金 重泰(キム・ジュンテ、朝鮮語: 김중태、1920年2月9… 金 重泰(キム・ジュンテ、朝鮮語: 김중태、1920年2月9日 - 1990年11月27日)は、大韓民国の官僚、実業家、政治家。第8代韓国国会議員。 本貫は金寧金氏(朝鮮語版)。号は南洲。 日本統治時代の慶尚南道晋州郡(現・晋州市)出身。1945年東京帝国大学(現・東京大学)法学部政治学科卒。米軍政庁中央経済委員会事務長補・事務長、朝一産業社長、民主共和党麗水麗川地区党事務局長・全羅南道支部組織部長・事務局長、水産業協同組合(朝鮮語版)中央会常任監事・常任理事、民主共和党麗川地区党委員長を経て、第8代国会議員を務めた。議員退任後は麗水で事業を行った。 1990年11月27日、ソウル市麻浦区の自宅アパートにて持病により死去。
寄神 美好(よりがみ みよし、1920年(大正9年)2月9日… 寄神 美好(よりがみ みよし、1920年(大正9年)2月9日 - 2003年(平成15年)7月20日)は、日本の実業家。淡路島出身。寄神建設株式会社の創業者。港湾工事における工法等の発明を行っており、数々の特許も取得している。 1920年(大正9年)2月 兵庫県津名郡仮屋町(現:淡路市仮屋)に生まれる。1934年(昭和9年)、大工の修行のため淡路島から神戸に渡る。1938年(昭和13年)3月 、潜水業を営む叔父である寄神末吉の養子となる。養父の下で潜水業の修行を開始。1940年(昭和15年)同郷の千鶴と結婚。1941年(昭和16年) 呉海軍軍事部に徴用され広島県呉市に向かう。港務部施設課に配属され軍港の整備・改修に従事する。
宮崎 仁郎(みやざき じろう、1920年2月8日 - 200… 宮崎 仁郎(みやざき じろう、1920年2月8日 - 2001年2月18日)は、長野県出身のプロ野球選手。ポジションは遊撃手。
佐野 誠三(さの せいぞう、1920年2月7日 - 1976… 佐野 誠三(さの せいぞう、1920年2月7日 - 1976年6月10日)は、大阪府出身のプロ野球選手。 住吉中学校から1938年に南海軍へ入団。 チームの一年後輩に、戦後、名将として名を馳せる鶴岡一人がいた。一軍での出場機会が少ないまま、召集され、シベリア抑留後、復員したものの、1947年に引退、以後、マネージャー、スコアラー、ビデオマンとして南海を裏から支え水島新司の漫画『あぶさん』でも「VTRの誠さん」として取り上げられたことがあり、その際、氏の回想に巨人との試合で鶴岡が沢村栄治からライト前ヒットを放つシーンが描かれているが、鶴岡が南海に入団する前年、沢村は最初に召集され、昭和15年、18年と復帰、終戦前年、戦死しているのに対し、鶴岡は入団翌年、召集されたまま、終戦まで、チームに戻ることなく、実際、職業野球で対戦することはなかった。
中山 悌一(なかやま ていいち、1920年2月6日 - 20… 中山 悌一(なかやま ていいち、1920年2月6日 - 2009年9月29日)は、日本のバリトン歌手。作曲家。東京芸術大学教授、武庫川女子大学教授、洗足学園大学客員教授。 大分県生まれ。旧制大分中学校を経て東京音楽学校を卒業。ドイツ歌曲を研究し、日本においては木下保に師事した。ミュンヘン高等音楽学校に留学してゲルハルト・ヒュッシュに師事。1956年に帰国し、演奏活動を再開する。以降放送などで活動を重ね、出演回数は800回を超えた。 また、母校の東京芸術大学などで後進の指導にもあたり、東京芸術大学教授、武庫川女子大学教授、洗足学園大学客員教授をつとめた。弟子には大賀典雄、宮原卓也、伊藤京子等がいる。
小野寺 公二(おのでら こうじ、1920年2月5日 - 19… 小野寺 公二(おのでら こうじ、1920年2月5日 - 1998年10月8日)は、日本の歴史小説作家。別筆名に田原 耕二(たはら こうじ)。 青森県生まれ。後に父の郷里である岩手県胆沢郡胆沢町(現在の奥州市)へ転居し、旧制一関中学校(現岩手県立一関第一高等学校)を卒業。東京の中央大学経済学部へ進学し、卒業した後に病気療養のため帰郷する。 1954年に「奥羽のキリスト」でデビューするが、以後しばらくは「田原耕二」名義で懸賞歌謡の作詞を中心に活動し、1964年に「岩手県民の歌」(作曲:中田喜直)が入選した。 1970年代以降は主に歴史小説を手掛け、東北地方を舞台にしたものや算学を題材にしたものに特色がある。
林礼二(林禮二、はやし れいじ、1920年2月3日- )は、… 林礼二(林禮二、はやし れいじ、1920年2月3日- )は、日本の地理学者。 富山県出身。1941年東京帝国大学文学部哲学科卒。出版文化協会に勤務。その間、1942年2月、金沢の砲兵連隊に入営し見習士官となる。43年5月、南方へ出征。山砲兵としてビルマ各地を転戦、その後石油の積み出し業務に携わる。44年4月よりビルマ方面軍司令部参謀部に配属され情報の整理・司令官の通訳などの任にあたる。敗戦時、参謀部第二課情報将校(中尉)。収容所生活を経て1947年8月復員。
近藤 道生(こんどう みちたか、1920年2月2日 - 20… 近藤 道生(こんどう みちたか、1920年2月2日 - 2010年6月30日)は、日本の海軍軍人・大蔵官僚、実業家。国税庁長官を経て博報堂代表取締役社長を務めた。1982年聖シルベストロ騎士勲章、1992年勲一等瑞宝章、1993年日本宣伝賞大賞を受賞。 神奈川県小田原市出身。旧制小田原中学校(現:神奈川県立小田原高等学校)、旧制武蔵高校を経て、1942年7月に高等試験行政科に合格、同年9月に東京帝国大学法学部政治学科を卒業。同年同月、大蔵省に入省して理財局に配置される。高等試験は100番前後で入省成績も相澤英之が最下位で近藤がブービーだといわれていた。入省直後に海軍経理学校補修学生、海軍主計見習尉官(短期現役組(短現組)9期)となる。
近江 輝子(おうみ てるこ、1920年2月1日 - 2008… 近江 輝子(おうみ てるこ、1920年2月1日 - 2008年)は、日本の女優。 淑徳高等女学校卒業後、宝塚音楽歌劇学校に進学。同期に日高澄子、宮城千賀子がいた(宝塚歌劇団25期生を参照)。1938年、宝塚少女歌劇団・雪組に配属。最初は大宮輝子と名乗ったが大美輝子に改名。1945年に宝塚を退団すると、霧立のぼるのロマン座、希望座に加入。1948年12月、大映京都撮影所に入社。同年の『三十三の足跡』で映画デビュー。以後、1971年の大映倒産まで脇役として多くの映画に出演。多い時は年間14、5本に出て、時代劇では中老け役・老女役を得意とした。1972年から松竹芸能に所属し、テレビを中心に活躍。1959年に近江輝子に改名。
占部 都美(うらべ くによし、1920年2月1日 - 198… 占部 都美(うらべ くによし、1920年2月1日 - 1986年7月31日)は、日本の経営学者。経営学博士(神戸大学・論文博士・1961年)(学位論文「現代企業に対する制度論的研究」)。神戸大学名誉教授。 広島県福山市出身。1937年福山盈進商業学校(現盈進高等学校)、1940年横浜専門学校(現・神奈川大学)卒、1943年東京商科大学(現一橋大学)卒業。大学では増地庸治郎ゼミナールに所属。卒業後三菱石油に入社。1945年同退職、1946年財団法人運輸調査局財務調査部勤務。1950-51年ピッツバーグ大学大学院への留学を経て、1952年神戸大学経営学部助教授、1963年教授、1983年定年退官、名誉教授、日本文理大学教授・商経学部長、松山商科大学(現松山大学)教授。
林 義一(はやし ぎいち、1920年2月1日 - 2008年… 林 義一(はやし ぎいち、1920年2月1日 - 2008年1月17日)は、徳島県徳島市常三島出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ・監督、解説者・評論家。
鄭 煕燮(チョン・ヒソプ、朝鮮語: 정희섭、1920年2月1… 鄭 煕燮(チョン・ヒソプ、朝鮮語: 정희섭、1920年2月1日 - 1987年10月26日)は、大韓民国の官僚、医師、政治家、陸軍軍人。初代労働庁(現・雇用労働部)長、第9・12代保健社会部(現・保健福祉部)長官、第9・10代韓国国会議員などを歴任した。キリスト教徒。 日本統治時代の平安南道平原郡(現・朝鮮民主主義人民共和国領)出身。崇実中学校、平壌医学専門学校(現・平壌医科大学)卒業。1943年に卒業後は医師となり、中国の河南省、浙江省の病院に勤務した。開封の河南医院勤務中に韓国光復軍徴募第3分処と内通し、徴募などの地下活動に協力していた。光復後に帰国し、ソウルで開業医として活動した。 1954年、長崎医科大学(現・長崎大学)で医学博士学位を取得した。
西宮 信安(にしのみや のぶやす、1920年2月1日 - )… 西宮 信安(にしのみや のぶやす、1920年2月1日 - )は、日本の外交官。駐アイルランド特命全権大使、駐トルコ特命全権大使、外務省参与などを歴任した。勲二等旭日重光章受章。 東京出身。1937年東京商科大学(現一橋大学)予科入学。1942年同大学学部卒業。1945年在ポルトガル外交官補。同年経済安定本部部員。在オランダ日本国大使館二等書記官、同一等書記官を経て、1956年在ジャカルタ日本国総領事館領事。1958年在インドネシア日本国大使館一等書記官兼在ジャカルタ日本国総領事館領事。1958年通商産業省通商局市場第三課長。1959年通商産業省通商局市場第一課長。1963年在スウェーデン日本国大使館参事官兼在アイスランド日本国公使館参事官。
奥崎 謙三(おくざき けんぞう、1920年2月1日 - 20… 奥崎 謙三(おくざき けんぞう、1920年2月1日 - 2005年6月16日)は、日本の元陸軍兵士(最終階級は上等兵)、バッテリー商、著述家、アナーキスト。 昭和天皇パチンコ狙撃事事件のほか、不動産業者刺殺事件、皇室ポルノビラ事件、元上官家族への殺人未遂など、過激な行動や事件を度々起こしては逮捕・服役した。また、ドキュメンタリー映画『ゆきゆきて、神軍』に出演したことでも知られる。 自らを「神軍平等兵」と称していた。 1920年、兵庫県明石市大蔵町6丁目で生まれる。本籍地は兵庫県三木市口吉川町槙。小学校を卒業後は木綿問屋の丁稚奉公に出た。 1940年、徴兵検査に甲種合格。1941年3月に岡山連隊に入営し、後に中国の九江にある工兵隊へ転属。
小林 傭佶(こばやし ようきち、1920年(大正9年)1月3… 小林 傭佶(こばやし ようきち、1920年(大正9年)1月31日 - 1993年(平成5年)4月19日)は、日本の実業家・学校経営者。北海道古宇郡神恵内村生まれ。1942年(昭和17年)東京商科大学卒。「小林傭吉」「小林用吉」とも表記される。 三菱重工業勤務を経て、1946年(昭和21年)札幌文科専門学院教授。1949年(昭和24年)明和学園理事( - 1954年(昭和29年))。1950年(昭和25年)札幌短期大学商業科客員教授( - 1967年) 1957年(昭和32年)札幌日交タクシー社長。1959年(昭和34年)小樽日興交通社長。1960年(昭和35年)釧路日興交通社長。1961年(昭和36年)日交興業開発(後の小林企業)社長。
長谷川 町子(はせがわ まちこ、1920年(大正9年)1月3… 長谷川 町子(はせがわ まちこ、1920年(大正9年)1月30日 - 1992年(平成4年)5月27日)は、日本の女性漫画家。日本初の女性プロ漫画家。代表作に『サザエさん』・『いじわるばあさん』・『エプロンおばさん』など。 佐賀県小城郡東多久村(現在の多久市東多久町)で父・勇吉と母・サタ(貞子)との間の3人姉妹の次女として生まれる。実際は姉との間に夭折した2番目の姉がおり、戸籍上は4姉妹の三女になる。当時、多久で操業していた三菱炭坑の技師であった勇吉が独立、ワイヤーロープの事業開業に伴い福岡県福岡市春吉(現在の同市中央区春吉)に転居し、春吉尋常小学校に小学1年生から通った。 小学生時代は成績が良く男子生徒と交代で学級長を務めていたが「悪ガキ」だったと妹の洋子に語っている。
梅村 正司(うめむら しょうじ、1920年1月29日 - 2… 梅村 正司(うめむら しょうじ、1920年1月29日 - 2004年7月13日)は、日本の経営者。日興証券社長を務めた。神奈川県横浜市出身。 1933年に日興証券に入社し、1942年に早稲田大学専門部政治経済学科を卒業。1962年11月に取締役に就任し、1968年8月に常務、1971年11月に専務、1976年11月に副社長を経て、1981年12月には社長に就任。1986年12月に会長に就任し、1996年6月には相談役に就任。 1984年11月に藍綬褒章を受章し、1995年11月に勲一等瑞宝章を受章。 2004年7月13日に肺炎のために死去。84歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
尾形 仂(おがた つとむ、1920年1月28日 - 2009… 尾形 仂(おがた つとむ、1920年1月28日 - 2009年3月26日)は、日本の国文学者。
竜ヶ嵜 唯雄(りゅうがさき ただお、1920年1月28日 -… 竜ヶ嵜 唯雄(りゅうがさき ただお、1920年1月28日 - 没年不明)は、昭和時代の大相撲力士。芝田山部屋から高砂部屋所属。茨城県龍ケ崎市出身。本名は中山 唯雄(なかやま ただお)。最高位は東十両12枚目。得意技は左四つ、寄り、上手投げ。 横綱・宮城山福松の芝田山部屋に入門、1935年5月場所で初土俵を踏む。親方が亡くなり、高砂部屋に移籍した1944年1月場所に十両に昇進するが、応召され全休する。翌5月場所に出場するが2勝8敗と負け越し、幕下に陥落する。その後は勝ち越すことなく、三段目まで陥落した1946年11月場所に廃業。廃業後は広島の野球チームグリーンバーグ(のち結城ブレーブス)に入団、捕手となった。
亀岡 高夫(かめおか たかお、1920年1月27日 - 19… 亀岡 高夫(かめおか たかお、1920年1月27日 - 1989年3月13日)は、日本の政治家である。自由民主党所属の衆議院議員。建設大臣、農林水産大臣を歴任した。
兵藤 和男(ひょうどう かずお、1920年1月26日 - 2… 兵藤 和男(ひょうどう かずお、1920年1月26日 - 2012年6月23日)は、日本の洋画家。 1920年(大正9年)1月、横浜市中区真砂町1丁目の絹織物輸出商の家庭に兄一人・姉二人のいる末っ子として生まれる。父の和四朗は河東碧梧桐に師事した俳人、母せいは群馬県桐生の機織業者矢島家の三女であった。1923年に発生した関東大震災の後に、三渓園にほど近い中区間門町に移る。1932年、考古学を専攻する兄に代わり家業を継ぐため横浜市立横浜商業学校に入学。1933年、同校2年生在学中に、幼稚園からの同窓の堀江祐造に刺激され油絵を始める。翌年の夏休みからは市内弘明寺町にあった川村信雄の画塾に通い、主に石膏デッサンを学ぶ。
真鍋 呉夫(まなべ くれお、1920年1月25日 - 201… 真鍋 呉夫(まなべ くれお、1920年1月25日 - 2012年6月5日)は日本の作家・文筆家・俳人。 福岡県遠賀郡岡垣村(現・岡垣町)生まれの父甚兵衛、母オリとも俳人で父は天門(てんもん)、母は織女(おりじょ)と号していた。 福岡商業学校卒業後、1939年阿川弘之、島尾敏雄、那珂太郎らと同人誌「こをろ」を創刊。1941年、文化学院文学部に入学。句集『花火』(こをろ発行所)を自費出版。1946年復員後、北川晃二と一緒に文芸誌「午前」の編集に携わり、同郷の檀一雄を頼って1949年上京。檀一雄との交流は長く、その後30年にわたり兄事した。1949年、第一創作集『サフォ追慕』にて第21回芥川賞候補となり、新進作家として注目された。
小玉 健吉(こだま けんきち、1920年(大正9年)1月25… 小玉 健吉(こだま けんきち、1920年(大正9年)1月25日 - 2005年(平成17年)7月6日)は、日本の科学者。工学博士。日本の酵母菌研究の第一人者で、特に森林微生物の収集と分類に取り組み、野生酵母の研究で知られる。北村匠海の親戚。 秋田県南秋田郡飯田川町(現・潟上市)出身。旧制秋田県立秋田中学校、旧制広島高等工業学校を経て、1942年(昭和17年)に大阪帝国大学工学部発酵工学科を卒業。 1943年(昭和18年)陸軍燃料本部技術研究所に配属され、発酵燃料の研究に従事した。最終階級は陸軍中尉。 戦後、生家の小玉合名会社(現・小玉醸造株式会社、創業:1879年(明治12年))に勤務。社内の研究所で自社製品である味噌・醤油・清酒のための酵母の研究に従事した。
横山 操(よこやま みさお、男性、1920年(大正9年)1月… 横山 操(よこやま みさお、男性、1920年(大正9年)1月25日 - 1973年(昭和48年)4月1日)は、新潟県西蒲原郡吉田町(現・燕市)出身の日本画家。多摩美術大学教授。昭和を代表する日本画家である。[要出典] 横山の作品は煤や石灰などを画面に擦り付け、力強く轟くような漆黒と、そこからにじみ出てくるような鮮やかな色が特徴であるとされる。見た目には洋画に近い作風ともいえるが、日本画である。また、同じく昭和期に活躍した加山又造とは懇意であり、荒々しく力強い横山と対照的に、静謐な線による構図や伝統的な花鳥風月などを取り入れ、日本画の王道を歩んだともいえる加山であるが、お互いを認め合いライバルとして日本画壇をリードしてきた。
江波 和子(えなみ かずこ、1920年1月24日 - 194… 江波 和子(えなみ かずこ、1920年1月24日 - 1947年)は日本の女優である。福岡県久留米市出身。女優の江波杏子は娘。
島谷 六郎(しまたに ろくろう、1920年1月24日 - 2… 島谷 六郎(しまたに ろくろう、1920年1月24日 - 2006年11月21日)は、日本の弁護士。最高裁判所判事。富山県出身。 旧制富山高校から1942年(昭和17年)に東京帝国大学法学部を卒業。海軍法務官となり、中国の海南島で敗戦、そのまま中国に抑留され、2年間捕虜生活を送った。 在学中に高等文官試験司法科に合格したが、軍隊生活のため司法修習生になったのは1948年(昭和23年)で、1950年(昭和25年)に弁護士登録をした。藤林益三の事務所に籍を置き、初めは刑事を手がけたが、後に銀行などの顧問弁護士を務め、銀行取引や会社関係の訴訟にも詳しい。日弁連外国弁護士対策委員会初代委員長を務めたほか、司法研修所教官、東京地裁調停委員なども務めた。
高田 信一(たかた しんいち 1920年1月24日または19… 高田 信一(たかた しんいち 1920年1月24日または1921年11月5日 - 1960年1月16日)は、日本の作曲家、指揮者である。元広島大学教授。日本交響楽団(現在のNHK交響楽団の前身)、東京フィルハーモニー交響楽団の指揮者を務めた。 実業家の息子(4人兄弟の長男)として、1920年(大正9年)に東京府荏原郡大森町(現在の東京都大田区)で生まれた。1926年(大正15年)に成城小学校(現在の成城学園初等学校)に入学、8歳から上野耐之に音楽の初歩を学び、1932年(昭和7年)に成城高等学校(現在の成城学園中学校高等学校)尋常科に入学後は、12歳から藤田喜与子にピアノを、16歳から作曲を長谷川良夫に師事した。
小島 吉雄(小嶋 吉雄、おじま よしお、1920年1月24日… 小島 吉雄(小嶋 吉雄、おじま よしお、1920年1月24日 - 2005年12月28日)は、日本の魚類細胞遺伝学者。 高知市出身。1942年北海道帝国大学理学部動物学科卒。45年同副手。1955年北海道大学理学博士。1948年関西学院大学講師、51年助教授、57年教授。61年理学部教授(理学部新設)、69年理学部長、88年定年退職、名誉教授。日本魚類生物科学研究所長。1988年財団法人染色体学会理事長。1980年兵庫県科学賞、1993年勲三等瑞宝章。 金魚の祖先が中国の鮒の一種「鯽」であることをつきとめた。
山村 秀夫(やまむら ひでお、1920年1月23日 - 20… 山村 秀夫(やまむら ひでお、1920年1月23日 - 2017年11月25日)は、日本の麻酔学者。東京大学名誉教授。旧姓は茂木。 埼玉県熊谷市出身。旧制埼玉県立熊谷中学校、旧制静岡高等学校、東京帝国大学医学部卒業。1948年医学博士。東京大学医学部助教授、1956年教授となる。1978年東京大学医学部長となる。1980年定年退官、名誉教授、東京専売病院長。1990年康済会病院理事長、1998年日本救急医療財団理事長。麻酔専門医制度の発足や日本麻酔学会の創設に参加し、1982年山村記念賞が設けられた。墓所は多磨霊園。
蜂屋 慶(はちや けい、1920年1月23日 - 1997年… 蜂屋 慶(はちや けい、1920年1月23日 - 1997年9月18日)は、日本の教育学者。京都大学名誉教授。 大阪市出身。1941年京都帝国大学文学部哲学科卒、同大学院(旧制)、1981年「生活指導における集団指導の理論的考察」で京都大学教育学博士。大阪市立大学講師、助教授、教授、1972年奈良女子大学教授、京都大学教育学部教授、83年定年退官、名誉教授、光華女子大学長。92年退任。1958年『子どもらが道徳を創る』(宇野登共著)で毎日出版文化賞受賞。
小野田 勇(おのだ いさむ、1920年1月22日 - 199… 小野田 勇(おのだ いさむ、1920年1月22日 - 1997年7月15日)は、日本の脚本家、劇作家。 東京・四谷出身。中央大学(1941年)卒業。東京放送劇団に在籍していた。俳優としての実績もある。息子の小野田正も脚本家兼演出家であり、孫の小野田光は歌人兼フォトグラファーである。
細谷 貞雄(ほそや さだお、1920年1月22日 - 199… 細谷 貞雄(ほそや さだお、1920年1月22日 - 1995年12月8日)は、日本の哲学者である。東北大学・岡山大学名誉教授。 東京府出身。1942年東京帝国大学文学部哲学科卒。北海道大学助教授、1960年東北大学助教授、1968年東北大学教授、1977年東北大学名誉教授、岡山大学教授、1984年岡山大学定年退官、岡山大学名誉教授。
松田 岩男(まつだ いわお、1920年1月22日 - 199… 松田 岩男(まつだ いわお、1920年1月22日 - 1992年2月18日)は、日本の体育心理学者。 島根県浜田市生まれ。1945年東京文理科大学心理学科卒。1947年東京高等師範学校助教授、50年教授、1951年東京教育大学助教授、70年教授、1973年筑波大学教授、1981年上越教育大学副学長。85年退官、名誉教授。中京大学教授となり、1988年4月学長に就任。第14ー15期日本学術会議会員。1985年国際スポーツ心理学会功労賞。1992年2月18日、後述の事件にて客死する。享年72。 1992年2月18日、中京大学とマサチューセッツ大学ボストン校との交流協定締結のため、中垣昇経済学部教授らと共にボストン市内ウエスティンホテルに宿泊し、同日午後夕方より打ち合わせの予定があったところ襲撃される。
前田 正昭(まえだ まさあき、1920年(大正9年)1月22… 前田 正昭(まえだ まさあき、1920年(大正9年)1月22日 - 2008年(平成20年)9月8日)は、昭和期の華族(男爵)。別名直昭。 前田土佐守家第12代当主前田政雄の子として生まれる。1943年5月1日、祖父の死去に伴い男爵を襲爵した。 日本大学旧工学部機械科を卒業し日本曹達に入った。その後、前田土佐守家が所蔵する文化財を金沢市に寄付し前田土佐守家資料館設立に寄与した。また、2002年から2006年まで同館初代館長を務めた。
古森 敬造(こもり けいぞう、1920年(大正9年)1月21… 古森 敬造(こもり けいぞう、1920年(大正9年)1月21日 - 不明)は、日本の銀行員、実業家。ガダルカナル島の戦いにおける川口支隊の生還者の一人。三和銀行参与、象印マホービン常務取締役。 福岡県福岡市出身。松次郎、ツルの三男。1937年(昭和12年)に福岡商業学校(現・福岡市立福翔高等学校)を卒業後、三和銀行に入社。1940年に応召し、第18師団隷下の歩兵第124連隊に配属。連隊は川口支隊隷下として南方に向かい、ボルネオ島、ミンダナオ島、フィジー諸島攻略を経て、1942年(昭和17年)9月3日よりガダルカナル島の戦いに連隊本部附書記(上等兵、のち伍長)として参加。支隊本部とは別途舟艇で上陸したが、その直後より敵戦闘機の機銃掃射に遭い、連隊主力とともにアウステン山(英語版)で包囲孤立し、以後3か月にわたる籠城を耐えた。
照屋 寛善(てるや かんぜん、てるや ひろよし、1920年1… 照屋 寛善(てるや かんぜん、てるや ひろよし、1920年1月21日 - 2004年7月31日)は、日本の医師である。戦後の沖縄の医療界の発展に尽し、沖縄の古典芸能を研究した。琉球大学名誉教授。 1920年1月沖縄県首里に生まれる。1942年九州医専(現久留米大学)卒業。内科の軍医になり南洋のナンボン島などに駐留。1946年復員、九州医専で勉強、後沖縄に帰る。宜野座の松田診療所勤務。沖縄には医師が少なく過労気味であったので1950年にそのことを訴えた。この反響は大きかった。既に始まっていた医学部留学制度は、50年には2回も募集があり、また、本土で勉強している沖縄出身の医師も帰還した人もいる。真和志診療所勤務。
藤平 光一(とうへい こういち、1920年1月20日 - 2… 藤平 光一(とうへい こういち、1920年1月20日 - 2011年5月19日)は、東京生まれ栃木県出身の日本の武道(合気道)家。心身統一合氣道の創始者。1969年(昭和44年)合氣道10段。現一般社団法人心身統一合氣道会会長の藤平信一は息子。 幼少の頃は体が弱く、父親から柔道を教わった。慶應義塾大学に入学後、肋膜炎を発症し山岡鉄舟の高弟小倉鉄樹などから禅や呼吸法を学び修行した結果、肋膜炎が完治した。19歳のときに合気道の開祖植芝盛平に入門する。慶應義塾大学経済学部卒業後、陸軍に入隊。中国へ派遣されたときの体験が「氣の原理」に大きく影響を与えた。 帰国後、中村天風に師事し、心身統一道を学ぶ。その後ハワイを始め、アメリカ各地で合気道を指導した。
小花波 平六(こばなわ へいろく、1920年〈大正9年〉1月… 小花波 平六(こばなわ へいろく、1920年〈大正9年〉1月20日 - 2007年〈平成19年〉6月4日)は、日本の教師、民俗学者。 群馬県に生まれる。群馬師範学校に学び、同校で担任であった千々和実の歴史の授業に「大きな感化を受けた」という。1931年に出征し、1946年に復員すると、東京・板橋で小学校教員になる。1956年に立正大学を卒業。卒業論文は「北魏王朝の経済政策」。1974年から1977年まで板橋区立の小学校校長を務める。教材研究として地域の石造物調査に取り組み、特に庚申塔の調査に焦点を当て、1959年に庚申懇話会を創立した。その後も庚申信仰の第一人者として研究を続けた。教員を退職した後には、板橋区立郷土資料館館長などを務めた。
土田 喜代一(つちだ きよかず、1920年1月20日 - 2… 土田 喜代一(つちだ きよかず、1920年1月20日 - 2018年10月15日)はペリリュー島から生還した日本兵。ペリリューの戦いでは海軍上等水兵、最終階級は海軍二等兵曹。 福岡県八女郡水田村(現・筑後市)生まれ。1935年(昭和10年)八女工業学校卒業。1943年(昭和18年)1月、佐世保第2海兵団に入団。同年4月、博多海軍航空隊(実習部隊)に配属された後、横須賀航海学校見張り科に入校。同年10月の鹿屋航空隊への配属を経て、第1航空艦隊第761海軍航空隊(主力・一式陸上攻撃隊)に配属。1944年(昭和19年)2月、マリアナ諸島テニアン島へ向かう。同年6月マリアナ沖海戦により、パラオ諸島ペリリュー島へ転進(撤退)し、第1航空艦隊西カロリン方面航空隊に移るり見張りの任務に就く。
高田 久成(たかだ ひさなり、1920年1月19日 - 20… 高田 久成(たかだ ひさなり、1920年1月19日 - 2007年10月7日)は、日本の実業家、馬主。台湾出身。 名馬テンポイント等の馬主として知られ、京都馬主協会の役員を務めた。元中外炉工業株式会社取締役。 日本中央競馬会(JRA)の馬主としても知られた。勝負服の柄は桃、黄銭形散、白袖で、冠名は特に用いなかった。 所有馬は大半が地元である関西の小川佐助、戸山為夫、鹿戸幸治、鹿戸明厩舎に所属していたが、プリテイキャストのように関東の石栗龍雄厩舎に所属した馬もいた。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
竹下 一記(たけした かずき、1920年 <大正9年> 1月… 竹下 一記(たけした かずき、1920年 <大正9年> 1月19日 - 2003年 <平成15年> 12月22日)は、日本の郵政官僚、経営者。郵政事務次官、熊本県民テレビ社長を歴任。位階は従三位。 熊本県出身。1941年に東京帝国大学法学部を卒業し、同年に高文行政科にも合格し、逓信省に入省。1962年5月に広島郵便局長、1964年6月に東京郵便局長、1966年7月に大臣官房長、1967年7月に簡易郵便局長、1969年11月に郵務局長を経て、1971年7月から1973年7月までに郵政事務次官を務めた。 1974年4月に簡易保険福祉事業団理事長を経て、1981年11月から1995年5月までに熊本県民テレビ社長を務めた。
岡崎 哲夫(おかざき てつお、1920年(大正9年)1月18… 岡崎 哲夫(おかざき てつお、1920年(大正9年)1月18日 - 2000年(平成12年)12月15日)は、昭和後期から平成にかけての社会運動家。森永ミルク中毒資料館館長。 1920年(大正9年)岡山県に生まれる。早稲田大学在籍中の1941年(昭和16年)には、軍事教練を拒否したため、大学を中退している。1943年(昭和18年)臨時召集により、関東軍満洲第409部隊(歩兵第10連隊、佳期斯)に入隊。1945年(昭和20年)関東軍満洲第15国境守備隊(旧満洲国東安省虎頭要塞)に転属。この年、ソ連軍との激戦に生還している。その後、シベリアに抑留され、1948年(昭和23年)、帰国する。 1955年(昭和30年)に発生した森永ヒ素ミルク中毒事件の被災時の父親の一人として、森永ミルク被災者同盟の初代委員長に就任。
熊田 誠(くまだ まこと、1920年1月17日 - 2007… 熊田 誠(くまだ まこと、1920年1月17日 - 2007年6月28日)は、日本の化学者。専門は、有機ケイ素化学・有機金属化学・有機合成化学など。京都大学名誉教授。1993年勲三等旭日中綬章受章。1994年恩賜賞・日本学士院賞受賞。2007年正四位。福井県小浜市出身。 有機金属化学、特に有機ケイ素化学、遷移金属触媒反応の分野において先駆的な研究をしこの分野の発展に指導的役割を果たした。また多くの門下生を輩出した。 専門は有機ケイ素化学、有機合成化学、有機金属化学を中心とする有機化学。 特に有機ケイ素化合物その他有機金属を用いる有機合成、構造有機化学で先駆的研究成果を多数。現在、シリコーン接着剤や化粧品などの原材料として幅広く使われる有機ケイ素化合物の新しい合成法や物性の研究開発を行った。
北原 文雄(きたはら あやお、1920年1月17日 - )は… 北原 文雄(きたはら あやお、1920年1月17日 - )は、日本の化学者。専門は、コロイド・界面化学とその化学史。 長野県上伊那郡藤沢村(現・伊那市)出身。旧制諏訪中学(現・長野県諏訪清陵高等学校)、第一高等学校理科乙類を経て、1942年東京帝国大学理学部化学科卒業。理学博士。 東京電気(現・東芝)入社。1949年佐賀県小城石炭研究所入所。1952年東邦大学理学部助教授。1959年同大学教授。1961年ペンシルベニア州立大学研究員。1963年東京理科大学工学部工業化学科教授。同大学工学部長を経て、1995年同大学名誉教授。 2020年には『化学者ウィリアムソンと日本人留学生たち』という本を出版した。
金 達寿(キム・タルス/キムダルス、김달수、1920年〈大正… 金 達寿(キム・タルス/キムダルス、김달수、1920年〈大正9年〉1月17日(陰暦1919年11月27日) - 1997年〈平成9年〉5月24日)は、在日朝鮮人小説家・古代史研究家。朝鮮民主主義人民共和国・朝鮮総連を強く支持していたものの、実態を知り、1981年に韓国訪問以降は第三者の立場を取った。 日本統治下朝鮮の慶尚南道昌原郡内西面虎渓里(現・大韓民国慶尚南道昌原市馬山会原区)に、中農の地主の三男として生まれる。父・金柄奎、母・孫福南、長兄・金声寿、次兄・金良寿、妹・金ミョンスがいた。 父柄奎が遊蕩に耽り、破産。1925年(大正14年)、金達寿が5歳の時、両親は長男声寿と妹ミョンスを連れて、内地に渡る。
野中 英二(のなか えいじ、1920年1月16日 - 201… 野中 英二(のなか えいじ、1920年1月16日 - 2015年2月25日)は、日本の政治家。勲章は勲一等瑞宝章。 国土庁長官(第18代)、衆議院議員(6期)、埼玉県議会議員(3期)等を歴任した。 衆議院議員の野中厚は孫。 埼玉県加須市生まれ。旧制粕壁中学校、慶應義塾大学法学部卒業。 大越村議会議員、埼玉県議会議員を経て、1967年の第31回衆議院議員総選挙に旧埼玉4区(定数3)から無所属で出馬したが、次点で落選した。1969年、第32回衆議院議員総選挙に旧埼玉4区から再び無所属で出馬し、得票数2位で当選した(野中に代わり、日本社会党の板川正吾が落選し、保守系で3議席を独占した)。当選後、自由民主党に入党。
甲田 和衛(こうだ かずえ、1920年1月16日 - 199… 甲田 和衛(こうだ かずえ、1920年1月16日 - 1993年9月23日)は、日本の人文学者。大阪大学名誉教授。放送大学元学長。 大阪府出身。旧制東京高等学校を経て、東京帝国大学文学部に入学。社会学科で社会学を専攻し、1942年9月に卒業。1944年、蒙古聯合自治政府領張家口で西北研究所が設立されると所員となった。 1951年6月、大阪大学文学部助教授に就いた。1966年4月、大阪大学文学部教授に昇格。1972年5月からは大阪大学人間科学部教授。1976年5月からは大阪大学人間科学部長もつとめた。1983年、大阪大学を定年退職し、名誉教授となった。同1983年4月からは放送大学教授として教鞭をとった。
乾 崇夫(いぬい たかお、1920年1月16日 - 2012… 乾 崇夫(いぬい たかお、1920年1月16日 - 2012年9月13日)は、日本の工学者(造船学・船型学)。学位は工学博士(東京大学・1958年)。東京大学名誉教授、日本学士院会員、文化功労者。 東京府出身。旧制第一高等学校、東京帝国大学工学部船舶工学科卒業。船体の造波抵抗、流れの可視化、数値解析、球状船首の研究などを行い、1958年東京大学から工学博士号取得。論文は「船体の造波抵抗に関する研究」。 1958年東京大学工学部教授、1980年定年退官、玉川大学教授、1988年文化功労者となる。日本学士院会員。2012年9月13日、肺炎により東京都内の病院で死去した。92歳没。 造船学や船型学を専門としており、波の重要性に着目し波紋解析的船型試験法を開発した。
國島 文彦(くにしま ふみひこ、1920年〈大正9年〉1月1… 國島 文彦(くにしま ふみひこ、1920年〈大正9年〉1月15日 - 2006年〈平成18年〉7月26日)は、日本の警察官僚。第71代警視総監。勲二等旭日重光章。 東京府、現在の豊島区出身。旧制一高を経て、1944年東京帝国大学法学部政治学科を卒業。1945年、内務省に入省し警保局に配属。 1946年、終戦連絡事務局に転じた。以後、岡山県警察部経済防犯課長、国家地方警察岡山県本部警務部警務課長、警視庁本富士警察署長、警視庁刑事部鑑識課長、同警備第二部公安第一課長、同警務部人事課長、佐賀県警察本部長、九州管区警察局公安部長、池田勇人内閣総理大臣秘書官、警察庁警備局資料課長、警視庁交通部長、警察庁警務局人事課長、京都府警察本部長、警視庁警務部長、警察庁長官官房長、同庁警務局長などを歴任。
大熊 宗清(おおくま むねきよ、1920年1月15日 - 1… 大熊 宗清(おおくま むねきよ、1920年1月15日 - 1991年2月11日)は、広島県大竹市元町出身で熊ヶ谷部屋に所属した大相撲力士。本名は和田 宗清(わだ むねきよ)。現役時代の体格は182cm、100kg。最高位は西前頭6枚目(1947年11月場所)。 実家は農家で、地元に住んでいた大相撲の世話人に勧められて、16歳の時に熊ヶ谷部屋へ入門。1937年1月場所で、初土俵を踏んだ。 幕下時代は、神風正一や輝昇勝彦とともに「幕下三羽烏」と呼ばれた。番付に初めて付いて以来1度も負け越しなしで、1941年1月場所にて十両に昇進した。 この地位でも勝ち越しを続け、1942年5月場所にて、22歳で新入幕を果たした。