野口 雨情(のぐち うじょう、1882年(明治15年)5月2… 野口 雨情(のぐち うじょう、1882年(明治15年)5月29日 - 1945年(昭和20年)1月27日)は、詩人、童謡・民謡作詞家。多くの名作を残し、北原白秋、西條八十とともに、童謡界の三大詩人と謳われた。 本名・野口英吉。廻船問屋を営む名家(楠木正季が先祖と伝えられているが不明)の長男として茨城県多賀郡磯原町(現・北茨城市)に生まれる。父・量平、母・てる。 4年制尋常小学校・4年制高等小学校を終了後に上京。東京専門学校(現・早稲田大学)に入学し坪内逍遥に師事するが、1年余りで中退し詩作を始める。このとき1901年(明治34年)、英吉は19歳であった。 1904年(明治37年)、父の事業失敗と死により故郷に帰り家督を継ぐ。
小川 未明(おがわ みめい、1882年〈明治15年〉4月7日… 小川 未明(おがわ みめい、1882年〈明治15年〉4月7日 - 1961年〈昭和36年〉5月11日)は、小説家・児童文学作家。本名は小川 健作(おがわ けんさく)。「日本のアンデルセン」「日本児童文学の父」と呼ばれ、浜田広介と坪田譲治と並んで「児童文学界の三種の神器」と評された。娘の岡上鈴江も児童文学者。 「未明」という雅号は小川の師である坪内逍遥が付けたもので、正しくは「びめい」と読む。 新潟県高田五分一町(現:上越市幸町)に生まれる。父、澄晴はかつては修験者であった。上杉謙信の熱烈な崇拝者でもあった澄晴は、春日山神社を創建するため奔走した。未明自身15歳頃から20歳頃まで春日山神社境内の住居に住んでいた。
山道 襄一(やまじ じょういち、1882年(明治15年)3月… 山道 襄一(やまじ じょういち、1882年(明治15年)3月15日 - 1941年(昭和16年)5月11日)は、日本の政治家、ジャーナリスト。所属政党は憲政会→立憲民政党→国民同盟→立憲民政党。衆議院議員を10期務めた。 広島県賀茂郡板城村福本(現・東広島市西条町福本)出身。1906年(明治39年)に早稲田大学大学部政治経済学科卒業。鳥取新聞社の主筆を務めた後、韓国に渡り、『大韓日報』の主筆となり、また習俗慣行の調査にあたった。韓国併合後、大韓日報が廃刊になると、雑誌『新半島』を経営し、朝鮮総督府の嘱託として引き続き習俗調査を行った。のちに『中国新聞』主筆も務めた。 1912年(大正元年)、衆議院広島県郡部補欠選挙に当選した。
嶋田 青峰(しまだ せいほう、1882年3月8日 - 194… 嶋田 青峰(しまだ せいほう、1882年3月8日 - 1944年5月31日)は、日本の俳人・翻訳家・新聞記者・教員。本名は嶋田 賢平。姓の「しまだ」は「嶋田」と書くのが正式であるが、一般に「島田」の表記も用いられる。俳号の青峰は、故郷の山・青峰山(あおのみねさん、標高336m)に由来する。 三重県答志郡的矢村(現在の志摩市磯部町的矢)出身。大正時代末期に俳句雑誌『ホトトギス』において、池内たけし・篠原温亭・鈴木花蓑らと並び、活躍したが、晩年は新興俳句弾圧事件の犠牲となり、俳句史上に悲しい印象を残している。 1882年3月8日に、的矢村にて父・峰吉と母・りうの3男として生まれる。地元の的矢尋常小学校を卒業後、学を成そうと上京、旧制日本中学校(現在の日本学園中学校・高等学校)を出て1899年(明治32年)に東京専門学校予科に入学、卒業後は早稲田大学哲学科に進むが、後に英文科に転じる。
泉谷 祐勝(いずみたに すけかつ、1882年〈明治15年〉3… 泉谷 祐勝(いずみたに すけかつ、1882年〈明治15年〉3月 - 1967年〈昭和42年〉2月3日)は、日本のアマチュア野球選手。黎明期の早稲田大学野球部の中心選手であり、後には宮内省野球班を組織した。守備位置は捕手、一塁手。慶應義塾大学野球部の主将を務めた佐々木勝麿は実弟。 兵庫県神戸元町通(現・神戸市中央区)出身。実家は浄土真宗本願寺派善照寺。元の姓は佐々木であったが、幼い頃母方の養子に出されて泉谷姓となった。 神戸中学校(現・兵庫県立神戸高等学校)を経て、1902年(明治35年)東京専門学校(現・早稲田大学)に入学する。野球部に入部し、翌年の第一回早慶戦の際には1番キャッチャーで出場している。
原口 竹次郎(はらぐち たけじろう、1882年(明治15年)… 原口 竹次郎(はらぐち たけじろう、1882年(明治15年)2月28日 - 1951年(昭和26年)2月16日)は、日本の東南アジア研究者。 佐賀県小城郡(現在の小城市)生まれ。1902年(明治35年)早稲田大学大学部文学科に入学。1905年の卒業時には総代として答辞を読んだ。1907年にアメリカに留学、同地で心理学者の新井鶴子と結婚した(1915年に死別)。帰国後は母校早大の教授となるも1917年(大正6年)に起きた早稲田騒動で天野為之学長派として活動したことが原因で早大から放逐された。その後は台湾やオランダ領東インドで活動、戦後はオランダ大使館顧問となった。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
田渕 豊吉(たぶち とよきち、1882年〈明治15年〉2月2… 田渕 豊吉(たぶち とよきち、1882年〈明治15年〉2月23日 - 1943年〈昭和18年〉1月15日)は、明治・大正・昭和期の政治家。衆議院議員を通算5期務めた。 和歌山県日高郡薗浦(現:御坊市)の大地主であり、造り酒屋伊勢屋を営む田渕善兵衛・かめの四男として生まれる。戦前の田渕家は、大地主であると共に、日高銀行(現紀陽銀行に一部営業・店舗を譲渡)、由良臨海鉄道、日高物産、南海信託、御坊臨港鉄道(現紀州鉄道)などの事業も営む、和歌山屈指の名門であった。善兵衛死後は次男の田渕榮次郎が家督を継いだ。 1905年(明治38年)早稲田大学政治経済科入学。1908年(明治41年)から1915年(大正4年)まで欧米に留学。
矢田 挿雲(やだ そううん、1882年(明治15年)2月9日… 矢田 挿雲(やだ そううん、1882年(明治15年)2月9日 - 1961年(昭和36年)12月13日)は、日本の小説家、俳人。本名は義勝。矢田插雲とも。石川県金沢市出身。主著に『太閤記』『江戸から東京へ』などがある。 1882年(明治15年)2月9日、石川県金沢市生まれ。幼い頃、父の転勤によって各地を転々とした。 旧制中学時代から俳句に親しむようになり、宮城県立第一中学校(現・宮城県仙台第一高等学校)を卒業後に上京し、東京専門学校(現・早稲田大学)に進学する。この頃に正岡子規と知り合い、俳句を学ぶようになったが、本格的に句作をするべく、中退した。 1908年(明治41年)以降、各地を転々として九州日報や芸備日日新聞にて新聞記者として勤めた。
牧山 耕蔵(まきやま こうぞう、1882年1月20日 - 1… 牧山 耕蔵(まきやま こうぞう、1882年1月20日 - 1961年6月5日)は、日本の政治家。衆議院議員(8期)。所属政党は立憲政友会→政友本党→立憲民政党→同交会。 現在の長崎県壱岐市出身。1906年早稲田大学政治経済科卒。朝鮮に渡り、京城居留民団議員、京城学校組合会議員、朝鮮新聞(英語版)社社長などを務める。1917年の第13回衆議院議員総選挙で初当選。以来連続8期務める。第二次若槻内閣で海軍政務次官に就任、1936年には列国議会同盟会議(開催国ハンガリー)に日本議員団の団長として参加した。1942年の第21回衆議院議員総選挙(いわゆる「翼賛選挙」)で非推薦で立候補したが落選した。戦後は公職追放となり、追放解除後の1953年の第26回衆議院議員総選挙で長崎2区から分党派自由党公認で立候補したが落選。
西村 佐兵衛(にしむら さへい、1882年〈明治15年〉1月… 西村 佐兵衛(にしむら さへい、1882年〈明治15年〉1月15日 - 1963年〈昭和38年〉10月12日)は、日本の政治家(兵庫県城崎郡城崎町長)、実業家(西村屋会長)。 兵庫県城崎郡城崎町(現豊岡市)出身。東京専門学校(現早稲田大学)に学び、中途にて退学し家業の温泉旅館を経営する。地方有力者として各種の業務に関係する。1924年、町長に選任され震災後の城崎温泉復興に尽力。 1912年、早稲田大学推薦校友。宗教は日蓮宗。住所は兵庫県城崎郡城崎町。著書に『山陰空のあゆみ』、『日本海制空小史』、『建武中興と隠岐』などがある。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
河野 光次(こうの みつじ、1882年 - 1958年6月1… 河野 光次(こうの みつじ、1882年 - 1958年6月1日)は、日本の事業家、尾崎行雄の義理の娘婿である。 河野一三の兄で、河野一英と河野典男の伯父にあたる。 1882年、広島県沼田郡緑井村(現在の広島市安佐南区緑井付近)出身。東京府荏原郡馬込村(現在の東京都大田区南馬込)に移り、早稲田大学に入学し尾崎行雄の書生および秘書となった。1904年8月、朝鮮へ渡航し、土地開発事業に携わったが失敗に終わった。 1909年に帰国し、1910年に尾崎行雄の養女・多満と結婚した。その後、田園都市株式会社に関与し、東急グループの基盤形成に寄与した。 1919年9月にはアメリカへ渡航し、ニューヨークやワシントンなどを視察した。
武田 豊四郎(たけだ とよしろう、1882年〈明治15年〉 … 武田 豊四郎(たけだ とよしろう、1882年〈明治15年〉 - 1958年〈昭和33年〉7月30日)は、日本の仏教学者、民俗学者。早稲田大学仏教青年会初代会長。
永田 稠(ながた しげし、1881年12月30日 - 197… 永田 稠(ながた しげし、1881年12月30日 - 1973年1月2日)は、日本の移民事業家。 長野県諏訪郡豊平村(現・茅野市)出身。諏訪郡立実科中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)卒業。玉川尋常高等小学校(現・茅野市立玉川小学校)の代用教員を務める。当時の校長は島木赤彦が務めていた。東京専門学校(現・早稲田大学)予科政治科中退。1906年北海道へ移住。1907年渡米青年を援助する日本力行会に入会。1908年渡米し1913年帰国後、日本力行会第2代会長に就任。1922年信濃海外協会設立に参画し理事、日本力行会海外学校設立。1924年ブラジルアリアンサ移住地建設に尽力。1933年関東軍移民部の嘱託として満州の現地視察を行い、ブラジル経験者ならではの批判を込めた報告を関東軍に提出。
田邊 宗英(たなべ むねひで、1881年12月17日 - 1… 田邊 宗英(たなべ むねひで、1881年12月17日 - 1957年3月18日)は、日本の実業家。帝拳プロモーション会長、株式会社後楽園スタヂアム(現・東京ドーム)第4代社長、日本ボクシングコミッション(JBC)初代コミッショナー。株式会社よみうりランド初代社長。新東宝社長、日本テレビ放送網会長を歴任した人物である。 田邊 宗英(旧名:五四三)の兄の田邊七六とその息子田邊圀男は衆議院議員、第一勧業銀行理事の田邊加多丸は弟、阪急東宝グループの創業者小林一三は異母兄、後に後楽園スタヂアム社長を務めた東京弁護士会真鍋八千代は義従弟である。息子の田邊英蔵は後楽園スタヂアム副社長、熱海後楽園社長、文教大学国際学部教授を務めた。
新井 章治(あらい しょうじ、1881年(明治14年)12月… 新井 章治(あらい しょうじ、1881年(明治14年)12月8日 - 1952年(昭和27年)9月1日)は、日本の実業家。元・東京電力会長。元・日本発送電総裁。 埼玉県大里郡大麻生村(現熊谷市)に篤農家だった新井健吉の長男として出生。1905年に早稲田大学大学部政治経済学科を卒業。秩父鉄道勤務を経て日本鉄道に入社するも病気で退社し、加療の後に義父の葉住利蔵が経営していた利根発電へ1913年に入社して取締役支配人となる。1921年に利根発電が東京電燈に吸収合併されてからは前橋支店長から本社で営業部次長となり1933年に取締役営業部長に就任してから常務取締役(1936年)・副社長(1937年)を歴任した。
吉田 秀弥(よしだ しゅうや、吉田秀彌、1881年(明治14… 吉田 秀弥(よしだ しゅうや、吉田秀彌、1881年(明治14年)11月15日 - 1955年(昭和30年)11月19日)は、日本の実業家。京成電鉄第3代取締役社長。 福島県西白河郡滑津村(現中島村)の吉田精一郎の長男として生まれる。 1907年、早稲田大学政治学科を卒業し、二六新報に入社。もっぱら政治畑を歩く。 1916年5月、当時の京成電気軌道に庶務課長兼電燈課長として入社し、1931年取締役総務部長、1937年常務取締役。 1946年1月、今日の京成の基礎を築いた後藤圀彦が前年死去したため、第3代社長に就任。戦後混乱期の会社を牽引した。また、同年に鉄道連隊演習線の払い下げを受け、新京成電鉄を発足させる。
磯部 愉一郎(いそべ ゆいちろう、1881年11月11日 -… 磯部 愉一郎(いそべ ゆいちろう、1881年11月11日 - 1970年5月20日)は、日本の経営者。関東電化工業株式会社の創業発起人及び代表取締役専務、旭電化工業株式会社の専務取締役及び代表取締役、花王油脂株式会社の取締役社長及び会長を務めた人物。 また、早稲田大学の「早稲田大学百年史」の歴代箇所長一覧に代表取締役と早稲田大学の「早稲田二十日会」の副会長を務めていた。「早稲田二十日会」は、二十日会の第3代会長の佐々木省三によると、実業界で活躍していた日本化薬の原安三郎と日本工業倶楽部常任理事の中村元督らが話し合った結果、早稲田の卒業生で実業界に籍をおく者たちに呼びかけ「二十日会」をつくり、毎月二十日に日本工業倶楽部で会合を開き、勉強会を開くとともに大いに親睦を旨とすることにしたとの記述がある。
安国 幸左衛門(安國 幸左衛門、やすくに こうざえもん、18… 安国 幸左衛門(安國 幸左衛門、やすくに こうざえもん、1881年〈明治14年〉11月8日 - 1949年〈昭和24年〉5月12日)は、日本の政治家、地主・家主。神戸市会議員。 兵庫県武庫郡西灘村(現・神戸市)出身。安国幸右衛門の長男。早稲田大学政治経済科卒業。一年志願兵として軍務に服し、三等主計に進む。除隊後父業に従事する。在郷軍人分会長に推される。 1929年、西灘村が神戸市に編入されるにあたって推されて市会議員に当選する。岩屋青年会会長、灘信用組合理事、神戸商業大学柔道師範、兵庫県柔道有段者会会長等の名誉職を兼ねる。1948年、公安委員に任命される。 趣味は柔道、銃猟、釣魚、乗馬。住所は兵庫県神戸市灘区岩屋町。
佐々木 千秀(ささき ちひで、1881年10月21日 - 1… 佐々木 千秀(ささき ちひで、1881年10月21日 - 1947年12月20日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 広島県出身。東京専門学校で学ぶ。呉市会議員、同参事会員、呉商工会理事、呉銀行取締役頭取、ハート麦酒(株)取締役副社長、呉劇場、呉酒造(株)取締役社長となる。 1920年の第14回衆議院議員総選挙において広島2区から憲政会公認で立候補して当選する。衆議院議員を1期務め、1924年の第15回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。1947年に死去した。
三津木 春影(みつぎ しゅんえい、1881年10月15日 -… 三津木 春影(みつぎ しゅんえい、1881年10月15日 - 1915年7月8日)は、小説家・翻訳家。本名は一実(かずみ)。男性。
橘 樸(たちばな しらき、1881年10月14日 - 194… 橘 樸(たちばな しらき、1881年10月14日 - 1945年10月25日)は、日本のジャーナリスト、評論家で、清末から日中戦争期にかけての中国で、『遼東新報』や『京津日日新聞』などに拠って活動した。 1881年、大分県臼杵の下級士族の家に長男として生まれた。中学時代は各地を転々とした後、第五高等学校に学んだが、退校処分となった。その後早稲田大学に入学したが、中退。 1905年に北海道に渡り、『北海タイムス』の新聞記者となった。しかし翌年の1906年に清末の大連へ渡り、『遼東新報』の記者となった。以降、記者として『京津日日新聞』『済南日報』といった新聞や、『日華公論』、『支那研究資料』、『月刊支那研究』、『調査時報』、『満蒙』、『新天地』、『読書会雑誌』、『満州評論』などの雑誌類に関わった。
伊江 朝助(いえ ちょうじょ、1881年(明治14年)10月… 伊江 朝助(いえ ちょうじょ、1881年(明治14年)10月10日 - 1957年(昭和32年)11月26日)は、沖縄県出身の実業家、政治家、華族。貴族院男爵議員、向氏伊江家十四世。号・馬巖。 首里当蔵村(現那覇市首里当蔵町)で、伊江家十三世・伊江朝真の長男として生まれる。父が尚侯爵家御用係兼家扶となり首里小学校卒業後に上京。私立順天中学校、早稲田大学高等予科を経て、1907年(明治40年)7月、同大学部政治科を卒業した。1908年(明治41年)12月、一年志願兵として歩兵第48連隊に入隊し、1909年(明治42年)12月に満期除隊。 帰郷後、1911年(明治44年)5月、沖縄電気軌道会社常任監査役に就任。
斎藤 真三郎(さいとう しんざぶろう、1881年(明治14年… 斎藤 真三郎(さいとう しんざぶろう、1881年(明治14年)8月12日 - 1925年(大正14年)7月18日)は、衆議院議員(革新倶楽部)。新聞編集者。 山形県東田川郡渡前村(現在の鶴岡市)出身。1903年(明治36年)、早稲田大学邦語政治科を卒業。渡前村長、東田川郡会議員、同参事会員、同副議長、同議長、東田川西田川両郡組合会議員、同参事会議員を歴任した。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 その他、両羽実業新聞を経営した。
会津 八一(あいづ やいち、旧字体: 會津 八一、1881年… 会津 八一(あいづ やいち、旧字体: 會津 八一、1881年〈明治14年〉8月1日 - 1956年〈昭和31年〉11月21日)は、日本の歌人・美術史家・書家。雅号は、秋艸道人・渾斎。1951年に新潟市名誉市民。 早大英文科卒。奈良の仏教美術にひかれ、ひらがな書きの万葉調短歌を詠み、『南京新唱』(1924年)を刊行。のち上京、早大教授となり、「東洋美術史」等を講じた。晩年は新潟市に戻り、書に専念。歌集に『鹿鳴集』(1940年)など。 新潟県新潟市古町通五番町に生まれる。中学生の頃より『万葉集』や良寛の歌に親しんだ。1900年新潟尋常中学校(現新潟県立新潟高等学校)卒業後、東京専門学校(早稲田大学の前身校)に入学し、坪内逍遙や小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)らの講義を聴講した。
細田 忠治郎(ほそだ ちゅうじろう、1881年7月14日 -… 細田 忠治郎(ほそだ ちゅうじろう、1881年7月14日 - 1968年6月10日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 兵庫県多可郡松井庄村(現・多可町)生まれ。1907年、早稲田大学商科卒。農業の傍ら、松井庄村議、多可郡議、同参事会員、兵庫県参事会員となる。また、松井庄商事(株)専務理事、多可郡工業会長、兵庫県播州織工業組合、工業組合中央会、商工組合中央会各理事、兵庫県織物組合連合会、同県織物統制組合各理事長を歴任した。 1923年9月25日の兵庫県会議員選挙に多可郡選挙区から立候補して、当選した。しかし、1924年4月11日に失職した。その後、1927年9月25日に返り咲いた。1931年、1935年、1939年の選挙にも当選した。
川上 法励(かわかみ ほうれい、1881年(明治14年)6月… 川上 法励(かわかみ ほうれい、1881年(明治14年)6月10日 - 1944年(昭和19年)7月28日)は、日本の衆議院議員。ジャーナリスト。 新潟県西蒲原郡吉田村(現在の燕市)出身。1909年(明治42年)に早稲田大学政治経済科を卒業し、中国に留学した。『北越新報』記者、同社主筆を経て、新潟中央新聞社社長となった。 1942年(昭和17年)、第21回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。
渡 干城(わたり たてき、1881年〈明治14年〉6月 - … 渡 干城(わたり たてき、1881年〈明治14年〉6月 - 没年不明)は、大正期から昭和初期の銀行家。武州銀行東京支店支配人を務めた。父は元老院議官や貴族院議員を務めた渡正元。 貴族院議員・錦鶏間祗候を務めた渡正元の次男として生まれる。早稲田大学を卒業後、1906年に日本銀行へ入行し、1921年に武州銀行東京支店の支配人となる。 弟の渡正監(上海共同租界警視総監)を養子に迎えた。
土屋 操(つちや みさお、明治14年(1881年)5月1日 … 土屋 操(つちや みさお、明治14年(1881年)5月1日 - 昭和22年(1947年)4月20日)は、山梨県出身の郷土史家。号は節堂。 山梨県東山梨郡七里村(現・甲州市塩山)に、父「作甫」、母「ただ」の長男として生まれる。土屋昌次の子孫。明治28年(1895年)4月に山梨県立甲府中学校(現在の山梨県立甲府第一高等学校)に入学し、明治33年に卒業とともに早稲田大学に進学し坪内逍遥に師事。明治37年(1904年)3月に卒業した。 卒業後、山梨県立高等女学校(現・山梨県立甲府西高等学校)に勤務、明治38年12月には一年志願兵として近衛歩兵第2連隊に入隊。除隊後の明治40年5月に甲府市立商業学校(現在の甲府市立甲府商業高等学校)、大正13年5月に山梨県女子師範学校、大正15年10月に山梨県立山梨高等女学校(現在の山梨県立山梨高等学校)に勤務し、昭和15年(1940年)3月の退職後も山梨県立農林学校、山梨県立日川中学校において嘱託講師として勤務するなど、40年にわたり歴史の教員を務めている。
坂東 幸太郎(ばんどう こうたろう、1881年(明治14年)… 坂東 幸太郎(ばんどう こうたろう、1881年(明治14年)4月30日 - 1974年(昭和49年)10月20日)は、日本の政治家。位階は従三位。 衆議院議員(9期)、旭川市長。旭川市名誉市民。 香川県大内郡相生村(のち大川郡相生村→引田町、現・東かがわ市)出身。10歳の時に両親とともに旭川村(のち旭川町→旭川区、現・旭川市)に移住した。早稲田大学邦語政治科、同大学政治経済科卒。卒業後は旭川商業会議所の設立に力を尽くし、初代書記長となった。旭川区会議員、同市会議員に当選。同副議長、議長を経て、1924年(大正13年)の第15回衆議院議員総選挙で北海道第4区から衆議院議員に初当選し、連続9期務めた。
宮下 友雄(みやした ともお、1881年〈明治14年〉4月2… 宮下 友雄(みやした ともお、1881年〈明治14年〉4月27日 - 1954年〈昭和29年〉3月15日)は、大正から昭和にかけて活動した日本の実業家である。長野県長野市の人物で、家業の金物商を営みつつ会社経営にも関わり長野信用金庫(旧・長野市庶民信用組合)理事長を長く務めた。また剣道を趣味とし大日本武徳会長野支部教師を務めた経験もある。 宮下友雄は、1881年(明治14年)4月27日、長野県民・宮下太七郎の長男として生まれた。宮下家は長野市内随一の旧家で、善光寺町に移り住んだのは寛保2年(1742年)のことという。家業として天明8年(1788年)より金物商(屋号は「増太」)を営んだ。父の太七郎は長野町会議員に選出(1889年の第1回町会議員選挙にて)されたほか、長野市所在の長野貯蔵銀行や長野電灯で取締役を務めた人物である。
遠藤 嘉右衛門(えんどう かうえもん、1881年〈明治14年… 遠藤 嘉右衛門(えんどう かうえもん、1881年〈明治14年〉4月22日 - 1945年〈昭和20年〉9月4日)は、日本の地主、政治家。衆議院議員(1期)。幼名・要三郎。 島根県神門郡今市町(現出雲市)で先代遠藤嘉右衛門の二男として生まれ、1914年(大正3年)家督を相続し嘉右衛門を襲名した。 1901年(明治34年)東京専門学校政治経済科を卒業。今市町長、簸川郡町村会長、今市商工会顧問、今市町農会長、簸川郡青年団長、同自治協会長、同衛生会頭、雲陽実業銀行頭取、出雲製織(株)取締役となる。 1916年(大正5年)の島根県郡部の第12回衆議院議員総選挙補欠選挙で立憲同志会から立候補して当選する。衆議院議員は1期務めた。
島津 久賢(しまづ ひさよし / ひさたか、1881年(明治… 島津 久賢(しまづ ひさよし / ひさたか、1881年(明治14年)4月20日 - 1926年(大正15年)11月10日)は、明治から大正期の政治家、華族。貴族院男爵議員。旧姓・相良、旧名・基直。 旧人吉藩主・相良頼基の六男として生まれる。1896年(明治29年)加治木島津家当主・島津健(とし、前当主・故島津久宝夫人、島津久徴六女)の養子となり、同年8月14日に家督を継承。1897年(明治30年)10月27日、久宝の戊辰戦争の功により特旨をもって男爵を叙爵した。 錦城中学校を経て、1906年(明治39年)早稲田大学政治経済科を卒業。1909年(明治42年)イギリスに留学し、政治学・法律学を学び、1910年(明治43年)10月に帰国した。
永井 柳太郎(ながい りゅうたろう、1881年〈明治14年〉… 永井 柳太郎(ながい りゅうたろう、1881年〈明治14年〉4月16日 - 1944年〈昭和19年〉12月4日)は、大正から昭和にかけて活躍した日本の政党政治家。憲政会・立憲民政党所属。大日本育英会(現:日本学生支援機構)創立者。族籍は東京府士族(旧加賀藩士)。 石川県金沢の貧しい小学教員の家庭に生まれる。石川県士族・永井登の長男。 新堅町尋常小学校、長町高等小学校を経て旧制石川県尋常中学(現:石川県立金沢泉丘高等学校)に入学するも喧嘩が原因で中退し、1897年(明治30年)に同志社尋常中学校3学年に編入するもストライキを起こして中退。関西学院普通学部を経て1905年(明治38年)に早稲田大学大学部政治経済学科を卒業する。
杉森 孝次郎(すぎもり こうじろう、1881年〈明治14年〉… 杉森 孝次郎(すぎもり こうじろう、1881年〈明治14年〉4月9日 - 1968年〈昭和43年〉12月8日)は、日本の倫理学者・思想学者・政治学者・社会学者。旧姓は白松(しろまつ)、号は南山。 静岡県小笠郡南山村生れ。12歳で同郡賀茂村の医師である白松家の養子となる。14歳で東京に遊学し、上野図書館で独学生活を送った後、独逸協会中学校・数学館の第五学年編入試験に合格し、入学をした。その後、医師を目指して千葉医学専門学校に進学したが、進化論の講義を聞いた際「こんな学問があるのなら、医学など学んでいられない」と発意し、2年次に千葉医専を自主退学して白松家から学資援助を含む養子縁組を外された。その後、神田に私塾専修学院を創設。
石割 松太郎(いしわり まつたろう、1881年1月24日 -… 石割 松太郎(いしわり まつたろう、1881年1月24日 - 1936年6月29日)は、演劇および演芸研究家・評論家。ジャーナリスト。 大阪府堺出身(生家跡は堺市立青少年センターになっており、碑が建立されている)。 1905年早稲田大学文学部卒業。国書刊行会、日本新聞、都新聞、帝国新聞、大阪新報各社を経て1917年大阪毎日新聞社に入り、劇評を担当した。 1922年、『サンデー毎日』の発刊に参加したが、白井喬二の『新撰組』を同紙に掲載する際、初めて「大衆文芸」と銘打った人物とされる。 1929年大毎を退社、1932年に早大講師となり、浄瑠璃・江戸文芸を教えた。 主として人形浄瑠璃の歴史について著作がある。
押川 清(おしかわ きよし、1881年〈明治14年〉1月1日… 押川 清(おしかわ きよし、1881年〈明治14年〉1月1日 - 1944年〈昭和19年〉3月18日)は、日本のアマチュア野球選手、編集者、起業家。 早稲田大学野球部の三代目主将を務め、日本初のプロ野球チームである「日本運動協会」(芝浦協会)や、「名古屋軍」(中日ドラゴンズの前身)、「後楽園イーグルス」などの創設者としても知られる。 父は牧師で東北学院創設者でもある押川方義、兄は冒険小説家の押川春浪。長男は劇作家の押川昌一。 現在の宮城県仙台市出身(愛媛県松山市出身と書いてある資料もあるが、押川家は1880年から仙台在住である)。 仙台では1887年(明治20年)9月に、米国聖公会の宣教医であったフランク・ハレルが、第二高等中学校(後の旧制二高、現・東北大学)の教師の就任すると、ハレルは野球道具を持ち込み学生たちに野球を教え、仙台に野球が伝えられた。
張 孝栘(ちょう こうい、1881年 - 没年不詳)は、清末… 張 孝栘(ちょう こうい、1881年 - 没年不詳)は、清末民初の司法官・法学者。字は棣生。別号は逖省。 日本に留学し、1906年(光緒32年・明治39年)に早稲田大学専門部政治経済科を卒業した。帰国後は京師法政学堂及び京師法律学堂の教習(教官)となる。以後、修訂法律館纂修、憲法編査館科員、北京政府大理院推事を歴任した。1915年(民国4年)、総検察庁首席検察官に任命される。1928年(民国17年)4月、総検察庁検察長暫定代理となった。その後、国立北平大学法学院教授、国立北京大学法律系講師、河北省立法商学院法律系教授を歴任している。 1937年(民国26年)12月、北京に中華民国臨時政府が成立すると、張孝栘もこれに参与する。
森保 祐昌(もりやす すけまさ、1880年〈明治13年〉11… 森保 祐昌(もりやす すけまさ、1880年〈明治13年〉11月5日 - 1945年〈昭和20年〉8月12日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員(広島県第一区選出、当選1回)。広島市会議長(23代)。広島市会副議長(24代)。旧名は助三郎。 広島県三谿郡田幸村(現在の三次市)出身。森保茂助の長男。小学校を卒業後、「尚一層学問を修めて一度は東都に遊学し、将来は法曹界にて身を立てよう」との希望を抱き、父に向い度々嘆願したが父は昔気質の一徹にて「些少なりとも家に伝わる財産を我が代に至って減じたとあっては先祖に対して申し訳なし。無用な望を起すよりは身に相応の家業を励むべし」と聞き入れなかった。 助三郎は結局「独力にて成功しよう」と決心し、当時荒蕪の儘に放棄してあった山林三反歩を開墾して桑を植え付け、その葉を売却し、又は自ら養蚕してその利益を蓄えつつ独学にて勉強を続け1902年(明治35年)に教員検定試験を受けて尋常科正教員の免状を得た。
大村 直(おおむら なおし、1880年(明治13年)10月2… 大村 直(おおむら なおし、1880年(明治13年)10月21日 - 1963年(昭和38年)10月20日)は、昭和時代の政治家。実業家。衆議院議員。静岡県田方郡中郷村長。 静岡県田方郡中郷村(現三島市)に生まれる。早稲田大学に学ぶ。 静岡県大場郵便局長、中郷村会議員、同村長、静岡県会議員、三島市選挙管理委員長を歴任。ほか、興亜化学興業取締役を務めた。 1942年(昭和17年)4月の第21回衆議院議員総選挙では静岡県第2区から翼賛政治体制協議会の推薦を受け出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。議員在任中は、翼賛会政調逓信、農林兼務委員を歴任した。 戦後、公職追放となった。
小野 義夫(おの よしお、1880年(明治13年)10月2日… 小野 義夫(おの よしお、1880年(明治13年)10月2日 - 1956年(昭和31年)10月13日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。位階は正五位。参議院議員。 大分県大分郡、のちの南庄内村(庄内村、庄内町を経て現由布市)で、小野同雲の二男として生まれる。大分県立大分中学校(現大分県立大分上野丘高等学校)を経て、1905年(明治38年)早稲田大学法科を卒業した。 神奈川県の依頼で満州の利源調査委員に就任し、絹、綿の調査を実施し、そのことがきっかけで1907年(明治40年)古河鉱業(現古河機械金属)に入社し、本社課長を務めた。ラサ島燐礦株式会社(現ラサ工業)の債務整理で実績を上げ、同社常務取締役、古河鉱業重役、関西硫酸監査役などを務めた。
大山 郁夫(おおやま いくお、1880年(明治13年)9月2… 大山 郁夫(おおやま いくお、1880年(明治13年)9月20日 - 1955年(昭和30年)11月30日)は、日本の政治家、政治学者。衆議院議員(1期)。参議院議員(1期)。 兵庫県赤穂郡若狭野村(現相生市)の医者・福本剛策の次男として生まれ、17歳の時に神戸の米穀商・大山晨一郎の養子となり大山姓となる。東京専門学校に入学し、在学中に早稲田大学政治経済学部に改組され、1905年に同学部を首席で卒業。シカゴ大学およびミュンヘン大学への留学を経て1914年(大正3年)に早稲田大学教授となり、政治学を講じた。やがて大山を含めた「恩賜館組」と呼ばれる少壮教授連は早大当局に対して様々な改革要求を突きつけることになる。
山田 道兄(やまだ みちえ、1880年(明治13年)9月7日… 山田 道兄(やまだ みちえ、1880年(明治13年)9月7日 - 1936年(昭和11年)8月27日)は、日本の衆議院議員(憲政会→立憲民政党)、ジャーナリスト。 岐阜県武儀郡東武芸村(現在の関市)出身。早稲田大学政治経済科出身。扶桑新聞主筆、東京毎日新聞記者、読売新聞記者を経て、民友通信社を創設して社長を務めた。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、4回の当選を重ねた。その間、濱口内閣で農林参与官を務めた。
吉江 喬松(よしえ たかまつ、1880年9月5日 - 194… 吉江 喬松(よしえ たかまつ、1880年9月5日 - 1940年3月26日)は、フランス文学者、詩人、作家、評論家、早稲田大学教授。号は孤雁。
櫻内 幸雄(さくらうち ゆきお、1880年〈明治13年〉8月… 櫻内 幸雄(さくらうち ゆきお、1880年〈明治13年〉8月14日 - 1947年〈昭和22年〉10月9日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。商工大臣、農林大臣、大蔵大臣など歴任。 元中国電力会長櫻内乾雄、元衆議院議長櫻内義雄の父。福田康夫元首相の妻貴代子や政治家の太田誠一は孫。 旧雲州広瀬藩士・櫻内和一郎の長男。東京専門学校(現:早稲田大学)中退。岐阜新聞、愛知新聞などで記者を務めていたが、実業家の雨宮敬次郎に認められ、実業界に入り、大日本軌道、日本高架鉄道の設立に参画、1907年(明治40年)に東洋競馬会を起こして理事。 また銚子、石巻、埼玉、逗子などで電燈会社を創業、1910年(明治43年)に日本電燈株式会社を設立し取締役。
櫻井 兵五郎(桜井 兵五郎、さくらい ひょうごろう、1880… 櫻井 兵五郎(桜井 兵五郎、さくらい ひょうごろう、1880年(明治13年)8月8日 - 1951年(昭和26年)2月11日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員、国務大臣、石川県会議員。幼名・正清。 石川県鳳至郡柳田村(現:鳳珠郡能登町)で桜井源次の長男として生まれる。1911年3月、早稲田大学政治経済学科を卒業。1915年4月、日本タイプライター株式会社(現キヤノンセミコンダクターエクィップメント)を創立し常務となる。その他、北陸毎日新聞社長・副社長、北日本耐火煉瓦社長、日本観光社長などを務めた。 1913年7月から1915年4月まで石川県会議員となる。1915年3月の第12回衆議院議員総選挙に石川県郡部区から立憲同志会に属して出馬し当選。
食満 南北(けま なんぼく、1880年(明治13年)7月31… 食満 南北(けま なんぼく、1880年(明治13年)7月31日 - 1957年(昭和32年)5月14日)は、明治から昭和にかけての歌舞伎作者、作家。本名は食満 貞二(けま ていじ)。 大阪府堺市の裕福な酒造家に生まれる。幼少のころから芝居や落語など芸道に通じ、上京後、早稲田大学に入学し坪内逍遥に師事した。また村上浪六に弟子入りしたり、さまざまな職を経て、1905年(明治38年) 4月、田村成義の紹介で歌舞伎座の福地桜痴の門人となり本名のまま見習い作者となる。翌年4月に関係者と揉めて帰阪し、三代目片岡我當に招かれて松嶋屋の座付き作者となる。 1909年(明治42年) からは初代中村鴈治郎の一座に加わり松竹に所属。
釘本 衛雄(くぎもと もりお、1880年(明治13年)5月2… 釘本 衛雄(くぎもと もりお、1880年(明治13年)5月25日 - 1949年(昭和24年)6月23日)は、衆議院議員(立憲民政党)、福島市長。 福島県双葉郡幾世橋村(現在の浪江町)出身。浪江郵便局で通信事務員として働いた後、早稲田大学高等予科で学んだ。福島新聞社で記者、主筆を務めた後、福島民友新聞社副社長を経て、1936年(昭和11年)に福島新聞社社長に就任した。 また福島県会議員に4度選出され、1931年(昭和6年)からは議長を2度務めた。1937年(昭和12年)、第20回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。 1945年(昭和20年)から2年間福島市長を務めた。戦後、公職追放となり、追放中の1949年(昭和24年)に死去した。
沢本 与一(さわもと よいち、1880年(明治13年)5月1… 沢本 与一(さわもと よいち、1880年(明治13年)5月17日 - 1935年(昭和10年)1月16日)は、日本の衆議院議員(憲政会→立憲民政党)、ジャーナリスト。 山口県玖珂郡岩国町(現在の岩国市)出身。早稲田大学政治経済科を卒業し、新潟新聞や大阪新報の主筆を務めた。その後、久原鉱業株式会社で秘書役や北京事務所所長を務めた。 加藤高明内閣・第1次若槻内閣で江木翼司法大臣の秘書官を務め、1928年(昭和3年)の第16回衆議院議員総選挙で当選。その後、第17回・第18回の総選挙でも当選した。第2次若槻内閣では江木鉄道大臣の秘書官を、齋藤内閣では外務参与官を務めた。1933年(昭和8年)から翌年まで東京市助役。
兼田 秀雄(かねだ ひでお、1880年(明治13年)5月15… 兼田 秀雄(かねだ ひでお、1880年(明治13年)5月15日 - 1937年(昭和12年)11月22日)は、日本の衆議院議員(政友本党→立憲政友会→昭和会)。 青森県南津軽郡黒石町(現在の黒石市)出身。早稲田大学政治科を卒業後、渡欧した。帰国後、中央新聞政治部記者、東京朝日新聞政治部記者、政治部長を務めた。その後、南満州鉄道に転じ、川村竹治社長のもと、秘書役・参事を務めた。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、4回の当選を重ねた。その間、岡田内閣で鉄道参与官を務めた。1935年(昭和10年)には昭和会の結党に参加した。
丸山 幹治(まるやま かんじ、1880年〈明治13年〉5月2… 丸山 幹治(まるやま かんじ、1880年〈明治13年〉5月2日 - 1955年〈昭和30年〉8月16日) は、ジャーナリスト・政治評論家。 号・侃堂。 長野県埴科郡清野村(現長野市)の農家に生まれる。1901年東京専門学校(現・早稲田大学)邦語科行政科卒業、日本新聞に入社、翌年青森新聞主筆となり、日露戦争中に日本新聞に復帰し従軍記者となる。1906年京城日報編集長を務め、1909年大阪朝日新聞社入社。「天声人語」を執筆。のちニューヨーク特派員、通信部長を歴任。1918年には白虹事件のため、長谷川如是閑らとともに退社。 1928年大阪毎日新聞社に入社し、コラム「硯滴」を担当。まもなく東京日日新聞に移り、1953年まで短評論「余録」を担当。