石川 愛(いしかわ あい、1894年〈明治27年〉9月3日 … 石川 愛(いしかわ あい、1894年〈明治27年〉9月3日 - 1990年〈平成2年〉7月7日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功三級。 埼玉県出身。旧制熊谷中学を経て、1915年(大正4年)、陸軍士官学校第27期卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第7連隊付となる。1927年(昭和2年)、陸軍大学校第39期卒業。 1937年(昭和12年)8月に陸軍士官学校航空兵科教官を経て、1938年(昭和13年)3月に陸軍航空兵大佐に進級。支那事変が勃発すると同年10月に第4飛行団参謀および1939年(昭和14年)1月に第21軍参謀を兼職し、ついで同年5月に第21独立飛行隊長を務めた。翌年、1940年(昭和15年)8月に陸軍航空士官学校教授部長を経て、1941年(昭和16年)10月に陸軍少将に進級。
正田 卯平(しょうだ うへい、1894年〈明治27年〉9月3… 正田 卯平(しょうだ うへい、1894年〈明治27年〉9月3日 - 1979年〈昭和54年〉)は、日本の実業家、政治家。前名は茂三郎。群馬県購連理事。群馬県自動車合同副社長。群馬県石油配給、館林航器各取締役。前橋日産モーター取締役会長。町会議員。正田卯平商店。雑貨商。米屋、荒物商。 群馬県邑楽郡館林町(現・館林市)出身。卯平の二男。前名・茂三郎を改め襲名した。早大商科修業。父業に従事した。町学務委員、館林信組理事であった。1949年(昭和24年)館林商工会議所会頭に就任。館林交通安全協会会長も務めた。 宗教は浄土宗。趣味はスポーツ、柔道。住所は館林谷越。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
町田 三郎(まちだ さぶろう、1894年〈明治27年〉9月3… 町田 三郎(まちだ さぶろう、1894年〈明治27年〉9月3日 - 1975年〈昭和50年〉9月30日)は、日本の政治家。日本社会党衆議院議員(1期)。渋川市長(2期)。 群馬県渋川市出身。父は米穀商で渋川町長もつとめた町田久三郎。1913年(大正2年)慶應義塾商工学校卒。翌年慶應義塾大学中退。 1920年(大正9年)から太平洋戦争中まで丸久組製糸所を経営した。1933年(昭和8年)渋川町会議員となり、1936年(昭和11年)から渋川町長を務めた。 生糸製造業に従事し、上毛精機、渋川製作所各(株)を創立し、社長となり、太平工業、吉野組製糸所、町田織物、東京建鉄各(株)の社長となる。群馬商工経済会理事も務める。
岡本 忠(おかもと すなお、1894年9月1日 - 1955… 岡本 忠(おかもと すなお、1894年9月1日 - 1955年9月2日)は、日本の実業家。学生時代よりテニス選手として活躍し、デビスカップやオリンピックに日本代表として出場した。 岡山県赤磐郡瀬戸町大字瀬戸(現在の岡山市東区)生まれ。津山中学校(現・岡山県立津山中学校・高等学校)を経て、東京高等商業学校(現在の一橋大学)に入学。学生時代からテニス選手として活躍した。 1917年(大正6年)、東京高等商業学校を卒業し、三井物産に入社した。 1921年(大正10年)、清水善造・鳥羽貞三と共に、皇居内コートでの初の「御前試合」に参加。 1924年パリオリンピックでは、日本代表選手4人のうちの1人で、男子シングルス (singles) と男子ダブルス (doubles) で出場。
上野 三郎(うえの さぶろう、1894年〈明治27年〉9月 … 上野 三郎(うえの さぶろう、1894年〈明治27年〉9月 - ?)は、日本の実業家。 栃木県宇都宮市生まれ。肥料商、栃木県多額納税者・上野松次郎の三男。1921年、慶應義塾大学部理財科卒業。 藤本ビルブローカー本店東京支店各勤務。下野製紙取締役東京支店長、三和製紙、旭土地各取締役をつとめる。 五代上野松次郎の三男、六代上野松次郎の弟である。1928年、分家した。趣味は洋画、登山、書道。宗教は曹洞宗。東京府在籍で、住所は東京市本郷区駒込上富士前町。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
木崎 為之(爲之、きざき ためゆき、1894年(明治27年)… 木崎 為之(爲之、きざき ためゆき、1894年(明治27年)9月1月 - 1980年(昭和55年)10月15日)は、日本の弁護士、政治家、右翼活動家。衆議院議員。旧姓・伊賀。 兵庫県菟原郡本山村(武庫郡本山村を経て現神戸市東灘区本山)で、伊賀平内左衛門の二男として生まれ木崎新逸の養子となる。1920年(大正9年)東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業した。 1921年(大正10年)から1923年(大正12年)女子学習院(現学習院女子大学)教授を務めた。1924年(大正13年)大阪市で弁護士を開業。 1940年(昭和15年)10月、大日本翼賛壮年団総務に就任。則天塾から1942年(昭和17年)4月、第21回衆議院議員総選挙に兵庫県第5区から翼賛政治体制協議会の推薦を受け出馬して当選し翼賛政治会に参加し、その後、無所属倶楽部に所属して衆議院議員を1期務めた。
泉 甲二(いずみ こうじ、1894年8月31日 - 1980… 泉 甲二(いずみ こうじ、1894年8月31日 - 1980年11月10日)は、日本の歌人、美術評論家。本名は山田 邦祐。 福岡県福岡市田島に生まれる。1915年福岡県立中学修猷館を経て、1920年早稲田大学文学部英文科を卒業し、研究社に入社。在学中の1917年から北原白秋に師事している。 戦後、「婦人画報」編集局に移り、1935年白秋の歌誌「多磨」創刊に参加、のち編集に従事。1953年に同誌が終刊後、中村正爾の歌誌「中央線」創刊に参加。 本名名義で美術書も出版した。
依光 好秋(よりみつ よしあき、1894年8月29日 - 1… 依光 好秋(よりみつ よしあき、1894年8月29日 - 1968年1月10日)は、日本のジャーナリスト・政治家。衆議院議員総選挙に通算3回当選した。 依光重義の三男として高知県幡多郡奥内村(現・大月町)泊浦に生まれた。芳の沢小学校を卒業した後弘見小学校高等科に入学、同校卒業後は高知県立第三中学校(現・高知県立中村中学校・高等学校)に入学した。県立三中の4年次を修了後専修大学政治経済科に入学し、同大学卒業後読売新聞社に入社し、のちに同社政治部長に就任した。1927年12月に時の内閣総理大臣・田中義一の内閣書記官長だった鳩山一郎らに認められ、朝鮮総督・山梨半造の秘書官に就任。だが山梨の側近らと意見が合わず秘書官を辞して帰郷。
野元 為輝(のもと ためき、1894年(明治27年)8月29… 野元 為輝(のもと ためき、1894年(明治27年)8月29日 - 1987年(昭和62年)12月19日)は、日本の海軍軍人。第二次ソロモン海戦、南太平洋海戦に空母・「瑞鶴」艦長として参戦した。最終階級は海軍少将。
永野 芳夫(ながの よしお、1894年8月29日 - 196… 永野 芳夫(ながの よしお、1894年8月29日 - 1967年12月22日)は、日本の哲学・教育学者、広島大学名誉教授。 大分県生まれ。東京帝国大学哲学科卒。大正大学教授、広島大学教授、1950年「デューイ教育学の基本諸原理」で広島大文学博士。1958年定年退官、玉川大学教授。1957年日本デューイ学会初代会長。笹山三次の名で蘭の研究もおこない、日本蘭協会会長。
鋳方 末彦(いかた すえひこ、1894年8月27日 - 19… 鋳方 末彦(いかた すえひこ、1894年8月27日 - 1976年9月10日)は、日本の植物病理学者。学位は、農学博士(九州大学・論文博士・1941年)。 熊本県下益城郡小野部田村(現・宇城市)生まれ。八代中学校(後の熊本県立八代中学校・高等学校の前身のひとつ)卒業。 1916年(大正5年)鹿児島高等農林学校卒業。農商務省福岡県農事試験場、岡山県農事試験場を経て農林省農事試験場技師に。「小麦条斑病に関する研究」で日本農学会賞を受賞。1941年(昭和16年)には、「柿の重要寄生性病害に関する病理並びに治病学的研究」で、九州大学より農学博士の学位を授与される。更に「いもち病防除に関する試験研究」で富民協会賞、「小麦縞萎縮病に関する研究」等で農林大臣賞受賞、など多くの賞に輝く。
今田 恵(いまだ めぐみ、1894年8月26日 - 1970… 今田 恵(いまだ めぐみ、1894年8月26日 - 1970年11月25日)は、心理学者・哲学者、文学博士。関西学院大学名誉教授。関西学院第6代院長。ウィリアム・ジェームズの研究で知られる。山口県佐波郡三田尻村(現・防府市)生まれ。子は今田寛。 1917年、関西学院神学部卒業後、カナダのメソヂスト教会の牧師を兼ねつつ、1922年東京帝国大学文学部心理学科卒業。同年、関西学院専門部文学部教授。1929年からアメリカ、イギリスに留学。1934年、関西学院大学法文学部開設に伴って教授となり、1940年、法文学部長に就任。1946年、関西学院大学文学部長。1950年、初の公選による関西学院院長(第6代院長)に選任される。
佐々木 達治郎(ささき たつじろう、1894年(明治27年)… 佐々木 達治郎(ささき たつじろう、1894年(明治27年)8月25日 - 1973年(昭和48年)10月19日)は、日本の陸軍軍人、物理学者。最終階級は陸軍少将。理学博士。 岡山県西北条郡津山町 (現津山市)出身。佐々木清十郎の長男として生まれる。津山中学校(現岡山県立津山中学校・高等学校)を経て、1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業し、同年12月、砲兵少尉に任官し野砲兵第13連隊付となる。1918年(大正7年)11月、陸軍砲工学校高等科(24期)を卒業。野砲兵第11連隊大隊副官を経て、1919年(大正8年)9月から1922年(大正11年)3月まで陸軍派遣学生として東京帝国大学理学部物理学科で学んで卒業した。
上田 保(うえだ たもつ、1894年(明治27年)8月25日… 上田 保(うえだ たもつ、1894年(明治27年)8月25日 - 1980年(昭和55年)6月6日)は、日本の弁護士、政治家で、初代~第4代大分市長(在任:1947年(昭和22年)4月7日 - 1963年(昭和38年)3月9日)。大分市名誉市民でもある。 1894年(明治27年)8月25日、上田庫蔵・カネ夫妻の三男として大分県大分郡豊府村(現大分市畑中)に生まれる。上京し、和仏法律学校(現・法政大学)法律科で学び、27歳の時に弁護士試験に合格する。その8年後の1929年(昭和4年)に法律案内書「趣味の法律」を出版しベストセラーとなる。 戦時中に大分に引き揚げ、1947年(昭和22年)に初代の公選大分市長に当選し、連続4期務めた。
中野 与吉郎(なかの よきちろう、1894年〈明治27年〉8… 中野 与吉郎(なかの よきちろう、1894年〈明治27年〉8月24日 - 没年不明)は、日本の内務・警察官僚。弁護士。官選県知事。旧姓・住田。 滋賀県出身。第三高等学校を卒業。1919年10月、高等試験行政科試験に合格。1920年、東京帝国大学法科大学を卒業。内務省に入省し大阪府属兼大阪府警部となる。 以後、島根県書記官・学務部長、群馬県書記官・警察部長、福井県書記官・警察部長、宮城県書記官・警察部長、内務書記官兼警察講習所教授、警保局警務課長、神奈川県書記官・総務部長、内務省土木局河川課長などを歴任。 1937年11月、福井県知事に就任。戦時体制の整備、結核撲滅に尽力。1939年4月、内務省神社局長兼造神宮副使に転じた。
澤田 政廣(さわだ せいこう、1894年〈明治27年〉8月2… 澤田 政廣(さわだ せいこう、1894年〈明治27年〉8月22日- 1988年〈昭和63年〉5月1日)は、日本の彫刻家。静岡県熱海市生まれ。本名は寅吉。日本彫塑会名誉会長。 1894年(明治27年)に澤田小兵衛と妻とくの三男として静岡県熱海町(現在の熱海市)に生まれる。幼年期に実家は「亀屋」という屋号で廻船業を営み、少年期には製材業を営んでいた。 1913年(大正2年)、旧制静岡県立韮山中学校(現在の静岡県立韮山高等学校)を中退後、澤田の遠縁で高村光雲の高弟でもある山本瑞雲を頼って上京し内弟子となる。1918年(大正7年)東京美術学校彫刻科別科卒業。その後仏像彫刻を行う。 1931年(昭和6年)帝展審査員となる。
飯田 清三(いいだ せいぞう、1894年8月22日 - 19… 飯田 清三(いいだ せいぞう、1894年8月22日 - 1976年9月24日)は、日本の実業家。野村證券第2代社長。 鹿児島県出身。1919年東京帝国大学卒業。野村證券常務取締役を経て、1940年野村證券専務取締役。1941年9月から1947年8月まで野村證券社長を務め、本店の東京移転などを行った。1942年野村信託取締役。1944年野村銀行取締役。1945年野村生命保険監査役。その後公職追放となり、1950年(昭和25年)に追放解除。1976年(昭和51年)に死去。墓所は多磨霊園。
田中 徳次郎(たなか とくじろう、1894年〈明治27年〉8… 田中 徳次郎(たなか とくじろう、1894年〈明治27年〉8月20日 - 1992年〈平成4年〉7月9日)は、日本の実業家。東京海上火災保険社長、日本損害保険協会会長などを歴任した。 群馬県西群馬郡高崎町(現高崎市)出身。1913年群馬県高崎中学校(現群馬県立高崎高等学校)卒業。1917年東京高等商業学校(現一橋大学)本科卒業。一橋基督教青年会出身。同年三菱合資入社。1935年三菱海上火災保険大阪支店長。1944年東京海上火災保険取締役。1947年東京海上火災保険社長。1948年日本損害保険協会会長。1952年海運造船合理化審議会委員、国際電信電話設立委員。1953年三菱銀行取締役。1955年日本海外移住振興設立委員、自動車損害賠償責任保険審議会委員。
藤岡 長敏(ふじおか ながとし、1894年(明治27年)8月… 藤岡 長敏(ふじおか ながとし、1894年(明治27年)8月19日 - 1965年(昭和40年)2月21日)は、日本の内務・警察官僚、弁護士。官選県知事。 奈良県宇智郡北宇智村近内(現在の五條市)出身。北宇智村長・藤岡長二郎の三男として生まれる。奈良県立五條中学校(現奈良県立五條高等学校)を経て、第三高等学校を卒業。 1920年、京都帝国大学法学部法律学科を卒業。内務省に入省し京都府属となる。同年10月、高等試験行政科試験に合格。 以後、警視庁警視、広島県書記官・学務部長、鹿児島県書記官・警察部長、静岡県書記官・警察部長、北海道庁部長・警察部長、東京府総務部長、警視庁警務部長などを歴任。 1938年2月、香川県知事に就任。
伊藤 卯四郎(いとう うしろう、1894年8月19日 - 1… 伊藤 卯四郎(いとう うしろう、1894年8月19日 - 1974年5月1日)は、大正、昭和時代の労働運動家・政治家。位階は従三位、勲等は勲一等。衆議院議員(9期)。衆議院鉱工業委員長、民社党中央執行副委員長。 長崎県南高来郡有明町(現島原市)出身。島原尋常高等小学校卒。東洋哲学塾に学ぶ。 その後は北海道に渡り、炭鉱夫として働く。労働運動に身を投じ、1920年歌志内炭坑労働組合組合長となる。1922年長崎県に移り、日本労働総同盟南九州連合会を結成する。1928年福岡県に移り、八幡製鉄所労働組合顧問となり、労働運動を指導する。社会民衆党福岡県連書記長、福岡県会議員を2期務めた。 戦後は日本社会党結党に参加。
生方 誠(うぶかた せい、1894年〈明治27年〉8月17日… 生方 誠(うぶかた せい、1894年〈明治27年〉8月17日 - 1978年〈昭和53年〉10月6日)は、日本の薬剤師、政治家、行政委員。群馬県利根郡沼田町(現:沼田市)出身。群馬県会議員、沼田町長、国家公安委員、群馬県薬剤師会会長、群馬県町村長会長などを務めた。妻は歌人の生方たつゑ、長女は料理研究家の生方美智子。 1894年(明治27年)、沼田町上之町の老舗薬種商「かどふぢ(角藤)」を営む生方弥右衛門の長男として生まれる。1910年(明治43年)旧制前橋中学校利根分校(現・群馬県立沼田高等学校)を修了し、1912年(明治45年)同本校(現・群馬県立前橋高等学校)を卒業。1916年(大正5年)に千葉医学専門学校薬学科(現:千葉大学薬学部)を卒業した。
近藤 伊與吉(こんどう いよきち、1894年〈明治27年〉8… 近藤 伊與吉(こんどう いよきち、1894年〈明治27年〉8月17日 - 1944年〈昭和19年〉)は、日本の俳優、脚本家、映画監督である。村田実らの起こした新劇の劇団「踏路社」を振り出しに、映画俳優になり、映画も監督し、無声映画時代のスター俳優となったことで知られる。 1894年、新潟県佐渡に生まれる。 その後上京し、1917年2月17日に村田実、青山杉作、関口存男、木村修吉郎らの起こした新劇の劇団「踏路社」(1917年 - 1920年)に参加し、俳優として舞台を踏む。1919年、25歳のとき、「天然色活動写真」(天活)の社員であり映画理論家として知られる帰山教正の「映画芸術協会」設立に、村田実、青山杉作らとともに参加、設立第一作『深山の乙女』および『生の輝き』にそろって出演する。
石田 幸太郎(いしだ こうたろう、1894年8月15日 - … 石田 幸太郎(いしだ こうたろう、1894年8月15日 - 1987年6月6日)は、日本の英文学者、ノートルダム女子大学名誉教授。 京都府出身。1919年(大正8年)京都帝国大学英文学科を卒業後、万朝報の記者を務める。その後、梅花女子専門学校教授、国民社編集長を経て立命館大学教授。さらにノートルダム女子大学教授を務めた。英文学、比較文学の研究を行った。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
那須 政隆(なす せいりゅう、1894年(明治27年)8月1… 那須 政隆(なす せいりゅう、1894年(明治27年)8月15日 - 1987年(昭和62年)5月31日)は、日本の仏教学者。専門は密教。大正大学学長、同大名誉教授、智積院化主(真言宗智山派管長)及び真言宗長者。愛知県龍照院住職。 この項目は、仏教に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル 仏教/ウィキプロジェクト 仏教)。 この項目は、宗教家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル 宗教/ウィキプロジェクト 宗教)。
長井 源(ながい げん、1894年(明治27年)8月13日 … 長井 源(ながい げん、1894年(明治27年)8月13日 - 1966年(昭和41年)9月19日)は、日本の政治家、弁護士。三重県飯南郡粥見町(現松阪市)出身。戦前の大日本帝国の帝国議会の民政党衆議院議員。戦後の日本進歩党・改進党・日本民主党・自由民主党の衆議院議員。 三重師範学校(現在の三重大学)を卒業した。三重県内の尋常小学校の教員を経て、法律を学ぶため1923年(大正12年)明治大学法学部法律学科を卒業した。高等文官試験をパス(合格)した。衆議院議員に初当選する前のキャリアとして、弁護士、松阪市会議員、三重県会議員、第33代三重県会副議長(昭和8年11月~昭和10年10月在任)を務めた。
寺崎 覚(本姓:寺﨑 覺、てらさき さとる、1894年(明治… 寺崎 覚(本姓:寺﨑 覺、てらさき さとる、1894年(明治27年)8月13日 - 1984年(昭和59年)2月2日)は、昭和期の農民運動家、政治家。衆議院議員、久留米市功労者。 福岡県久留米市津福本町で生まれる。 久留米市鳥飼産業組合理事、同鳥飼農業会長、久留米市農地委員会長、福岡県農村青年連盟久留米地区委員長、久留米市鳥飼農業協同組合理事などを務めた。 1947年(昭和22年)4月の第23回衆議院議員総選挙に福岡県第3区から出馬して初当選。1949年(昭和24年)1月の第24回総選挙で再選され、衆議院議員に連続2期在任した。この間、日本農民党情報部長などを務めた。 その後、久留米市教育委員会委員長に就任した。
城戸 四郎(きど しろう、1894年8月11日 - 1977… 城戸 四郎(きど しろう、1894年8月11日 - 1977年4月18日)は、日本の映画プロデューサー。元松竹会長。現在の松竹社長迫本淳一は孫。
岩崎 民男(いわさき たみお、1894年(明治27年)8月8… 岩崎 民男(いわさき たみお、1894年(明治27年)8月8日 - 1978年(昭和53年)1月30日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 山口県出身。農業・岩崎孝の長男として生まれる。萩中学校、広島陸軍地方幼年学校、陸軍中央幼年学校本科を経て、1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第20連隊付となる。1922年(大正11年)11月、陸軍大学校(34期)を卒業した。 1923年(大正12年)12月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員を経て、1926年(大正15年)3月、陸軍兵器本廠付となり陸軍派遣学生として東京帝国大学法学部で学ぶ。1929年(昭和4年)3月、陸軍技術本部付兼陸軍省官房付に発令され、兵器本廠付(陸軍省調査班)に転じた。
平 貞蔵(たいら ていぞう、1894年8月7日 - 1978… 平 貞蔵(たいら ていぞう、1894年8月7日 - 1978年5月28日)は、日本の思想家。新人会、昭和研究会に参加。昭和塾を設立。 山形県東置賜郡佐沢村(現在の長井市上伊佐沢)に平八蔵の二男として生まれる。米沢中学校、第三高等学校を経て、東京帝国大学法学部政治学科卒業。東京帝大の新人会に所属。 佐々弘雄の紹介で、奉天において後藤隆之助らに会い、これが縁で昭和研究会の支那問題研究会に参加することになり、多くの軍人と接触した。ソ連旅行中の宮本百合子と会っている(「道標」) 1926年〜1928年、1931年から1933年にかけ、法政大学図書館館長に就任。 昭和13年(1938年)5月に大山岩雄とともに中支視察のため上海へ赴き、6月に野田清海軍少将らと現地視察談を昭和研究会で発表。
沢田 一郎(さわだ いちろう、1894年8月7日 - 198… 沢田 一郎(さわだ いちろう、1894年8月7日 - 1984年2月3日、享年89)は、元日本オリンピック委員会名誉委員、元ヤナセ常務。
石井 悌(いしい てい、1894年8月6日 - 1959年1… 石井 悌(いしい てい、1894年8月6日 - 1959年11月19日)は、日本の昆虫学者。学位は、農学博士(東京大学・論文博士・1932年)。 神奈川県出身。東京帝国大学農科大学実科卒。農商務省入省、農事試験場技手、1932年、「日本産跳小蜂亜科ニ関スル研究(英文) 」で、東京大学より農学博士の学位を取得。1935年東京高等農林学校(現東京農工大学)教授。のち日本植物防疫協会常務理事・研究所長、日本応用動物昆虫学会評議員・会計監査。病害虫防除、農業昆虫や寄生バチの研究を行った。
井上 武士(いのうえ たけし、1894年〈明治27年〉8月6… 井上 武士(いのうえ たけし、1894年〈明治27年〉8月6日 - 1974年〈昭和49年〉11月8日)は、日本の作曲家。東京音楽大学教授。群馬県勢多郡芳賀村(現・前橋市)出身。代表作は「チューリップ」「海」。作曲数は約500曲とも200曲以上ともされ、日本音楽史上に残る数々の唱歌・童謡の作品を遺した。上記2曲は日本の歌百選に選ばれている。 日本教育音楽協会会長・全日本児童音楽連盟会長などの要職を歴任。各地の学校の校歌作曲にも多く携わった。 戦後は、新宿区戸山町の戸山ハイツに居住。活動の傍ら地元の東戸山小学校PTAコーラスの指導も行っていた。 死後の1975年(昭和50年)、生前の業績をたたえて、母校の群馬大学に群馬大学教育学部同窓会と群馬県音楽教育協会によって石碑が建立された。
石田 千太郎(いしだ せんたろう、1894年(明治27年)8… 石田 千太郎(いしだ せんたろう、1894年(明治27年)8月5日 - 没年不詳)は、日本の逓信官僚、政治家。朝鮮総督府逓信局長、愛知県議会議員(5期)、朝鮮石炭株式会社社長などを歴任した。 愛知県丹羽郡犬山町(現在の犬山市)出身。1914年(大正3年)、逓信官吏練習所を卒業し、通信書記補、逓信属を務めた。1921年(大正10年)11月、高等試験行政科に合格し、翌年に朝鮮総督府属となった。同理事官、平安北道地方課長、同秘書課長、林野調査委員会事務官、江原道警察部長、平安南道警察部長、慶尚南道警察部長、殖産局鉱山課長を歴任。1938年(昭和13年)、平安南道知事に就任し、さらに厚生局長を経て、1942年(昭和17年)に逓信局長となった。
能勢 克男(のせ かつお、1894年8月2日 - 1979年… 能勢 克男(のせ かつお、1894年8月2日 - 1979年6月17日)は、日本の思想家、社会運動家。同志社大学法学部教授、弁護士、京都家庭消費組合、京都洛北生活共同組合(現・京都生活協同組合)初代理事長。 1894年8月2日、裁判官である父・能勢萬、国分三亥の妹である母・三美の長男として仙台片平町の裁判所官舎に生まれる。仙台第一中学校、第二高等学校を経て、1919年東京帝国大学法学部を卒業。古河合名会社に入社後、遠縁の海老名弾正、宮川経輝の紹介により1922年に同志社大学講師、1924年同教授。賀川豊彦、杉山元治郎、中島重の指導で行われていた「同志社労働者ミッション」の一環である同志社消費組合に参加、1927年柳宗悦らと上賀茂民芸協団設立。
射場 保昭(いば やすあき、1894年(明治27年)8月2日… 射場 保昭(いば やすあき、1894年(明治27年)8月2日 - 1957年(昭和32年)4月24日)は、日本の実業家、アマチュア天文家。 資産に恵まれた貿易商であり、1928年に神戸市の自宅に私設天文台「射場天体観測所」を開設。1930年代前半には欧米の天文学者と活発な交流を行った。藤原定家の日記『明月記』に残された「客星」(超新星など)の出現記録を、海外に紹介した人物である。 明治時代における日本有数の肥料輸入・販売会社「鈴鹿商店」の創業者・鈴鹿保家の嫡男として、1894年(明治27年)8月2日に東京・深川に生まれる。幼名は「鈴鹿 醇」。久松小学校の高等科を1年飛び級で卒業し、1907年に京華中学校に入学するも、間もなくオーストラリアに留学した。
雑賀 愛造(さいが よしぞう、明治27年(1894年)8月 … 雑賀 愛造(さいが よしぞう、明治27年(1894年)8月 - 昭和55年(1980年)5月)は日本の弁護士、公証人。旧姓稲田。 洋食のレストラン“十字屋”を経営し、市会議員をつとめた野坂康久(旧姓稲田)の実弟。日本商工会議所会頭、王子製紙社長などを歴任した足立正の足立家と雑賀家は姻戚関係にある。次女春子は元・丸神海産取締役社長石指集三の妻。 鳥取県米子市出身。酒造業稲田家に生まれ、雑賀家の婿養子になる。義父雑賀啓次郎は弁護士で県議をつとめた。 米子中学(現米子東高校)、岡山の第六高等学校を経て大正9年(1920年)東京帝国大学法科卒業、王子製紙に入社する。当時の社長は藤原銀次郎、工場長は足立正で、足立家と雑賀家は姻戚関係にあり義父のすすめによったものという。
7代 野田 六左衛門(のだ ろくざえもん、1894年(明治2… 7代 野田 六左衛門(のだ ろくざえもん、1894年(明治27年)8月 - 1989年(平成元年)8月17日)は、明治から昭和時代の政治家。実業家。貴族院多額納税者議員。前名は文二。 滋賀県出身。先代六左衛門の二男。1902年に先代六左衛門が買収した今津酒造を子供ながら事業承継。1915年(大正4年)滋賀県立八幡商業学校(現・滋賀県立八幡商業高等学校)卒業、のち慶應義塾大学に進んだ。 1924年(大正13年)以降、野田酒造代表取締役、滋賀県地方木材社長、日野町耕地整理組合長、日野町会議員、同学務委員などを歴任した。 1939年(昭和14年)滋賀県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで務めた。
内ヶ崎 昇(うちがさき のぼる、1894年(明治27年)7月… 内ヶ崎 昇(うちがさき のぼる、1894年(明治27年)7月31日 - 1976年(昭和51年)5月23日)は、日本の政治家。宮城県富谷村長(2期)。 宮城県黒川郡富谷村(のち富谷町、現・富谷市)出身。富谷高等小学校卒。農業に従事する。1921年(大正10年)富谷村会議員に当選。1923年(大正12年)富谷村助役を経て、1929年(昭和4年)7月富谷村長に就任した。 村長時代は宮城県町村会副会長、県農会代議員や耕地整理組合長に就任。村長は1937年(昭和12年)6月まで務めた。 戦後の1947年(昭和22年)富谷村議会議員選挙に立候補し、当選、議員を1967年(昭和42年)まで5期20年務めた。
中川 与之助(なかがわ よのすけ、1894年7月30日 - … 中川 与之助(なかがわ よのすけ、1894年7月30日 - 1968年8月1日)は、日本の経済学者、元京都帝国大学教授。文学博士。ナチス研究により戦後公職追放された。川田順の「老いらくの恋」騒動の当事者の一人。 富山県上新川郡熊野村江本(現:富山市江本)の農家、中川滋次郎・チイ夫妻の次男に生まれる。苦学して特待生で東京高等師範学校に入学、卒業後、奈良県郡山中学校(現・奈良県立郡山高等学校)で教師をしたあと、1924年に京都帝国大学経済学部卒業、大学院に進み、30歳の時に下宿先の娘鈴鹿俊子(17歳)と結婚、一男二女を儲ける。 1928年に大学院を中退して京大講師となり、1930年助教授、1931年から1933年まで文部省の辞令によりドイツ留学、1943年教授。
工藤 昭四郎(くどう しょうしろう、1894年7月30日 -… 工藤 昭四郎(くどう しょうしろう、1894年7月30日 - 1977年10月13日)は、日本の官僚、実業家。日本興業銀行大阪支店長、大蔵省物価部長、復興金融金庫理事長、東京都民銀行頭取、経済同友会代表幹事などをつとめた。従三位勲一等瑞宝章。 1894年 徳島県 徳島市に生まれる。旧制徳島中学校、 第六高等学校を経て1921年に東京帝国大学法学部卒業。卒業後、日本興業銀行に入行、参事、調査部長、融資第四部長と昇進し、終戦時は大阪支店長であった。 1945年 大蔵省物価部長に転じ、翌年2月16日から相次いで実施された預金封鎖、財産税徴収、国家補償の全面打ち切り、米の強制供出、隠退蔵物資の強制買い上げ、失業対策など一連の非常措置の実施を主となって行い、成果を上げた。
前田 和三郎(まえだ わさぶろう、1894年〈明治27年〉7… 前田 和三郎(まえだ わさぶろう、1894年〈明治27年〉7月28日 - 1979年〈昭和54年〉8月17日)は、日本の整形外科医、医学博士、慶応義塾大学教授。 大阪市出身。1920年京都帝国大学医学部卒。卒業後は同大学の副手となる。1922年に助手となり、翌年同大学院に入り、1925年学位を受け、講師となる。1926年熊本医大(現・熊本大学医学部)教授兼整形外科医長となり、1928年慶應義塾大学医学部教授兼整形外科教室主任。1948年医師国家試験委員。1951年立川病院長も兼任した。この間文部省在外研究員として欧米に留学。日本外科学会、日本整形外科学会、日本胸部外科学会、麻酔学会の各会長を務めた。
古谷 専三(ふるや せんぞう、1894年7月27日 - 19… 古谷 専三(ふるや せんぞう、1894年7月27日 - 1991年9月6日)は、日本の英文学者。 神奈川県出身。旧制厚木中学校卒、教員検定試験合格、早稲田大学中退、日本大学文理学部卒、小学校・中学校教員、私塾経営をへて1942年日本大学助教授、教授、1959年「Studies in George Eliot’s realism」で日大文学博士。64年定年、1966年帝京大学文学部教授、文学部長。三男は英文学者の古谷三郎。ジョージ・エリオットが専門。
田岡 嘉寿彦(たおか かずひこ、1894年7月27日 - 1… 田岡 嘉寿彦(たおか かずひこ、1894年7月27日 - 1985年7月21日)は、日本の弁護士・法学者。専門は私法学。大阪経済大学元理事長、同名誉教授。 1894年(明治27年)香川県三野郡上高瀬村(現 三豊市高瀬町)に生まれる。旧制香川県立三豊中学校、旧制第三高等学校を経て、1915年(大正4年)京都帝国大学法律科入学、1918年(大正7年)に卒業し司法官試補となる。1920年(大正9年)大阪地方裁判所判事に任官。1922年(大正11年)学界に転じ大分高等商業学校教授に就任、法律学を担当。翌1923年(大正12年)よりイギリス・ドイツに留学する。1929年(昭和4年)彦根高等商業学校に転任し民法、商法などを講じた。
渡邉 健(わたなべ けん、1894年〈明治27年〉7月27日… 渡邉 健(わたなべ けん、1894年〈明治27年〉7月27日 - 1952年〈昭和27年〉3月31日)は、日本の政治家・医師。衆議院議員(2期)。 茨城県出身。渡邉賢次郎の長男として生まれる。1917年千葉医学専門学校(現在の千葉大学医学部)卒。卒業後は陸軍軍医となる。橋田病院に勤務し、独立して1922年に内科医院を開業する。この他茨城県議、東茨城郡渡里村(現在の水戸市)長、同在郷軍人会分会長、同農会長などを歴任する。また、上海事変に従軍し、支那派遣軍への慰問歴もある。 1940年1月、第20回衆議院議員総選挙茨城県第1区の再選挙で衆議院議員に当選。次の1942年の第21回衆議院議員総選挙には翼賛政治体制協議会(翼協)の推薦を受けて再選。
黒澤 潤三 (くろさわ じゅんぞう、1894年7月27日 -… 黒澤 潤三 (くろさわ じゅんぞう、1894年7月27日 - 1966年9月10日)は、日本の医師。第9代日本医師会会長。 埼玉県野上村(現長瀞町)出身。東京帝国大学医学部卒業。専門は眼科学。東京女子医専(現東京女子医科大学)講師、日本医科大学教授を経て、1927年、小川眼科病院長。1945年、日本眼科医会会長、1954年、第9代日本医師会会長を歴任。 初代 北里柴三郎1916-1931 / 2代 北島多一1931-1943 / 3代 稲田龍吉1943-1946 / 4代 中山寿彦1946-1948 / 5代 高橋明1948-1950 / 6代 田宮猛雄1950 / 7代 谷口弥三郎1950-1952 / 8代 田宮猛雄1952-1954 / 9代 黒澤潤三1954-1955 / 10代 小畑惟清1955-1957 / 11代 武見太郎1957-1982 / 12代 花岡堅而1982-1984 / 13代 羽田春兔1984-1992 / 14代 村瀬敏郎1992-1996 / 15代 坪井栄孝1996-2004 / 16代 植松治雄2004-2006 / 17代 唐澤祥人2006-2010 / 18代 原中勝征2010-2012 / 19代 横倉義武2012-2020 / 20代 中川俊男2020-2022 / 21代 松本吉郎2022- この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
井上 義衍(いのうえ ぎえん、明治27年(1894年)7月2… 井上 義衍(いのうえ ぎえん、明治27年(1894年)7月27日 - 昭和56年(1981年)3月2日)は、日本の曹洞宗の僧侶。浜松市龍泉寺住職(曹洞宗師家会会長)。号は玄魯。 明治27年(1894年)7月27日、広島県豊田郡瀬戸田町(現、尾道市)長光寺に次男として生まれる。明治40年(1907年)に町内向上寺にて得度し、国泰寺僧堂に入る。大正4年(1915年)に東京青松寺に移り、7年に名古屋日泰寺に移る。 北野元峰、杉本道山、原田祖岳、飯田トウ隠に師事、日泰寺で参禅中、市街地に出かけて観劇の最中に悟りを開く。大悟。大正13年(1924年)に浜松龍泉寺住職となる。 さらに、講師を務めるの縁で、飯田欓隠に参禅、師の鉄槌を受ける。
岡 茂雄(おか しげお、1894年(明治27年)7月27日 … 岡 茂雄(おか しげお、1894年(明治27年)7月27日 - 1989年(平成元年)9月21日)は、日本の編集者、書店主、陸軍軍人。大正から昭和初頭の日本に於いて、民族・民俗学や考古学専門の書店「岡書院」、山岳書専門の「梓書房」を創業、経営。民族学・考古学から山岳・自然関係の名著を、短期間ながら多数出版した。 学術史上の名著となる多くの書籍、雑誌を世に送り出した。南方熊楠を最初に見出し、鳥居龍蔵や新村出の著作を出版するなど、岩波書店と並ぶ良心的な出版人として知られた。 長野県東筑摩郡松本町(現・松本市)生まれ。陸軍中央幼年学校から陸軍士官学校(28期)を経て1916年(大正5年)12月26日に歩兵第60連隊附の歩兵少尉となった。
太刀ノ海 浪右エ門(たちのうみ なみえもん、1894年7月2… 太刀ノ海 浪右エ門(たちのうみ なみえもん、1894年7月25日 - 1964年8月4日)は、現在の島根県安来市出身で友綱部屋、東関部屋、高砂部屋に所属した力士。本名は野津 貞助(旧姓草間)。8代木村瀬平。174cm、88kg。最高位は西前頭3枚目。 1913年1月初土俵。入門時は太刀山峯右エ門の弟子であった。1922年1月新入幕。突っ張りと左四つからの寄りを武器に幕内を5場所務め、1923年1月場所に最高位である西前頭3枚目まで番付を上げるが、その後病気がちで休場も多く、最後は十両であった。1925年1月に引退して8代木村瀬平を襲名した。1947年11月廃業。 1937年2月、師匠の太刀山の還暦土俵入りでは露払いを務めた。
鈴木 千久馬(すずき ちくま、1894年〈明治27年〉7月2… 鈴木 千久馬(すずき ちくま、1894年〈明治27年〉7月23日 - 1980年〈昭和55年〉9月7日)は、日本の洋画家。日本芸術院会員。「日本的フォーヴ」と呼ばれた独特な画境で知られる。 福井県福井市出身。1921年東京美術学校西洋画科卒、「緑蔭にて」で第3回帝展に入選。1925年「寝椅子の裸婦」で第6回特選。1930年帝展審査員となる。1935年多摩美術大学教授、1936年文展委員。1937年新文展審査員。1941年中野和高らと創元会を創立。1950年日展運営会参事(- 1958年)。1957年日本芸術院賞受賞。1972年日本芸術院会員。1974年勲三等瑞宝章受章。 『鈴木千久馬作品集』(美術出版社、1969)がある。
菅家 喜六(かんけ きろく、1894年〈明治27年〉7月23… 菅家 喜六(かんけ きろく、1894年〈明治27年〉7月23日 - 1967年〈昭和42年〉7月24日)は、日本の政治家、新聞記者。衆議院議員(4期)。福島民友新聞社長。 福島県大沼郡野尻村(現昭和村)出身。1912年福島県教員養成所(後の福島大学教育学部、現:人間発達文化学類)卒。 福島民報記者、郡山町議、(のち郡山市議)、郡山市会副議長、福島県議、福島民友新聞社長、郡山商工会議所副会頭となり、1949年の第24回衆議院議員総選挙において福島2区から民主自由党公認で立候補し初当選し、4期務める。第4次吉田内閣の厚生政務次官、衆議院議院運営委員長、決算委員長を歴任した。1960年の第29回衆議院議員総選挙で落選、政界を引退した。