三神 美和(みかみ みわ、1904年3月30日 - 2010… 三神 美和(みかみ みわ、1904年3月30日 - 2010年12月21日)は、日本の医師、東京女子医科大学名誉教授・相談役。山梨県甲府市出身。 山梨県立高等女学校(現・山梨県立甲府西高等学校)を経て、1924年に東京女子医学専門学校(現・東京女子医科大学)を卒業。1940年に「不飽和脂肪酸の動物栄養に及ぼす影響について」で慶應義塾大学より医学博士の学位を取得。1951年より東京女子医科大学教授、同大学理事。1965年からは東京女子医科大学病院に勤め、教授職のかたわら病院長職も務めた。 東京女子医科大学を退職後は名誉教授となり、同大学医学部同窓会である至誠会が運営する至誠会第二病院の院長に就任。
城多 又兵衛(きた またべえ、1904年(明治37年)3月3… 城多 又兵衛(きた またべえ、1904年(明治37年)3月30日 - 1979年(昭和54年)3月30日)は、日本の声楽家(テノール)、音楽教育者、音楽学者、作曲家。 三重県出身。三重県立津中学校(現・三重県立津高等学校)卒業。1929年(昭和4年)東京音楽学校卒業。1931年(昭和6年)東京音楽学校研究科修了。同年イタリアにわたり、1934年(昭和9年)までローマのサンタ・チェチーリア音楽院に学ぶ。船橋栄吉、スコラーリに師事。 1936年(昭和11年)ヴェルディ『レクイエム』で歌手デビュー。同年演奏会形式でヴェルディ『椿姫』アルフレードを歌い、のちベルリオーズ『ファウストの劫罰』や、オペラにも出演。
上田 吉二郎(うえだ きちじろう、1904年3月30日 - … 上田 吉二郎(うえだ きちじろう、1904年3月30日 - 1972年11月3日)は、日本の俳優。本名は上田 貞夫(うえだ さだお)。 アクの強めな演技で知られ、300本以上の映画に出演。愛称は「上吉(うえきち)」。 悪役・敵役を得意とし、弱者を痛めつけ、自分より強いものには平身低頭するような悪役が多く、独特なダミ声は、よしもと新喜劇の島田一の介や林家木久扇らによって度々声帯模写で取り上げられた。 1904年(明治37年)3月30日、兵庫県神戸市三宮に生まれる。旧制第一神戸中学校(現・兵庫県立神戸高等学校)在学中の1918年(大正7年)、神戸中央劇場で観た新国劇の舞台『新朝顔日記』での澤田正二郎の演技に感動し、彼に弟子入りを頼んで新国劇に入団する。
瀬木 博政(せき ひろまさ、1904年3月30日 - 200… 瀬木 博政(せき ひろまさ、1904年3月30日 - 2002年9月18日)は日本の実業家、博報堂代表取締役名誉会長。東京都出身。
荒木 三郎(あらき さぶろう、1904年 <明治37年> 3… 荒木 三郎(あらき さぶろう、1904年 <明治37年> 3月30日 - 1981年 <昭和56年> 10月16日)は、日本の経営者である。呉羽化学工業 (現在のクレハ) 社長を務めた。位階は正四位。 兵庫県出身。1930年に京都帝国大学法学部を卒業し、同年5月に呉羽紡績に入社。1946年2月に呉羽化学工業常務に就任し、1948年2月に専務を経て、1949年3月に社長に就任。1973年11月に会長に就任。 1965年5月に藍綬褒章を受章し、1978年4月に勲二等旭日重光章を受章した。 1981年10月16日、脳血栓のために死去。77歳没。死没日付をもって正四位に叙された。
丹羽 喬四郎(にわ きょうしろう、1904年〈明治37年〉3… 丹羽 喬四郎(にわ きょうしろう、1904年〈明治37年〉3月30日 - 1978年〈昭和53年〉3月30日)は、日本の内務官僚、政治家。位階は正三位勲一等、勲章は瑞宝章。 運輸大臣、衆議院議員(9期)を歴任。三男は丹羽雄哉。 東京府東京市赤坂区生まれ。敬三の四男。 旧制麻布中学校、旧制水戸高等学校を経て、1930年、東京帝国大学経済学部卒業。同年高文行政科合格。昭和6年(1931年)内務省に入り、大阪府警部補、長野県、満州国、埼玉県、厚生省、京都府などの勤務を経て、1942年、千葉県官房長、群馬県警察部長、警視庁官房主事、情報局情報官を歴任、1947年退職。 1947年から1950年まで公職追放となる。
上宮山 勇市(うえみややま ゆういち、1904年3月30日 … 上宮山 勇市(うえみややま ゆういち、1904年3月30日 - 没年不明)は、鹿児島県薩摩郡宮之城町(現さつま町)出身で井筒部屋に所属した元大相撲力士。本名は中間 勇一。最高位は十両11枚目(ただし、後述のように十両力士として土俵に上がらなかった)。 井筒部屋に入門し、1923年1月、初土俵を踏む。1932年1月、十両に昇進したが、番付発表直後に起きた春秋園事件で脱退し、革新力士団に加わった。その後は相撲協会に復帰することはなかった。
高杉 年雄(たかすぎ としお、1904年(明治37年)3月2… 高杉 年雄(たかすぎ としお、1904年(明治37年)3月29日-1984年(昭和59年)1月6日)は、日本の医学者、学校経営者。医学博士(北海道帝国大学)。 青森県弘前市で出生後、北海道札幌に移住。1921年北海道庁立札幌第二中学校卒業。1928年(昭和3年)北海道帝國大学医学部卒業。1930年同医学部助手。1933年北海道帝国大学にて論題「沃度代謝と消化器との関係」にて医学博士受く。1933年北海道帝国大学医学部第二内科講師。1934年同医学部第二内科助教授。1947年北海道大学医学部内科学第三講座初代教授及び北海道大学病院医科第三内科長に任命される。1955年(昭和30年)北海道大学医学部附属病院院長。
小森田 一記(こもりだ かずき、1904年3月29日 - 1… 小森田 一記(こもりだ かずき、1904年3月29日 - 1988年9月25日)は、日本の雑誌編集者、事業家。 1904年に熊本県菊水町(現和水町)に生まれる。最初農業に従事しようと親戚の家で馬肥づくりをするが、途中で日本の文化界に尽くしたいと、独学で旧制中学四年の編入試験に合格、新聞配達等をして苦学しながら、1930年に早稲田大学政経学部経済学科を卒業。同郷である朝日新聞編集主幹・牧野輝智の庇護と推薦を受けて中央公論社に入社、28歳で婦人公論の編集長を務める。1937年から1940年の間は編集長を務めた。 1944年に横浜事件が発生すると事件の舞台となった雑誌『改造』とともに編集が左翼的であったとして『中央公論』も弾圧対象となり、小森田を含む8人の編集者らが逮捕、勾留された。
村井 順(むらい じゅん、1904年3月28日 - 1985… 村井 順(むらい じゅん、1904年3月28日 - 1985年3月5日)は、日本の国文学者。愛知淑徳短期大学教授を務めた。岐阜県出身。 岐阜県高富町生まれ。1929年、早稲田大学文学部国文科を卒業。1960年に『源氏物語論』で早稲田大学から文学博士を授与される。高等学校教諭を経て、1964年に愛知淑徳短期大学教授に着任。1974年に定年退職し、以後は非常勤講師として勤めた。愛知淑徳短期大学国文学科の創設期の指導者と評された。 「国文学教育は既存の文学を教えるだけでは片手落ちではないか?」との信念から、愛知淑徳短期大学国文学科の女子学生らに小説を書かせ、『女子大生小説集』(中部日本教育文化会、1973年)として刊行。
金子 弘(かねこ ひろし、1904年3月27日 - 没年不詳… 金子 弘(かねこ ひろし、1904年3月27日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。本名同じ。旧芸名は金村 春夫(かねむら はるお)など。日活大将軍撮影所や日活太秦撮影所などで長く活躍した、伊藤大輔監督映画の常連である。特技は乗馬、水泳、ビリヤード。 1904年(明治37年)3月27日、東京府東京市下谷区(現在の東京都台東区)に生まれる。 1915年(大正4年)、11歳の時に養父である若月一郎の新歌劇の一座で初舞台を踏む。正則中学校(現在の正則高等学校)に進学し、学業の傍ら西野薫一座の芝居に参加する。 1922年(大正11年)、同中学校を卒業して日活向島撮影所に入社。金村春夫名義で数本の作品に出演。
香川 英史(かがわ ひでふみ、1904年 <明治37年> 3… 香川 英史(かがわ ひでふみ、1904年 <明治37年> 3月27日 - 1985年 <昭和60年> 6月7日)は、日本の経営者。広島県出身。位階は正四位。 1928年に東亜同文書院大学を卒業し、同年に東洋綿花(のちのトーメン)に入社した。1955年11月に取締役に就任し、1957年11月に常務、1960年5月に専務を経て、1961年11月に副社長に就任し、1962年6月から1971年6月までに社長を務めた。 1974年に勲三等瑞宝章を受章。 1985年6月7日肺炎のために死去。81歳没。死没日付をもって正四位に叙された。
厳 敬燮(オム・ギョンソプ、朝鮮語: 엄경섭/嚴敬燮、190… 厳 敬燮(オム・ギョンソプ、朝鮮語: 엄경섭/嚴敬燮、1904年3月27日または1906年3月27日 - 1979年9月6日)は、大韓民国の教育者、政治家。第9代韓国国会議員。 本貫は寧越厳氏。儒教の信者。元養正高等学校校長の厳圭白は長男。 ソウル出身。1925年養正高等普通学校卒、1931年法政大学経済学部商科卒。養正中学校・高等学校で長く勤め、教諭・教務主任・校長を歴任した。その他にソウル私立中等学校長会会長、中央教育委員会委員、大韓私立中等学校長会連合会長、国民教育憲章制定審議会委員、長期総合教育計画審議会委員、教育政策審議会委員、維新政友会所属の第9代前半期国会議員、養正義塾理事長を務めた。
曺 奎甲(チョ・ギュガプ、朝鮮語: 조규갑、1904年3月2… 曺 奎甲(チョ・ギュガプ、朝鮮語: 조규갑、1904年3月27日 - 1994年10月3日)は、大韓民国の政治家。昌原郡亀山面長、制憲韓国国会議員などを歴任した。 本貫は昌寧曺氏(朝鮮語版)。漢字表記は曺圭甲とも。独立運動家の曺正煥は父、曺誠煥は叔父。 慶尚南道金海郡菉山面(現・釜山広域市江西区美音洞)出身。同郡進礼面の講習所での漢文修学を経て、明治大学政経科卒、早稲田大学卒業または中退、北京大学聴講・東洋哲学科中退。営農を経て、亀山面長、慶尚南道政治工作隊隊長、鎮海中学校父兄会長、鎮海漁業組合長、鎮海金融組合長、大韓独立促成国民会鎮海支部長・昌原郡支部長、昌原郡農会評議員、無所属の制憲国会議員、反民族行為特別調査委員会調査委員などを務めた。
木山 捷平(きやま しょうへい、1904年(明治37年)3月… 木山 捷平(きやま しょうへい、1904年(明治37年)3月26日 - 1968年(昭和43年)8月23日)は、岡山県小田郡新山村(現在の笠岡市)出身の小説家、詩人。東洋大学文科中退。詩人として出発し、のち小説に転じた。「海豹」同人。満州で敗戦を迎え、帰国後、その体験をもとに長編『大陸の細道』『長春五馬路』などを発表。私小説的な短編小説やエッセイを得意とした。作家として目立たない存在であるが、庶民性に徹した飄逸と洒脱な表現で没後も根強い愛読者を持つ[独自研究?]。 矢掛中学校(現岡山県立矢掛高等学校)在籍時より詩・短歌・俳句を作り始める。1923年(大正12年)に姫路師範学校(現・神戸大学)を卒業。
大野 林火(おおの りんか、1904年3月25日 - 198… 大野 林火(おおの りんか、1904年3月25日 - 1982年8月21日)は、昭和期の俳人。本名は大野正(おおの まさし)。 神奈川県横浜市生まれ。旧制県立横浜第一中学校、旧制第四高等学校を経て、1927年東京帝國大学経済学部を卒業。大学卒業後は日本光機工業に入社。1930年に会社を辞めて神奈川県立商工実習学校(現・神奈川県立商工高等学校)教諭となる。当時の教え子に、後に高弟となる宮津昭彦がいる。中学時代より鈴木三重吉や佐藤春夫の抒情詩に傾倒。俳句は中学時代の1920年、親友の荻野清(のち俳文学者となる)の父から手ほどきを受け、1921年、荻野の勧めをうけて「石楠」に入会、臼田亞浪に師事する。
栗田 国彦(くりた くにひこ、1904年3月25日 - 19… 栗田 国彦(くりた くにひこ、1904年3月25日 - 1981年)は昭和時代日本の作曲家、教育者。静岡大学教育学部教授。 1904年(明治37年)、静岡県磐田郡山香村(現在の浜松市天竜区)に生まれる。静岡師範学校を経て東京音楽学校第四臨時教員養成所で沢崎定之、下総皖一、貫名美名彦らの師事を仰ぐ。愛知県の知多郡立高等女学校教諭を経て愛媛師範学校教諭となり、1938年(昭和13年)11月に愛媛県庁が提唱した「国民精神作興週間」の一環として初代「愛媛県民歌」を作曲する。1944年(昭和19年)、静岡第一師範学校教諭兼教授。1949年(昭和24年)の新制静岡大学発足に伴い助教授となり、附属幼稚園長を経て1960年(昭和35年)より教授に至る。
小田 栄(小田 榮、おだ さかえ、1904年〈明治37年〉3… 小田 栄(小田 榮、おだ さかえ、1904年〈明治37年〉3月24日 - 1994年〈平成6年〉7月11日)は、日本の社会主義者、政治家、ジャーナリスト。衆議院議員。別名・天界。 広島県賀茂郡川尻村(川尻町を経て現呉市)で菓子製造業の家に生まれる。父の事業が失敗し、叔父からの勧めで1912年に一家で沖縄に移住。一家で飴屋を始め、小田も行商を行う。1918年、沖縄県立第一中学校に入学。4年次の学芸会で社会批判の演説を行い放校となった。 沖縄出身の先輩、アナキストで労働運動社にいた泉正重を頼り上京。同志と雑誌創刊を計画するも当局に検挙された。1922年、中浜哲、古田大次郎らのギロチン社に加わったが、1923年の関東大震災により沖縄に戻った。
長津 義司(ながつ よしじ、1904年(明治37年)3月24… 長津 義司(ながつ よしじ、1904年(明治37年)3月24日 - 1986年(昭和61年)1月10日)は昭和期の作曲家。 静岡県出身。保険会社勤務後、作曲活動を始め、1936年(昭和11年)ポリドール専属となる。1939年(昭和14年)11月発売の「大利根月夜」が大ヒット。1941年(昭和16年)にテイチクへ移籍し、「十三夜」「君忘れじのブルース」「ふるさとの燈台」「玄海ブルース」「連絡船の唄」「チャンチキおけさ」「大利根無情」「元禄名槍譜 俵星玄蕃」などの作品を作曲。菅原都々子の「月がとっても青いから」では編曲を担当。 『チャンチキおけさ』では『お客様は神様です』というフレーズが生まれ、三波春夫が最後の紅白で歌った曲は「元禄名槍譜 俵星玄蕃」であった。
上原 清吉(うえはら せいきち、1904年3月24日 - 2… 上原 清吉(うえはら せいきち、1904年3月24日 - 2004年4月3日)は、日本の武術家。本部朝勇の高弟の一人であり、本部御殿手古武術の第12代宗家。 1904年(明治37年)、沖縄県島尻郡小禄村(現・那覇市小禄)に上原蒲戸の五男として生まれた。上原家は農業と味噌・醤油の醸造を生業とする比較的裕福な家庭であったが、清吉が小学生の頃、兄の事業の失敗で一家は一転苦しい生活に追い込まれた。これが原因で、清吉も進学を断念し家業を手伝うことになった。 1916年(大正5年)に本部朝勇の道場に入門した。本部朝勇は、旧琉球王族である本部御殿の直系当主であり、弟には当時沖縄最強の唐手(現・空手)家として知られた本部朝基をもつ著名な武術家であった。
川崎 竹一(かわさき たけいち、1904年〈明治37年〉3月… 川崎 竹一(かわさき たけいち、1904年〈明治37年〉3月23日 - 1982年〈昭和57年〉4月28日)は、日本のフランス文学者、翻訳家、編集者。文藝春秋社「文學界」第3代編集長。九州帝国大学仏文学科卒。 『文藝通信』において川崎がゴンクール賞やノーベル賞など海外の文学賞の様な権威のある文学賞を我が国にも設立するべきだと書いた文章を菊池寛が読んだことが芥川龍之介賞や直木三十五賞の設立の動機となっている。このとき菊池は川崎に文藝春秋社内ですぐに準備委員会および選考委員会を作るよう要請し、川崎や永井龍男らによって準備が進められた。 同年中、『文藝春秋』1935年1月号において「芥川・直木賞宣言」が発表され正式に両賞が設立された。
山川 幸世(やまかわ ゆきよ、1904年3月23日 - 19… 山川 幸世(やまかわ ゆきよ、1904年3月23日 - 1974年12月23日)は、日本の演出家。 京都生まれ。ドイツ文学者・山川幸雄の長男。妹に山川彌千枝。2歳の時、父の転勤のため、東京に転居。同志社大学英文科卒。舞台演出家として知られるばかりでなく、俳優の養成にも携わり、実演者の立場から音声学にもアプローチした。モンゴル音楽祭などに取り組んできた山川泉は実子。
寺崎 浩(てらざき ひろし、1904年3月22日 - 198… 寺崎 浩(てらざき ひろし、1904年3月22日 - 1980年12月10日)は、日本の小説家、詩人。 岩手県盛岡市生まれ。父は検事。早稲田大学仏文科中退。1926年、同級の田畑修一郎、火野葦平らと同人誌『街』を創刊。西條八十に師事し、佐伯孝夫らと詩誌『棕櫚の葉』を創刊。のち横光利一に師事。 1935年、文壇デビューを果たし以後は小説を中心に執筆。1936年、徳田秋声の娘喜代と結婚。1941年、報道班員としてマレーに赴く。 戦後は中間小説を多く書いた。代表作に短編集『祝典』、長編『情熱』、詩集『落葉に描いた組曲』など。『からたちの花』は山田耕筰の伝記小説である。墓所はさいたま市思い出の里市営霊園。
浅野 千鶴子(あさの ちづこ、旧字体: 淺野 千鶴子 、19… 浅野 千鶴子(あさの ちづこ、旧字体: 淺野 千鶴子 、1904年(明治37年)3月22日 - 1991年(平成3年)3月3日)は、日本の声楽家(ソプラノ)、音楽教育者。東京藝術大学名誉教授。民謡歌手で秋田県出身の浅野千鶴子は同姓同名の別人。 高知県高知市出身。1927年(昭和2年)東京音楽学校研究科修了。永井郁子に師事し、マルガレーテ・ネトケ=レーヴェ、長坂好子の指導も受けた。1920年代から文化学院の教壇に立つ。1929年(昭和4年)4月 京城で「山田耕筰作品発表会」に出演(ピアノ:山田耕筰、ヴァイオリン:黒柳守綱、ソプラノ:浅野千鶴子)。1930年(昭和5年)東京でリサイタル・デビュー。1935年(昭和10年)東京音楽学校第75回定期演奏会(於:日比谷公会堂)でバッハ『聖母讃歌』ソリスト(指揮:クラウス・プリングスハイム、ソプラノ:浅野千鶴子、メゾソプラノ:田中伸枝、アルト:齋藤英子、テノール:木下保、バス:伊藤武雄)。
大野 連治(おおの れんじ、1904年(明治37年)3月21… 大野 連治(おおの れんじ、1904年(明治37年)3月21日 - 1991年(平成3年)11月16日)は、日本の内務官僚。官選青森県知事。湯沢三千男の娘婿。 千葉県東葛飾郡船橋町九日市で生まれる。第一高等学校を卒業。1927年12月、高等試験行政科試験に合格。1928年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。横浜正金銀行を経て、1929年、内務省に入省し社会局属となる。 1946年1月、内務省文書課長から青森県知事に就任。同年11月24日、仮県庁が全焼した。1947年3月、引揚援護院次長に転じた。その後、全国市長会事務局長、人事院参与、地方公務員災害補償基金理事長を務めた。
立林 文二(たてばやし ふみじ、1904年(明治37年)3月… 立林 文二(たてばやし ふみじ、1904年(明治37年)3月20日 - 1966年(昭和41年)7月10日)は、日本の銀行家。三和相互銀行社長(現・トマト銀行)。岡山県新見市出身。 1904年(明治37年)岡山県阿賀郡刑部村(現:新見市)に生まれる。1895年(明治28年)に旧制高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学し、その後、1922年(大正11年)第六高等学校文科甲類へ入学した。1925年(大正14年)、同高校を卒業し、東京帝国大学法学部法律学科へ入学、イギリス法を学び1929年(昭和4年)3月、同大学を卒業した。 大学卒業後、日本勧業銀行(現・みずほ銀行)へ入行し、大阪支店に配属となり、1935年(昭和10年)には、貸付課の書記に配属となった。
由井 敢(ゆい いさむ、1904年(明治37年)3月20日 … 由井 敢(ゆい いさむ、1904年(明治37年)3月20日 - 1985年(昭和60年)5月16日)は、日本の実業家。住友電気工業副社長。 製紙王藤原銀次郎の妻禄子の兄の孫。 鳥取県西伯郡境町(現在の境港市)出身。由井哲三の長男。 1924年(大正13年)、東京商科大学(現在の一橋大学)附属商学専門部を卒業。住友電気工業入社。 1946年(昭和21年)、東京支店長に就任。1947年(昭和22年)、取締役に挙げられた。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
阿部 五郎(あべ ごろう、1904年(明治37年)3月19日… 阿部 五郎(あべ ごろう、1904年(明治37年)3月19日 - 1963年(昭和38年)1月23日)は、日本の政治家。 初代公選徳島県知事。日本社会党の衆議院議員(5期)。徳島県立商業学校卒業。徳島県徳島市出身。 徳島市出身。徳島県立商業学校(現・徳島県立徳島商業高等学校)を卒業。久原鉱業に入社するも病気により退社、九州に転じ門司港の荷役事務員、労働共済会の主事などを経て労働農民党に入党。労働運動家となる。1930年徳島に帰郷、全国農民組合徳島支部連合会顧問となる。その後独学で司法科高等試験に合格し、徳島市内で弁護士を開業した。 終戦後の1945年、日本社会党に入党。同党徳島県連会長を務め、1947年4月5日に徳島県知事に当選。
山崎 始男(やまさき もとお、1904年(明治37年)3月1… 山崎 始男(やまさき もとお、1904年(明治37年)3月18日 - 1983年(昭和58年)10月9日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 岡山県吉備郡総社町(現総社市)で、米穀問屋・山崎重の長男として生まれる。岡山中学校(現岡山県立岡山朝日高等学校)を経て、1931年(昭和6年)慶應義塾大学政治学科を卒業した。名古屋市において製陶会社で勤務したり木材関係貿易に従事した。1944年(昭和19年)に帰郷し会社経営を行う。 1948年(昭和23年)初の公選制による岡山県教育委員に選出され、1949年(昭和24年)副委員長に就任。1952年(昭和27年)10月、第25回衆議院議員総選挙で岡山県第2区から出馬して初当選。
吉川 幸次郎(よしかわ こうじろう、1904年3月18日 -… 吉川 幸次郎(よしかわ こうじろう、1904年3月18日 - 1980年4月8日)は、日本の中国文学者。文学博士(京都大学)。芸術院会員、文化功労者、京都大学名誉教授。
荻野 三七彦 (おぎの みなひこ、1904年3月18日 - … 荻野 三七彦 (おぎの みなひこ、1904年3月18日 - 1992年8月12日)は、日本古文書学者。早稲田大学名誉教授。 1904年、文化財保護行政の荻野仲三郎の次男として東京市本郷区(現・東京都文京区)に生まれる。1929年、早稲田大学文学部史学科卒業。東京帝国大学文学部史料編纂所嘱託、1948年「聖徳太子伝古今目録抄の基礎的研究」で早稲田大学文学博士。1935年早稲田大学文学部講師、1942年助教授、1946年教授、1952年教務部長、1968年早稲田大学理事、1970年図書館長を歴任。1974年定年退職、名誉教授。1992年、死去。大学外では、聖徳太子奉讃会理事、永青文庫理事を務めた。 古文書学を確立し、日本古文書学会の設立に尽力した人物である。
櫻田 武(さくらだ たけし、1904年(明治37年)3月17… 櫻田 武(さくらだ たけし、1904年(明治37年)3月17日 - 1985年(昭和60年)4月29日)は、昭和の経営者。日清紡績(現・日清紡ホールディングス)元社長。日清紡績"中興の祖"。日経連会長、名誉会長を務め、"ミスター日経連"とも呼ばれた。「財界四天王」の一人。広島県福山市赤坂町出身。福山市名誉市民。 1904年、商家の櫻田斉・仲子の長男として沼隈郡赤坂村(現在の福山市赤坂町)に生まれる。広島高師附属中学校、第六高等学校を経て1926年(大正15年)に東京帝国大学法学部を卒業。紙恭輔は広島高師附属中学の一級上。六高柔道部で同郷で、後に「財界四天王」とともに呼ばれる生涯の盟友・永野重雄に誘われ高専柔道界の王座を築く。
秋田 露子(あきた つゆこ、本名:松本さく子、1904年(明… 秋田 露子(あきた つゆこ、本名:松本さく子、1904年(明治37年)3月17日 - 没年不明)は元宝塚少女歌劇団花組主演娘役クラスの人物である。大阪府池田町(現・池田市)出身。 この芸名は小倉百人一首の第1番:天智天皇の 高峰妙子・・初代瀧川末子・・奈良美也子・・汐見洋子・・神代錦・・打吹美砂・・越路吹雪・・淀かほる・・星空ひかる・・麻鳥千穂 ・・甲にしき - 安奈淳、松あきら&瀬戸内美八 - 榛名由梨&安奈淳 - 安奈淳 - 松あきら - 松あきら&順みつき - 順みつき - 高汐巴 - 大浦みずき - 安寿ミラ - 真矢みき - 愛華みれ - 匠ひびき - 春野寿美礼 - 真飛聖 - 蘭寿とむ - 明日海りお - 柚香光 - 永久輝せあ(現役) 秋田露子・・初代春日花子・・初代大江美智子・・久美京子・・打吹美砂・・日下輝子・・宮城野由美子・・鳳八千代・・夏亜矢子・・美和久百合・・竹生沙由里・・上原まり(固定でない) - 上原まり&北原千琴 - 美雪花代 - 若葉ひろみ - 秋篠美帆 - ひびき美都 - 森奈みはる - 純名里沙 - 千ほさち - 大鳥れい - ふづき美世 - 桜乃彩音 - 蘭乃はな - 花乃まりあ - 仙名彩世 - 華優希 - 星風まどか - 星空美咲(現役) 高砂松子 - 初代瀧川末子 - 奈良美也子 - 三浦時子 - 汐見洋子 - 神代錦 - 打吹美砂 - 大路三千緒 - 藤波洸子 - 打吹美砂 - 畷克美 - 美吉左久子 - 淡路通子 - 恵さかえ - 但馬久美 - 宝純子 - 北小路みほ - 未沙のえる - 星原美沙緒 - 磯野千尋 - 夏美よう - 高翔みず希 - 美風舞良(現役) 秩父晴世 - 打吹美砂 - 楓茂美 - 玉野ひかり - 日下輝子 - 櫻野美也子 - 玉野ひか留 - 美山しぐれ - 桃山千歳 - 桂木ゆたか - 睦千賀&桂木ゆたか - 御幸沙智子&歌川波瑠美 - 歌川波瑠美 - 藤園さとみ - 銀あけみ - 宝純子 - 北小路みほ - 未沙のえる - 磯野千尋 - 一原けい - 梨花ますみ - 高翔みず希 - 悠真倫 - 紫峰七海 - 花野じゅりあ - 芽吹幸奈 - 冴月瑠那 - 美風舞良 - 航琉ひびき - 紫門ゆりや(現役) 紅羽真希(現役)
小川 三郎(おがわ さぶろう、1904年3月16日 - 19… 小川 三郎(おがわ さぶろう、1904年3月16日 - 1995年9月20日)は、日本の小児科医師。 長野県諏訪郡富士見村(現・富士見町)出身。実業家の小川金治の二男として生まれる。長野県立諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)を経て、1930年に慶應義塾大学医学部を卒業した。 同大助手、慶應義塾大学病院小児精神衛生相談員を務めた後、1939年に東京市日本橋小児保健所長となる。1940年、国際聖母病院(現・聖母病院)小児科部長兼副院長に就任する。 1945年、慶應堂病院院長となる。1965年より青山学院大学教授兼保健管理センター所長を務め、1970年に小川医学研究所を開設した。 いとこの三村二も医師であった。
小倉 繁(おぐら しげる、1904年3月16日 - 1958… 小倉 繁(おぐら しげる、1904年3月16日 - 1958年5月29日)は、日本の俳優。栃木県宇都宮市出身。本名同じ。喜劇映画で活躍し、和製チャップリンと呼ばれた。 栃木県宇都宮市の生まれ。劇団に入り、地方巡業を経て、1923年に国活に入社。 1925年に松竹蒲田撮影所に入社。始めは端役を演じていたが、小津安二郎監督の『女房紛失』から頭角を現していき、短編喜劇映画の脇役として活躍。1929年、喜劇の神様と呼ばれ、城戸四郎が開拓したナンセンス喜劇を多く演出した斎藤寅次郎監督の『モダン怪談100,000,000』に国定忠次の幽霊役で出演。以降、ナンセンス喜劇の代表的俳優となり、軽妙なドタバタ演技で人気喜劇俳優となった。
井形 卓三(いがた たくぞう、1904年(明治37年)3月1… 井形 卓三(いがた たくぞう、1904年(明治37年)3月13日 - 1991年(平成3年)3月13日)は、昭和時代の政治家。位階は正五位。東京都本郷区長、文京区長。文京区名誉区民。 埼玉県に生まれる。旧制熊谷中学、第八高校を経て、東京帝国大学経済学部卒業。1945年(昭和20年)12月、本郷区長に就任。1947年(昭和22年)4月、文京区初代区長に就任し、1967年(昭和42年)9月16日の任期満了まで5期20年にわたり区長を務めた。在任中は文京区庁舎と公会堂を建設し、第2庁舎を設置する。1958年には日本国際連合協会を代表して東京都議会副議長の浦部武夫と共にブラッセル(ベルギー)を視察。1965年に東京都の区長会会長に選ばれた。
佐々木 カネヨ(ささき カネヨ、1904年3月11日 - 1… 佐々木 カネヨ(ささき カネヨ、1904年3月11日 - 1980年10月24日)は、絵画や写真の美術モデル。別名に、永井カ子ヨ(かねよ)、お葉がある。
森山 啓(もりやま けい、1904年3月10日 - 1991… 森山 啓(もりやま けい、1904年3月10日 - 1991年7月26日)は、新潟県出身の詩人、小説家である。 旧制中学校教師の父の転任に伴い、富山県高岡市に移り少年期を過ごす。1912年、福井市に移住。1916年、福井中学に入学。同級生に深田久弥、上級生に中野重治がいたが、この時点で親交は無かった。1920年中学を4年修了で第四高等学校へ進学。ここにも中野がいたが依然親交は持たなかった。1925年、東京帝国大学に入学。漸く中野と親交を持ち、同時にプロレタリア文学に傾倒する。1928年に大学を中退。1932年、『プロレタリア詩のために』を出版。1941年、石川県小松市へ疎開。1942年、『海の扇』で新潮社文芸賞を受賞する。
溪口 泰麿(たにぐち やすまろ、1904年(明治37年)3月… 溪口 泰麿(たにぐち やすまろ、1904年(明治37年)3月10日 - 1992年(平成4年)11月3日)は、日本の海軍軍人、海上自衛官。最終階級は海軍大佐、海将。 漢学塾主・溪口廉造の四男として生まれる。兄は溪口豪介大佐(海兵41期)、妻は山下源太郎大将(海兵10期)の娘。広島高師付中を経て、海軍兵学校に進む。海兵(51期)及び海大(甲種33期)をともに恩賜組で卒業した。太平洋戦争中は大使館附武官補佐官としてドイツに駐在。1945年(昭和20年)4月13日、ソ連軍突入直前のベルリンで「出来得る限り多数の独潜水艦を東亜へ回航すべくドイツ側と折衝せよ」という本国訓令を受けた。ドイツ側と折衝したが、結論は「回航するだけの油がない」であった。
牛島 辰熊(うしじま たつくま、1904年(明治37年)3月… 牛島 辰熊(うしじま たつくま、1904年(明治37年)3月10日 - 1985年(昭和60年)5月26日)は、日本の柔道家。段位は講道館柔道九段。大日本武徳会柔道教士。 明治神宮大会3連覇、昭和天覧試合準優勝。その圧倒的な強さと気の荒さから「鬼の牛島」と称された。柔道史上最強を謳われる木村政彦の師匠として有名だが、牛島自身も木村に負けぬ実績を持つ強豪であった。 熊本県熊本市の製油業者の家に生まれる。元々は剣道を修行していたが、15歳の時に長兄の影響で肥後柔術三道場の一つ、扱心流江口道場に入門した。熊本では講道館柔道よりも、まだ古流柔術の方が盛んであった。 この肥後柔術三道場の対抗戦は、判定勝利はなく「参った」のみで勝負を決するもので、時には腰に短い木刀を差して試合をやり、投げて組み伏せ、最後は木刀で相手の首を掻き斬る動作をして一本勝ちとなるルールでも戦った。
服部 二柳(はっとり にりゅう、本名:辰雄、1904年(明治… 服部 二柳(はっとり にりゅう、本名:辰雄、1904年(明治37年)3月10日 - 1968年(昭和43年)1月1日)は、日本の南画家。服部双柳子、服部双柳、二柳散人とも。奇人の南画家として知られる。
大森 曹玄(おおもり そうげん、1904年〈明治37年〉3月… 大森 曹玄(おおもり そうげん、1904年〈明治37年〉3月10日 - 1994年〈平成6年〉8月18日)は、臨済宗の禅僧。また、直心影流剣術第15代・山田次朗吉の弟子でもあり、直心影流剣術の「法定」の指導も行った。山岡鉄舟ゆかりの高歩院の住職を務め、山岡鉄舟についての著書もある。 この項目は、宗教家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル 宗教/ウィキプロジェクト 宗教)。 この項目は、仏教に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル 仏教/ウィキプロジェクト 仏教)。
内海 清(うつみ きよし、1904年(明治37年)3月9日 … 内海 清(うつみ きよし、1904年(明治37年)3月9日 - 1991年(平成3年)3月12日)は、日本の内務・警察官僚。芦屋市長。 兵庫県揖保郡、のちの揖西村(現たつの市)で内海仙の二男として生まれる。1928年、東京帝国大学法学部法律学科を卒業し、さらに1930年には同大経済学部を卒業した。1929年10月、高等試験行政科試験に合格し、1930年、内務省に入省し山口県属となる。 以後、熊本県警察部警務課長、新潟県警察部警務課長、大阪府土木部総務課長、同総務部議事課長、同人事課長、関東州庁警察部長、石川県警察部長、茨城県経済第二部長、東京都書記官・官房会計課長、兵庫県経済部長、同総務部長などを歴任。
出水 春三(でみず はるぞう、1904年3月9日 - 197… 出水 春三(でみず はるぞう、1904年3月9日 - 1970年10月29日)は、日本の英文学者。 1927年東京帝国大学文学部英文科卒、島根県立三刀屋中学校教諭、29年(旧制)松江高等学校講師、31年教授、37年(旧制)松山高等学校教授、1949年愛媛大学教授、1954年広島大学教授、67年定年退官、名誉教授、親和女子大学教授。在職中に66歳で死去。
三浦 義男(みうら よしお、1904年(明治37年)3月9日… 三浦 義男(みうら よしお、1904年(明治37年)3月9日 - 1999年(平成11年)1月31日)は、日本の官僚。官選山形県知事、衆議院法制局長。旧姓・妹川。位階は正三位。 福岡県福岡市出身。妹川将雄の四男として生まれ三浦良幹の婿養子となる。第五高等学校を経て、1929年、東京帝国大学法学部法律学科を卒業。前年10月、高等試験行政科試験に合格。 1929年、内務省に入り愛知県属となる。以後、茨城県学務課長などを務め、宮内省に転じた。帝室林野局庶務課長、宮内省参事官、内匠寮監理、内蔵寮用度、大膳寮庶務、主馬寮庶務、宮内省大臣官房連絡事務室長などを歴任。 福島県内務部長を経て、1946年10月、山形県知事に就任し1947年3月まで在任。
藤田 健治(ふじた けんじ、1904年3月8日 - 1993… 藤田 健治(ふじた けんじ、1904年3月8日 - 1993年10月10日)は、日本の哲学者。文学博士(東京大学・論文博士・1961年)。お茶の水女子大学名誉教授。 東京出身。東京帝国大学哲学科卒。成城高等学校教授、戦後お茶の水女子大学助教授、1950年、教授。1961年、「十九世紀後半欧州哲学思想史の研究」で東京大学より文学博士の学位を取得。1964年から1968年まで、お茶の水女子大学学長。筑波大学参与。1978年、放送教育開発センター所長、1981年、放送大学学園初代理事長。 シェリング、ニーチェを研究し著書多数。著作集全7巻がある。 ギリシア古典に興味を抱いたきっかけは旧制第一高等学校の岩元禎教授によるものであるという。
西村 栄一(にしむら えいいち、旧字:西村榮一、1904年(… 西村 栄一(にしむら えいいち、旧字:西村榮一、1904年(明治37年)3月8日 - 1971年(昭和46年)4月27日)は、日本の政治家。衆議院議員(11期)、民社党委員長(第2代)、同党書記長。富士社会教育センター創設者。正三位勲一等。 衆議院議員であった西村眞悟は四男、西村章三は甥。 貧しい農家の生まれで、小学校を出ると上海のフランス高等学院に学ぶ。大阪に帰って保険会社の給仕となり、31歳で大阪支店長。1931年(昭和6年)、全国労農大衆党中央委員。 1933年(昭和8年)堺市議。全国サラリーマン組合を結成したが半年で官憲の解散命令。1946年(昭和21年)戦後初の総選挙で衆院議員に当選、社会党河上派に属し、1948年(昭和23年)芦田内閣の経済安定政務次官。
熊谷 久虎(くまがい ひさとら、1904年3月8日 - 19… 熊谷 久虎(くまがい ひさとら、1904年3月8日 - 1986年5月22日)は、日本の映画監督。代表作に『蒼氓』 『阿部一族』『上海陸戦隊』などがある。女優の原節子は義妹(妻の妹)である。 大分県中津市に生まれる。大分高等商業学校卒業。1925年に日活入社。大将軍撮影所で田坂具隆の助監督につく。1930年に『恋愛競技場』で監督デビューする。1935年に多摩川撮影所へ移る。1938年に東宝映画へ移籍する。1941年の『指導物語』以降、映画界から離れ、国粋主義思想団体「スメラ学塾」を作り、教祖に近い存在で、学塾内に劇団太陽座を結成する。敗戦前に、九州独立運動を起こし、のち火野葦平の『革命前後』に描かれた。
築地 俊龍(つきじ しゅんりゅう、1904年3月7日 - 1… 築地 俊龍(つきじ しゅんりゅう、1904年3月7日 - 1972年11月13日)は、日本の野球選手である。 秋田県馬川村久保(後の秋田県五城目町久保)にある自性院(じしょういん)の住職であった父龍明、母ヨシの長男として生まれる。幼名は龍夫(たつお)といったが、寺を継がせたいという父親の意向で小学校卒業のころに俊龍と改名した。 子供のころは川原で石投げ遊びをしていると誰よりもと奥まで石を投げることができたという強肩の片鱗を見せていた。1918年に県立秋田中学校(後の秋田県立秋田高等学校)に入学。180センチ近い身長で頑健な体格から多くの運動部の勧誘を受ける中、遠投力を見込まれて野球部に入部。1922年に仙台市で行われた東北中学校野球大会では、秋田中学校のエースピッチャーとして決勝までの5試合を一人で投げ抜いて同校を優勝に導き、東北から唯一の全国大会への出場権を得た。
岡田 實(おかだ みのる、1904年3月7日 - 1997年… 岡田 實(おかだ みのる、1904年3月7日 - 1997年6月15日)は、日本の冶金学者。位階は正三位。 プラズマ研究や超高電圧電子顕微鏡の開発で大きな業績を残した。また、大阪大学総長を務めている。 香川県仲多度郡多度津町出身。1930年に東北帝国大学(現・東北大学)金属工学科を卒業後、大阪帝国大学(現・大阪大学)工学部に赴任した。同学部で助教授、教授などを務め、1966年には総長に就任した。この間、溶接工学研究所の設立などに貢献し、1945年から1949年並びに1954年から1955年まで溶接学会会長、研究面では1963年に島津製作所との共同研究で500kVの高電圧電子顕微鏡を開発した。さらに日立製作所と共同で3000kVの電子顕微鏡を作製し、1971年に大阪大学超高電圧電顕センターに設置された。