した。 不破が21歳の1936年4月にベルリンオリンピックの日本代表に選出されたが、同じ早稲田大学から代表に選出された佐野理平がスタメンを占めたため、出場機会は無かった。 また、早稲田大学在学中の1938年に全日本蹴球選手権大會(第18回天皇杯全日本サッカー選手権大会)で優勝、1939年には同大會(第19回天皇杯全日本サッカー選手権大会)で準優勝に貢献した。 1940年に早稲田大学理工学部採鉱冶金学科を卒業、同年日本製鋼所に入社するが、1941年春に太平洋戦争のために召集され満州に配属された。
木村 幸吉(きむら こうきち 1915年 - 1945年)は… 木村 幸吉(きむら こうきち 1915年 - 1945年)は、日本の元アマチュア野球選手。愛知県出身。 愛知一中(現・愛知県立旭丘高等学校)から1935年に早稲田大学に進み、野球をプレーした。ポジションは左翼手だったと伝わる。 早大卒業後応召され、1945年(正確な死没月日は不明)にフィリピンで戦死した。享年30。 東京ドーム内の野球殿堂博物館にある戦没野球人モニュメントに、彼の名が刻まれている。
磯野 友彦(いその ともひこ、1915年 - 1986年11… 磯野 友彦(いその ともひこ、1915年 - 1986年11月9日)は、日本の哲学者。 東京出身。成蹊小学校、東京市立第一中学校、正則中学校、早稲田大学文学部哲学科卒、同文学部助教授、教授、85年定年、名誉教授。1966年『哲学逍遥 懐疑主義と動物的信』(ジョージ・サンタヤーナ)で日本翻訳文化賞受賞。
龍田 峻次(たつた しゅんじ、1914年12月23日 - 1… 龍田 峻次(たつた しゅんじ、1914年12月23日 - 1991年1月1日)は、北海道小樽市出身の元スキージャンプ選手。「竜田」という表記もあり。 旧制小樽中学(現:北海道小樽潮陵高等学校)を経て、早稲田大学専門部商科卒業。 1936年のガルミッシュパルテンキルヒェンオリンピックに出場し、73.5m、77.0mを飛ぶがいずれも転倒、46位に終わる。2本目の77.0mはこの大会最長の飛距離だった。 引退後はスコーバレー・グルノーブル両オリンピックでスキーチームの監督をつとめ、その後も全日本スキー連盟の常任理事を務めるなど、スキー界に携わった。実弟の龍田鳳三も元ジャンパーでスキー連盟常任理事などを歴任。
大友 恒夫(おおとも つねお、1914年12月21日 - 1… 大友 恒夫(おおとも つねお、1914年12月21日 - 1980年6月5日)は、日本の経営者。秩父セメント社長を務めた。 東京都出身。1939年に早稲田大学理工学部応用学科を卒業。 海軍燃料廠での勤務を経て、1945年11月に秩父セメントに転じ、1948年6月に常務、1967年5月に専務を経て、1968年3月には社長に就任。1976年8月には会長に就任した。 1980年6月5日、肝臓癌のために死去。65歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
小笠原 長和(おがさわら ながかず 1914年12月16日 … 小笠原 長和(おがさわら ながかず 1914年12月16日 – 2009年9月15日)は、日本の歴史学者。 獣医として陸軍騎兵第18連隊に勤務していた小笠原長淳と房のあいだに、栃木県で生まれる。1938年、早稲田大学文学部史学科を卒業。卒業論文は「関塞の史的考察(王朝時代を中心として)」。在学中は、花見朔巳、荻野三七彦らに師事した。卒業後の1938年から1945年まで東京大学史料編纂所で史料編纂業務嘱託として勤め、また1944年9月からは東京都立牛込商業學校教諭を兼務し、1945年9月に千葉師範学校教授となる。1949年に同校が千葉大学となると、助教授となる。1965年に教授となり、人文学部長等の任にも当たった。
古荘 次平(ふるしょう じへい、1914年12月15日 - … 古荘 次平(ふるしょう じへい、1914年12月15日 - ?)は、日本の水球選手。1936年ベルリンオリンピックの水球競技に出場した。 熊本県出身。熊本県立商業学校、早稲田大学卒。クリーニング企業のシロヤパリガン創立者。
石田 博英(いしだ ひろひで、1914年(大正3年)12月1… 石田 博英(いしだ ひろひで、1914年(大正3年)12月12日 - 1993年(平成5年)10月14日)は、日本の政治家。位階は正三位、勲等は勲一等、勲章は旭日大綬章。衆議院議員(14期)。通称は名を音読みした「バクエイ」。所属した自由民主党では1969年から1971年まで党内派閥の二日会を率いた。 政務では労働大臣(第14・17・18・22・23・39代)、運輸大臣(第47代)、内閣官房長官(第16・17代)を、衆議院では議院運営委員長(第6代)などを歴任した。 政界引退後の晩年および死後に、ソビエト連邦のスパイであったことを指摘する情報が複数発見されたが、立件されなかった(後述)。 秋田県山本郡二ツ井町(現能代市)で生まれ、大館市で育つ。
安井 源治(やすい げんじ、1914年12月9日- 1998… 安井 源治(やすい げんじ、1914年12月9日- 1998年9月22日)は、フランス文学者。 京都府生まれ。1938年早稲田大学文学部卒、早大教授、85年定年退任、名誉教授。パスカルなどフランス思想が専門。
加瀬 欣一(かせ きんいち、1914年11月26日 - 19… 加瀬 欣一(かせ きんいち、1914年11月26日 - 1983年12月13日)は、日本の経営者。新潟県出身。 1938年に早稲田大学商学部を卒業し、同年に三菱倉庫に入社。1968年5月に取締役に就任し、1971年5月に常務、1975年6月に専務を経て、1977年6月には社長に就任。1981年6月から会長を務めた。 1983年12月13日急性心不全のために死去。69歳没。
北原 安定(きたはら やすさだ、1914年11月5日 - 1… 北原 安定(きたはら やすさだ、1914年11月5日 - 1994年4月1日)は、日本の逓信官僚、元電電公社副総裁および元NTT副社長。工学博士。 長野県上伊那郡高遠町(現伊那市)出身。第一早稲田高等学院、早稲田大学理工学部電気科を卒業し、逓信省に入省。電気通信省を経て、日本電信電話公社で、九州電気通信局長、施設局長、総務理事、技師長を歴任し、1977年に副総裁に就任した。 当時、世界最高水準であった電電公社の技術陣をまとめただけでなく、経営観点においても高い先見性を持っており、いち早くデータ通信の重要性を見出していた。高度情報通信システムINS(Information Network System)を活用した将来的な、在宅勤務やオンラインショッピングなど、“電話”の次のネットビジネスを模索していた。
ピストン堀口(ピストンほりぐち、1914年(大正3年)10月… ピストン堀口(ピストンほりぐち、1914年(大正3年)10月7日 - 1950年(昭和25年)10月24日)は、日本のプロボクサー。本名:堀口 恒男(ほりぐち つねお)。栃木県真岡市出身。昭和初期における日本ボクシング界の象徴的存在で「拳聖」と呼ばれた。元日本フェザー級・東洋フェザー級および日本ミドル級王者。次兄から順に、基治、宏(元日本バンタム級チャンピオンの堀口宏)、喬久という堀口4兄弟(いずれもプロボクサー)の長兄。孫は元ボクサーの堀口昌彰で、日本ライト級2位に格付けされていた。現在はピストン堀口道場の指導者を務める。 「ピストン堀口」の呼称は正式なリングネームではなく、あくまで本名の堀口恒男が正式なリングネームなのだが、いつの頃からか「ピストン・堀口恒男」との異名が新聞記事などで使われるようになり、一般に「ピストン堀口」の呼称が定着してしまった。
辻 亮一(つじ りょういち、1914年9月28日 - 201… 辻 亮一(つじ りょういち、1914年9月28日 - 2013年3月6日)は、日本の小説家。 滋賀県神崎郡南五個荘村金堂(現在の東近江市五個荘金堂町)生まれ。従兄に画家の野口謙蔵がいる。呉服商・辻市左衛門の五男で、父に謡曲を習う。 八日市中学校、早稲田第二高等学院を経て、1937年早稲田大学文学部フランス文学科卒業。高等学院在学中、八木義徳、多田裕計、中村八朗らと同人雑誌『黙示』を創刊。大学卒業後は満洲に渡り、東満洲鉄道の親会社である東満洲産業に勤務した。 敗戦に伴い、中国共産党軍に抑留され、妻を失う。1948年に帰国した後に再婚し、長浜ゴム(のち三菱樹脂)に勤務。1949年、中国共産党の手榴弾工場で徴用された経験を描いた「異邦人」を書く。
八田 竹男(はった たけお、1914年〈大正3年〉9月15日… 八田 竹男(はった たけお、1914年〈大正3年〉9月15日 - 1991年〈平成3年〉8月6日)は、吉本興業社長。興行師、芸能プロモーター。 大阪府の生まれ。旧制北野中学校(現大阪府立北野高等学校)、早稲田第一高等学院を経て、早稲田大学法学部中退。俳優の森繁久彌とは北野中学時代からの同級生で同い年であり、早稲田時代には一緒に演劇に熱中した。 戦前の1937年、吉本興業に入社。戦後は事業部、制作部の部長などを歴任。戦後は映画館経営に専念していた吉本興業に演芸部門を復活させ、うめだ花月、京都花月、なんば花月など演芸場を次々と開設し、今日の「笑いのヨシモト」を築き上げた。1977年には橋本鐵彦の後を継いで社長に就任。
阿部 助哉(あべ すけや、1914年9月14日 - 1995… 阿部 助哉(あべ すけや、1914年9月14日 - 1995年4月22日)は、日本の政治家。日本社会党衆議院議員(5期)。
斎藤 玄(さいとう げん、1914年8月22日 - 1980… 斎藤 玄(さいとう げん、1914年8月22日 - 1980年5月8日)は、北海道出身の俳人。本名・俊彦。 北海道函館市春日町(現青柳町)に生まれる。祖父斎藤又右衛門は末広町で呉服屋を営み、函館銀行初代頭取や函館商工会議所初代会長などを務めた地元財界の大物だった。父俊三は咀華と号した画家で、二科展に属し川端龍子や斎藤五百枝らと交流があったが、4歳のときに死別した。親類に上田敏がいる(祖父の妹の夫)。 函館中学校、早稲田大学商科卒。大学在学中、新興俳句に惹かれたことから従兄の杉村聖林子に誘われて「京大俳句」に参加し西東三鬼に師事。当初は三樹雄と号した。1938年、旧北海道銀行に入社。1940年、郷里で「壷」を創刊するが、4年後に休刊。
上林 吾郎(かんばやし ごろう、1914年7月30日 - 2… 上林 吾郎(かんばやし ごろう、1914年7月30日 - 2001年6月21日)は、日本の経営者。文藝春秋社長、会長を務めた。京都府京都市出身。 1939年に早稲田大学文学部国文科を卒業し、同年に文藝春秋新社に入社。 出版部長、「文学界」・「オール讀物」・「週刊文春」・「文藝春秋」各編集長を経て、1961年に取締役に就任し、専務、副社長を経て、1984年6月に社長に就任。1988年5月には会長に就任。 2001年6月21日、肺炎のために死去。86歳没。
本木 荘二郎(もとき そうじろう、1914年6月19日 - … 本木 荘二郎(もとき そうじろう、1914年6月19日 - 1977年5月21日)は、日本の映画プロデューサー、映画監督、脚本家である。独立し、映画監督を兼ねるようになってからの筆名に岸本 恵一(きしもと けいいち)、高木 丈夫(たかぎ たけお)、藤本 潤三(ふじもと じゅんぞう)、藤本 潤二 (ふじもと じゅんじ)等がある。
具 興南(ク・フンナム、朝鮮語: 구흥남/具興南、1914年… 具 興南(ク・フンナム、朝鮮語: 구흥남/具興南、1914年5月20日 - 1966年12月27日発見)は、大韓民国の教員、公務員、実業家、政治家。第3・4代韓国国会議員。本貫は綾州具氏(綾城具氏)。 日本統治時代の全羅南道和順郡生まれ、現在のソウル特別市西大門区出身。平壌崇実中学校、早稲田大学英文科卒。 ソウル公立農業学校の教員、交通部総務課長、ソウル大学校予科講師を経て、釜山に移り韓国通運の社長を務めた。外資モータープール協会会長を経て、1954年の第3代総選挙では自由党の候補として和順郡選挙区から国会議員に当選し、1958年の第4代総選挙でも同様に当選した。任期中の1956年に国会復興委員長を務め、和順郡綾州面一帯の干ばつを解消するために同郡寒泉面に貯水池の建設を主導した。
高須 清(たかす きよし、1914年4月28日 - 没年不明… 高須 清(たかす きよし、1914年4月28日 - 没年不明)は、愛媛県出身のプロ野球選手(二塁手、三塁手、遊撃手、外野手)。
中村 八朗(なかむら はちろう、1914年4月16日 - 1… 中村 八朗(なかむら はちろう、1914年4月16日 - 1999年2月3日)は、昭和期の小説家。 長野県長野市出身。旧制長野中学(現長野県長野高等学校)、第二早稲田高等学院(現早稲田大学高等学院)を経て早稲田大学文学部仏文科卒業。吉江喬松にフランス文学を学んだ。高等学院時代に八木義徳、辻亮一、多田裕計らとともに同人誌『黙示』を創刊。『黙示』に載せた小説「或る尼僧の話」を丹羽文雄に評価され、以後師事する。1937年、丹羽の推挙により『早稲田文学』に処女作「古い絆」を発表、文壇デビューを果たす。初期の作品は僧侶を題材としたものが多かった。 大学卒業後、1938年から早稲田大学出版部に勤務するが、翌年応召され、松本市の歩兵第50連隊を経て、盛岡市の陸軍予備士官学校に入る。
川越 藤一郎(かわごえ とういちろう、1914年4月9日 -… 川越 藤一郎(かわごえ とういちろう、1914年4月9日 - 2002年4月16日)は、昭和初期の日本の元ラグビー選手。後に日本ラグビーフットボール協会第9代会長。 京都府立京都第一中學校(現在の京都府立洛北高等学校・附属中学校)を経て、早稲田大学(以下、早大)に進学。1937年度シーズンには早大の主将を務め、東西学生ラグビーフットボール対抗王座決定戦の制覇に貢献。また日本代表選手として、1936年のニュージーランド学生代表 (NZU) 戦でキャップ1を獲得した。 その後、1987年〜1992年まで関西ラグビーフットボール協会会長(後に同協会名誉会長に就任)、1992年〜1994年まで日本ラグビーフットボール協会第9代会長を務めた。
五島 虎雄(ごとう とらお、1914年〈大正3年〉3月24日… 五島 虎雄(ごとう とらお、1914年〈大正3年〉3月24日 - 1985年〈昭和60年〉10月22日)は、日本の政治家(社会党所属の衆議院議員、神戸市会議員)。孫は公認会計士、税理士で神戸市会議員の五島大亮。 熊本県熊本市小島町(現・熊本市西区小島)出身。1937年、早稲田大学法学部卒業。宇治川電気を経て1943年、山陽電鉄に入社。 戦後同社労組中央委員副委員長委員長、神戸市議(1947年4月30日から1951年4月29日)、兵庫県地労委委員5期、左派社会党同県連書記長、神戸労協常任委員、交通協幹事、県地評組織部長、兵庫労働金庫神戸生協各理事を経て、1953年に実施された衆院選に兵庫1区から立候補立候補したが次点で落選。
大内 弘(おおうち ひろし、1914年3月15日 - 没年不… 大内 弘(おおうち ひろし、1914年3月15日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。本名大内 一郎(おおうち いちろう)。 1914年(大正3年)3月15日、愛媛県松山市に生まれる。4歳下の妹に女優の大内照子(本名・大内幸香)がいる。 旧制・愛媛縣松山中學校(現在の愛媛県立松山東高等学校)を卒業、東京に移って、旧制・早稲田大学附属早稲田高等学院(大学予科、現在の早稲田大学高等学院)に進学するが、2年次で中途退学する。京都に移り、1933年(昭和8年)9月、満19歳のときに松竹下加茂撮影所に入社した。 記録に残る最初の出演作品は、同年2月22日に公開された二川文太郎監督の『仁義は耀く』である。同年5月9日に公開された笠井輝二監督の『やくざ無敵』、同年7月18日に公開された同じく『第二新選組』ではすでに主演している。
有倉 遼吉(ありくら りょうきち、1914年2月20日 - … 有倉 遼吉(ありくら りょうきち、1914年2月20日 - 1979年6月10日)は、日本の法学者。専門は、憲法学・教育法学。学位は、法学博士(1960年)(学位論文「公法における理念と現実」)。元早稲田大学法学部教授。 厳格な法実証主義による解釈を行った。閣議の議決方法については、多数決説を、憲法判断の回避の問題では、憲法判断先行説をとる。教育基本法の法的性格として、準憲法的法律説を提唱、日本教育法学会の初代会長を務めるなど、教育法学の理論形成に大きく貢献した。中国大連市(当時)生まれ。
斎藤 十一(齋藤 十一、さいとう じゅういち、1914年(大… 斎藤 十一(齋藤 十一、さいとう じゅういち、1914年(大正3年)2月11日 - 2000年(平成12年)12月28日)は、昭和期の編集者・出版人。
向山 一人(むかいやま かずと、1914年2月10日 - 1… 向山 一人(むかいやま かずと、1914年2月10日 - 1995年12月21日)は日本の実業家、政治家。衆議院議員(2期)、参議院議員(1期)。 長野県上伊那郡中箕輪村(後の中箕輪町、現在の箕輪町)生まれ。旧制長野県伊那中学校(現長野県伊那北高等学校)を経て、早稲田大学附属高等工学校卒業。古河電工無線研究所研究課長を退職して、1940年東京市荏原区(現品川区)に「興亜工業社」(現KOA) を設立した。1955年伊那毎日新聞設立。1963年には建設省の専門委員、1964年興亜ソリッド社長、1967年には日本経済団体連合会常任理事を歴任した。1977年コーア会長に就任。 1962年紺綬褒章受章。1962年5月長野県箕輪町教育施設費のため100万円寄付により1963年2月2日紺綬褒章受章(飾版)、寄付の功績顕著として木杯一組台付を賜った。
竹村 公良(たけむら きみよし、1914年(大正3年)1月2… 竹村 公良(たけむら きみよし、1914年(大正3年)1月21日 - )は、日本の競泳選手。 1914年1月21日、京都府に生まれる。早稲田大学政治経済学部在学中は東京府中野区に暮らした。1933年に50メートル自由形を26秒で泳ぎ、当時の日本記録を打ち立てた。1934年に開催された第10回極東選手権競技大会では50メートル自由形で26秒7の記録を出し優勝した。この年には26秒4の記録も出している。体形は痩せていたが、体を浮き気味にすることによって作り出す滑りやすい姿勢が持ち味であった。1938年に早稲田大学を卒業し、宝塚第一ホテルに就職した。その後、取締役企画部長、常務営業部長を経て、1954年に常務に就任した。
川本 泰三(かわもと たいぞう、1914年1月17日 - 1… 川本 泰三(かわもと たいぞう、1914年1月17日 - 1985年9月20日)は、愛知県瀬戸市出身のサッカー選手、サッカー指導者、実業家。ポジションはフォワード。 小学校時代に大阪へ転居、大阪府立市岡中学からサッカーを始め、1930年に第12回全国中等学校蹴球選手権大会に出場してベスト4の成績を残した。1931年に市岡中学を卒業し、早稲田高等学院(予科に相当)を経て早稲田大学に入学。予科在学中からア式蹴球部で試合出場し、予科3年の1933年から早大の関東大学リーグ4連覇に貢献した。 在学中の1934年5月に開催された第10回極東選手権競技大会のサッカー日本代表に選出されて、5月15日のオランダ領東インド代表戦で初出場し、初得点も決めた。