横田 千之助(よこた せんのすけ、1870年9月17日〈明治… 横田 千之助(よこた せんのすけ、1870年9月17日〈明治3年8月22日〉- 1925年〈大正14年〉2月4日)は、日本の政治家。栃木県足利市出身。法制局長官や司法大臣を歴任し、普通選挙の実現や貴族院改革に取り組む。通称「横千」(よこせん)。立憲政友会のニューリーダーとして期待されたが急逝した。 下野国足利の織物商の次男として生まれる。実家が没落したため、織物商の丁稚奉公を経て上京し、東京法学院(現:中央大学)に通いながら新聞記者や星亨の書生を務める。1893年(明治26年)に代言人(今の弁護士)試験に合格して星の主宰する法律事務所に所属、1899年(明治32年)に独立した。翌年の立憲政友会の結党に星とともに参加、その頃より実業界にも進出して複数の企業の役員も務めた。
日下部 三九郎(くさかべ さんくろう、1870年9月16日(… 日下部 三九郎(くさかべ さんくろう、1870年9月16日(明治3年8月21日) - ?)は、日本の外交官。東京府平民。 旧暦明治3年8月21日(1870年9月16日)、伊勢国桑名(現:三重県桑名市)生まれ。共立学校(現:開成中学校・高等学校)、第一高等中学校を経て、1894年6月に帝国大学法科大学卒業。 1894年9月に外交官補となった後、領事官補、在スウェーデン・ノルウェー臨時代理公使、在イタリア臨時代理公使などを経て、1906年1月より公使館一等書記官・大使館一等書記官、1908年1月より関東都督府外事総長を務めた後、1909年2月に休職となる。1915年から1918年時点では福岡県にあった堀鉱業の監査役・取締役を務めていた。
山田 三次郎(やまだ さんじろう、1870年9月14日(明治… 山田 三次郎(やまだ さんじろう、1870年9月14日(明治3年8月19日) - 1939年(昭和14年)6月23日)は、日本の技術者、実業家。旭硝子(現AGC)会長や、日本化成工業(のちの三菱化学、現在の三菱ケミカル)社長を務めた。 鹿児島県生まれ。東京数学院(現東京高等学校)を経て、1897年に東京工業学校(現東京工業大学)窯業科卒業後、1900年から1903年まで農商務省海外実業練習生としてブリュッセルのガラス工場に留学した。 農商務省嘱託を経て、1906年東洋硝子技師。1908年旭硝子工務長となり、岩崎俊弥による旭硝子創業に加わり、欧米の調査などを行った。1918年日米板ガラス取締役。旭硝子常務取締役を経て、初代社長の岩崎の死後、1931年から後継として旭硝子取締役会長(第2代社長)を務めた。
後藤 武夫(ごとう たけお、1870年9月13日(明治3年8… 後藤 武夫(ごとう たけお、1870年9月13日(明治3年8月18日) - 1933年(昭和8年)2月25日)は、日本の実業家。帝国興信所(現・帝国データバンク)、日本魂社創業者。福岡県出身。 筑後国出身。1883年(明治16年)、福岡県立福岡中学校(現・福岡県立福岡高等学校)を経て、1887年(明治20年)4月、上京して東京英語学校に入学するが、1890年(明治23年)に帰郷して井尻高等小学校 (現・福岡市立三宅小学校)の教員となる。1894年(明治27年)、妻子を伴って大阪市へ移り、 関西法律学校(現・関西大学)に入学し、勤めながら修学し、1897年(明治30年)に卒業する。福岡日日新聞記者を経て1898年(明治31年)上京の後、明治33年(1900年)に帝国興信所(現・帝国データバンク)を設立した。
油井 徳蔵(ゆい とくぞう、1870年9月12日(明治3年8… 油井 徳蔵(ゆい とくぞう、1870年9月12日(明治3年8月17日)- 1963年(昭和38年)7月22日)は、明治時代末期から昭和時代前期の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。 油井宇之助の二男として、のちの福島県福島市本町に生まれる。幼年期は伊達郡保原町の豪商福井商店に丁稚奉公する。 1910年(明治43年)以降、福島県輸出絹織物同業組合連合会議員、同同業組合長、福島商業会議所議員、副会頭、会頭、同市会議員のほか、第一福島羽二重社長、福島羽二重、二本松羽二重、福島商業銀行、川俣銀行、九笹機業場、福島誠壱などの重役を歴任した。 1932年(昭和7年)福島県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日に就任し、同成会に所属して1939年(昭和14年)9月28日まで1期在任した。
木村 清治(きむら せいじ、1870年9月10日(明治3年8… 木村 清治(きむら せいじ、1870年9月10日(明治3年8月15日)- 1961年(昭和36年)1月25日)は、明治から昭和前期の医師、政治家、実業家。衆議院議員。 陸奥国磐前郡、のちの福島県磐前郡大浦村(石城郡大浦村、四倉町を経て現いわき市四倉町)で、木村玄策の二男として生まれる。1890年(明治23年)済生学舎(現日本医科大学)を卒業。医術開業試験に合格し、1893年(明治26年)に帰郷して医院を開業した。 1911年(明治44年)福島県会議員に選出され3期在任し、同参事会員も務めた。大浦村会議員、石城郡会議員にも在任した。1928年(昭和3年)2月、第16回衆議院議員総選挙(福島県第3区、立憲政友会公認)で初当選し、1930年(昭和5年)2月の第17回総選挙(福島県第3区、立憲政友会公認)でも再選され、衆議院議員に連続2期在任した。
市川 堅太郎(いちかわ けんたろう、1870年9月10日(明… 市川 堅太郎(いちかわ けんたろう、1870年9月10日(明治3年8月15日) - 1925年(大正14年)2月4日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 石川県金沢市で知行100石の旧加賀藩士の家に生まれる。1890年(明治23年)7月、陸軍士官学校(1期)を卒業。翌年3月、歩兵少尉任官。1900年(明治33年)12月、陸軍大学校(14期)を卒業。参謀本部勤務となる。 日露戦争に第4軍参謀として出征した。1908年(明治41年)12月、第2師団参謀長に就任し、1909年(明治42年)1月、歩兵大佐に昇進した。1912年(大正元年)11月、歩兵第9連隊長となる。1914年(大正3年)11月、陸軍少将に昇進し歩兵第7旅団長に着任。
乾 南陽(いぬい なんよう、明治3年8月13日(1870年9… 乾 南陽(いぬい なんよう、明治3年8月13日(1870年9月8日) - 昭和15年(1940年)6月29日)は日本画家。本名、乾 長光(ながみつ)。 土佐国土佐郡(現:高知県高知市)に土佐藩士の子として生まれ、 東京美術学校日本画科卒業、東台邦画会、日本画官員組乾南陽美術頑張ろうん会会員。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
長田 桃蔵(おさだ とうぞう、1870年9月8日(明治3年8… 長田 桃蔵(おさだ とうぞう、1870年9月8日(明治3年8月13日)- 1943年(昭和18年)7月18日)は、日本の政治家。衆議院議員、淀町長、京都競馬倶楽部理事、大林組副支配人。旧姓・梅村。 丹後国与謝郡宮津(現京都府宮津市)で旧宮津藩儒家梅村踈影の三男として生まれ、梅村が助教をしていた天橋義塾で学ぶ。1891年(明治24年)11月、長田忠恕の養子(娘婿)となる。 日本法律学校で学び、1894年(明治27年)同校を卒業。淀町長、秋田物産社長、六甲土地取締役、北鮮産業取締役、奈良電気鉄道専務のほか、国有財産調査委員、京都競馬倶楽部理事長などを務める。 京都府農会長、帝国農会議員、京都府畜産組合総合会会長等を経て、1917年(大正6年)4月、第13回衆議院議員総選挙で京都府郡部より衆議院議員に当選。
小倉 武之助(おぐら たけのすけ、明治3年8月12日(187… 小倉 武之助(おぐら たけのすけ、明治3年8月12日(1870年9月7日) - 1964年(昭和39年)12月26日)は、明治時代から昭和時代にかけて朝鮮で活動した実業家、美術品収集家。 千葉県成田市出身。父親の小倉良則は北総英漢義塾を創立後、1892年から衆議院議員を3期務め、成田鉄道、成田銀行を設立した実業家。東京帝国大学卒業後、日本郵船に入社。のち京釜鉄道に入社し、1904年朝鮮に渡った。給料を元手に土地を買い、地価上昇で巨利を得て、大邱の資産家として電気事業に進出する準備を始めた。1905年2月京釜鉄道を退社。 1909年、地元資産家と共同で電気事業を出願し、朝鮮総督府より許可を得て大邱市電気会社を設立、株式の過半を出資していたため社長に就任した。
伊藤 俊介(いとう しゅんすけ、1870年9月5日(明治3年… 伊藤 俊介(いとう しゅんすけ、1870年9月5日(明治3年8月10日)- 1924年(大正13年)1月24日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員、神戸基督教青年会会長。 播磨国宍粟郡、のちの兵庫県宍粟郡染河内村(一宮町を経て現宍粟市一宮町)で生まれた。のち伊藤繁右衛門の養子となる。同志社、第三高等学校を経て、1896年(明治29年)帝国大学法科大学政治学科を卒業した。 兵庫県農工銀行に入り、のち取締役兼支配人に就任。伊藤博文の別名と間違えられて有名となり、1902年(明治35年)8月、第7回衆議院議員総選挙(兵庫県郡部、壬寅会)で当選し、衆議院議員に1期在任した。しかし、農工銀行の経営に支障が起こり、その責めを負って退社した。
笹川 臨風(ささかわ りんぷう、1870年9月2日〈明治3年… 笹川 臨風(ささかわ りんぷう、1870年9月2日〈明治3年8月7日〉 - 1949年〈昭和24年〉4月13日)は、日本の歴史家、評論家、俳人。本名は種郎(たねお)。 1870年、東京府神田末広町(現・千代田区外神田)で生まれた。父の義潔は旧幕臣で、後に内務省土木局に勤務し、大阪、名古屋などで勤務したため、一家は各地を転々とした。旧制愛知県立中学校(現愛知県立旭丘高等学校)、第三高等中学校を経て、帝国大学(現東京大学)国史科を卒業。 卒業後は教員となり、旧制宇都宮中学校(現栃木県立宇都宮高等学校)校長等を経て明治法律学校教授(のち明治大学に昇格)となったが、1920年に学長木下友三郎と田島義方学監の退任を求めた植原・笹川事件が起こり、学生を扇動した罪により解職された。
島 安次郎(しま やすじろう、1870年9月2日〈明治3年8… 島 安次郎(しま やすじろう、1870年9月2日〈明治3年8月7日〉 - 1946年〈昭和21年〉2月17日)は、日本の鉄道技術者。日本機械学会会長(1918年・1923年 - 1924年)。子、孫と三代に渡り鉄道技術者を生んだ。 和歌山県和歌山市出身。実家は代々続く「島喜」という薬問屋。第一高等学校 (旧制)を経て、東京帝国大学機械工学科(現:東京大学工学部機械工学科)を卒業し1894年に関西鉄道に入社。関西鉄道では、高性能機関車「早風(はやかぜ)」を投入しスピードアップに成功すると共に、客車への等級別色帯の導入や夜間車内照明の導入などの旅客サービスの改善を進め、汽車課長にまで出世する。 1907年に関西鉄道が国有化されると鉄道院に入省し鉄道作業局工作課長。
筬島 桂太郎(おさじま けいたろう、1870年9月1日〈明治… 筬島 桂太郎(おさじま けいたろう、1870年9月1日〈明治3年8月6日〉 - 没年不明)は、明治から大正時代の政治家。長崎県佐世保市長。 福岡県に生まれる。筬島卯助の長男。明治法律学校を卒業後、福岡県属となり、岩手県、北海道庁、愛媛県を経て、1902年(明治35年)佐世保市の市制施行とともに同市助役となった。その後、愛媛県上浮穴郡長、大阪電灯会社庶務課長、同佐世保支店長、佐世保軽便鉄道株式会社専務取締役を歴任し、1921年(大正10年)8月、佐世保市長に就任した。 市長在任中は、軍港の影響で拡大する市勢に対処するため三課制から六課制とし、教育、社会事業、社会勧業に力を注ぐ体制を整えたほか、市街地整備、都市計画、市立長田病院の移転、市営火葬場の建設、山ノ田浄水池など水源地の増設、佐世保商業専修学校、佐世保実修女学校の新設、夜間中学校を設置するなど尽力した。
池田 十三郎(いけだ じゅうざぶろう、1870年8月29日〈… 池田 十三郎(いけだ じゅうざぶろう、1870年8月29日〈明治3年8月3日〉 - 1947年12月21日)は明治から大正にかけての逓信官僚。朝鮮総督府逓信局長官を務めた。 1870年8月29日、肥前国佐賀で、長崎県士族・池田陽雲の四男として生まれ、叔父・玄泰(1836年9月生)の養子となる。1892年、東京帝国大学法科大学独法学科を卒業し、法学士を取得。官吏になり、同年7月、東京郵便電信学校教授に就任。同年11月の茨城県出張、1895年の京都府出張などを経て、1906年1月10日より統監府通信管理局長、1910年に朝鮮総督府通信局長官、のち改称に伴い逓信局長官。1917年6月6日まで逓信局長官を務めて退官し、日本染料会社取締役社長に就任、1919年に退任。
矢作 栄蔵(やはぎ えいぞう、1870年8月21日(明治3年… 矢作 栄蔵(やはぎ えいぞう、1870年8月21日(明治3年7月25日) - 1933年(昭和8年)12月18日)は、日本の農業経済学者。東京帝国大学経済学部教授同経済学部長。法学博士。 埼玉県出身。矢作八蔵の二男。1895年(明治28年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、大学院に入って農業経済学を専攻した。1901年(明治34年)、同大学農科大学助教授に就任し、翌年から経済学研究のためドイツ、フランス、イギリスに留学した。1907年(明治40年)に帰国した後、東京帝国大学農科大学教授と法科大学教授に任じられ、法学博士号を受けた。のち学部改編で経済学部教授兼農学部教授となり、さらに経済学部長に就任した。
坂本 龍之輔(さかもと りゅうのすけ、明治3年7月23日(1… 坂本 龍之輔(さかもと りゅうのすけ、明治3年7月23日(1870年8月19日) - 昭和17年(1942年)3月26日)は、日本の教育者。 明治期に上野下谷に日本で初めて設けられた貧民学校の校長を務め、その教育実践が、かつての教え子であった添田知道の『小説 教育者』として作品化されて、大正、昭和期に教育者の範として知られた。 神奈川県西多摩郡西秋留村(現在の東京都あきる野市牛沼)に、坂本源吾之輔、あきの五人兄弟の三男として生まれる。神奈川師範学校(現・横浜国立大学教育人間科学部)に学び、初赴任は、西多摩郡古里村の習文尋常小学校(現・西多摩郡、奥多摩町立古里小学校)だった。その後、神奈川県下で、町田村の日新尋常小学校(現・町田市立町田第一小学校)、大和市の渋谷高等尋常小学校(現・大和市立渋谷小学校)、町田村の開矇(かいもう)高等尋常小学校(現・町田市立南第一小学校)の校長を歴任。
中村 進午(なかむら しんご、明治3年7月21日(1870年… 中村 進午(なかむら しんご、明治3年7月21日(1870年8月17日) - 昭和14年(1939年)10月21日)は、日本の法学者。専門は国際法。学位は、法学博士(1901年)。東京商科大学名誉教授。「七博士意見書」により日露戦争開戦を主張した学者の一人。 1870年、越後国高田(のちの新潟県高田市、現上越市)において、旧高田藩士・中村九朗の三男として生まれた。高田中学校を卒業し、第一高等中学校に入学。1891年に第一高等中学校を卒業して東京帝国大学に入学。1894年、東京帝国大学法科大学を首席で卒業。卒業後は同大学院に進んだ。 大学では、初め末岡精一に師事して国法学を研究したが、実兄である国際法学者前田盛江が夭逝すると、ドイツ・イギリス・フランス各国に留学して、国際法、外交史等の研究に転じた。
寺尾 規矩郎(てらお きくろう、1870年8月15日〈明治3… 寺尾 規矩郎(てらお きくろう、1870年8月15日〈明治3年7月19日〉 - 1944年〈昭和19年〉1月24日)は、明治から昭和時代戦前の政治家。大蔵官僚。朝鮮総督府官僚。埼玉県川越市長。 加賀国金沢に生まれる。朝田家に生まれ、のち寺尾家の養子となる。1889年(明治22年)英吉利法律学校を卒業。衆議院属、大蔵省属、韓国総税務司、関税局税関、朝鮮総督府税関各事務官などを経て1922年(大正11年)退官する。その後、東洋拓殖嘱託、同参事、満蒙毛織常務取締役などを務めた。 1927年(昭和2年)川越市長に就任。政争に巻き込まれ市会で不信任を突きつけられるが県により取り消し命令が下る。在任中は耕地整理組合の設立、常備消防署や体育協会の設置などに尽力した。
藤岡 作太郎(ふじおか さくたろう、明治3年7月19日(18… 藤岡 作太郎(ふじおか さくたろう、明治3年7月19日(1870年8月15日) - 明治43年(1910年)2月3日)は、日本の国文学者、文学博士。号は東圃・李花亭・枇杷園。 加賀国金沢早道町(現・石川県金沢市)生まれ。1890年、第四高等中学校を卒業。同窓生に西田幾多郎、鈴木大拙(貞太郎)、山本良吉がおり、西田・鈴木・藤岡は「加賀の三太郎」と称される。 1891年、東京帝国大学文科大学国文科に進学する。同級生に藤井乙男がいた。在学中、『北國新聞』創刊号に「小説管見」を発表。1894年、東京帝国大学を卒業。大阪府第一中学校、京都真宗大谷派第一中学校教員、真宗大谷派大学寮教授、第三高等学校教授を経て、1900年、東京帝国大学助教授となる。
東 乙彦(ひがし おとひこ、1870年8月5日(明治3年7月… 東 乙彦(ひがし おとひこ、1870年8月5日(明治3年7月9日) - 1936年(昭和11年)10月13日)は、日本の陸軍軍人。陸士4期、陸大14期。最終階級は陸軍中将。栄典は従三位勲二等。 山口県岩国藩士の東文吉の三男として生まれる。十代のころは兄の勝平とともに川下小学校に出入りしており、1885年(明治18年)ごろに一時同校の訓導をしていた齋藤精輔の立ち上げた「数学同好会」に参加していた。 1893年(明治26年)陸軍士官学校卒業後、近衛砲兵連隊に勤務。翌年1894年(明治27年)、砲兵少尉に任命され、同年に日清戦争に従軍する。1900年(明治33年)陸軍大学校を第14期生として卒業したのち参謀本部に勤務。
大下 藤次郎(おおした とうじろう、明治3年7月9日(187… 大下 藤次郎(おおした とうじろう、明治3年7月9日(1870年8月5日) - 明治44年(1911年)10月10日)は、明治時代の日本の水彩画家。中丸精十郎、原田直次郎に師事した この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
大久保 雅彦(おおくぼ まさひこ、1870年8月2日(明治3… 大久保 雅彦(おおくぼ まさひこ、1870年8月2日(明治3年7月6日)- 1922年(大正11年)6月6日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。 伊予国越智郡蔵敷村(現在の愛媛県今治市)出身。1886年(明治19年)、松山中学校を卒業。英吉利法律学校(東京法学院、現在の中央大学)で英語法学を学び、1889年(明治22年)に首席で卒業。その後も穂積陳重のもとで学んだ。1892年(明治25年)に弁護士試験に合格し、松山市に事務所を開いた。 1902年(明治35年)、第7回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 三・一運動の際には、花井卓蔵・木尾虎之助らとともに、騒擾罪に問われた孫秉煕ら指導者の弁護にあたった。
鈴木 禎次(すずき ていじ、明治3年7月6日(1870年8月… 鈴木 禎次(すずき ていじ、明治3年7月6日(1870年8月2日) - 昭和16年(1941年)8月12日)は、日本の建築家。静岡県静岡市出身。夏目漱石の相婿(妻同士が姉妹)で、漱石の小説の中にも登場する。[要出典] 1870年(明治3年)駿河国静岡に旧旗本で大蔵官僚の鈴木利亨の長男として生まれる。1896年(明治29年)に帝国大学工科大学造家学科を卒業。翌年、三井銀行に入り建築係に勤務する。1898年(明治31年)夏目漱石の妻である夏目鏡子(旧姓:中根)の妹(時子)と結婚し、1903年(明治36年)、文部省の命を受けイギリスとフランスに留学。1906年(明治39年)名古屋高等工業学校(現・名古屋工業大学)の建築科教授・同科長となり赴任。
長谷川 万蔵(はせがわ まんぞう、明治3年(1870年)8月… 長谷川 万蔵(はせがわ まんぞう、明治3年(1870年)8月 - 没年不明)は日本の政治家。元鳥取県議会議員。元富益村長。 現在の鳥取県米子市富益町に生まれた。善十郎の二男。家は代々農を業とす。教えを郷校に受け和漢の書を修めた。前代より副業として質商を営んだが万蔵の代に至り倍々業務に勉め隆昌に向かう。 明治32年(1899年)富益村長に当選。明治32年(1899年)9月郡会議員に当選。米子外十四ヶ町村組合角盤高等小学校議員米川水利組合議員等責務に就き多年村治に郡政に尽瘁する。 衆民の輿望により県会議員に当選。 県下有数の名士として庶民の推重を受くる。 『陰陽八郡郡勢一斑』には「性温厚にして寡言、堂々たる風丰全く長者の風備はる」とある。
飯田 盛敏(いいだ もりとし、1870年7月30日〈明治3年… 飯田 盛敏(いいだ もりとし、1870年7月30日〈明治3年7月3日〉 - 没年不明)は、明治から大正時代の政治家。官吏。三重県四日市市長。旧名は熊蔵。 東京市深川区東大工町にて士族の飯田盛孝の三男として生まれる。1904年(明治37年)5月、旧名を改める。法学を志し、東京仏学校、暁星学校、和仏法律学校で仏語や法律、経済学を修め、法学博士梅謙次郎の知遇を得、1900年(明治33年)司法省仏文翻訳係となり、大臣官房兼参事官室勤務を拝命した。その後、文官高等試験に合格し、地方官試補として群馬県に赴任し、青森県第二部長、岡山県事務官、長崎県港務部長などを歴任した。 前市長の福井銑吉の病気による辞任に伴い、1914年(大正3年)8月には四日市市長に就任。
岡 十郎(おか じゅうろう、旧姓・西村、1870年7月27日… 岡 十郎(おか じゅうろう、旧姓・西村、1870年7月27日〈明治3年6月29日〉 - 1923年〈大正12年〉1月8日)は、大日本帝国の実業家。朝鮮勧農、東洋捕鯨(現・ニッスイ)の各社長。近代的な捕鯨船による捕鯨を日本で始めて行い、「捕鯨王」、「日本捕鯨の父」などと呼ばれた。族籍は山口県平民。 1870年、長門国阿武郡奈古村(現・山口県阿武郡阿武町)の西村利右衛門の5男として生まれた。西村家は奈古村に住し、代々農業並びに生蝋製造を業としていた。後に岡吉輔の養嗣子になった。 1868年の明治維新以降、日本の近代化が急速に進み、多くの人々が西洋の知識と技術を学ぶために欧米に渡った。当時、日本は遠東での勢力を拡大しようとしていたが、捕鯨は江戸時代以来の網取法による沿岸捕鯨が続いていた。
岩佐 琢蔵(いわさ たくぞう、1870年7月25日〈明治3年… 岩佐 琢蔵(いわさ たくぞう、1870年7月25日〈明治3年6月27日〉- 1946年〈昭和21年〉12月17日)は、日本の英文学者、教育者。立教大学元教授、フェリス和英女学校(現・フェリス女学院)副校長・教頭、横浜英語学校校長、立教大学学監、立教女学校(現・立教女学院)教頭。フェリスでは、ミッションスクールでの宗教教育を禁じる文部省訓令第12号に対処するため英語師範科を創設するなど、女学校の存続と発展に長く貢献した。 福井県出身。福井の中学校を出て、上京する。当時、琢蔵が東京の学校として名前を知っていたのは、帝国大学(後の東京帝国大学)と、その予備校である高等中学校、その他には慶応義塾だけであった。
大矢 馬太郎(おおや うまたろう、1870年7月24日〈明治… 大矢 馬太郎(おおや うまたろう、1870年7月24日〈明治3年6月26日〉 - 1939年〈昭和14年〉7月11日)は、明治時代後期から昭和時代前期の政治家、実業家。岩手県盛岡市長。貴族院多額納税者議員、衆議院議員。旧姓は中村。 中村俊太郎の伯父として、現在の盛岡市馬場町(馬場小路)に生まれる。のち大矢五蔵の養子となり家督を相続する。1888年(明治21年)7月、岩手県中学校(現岩手県立盛岡第一高等学校)を卒業し、盛岡市参事会員を経て、1907年(明治40年)11月、盛岡市長に就任。1910年(明治43年)8月、市長の座を退き、岩手県会議員、岩手県参事会員、盛岡市会議員、同議長などを経て、1916年(大正5年)12月、補欠選挙で貴族院議員に当選し、同年12月26日から1918年(大正7年)9月28日まで在任した。
宮井 安吉(みやい やすきち、1870年(明治3年)7月24… 宮井 安吉(みやい やすきち、1870年(明治3年)7月24日 - 1924年(大正13年)10月14日)は、明治・大正期の英語学者・教育者。岐阜県出身。 「英文法を独自の立場で研究したことは斎藤秀三郎に次ぐもので、この二氏以外には日本人として独自の立場から英文法を研究した者はそれ迄にはなかったといっても過言ではないであろう。」と評価されている。 「卯の花庵主人」の筆名での翻訳がある。 学問以外では謡曲に精通し、観世清之、その後観世喜之に師事すると共に早大教授の多くを謡道へ引き入れた。
梶田 半古(かじた はんこ、明治3年6月25日〈1870年7… 梶田 半古(かじた はんこ、明治3年6月25日〈1870年7月23日〉 - 大正6年〈1917年〉4月23日)は、明治時代から大正時代にかけての日本画家。本名は錠次郎(ていじろう)。初め英洲と号す。二度目の妻は尾崎紅葉門下の作家北田薄氷。 明治3年6月25日(1870年7月23日)、彫金師の梶田政晴の長男として東京下谷御徒町で生まれた。家は代々幕府の鷹匠だったが、父は彫金を業としていた。家業は弟が継ぎ、幼少から画才のあった半古は明治15年に下谷練塀尋常高等小学校を卒業すると、苦しい家計を助けるため、早朝から深夜まで輸出品の団扇・扇子やハンカチーフに絵を描いて問屋へ運んだという。明治16年(1883年)13歳の時、浮世絵師で楊洲周延の弟子鍋田玉英について絵を学ぶ。
柏井 園(かしわい えん、1870年7月22日(明治3年6月… 柏井 園(かしわい えん、1870年7月22日(明治3年6月24日) - 1920年(大正9年)6月25日)は、日本のキリスト教伝道者、キリスト教史学者、キリスト教思想家、文明評論家である。大正時代の日本基督教会の指導者であった。
北島 多一(きたじま たいち、明治3年6月21日(1870年… 北島 多一(きたじま たいち、明治3年6月21日(1870年7月19日) - 1956年(昭和31年)10月11日)は、日本の細菌学者。学位は、医学博士。第2代日本医師会会長。石川県金沢市生まれ。 1894年東京帝国大学医科大学を首席で卒業と同時に伝染病研究所に入る。北里柴三郎の右腕として手腕を発揮し、北里の死後、北里研究所所長に就任。伝染病研究所が内務省から文部省に移管され東京大学に合併される時、移管に反対して北里柴三郎所長が辞任。この時、志賀潔をはじめとする研究所の職員全員が一斉に辞表を提出。伝研騒動といわれるこの間に、慶應義塾大学医学部主事になり、慶應医へ移った北里を支える。1928年慶應義塾大学医学部長。
岡田 温(おかだ ゆたか、明治3年6月20日(1870年7月… 岡田 温(おかだ ゆたか、明治3年6月20日(1870年7月18日)-昭和24年(1949年)7月25日)は、明治・大正・昭和期の農業技師。後に衆議院議員を務めた。 伊予国久米郡(後に愛媛県温泉郡石井村を経て松山市)出身。明治32年(1899年)に東京帝国大学卒業後、全国農事会に務めるが、家庭の事情によって1年で帰郷して農業を継ぐが、温泉郡の要請を受けて郡の農業技師となり実績を挙げ、次いで明治38年(1905年)には愛媛県の農業技師となった。明治41年(1908年)に別子銅山の四阪島製錬所からの煙害が問題化した際には、農民達とともに住友財閥の責任を追及、住友側もこれを認めて再発防止策と賠償に応じた。
鶴ヶ濱 熊吉(つるがはま くまきち、1870年7月16日(明… 鶴ヶ濱 熊吉(つるがはま くまきち、1870年7月16日(明治3年6月18日) - 1939年(昭和14年)2月6日)は、奈良県添上郡(現在の奈良市)出身で小野川部屋、八角部屋、中立部屋、再度八角部屋に所属した力士。4代伊勢ヶ濱。世話人。本名は清水 熊吉。170cm、101kg。最高位は前頭3枚目。 大坂相撲に所属していたが、同郷の司天龍政吉(北葛城郡出身)を慕い、1891年1月に八角部屋に加入。序ノ口からの初土俵となる。四股名は司天龍の前の四股名の鶴ヶ濱を名乗る 。恵まれた体格を持ちながらも昇進は遅かった。しかし、1897年1月にようやく十両に昇進すると、1898年5月には新入幕。以後18場所幕内を務め、1907年1月に引退、4代伊勢ヶ濱を襲名。
神川 長久(かみかわ おさひさ、1870年7月14日(明治3… 神川 長久(かみかわ おさひさ、1870年7月14日(明治3年6月19日)- 1936年(昭和11年)11月11日)は、明治から昭和前期の日本の政治家、実業家。衆議院議員(1期)。 大隅国大隅郡大根占郷神川村鳥浜(鹿児島県南大隅郡神川村、大根占村、肝属郡大根占村、大根占町を経て現錦江町)出身。鹿児島造士館を経て、1891年(明治24年)に上京し、1893年(明治26年)慶應義塾卒。農業、木炭製造販売業を営み、1903年(明治36年)鹿児島県会議員に選出され3期在任し、同参事会員も務めた。 1917年(大正6年)の第13回衆議院議員総選挙(鹿児島県郡部、立憲政友会)で当選した。衆議院議員を1期務め、1920年(大正9年)の第14回総選挙には立候補しなかった。
今村 明恒(今村 明恆、いまむら あきつね、1870年7月1… 今村 明恒(今村 明恆、いまむら あきつね、1870年7月12日〈明治3年6月14日〉 - 1948年〈昭和23年〉1月1日)は、日本の地震学者。東京帝国大学教授、日本地震学会会長。学位は理学博士(1905年・文部大臣)。 1870年(明治3年)、現在の鹿児島県鹿児島市に薩摩藩士・今村明清の三男として生まれる。 鹿児島高等中学造士館予科、第一高等中学校卒業。1891年(明治24年)、帝国大学理科大学物理学科入学。帝国大学大学院では地震学講座に入り、そのまま講座助教授となる。1896年(明治29年)からは陸軍教授を兼任し、陸軍参謀本部陸地測量部で数学を教えた。明治三陸地震発生を期に、1899年(明治32年)に津波は海底の地殻変動を原因とする説を提唱した。
12代 西川 甚五郎(にしかわ じんごろう、1870年7月1… 12代 西川 甚五郎(にしかわ じんごろう、1870年7月11日(明治3年6月13日)- 1942年(昭和17年)11月17日)は、明治から昭和時代戦前の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。滋賀県蒲生郡八幡町長。西川甚五郎家山形屋12代、諱・嘉重。 滋賀県蒲生郡八幡町大杉町(現・近江八幡市大杉町)で、西川重威の長男として生まれた。1898年(明治31年)家督を相続した。大阪商業学校を卒業し、その後、東京の欧文正鵠学館(サンマー英学校)で学んだ。漢学は中村栗園、山本太造に師事した。 1902年(明治35年)以降、八幡町長、同町会議員、滋賀県会議員、大日本蚕糸会滋賀支会副会頭、同評議員などを歴任した。
渡辺 黙禅(わたなべ もくぜん、1870年7月10日(明治3… 渡辺 黙禅(わたなべ もくぜん、1870年7月10日(明治3年6月12日) - 1945年(昭和20年)11月18日)とは明治時代から昭和時代にかけての小説家。 羽前国(現・山形県)生まれ。本名は渡辺末蔵。東京専門学校を卒業の後、1890年に山形県に戻り『奥羽日報』を創刊したが、1894年に『やまと新聞』に入社している。その後は方々の新聞社において記者生活をした後、小説を執筆し始めた。その作風は従来の草双紙、講談本に似た古い形式のものであった。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
巖谷 小波(いわや さざなみ、1870年7月4日(明治3年6… 巖谷 小波(いわや さざなみ、1870年7月4日(明治3年6月6日) - 1933年(昭和8年)9月5日)は、明治から大正にかけての作家、児童文学者、口演童話家、俳人、ドイツ文学者、ジャーナリスト。本名は季雄(すえお)。別号に漣山人、楽天居、大江小波等がある。 日本初の創作童話『こがね丸』(博文館、1891年)を発表して近代児童文学史を拓いた日本児童文学の先駆者と評される。 明治期に児童文芸作品を表す言葉として「お伽噺」を使用、自ら編集長を務めた「少年世界」「少女世界」「幼年世界」などの雑誌を通して日本中に児童文学を広めた。 個人による日本初児童叢書である『日本昔噺』(24編)、『日本お伽噺』(24編)、『世界お伽噺』(100編)などのシリーズを刊行、日本はもちろん世界中の伝承説話のリテリングを体系的に行った。
巖谷 小波(いわや さざなみ、1870年7月4日(明治3年6… 巖谷 小波(いわや さざなみ、1870年7月4日(明治3年6月6日) - 1933年(昭和8年)9月5日)は、明治から大正にかけての作家、児童文学者、俳人。本名は季雄(すえお)。別号に漣山人(さざなみ さんじん)、楽天居、隔恋坊、大江小波がある。
井上 剣花坊(いのうえ けんかぼう、明治3年6月3日(187… 井上 剣花坊(いのうえ けんかぼう、明治3年6月3日(1870年7月1日) - 昭和9年(1934年)9月11日)は、日本の川柳作家。幼名は七郎、のちに幸一。 明治3年(1870年)6月3日、山口県萩に生まれた。家系は毛利家に仕えていたが、廃藩後に没落、父栄祐は1891年に、不遇のうちに亡くなった。 独学で小学校代用教員となり、のちに山口県の新聞社『鳳陽新報』(のち『長周日報』、その後防長新聞に併合されて消滅)に就職して新聞記者となった。同じ頃山県トメと結婚し、3人の子供を授かるも、トメは3人目出産後の予後が悪く、1898年に他界。なお井上はその3年後の1901年に遠縁の岡ノブと再婚、2人の子供をもうけた。
宮館 貞一(みやだて ていいち、1870年(明治3年)7月 … 宮館 貞一(みやだて ていいち、1870年(明治3年)7月 - 1933年(昭和8年)10月26日)は、朝鮮総督府官僚。青森県弘前市長。 青森県弘前市出身。東奥義塾を経て、1891年(明治24年)に東京法学院(現在の中央大学)を卒業した。1895年(明治28年)、自由新聞社に入社し、翌年に警視庁警部となり、同外事係長となった。1906年(明治39年)、統監府に転じ、理事庁警視となった。朝鮮総督府警務総監部庶務課長、朝鮮総督府事務官、群山府尹、平壌府尹、大邱府尹を歴任した。1926年(大正15年)に退官した後は、京城府の英字新聞『セウル・プレス(英語版)』の社長に就任した。 1930年(昭和5年)7月、弘前市長に選任されたが、1933年8月に病のため辞職した。
大村 貞蔵(おおむら さだぞう、明治3年(1870年)7月 … 大村 貞蔵(おおむら さだぞう、明治3年(1870年)7月 - 没年不明)は日本の実業家、政治家。旧姓は勝部。島根県平民、島根県多額納税者。町会議員。平田銀行取締役。松江銀行監査役。松江銀行常務取締役。農業。 六女真佐子は坂口合名会社・代表社員会長2代目坂口平兵衛の妻。坂口合名会社・代表社員会長3代目坂口平兵衛は孫。坂口合名会社・代表社員社長坂口清太郎・山陰放送社長坂口吉平は曾孫。 島根県人・勝部仙太郎の九男。先代キチの養子となる。明治29年(1896年)家督を相続する。 松江中学、中央大学に学ぶ。農業を営む。 地方自治および産業振興に尽くした。
小川 琢治(おがわ たくじ、明治3年5月28日(1870年6… 小川 琢治(おがわ たくじ、明治3年5月28日(1870年6月26日) - 昭和16年(1941年)11月15日)は、日本の地質学者・地理学者。学位は、理学博士(京都帝国大学・論文博士・1909年)。京都帝国大学名誉教授。 1870年に紀伊国田辺藩(現:和歌山県田辺市)で田辺藩儒学者・浅井篤(南溟)の次男として生まれる。満5歳となる1875年、現在の和歌山市に移る。父の私塾の転遷に伴い紀ノ川筋の村々に居住する。学制の制定(1872年:明治5年)後であったが小学校には通わなかった。 1883年、父が有田郡広村の耐久社に招かれた。その縁で書庫に自由に出入りし、そこで多数の漢籍を読むことができた。満14歳となる1884年に和歌山中学校に入学。
三浦 覚一(覺一、みうら かくいち、1870年6月26日(明… 三浦 覚一(覺一、みうら かくいち、1870年6月26日(明治3年5月28日)- 1930年(昭和5年)1月31日)は、明治後期から昭和初期の水産技術者、漁業家、政治家。衆議院議員。 豊後国大野郡、のちの大分県大野郡赤嶺村(三重村、三重町を経て現豊後大野市三重町赤嶺)で、三浦喬三の長男として生まれる。1891年(明治24年)法律を学ぶため上京したが、村田保と面会すると日本の水産業振興の重要性を説かれ、水産伝習所(のち東京水産大学、現東京海洋大学)に入学した。1894年(明治27年)水産伝習所を卒業。北海道に渡り水産業の視察、研修を行う。 1896年(明治29年)に帰郷し、大分県庁に入庁して大分県技手、同県水産試験場長、同水産試験業技師、大分県技師、勧業課長などを歴任し、水産業、特に遠洋漁業の振興に尽力した。
国司 伍七(くにし ごしち、1870年6月24日(明治3年5… 国司 伍七(くにし ごしち、1870年6月24日(明治3年5月26日) - 1939年10月25日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。
土居 純橘(どい じゅんきち、1870年6月24日(明治3年… 土居 純橘(どい じゅんきち、1870年6月24日(明治3年5月26日)- 1937年(昭和12年)11月23日)は、日本の民権運動家・社会活動家。高知県生まれ。 1870年5月26日、高知県長岡郡大篠村大埇字関(現南国市)において、土居積盛と加免の長男として生まれる。為人剛毅、膽力に富み、仁義に厚く、人情豊かであった。青壮年の頃から身を政界に投じ、長陵の壮士として活躍した。1888年、保安条例発布に際し東京より退去を命ぜられ帰来、更に政界にあって同志武市安哉を国会におくるなど奮闘大いにつとめた。後断然志を決して、雄図を大陸にはせ活躍すること三十余年、この間日清・日露の両役に際しては民間の志士としてはたらいた。
大口 喜六(おおぐち きろく、1870年6月23日(明治3年… 大口 喜六(おおぐち きろく、1870年6月23日(明治3年5月25日) - 1957年(昭和32年)1月27日)は日本の政治家。豊橋市長や明治憲法下の衆議院議員などを務めた。 大口喜六は廃藩置県前の三河国豊橋藩船町(現愛知県豊橋市船町)で明治3年5月25日(1870年6月23日)に生まれた。幼名理一郎、号は蓊山。東京帝国大学選科で薬学を学び、帰郷後薬局を開業した。 政治家を志し、1893年(明治26年)、改進党に入党。1895年(明治28年)、豊橋町議に当選、1898年(明治31年)三浦碧水の後継者として豊橋町長に就任した。 1906年(明治39年)8月1日市制を施行し、初代市長に選ばれた。翌年1907年(明治40年)に豊橋市長に就任、1912年(明治45年)に市長を退任した。
奥 太一郎(おく たいちろう、1870年6月21日又は20日… 奥 太一郎(おく たいちろう、1870年6月21日又は20日(明治3年5月23日又は22日) - 1928年(昭和3年)10月13日)は、戦前日本の教師。碓氷英学校教頭、北越学館教授、東北学院教授、岡山県津山尋常中学校教諭、第五高等学校教授、活水女学校教頭、日本女子大学校教授。五高時代に夏目漱石と同僚となり、生涯交流した。 明治3年(1870年)5月23日又は22日、京都に岩倉具視家臣奥輝太郎の次男として生まれた。原籍は東京府京橋区松屋町三丁目17番地。生地は水戸とする説もある。 1882年(明治15年)12月下京区公立永松小学校中等科全課を卒業し、1883年(明治16年)1月私立明倫館に入学して漢文学を学んだ。