藤森 秀夫(ふじもり ひでお、1894年(明治27年)3月1… 藤森 秀夫(ふじもり ひでお、1894年(明治27年)3月1日 - 1962年(昭和37年)12月20日)は、日本のドイツ文学者、童謡作家。別名に藤太彦。
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藤森 秀夫(ふじもり ひでお、1894年(明治27年)3月1… 藤森 秀夫(ふじもり ひでお、1894年(明治27年)3月1日 - 1962年(昭和37年)12月20日)は、日本のドイツ文学者、童謡作家。別名に藤太彦。
槙原 覚(まきはら さとる、1894年(明治27年)3月1日… 槙原 覚(まきはら さとる、1894年(明治27年)3月1日 - 1942年(昭和17年)5月8日)は、日本の実業家。青年期に岩崎久弥(岩崎弥太郎の長男、三菱財閥3代目総帥)から奨学金を受け、その後三菱商事に入社し水産部長とロンドン支局長を歴任した。財閥解体前の三菱最後の社長であり、再編後の最初の社長となった高垣勝次郎のライバルであった。岡山県新見市出身。 岡山県哲多郡神代村(現:新見市)出身。小作農槙原柳太郎の二男として生まれる。14歳で親戚を頼って上京し下働きなどをしていたが、岩崎弥太郎設立の本郷竜岡町(現・文京区湯島4丁目)の学寮「雛鳳館」の寮生に選ばれたことにより金銭的苦労がなくなり、東京高等商業学校在学中は学業とともにテニスに熱中した。
阿蘇 太郎吉(あそ たろきち、1894年(明治27年)3月1… 阿蘇 太郎吉(あそ たろきち、1894年(明治27年)3月1日 - 1944年(昭和19年)2月4日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 京都市に生まれる。京都府二中、陸軍幼年学校を経て、1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第68連隊付となる。青島守備隊、陸地測量部勤務等の後、1932年(昭和7年)近衛歩兵第1連隊。1934年(昭和9年)同連隊大隊長。1936年(昭和11年)から翌年に掛けて配属将校として拓殖大学、東京府第三中、第四中に勤務。1937年(昭和12年)独立歩兵第13連隊附として支那事変に参加し山西省、内蒙古周辺を転戦・守備。
木下 孝則(きのした たかのり、1894年2月24日 - 1… 木下 孝則(きのした たかのり、1894年2月24日 - 1973年3月29日)は、日本の洋画家。 東京市四谷区生まれ。同じく画家の木下義謙は実弟。父の木下友三郎は明治大学総長。母方の叔父の児島善久雄は西洋美術史家。 学習院初等科、学習院中等科を経て学習院高等科を卒業する。京都帝国大学法科大学政治経済学科および東京帝国大学文科大学哲学科をいずれも中退。このころに小島善太郎など複数の画家と知り合い、油絵を開始。1921年、二科展に入選。その後フランスに留学。帰国後に二科会展で樗牛賞および二科賞受賞。1936年に二科会を脱会して一水会創立会員になった。1958年には日本芸術院賞受賞。1973年に没し、勲四等旭日小綬章受章。
喜多 壯一郎(きた そういちろう、1894年2月24日 - … 喜多 壯一郎(きた そういちろう、1894年2月24日 - 1968年1月28日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党→改進党→日本民主党)。法学者。専門は国際法。 石川県羽咋郡北大海村(現在の宝達志水町)出身。1917年(大正6年)、早稲田大学英語政治科を卒業した後、アメリカ合衆国のノースカロライナ州立大学大学院、プリンストン大学、ジョンズ・ホプキンス大学、スイスのチューリッヒ大学に留学した。1922年(大正11年)に帰国し、早稲田大学で講師として「新聞研究講座」を担当。また第一早稲田高等学院教授を務めた。1925年(大正14年)に再び留学し、アメリカ、イギリス、ドイツ、スイスの大学を視察した。1928年(昭和3年)に帰国後、早稲田大学新聞学会会長、同講演部長、教授に就任した。
鶴 惣市(つる そういち、1894年(明治27年)2月23日… 鶴 惣市(つる そういち、1894年(明治27年)2月23日 - 1961年(昭和36年)3月9日)は、大正から昭和時代前期の政治家、実業家。衆議院議員(3期)。 福岡県三池郡大牟田町(現大牟田市)に生まれる。商店員より独立し、米穀商を営み、鶴惣商店を創立し代表社員となる。のち大牟田市会議員に当選し、同参事会員、同議長、福岡県会議員、同参事会員、商工省委員、福岡県公安委員長、大牟田商工会議所顧問、大牟田市体育協会長、大和冷凍興業社長を歴任する。 1936年(昭和11年)2月の第19回衆議院議員総選挙では福岡県第3区から立憲政友会所属で出馬し当選。以後、衆議院議員を通算3期務めた。戦後は日本進歩党所属に転じた。
勝目 清(かつめ きよし、1894年2月21日 - 1971… 勝目 清(かつめ きよし、1894年2月21日 - 1971年7月11日)は、日本の政治家。第14代鹿児島市長。鹿児島県出身。 鹿児島市下竜尾町生まれ。父覚衛は鉄道院職員。1898年鶴山学舎入舎。1900年鹿児島県師範学校附属幼稚園卒園。同年鹿児島市立大龍小学校入学。1904年鹿児島県師範学校附属小学校高等科入学。1907年鹿児島県立第一鹿児島中学校 (旧制)入学、1912年第七高等学校造士館 (旧制)入学。1915年東京帝国大学法学部法律学科入学。1916年病気休学。1917年鹿児島県学務課勤務。1920年東京帝国大学卒業。1921年東京市電気局工務課勤務。1924年、30歳で伊集院俊鹿児島市長に請われて鹿児島市助役に就任した。
神田 茂(かんだ しげる、1894年〈明治27年〉2月21日… 神田 茂(かんだ しげる、1894年〈明治27年〉2月21日 - 1974年〈昭和49年〉7月29日)は、日本の天文学者。元横浜国立大学教授。大阪府出身。アマチュア天文家の指導者として有名。 1894年(明治27年)大阪に生まれる。麻布中学、二高を経て、1920年(大正9年)東京帝国大学理学部天文学科を卒業、東京天文台(国立天文台の前身)の技手となる。同じ年の8月20日にはくちょう座に新星を発見している。 東京天文台では『理科年表』や日本天文学会の会誌『天文月報』の編集に当たった。また星の古記録を組織的に収集し『日本天文史料綜覧』(1934年)や『日本天文史料』(1935年)をまとめた。 1943年(昭和18年)に天文台を退官すると湯河原に移住し、1945年(昭和20年)「神田天文学会」を創立、翌年には日本天文研究会と改称した。
左 卜全(、1894年〈明治27年〉2月20日 - 1971… 左 卜全(、1894年〈明治27年〉2月20日 - 1971年〈昭和46年〉5月26日)は、日本の俳優、オペラ歌手。本名は三ヶ島 一郎()異母姉は三ヶ島葭子。 1894年(明治27年)2月20日(火曜日)、埼玉県入間郡小手指村北野に小学校校長の次男として生まれる。三ヶ島家は代々、埼玉県入間郡三ヶ島村の氷川神社の神官だったが、祖父が分家して一家をなした。 1901年(明治34年)に北野小学校に入学する。1902年(明治35年)、父の転勤のため東京市麻布区(現在の東京都港区)の南山小学校に転校。まもなく東京府南葛飾郡船堀村(現在の江戸川区船堀)に移った。1905年(明治38年)、船堀小学校を卒業。京橋のばら歯磨本舗「東光園」へ小僧奉公に出るが、1907年(明治40年)に船堀に戻り高等小学校3年に編入した。
島田 昌勢(しまだ しょうせい、1894年〈明治27年〉2月… 島田 昌勢(しまだ しょうせい、1894年〈明治27年〉2月20日 - 1975年〈昭和50年〉1月2日)は、日本の拓務官僚。台湾総督府官僚。弁護士。 高知県安芸郡室戸村(現在の室戸市)出身。第三高等学校を卒業。1919年(大正8年)、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業し、同年10月高等試験行政科に合格した。新潟県工場監督官補・新潟県属、同警視、鳥取県理事官、内閣書記官・内閣官房記録課長、拓務省書記官・拓務局第一課長、同奨励課長、同南洋課長を歴任。1936年(昭和11年)、台湾総督府文教局長に転じた。 1940年(昭和15年)に退官した後は、南洋拓殖株式会社理事・管理部長に就任した。戦後に公職追放となった。
阿藤 伯海(あとう はくみ、1894年(明治27年)2月17… 阿藤 伯海(あとう はくみ、1894年(明治27年)2月17日 - 1965年(昭和40年)4月4日)は、日本の中国文学者、漢詩人。本名は簡。 1894年(明治27年)2月17日、岡山県浅口郡六条院村相部(現・浅口市鴨方町六条院東)の大地主の家に生まれる。旧制矢掛中学校(現・岡山県立矢掛高等学校)、第一高等学校、級友の難波準平と共に東京帝国大学に進む。多くの人は仏蘭西文学を専攻すると思っていたが、西洋哲学に進んだ。1924年(大正13年)東京帝国大学を卒業し、倉石武四郎同様に京都帝国大学大学院に入学する。藤代禎輔、朝永三十郎両教授の指導を受けるが、漢学に傾倒して狩野直喜に師事、鈴木虎雄、上田敏にも私淑した。
浅賀 ふさ(あさが ふさ、1894年2月17日 - 1986… 浅賀 ふさ(あさが ふさ、1894年2月17日 - 1986年3月3日)は愛知県出身の医療社会事業家で、日本における医療ソーシャルワーカーの先駆者。米国在住期を経て小栗 将江(おぐり まさえ)と名乗った。 愛知県半田町(後の半田市)の豪商、小栗富次郎と妻しげの二女・小栗ふさとして1894年(明治27年)に生まれる。小栗家は酒造・海運・金融業等で財をなした家柄で富豪として知られた。13歳で日本女子大学付属高等女学校に入学した後、日本女子大学へ進学。ふさは女性の幸福は結婚や家庭にあるという母親の考え方に反駁していた。長兄・常太郎が三井物産の社員としてニューヨークへ赴任することになると父親に直談判。ふさも同行を許された。
黒木剛一(くろき ごういち、1894年〈明治27年〉2月16… 黒木剛一(くろき ごういち、1894年〈明治27年〉2月16日 - 1972年〈昭和47年〉5月21日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。 1892年10月8日、宮崎県宮崎郡宮崎町(現在の宮崎市)に生まれる。旧制宮崎県立宮崎中学校を経て、海軍兵学校第43期に成績順位100名中第6位で入学。1915年12月16日、成績順位96名中第40位で卒業。 1938年12月15日、京城在勤海軍駐在武官兼朝鮮総督府御用掛嘱託。1940年8月1日、兼京城監理長。1941年12月、太平洋戦争開始。 1942年6月25日、海軍軍令部出仕。7月15日、海南警備府附。7月20日、第16警備隊司令。1943年(昭和18年)9月10日、横須賀鎮守府附。
菅原 通済(すがはら つうさい、1894年〈明治27年〉2月… 菅原 通済(すがはら つうさい、1894年〈明治27年〉2月16日 - 1981年〈昭和56年〉6月13日)は、日本の実業家。フィクサーとしても有名。名は通濟とも書く。本名は名の読みが(みちなり)。
石本 喜久治(いしもと きくじ、1894年2月15日 - 1… 石本 喜久治(いしもと きくじ、1894年2月15日 - 1963年11月27日)は、日本の建築家。同期卒業の堀口捨己、山田守らと分離派建築会を結成し、日本の近代建築運動の第一歩を記した。数寄屋橋の旧朝日新聞社でデピュー後に設立した設計事務所において、支所の開設や法人化など、時代を先取りした事務所経営を行なった。 神戸市生まれ。大阪市高津尋常小学校卒業、旧制大阪府立今宮中学校卒業、東京高等工業学校中退、旅順工科大学予科中退、旧制第三高等学校卒業。 1920年、東京帝国大学工学部建築学科を卒業後、大阪の竹中工務店に入店。 1922年から自費で欧米を視察し、特にドイツの近代建築運動にふれた。 1927年、白木屋の設計を機に竹中工務店を退社。
安倍 源基(あべ げんき、1894年〈明治27年〉2月14日… 安倍 源基(あべ げんき、1894年〈明治27年〉2月14日 - 1989年〈平成元年〉10月6日)は、日本の内務官僚、政治家、弁護士。警視庁特別高等警察部長、警視総監、内務大臣を歴任した。山口県出身。 1894年(明治27年)、山口県熊毛郡曾根村(現平生町)に生まれた。山口県士族安倍半次郎の長男。 山口県立山口中学校、山口県立徳山中学校、第六高等学校を経て、東京帝国大学法学部入学。 1920年、東京帝国大学法学部法律学科卒業、内務省入省(警保局配属)。 1932年、警視庁において初代特別高等警察部長となり、赤色ギャング事件や日本共産党スパイ査問事件を通じて「赤狩り安倍」の名 が付いた。安倍が特高部長であった1933年には、19人が特高警察の過酷な取調べで死亡しており(19人は戦前で最多)、その中にはプロレタリア文学作家の小林多喜二も含まれている。
成 元慶(ソン・ウォンギョン、朝鮮語: 성원경、1894年2… 成 元慶(ソン・ウォンギョン、朝鮮語: 성원경、1894年2月14日 - 1975年7月30日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の実業家、政治家。忠清南道議会議員、第3・5代韓国国会議員を歴任した。 忠清南道牙山郡道高面生まれ、礼山郡出身。日本中央大学経済科卒。東亜日報創刊発起人・取締役、湖西銀行天安支店長、忠清南道評議会員、忠清南道議会議員、中枢院参議、面協議員、農会特別議員、忠南製糸株式会社取締役社長、皇軍慰問団員、愛国婦人会忠南支部顧問、赤十字社正社員、東一銀行常務理事、大韓独立促成国民会礼山郡支部運営委員長・支部長、反託闘委礼山支部支部長、礼唐水利組合長、大韓農地開発営団理事長、民主党中央委員会議長を務めた。
五月 信子(さつき のぶこ、1894年2月13日 - 195… 五月 信子(さつき のぶこ、1894年2月13日 - 1959年7月21日)は、日本の女優。本名・御手洗忍(旧姓名・前川しのぶ)。 新派から映画界に転じ、創成期の松竹蒲田で活躍。川田芳子・栗島すみ子と並ぶ看板スターとして知られた。また、舞台女優としても劇団「近代座」を結成し、多くの後進を育てた。 埼玉県北足立郡浦和町(のち浦和市、現・さいたま市)に生まれる。父・潔は浦和警察署の署長をつとめた。埼玉県立浦和高等女学校(現・埼玉県立浦和第一女子高等学校)を卒業後、新劇を志し、1915年9月に武田正憲と川村花菱が東京・神田の東京座で旗揚げした「新日本劇」に入る。座員には、武田正憲を頭に、花柳章太郎・藤村秀夫・岩田祐吉・正邦宏・永井赤鳥(後の柳永二郎)・渡瀬淳子・村田栄子などがいた。
木村 毅(きむら き、1894年2月12日 - 1979年9… 木村 毅(きむら き、1894年2月12日 - 1979年9月18日)は、日本の文学評論家、明治文化史の研究家、小説家。小説家の阿部知二とはいとこ同士にあたる。 岡山県勝南郡勝間田村(現:勝田郡勝央町)に生まれる。少年時代から文士を志し、『少年世界』『文章世界』に投稿する。高等小学校卒業後の3年間独学、その後早稲田大学英文科に入学。同じクラスには宮島新三郎、植村宗一(直木三十五)、青野季吉、田中純、西条八十、細田民樹、細田源吉らがいた。1917年卒業。 隆文館、次いで早稲田で同級だった直木三十五らの設立した春秋社に入社し、トルストイ全集の編集を手がけ、植村退社後も宮崎安右衛門『乞食桃水』、西田天香『懺悔の生活』などのベストセラーを企画した。
重宗 雄三(しげむね ゆうぞう、1894年(明治27年)2月… 重宗 雄三(しげむね ゆうぞう、1894年(明治27年)2月11日 - 1976年(昭和51年)3月13日)は、日本の政治家、実業家。 参議院議長(第8-10代)、参議院副議長(第4代)、運輸大臣(第24代)を歴任。 山口県岩国市出身。1912年(明治45年)3月、東京高等工業学校附属工業補習学校(現東工大附属高専攻科)を卒業して兄重宗芳水が創業した明電舎に入社、1938年(昭和13年)社長。1946年(昭和21年)8月14日、貴族院議員に勅選され、交友倶楽部に所属し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任。同郷の岸信介、佐藤栄作兄弟に懇請される形で1947年4月の第1回参議院議員通常選挙に全国区から立候補し、当選する。
諫山 春樹(いさやま はるき、1894年(明治27年)2月1… 諫山 春樹(いさやま はるき、1894年(明治27年)2月11日 - 1990年(平成2年)6月12日)は、日本の陸軍軍人。陸軍中将。 福岡県出身。第17代台湾軍参謀長、その後第10方面軍参謀長。1945年10月25日、国民政府代表との降服式典に台湾総督安藤利吉とともに台湾総督府(日本)代表として出席し、任を終える。 官吏・諫山虎鹿の二男として生れる。中学明善校、熊本陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、陸軍士官学校を卒業。1915年12月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第38連隊付となる。 1925年8月、歩兵第38連隊中隊長となり、参謀本部付勤務、参謀本部員、フランス大使館付武官補佐官などを経て、1930年8月、歩兵少佐に昇進。
岡本 清纓(おかもと きよふさ、明治27年(1894年2月1… 岡本 清纓(おかもと きよふさ、明治27年(1894年2月11日) - 昭和58年(1983年2月22日))は、日本の歯科医。東京医科歯科大学教授として口腔衛生学講座を担当し、付属歯科技工士学校・歯科衛生士学校の校長を兼務したほか、のちに愛知学院大学歯学部長を務めた。歯科医療分野に加え、日本卓球協会総務理事や日本卓球協会副会長も歴任した。 戦前・戦後を通じて日本の歯科医療と口腔衛生学の発展に大きな影響を与えた人物である。学生時代は東京歯科医学専門学校で卓球選手としても活動したが、卒業後は恩師の勧めによりライオン歯磨(当時・小林商店)に入社し、口腔衛生普及事業の先端に立った。1921年に開設された日本初の小児専門歯科診療所「ライオン児童歯科院」では初代院長を務め、18年にわたり診療と啓発活動に携わった。
白 南雲(日本語読み;はく なんうん、朝鮮語読み;ペク・ナム… 白 南雲(日本語読み;はく なんうん、朝鮮語読み;ペク・ナムン、1894年2月11日 - 1979年6月12日)は、日本統治時代の朝鮮・連合軍軍政期の南朝鮮・朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の経済学者、政治家。学者としての専門は朝鮮社会経済史。 韓国のマルクス主義歴史学の創始者として知られ、京城帝国大学教授、ソウル大学校教授等を務めたのちに北朝鮮に渡り、朝鮮民主主義人民共和国初代教育相、最高人民会議議長、祖国統一民主主義戦線議長等を歴任した。論文「金日成同志の英雄的偉業」により金日成勲章受章。 全羅北道高敞郡の貧しい家で生まれ育つ。本貫は水原白氏。1911年に結婚。同年朝鮮総督府附属水原農林学校(現ソウル大学校農業生命科学大学)に入学して農業政策を学び、1915年に卒業。
田垣内 友吉(たがいと ともきち、1894年(明治27年)2… 田垣内 友吉(たがいと ともきち、1894年(明治27年)2月11日 - 1931年(昭和6年)10月4日)は三重県生まれの洋画家である。雅号は愛耕と名乗った。 1894年(明治27年)2月11日の紀元節の日に三重県南牟婁郡五郷村(現熊野市五郷町)に生まれる。父は五郷郵便局長の田垣内粂吉、母はけい。 1924年(大正13年)4月、五郷の旧家山東家の長女光恵と婚姻する。1925年(大正14年)東京に上京し、洋画家中川一政に師事する。この頃中川一政に師事をしていた堀内唯生と出会う。1926年(大正15年)に中川一政より油彩(夏の橋)など二点譲り受ける1927年(昭和2年)に第五回春陽会展に五郷桃崎の景と初秋の郊外が入選。
大矢市次郎(おおや いちじろう、1894年(明治27年)2月… 大矢市次郎(おおや いちじろう、1894年(明治27年)2月11日 - 1972年(昭和47年)5月28日)は、大正 - 昭和期の俳優。新派生え抜きの役者の一人で名脇役として知られた。 東京浅草須賀町(現・台東区)の生まれ。幼少時からの芸事好きで、1907年(明治40年)に伊井蓉峰主演の舞台「乞食の子か大名の子か」で子役エキストラの一人で初舞台を踏む。伊井の弟子の藤井六輔に師事し、藤川宗六の芸名を貰うが後に本名の大矢市次郎で活動。 18歳のときに、60歳の役を演じて以来老け役を得意とし、多くの当り役を持った。 新派系の劇団を転々としたのち、1939年(昭和14年)に花柳章太郎・伊志井寛・柳永二郎・川口松太郎・大江良太郎らと、劇団『新生新派』を旗揚げ、戦後の劇団新派結成へも関わり、新派に欠かせぬ中心メンバーとなる。
佐々木 長治(ささき ちょうじ、1894年(明治27年)2月… 佐々木 長治(ささき ちょうじ、1894年(明治27年)2月10日 - 1970年(昭和45年)9月12日)は、日本の実業家、政治家、衆議院議員(2期)。貴族院議員。旧名・馨。 愛媛県西宇和郡伊方村(現伊方町)で、佐々木長治(高二郎)の息子として生まれた。1914年(大正3年)家督を相続し、長治を襲名。1916年(大正5年)東京高等商業学校(現一橋大学)卒。 伊方郵便局長、西宇和郡会議員、八幡浜市長のほか、西南銀行、第二十九銀行、予州銀行の各頭取などを務める。1924年(大正13年)の第15回衆議院議員総選挙で愛媛県第6区(当時)から立憲政友会公認で立候補して初当選。2期務める。その後、1939年(昭和14年)愛媛県多額納税者として貴族院多額納税者議員に互選され、同年9月29日に就任し、研究会に所属して1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
大久保 忠素(おおくぼ ただもと、1894年2月10日 - … 大久保 忠素(おおくぼ ただもと、1894年2月10日 - 没年不明)は、日本の映画監督、脚本家、映画プロデューサーである。松竹キネマおよび松竹蒲田撮影所の創生にかかわり、小津安二郎の唯一の映画監督としての師であることでも知られる。 1894年(明治27年)2月10日、東京府東京市神田区(現在の東京都千代田区神田)に生まれる。 明治大学文科を卒業後、有楽座の舞台監督を務める。1920年(大正9年)6月、松竹蒲田撮影所に入社。ヘンリー・小谷、野村芳亭に助監督として師事する。1922年(大正11年)、監督に昇進する。同年に斎藤寅次郎が入社、1926年(大正15年)に小津安二郎が撮影助手から異動し、それぞれ大久保の助手となる。
香山 蕃(かやま しげる、1894年2月9日 - 1969年… 香山 蕃(かやま しげる、1894年2月9日 - 1969年5月3日)は、日本ラグビーフットボール協会(以下、日本ラグビー協会)第3代会長、ラグビー日本代表初代監督。 京都府出身。京都府立一中卒業後4浪の末、第三高等学校(旧制高校、略称:三高)に入学。その3年後の1920年、東京帝国大学政治学科に入学した。当初は陸上部に所属していたが、1921年11月、31人の同志とともに、学士ラガー倶楽部(現在の東京大学運動会ラグビー部)を創設。同月、YCACと部として初の試合を行い、さらに翌1922年1月、三高グランドに遠征し、京都帝国大学ラグビー部(現在の京都大学ラグビー部、以下 京都帝大)と初の対抗戦を行なった。
榎本 隆一郎(えのもと りゅういちろう、1894年2月8日 … 榎本 隆一郎(えのもと りゅういちろう、1894年2月8日 - 1987年2月7日)は、日本の海軍軍人、実業家。最終階級は海軍中将。 和歌山県出身。農業・榎本熊太郎の長男として生まれる。和歌山中学校を経て、1915年12月、海軍機関学校(24期)を卒業し、翌年12月、海軍機関少尉任官。1920年12月、海軍大学校選科学生となり、翌年9月、九州帝国大学工学部に入学、応用地質学を学び1924年3月に卒業した。 徳山燃料廠製油部員、機関学校教官、欧米出張、海軍省軍需局員、欧米出張、徳山燃料廠付、燃料廠研究部員、北支特務部員(北京)、商工省燃料局人造石油課長、昭南在勤武官などを経て、1942年11月、海軍少将に進級した。
谷口 午二(たにぐち ごじ、1894年2月8日 - 1987… 谷口 午二(たにぐち ごじ、1894年2月8日 - 1987年1月13日)は、日本の洋画家。戦前に金羊会を主宰して南國美術展を創設し、戦後は鹿児島市立美術館初代館長や顧問として鹿児島県の洋画振興に尽力した。代表的な作品として「自画像」と「琉球風景」が挙げられる。 鹿児島県鹿児島市山之口町出身。旧姓・益山。生年月日(1894年2月8日)が午の年午の日であるのにちなみ午二と名づけられる。鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)(鹿児島二中)で大牟礼南島に学び、学外の山下兼秀からも指導をうける。1913年に上京して黒田清輝の葵橋洋画研究所でデッサンを修練し、貴族院議員千頭清臣(元鹿児島県知事)の書生をしながら東京美術学校西洋画科に入学。
高橋 清治郎(たかはし せいじろう、1894年(明治27年)… 高橋 清治郎(たかはし せいじろう、1894年(明治27年)2月8日 - 1957年(昭和32年)12月7日)は日本の政治家。衆議院議員(2期)。宮城県玉造郡鳴子町(現・大崎市)長。 宮城県大崎市で生まれた。明治大学法学部卒業後、米国ワシントン大学ランドスクールで政治学を専攻。コロンビア大学でも学んだ。在米8年。帰国後は明治大学講師となった。 その後、日東窯業、明治大学出版部、鳴子木材、東北鉱山資材各取締役、日東紡績理事、荒尾嶽鉱業取締役社長、鳴子町会議員となる。 1948年(昭和23年)5月21日に旧宮城2区で行われた第23回衆議院議員補欠選挙に民主党から立候補し当選。翌年の第24回衆議院議員総選挙で再選。
白井 烟嵓(しらい えんがん、1894年2月8日 - 197… 白井 烟嵓(しらい えんがん、1894年2月8日 - 1976年1月19日)は、愛知県豊橋市出身の画家。 1894年(明治27年)2月8日、愛知県渥美郡花田村(現豊橋市)に白井徳平の二男として生まれた。本名は龍、字名は瀧司。従兄弟の白井永川から絵の手解きを受け、静古と号した。他に烟巌とも。1917年(大正6年)、南宗画家の松林桂月に師事し、烟嵓と号する。1920年(大正9年)第2回帝展に「幽栖」が初入選した。 1896年(明治29年)の日本南画院創設に参加し、日本南画院では理事も務めた。大正・昭和を通じて帝展、新文展、日展を中心に日本南画院展など団体展を舞台に活躍した。 1918年から1933年まで外海家と養子縁組していた時期があり、この期間は外海烟巖名義。
入江為常(いりえ ためつね、1894年2月7日 - 1969… 入江為常(いりえ ためつね、1894年2月7日 - 1969年3月3日)は、日本の貴族院議員。子爵。入江為守の子。 東京府出身。学習院を経て1914年(大正3年)、東京府立一中卒業。家業である歌道を極める道には進まず、東京帝国大学に進学して理学部化学科を卒業。台湾総督府中央研究所技師を経て、1928年(昭和3年)に陸軍技師、次いで理化学研究所技師となった。1938年(昭和13年)から1947年(昭和22年)まで貴族院議員を務めたほか、東京女学館で講師も務めた。 妹の高木邦子は崇仁親王妃百合子の母。弟に入江相政。母・信子は柳原前光伯爵の長女で、柳原白蓮の異母姉、かつ大正天皇の生母・柳原愛子の姪にあたる。
貴志 喜四郎(きし きしろう、1894年2月6日 - 193… 貴志 喜四郎(きし きしろう、1894年2月6日 - 1933年12月14日)は、大正・昭和期の実業家。関東軍財務顧問。大阪三品取引所常務理事。 佐賀県藤津郡嬉野町(現・嬉野市)出身。東京帝大法科を卒業後、大阪の貴志米吉の養子となる。逓信省書記官を経て、大阪三品取引所の書記となり、のち常務理事に就任。 一方、関東軍財務顧問となり、1932年(昭和7年)建国間もない満州国政府の要請で大陸に渡る。 日蒙貿易協会の石塚忠の仲介により、当時の関東軍参謀長の小磯国昭中将と新会社の設立を計画していたが、新会社は満州産業の開発を目的としており、主に大阪・東京の少壮投資家が出資した3000万円を資本金とした。この新会社は国有企業とし、貴志喜四郎が委託経営をする予定であった。
槇 有恒(まき ゆうこう、「ありつね」とも、1894年〈明治… 槇 有恒(まき ゆうこう、「ありつね」とも、1894年〈明治27年〉2月5日 - 1989年〈平成元年〉5月2日)は、宮城県仙台市出身の日本の登山家。日本山岳会設立者・会長(2期)、日本山岳協会会長・名誉会員を歴任し、ヒマラヤの8,000m峰・マナスル第3次登頂隊長として日本隊のマナスル初登頂を成功させた。近代アルピニズムの開拓者・紹介者。位階は従四位。文化功労者、仙台市名誉市民。 父・槇武は新潟県の士族であったが、幕末・維新期に仙台藩が越後国長岡藩と友好的であったことや、福澤諭吉の推薦などによって、有恒が生まれる頃は『奥羽日日新聞』主幹として仙台に赴任していた。 本籍地は東京都文京区。宮城県師範学校付属小学校、仙台第二中学校(現、宮城県仙台第二高等学校)を経て、1911年(明治44年)、慶應義塾大学部予科に入学する。
信氏 良吉(のぶうじ りょうきち、1894年(明治27年)2… 信氏 良吉(のぶうじ りょうきち、1894年(明治27年)2月5日 - 1981年(昭和56年)3月25日)は、日本の陸軍軍人、火薬学者。最終階級は陸軍中将。 京都府京都市出身。1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業。同年12月、砲兵少尉に任官した。陸軍派遣学生として京都帝国大学工学部工業化学科で学び、1923年(大正12年)3月に卒業した。 1930年(昭和5年)8月、砲兵少佐に進級。1934年(昭和9年)8月、砲兵中佐に進み、1935年(昭和10年)8月、陸軍造兵廠火工廠忠海兵器製造所長に就任。1937年(昭和12年)6月、陸軍科学研究所員に転じ、1938年(昭和13年)3月、砲兵大佐に昇進した。
奥田 喜久司(おくだ きくじ、1894年(明治27年)2月4… 奥田 喜久司(おくだ きくじ、1894年(明治27年)2月4日 - 1939年(昭和14年)11月4日)は、日本の海軍軍人。少年飛行兵制度を発案することで予科練に至る基礎をつくり、のちに航空隊司令として作戦指揮中に戦死した海軍少将である。 奥田は兵庫県出身で、神戸一中を経て1914年(大正3年)に海軍兵学校を卒業した海兵42期生である。席次は117名中54番であった。翌年12月海軍少尉任官。海軍砲術学校高等科学生を経て、「洲埼」分隊長。次いで「神威」艤装員としてアメリカ合衆国に出張した。同艦分隊長、「島風」砲術長兼分隊長と砲術畑を歩む。 同期生の先頭を切って近藤泰一郎と共に海軍大学校甲種学生(23期)に進み、卒業後航空に転科。
仁田 竹一(にた / にだ / にった たけいち、1894年… 仁田 竹一(にた / にだ / にった たけいち、1894年(明治27年)2月4日 - 1976年(昭和51年)6月14日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。参議院議員(1期)、広島県佐伯郡大柿町長。 広島県佐伯郡深江村(大柿町を経て現江田島市)で仁田笹松の二男として生まれ、仁田久米次の養子となる。1912年(明治45年)広島県立呉中学校(現広島県立呉三津田高等学校)を卒業した。 呉商工会議所副会頭、呉第一銀行頭取、江田島汽船社長、瀬戸内海汽船社長、広島緑地建設社長、広島湾海運会長、因島運輸社長、ラジオ中国取締役、全日本観光連盟中国支部長、広島県観光連盟会長、日本経営者団体連盟(現日本経済団体連合会)常任理事、中国ヨット連盟会長、中国操艇協会会長などを務めた。
今村 春吉(いまむら はるきち、1894年〈明治27年〉2月… 今村 春吉(いまむら はるきち、1894年〈明治27年〉2月4日 - 1989年〈平成元年〉7月19日)は、長崎市の外科医師、洋画家。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
三好 義雪(みよし よしゆき、1894年〈明治27年〉2月3… 三好 義雪(みよし よしゆき、1894年〈明治27年〉2月3日 - 没年不明)は、日本の医師(内科小児科、三好医院)、会社役員。族籍は広島県平民。 広島県広島市東白島町(現・広島市中区東白島町)出身。三好家は代々医を業とする。広島高等師範学校附属中学校を優等の成績を以て卒業する。1915年、岡山医学専門学校を卒業する。1916年、舟入病院臨時医員嘱託、同年に広島県防疫医拝命、同年に一年志願兵として入隊。1917年、正八位に叙される。 1920年、予備役三等軍医後広島病院に勤務。1923年、開業する。内科小児科を主とする。白島小学校医、広島高等師範学校医である。1930年以来広島市医師会理事。1937年、鈴木商店監査役に就任する。
田口 政五郎(たぐち まさごろう、1894年(明治27年)2… 田口 政五郎(たぐち まさごろう、1894年(明治27年)2月3日 - 1964年(昭和39年)2月8日)は、大正末から昭和期の実業家、政治家。参議院議員(1期)、兵庫県明石市長、同明石郡垂水村長、同垂水町長。 兵庫県明石郡、のちの明石市で生まれる。1919年(大正8年)東京帝国大学経済学部を卒業した。 1923年(大正12年)兵庫県会議員に選出された。その後、垂水村長、垂水町長(2期)を務めた。1947年(昭和22年)4月の第1回参議院議員通常選挙で兵庫県地方区から民主党公認で出馬して当選(補欠、任期3年)した。次の第2回通常選挙には出馬せず、参議院議員に1期在任した。この間、第3次吉田内閣大蔵政務次官などを務めた。
片岡 鉄兵(かたおか てっぺい、1894年(明治27年)2月… 片岡 鉄兵(かたおか てっぺい、1894年(明治27年)2月2日 - 1944年(昭和19年)12月25日)は、日本の大正・昭和前期における小説家。「鉄平」と表記されることもある。 岡山県苫田郡芳野村(現・鏡野町)に生まれる。 津山中学の同級生に矢野峰人、中山巍らがいる。中学校卒業後、第六高等学校受験に失敗、自殺を企てた。上京し、慶應義塾大学仏文科に進学したが、出席日数が不足したため中退、一時帰郷。様々な職を転々としながら小説を書き始め、各雑誌・出版社に投稿を行う。1921年『舌』などを書いて文壇に出る。山陽新報、大阪朝日新聞社、大阪時事新報の記者を務める。 1924年(大正13年)、横光利一や川端康成らと文学雑誌「文芸時代」を創刊し、創作活動のみならず評論活動や翻訳活動にも手を付けた。
太田垣 士郎(おおたがき しろう、1894年2月1日 - 1… 太田垣 士郎(おおたがき しろう、1894年2月1日 - 1964年3月16日)は、昭和の実業家。贈正四位・勲二等。京阪神急行電鉄(現・阪急阪神ホールディングス)社長や関西電力の社長・会長を歴任。関西電力時代には黒部ダム建設を指揮した。 兵庫県城崎郡城崎町湯島(現・豊岡市)で地元の開業医、太田垣隆準(りゅうせつ)の長男として生まれる。 第五高等学校、京都帝国大学経済学部卒業。1920年に日本信託銀行へ入行したが、1925年には阪神急行電鉄(現:阪急阪神ホールディングス)に移った。阪急では小林一三のもとで出札係や阪急百貨店の店員などの業務を広くこなした。1946年12月、京阪神急行電鉄(1943年に阪神急行電鉄が京阪電気鉄道と合併して改称)社長に就任。
潁原 退蔵(えばら たいぞう、1894年〈明治27年〉2月1… 潁原 退蔵(えばら たいぞう、1894年〈明治27年〉2月1日 - 1948年〈昭和23年〉8月30日)は、日本の国文学者。専門は近世文学、とくに俳諧史研究に業績を残す。学位は、文学博士(1947年)。病によりかつて依願免官した京都大学助教授に1948年8月再び着任するが、同月30日に逝去、死去日を以て、京都大学教授。 1894年、長崎県南松浦郡北魚目村(現長崎県南松浦郡新上五島町)生まれ。1917年3月、東京高等師範学校国語漢文学卒業。1921年3月、京都帝国大学文学部卒業後、京都帝国大学大学院入学。1928年3月、京都帝国大学大学院退学。 1931年4月、京都帝国大学助教授に着任するも、1936年4月に病気により依願免官。
田村 虎一(たむら とらいち、1894年(明治27年)2月1… 田村 虎一(たむら とらいち、1894年(明治27年)2月1日 – 1983年(昭和58年)7月11日)は、大正から昭和期の弁護士、政治家。衆議院議員、山口県玖珂郡川下村長。 山口県で田村與兵衛の三男として生まれる。1918年(大正7年)中央大学専門部法律科を卒業。 卒業後、農商務省、東京鉄道局などで勤務。1922年(大正11年)弁護士試験に合格し、のちの岩国市で開業した。1938年(昭和13年)川下村長に就任。その他、川下村会議員、岩国町会議員、山口県会議員、同副議長、岩国市会議員、同市助役、山口県監査委員、岩国弁護士会長などを務めた。 1947年(昭和22年)4月、第23回衆議院議員総選挙に山口県第2区から日本自由党公認で出馬して当選し、その後、民主自由党に所属して衆議院議員に1期在任した。
小島 政二郎(こじま まさじろう、1894年(明治27年)1… 小島 政二郎(こじま まさじろう、1894年(明治27年)1月31日 - 1994年(平成6年)3月24日)は、日本の小説家、随筆家、俳人。俳号は燕子楼。 東京府東京市下谷区に生まれ育った。生家は呉服商「柳河屋」。 京華中学を経て、慶應義塾大学部文学科在学中に、『三田文学』主幹で西洋美術史家の澤木四方吉から教えを受け、『三田文学』で作品を発表し始める。1916年に先輩作家の文章について批評した『オオソグラフィ』は森鴎外から認められるなど、学生時代から慶應義塾関係者内において、その名は知れ渡る。卒業後は鈴木三重吉が主宰していた児童雑誌『赤い鳥』の編纂に携わる。1919年に慶應義塾大学部文学科講師となり、最終的には文学部教授へ昇格し、1931年まで勤め、また1920年には『三田文学』編集委員となった。
橋本 象造(はしもと しょうぞう、1894年〈明治27年〉1… 橋本 象造(はしもと しょうぞう、1894年〈明治27年〉1月31日 - 1973年〈昭和48年〉8月20日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。 和歌山県和歌山市出身。和歌山県立和歌山中学校より海軍兵学校第43期へ進んだ。水雷畑を歩み、海軍大学校(甲種25期)卒業後は、海軍省、軍令部の課長を務めるなど、海軍中央の要職を歴任した。軍令部第2部第4課長在任中に、日独伊三國間同盟条約締結問題で、第3課長柳本柳作と共に強硬な反対意見を表明したため、右翼から名指しで狙われている。その後総力戦研究に没頭した。 太平洋戦争末期に、天号作戦により沖縄に突入する戦艦大和以下の第二艦隊の燃料が問題になった。この時、連合艦隊参謀小林儀作大佐の要請を受け、呉鎮守府軍需部が管理していた帳簿外の燃料を提供することを承認したのが、呉鎮守府参謀長兼補給長であった橋本である。
橋川 正(はしかわ ただす、1894年1月30日 - 193… 橋川 正(はしかわ ただす、1894年1月30日 - 1931年9月6日)は、日本の大正 - 昭和期に活躍した歴史学者・仏教史学者。 京都の真宗大谷派の寺院仏願寺に生まれる。真宗京都中学(現、大谷中学校・高等学校)を経て、1917年に真宗大谷大学(現、大谷大学)を卒業。その後、研究科在籍のまま、京都帝国大学文学部国史学科に依託生として入学。三浦周行・西田直二郎に師事した。1921年、同卒業とともに、真宗大谷大学学部助教授兼予科教授に就任。24年、同教授。この間、1920年には、父恵順の死去により、仏願寺住職および常葉幼稚園長を継職している。 同大学奉職後は、仏教史・真宗史の研究・教育に尽力するとともに、個別寺院史・地域史研究にも従事し、短期間に多くのすぐれた業績を残した。
江原 三郎(えはら さぶろう、1894年(明治27年)1月3… 江原 三郎(えはら さぶろう、1894年(明治27年)1月30日 - 1965年(昭和40年)3月4日)は、日本の政治家、弁護士。栃木県宇都宮市長、衆議院議員などを歴任。 栃木県下都賀郡絹村(桑絹村、桑絹町を経て現小山市)に塚原金吾の三男として生まれ、衆議院議員江原節の養子となった。東京帝国大学独法科を卒業し弁護士となる。宇都宮市会議員を経て、1935年(昭和10年)9月から1937年(昭和12年)5月まで宇都宮市選出の栃木県会議員を務める。1937年から栃木1区選出の立憲政友会の衆議院議員を1期務めた。 1944年(昭和19年)12月31日、宇都宮市長に就任。1945年(昭和20年)7月、宇都宮大空襲により同市は甚大な被害を受け市役所も焼失した。
下飯坂 潤夫(しもいいざか ますお、1894年〈明治27年〉… 下飯坂 潤夫(しもいいざか ますお、1894年〈明治27年〉1月29日 - 1971年〈昭和46年〉12月26日)は、日本の裁判官、最高裁判所判事。宮城県出身。四男はシナリオ作家の下飯坂菊馬。小説家の橘かがりは孫。 旧制宮城県立仙台第一中学校、旧制第二高等学校、東京帝国大学法科大学卒業。第二次世界大戦前は鳥取地裁所長、水戸地裁所長、新潟地裁所長、大審院判事などを務め、その後は札幌高裁長官、名古屋高裁長官、大阪高裁長官を歴任。 1956年11月に最高裁判事となる。岩松三郎裁判官の後任であり、当初は安部恕東京高裁長官が候補に上ったが、安部が辞退したため下飯坂になった。 八海事件の第二次上告審では第一小法廷裁判長として単独犯行説ではなく5人犯行説をとって1962年5月17日に無罪判決を破棄し、広島高裁に差し戻す判決を言い渡した(八海事件は1968年10月に第三次上告審で無罪判決が確定した)。