三浦 秀文(みうら しゅうぶん、1907年4月3日 - 19… 三浦 秀文(みうら しゅうぶん、1907年4月3日 - 1985年2月23日)は、日本の新聞編集者、実業家。元中日新聞社代表取締役社長、共同通信社理事会長。愛知県出身。 1907年(明治40年)、愛知県丹羽郡岩倉町(現在の岩倉市)で三輪陸太郎の三男として出生し、母方の実家を継いで三浦姓となった。1933年(昭和8年)に京都帝国大学法学部を卒業し、新愛知新聞社へ入社する。1942年(昭和17年)に戦時統制で新愛知と競合紙の名古屋新聞が合併して新たに中部日本新聞社が発足し、終戦を経て編集局長に起用された。 常務、専務を経て1964年(昭和39年)に副社長へ至り、翌1965年(昭和40年)に与良ヱ社長の主導で中日新聞社との統合交渉を進めていた東京新聞社の代表取締役副社長を兼務。
権 泰羲(クォン・テヒ、朝鮮語: 권태희/權泰羲、1907年… 権 泰羲(クォン・テヒ、朝鮮語: 권태희/權泰羲、1907年4月2日 - 1983年5月29日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の牧師、教員、中学校校長、政治家。制憲国会議員、文教社会分科委員長。本貫は安東権氏(朝鮮語版)。 作曲家・声楽家の権泰浩(朝鮮語版)は兄。 慶尚北道金泉または慶尚南道密陽生まれ。大邱啓聖中学校、平壌崇実専門学校文科卒業。平壌神学校で牧師の按手を受け、同志社大学神学科修了(聴講生)。その後帰国し、安東と密陽の教会の牧師、キリスト教安東連合会会長を歴任した。解放後は京城神学校講師、密陽公立農林学校教師・校長を経て、1947年に金泉公立中学校校長を務めた。1948年の初代総選挙で金泉郡から無所属で出馬し当選した後、国会で文教社会分科委員長などを務め、農地改革、国軍の組織にも参加したが、朝鮮戦争の際に北朝鮮に拉致された。
犬養 孝(いぬかい たかし、1907年〈明治40年〉4月1日… 犬養 孝(いぬかい たかし、1907年〈明治40年〉4月1日 - 1998年〈平成10年〉10月3日)は、日本文学者(万葉学者)。大阪大学名誉教授、甲南女子大学名誉教授。文化功労者。高岡市万葉歴史館名誉館長。 1907年、下谷区谷中清水町一番地(現・東京都台東区池之端3-1)に生まれた。1929年、第五高等学校文科甲類を卒業。東京帝国大学文学部国文学科に進み、1932年に卒業した。 卒業後は、神奈川県立横浜第一中学校教諭となる。1942年、台北高等学校教授に任じられる。高等学校では国文学を教え、東京帝国大学文学部卒業後、台北高校で教鞭を執り、辜寛敏や竹内昭太郎の担任を務めた。終戦後は大阪大学で教授として教えた。
藤田 真照(ふじた しんしょう、1907年(明治40年)4月… 藤田 真照(ふじた しんしょう、1907年(明治40年)4月1日 - 1966年(昭和41年)1月6日)は、日本の宗教家。天光教教祖。愛媛県四国中央市出身。本名は照見。 愛媛県宇摩郡土居町(現:四国中央市)で農家の三男として生まれた。1928年(昭和3年)京都帝国大学法学部を卒業後、外交官試験に合格して外務省に入り、上海領事館、漢口領事館に勤務した後、1935年(昭和10年)に退官、その後は満洲にて事業を営んだ。 19歳のときに大祖神からの神示を受けたとし、1938年(昭和13年)に「道照明神」の神号を名乗った。1948年(昭和23年)に東京都大田区大森で信修会教団を設立。1958年(昭和33年)に天光教と改称し、本部が大阪市天王寺区堂ヶ芝へ移る。
細見 綾子(ほそみ あやこ、1907年3月31日 - 199… 細見 綾子(ほそみ あやこ、1907年3月31日 - 1997年9月6日)は、兵庫県出身の俳人。松瀬青々に師事、「倦鳥」を経て「風」同人。夫は沢木欣一。 1907年(明治40年)、父・細見喜市、母・とりの長女として兵庫県氷上郡芦田村、現・兵庫県丹波市青垣町東芦田に生まれる。実家は江戸時代から名主をつとめた素封家。 1919年、柏原高等女学校に入学、寮生活を送る。1923年、日本女子大学校国文科入学。1927年(昭和2年)、同大学を卒業、同時に東京大学医学部助手の太田庄一と結婚。1929年、夫を結核で失い、秋に肋膜炎を発病したため帰郷。佐治町の医師でもあった俳人・田村菁斎の勧めで俳句を始め、松瀬青々の俳誌「倦鳥」に入会、その年に投句し初入選する。
赤尾 好夫(あかお よしお、1907年3月31日 – 198… 赤尾 好夫(あかお よしお、1907年3月31日 – 1985年9月11日)は山梨県東八代郡英村(現笛吹市石和町)出身の出版人、放送人である。
三上 次男(みかみ つぎお、1907年(明治40年)3月31… 三上 次男(みかみ つぎお、1907年(明治40年)3月31日 - 1987年(昭和62年)6月6日)は、日本の東洋学者、考古学者。日本学士院会員、東京大学名誉教授、出光美術館理事、中近東文化センター理事長。号は「白水子」。 1907年、京都府宮津町(現・宮津市)で生まれた。小学5年生まで宮津で過ごし、その後、家族と共に北海道へ移住した。東京帝国大学文学部東洋史学科で学び、1932年に卒業。東亜考古学会の留学生として、中華民国に渡り、東洋美術や考古学の勉学に励んだ。 1939年、東京大学文学部講師に就いた。1949年に同教授昇格。この時期、鎌倉アカデミアでも講義した。1951年5月から9月にかけて、皇居に招かれて歴史関係の科学委員会合に出席。
石井 泉(いしい いずみ、1907年〈明治40年〉3月31日… 石井 泉(いしい いずみ、1907年〈明治40年〉3月31日 - 1982年〈昭和57年〉2月4日)は、日本の農業経営者、政治家。長野県小県郡泉田村長、上田市長。位階は従五位。勲四等旭日小綬章。 長野県小県郡泉田村(現上田市)で、石井基、うた の長男として生まれた。泉田実業補習学校を卒業。農業を営む。 1944年(昭和19年)泉田村半過区長に就任。1951年(昭和26年)6月、泉田村助役となり、1955年(昭和30年)5月、同村長となり、翌年上田市に合併し、同市専門委員となる。1959年(昭和34年)5月、上田市議会議員に当選し、1963年(昭和38年)同議長を務めた。1969年(昭和44年)上田市監査委員に就任。
森田 茂(もりた しげる、1907年(明治40年)3月30日… 森田 茂(もりた しげる、1907年(明治40年)3月30日 - 2009年(平成21年)3月2日)は、茨城県出身の、日本の洋画家。 茨城県真壁郡下館町(現在の筑西市)に生まれ、東京都に住んでいた。文化勲章受章、日本芸術院会員、日展顧問、東光会会長、茨城県名誉県民、豊島区名誉区民、筑西市名誉市民。 原色を多用し、色を塗ったというより絵具を擦り付けたという様な、力強い筆致の重厚な画風が特徴である。初期の作品は、人形や人物の絵が多いが、1965年(昭和40年)の東南アジア巡遊後は風景画も多く描くようになる。1966年(昭和41年)に偶然目にした山形県羽黒山地方の郷土芸能である黒川能に強く惹かれ、この黒川能を描き続けることをライフワークにしており、このシリーズの中の一作で1970年(昭和45年)の日本芸術院賞を受賞している。
金子 正則(かねこ まさのり、1907年〈明治40年〉3月2… 金子 正則(かねこ まさのり、1907年〈明治40年〉3月29日 - 1996年〈平成8年〉10月21日)は、日本の政治家、判事。6期24年の間、香川県知事を務めた。位階は従三位。 1907年(明治40年)3月29日、香川県丸亀市に生まれる。香川県立丸亀中学校、第六高等学校を経て、1929年(昭和4年)に東京帝国大学法学部法律学科を卒業、司法官試補となる。1931年(昭和6年)に大阪地方裁判所および大阪区裁判所の判事に就き(兼任、以下同)、翌1932年に旭川地方裁判所および旭川区裁判所の判事に転任。その後、1935年に札幌地方裁判所および札幌区裁判所、1936年(昭和11年)に長野地方裁判所および長野区裁判所、1937年(昭和12年)に東京地方裁判所および東京区裁判所の判事を歴任している。
島田 修二郎(しまだ しゅうじろう、1907年3月29日 -… 島田 修二郎(しまだ しゅうじろう、1907年3月29日 - 1994年4月11日)は、日本の美術史学者。プリンストン大学名誉教授。考古学者の島田泉は次男。 兵庫県出身。京都帝国大学卒。京都国立博物館美術室長、1964年プリンストン大学教授。中国の画論「松斎梅譜」や正倉院の「鳥毛立女屏風」などの研究がある。1991年朝日賞受賞。
桂川 質郎(かつらがわ しちろう、1907年〈明治40年〉3… 桂川 質郎(かつらがわ しちろう、1907年〈明治40年〉3月29日 - 2003年〈平成15年〉10月24日)は、宮城県名取郡(現在の名取市)出身で伊勢ヶ濱部屋(入門時は楯山部屋)に所属した大相撲力士。本名は檀崎 質郎(だんざき しちろう)。現役時代の体格は身長170cm、体重88kg。得意手は右四つ、突っ張り、吊り。最高位は、西前頭筆頭(1937年(昭和12年)1月場所)。 引退後は夢想神伝流居合の修行に没頭し、檀崎 友彰(だんざき ともあき)と名乗った。段位は居合道範士九段、杖道範士七段、剣道教士七段。 1927年(昭和2年)10月場所に於いて、20歳で初土俵。四股名ははじめ、出身地の宮城県名取郡に因んだ「名取川」を名乗った。
中原 茂敏(なかはら しげとし、1907年3月28日 - 1… 中原 茂敏(なかはら しげとし、1907年3月28日 - 1991年10月8日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大佐。戦時中は兵器行政・補給関係の要職を歴任し、戦後は補給戦に関する著作で知られる。 大阪府出身。陸軍士官学校砲兵科(第39期)を経て、陸軍砲工学校高等科(第36期)を優等で卒業。また、陸軍派遣学生として東京帝国大学工学部電気工学科を卒業している。 陸軍省軍務局軍事課資材班長、企画院調査官を兼務、陸軍兵器行政本部附、陸軍省軍務局課員、兵站総監部参謀、陸軍大学校兵学教官などを歴任した。 太平洋戦争末期には第15方面軍参謀(後方主任)を兼ね中部軍管区参謀を務め、陸軍大佐に進級した。 戦後、陸軍の補給・国力の実態を分析した著書を刊行している。
木村 三郎(きむら さぶろう、1907年(明治40年)3月2… 木村 三郎(きむら さぶろう、1907年(明治40年)3月27日 - 1996年(平成8年)6月21日)は、日本の内務官僚、造園家。 官庁技師として造園と都市計画行政の実務に携わる一方で東京大学農学部旧農学科のほか、千葉大学園芸学部、東京農業大学旧農学部造園学科で講師を務めている。国土開発調査会常任幹事、財団法人国土計画協会理事長を歴任。晩年は日本庭園研究に関する著述を多く残す。
河野 壽(こうの ひさし、1907年(明治40年)3月27日… 河野 壽(こうの ひさし、1907年(明治40年)3月27日 - 1936年(昭和11年)3月6日)は、日本の陸軍軍人。航空兵大尉。所沢陸軍飛行学校操縦学生。 二・二六事件で蹶起し、湯河原で牧野伸顕を襲撃したが負傷。翌月、入院先の熱海で自決した。 民間人を主体とした襲撃部隊(河野以下8人)を指揮し自動車2台に分乗、歩兵第一連隊を2月26日0時40分頃出発。 5時頃湯河原に到着、伊藤屋旅館の元別館である「光風荘」にいた牧野伸顕前内大臣を襲撃した。警護の巡査皆川義孝は河野らに拳銃を突きつけられて案内を要求されたが、従う振りをしつつ、振り向きざまに発砲し、河野及び予備役曹長宮田晃を負傷させたが、皆川巡査は殺害された。
野崎 源三郎(のざき げんざぶろう、1907年〈明治40年〉… 野崎 源三郎(のざき げんざぶろう、1907年〈明治40年〉3月27日 - 1986年〈昭和61年〉12月29日)は、日本の政治家。元埼玉県鴻巣市長。 埼玉県生まれ。1930年(昭和5年)、米沢高等工業学校(現・山形大学工学部)応用化学科卒業。卒業後、株式会社福岡商店工場で働く。商工技官、通商産業技官を歴任した。1958年(昭和33年)、鴻巣市収入役となった。1970年(昭和45年)8月1日、鴻巣市長になった。3期市長を務めた。1982年(昭和57年)7月31日に退任した。『花の鴻巣音頭(埼玉県)』(歌・都はるみ)の作詞を担当した。市長時代の活躍が認められ第3号鴻巣市名誉市民となる。
新道 繁(しんどう しげる、1907年3月25日 - 198… 新道 繁(しんどう しげる、1907年3月25日 - 1981年6月10日)は、洋画家。 福井県三国町(現・坂井市)出身。1924年東京府立工芸学校卒業。1934年光風会会員。1951年日展審査員。1955年女子美術大学講師、1958年文部大臣賞受賞、日展評議員、1961年日本芸術院賞受賞、1969年日展理事、1971年光風会常務理事、1975年日展常務理事、1977年日本芸術院会員、1979年勲三等瑞宝章受章。 1960年以降は「松」を繰り返し描いた。
原 研吉(はら けんきち、1907年3月24日 - 1962… 原 研吉(はら けんきち、1907年3月24日 - 1962年8月10日)は、日本の映画監督である。本名、菅原謙吉。 山形県鶴岡市出身。慶應義塾大学仏文科卒業の後、松竹大船撮影所に入社。 1962年8月10日、食道癌のため神奈川県藤沢市鵠沼で死去。 この項目は、映画監督に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ映画)。
渡辺 うめ(わたなべ うめ、1907年3月23日 - 201… 渡辺 うめ(わたなべ うめ、1907年3月23日 - 2014年9月16日)は、日本(青森県青森市出身)の農民・人形作家。太平洋戦争中に転居した夫の故郷の但馬地方の農村風景や農作業をする人々を描写した人形を製作していた。
佐々 保雄(ささ やすお、1907年3月22日 - 2003… 佐々 保雄(ささ やすお、1907年3月22日 - 2003年5月16日)は、日本の地質学者・地球科学者・登山家。北海道大学名誉教授で日韓トンネル研究会名誉会長も務めた。北海道札幌市出身。父は函館高等水産学校校長を務めた佐々茂雄。 化石燃料などの資源開発に関する調査・立案や、青函トンネル建設の際の調査に携わった。
井桁 貞敏(いげた さだとし、1907年3月22日 - 19… 井桁 貞敏(いげた さだとし、1907年3月22日 - 1980年1月11日)は、日本のロシア語学者。 1929年東京帝国大学文学部言語学科卒業。東京外国語学校講師を経て、1937年から1943年まで海軍兵学校ロシア語教授、戦後は防衛大学校教授。1972年定年退官。ほかに東京大学、慶應義塾大学、埼玉大学、東京都立大学等でロシア語を講ずる。『コンサイス露和辞典』同和露辞典を編纂した。ロシア文学者・井桁貞義は息子。
西島 芳二(にしじま よしじ、1907年3月22日 - 19… 西島 芳二(にしじま よしじ、1907年3月22日 - 1987年10月12日)は、日本のジャーナリスト。兵庫県出身。1931年東京帝国大学卒、東京朝日新聞社に入社。調査部長、論説委員などをへて64年論説主幹。のち神奈川新聞社副社長、論説委員長。
近藤宮子(こんどう みやこ、1907年3月21日 - 199… 近藤宮子(こんどう みやこ、1907年3月21日 - 1999年4月8日)は広島県広島市国泰寺町(現在の中区国泰寺町)出身の唱歌作詞家。唱歌『チューリップ』、『こいのぼり』作詞者。
高橋 一臣(たかはし かずおみ、1907年(明治40年)3月… 高橋 一臣(たかはし かずおみ、1907年(明治40年)3月21日 - 没年不明)は、日本の実業家。東邦自動車、弥栄化学工業創業者。大和郷会元理事。 本名は高橋 繁正(たかはし しげまさ)。正六位・勲五等受章。紺綬褒章受章。長男は弥栄化学工業元社長の高橋一永。 高橋叶五郎・コンの四男として新潟県南魚沼郡塩沢町に生まれる。戦前は自動車業を営み、1939年(昭和14年)10月に東邦自動車を設立した。 その後企業合同により化学業界に進み、1941年(昭和16年)11月に弥栄化学工業を設立。 タクシー業界に明るく、事故防止対策又会社給与明細等のパンフレットを関係諸官庁等に配布し、現在の交通運輸行政の陰の力となった。
高島 春雄(たかしま はるお、1907年(明治40年)3月2… 高島 春雄(たかしま はるお、1907年(明治40年)3月20日- 1962年(昭和37年)5月31日)は、日本の動物学者。 高島春雄は、東京生まれの動物学者である。 1960年にコビトカバが上野動物園に導入された際、オカピ、ジャイアントパンダ、コビトカバの3種を世界三大珍獣として選抜したことで知られる。
山下 実(やました みのる、1907年3月20日 - 199… 山下 実(やました みのる、1907年3月20日 - 1995年4月4日)は、兵庫県神戸市出身のプロ野球選手・監督。抜群の打撃力で鳴らし、高校野球、東京六大学野球、草創期のプロ野球で活躍した。
藤見 敬譲(ふじみ けいじょう、1907年3月20日 - 1… 藤見 敬譲(ふじみ けいじょう、1907年3月20日 - 1982年12月9日)は、日本の経営者。明治乳業社長を務めた。 山口県出身。1930年に九州帝国大学農学部農芸化学科を卒業。明治製菓での勤務を経て、1937年に明治乳業に転じ、1959年に取締役に就任し、常務、専務、副社長を経て、1977年6月に社長に就任した。 1982年12月9日、肝臓癌のために死去。75歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
岡本 敏明(おかもと としあき、明治40年(1907年)3月… 岡本 敏明(おかもと としあき、明治40年(1907年)3月19日 - 昭和52年(1977年)10月21日)は、昭和時代に活躍した日本の音楽家(作曲家)。 1929年(昭和4年)、玉川学園教師、1940年(昭和15年) 、日本放送合唱団で指揮を5年とった後、1942年(昭和17年)からは興亜工業大学(現・千葉工業大学)の音楽担当教員(正科目)などを務めた。戦後は国立音楽大学の設立に携わるとともに文部省図書編集委員として、音楽教科書、音楽学習の指導要領の作成に携わった。また日本基督教団讃美歌委員としても活躍。多くの讃美歌を残す。父は組合教会牧師岡本松籟。教会においてオルガンの音を聴きつつ育った。
山田 良之助(やまだ りょうのすけ 1907年3月19日 -… 山田 良之助(やまだ りょうのすけ 1907年3月19日 - 1990年6月13日)は日本の金属工学、材料工学者、教育者。 1907年(明治30年)京都府に生まれる。京都府立第二中学校、第三高等学校を経て京都帝国大学機械工学科に入学。1921年(大正10年)に卒業すると、そのまま同大の講師を務めた。1923年(大正12年)東北帝国大学助教授、1927年(昭和2年)には東京高等工業学校の講師を兼ねた。1928年(昭和3年)ドイツに留学、1930年(昭和5年)に帰国後、京都大学教授。その後、東京工業大学金属科長、静岡大学学長兼短期大学学長、武蔵工業大学学長などを務めた。
近藤 益雄(こんどう えきお、1907年3月19日 - 19… 近藤 益雄(こんどう えきお、1907年3月19日 - 1964年5月17日)は、障害児教育実践家。 長崎県佐世保市生まれ。1927年國學院大學高等師範部卒。長崎県で小学校教師となり、生活綴方運動などにとりくむ。長崎の原爆で長男耿(あきら)を亡くす。1948年田平小学校長。1950年校長を自ら辞め、佐々町立口石小学校に特殊学級「みどり組」を開設、その担任となる。1953年のぎく寮(のちのぎく学園)を開き、1962年口石小を辞めてのぎく寮での実践に専念する。 「のんき・こんき・げんき」をモットーとした。文部大臣表彰、1954年読売教育賞、西日本文化賞、1963年ヘレン・ケラー教育賞、日本精神衛生連盟表彰。
中川 宋淵(なかがわ そうえん、1907年3月19日 - 1… 中川 宋淵(なかがわ そうえん、1907年3月19日 - 1984年3月11日)は、昭和の臨済宗の禅僧。俳人としても知られた。道号は玄珠、法諱は宋淵。本名は中川基(なかがわ もとし)。号は密多窟。 山口県玖珂郡岩国町(現・岩国市)出身。大正12年(1923年)、旧制第一高等学校入学。昭和2年(1927年)東京帝国大学文学部入学。 東京帝国大学在学中の昭和6年(1931年)3月19日、山梨県の向嶽寺勝部敬学につき得度。得度後は大菩薩山中にて木食修行に励む。昭和5年(1930年)東京の白山道場で山本玄峰に師事し、昭和10年(1935年)に静岡県三島市の龍沢寺へ転錫。昭和26年(1951年)4月、山本の跡を継いで龍沢寺第10世住職並びに僧堂師家となる。
山田 匡蔵(やまだ きょうぞう、あるいは山田耕雲、- こうう… 山田 匡蔵(やまだ きょうぞう、あるいは山田耕雲、- こううん、1907年3月18日 - 1989年9月13日)は、日本の実業家(日本油脂常務、東京顕微鏡院理事長)、禅指導者(三宝教団2代管長・正師家、耕雲軒山田円光禅心)。 1907年3月18日、山田脩(二本松町長・二本松製糸会社副社長)の次男として福島県二本松市に生まれる。 第一高等学校 (旧制)から東京帝国大学法学部に進む。在学中に高等文官行政科試験に合格。1930年に卒業。 千代田生命に入社するも長兄が亡くなり、家業を助けるため、妹の友人で小児科医の山田和江(旧姓:阿部)と結婚後、満州に渡り満州鉱山で人事課長となる。引き揚げ後鎌倉に居住。
今野 武雄(こんの たけお、1907年〈明治40年〉3月17… 今野 武雄(こんの たけお、1907年〈明治40年〉3月17日 - 1990年〈平成2年〉3月29日)は、日本の教育者、数学者、科学史家、政治家。元衆議院議員(日本共産党公認、1期)。イギリスの動物学者・ランスロット・ホグベンの『百万人の数学』を翻訳したことでも知られる。 東京都出身。東京帝国大学理学部数学科を卒業後、東京物理学校(現・東京理科大学)や慶應義塾大学、法政大学などで教鞭を執る傍ら、1933年(昭和8年)に日本共産党へ入党。1940年1月の「唯研事件」第2次一斉検挙をはじめ、戦前は3度の逮捕・投獄を余儀なくされたが、その間も数学・科学史関連の著書・訳書を多数発表した。 戦後は読売新聞論説委員を経て、1946年には民主主義科学者協会(民科)設立に関わり、常任幹事や事務局長に就く。
平等 文成(びょうどう ぶんじょう、1907年(明治40年)… 平等 文成(びょうどう ぶんじょう、1907年(明治40年)3月17日 - 1970年(昭和45年)12月12日))は、衆議院議員(日本社会党)、歴史学者。選挙には「びょうどう ぶんせい」の読みで出馬した。 神奈川県横浜市出身。1929年、新潟高等学校卒業。東京帝国大学文学部卒業。東京で新聞・雑誌記者として勤めたのち、中国大陸に渡り高橋公館、興亜院華北連絡部に勤務。のち、新民学院や北京大学(農学院)教授などを歴任し、東洋史の研究に従事する。第二次世界大戦後、長野県北佐久郡軽井沢町の浅間山麓に入植し、農民運動を始め、全日本農民組合中央常任委員、同国際部長、同長野県連合会委員長、日本社会党長野県本部統制委員長、私学新報社長などを歴任した。
李 錫(イ・ソク、朝鮮語: 이석、1907年3月17日 - … 李 錫(イ・ソク、朝鮮語: 이석、1907年3月17日 - 没年不詳)は、大韓民国の校長、実業家、政治家。制憲韓国国会議員。 漢字は不明だがイ・インチュル(이인출)という名もある。 本籍地の慶尚北道迎日郡神光面(現・浦項市)に生まれた。徽文高等普通学校(現・徽文高等学校)、明治大学法学部卒。新聞社と雑誌社を経営していた。1948年の初代総選挙では慶州乙選挙区より大韓独立促成国民会の公認で立候補して当選した。このほか、安康中学校の校長を務めていたが、朝鮮戦争の際に北朝鮮により拉致され、以後消息不明。
大日方 傳(おびなた でん、明治40年(1907年)3月16… 大日方 傳(おびなた でん、明治40年(1907年)3月16日 – 昭和55年(1980年)8月21日)は日本の映画俳優。常用漢字では「大日方 伝」と表記する。 福岡県小倉市堺町の地元の料理家で指月館という敷地が一丁四方ある裕福な名家に生まれたが、父の時代には家は衰えていたという。少年時代からよく喧嘩をしていて顎に傷が残った。中学校卒業後に家族で東京府に移り、東京府立園芸学校(現・東京都立園芸高等学校)を卒業後、しばらく園芸好きの兄の農園を手伝ったが東洋大学社会科へ進む。 昭和5年(1930年)、大学卒業後に日活の専属俳優として『至誠の輝き』で銀幕デビュー。デビュー後に日活で数作に出演した後、松竹(松竹蒲田撮影所)へ移籍し同社の専属俳優となる。
黄田 多喜夫(おうだ たきお、1907年〈明治40年〉3月1… 黄田 多喜夫(おうだ たきお、1907年〈明治40年〉3月16日 - 1998年〈平成10年〉)は、日本の外交官、通産官僚。外務書記官、大東亜省電信課長、香港占領地外事部長、公正取引委員会総務部長、通産省通商局長、外務省経済局長、駐デンマーク公使・大使、駐インドネシア大使、外務審査官、外務次官を務めた。 1907年広島県生まれ。広島国泰寺高校から東京帝国大学を経て、第39回文官高等試験外交科合格後、1930年に外務省に入省。1942年に外務書記官(在米大使館外務書記生)を務めた後、大東亜省電信課長を経て、日本占領下の香港で外事部長を務め 、日本の降伏まで務めた。帰国後は、終戦連絡中央事務局経済部長、公正取引委員会総務部長、通商産業省の通商局長(通商監)、外務省の経済局長、駐英公使(1954年より)、駐デンマーク公使・大使、インドネシア大使などを歴任。
川本 末雄(かわもと すえお、1907年(明治40年)3月1… 川本 末雄(かわもと すえお、1907年(明治40年)3月16日 - 1982年(昭和57年))は、熊本県玉名村(現玉名市玉名)出身の日本画家。 現代的解釈による大和絵の世界を展開し、郷里の菊池川周辺の自然風景をモチーフに、現代日本画の新境地を開いた。 1907年(明治40年)、熊本県玉名村に生まれる。旧制玉名中学校(現熊本県立玉名高校)を経て1929年、東京美術学校(現東京芸術大学)へ入学、1933年卒業。松岡映丘に師事する。1938年の松岡映丘の死去により翌1939年より山口蓬春に師事。 1948年、第4回日展(日本美術展覧会)にて「水辺薄日」が初入選、翌1949年第5回日展で「夕映」特選、1953年第9回日展で「朝の渓谷」が特選・白寿賞・朝倉賞を受賞。
今泉 亀撤(いまいずみ きてつ、1907年3月15日 - 2… 今泉 亀撤(いまいずみ きてつ、1907年3月15日 - 2009年12月29日)は、日本の眼科医、医学博士。岩手医科大学名誉教授。福島県郡山市出身。 旧制安積中学校(現福島県立安積高等学校)、旧東北帝国大学(現東北大学)医学部卒。東北大学助教授を経て岩手医科大学に教授として赴任。1949年11月、日本で最初の事例として角膜移植の手術を行った。その後1956年3月、日本最初のアイバンクとなる『目の銀行』を岩手医科大学内に設立した。
関口 真大(關口 眞大、せきぐち しんだい、1907年3月1… 関口 真大(關口 眞大、せきぐち しんだい、1907年3月15日 - 1986年10月2日)は、天台宗の僧、仏教学者。 1907年、栃木県生まれ。1931年、大正大学文学部を卒業。日光山華厳院住職となる。また、母校である大正大学で教授を務め、1960年「天台止観の成立と達摩禅」を大正大学に提出して文学博士号を取得。1978年に定年退職すると同時に名誉教授となった。以降も、国際仏教研究所理事、全日本仏教会評議員を務めた。
荻原 麟次郎(おぎわら りんじろう、1907年(明治40年)… 荻原 麟次郎(おぎわら りんじろう、1907年(明治40年)3月15日 - 1997年(平成9年)4月4日)は、日本の政治家。第14代秋田市長。勲五等双光旭日章。 秋田県秋田市泉三嶽根出身。明治大学専門部卒。秋田県庁に入り、経済部長、出納長、会社社長、秋田県議会議員(4期、自民党)などを経て、1971年(昭和46年)、秋田市長選挙に保守系から立候補し、現職の革新系の川口大助を破って当選した。市長在職中は市民広場の夜間照明の設置、大型市町村圏(秋田、男鹿、南秋田、河辺)促進連絡会議の発足、点字による市の広報の発行などの施策を実行した。しかし、翌1972年(昭和47年)、市長選挙で現職の川口市長のスキャンダルを週刊誌に売り飛ばし、選挙妨害をしたとして解職請求が出され、同年12月の投票の結果、賛成が反対を上回り、荻原は市長を失職となった。
川田 晴久(川田 義雄)(かわだ はるひさ(かわだ よしお)… 川田 晴久(川田 義雄)(かわだ はるひさ(かわだ よしお)、本名:岡村 郁二郎、1907年〈明治40年〉3月15日 - 1957年〈昭和32年〉6月21日)は、昭和期を代表する日本の俳優、歌手、コメディアン、ボードビリアン。いわゆるボーイズものの創始者である。灘康次を始め、多くの弟子を育てたことでも知られる。また、美空ひばりの「師匠」または「芸能界の育ての親」としても、近年、再評価が為されている。戦前は主に吉本興業(東京吉本)所属。 東京府東京市本郷区根津の印刷所を経営する岡村嘉松の子として生まれる。貧しかった少年時代に、家々の屋根を棒で飛び越えるという遊びに興じていた際に転落してしまう。この不慮の事故により脊椎カリエスを患うことになり、これが終生川田を悩ませる病となる。
菅沼 俊彦(すがぬま としひこ、1907年3月14日 - 2… 菅沼 俊彦(すがぬま としひこ、1907年3月14日 - 2001年12月18日)は、日本の経営者。日本板硝子社長、会長を務めた。大阪府大阪市出身。 1935年に京都帝国大学法学部を卒業し、同年に住友電気工業に入社。1963年2月に取締役に就任し、1967年2月に常務、1972年8月に専務を経て、1976年6月には日本板硝子社長に就任。1982年6月に会長に就任し、1984年6月に取締役相談役を経て、1986年6月から相談役を務めた。 1991年3月から1996年6月までに住友化学監査役を務めた。 2001年12月18日腹部大動脈りゅう破裂のために死去。94歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
堀江 知彦(ほりえ ともひこ、1907年〈明治40年〉3月1… 堀江 知彦(ほりえ ともひこ、1907年〈明治40年〉3月13日 - 1988年〈昭和63年〉6月28日)は、日本の書家・書道史家。 東京生まれ。号は秋菊。早稲田大学国文科卒。1934年から1969年まで東京国立博物館勤務。その後、1982年まで二松學舍大学教授を務めた。古筆鑑定、会津八一の研究を行った。
守屋 典郎(もりや ふみお、1907年3月12日 - 199… 守屋 典郎(もりや ふみお、1907年3月12日 - 1996年7月17日)は、日本の弁護士、左翼活動家、経済学者。 東京出身。本籍・岡山県小田郡矢掛町。父は第11・12代岡山市長、衆議院議員の守屋松之助。妻としの兄は同志社大学名誉教授の和田洋一 (文学研究者)。1929年東京帝国大学法学部卒。在学中新人会に加入。1930年弁護士開業。1932年日本共産党に入る。野呂栄太郎、平野義太郎らの指導で経済学を研究、講座派の一員として野口八郎の筆名で活動。1933年検挙され投獄。1934年倉敷絹織に入り法律問題の仕事に従事。1938年人民戦線事件などで検挙、投獄される。1940年出獄して大日本紡績連合会に入り、綿スフ統制会から繊維統制会価格課長。
安田 光昭(やすだ みつあき、1907年(明治40年)3月1… 安田 光昭(やすだ みつあき、1907年(明治40年)3月11日 - 1993年(平成5年)1月12日)は日本の教育者、政治家。元鳥取県議会議員。元米子市教育長。号東馬。 地方教育行政の要として野坂寛治市長のもと教育基盤の確立に尽力。米子市独自の教育立地計画を樹立することが肝要と6年間にわたり現場教職員と一体となり実態調査を実施。その結果を4冊にまとめ逐次刊行した。このことは全国的に注目された。また、全国の都市教育委員会の教育長に呼びかけて全国都市教育長会を結成し、地教委本来の使命達成に努めた。その他、県立移管となった市立米子高等学校の開設「米子市小学校再配置計画」の立案実施を行った。 鳥取県西伯郡大篠津村(現米子市大篠津町)の「大阪屋」という割烹旅館の長男として生まれた。
鈴木 成高(すずき しげたか、1907年(明治40年)3月1… 鈴木 成高(すずき しげたか、1907年(明治40年)3月11日 - 1988年(昭和63年)3月7日)は、日本の西洋史学者(専門は西洋中世史)。京都学派の一人。正五位勲三等瑞宝章。 1907年、高知県生まれ。旧制高知高等学校を経て、1929年京都帝国大学文学部西洋史学科を卒業。戦前は第三高等学校教授、1942年より京都帝国大学助教授を務めた。戦時下には大東亜戦争(太平洋戦争)を「世界史の哲学」の立場から思想的に位置付けようと試みた「世界史的立場と日本」座談会や「近代の超克」座談会に参加。 戦後、思想的事由により不適格と判定され京都大学を公職追放により離れる。1951年の追放解除の後に早稲田大学教授を務めた。
石井 桃子(いしい ももこ、1907年3月10日 - 200… 石井 桃子(いしい ももこ、1907年3月10日 - 2008年4月2日)は、日本の児童文学作家・翻訳家。位階は従四位。日本芸術院会員。 「くまのプーさん」「ピーターラビットのおはなし」「うさこちゃん」といった数々の欧米の児童文学の翻訳を手がける一方、絵本や児童文学作品の創作も行い、日本の児童文学普及に貢献した。 埼玉県北足立郡浦和町(後の浦和市、現:さいたま市)常盤に兄1人姉4人のきょうだいの末っ子として生まれる。生家は旧中山道沿いで金物店を営む旧家だった。父は小学校教師を経て友人と銀行を興し、浦和商業銀行の支配人をつとめていた。 1913年4月、埼玉県立女子師範附属小学校(現在の埼玉大学教育学部附属小学校)入学。
由水 政次(よしみず まさじ、1907年3月10日 - 20… 由水 政次(よしみず まさじ、1907年3月10日 - 2004年10月24日)は、日本の経営者。北越製紙社長を務めた。 石川県出身。1931年に九州帝国大学法科を卒業し、同年に日本勧業銀行に入行。1958年5月に取締役に就任し、1960年6月には北越製紙専務に就任し、1972年6月に副社長を経て、同年12月には社長に就任した。1977年7月に会長を経て、1981年6月には相談役に退いた。 2004年10月24日、老衰のために死去。97歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
玉林 憲義(たまばやし のりよし、1907年3月10日 - … 玉林 憲義(たまばやし のりよし、1907年3月10日 - 1996年7月4日)は、日本のドイツ文学者、教育功労者。 山口県生まれ。1930年京都帝国大学文学部独逸文学科卒、1933年関西学院大学予科教授として就任後、文学部部長・キリスト教主義教育研究室長・院長事務取扱・理事・評議員などを歴任。関西学院大学における独文学科設立の尽力者でもある。1967年には兵庫県教育功労者として表彰を受け、1974年関西学院大学を定年退職後は兵庫医科大学教授に就任した。 日独文化協会の会員、ドイツ・テュービンゲン大学への留学歴もあり、同じ京都帝国大卒で関西学院院長だった久山康、玉林とともに関西学院大学独文学科発足に尽力した村井勇吾らと独文学の翻訳や教本出版にも積極的に取り組んだ。