島 茂雄(しま しげお、1906年8月29日-1993年12… 島 茂雄(しま しげお、1906年8月29日-1993年12月4日)は日本のトランジスタ技術者。日本カーバイド株式会社 元常務取締役。 鉄道技術者で新幹線の開発に携わった島安次郎の次男。元日本国有鉄道(国鉄)技師長の島秀雄は兄。一般社団法人FEA農研 代表理事である糸永季生を曾孫にもつ。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
黄 慶秀(ファン・ギョンス、朝鮮語: 황경수/黃慶秀、190… 黄 慶秀(ファン・ギョンス、朝鮮語: 황경수/黃慶秀、1906年7月27日または1907年7月27日 - 1987年12月10日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の教育者、実業家、政治家。第3代韓国国会議員。 京畿道平沢郡(現・平沢市)出身。中東学校(現・中東高等学校)卒、1927年早稲田大学政外科修了。1930年に平沢郡協同組合組合長、1944年に朝鮮商工会平沢郡出張所長を務めて、平沢郡農会議員、平沢郡国民会長、生活必需品商業組合理事長、平沢畿湖水利組合組合長、平沢中学院設立者・院長、朝鮮紡績理事・重役、世界食糧農業機関韓国支部副会長、京南水利組合組合長、テドン産業会長、第3代国会農業資金特別対策委員会委員長・水害対策委員会委員長、民主共和党政策委員を務めた。
神崎 武雄(かんざき たけお、1906年6月18日 - 19… 神崎 武雄(かんざき たけお、1906年6月18日 - 1944年9月17日)は、日本の小説家。孫は漫画家の押切蓮介(神崎良太)。 福岡県門司市(現・北九州市門司区)出身。早稲田大学中退後、都新聞(東京新聞の前身紙)に入社。1940年に新鷹会に入会し、『オール讀物』1942年11月号に掲載された「寛容」は第16回直木賞を受賞した。 その後、海軍報道班員として南方やシンガポールに派遣された。その最中の1944年6月に妻が出産後間もなくして亡くなったとの訃報が届き、海軍省から帰還命令が出て、空母「雲鷹」に便乗したが、9月17日に南シナ海でアメリカ軍潜水艦の雷撃を受けて沈没し、戦死した。 国柱会の信者であった。
八田 一朗(はった いちろう、1906年6月3日 - 198… 八田 一朗(はった いちろう、1906年6月3日 - 1983年4月15日)は、日本のレスリング選手・指導者、政治家である。日本レスリング界の父であり、参議院議員も務めた。また、1964年東京オリンピック招致にも尽力した。広島県安芸郡江田島町(現・江田島市)出身。
竹節 作太(たけふし さくた、1906年4月17日 - 19… 竹節 作太(たけふし さくた、1906年4月17日 - 1988年8月12日)は、長野県下高井郡平穏村(現・山ノ内町)出身のジャーナリスト、クロスカントリースキー選手、登山家。 旧制飯山中学校を経て、1929年早稲田大学商学部卒。全日本スキー選手権大会クロスカントリースキーのリレーでは早大チームのメンバーとして1925年の第3回大会、翌年の第4回大会と連覇を果たした。日本初参加となった1928年サンモリッツオリンピックでは、クロスカントリースキー個人18kmで30位、個人耐久(50km)で26位だった。研究熱心な竹節は同大会で欧米の選手が用いていた距離スキー専用のワックスや、ヒッコリー材のスキーを大会後いち早く導入するなど、日本のスキー技術の向上につとめた。
保坂 弘司(ほさか こうじ、1906年4月10日 - 198… 保坂 弘司(ほさか こうじ、1906年4月10日 - 1983年2月3日)は、日本の国文学者。学燈社社長、昭和女子大学名誉教授。 新潟県生まれ。早稲田大学国文科卒。欧文社(旺文社)に勤務、国語漢文部長。1948年學燈社を創業、受験雑誌『学燈』を創刊し、自著のほか、国語漢文関係の参考書、「学燈文庫」を刊行する。1956年『國文學 解釈と教材の研究』を創刊し、至文堂の『国文学 解釈と鑑賞』と双璧をなす国語国文学雑誌とした。昭和女子大学教授、1977年定年、名誉教授。学習書協会理事長、日本書籍出版協会常任理事、日本出版クラブ評議員などを務めた。
山田 弥一(山田 彌一、やまだ やいち、1906年4月5日 … 山田 弥一(山田 彌一、やまだ やいち、1906年4月5日 - 1978年8月5日)は、昭和期の日本の政治家。衆議院議員(当選5回、自由民主党所属)、運輸政務次官(第1次池田内閣)、全国旅館生活衛生同業組合連合会(全旅連)、社団法人全国生活衛生同業組合中央会各会長。早稲田大学専門部商科卒業。 静岡県熱海市出身。1925年創業の老舗旅館・大月ホテル(2005年経営破綻、再建中)創業者であり、熱海町議、熱海市議・同議長、静岡県議・同議長を経て、1952年の第25回衆議院議員総選挙で初当選。以降、同じく熱海の老舗旅館・つるや(2001年に廃業)の創業者で共に自由民主党衆議院議員である畠山鶴吉と選挙・事業の両面で激しく覇を争った。
小松 芳喬(こまつ よしたか、1906年4月1日 - 200… 小松 芳喬(こまつ よしたか、1906年4月1日 - 2000年2月7日)は、日本の経済学者、社会経済史学者。1960年社会経済史学会代表理事。1983年日本学士院会員。1979年日経・経済図書文化賞。 東京市神田生まれ。第一早稲田高等学院を経て、1928年早稲田大学政治経済学部卒業、同大学院進学。1960年経済学博士の学位を取得。 1933年早稲田大学政治経済学部助手、1934年同大学講師。東京外国語学校での語学習得や1937年から1939年までロンドン大学留学。1939年早稲田大学助教授、1942年に教授となった。
森 茂雄(もり しげお 、1906年3月18日 - 1977… 森 茂雄(もり しげお 、1906年3月18日 - 1977年6月24日)は、愛媛県松山市出身のプロ野球選手・監督・実業家。
本田 安次(ほんだ やすじ、1906年3月18日 - 200… 本田 安次(ほんだ やすじ、1906年3月18日 - 2001年2月19日)は、日本の芸能研究者。早稲田大学名誉教授。 福島県本宮町(現・本宮市)生まれ。1929年早稲田大学文学部英文科卒業。宮城県立石巻中学校教諭、1943年『山伏神楽・田楽』『能及狂言考』で藝能学会賞受賞、1949年早稲田大学付属高等学院教諭・同大学文学部講師(-1960年)、1950年文化財保護審議会専門委員(-1986年)、1954年『霜月神楽之研究』で芸術選奨文部大臣賞受賞、東京都文化財専門委員(-1974年)、1960年早稲田大学教育学部教授、「神楽の研究」で早大文学博士、1967年紫綬褒章受章、1971年日本民俗芸能協会会長、1972年河北文化賞受賞、1973年早稲田大学大隈記念学術褒章、1975年『日本の民俗芸能』全5巻で再度芸術選奨文部大臣賞受賞、1976年勲三等瑞宝章受章、早大を定年退職、成城大学講師(-1979年)、1981年日本口承文芸学会会長(-1983年)、1987年民俗芸能協会名誉会長、1990年芸能学会会長(-1992年)、1991年伝統文化ポーラ大賞、1992年『沖縄の祭と芸能』で柳田賞、1995年文化功労者。
嶺 駒夫(みね こまお、明治39年(1906年)3月16日 … 嶺 駒夫(みね こまお、明治39年(1906年)3月16日 - 昭和49年(1974年)11月16日)は、日本の実業家。元昭和製袋工業社長。 妻の淑子は櫻内幸雄(商工大臣、農林大臣、大蔵大臣を歴任)の二女、娘の貴代子は福田康夫(第91代内閣総理大臣)の妻、孫の福田達夫は衆議院議員。 趣味は音楽、登山。宗教は浄土宗。 中国電力会長を務めた櫻内乾雄とは明治中学校1年生のときからのクラスメートであり、親友だった。妻・淑子は櫻内の妹である。
藤井 丙午(ふじい へいご、1906年(明治39年)2月23… 藤井 丙午(ふじい へいご、1906年(明治39年)2月23日 - 1980年(昭和55年)12月14日)は、日本の実業家、政治家。位階は従三位、勲等は勲一等。新日本製鐵副社長、参議院議員などを歴任した。 財界にあって、政界とのつきあいも広く、参議院議員になるなど「財界政治部長」の異名を取った。 岐阜県加茂郡黒川村(現白川町黒川)出身。早稲田大学専門部政治経済科在学中に、早慶戦の入場券を学校当局が不正配分したとして、学生がストライキを起こす騒ぎに発展したが、藤井は学生側委員長としてストライキを指揮した。この騒ぎは、中野正剛・緒方竹虎が学校と学生の間に入って仲介を務めたが、このことが縁で、1931年(昭和6年)3月卒業後、同年4月に(中野と緒方が在籍していた)朝日新聞社に入社した。
崔 秉国(チェ・ビョングク、朝鮮語: 최병국/崔秉國、190… 崔 秉国(チェ・ビョングク、朝鮮語: 최병국/崔秉國、1906年2月16日または1907年 - 1973年9月)は、日本統治時代の朝鮮の教員、大韓民国の実業家、政治家。烏山面(現・烏山市)面長、第3代韓国国会議員を歴任した。本貫は全州崔氏(朝鮮語版)。 京畿道華城郡出身。早稲田大学政治科卒。大成学校教員を経て、解放後は大同青年団烏山面団長、大韓青年団(朝鮮語版)烏山面団長・華城郡団長・中央総本部中央執行委員、烏山商事常務理事・監事、烏山中学財団理事長、烏山面長、自由党華城乙区党委員長、第3代民議員を務めた。 1957年、贓物を横領した疑いで徐寅洪議員の随行員2名は警察の取り調べを受けたが、当初は崔の随行員という虚偽な陳述をした。
平山 博三(ひらやま はくぞう、1906年〈明治39年〉2月… 平山 博三(ひらやま はくぞう、1906年〈明治39年〉2月4日 - 1990年〈平成2年〉1月6日)は、日本の政治家。浜松市長、全国市長会会長。旧姓・安間。位階は従四位。 静岡県浜名郡河輪村(現浜松市中央区西町)で、農業・安間伊三郎の三男として生まれ、引佐郡奥山村(現浜松市浜名区)の平山家の養子となる。県立蚕業学校(現静岡県立浜松大平台高等学校)を経て、1928年、早稲田大学専門部法律科を卒業。 卒業後に帰郷し、1928年に静岡県庁に入り、総務部調査課長、労働部長などを歴任。その後、1956年、浜松市助役に就任。1959年5月に浜松市長に選出され、1979年4月まで市長を五期20年にわたり務めた。
高洲 九郎(たかす くろう、1906年1月21日 - 198… 高洲 九郎(たかす くろう、1906年1月21日 - 1981年3月8日)は、日本の経営者。ゼネラル石油社長を務めた。佐賀県出身。 1928年に早稲田大学商学部を経て、1932年にバーミンガム大学高等部を卒業し、1933年に三井鉱山に入社した。1934年に三井物産を経て、1947年9月にゼネラル物産(のちのゼネラル石油)取締役に就任し、1952年11月に常務、1955年6月に専務、1965年11月に会長を経て、1967年11月から1974年2月までに社長を務めた。 1981年3月8日心不全のために死去。75歳没。
永田 実(ながた みのる、1906年 - 未詳)は、新潟県高… 永田 実(ながた みのる、1906年 - 未詳)は、新潟県高田市(現上越市)出身の元クロスカントリースキー選手。 旧制高田中学校 → 早稲田大学 高田中学時代の1924年、第2回全日本スキー選手権大会クロスカントリースキーの個人4kmで、中学の後輩の矢沢武雄に次いで2位となる。卒業後早大に進み、1926年の同大会では、クロスカントリースキー個人10kmで5位となるなど、永田・高橋昴・竹節作太らとともに早大の黄金期を作り上げた。 1928年のサンモリッツオリンピックの代表選考では、当初は補欠だったが、代表の一人だった岡村源太郎(北海道大)が1927年10月に急逝したため、急遽永田が代表に選出された。
小野武雄(おの たけお、1906年 - 1979年)は、日本… 小野武雄(おの たけお、1906年 - 1979年)は、日本の英文学者、近世風俗研究家、翻訳家。帝京大学名誉教授。 東京生まれ。1929年早稲田大学卒業。早稲田大学講師、目白女子短期大学助教授、帝京大学教授、同図書館長、1977年定年退任。 初期は英文学を研究、多くの翻訳を刊行、後年はセクソロジー(性科学史)を軸とした訳書や、江戸期の風俗研究の著述活動を行った。
金 汶枰(キム・ムンピョン、朝鮮語: 김문평、1906年 -… 金 汶枰(キム・ムンピョン、朝鮮語: 김문평、1906年 - 1987年1月27日)は、日本統治時代の朝鮮の銀行家、ジャーナリスト、大韓民国の政治家。第2代麗川郡郡守、制憲韓国国会議員。 本貫は霊光金氏(朝鮮語版)、初代大法院長の金炳魯は岳父、政治家の金鍾仁は妻の甥、元憲法裁判所長の尹永哲(朝鮮語版)と政治家の李宅敦は妻の姪の夫である。 全羅南道麗水出身。1932年に早稲田大学政治学部政治経済科卒。卒業後は海東銀行に就職し、1938年1月までは海東銀行本町支店次席支配人を務め、同年の漢城銀行による買収後は漢城銀行本町支店支配人代理となり、その後は東亜日報麗水支局長を務めた。 光復直後は朝鮮建国準備委員会麗水支部文化部長を務め、1945年9月には韓国民主党麗水郡党、11月には韓国民主党全羅南道党の結成に参加した。
大倉 精一(おおくら せいいち、1905年(明治38年)12… 大倉 精一(おおくら せいいち、1905年(明治38年)12月15日 - 1974年(昭和49年)8月14日)は、日本の労働運動家、政治家。参議院議員。 三重県、現在の桑名市で生まれる。1931年、早稲田大学商学部を卒業した。名古屋運搬合資会社に入社後、1941年、会社統合により日本通運に移籍した。 戦後、全日通労働組合(全日通)中部地区書記長、同中央執行委員長、全交通副議長、中央労働基準委員、中央職業安定委員などを務めた。 1953年4月、第3回参議院議員通常選挙に全国区から社会党左派所属で出馬して当選したが、栃木県佐野市の投票所で候補者平林剛の所属政党名の誤記があったことにより、1954年9月24日、最高裁判所の上告審判決により佐野市での選挙が無効となり、大倉を含めた6名が失格した。
佐藤 孝一(さとう こういち、1905年 <明治38年> 1… 佐藤 孝一(さとう こういち、1905年 <明治38年> 11月11日 - 1975年 <昭和50年> 10月18日)は、日本の会計学者。 東京府東京市下谷区二長町(現・東京都台東区台東)出身。1930年早稲田大学商学部卒、1932年同講師、1938年助教授、1942年教授。1951年「剰余金の研究」で早稲田大学より商学博士の学位を取得。長谷川安兵衛に師事。1975年死去。死没日付をもって正五位に叙され勲三等旭日中綬章を追贈された。 門下生に新井清光、染谷恭次郎、加古宜士等がいる。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
藤田 圭雄(ふじた たまお、1905年11月11日 - 19… 藤田 圭雄(ふじた たまお、1905年11月11日 - 1999年11月7日)は、日本の編集者・児童文学作家・評論家。 孫は俳優・劇作家・脚本家・プロデューサーの岩瀬顕子。 東京牛込生まれ。父は歴史家(東大史料編纂所編纂官)の藤田明(1877 - 1915)。伯父に正木直彦。11歳で父を亡くす。 開成中学校卒、1930年早稲田大学独文科卒。 平凡社に勤務、滝沢修らと演劇運動に関わる。1933年中央公論社に入社、児童文化関係の出版に携わる。戦後、サトウ・ハチローと協力して童謡運動を展開、実業之日本社で『赤とんぼ』を編集、1948年同誌休刊により中央公論社に復帰。1950年理事、取締役、婦人公論編集部長、1953年中央公論編集部長、1960年定年。
中川 千代治(なかがわ ちよじ、1905年(明治38年)11… 中川 千代治(なかがわ ちよじ、1905年(明治38年)11月6日 - 1972年(昭和47年)2月25日)は、日本の政治家。愛媛県宇和島市長を務めた。 また、太平洋戦争でビルマの戦いに従軍した体験から平和運動に身を投じ、1954年にニューヨークの国際連合本部ビルに世界の硬貨を鋳込んだ「平和の鐘」を寄贈した事績でも知られる。 愛媛県八幡浜町の魚本家に生まれる。1924年、19歳の時に宇和島市の中川家の養子となる。 1928年に早稲田大学政治経済学部を卒業した。 1930年に伊予銀行に就職し、1934年には吉田支店長となる。1937年に日中戦争に出征した。 1938年に明治製菓三津浜工場長に就任するとともに、愛媛県缶詰工業理事長ともなる。
柳 珍山(ユ・ジンサン、朝: 유진산、1905年10月18日… 柳 珍山(ユ・ジンサン、朝: 유진산、1905年10月18日 - 1974年4月28日)は、朝鮮の独立運動家であり第一共和国~第四共和国前半にかけて活躍した韓国の政治家である。本貫は文化柳氏(朝鮮語版)。珍山という名は、彼の故郷である忠清南道錦山郡珍山面(朝鮮語版)玉渓里から取られた字で、本名は柳永弼(ユ・ヨンピル、유영필)。号は玉溪(オッケ、옥계)。 息子の柳漢烈も政治家で国会議員を歴任した(民主韓国党→民主自由党→ハンナラ党)。また、元国会議員の成楽絃は姪の夫である。 解放直後における青年運動をきっかけに政界入りし、第一共和国から第四共和国時代における保守野党(民主国民党、民主党、民政党、民衆党、新民党)において要職を歴任した。
岡田 甫(おかだ はじめ、1905年〈明治38年〉10月8日… 岡田 甫(おかだ はじめ、1905年〈明治38年〉10月8日 - 1979年〈昭和54年〉12月4日)は、川柳・雑俳研究家。 東京府日本橋に生まれる。本名は千葉治。号は三面子。[要検証 – ノート]1928年に早稲田大学高等師範部国語漢文科卒。長崎のミッションスクール東山学院教師となる。1934年に文筆活動を始め、芝書店、三笠書房、大観堂書店、青磁社などで編集長を歴任する。1950年に戸塚にオランダ書房を開き、近世庶民文化研究所を開設。1951年に雑誌『近世庶民文化』を創刊。1967年より鎌倉市に住む。 川柳・雑俳の評釈に活躍するほか近世軟文学の紹介も行った。柳田良一の名も用いた。
稲嶺 一郎(いなみね いちろう、1905年9月23日 - 1… 稲嶺 一郎(いなみね いちろう、1905年9月23日 - 1989年6月19日)は、日本の政治家・実業家・軍人。沖縄県国頭郡本部村出身。元沖縄県知事稲嶺惠一の父。
金珖燮(キム・グァンソプ、朝鮮語: 김광섭、1905年9月2… 金珖燮(キム・グァンソプ、朝鮮語: 김광섭、1905年9月22日 - 1977年5月23日)は、日本統治時代の朝鮮と大韓民国の詩人、翻訳家、評論家、独立運動家。本貫は全州金氏。号は怡山(イサン、이산)。 死後、氏の精神と文学を称えるために1989年、怡山文学賞が作られ文学と知性社主管で施行されている。 咸鏡北道鏡城生まれ。鏡城公立普通学校を経て、1920年鏡城中央高等普通学校から転入し1924年に中東学校を卒業。同年、早稲田大学英語英文学科に入学し、1928年修了。1927年に同窓会誌に詩『蚊帳』を発表し、創作活動と文壇での活動を始めた。その後、中東学校の英語の教師を務め、1933年に劇芸術研究会に参加し、徐恒錫、咸大勲、毛允淑、盧天命らと知り合った。
西山 敏夫(にしやま としお、1905年9月19日 - 20… 西山 敏夫(にしやま としお、1905年9月19日 - 2000年12月)は、日本の児童文学作家。 神奈川県生まれ。早稲田大学高等師範部卒。太平洋戦争中、「ホアンの花」(1943年)などを『少国民文化』に発表。戦後は『新児童文化』『朝の笛』などに短編童話を掲載するほか、海外古典・日本古典の再話を多く行った。1958年『よこはま物語』で小学館児童出版文化賞受賞、1979年児童文化功労者。 ほかイソップ、アラビアンナイト、ディズニーなど多数。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
大野 實雄(おおの じつお、1905年(明治38年)9月10… 大野 實雄(おおの じつお、1905年(明治38年)9月10日 - 1994年(平成6年)11月26日)は、日本の法学者・裁判官だった人物。商法学者。専門は商法全般。早稲田大学名誉教授。「大野実雄」とも表記された。 長野県下伊那郡飯田町(現飯田市)生まれ。旧制飯田中学(長野県飯田高等学校)、第二早稲田高等学院を経て、1930年早稲田大学法学部仏法科卒業。司法官試補(東京地方裁判所)。1931年、東京地方裁判所判事に就任。1948年、東京地方裁判所退官。早稲田大学法学部教授。1951年、教務部長。1958年、早稲田大学図書館長。1964年、第一法学部長。1970年、比較法研究所長。1971年、日本公証法学会理事長。
茜ケ久保 重光(茜ヶ久保、あかねがくぼ しげみつ、1905年… 茜ケ久保 重光(茜ヶ久保、あかねがくぼ しげみつ、1905年〈明治38年〉8月31日 - 1993年〈平成5年〉3月5日)は、日本の政治家。日本社会党で衆議院議員(3期)、参議院議員(2期)を務めた。 宮崎県宮崎郡木花村(現・宮崎市)に、農家の次男として生まれる。1937年(昭和12年)早稲田大学政経科卒。在学中から反戦・労働・農民運動に参加。卒業後は群馬県水上町にあった阿能川鉱山に入り、所長となる。1940年(昭和15年)群馬県鉱業会理事長、1943年(昭和18年)全国鉱業会連合会理事長。 1945年(昭和20年)の日本社会党結党に参加。1948年(昭和23年)日本社会党群馬県連書記長、1950年(昭和25年)日本社会党本部中央委員。
田鶴浜 弘(たづはま ひろし、1905年8月29日 - 19… 田鶴浜 弘(たづはま ひろし、1905年8月29日 - 1991年8月15日)は、日本のスポーツライター、プロレス評論家。 日本ボディビル協会の副会長も務めた。 早稲田大学卒業。報知新聞記者を皮切りにスポーツ記者として広く活躍し、とりわけプロレスでは「プロレス評論家の草分け的存在」と称される。日本初のプロレス専門誌『月刊プロレス』の創刊にも携わった。 1972年の全日本プロレス創立から1985年頃まで、日本テレビの『全日本プロレス中継』で解説者を務める。なおメインの解説者は田鶴浜より28歳若い山田隆で、田鶴浜は二番手のポジションだった。1975年に全日本で行われたオープン選手権では準備委員会の委員を務めた。
田中重久(たなか しげひさ、1905年7月17日 - 197… 田中重久(たなか しげひさ、1905年7月17日 - 1979年5月24日)は、日本の美術史家である。特に仏教美術に関して、多くの著作をのこしている。別名義としてたなか しげひさがある。 1905年(明治38年)7月17日、滋賀県甲賀郡水口町葛籠町に、父・豊吉郎、母・ゆりの五男として生まれる。豊吉郎は「小さい地方銀行家」であり、1928年(昭和3年)より栗太銀行の取締役をつとめた。京都市立中立小学校を経て滋賀県立膳所中学校に入学する。同校で日本史の教鞭をとっていた佐々木恒清に薫陶を受けるかたちで、14歳にして仏教美術を志すようになる。 大村西崖の東洋史の講義を受けるべく、1925年(大正14年)に東京美術学校に進学するも、彼の易簀を受けて翌年3月に中退、早稲田大学に転学する。
石川 達三(いしかわ たつぞう、1905年〈明治38年〉7月… 石川 達三(いしかわ たつぞう、1905年〈明治38年〉7月2日 - 1985年〈昭和60年〉1月31日)は、日本の小説家。社会性の濃い風俗小説の先駆者で、『蒼氓』により第1回芥川賞受賞。華中従軍から得た『生きてゐる兵隊』は発禁処分を受けた。戦後は、新聞小説や社会における個人の生活、愛、結婚をテーマにした作品でベストセラーを連発。書名のいくつかは流行語にもなった。記録的手法に拠る問題意識の明確な作風が特徴。社会的・文壇的活動も活発で、日本ペンクラブ会長、日本文芸家協会理事長、日本文芸著作権保護同盟会長、アジア・アフリカ作家会議東京大会会長などを務めた。日本芸術院会員。 秋田県平鹿郡横手町(現・横手市)に父石川祐助、母ウンの三男として生まれる(兄弟妹は7人、のち異母弟妹4人)。
笈川 武夫(、1905年〈明治38年〉6月25日 - 196… 笈川 武夫(、1905年〈明治38年〉6月25日 - 1960年〈昭和35年〉4月4日)は、日本の俳優である。本名は春野 武雄(はるの たけお)。及川 武夫と表記に揺れがある。日本初のテレビ時代劇『半七捕物帳』の主役として知られる。妻は元松竹の舞台女優で、村田嘉久子、村田竹子と共に「帝劇三姉妹」といわれた村田みね子である。 1905年(明治38年)6月25日、東京府東京市芝区南佐久間町に生まれる。芝愛宕小学校を経て旧制芝中学校(現在の芝中学校・高等学校)に入学。卒業後、海軍兵学校の入学試験を受けるも不合格となり、早稲田大学に進学する。しかしそれでも諦められず、再び海軍兵学校を受験して合格したが、1923年(大正12年)9月1日、関東大震災で実家及び学校は全焼した。
内藤 隆福(ないとう たかとみ、1905年 <明治38年> … 内藤 隆福(ないとう たかとみ、1905年 <明治38年> 5月15日 - 2009年 <平成21年> 7月8日)は、日本の経営者。オリンパス光学工業(現在のオリンパス)社長、会長を務めた。位階は従四位。 東京都出身。1931年に早稲田大学理工学部電気工学科を卒業し、同年に高千穂製作所(現在のオリンパス)に入社。1945年12月に取締役に就任し、1954年7月に常務、1963年12月に専務を経て、1967年6月に社長に就任。1971年12月に会長に就任し、1973年12月から相談役を務めた。 1971年4月に藍綬褒章を受章し、1976年11月に勲三等旭日中綬章を受章。 2009年7月8日老衰のために死去。
佐賀 省三(さが しょうぞう、明治38年(1905年)5月8… 佐賀 省三(さが しょうぞう、明治38年(1905年)5月8日 - 平成2年(1990年)以降)は日本の俳人、政治家。元境港市議会議員。号榎村。佐賀家の12代目。 俳人鹿島平堂は大おじにあたる。 鳥取県西伯郡上道村(現・境港市上道町)の農家に生まれる。 鳥取県立農学校(現・鳥取県立倉吉農業高等学校)、正則英語学校(現・正則学園高等学校)を経て、大正14年(1925年)3月に東京府立園芸学校(現・東京都立園芸高等学校)卒業。大正15年(1926年)3月、早稲田大学専門部中退。 帰郷して農業に従事する。上道村会議員、境港市会議員などをつとめた。 元農業会理事、村会議員、境港市農業委員等務め農業多角経営の指導、実践に努力、養鶏の大家として三十年の経験と共に県下に有名である。
八百板 正(やおいた ただし、1905年4月12日 - 20… 八百板 正(やおいた ただし、1905年4月12日 - 2004年4月23日)は、日本の農民運動家、政治家。衆議院議員(11期)、参議院議員(2期)。日本社会党副委員長を歴任。 福島県伊達郡飯野村(飯野町を経て現福島市)に生まれる。福島中学校(現福島県立福島高等学校)を経て、早稲田大学専門部法科卒業。旧制中学の恩師だった阪本勝(後の衆議院議員、兵庫県知事)を頼り、安部磯雄らの日本フェビアン協会に参加。河上丈太郎、賀川豊彦、櫛田民蔵の知遇を得る。日本労農党、社会大衆党などに参加して無産政党運動をする。1929年に郷里に帰って東北新人会を結成、伊達郡を中心に小作争議を指導し度々投獄される。1933年に全国農民組合(全農)中央委員に選出。
浜田 禎介(はまだ ていすけ、1905年〈明治38年〉4月1… 浜田 禎介(はまだ ていすけ、1905年〈明治38年〉4月11日 - 没年不明)は、日本の政治家、実業家。熱海市議会議員。相模屋社長。伊豆山観光協会長。 新潟県・須山斌二郎の三男。1927年、早稲田大学政治経済学部政治学科を卒業。東京大北電信会社に勤務。相模屋旅館・浜田三郎の養子となる。養父経営の相模屋旅館を継承する。1947年、熱海市議に当選。 教育委員長、早大稲門会会長、ユネスコ理事長に挙げられる。1948年、家業の相模屋を株式に改組と共に専務に就任。1955年、熱海商工会議所副会頭に就任。 宗教は真言宗。趣味は絵画、野球、乗馬、ゴルフ、カメラ、登山。住所は静岡県熱海市伊豆山。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。
野村 正二郎(のむら しょうじろう、旧姓:杉村(すぎむら)、… 野村 正二郎(のむら しょうじろう、旧姓:杉村(すぎむら)、1905年4月4日 - 1975年1月15日)は、大阪府大阪市出身の科学者、大学教授およびサッカー選手。男爵。 父は杉村倉庫創業者の杉村正太郎、弟は阪急電鉄常務を務めた杉村正三郎であり、大阪商工会議所初代会頭の五代友厚が母方の祖父に当たる。 大阪府立天王寺中学校(現:大阪府立天王寺高等学校)を卒業後、早稲田大学に入学してア式蹴球部に所属。在学中の1927年に第8回極東選手権大会のサッカー日本代表に選出され、8月27日の中華民国代表で代表初出場を果たした。 男爵を叙爵した野村維章を祖とする野村家に大学を卒業する前に養子に入って野村姓に改名し、1928年2月2日に男爵を襲爵した。
織田 幹雄(おだ みきお、1905年(明治38年)3月30日… 織田 幹雄(おだ みきお、1905年(明治38年)3月30日 - 1998年(平成10年)12月2日)は、日本の陸上選手、指導者。広島県安芸郡海田町出身。1928年アムステルダムオリンピック三段跳金メダリスト。 「日本人初のオリンピック金メダリスト」であり、アジア人初のオリンピック金メダリストでもある。織田の金メダルにより、日本陸上は一躍世界の第一線に躍り出たと言われる。当時英語で「ホップ・ステップ・アンド・ジャンプ」(現在はトリプルジャンプ)と呼ばれた競技名を「三段跳」と訳した。早稲田大学時代に競技会のプログラムを作る際、織田が「三段跳」と訳した。三段跳では、織田(1928年五輪)・南部忠平(1932年五輪)・田島直人(1936年五輪)と3大会連続で金メダルを獲得したことから、当時は、「日本のお家芸」とも言われた。
大久保 泰(おおくぼ たい、1905年3月28日 - 198… 大久保 泰(おおくぼ たい、1905年3月28日 - 1989年1月29日)は、日本の洋画家、美術評論家。愛知県出身。早稲田大学卒。山本鼎に油絵を学び、1931年、ヨーロッパ留学。帰国後国画会展、春陽会展に出品。1939年以後、独立展に出品、「裸婦」で岡田賞を受賞。風景画を得意とした。
多賀 安郎(たが やすろう、1905年(明治38年)3月15… 多賀 安郎(たが やすろう、1905年(明治38年)3月15日 - 2002年(平成14年)5月31日)は、昭和期の新聞編集者、実業家、政治家、アマチュアボクシング選手、プロボクサー。衆議院議員。 岡山県窪屋郡、現在の倉敷市出身。1940年(昭和5年)早稲田大学専門部法律科を卒業した。 東京吉井洋行を経営。合同新聞記者となり、大阪時事新報記者、満州新聞大阪支社営業部長、山陽民報主筆を歴任。南北アメリカ、アフリカ、インド、中国、満州等の各地を取材して回り、また従軍記者として中国大陸や南方に派遣された。その他、在外同胞帰還促進会理事、日本漁民組合瀬戸内海部長、倉敷体育協会副会長、備中板金加工業組合理事長、遠藤青汁取締役社長、ほか内海高速汽船(のち琴平高速汽船)社長、遠洋漁業協同組合理事長などを務めた。
内藤 久一郎(ないとう きゅういちろう、1905年(明治38… 内藤 久一郎(ないとう きゅういちろう、1905年(明治38年)3月12日 - 1989年(平成元年)10月20日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員、新潟県刈羽郡石地町長。 新潟県刈羽郡石地町(朝日町、西山町を経て現柏崎市西山町石地)で、素封家・内藤鷲郎(内藤久寛養子)の長男として生まれる。1930年(昭和5年)早稲田大学経済科を卒業した。 1931年(昭和6年)9月、新潟県会議員に当選し、同参事会員も務めた。1936年(昭和11年)2月、第19回衆議院議員総選挙に新潟県第3区から立憲民政党公認で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。その他、石地町長、新潟県町村長会副会長、刈羽郡町村長会長、新潟県大陸開拓協会副会長、大政翼賛会刈羽郡支部長、柏崎税務署管内家屋賃貸価格調査委員、青少年団長、帝国在郷軍人会石地分会長、石地町農会長などを務めた。
宮崎 直勝(みやざき なおかつ、1905年(明治38年)2月… 宮崎 直勝(みやざき なおかつ、1905年(明治38年)2月18日 - 没年不明)は、昭和時代前期の台湾総督府官僚。陸軍司政官。 佐賀県小城郡小城町(現小城市)に生まれる。1917年(大正6年)5月に渡台し、小中学を経て1927年(昭和2年)3月、早稲田大学付属早稲田第二高等学院を卒業し、1933年(昭和8年)10月、高等試験行政科に合格した。同月、鉄道部監督課勤務となり、台湾総督府交通局書記を拝命する。1937年(昭和12年)9月、台中州彰化市助役に就任し、1938年(昭和13年)8月、新竹州中壢郡守に転じた。のち地方警視、台北州警務部保安課長、交通局参事、鉄道部経理課長を経て、1942年(昭和17年)8月、陸軍司政官に任じた。
瀬崎 三木三(せざき みきぞう、旧姓:渡辺 三木三、1905… 瀬崎 三木三(せざき みきぞう、旧姓:渡辺 三木三、1905年(明治38年)2月15日 - 1975年(昭和50年) )は日本の実業家である。日産化学総務部長を経て日本証券代行(現:三井住友信託銀行)取締役。岡山県井原市出身。 1905年(明治38年)岡山県後月郡県主村(現:井原市)の渡辺家に生れる。1919年(大正8年)地元に近い旧制岡山県立高梁中学校(現:岡山県立高梁高等学校)に進み、同期に芥川賞作家の石川達三、日本教育テレビ(現:テレビ朝日)編成局次長になる金澤覚太郎、日本電気化学社長になる日野西義輝、倉敷紡績取締役になる翁孝文がいた。1924年(大正13年)卒業後、早稲田大学高等予科(商科)を経て、1926年(大正15年)早稲田大学商学部へ入学した。
岩崎 徹太(いわさき てつた、1905年2月11日 - 19… 岩崎 徹太(いわさき てつた、1905年2月11日 - 1980年11月9日)は、日本の出版人。本名は岩崎乙巳(いわさき おとみ)。岩崎書店創業者。日本児童図書出版協会初代会長。第17回(昭和50年)日本児童文芸家協会児童文化功労者。早稲田大学専門部政治経済学科卒業。妻は岩崎美術社社長の岩崎治子、長男は精神医学者岩崎徹也、次男は建築家岩崎駿介、三男は岩崎書店を継いだ岩崎弘明。孫に作家岩崎夏海がいる。 1932年に古書店フタバ書房を開業して当時発禁となっていた白揚社、改造社、ナウカ社などの出版物を頒布し、1934年に慶応書房と改名してソ連文献の翻訳を中心とした出版もはじめた。1943年に治安維持法違反で検挙され8ヶ月の拘留を受け、慶応書房も廃業させられ、出版活動を再開しないことを条件に釈放された。
駒井和愛(こまい かずちか、1905年1月11日 - 197… 駒井和愛(こまい かずちか、1905年1月11日 - 1971年11月22日)は、日本の考古学者。東アジアの考古学で多大な功績をあげた。 1905年、富山県生まれ。早稲田大学を卒業。1927年より東京帝国大学副手となり、原田淑人の指導を受け、1928年から1944年まで中国大陸の考古学的調査と研究に従事する。1928年には北京大学に留学し、馬衛教授のもとで金石学を修めて、1938年に東京帝国大学文学部講師、東方文化学院研究員となった。 1934年には立教大学文学部教授を兼務し、1945年まで同大学で考古学を講じた。立教大学で教えていた当時、駒込林町(現・文京区千駄木)に自宅があった。 1945年に東京帝国大学文学部考古学科助教授となり、1946年「鏡鑑を主材として考察したる六朝以前の文化」を東大に提出して文学博士号を取得。
浅井 真男(浅井眞男、あさい まさお、1905年1月6日 -… 浅井 真男(浅井眞男、あさい まさお、1905年1月6日 - 1987年3月9日)は、日本のドイツ文学者、翻訳家。東京府生まれ。早稲田大学名誉教授。 早稲田大学独文科卒、同助教授、教授を務めた。 リルケ、ニーチェ、キェルケゴールなど、19世紀から20世紀前半のドイツ文学やドイツ哲学、哲学書を多く翻訳した。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
大野 実之助(おおの じつのすけ、1905年1月4日 - 1… 大野 実之助(おおの じつのすけ、1905年1月4日 - 1989年10月14日)は、日本の漢文学者。 和歌山県生まれ。早稲田大学高等師範部卒、教員検定試験合格。1960年「李太白研究」で早大文学博士。早大文学部助教授、教授、75年定年、名誉教授。
北 竜二(きた りゅうじ、1905年1月1日 - 1972年… 北 竜二(きた りゅうじ、1905年1月1日 - 1972年4月16日)は、日本の俳優、脚本家。本名:山田 東吾 。東京府東京市京橋区出身。 東京市京橋区生まれ。三光尋常小學校卒業。1922年、早稲田大学文学部に入学するも2年で中退。日活封切館・新宿帝都座の次席弁士として無声映画末期の説明界で存在感を示した。弁士時代の名前は山田無声。その後、松竹大船撮影所脚本部に所属したのち、1937年に日活多摩川撮影所に俳優として入社。 1937年の映画『限りなき前進』でデビューするや、注目され始め、助演俳優として活躍 。1942年に統合で大映東京に移籍。1948年にフリーとなって、1950年に松竹大船に所属、重厚な雰囲気から、主に校長や重役、父親役で数多くの映画に出演。
朴 井圭(パク・チョンギュ、朝鮮語: 박정규、1905年 -… 朴 井圭(パク・チョンギュ、朝鮮語: 박정규、1905年 - 没年不詳)は、大韓民国の政治家。第2代韓国国会議員。 慶尚南道咸陽郡出身。早稲田大学専門部法律学科卒。日本統治時代には長年農業に従事したほか、水産業などでも活動した。解放後は大韓独立促成国民会咸陽郡栢田面支部長を務め、共和倶楽部を経て自由党所属の第2代国会議員在職中は農林分科委員、居昌事件調査委員を務めた。