生方 賢一郎(うぶかた けんいちろう、1882年〈明治15年… 生方 賢一郎(うぶかた けんいちろう、1882年〈明治15年〉1月6日 - 1961年〈昭和36年〉2月25日)は日本の俳優である。本名同じ。 1882年、群馬県利根郡新治村新巻(現在の同県同郡みなかみ町)に生まれる。但し、殆どの資料では生誕地を「群馬県利根郡新新沼村新巻」とするが、誤りである。生家は農業を経営していた。衆議院議員・生方大吉は従兄弟にあたる。 群馬師範学校を経て関西大学法学部を卒業。卒業後は日本橋女学校(現在の開智日本橋学園中学校・日本橋女学館高等学校)の教師になったが、1916年に小山内薫の新劇場を振り出しに新劇協会、築地小劇場、心座、前衛座、舞台協会、松竹新喜劇、曽我廼家五九郎一座、堀田金星一座、笑の王国を転々として1932年、P.C.L.映画製作所に演技課長として入社する。
戸田 氏秀(とだ うじひで、明治15年(1882年)1月6日… 戸田 氏秀(とだ うじひで、明治15年(1882年)1月6日 - 大正13年(1924年)6月19日)は、日本の華族。大河内輝声の四男で、大垣藩戸田家12代戸田氏共の婿養子。前名は輝耡。最初の妻は戸田氏共の次女・米子、2番目の妻は氏共の五女・富子。 東京帝国大学卒業後、宮内省で東宮職主事、東宮職庶務課長、宮内事務官兼式部官を務めた。42歳で腸チフスのため死去。墓所は東京都文京区向丘の蓮光寺。 この項目は、日本の歴史に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:日本/P:歴史/P:歴史学/PJ日本史)。
広瀬 猛(ひろせ たけし、1882年(明治15年)1月5日 … 広瀬 猛(ひろせ たけし、1882年(明治15年)1月5日 - 1934年(昭和9年)7月17日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 山梨県東山梨郡七里村に父広瀬久光の六男として生まれる。1901年(明治34年)11月、陸軍士官学校(13期)を卒業し、翌年6月、歩兵少尉に任官され歩兵第34連隊付。日露戦争に従軍。明治38年(1905年)6月に歩兵第34連隊中隊長、明治39年(1906年)11月に第17旅団副官、明治41年(1908年)4月に大尉に昇進、1910年(明治43年)11月、陸軍大学校(22期)を卒業し、参謀本部外国戦史課に配属された。 1920年(大正9年)8月、陸大教官に就任。
関口 義慶二(せきぐち ぎけいじ、1882年〈明治15年〉1… 関口 義慶二(せきぐち ぎけいじ、1882年〈明治15年〉1月4日 - 1945年〈昭和20年〉2月3日)は、大正から昭和時代前期の政治家。群馬県桐生市長。 関口玉吉の長男として群馬県邑楽郡高島村(現・邑楽町)に生まれる。1903年(明治36年)3月、群馬県師範学校を卒業後、教員となり、1907年(明治40年)3月、群馬県川場小学校の校長に就任。 ついで、官界に転じ、同県北甘楽郡視学、群馬県属、知事官房主事、碓氷郡長、山田郡長を経て、1925年(大正14年)8月12日に桐生市長に就任。1933年(昭和8年)に桐生火葬場事件の責任を取って一旦辞任したものの、市議会に推されて40日後に再就任し、1940年(昭和15年)5月まで市長を務めた。
山口 忠五郎(やまぐち ちゅうごろう、1882年(明治15年… 山口 忠五郎(やまぐち ちゅうごろう、1882年(明治15年)1月3日 - 1955年(昭和30年)10月18日)は、日本の政治家。衆議院議員(5期)。幼名・治作。 静岡県志太郡西益津村(藤枝町を経て現藤枝市大手)出身。先代忠五郎の息子として生まれ、忠五郎を襲名した。西益津高等小学校、永井東陵の私塾育英学校で学んだ。 農業に従事し、西益津村長、同村会議員、志太郡会議員、静岡県会議員、同副議長、同議長、全国町村会会長を歴任し、1928年の第16回衆議院議員総選挙で静岡1区(当時)から立憲政友会公認で立候補して初当選。1930年の第17回衆議院議員総選挙では落選。1932年の第18回衆議院議員総選挙から4回連続当選した。
石山 賢吉(いしやま けんきち、1882年〈明治15年〉1月… 石山 賢吉(いしやま けんきち、1882年〈明治15年〉1月2日 - 1964年〈昭和39年〉7月23日)は、日本の実業家、ジャーナリスト、政治家。ダイヤモンド社創業者であり、東宝劇場や理研電線の役員、東京市会議員、衆議院議員、日本雑誌協会会長、日本読書推進協会会長、東京新潟県人会会長などを歴任した。位階勲等は従四位勲三等。 新潟県西蒲原郡曽根村(現在の新潟市西蒲区)生まれ。出生直後に父と死別し、同県中蒲原郡白根町(後の白根市、現在の新潟市南区)にあった母方の実家にて幼年期~青少年期を過ごした。白根尋常高等小学校卒業後、白根郵便局、加茂郵便局勤務を経て 22歳の時上京。日本大学別科中退後、慶應義塾商業学校(慶大の夜間商業学校)を卒業した。
西脇 晋(にしわき しん、1882年(明治15年)1月2日 … 西脇 晋(にしわき しん、1882年(明治15年)1月2日 - 1933年(昭和8年)12月19日)は、日本の大蔵官僚、弁護士、衆議院議員(立憲民政党)。 名古屋市出身。高岡応次の三男として生まれ、1905年(明治38年)に西脇長太郎の婿養子となった。1907年(明治40年)、東京帝国大学法科大学を卒業し、大蔵省に入った。大蔵省では税務監督官などを務め、1916年(大正5年)に退官した。退官後は弁護士・弁理士として活動した。 1926年(大正15年)、衆議院補欠選挙に当選。以後、当選回数は4回を数えた。その間、齋藤内閣では外務参与官を務めた。その他、法政大学講師、帝国製鉄・蔵内商事・満蒙土地建物・横浜倉庫監査役、大阪造船所取締役などを兼ねた。
川岸 文三郎(かわぎし ぶんざぶろう、1882年〈明治15年… 川岸 文三郎(かわぎし ぶんざぶろう、1882年〈明治15年〉1月1日 - 1957年〈昭和32年〉6月16日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 群馬県新田郡尾島町前小屋(現・太田市前小屋町)出身。川岸虎造の三男として生まれる。太田中学校を経て、1903年11月、陸軍士官学校(15期)を卒業、翌年3月、歩兵少尉任官。日露戦争では、歩兵第3連隊付として出征した。1911年(明治44年)11月、陸軍大学校(23期)を卒業。 清国駐屯軍司令部付、参謀本部員、参謀本部付(上海)、支那駐屯軍参謀、近衛歩兵第2連隊大隊長、参謀本部員、関東軍司令部付、参謀本部員、第1師団参謀などを歴任し、1924年(大正13年)2月から1929年(昭和4年)まで侍従武官を務めた。
中岡 弥高(なかおか やたか、1882年(明治15年)1月1… 中岡 弥高(なかおか やたか、1882年(明治15年)1月1日 - 1975年(昭和50年)1月21日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍中将。 岡山県出身。中岡黙陸軍少将の長男として東京で生れる。岡山中学、陸軍幼年学校を経て、1901年(明治34年)11月、陸軍士官学校(13期)を卒業。翌年6月、砲兵少尉に任官し野砲兵第1連隊付となる。1907年(明治40年)12月、陸軍砲工学校高等科を卒業。陸士教官などを経て、1912年(大正元年)11月、陸軍大学校(24期)を卒業した。 1912年12月、野砲兵第17連隊中隊長となり、参謀本部付、参謀本部員、フランス留学、イタリア軍従軍などを歴任。
金平 亮三(かねひら りょうぞう、1882年1月1日 - 1… 金平 亮三(かねひら りょうぞう、1882年1月1日 - 1948年11月27日)は、日本の植物学者・林学者。九州帝国大学教授、陸軍司政長官を歴任。 金平惣伍の三男として岡山県に生まれる。東京帝国大学を卒業後、台湾総督府技師となり、同府営林局、中央研究所林業部長などを歴任した。1928年(昭和3年)九州帝国大学教授となり、1942年(昭和17年)3月に退官した。同年11月、陸軍司政長官に就任した。台湾のほかフィリピン、ニューギニア、ペルーなどで植物、特に森林資源の調査を行った。 この項目は、植物学に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。
岸野 牧夫(きしの まきお、1882年(明治15年)1月1日… 岸野 牧夫(きしの まきお、1882年(明治15年)1月1日 – 1962年(昭和37年)4月21日)は、大正から昭和期の政治家。参議院議員、徳島県会議長。 徳島県三好郡芝生村(三野村、三野町芝生を経て現三好市)で、岸野藤三郎の長男として生まれる。県立中学校を卒業した。一年志願兵として入隊し陸軍中尉に昇進し、のちに帝国在郷軍人会三好郡聯合分会長を務めた。 三好郡会議員を経て、1923年(大正12年)徳島県会議員に選出され24年間在任し、この間、参事会員、副議長を務め、1937年(昭和12年)県会議長に就任した。この間、大政翼賛会徳島県支部顧問などを務めた。 1947年(昭和22年)4月の第1回参議院議員通常選挙に徳島県地方区から出馬して当選し(補欠、任期3年)緑風会に所属したが、公職追放となり任期途中の同年7月2日に辞職し、参議院議員に1期在任した。
余 棨昌 (よ けいしょう、1882年 – 1949年)は中… 余 棨昌 (よ けいしょう、1882年 – 1949年)は中華民国の裁判官・法学者。北京政府時代に大理院院長(最高裁判所長官)となり、法学者としても法学教育や司法教育に功績があった。字は戟門。 清末に日本へ留学する。1911年(宣統3年・明治44年)7月、東京帝国大学法学部法律学科(ドイツ法兼修)を卒業し、併せて法学士の称号を取得した。帰国後、戸部主事に任じられている。 中華民国成立後の1912年(民国元年)に財政部弁事、法制局参事、籌備国会事務局委員会委員を歴任する。翌1913年(民国2年)、12月には高等文官懲戒委員会委員となり、更に大理院推事兼庭長に抜擢された。その後も高等文官甄別委員会委員、約法会議議員資格審定会会員、高等捕獲審検庁首席評事、司法官懲戒委員会委員を歴任(兼任)している。
山下 兼秀(やました かねひで、1882年-1939年)は、… 山下 兼秀(やました かねひで、1882年-1939年)は、日本の洋画家。大牟礼南島、谷口午二らとともに戦前の鹿児島洋画壇の中心的人物だった。黒田清輝の愛弟子で、日本洋画壇の本流を直接鹿児島へもちこんだ功労者。 1882年鹿児島市生まれ。中学造士館卒業後、東京美術学校西洋画科入学。1910年、第4回文部省美術展覧会(文展、現・日展)に「並木」で入選。白馬会に所属し、黒田清輝の信頼も厚く葵橋洋画研究所を継ぐ者と目されていたが、ヨーロッパ留学目前の1912年に母の急死を契機として鹿児島へ帰郷。 帰郷後まもなく地元百貨店山形屋に招かれ宣伝課初代課長として勤務して、広告デザイナーとして活躍しながら油彩画を描き、後進の育成にも取り組む。
土井 芳輔(どい よしすけ、明治15年(1882年) - 大… 土井 芳輔(どい よしすけ、明治15年(1882年) - 大正12年(1923年)1月27日)は、日韓併合時代の南満州鉄道・京城出張所所長。板垣正貫の岳父。 明治15年(1882年)、山口県佐波郡三田尻村に生まれる。明治35年(1902年)、法政大学法律科を卒業し、さらに明治大学法学科を卒業。明治39年(1906年)、外国語学校に通い支那語科を修める。 明治41年(1908年)3月、南満州鉄道会社鉱業課に入社。明治45年(1912年)5月、南満州鉄道の京城出張所設置に伴い、京城出張所所長を勤める。 大正2年(1913年)11月9日、高知県土佐郡潮江村343番屋敷士族・澤田誠一の長女・澤田鶴と婚姻。
山口 正造(やまぐち しょうぞう、1882年 - 1944年… 山口 正造(やまぐち しょうぞう、1882年 - 1944年)は、日本の実業家、富士屋ホテル元代表取締役社長、富士屋自動車元社長、箱根ホテル元社長。 1882年(明治15年)7月、栃木県・日光金谷ホテルの金谷善一郎の次男・金谷正造として生まれる。日光金谷ホテルは1873年(明治6年)に外国人向けの民宿として、ジェームズ・ヘボンの薦めで「金谷カッテージ・イン」として創業したクラシックホテルで、現存する日本最古のリゾートホテルとして知られている。 1893年(明治26年)、父・善一郎が「金谷ホテル」を開業。築地にあった立教学校(立教大学の前身の一つ)初代校長で建築家としても活躍したジェームズ・ガーディナーの薦めで、ホテル開業前年の1892年(明治25年)に3歳上の兄・金谷眞一が立教学校で学んだことから、その後正造も兄と同じく立教学校で英学を学んだ。
加藤 新三郎(かとう しんざぶろう、1882年 - 1957… 加藤 新三郎(かとう しんざぶろう、1882年 - 1957年)は、日本の地方政治家。東京府清瀬村(現在の清瀬市)の村長を務めた。父の加藤鉄五郎(1858年 - 1932年)も村長を務めている。 清瀬村会議員を経て、1926年に父の鉄五郎が村長を辞任した折に、後任として就任する。[要出典]。 1927年、東京府が府立結核療養所の清瀬設置を決定すると、新三郎は反対した。いったんは取りやめになったものの、翌年、再び設置を決定すると、新三郎らはさらなる反対の議決と、それに同意する地元住民の陳情書を提出し、当地への結核療養所の設置に反対の意思を示した[要出典]。 1930年に村長を辞任。その後、結核療養所は小島長太郎が村長の時代に設置された[要出典]。
高松 梅治(たかまつうめじ、うめはる、明治15年1882年1… 高松 梅治(たかまつうめじ、うめはる、明治15年1882年12月〜)とは、日本の軍人、学者、発明家である。無限軌道を発明したことで知られる。 富山県新川郡新保村(現・富山市栗山)に高松清重の子として生まれる。中学のころ井上円了に学び、慶應義塾に入学、明治40年(1907年)に同校法科を卒業。 巣鴨・板橋(白山)間を走る乗合馬車(通称・ガタ馬車)に乗った妊婦がその激しい揺れにより車上流産したを知り、滑らかに回転させるものとして無限軌道の研究を始め、13年の試行錯誤の末、明治44年(1911)に欧米8か国に特許申請し、国内では農商務省の特許を取得した(発明自体は1899年とする説、1907年ごろとする説あり)。
杉村信近(すぎむら のぶちか、1882年(明治15年) - … 杉村信近(すぎむら のぶちか、1882年(明治15年) - 1973年(昭和48年)4月15日)は、日本の技術者、発明家、弁理士。日本弁理士会の初代理事長(現在の会長職相当)。 東京帝国大学を卒業後、芝浦製作所に技術者として入社。在職中に12件の日本国特許出願を行い、米国でも特許を取得した。 1920年(大正8年)に弁理士資格を取得し、日本初の企業内弁理士として芝浦製作所特許部に勤務する。 1923年(大正11年)に、芝浦製作所を退職し、杉村萬国特許事務所を創立する。 原子力エネルギー発生装置事件の出願及び審決取消訴訟の代理人を務める。 1961年(昭和36年)に藍綬褒章を受章する。墓所は多磨霊園(13-1-22)
鈴木 富士彌(すずき ふじや、1882年 - 1946年)は… 鈴木 富士彌(すずき ふじや、1882年 - 1946年)は大分県出身の弁護士であり政治家。名前は鈴木 富士弥とも表記される。 三塚亥三郎の三男・文蔵として1882年(明治15年)11月26日に大分市大工町に生まれる。生家は仲野屋といい地域で有数の商家であった。熊本の旧制五高を経て1902年(明治35年)に東京帝国大学法科大学へ進学。在学中の1905年(明治38年)1月に日本精糖創業者である鈴木藤三郎の長女みつ子と結婚し鈴木家の婿養子となる。1906年(明治39年)7月に同大学独逸法科を卒業後、米国へ留学。ニューヨークに滞在し商工業の現地調査の後、欧州へ渡り英独をはじめ各国歴遊してシベリア経由で1908年(明治41年)に帰国した。
古橋 柳太郎(ふるはし りゅうたろう、1882年 - 196… 古橋 柳太郎(ふるはし りゅうたろう、1882年 - 1961年)は、日本の建築家。東京府生まれ。 東京で大工の棟梁をしていた古橋由次郎の長男として出生した。1910年、東京帝国大学工科大学建築学科を卒業し、清国政府から技師として招かれた。翌1911年、辛亥革命が勃発すると帰国し、曽禰中條建築事務所に勤務した。1914年、独立し建築事務所を設立した。1961年、東京都内で亡くなった。 主な作品に後楽園球場、麻布中学高等学校、日本基督教団甲府教会などがある。 『日本基督教団甲府教会百年史』日本基督教団甲府教会、1979年4月22日
金 東元(キム・ドンウォン、朝鮮語: 김동원、1882年また… 金 東元(キム・ドンウォン、朝鮮語: 김동원、1882年または1884年2月1日 - 没年不詳)は、日本統治時代の朝鮮の独立運動家、教育者、大韓民国の政治家。制憲韓国国会議員、初代国会副議長。本貫は全州金氏。 小説家の金東仁は腹違いの弟。 平安南道の平壌市倉田または大同郡出身。1903年、平壌日語学校卒。私立中学郁文館(現・郁文館中学校・高等学校)卒、明治大学法科中退、法政大学卒業または中退。1910年から平壌崇実学校・大成学校・崇徳学校・崇賢女子学校教師、大成学校校長、崇仁学校・崇義学校・崇実学校・セブランス医学専門学校理事または理事長、木材商、平壌ゴム工場経営者を務めたほか、1911年に寺内正毅暗殺事件(105人事件)により1年半投獄され、1922年に安昌浩の興社団の国内組織である同友倶楽部を組織し、1925年に修養同友会に、1930年に同友会にそれぞれ改編した。
陳 中孚(ちん ちゅうふ、1882年 - 1958年5月24… 陳 中孚(ちん ちゅうふ、1882年 - 1958年5月24日)は、清末民初の官僚・政治家。字は奇曽。早くから革命派として活動し、中国国民党では西山会議派の一員と目された。後に汪兆銘政権に参加している。 清末に日本に留学して法政大学を卒業し、帰国後は商震らと東三省で革命派の秘密活動に従事した。辛亥革命が勃発すると、東三省で革命派の連絡員を務めている。 中華民国成立後の第二革命(二次革命)の失敗で日本に亡命し、後に中華革命党総務部第二科科長に任ぜられた。1915年に帰国し、孫文(孫中山)らの指示で山東省にて党務・軍務に従事する。同年末に護国戦争が勃発すると、東北革命軍総司令部参謀兼運糧局局長となり、後に総司令代理も務めた。
河野 光次(こうの みつじ、1882年 - 1958年6月1… 河野 光次(こうの みつじ、1882年 - 1958年6月1日)は、日本の事業家、尾崎行雄の義理の娘婿である。 河野一三の兄で、河野一英と河野典男の伯父にあたる。 1882年、広島県沼田郡緑井村(現在の広島市安佐南区緑井付近)出身。東京府荏原郡馬込村(現在の東京都大田区南馬込)に移り、早稲田大学に入学し尾崎行雄の書生および秘書となった。1904年8月、朝鮮へ渡航し、土地開発事業に携わったが失敗に終わった。 1909年に帰国し、1910年に尾崎行雄の養女・多満と結婚した。その後、田園都市株式会社に関与し、東急グループの基盤形成に寄与した。 1919年9月にはアメリカへ渡航し、ニューヨークやワシントンなどを視察した。
武田 豊四郎(たけだ とよしろう、1882年〈明治15年〉 … 武田 豊四郎(たけだ とよしろう、1882年〈明治15年〉 - 1958年〈昭和33年〉7月30日)は、日本の仏教学者、民俗学者。早稲田大学仏教青年会初代会長。
神津 猛(こうづ たけし、1882年 - 1946年6月21… 神津 猛(こうづ たけし、1882年 - 1946年6月21日)は、日本の実業家、考古学研究者。 長野県北佐久郡志賀村(現佐久市)生まれ。生家は信州で指折りの豪農であった神津家の「赤壁家」である。明治32年(1899年)慶應義塾幼稚舎を卒業して帰郷。祖父の包重が始めた報徳会(のち農業会)を中興して、農村指導や地方自治にあたる。明治40年(1907年)から村政に関与し、大正6年(1917年)志賀村長に就任、その他、北佐久郡会議員、上田の中信銀行頭取、佐久鉄道の重役を務めた。昭和5年(1930年)信濃銀行破綻に際しては私財を投じて支払いに当たった。 島崎藤村、田山花袋、高浜虚子らと交流があり、藤村の『破戒』の自費出版費用を提供し、その後も支援を続けた。
山本 昇雲(やまもと しょううん、明治3年11月9日〈187… 山本 昇雲(やまもと しょううん、明治3年11月9日〈1870年12月30日〉 - 昭和40年〈1965年〉5月10日)は、明治時代から大正時代にかけて制作した浮世絵師で日本画家、石版画家で報道画家。名は茂三郎といい、昇雲のほか小斎、松谷と号す。 出身は高知県長岡郡後免町(現・南国市)、生家の古物商は江戸時代、旧土佐藩の郷士であった。二男として生まれた山本茂三郎が6歳頃から師事した柳本圭吾(号「洞素」)は駿河台狩野家・狩野洞白の門人で、元は山内家の御抱絵師も勤めた絵師である。9歳になる明治12年(1879年)に、柳本の斡旋で狩野永岳門人である河田小龍にも絵を学び、入門3年目に小龍から「小斎」の画号を受けた。
堤 雄長(つつみ たけなが、1870年12月29日〈明治3年… 堤 雄長(つつみ たけなが、1870年12月29日〈明治3年11月8日〉- 1955年〈昭和30年〉4月11日)は、明治から昭和期の宮内官。政治家。華族。貴族院子爵議員。旧名・雄麿。 山城国京都で華族・堤功長の次男として生まれる。父の死去に伴い、1913年(大正2年)12月10日に子爵を襲爵した。 1894年(明治27年)東京美術学校日本画科を卒業。工手学校、京華中学校などで教師を務めた。1912年、祭官となる。以後、大喪使祭官、名誉掌典、青山御所祗候などを務めた。 1916年(大正5年)6月17日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し、1925年(大正14年)7月9日まで2期在任した。
坂口 惣五郎(さかぐち そうごろう、1870年12月25日〈… 坂口 惣五郎(さかぐち そうごろう、1870年12月25日〈明治3年11月4日〉 - 1939年〈昭和14年〉3月17日)は、日本の政治家、実業家、地主。米子市会議員。カギさ醤油醸造元坂口商店取締役社長。族籍は鳥取県平民。 鳥取県西伯郡米子町大字尾高町(現・米子市尾高町)出身で、生家は木綿問屋。木綿商・坂口平吉郎の四男。1902年、兄・平兵衛方より分家をする。 会社の重役であり、坂口商店代表取締役、大谷オフセット社長、米子家畜市場、日本製絲、山陰水産、米子電車軌道、米子製鋼所各取締役、米子電車軌道、博愛病院各監査役、有限責任米子信用組合第二代組合長などをつとめる。 1907年から1911年まで米子町収入役をつとめる。
玉村 勇助(たまむら ゆうすけ、1870年12月24日(明治… 玉村 勇助(たまむら ゆうすけ、1870年12月24日(明治3年11月3日) - 1946年(昭和21年)12月26日)は、日本の技術者、発明家。 福井県出身。1895年(明治28年)に東京帝国大学工科土木科を卒業した。1898年(明治31年)から足尾銅山に勤務し、銅山で使用されていたイギリス製の空中ケーブルの改良に従事した。1902年(明治35年)に自在運搬器を発明し、1907年(明治40年)に玉村工務所を開設した。同年1907年に有翼抱索子を発明して新型ケーブルを開発した。 1919年と1933年に全国発明表彰の有功賞が授与されている。
小柳 司気太(おやなぎ しげた、1870年12月24日(明治… 小柳 司気太(おやなぎ しげた、1870年12月24日(明治3年11月3日)- 1940年(昭和15年)7月18日)は、日本の中国文学者、道教の研究者。新潟県出身[信頼性要検証]。東京帝国大学選科修了。旧姓は熊倉[信頼性要検証]。 越後国中蒲原郡小吉村(現・新潟県新潟市西蒲区)で、熊倉玄周の子として生まれる。父の死後、母方の叔父・小柳卯三郎の養子となる。1885年、粟生津村の私塾長善館に入門。1888年に上京。東京英語学校に入学するが、病気により一時退学、帰郷。1894年、東京帝国大学漢学科選科修了。藤田精一らと東亜学院を設立し、月刊誌『東亜説林』を刊行する。その後、広島尋常中学校教諭、真言京都中学校教諭を務める。
殖田 謙吉(うえだ けんきち、1870年12月24日(明治3… 殖田 謙吉(うえだ けんきち、1870年12月24日(明治3年11月3日) - 1904年(明治37年)9月4日)は、大日本帝国海軍の軍人。最終階級は海軍少佐。庄屋殖田覚十郎の二男として生まれる。母方姓是恒。大分県宇佐郡駅館村出身。第2次吉田内閣の法務総裁殖田俊吉は甥である。 旧海軍機関学校(横須賀)から海軍兵学校(18期)に編入。海軍大学校、鎮守府参謀を経て日露戦争開戦時は軍令部参謀。後に連合艦隊参謀に転出。黄海海戦において「三笠」最上艦橋で戦傷を受け、佐世保海軍病院にて死去。伊藤正徳は殖田について「有為の参謀であった」と評している。 1904年(明治37年)8月10日、最上艦橋で指揮をとっていた殖田は午後6時30頃に、前部艦橋左舷のセマホア信号機に敵弾が命中炸裂、その弾片、破片により負傷した。
網蔵 平輔(あみくら へいすけ、1870年12月23日(明治… 網蔵 平輔(あみくら へいすけ、1870年12月23日(明治3年11月2日)- 1947年(昭和22年)2月18日)は、明治時代後期から昭和時代の日本の大地主、政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。幼名・静。妹の夫は貴族院議員 秋山源兵衛。 網蔵輝祖の孫、輝明の長男として生まれ、1889年(明治22年)2月に家督を相続する。本籍は山梨県北巨摩郡塩崎村(後の同郡双葉町、現在の甲斐市)で農業を生業にした。明治法律学校を修了した。 山梨証券監査役として山梨県多額納税者に列し、1915年(大正4年)貴族院議員に互選され、同年4月29日から1918年(大正7年)9月28日まで在任した。 ほか、北巨摩郡会議員、同郡塩崎村長を務めた。
北井 波治目(きたい はじめ、明治3年10月15日(1870… 北井 波治目(きたい はじめ、明治3年10月15日(1870年12月9日) - 昭和11年(1936年)10月16日)は、衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。 駿河国豊田郡佐久間村出身(現在の静岡県浜松市天竜区)。1893年(明治26年)、日本法律学校(現在の日本大学)を卒業した。翌年に弁護士試験に合格し、弁護士業務に従事した。1898年(明治31年)、判事となり、五條区裁判所判事、名古屋区裁判所判事、岐阜地方裁判所判事を歴任した。1901年(明治34年)、退官して弁護士に復帰した。 1917年(大正6年)、第13回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第14回衆議院議員総選挙でも再選された。 その他、福川汽船株式会社・セミ肥料株式会社取締役、福川林業株式会社・入山採炭株式会社・国光印刷株式会社監査役などを務めた。
喜屋武 朝徳(きゃん ちょうとく、1870年12月 - 19… 喜屋武 朝徳(きゃん ちょうとく、1870年12月 - 1945年9月20日)は、沖縄県の唐手(現・空手)家。戦前における空手の大家の一人である。 喜屋武朝徳は、1870年(明治3年)、喜屋武親雲上朝扶(のち親方位へ陞る)の三男として首里儀保村(現・那覇市首里儀保町)に生まれた。目が小さかったことから「喜屋武(チャン)・目(ミー)小(グヮー)」と呼ばれた。喜屋武家は尚清王(在位1526年 - 1555年)の第十王子、唐名・尚悦敬、羽地王子朝武を元祖とする首里士族であり、その家格は殿内(トゥンチ)と呼ばれ、代々喜屋武間切(現・糸満市喜屋武地区)を領する大名という名家であった。父朝扶は本部家の分家の本永家から喜屋武家に養子に入った。
酒井 忠亮(さかい ただあき、明治3年閏10月2日(1870… 酒井 忠亮(さかい ただあき、明治3年閏10月2日(1870年11月24日) - 昭和3年(1928年)8月1日)は、明治時代から昭和時代前期の華族。忠稠系小浜藩酒井家別家、越前国敦賀藩第8代藩主・酒井忠経の長男。幼名は松之助。正室は松平康英の娘鉚。子は酒井忠英、義男。 東京に生まれ、明治17年(1884年)7月8日の華族令により子爵となる。学習院高等科、帝国大学法科を卒業。明治34年(1901年)8月2日、補欠選挙で貴族院議員に選出され、研究会に属し常務委員を務めた。 大正2年(1913年)3月15日、伯剌西爾(ブラジル)拓殖株式会社が設立され、取締役会長となる。東華生命保険、東北電力、横浜倉庫の社長を務めたほか、横浜正金銀行、高砂商事、海外興産等の役員を務めた。
田岡 嶺雲(たおか れいうん、明治3年10月28日(1870… 田岡 嶺雲(たおか れいうん、明治3年10月28日(1870年11月21日) - 大正元年(1912年)9月7日)は、近代日本の文芸評論・思想家。本名は佐代治。
中田 重治(なかだ じゅうじ、1870年11月20日(明治3… 中田 重治(なかだ じゅうじ、1870年11月20日(明治3年10月27日)- 1939年(昭和14年)9月24日)は、明治・大正・昭和初期にかけて活躍した日本の教会監督、大衆伝道者、巡回伝道者、福音使(牧師)、神学校(柏木聖書学院)教師・院長(校長)、宗教家、説教家、翻訳家、賛美歌作家、実業家、ジャーナリスト、神学者、日ユ同祖論者である。 明治時代のメソジスト派の牧師中田久吉は実兄、日本を代表する教会音楽家の中田羽後は次男、日本アライアンス教団の大江寛人、日本基督教団の議長辻宣道、同じく日本基督教団の牧師有馬式夫は孫である。 日本ホーリネス教会の創始者の一人で初代監督であり、日本ホーリネス教会を既存の五大教派(長老派、メソジスト派、会衆派、バプテスト派、ルーテル派)に並ぶ巨大組織に発展させた功労者。
長尾 良吉(ながお りょうきち、1870年11月19日(明治… 長尾 良吉(ながお りょうきち、1870年11月19日(明治3年10月26日)- 1937年(昭和12年)1月22日)は、日本の経営者。鐘淵紡績社長を務めた。 兵庫県出身。1885年に府立大阪中学校(現大阪府立北野高等学校)初等中等科を卒業。1891年に高等商業学校(現一橋大学)本科を卒業。県立神戸商業学校教諭を経て、1895年に同校長事務取扱となる。 内外綿神戸出張所長、孟買出張所主任/副支配人を経て、1900年に鐘淵紡績に入社。1916年取締役。1922年には平生釟三郎の甲南高等学校(現甲南大学)設立を支援。1925年常務取締役。1928年副社長。1930年に社長に就任。 1933年川崎造船所取締役、本山村会議員。
今幡 西衛(いまはた にしえ、1870年11月19日(明治3… 今幡 西衛(いまはた にしえ、1870年11月19日(明治3年10月26日)– 1952年(昭和27年)3月16日[要出典])は、高知県出身の自由民権運動家。自由党員、実業家、作家。 1870年11月19日(明治3年10月26日)、竹村九十九(つくも)の次男として高知県幡多郡中村町(現 高知県四万十市)に生まれる。のち今幡西衛(初代)の養子となり、その名を襲う。 1890年(明治23年)、自由党に入党して林有造、片岡健吉らに連れられ上京。代議士・三崎亀之助の書生となる。 1893年(明治26年)、中央大学を卒業。 竹内鉱業株式会社に入社して、北海道夕張炭鉱の取締役支配人となる。 1915年(大正4年)3月、竹内明太郎が立憲政友会の推薦を受けて、衆議院議員選挙(第12回)に立候補すると、故郷高知県に戻って選挙活動に奔走した。
紀 俊秀(きい としひで、明治3年10月24日(1870年1… 紀 俊秀(きい としひで、明治3年10月24日(1870年11月17日) - 昭和15年(1940年)9月20日)は、日本の政治家、実業家、日前神宮・國懸神宮宮司。栄典は正三位勲三等男爵。貴族院議員(通算6期29年)。 明治3年(1870年)10月24日、日前神宮・國懸神宮宮司・紀俊尚と鶴子の三男として紀伊国名草郡秋月村(現在の和歌山県和歌山市秋月)で生まれる。幼名は文麿(ふみまろ)。学習院高等学科卒業。明治24年(1891年)1月に名を俊秀と改め、同年10月に日前神宮・國懸神宮宮司となる。明治29年(1896年)8月26日、家督を相続して男爵を襲爵した。明治30年(1897年)7月10日の第2回伯子男爵議員選挙で初当選し、貴族院議員に就任した。
多田 悦太郎(ただ えつたろう、1870年11月16日(明治… 多田 悦太郎(ただ えつたろう、1870年11月16日(明治3年10月23日) - 没年不明)は、日本の政治家、神奈川県多額納税者。 神奈川県人・多田勘兵衛の長男。1889年、家督を相続する。明治法律学校に学び、農業を営む。成瀬村会議員、同学務委員に選ばれる。中郡会議員、成瀬村農会長、同青年会顧問等に挙げられる。貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有する。住所は神奈川県中郡成瀬村(現伊勢原市)。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
塩澤 昌貞(しおざわ まささだ、1870年11月14日(明治… 塩澤 昌貞(しおざわ まささだ、1870年11月14日(明治3年10月20日) - 1945年(昭和20年)7月7日)は、茨城県水戸出身の経済学者、法学博士、早稲田大学第4代学長、第2代総長。 早稲田大学時代にボート競技に取り組んだことが縁で、晩年、日本漕艇協会会長に就任した。1940年(昭和15年)戸田漕艇場オープン時のデモンストレーションでは、会長として70歳台艇に乗り込み舵手を務めた。
星野 太郎(ほしの たろう、明治3年10月19日(1870年… 星野 太郎(ほしの たろう、明治3年10月19日(1870年11月12日) - 昭和8年(1933年)11月25日)は、日本の商学者、教育者。東京商科大学(現一橋大学)商学専門部教授として簿記論や商品学を講じた。 駿河国(現静岡県)で旧幕臣星野鉄太郎(のちに初代静岡市長)の長男として生まれる。東京高等商業学校(現一橋大学)卒業後、1904年同校教授に就任。下野直太郎、鹿野清次郎らと簿記・商品学を講じた。同僚の志田鉀太郎、下野直太郎、關一、佐野善作、村瀬春雄、坂本陶一、石川文吾、瀧本美夫、横井時冬らとともに明治大学商学部設立にも尽力し、1904年に明治大学商学部が設立されると商品学講師に就任。1920年に東京高等商業学校が旧制東京商科大学に改組されると、同大学付属商学専門部教授や予科教授、同大学付属商業教員養成所主事を務めたが、在任中の1933年に死去した。
鈴木 大拙(すずき だいせつ、本名:貞太郎〈ていたろう〉、英… 鈴木 大拙(すずき だいせつ、本名:貞太郎〈ていたろう〉、英語: D. T. Suzuki 〈Daisetz Teitaro Suzuki〉、1870年11月11日〈明治3年10月18日〉 - 1966年〈昭和41年〉7月12日)は、日本の仏教学者、文学博士である。禅についての著作を英語で著し、日本の禅文化を海外に紹介した。著書約100冊の内23冊が、英文で書かれている。1949年に文化勲章、日本学士院会員。 名の「大拙」は居士号である。故に出家者ではない。生涯、有髪であった。同郷の西田幾多郎、藤岡作太郎とは石川県立専門学校以来の友人であり、鈴木、西田、藤岡の三人は「加賀の三太郎」と称された。また、金沢時代の旧友である安宅産業の安宅弥吉は「お前は学問をやれ、俺は金儲けをしてお前を食わしてやる」と約束し、大拙を経済的に支援した。
十文字 こと(じゅうもんじ こと、天保暦 明治3年11月10… 十文字 こと(じゅうもんじ こと、天保暦 明治3年11月10日 / グレゴリオ暦 1870年12月31日 - 1955年5月17日)は、日本の教育者である。十文字学園の設立者である。旧姓は高畑。
工藤 英一(くどう えいいち、明治3年10月17日(1870… 工藤 英一(くどう えいいち、明治3年10月17日(1870年11月10日) - 没年不詳)は、朝鮮総督府官僚。 青森県弘前市出身。1896年(明治29年)に東京帝国大学法科大学政治科を卒業。農商務属となり、同年に高等文官試験に合格した。翌年、鉱山監督官・盛岡鉱山監督署長となった。以後、農商務書記官・福岡鉱山監督署長、特許局事務官・農商務省参事官などを歴任。1909年(明治42年)、韓国政府の招聘で農商工部鉱務局長となった。その後、朝鮮総督府農商工部商工局長、全羅南道長官、平安南道長官を歴任。1919年(大正8年)には京畿道知事に就任した。
植松 京(うえまつ みやこ、植松 京一、うえまつ きょういち… 植松 京(うえまつ みやこ、植松 京一、うえまつ きょういち、 1870年11月10日〈明治3年10月17日〉 - 1922年(大正11年)4月)は、明治から大正期の実業家。三菱造船常務取締役、三菱商事取締役、三菱海上火災保険(現・東京海上日動火災保険)取締役。 1870年11月10日(明治3年10月17日)、植松有經(有経)の長男として東京府で生まれる。 実業を志し、立教学校(現・立教大学)に入学し英学を修めて、その後、米国に留学。 帰国後、三菱合資会社に入社し、同造船部副部長を務めたほか、同鉱業部副長も務めた。 明治期において、三菱の幹部として九州鉄道の株式を多く所有した。 1917年(大正6年)に、三菱造船常務取締役に就任。
関 和知(せき わち、1870年11月10日(明治3年10月… 関 和知(せき わち、1870年11月10日(明治3年10月17日) - 1925年(大正14年)2月18日)は、日本の衆議院議員(憲政会)。族籍は千葉県平民。 千葉県長生郡東浪見村(現在の一宮町)出身。千葉県平民・関八蔵の長男。生家は富裕な農家であった。従って小学校を卒業する頃までの関は何の不自由もなく、気随気儘に父母の暖かい情愛に包まれて成長した。けれども中学に進もうとする時に父が慣れぬ事業に手を出して失敗、没落した。漢学者の塾に通って勉強する傍ら村の小学校の代用教員をつとめた。教員検定試験に合格した。 20歳の時、上京し、立教学校(現・立教大学)に入学して同校を卒業後、東京専門学校(現・早稲田大学)に入学して1895年(明治28年)、邦語政治科を卒業した。
安保 清種(あぼ きよかず、1870年11月8日〈明治3年1… 安保 清種(あぼ きよかず、1870年11月8日〈明治3年10月15日〉- 1948年〈昭和23年〉6月8日)は、明治・大正・昭和期の日本の海軍軍人。海軍大将正三位勲一等功四級男爵。濱口内閣海軍大臣。佐賀県出身。 東京都新宿区にある道路「安保坂」は、安保の邸があったことに由来する。 海軍草創期の中堅幹部・沢野種鉄大佐の三男として生まれる。前名は康三郎。佐賀中学、攻玉社を経て、海軍兵学校(18期)に入学し、1891年(明治24年)に61名中11位で卒業。同期生に加藤寛治がいる。在学中は父が兵学校次長であった。しかし在学中に父が病没する。規定局長林清康少将(のち海軍中将)が長女との縁談を進め、林家の養子となる。
相馬 愛蔵(そうま・あいぞう、明治3年10月15日(1870… 相馬 愛蔵(そうま・あいぞう、明治3年10月15日(1870年11月8日) - 昭和29年(1954年)2月14日)は、長野県出身の社会事業家、実業家。妻の相馬黒光とともに東京新宿中村屋を創業した。