川崎 芳隆(かわさき よしたか、1908年 - 1971年)… 川崎 芳隆(かわさき よしたか、1908年 - 1971年)は、日本のドイツ文学者。東京帝国大学独文科卒。群馬大学教授を務めた。多くのドイツ文学を翻訳した。
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川崎 芳隆(かわさき よしたか、1908年 - 1971年)… 川崎 芳隆(かわさき よしたか、1908年 - 1971年)は、日本のドイツ文学者。東京帝国大学独文科卒。群馬大学教授を務めた。多くのドイツ文学を翻訳した。
木下 秀夫(きのした ひでお、1908年 - 1989年)は… 木下 秀夫(きのした ひでお、1908年 - 1989年)は、日本の翻訳家。 東京外国語学校英語科卒業。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
勝田 千利(かつた ちとし、1908年 - 1981年)は、… 勝田 千利(かつた ちとし、1908年 - 1981年)は、昭和期の建築学者である。1959年(昭和34年)に被害を齎した伊勢湾台風により補強コンクリートブロック造による「伊勢湾台風復興住宅」の設計、また関東大震災後の「柔剛論争」後の研究停滞期に免震構造の研究等で知られる。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
金 午星(キム・オソン、김오성、1908年 - 1953年?… 金 午星(キム・オソン、김오성、1908年 - 1953年?)は、日本統治時代の朝鮮の共産主義理論家、文学評論家。本名は金亨俊(キム・ヒョンジュン、김형준)。 日本大学哲学科を卒業し、東京で雑誌『大衆之光』を発行した。1926年ころ、故郷の平安北道龍川で小作争議を指導し、1927年には東京学生読書会事件(동경학생 독서회사건)で検挙された。日本から帰ってきた1932年、天道教青年党機関誌『농민(農民)』を編集しながら、農村啓蒙運動に取り組み、朝鮮農民社(조선농민사)常任理事も務めた。 日本統治時代末期の1943年には、朝鮮文人報国会の隨筆評論部会評議員に選出され、親日派に変節した。この時期、金午星は朝鮮総督府の御用機関紙であった『毎日新報』に親日的論説を掲載した。
池田 勉(いけだ つとむ、1908年 - 2002年)は、日… 池田 勉(いけだ つとむ、1908年 - 2002年)は、日本の国文学者。学位は、文学博士(東洋大学・論文博士・1962年)(学位論文「源氏物語の制作過程に関する研究」)。成城大学名誉教授。 1934年広島文理科大学卒。1938年同窓の蓮田善明・清水文雄・栗山理一とともに『文藝文化』を創刊、1944年まで続け、日本浪曼派の一翼を担い、三島由紀夫を育てた。1962年「源氏物語の制作過程に関する研究」で東洋大学より文学博士の学位を取得。成城大学教授、1979年定年退任。
千賀 恒夫(せんが つねお、1908年(明治42年) - … 千賀 恒夫(せんが つねお、1908年(明治42年) - 没年不明)は、日本の建築家。 1932年(昭和7年)に横浜高等工業学校(現・横浜国立大学)を卒業後、宮内省入省。 1933年(昭和8年)内匠寮匠生に採用され、1937年(昭和12年)に宮内技手となる。二代目宮内省庁舎(現・宮内庁庁舎)、楽部庁舎などの設計に携わった。1945年(昭和20年)に退官。
曺 寧柱(そう ねいちゅう、朝: 최배달、1908年 - 1… 曺 寧柱(そう ねいちゅう、朝: 최배달、1908年 - 1996年)は、朝鮮の民族運動家、空手家。初代全日本空手道剛柔会副会長。剛柔流空手の大家で、日本本土における剛柔流の祖の一人。 山口剛玄と本土最古の剛柔流道場である立命館大学空手道部を創設。大山倍達の師としても著名である。 慶尚北道醴泉にて裕福な地主の家系に生まれる。大邱の嶠南学校在学中に学生運動に関わり検挙された。日本に留学し、立命館大学法学部に入学。京都朝鮮留学生学友会の会長に推挙された。また学生時代に空手を習得している。1939年、石原莞爾の知遇を得て、東亜連盟論に共鳴し、朝鮮の処遇改善を求めて、立命館大学や同志社大学の留学生を東亜連盟運動に勧誘し、1939年には釜山で講演を行っており、この講演会で大山倍達(崔永宣)に出会う。
木村 文俊(きむら ふみとし、1908年 - 1984年)は… 木村 文俊(きむら ふみとし、1908年 - 1984年)は、日本の駒師。第十四世名人木村義雄の実弟。 この項目は、将棋に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:ボードゲーム)。 この項目は、ゲーム関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝)。
木村 久(きむら きゅう、1908年 - 1937年)は、日… 木村 久(きむら きゅう、1908年 - 1937年)は、日本の元プロボクサー。本名は木村久五郎で、「木村久」はリングネーム。アメリカでも活躍し、"ノックアウトQ"の異名で知られ、絵物語『ノックアウトQ』のモデルにもなった。岩手県花巻市出身。 岩手から上京し浅草で働いていたが、近くのジムを覗き込んだのが縁でボクシングを始める。その後、木村の草試合を見た当時の名選手、荻野貞行と佐藤東洋のスカウトを受け、両者の帝国拳闘協会(帝拳プロモーション)設立に合流。 1926年7月、帝拳創立記念試合に登場、佐藤東洋との模範試合でデビュー。翌月の佐藤との6回戦で引分ける。そして同年9月に帝拳はアメリカ遠征を敢行、木村もその一員として渡米した。
瀬野 修(せの おさむ、1908年 - 1995年)は、日本… 瀬野 修(せの おさむ、1908年 - 1995年)は、日本の教師、兵士、歌人、作家。択捉島に出征後、敗戦後シベリアにて抑留中に和歌集『白樺日誌』を書き、日本に持ち帰ったことで知られる。基本的に名前は「修」表記であるが、国立情報学研究所では「脩」表記である。 1908年、京都府舞鶴市に生まれる。その後、旧制舞鶴中学校(現・京都府立西舞鶴高等学校)の教師として働いたのち、太平洋戦争において択捉島に兵士として出征後、終戦を迎え抑留される。ソ連コムソモリスク近郊の収容所を転々としながらシラカバの木の皮を使い、ガラスをとがらせペンに、煙突のすすをインク代わりにし全200-300首の和歌を書いた。 1947年に引き揚げされた時に白樺日誌を持ち帰り、1988年に舞鶴引揚記念館に『白樺日誌』を寄贈した。
藤井 滋司(ふじい しげじ、1908年 - 1970年)は、… 藤井 滋司(ふじい しげじ、1908年 - 1970年)は、日本の脚本家。松竹下加茂撮影所の脚本部に所属しながら、トーキー黎明期の京都にかつて存在した会社組織を超えた脚本家集団「鳴滝組」に参加、映画史に名を残す。 1908年(明治42年)に生まれる。1922年(大正11年)、旧制京都市立第一商業学校(現:京都市立西京高等学校・附属中学校)に入学、当時の同級生、のちの映画監督の山中貞雄とは親しく、映画好きの仲間であった。1学年上に当時すでに映画俳優だったのちの映画監督マキノ正博がいた。 1933年(昭和8年)頃、松竹下加茂撮影所脚本部に入社、同年、劇作家木村錦花の歌舞伎台本を木村富士夫と共同で脚色した井上金太郎監督の『弥次喜多』で脚本家としてデビュー、同作は正月映画として同年末12月31日に公開された。
土井 忠雄(どい ただお、1908年 - 1994年)は、日… 土井 忠雄(どい ただお、1908年 - 1994年)は、日本の仏教学者、真宗学者。京都女子大学名誉教授。浄土真宗本願寺派勧学。広島県生まれ。 長年の蔵書を中央仏教学院に寄贈し、土井文庫となる。現在入手不可能な本も多数あり。
米山 弘(よねやま ひろし、1908年(明治41年) - 1… 米山 弘(よねやま ひろし、1908年(明治41年) - 1987年(昭和62年)1月24日)は、茨城県出身の競泳選手。旧制茨城県立水戸中学校、第一早稲田高等学院、早稲田大学商学部卒業。1928年アムステルダムオリンピック男子800m自由形リレー銀メダリスト。 1928年のアムステルダムオリンピック競泳男子800m自由形リレーで佐田徳平、新井信男、高石勝男とともに銀メダルを獲得。
田中 哲郎(たなか てつろう、1908年〈明治41年〉 - … 田中 哲郎(たなか てつろう、1908年〈明治41年〉 - 1974年〈昭和49年〉2月19日)は、日本の大蔵技官、酒類鑑定官、酒造技術指導者。元関東信越国税局鑑定官。「新潟銘酒の父」と呼ばれる。 新潟県新潟市出身。1924年(大正13年)3月に新潟中学校を卒業、1928年(昭和3年)3月に長岡高等工業学校応用化学科を卒業、長岡市の加藤製油所に勤務したのち、新井町の田中酒造場(現 君の井酒造)で、2年間、酒造りを修行。 1930年(昭和5年)に新潟県商工技手に任官、新潟県醸造試験場に着任、1938年(昭和13年)に名古屋税務監督局技手に任官、1941年(昭和16年)に名古屋財務局技手に任官、1943年(昭和18年)に新潟財務局技手に任官。
二木 秀雄(ふたき ひでお、1908年 - 1992年9月1… 二木 秀雄(ふたき ひでお、1908年 - 1992年9月18日)は、日本の細菌学者、医師、実業家、宗教家。 石川県立金沢第一中学校(現石川県立金沢泉丘高等学校)卒業(34期)。 1936年3月から1937年12月まで、金沢医科大学 (旧制)(現金沢大学医学部)細菌学教室講師を務めた。1938年11月18日、金沢医科大学 (旧制)より医学博士号を取得。 のち大日本帝国陸軍技師となり、731部隊(関東軍防疫給水部本部)に所属、第一部第十一課結核班(二木班)班長。 1945年頃、金沢市で与論社を創設し、雑誌『パブリックオピニオン』を発行。1946年上京し、雑誌『日本与論』を発行した。同年、ジープ社社長として、右翼系政界誌『政界ジープ』を創刊。
奥田 久司(おくだ ひさし、1908年(明治41年) - 1… 奥田 久司(おくだ ひさし、1908年(明治41年) - 1987年(昭和62年)9月10日)は日本の映画プロデューサー、映画史研究家。 1908年(大正15年)生まれ。旧制京都一中を卒業後、映画界か小説家か進路に迷った末に、早稲田大学ロシア文学科に入学。 1934年(昭和9年)、早大を病気で中退し、銀座にあった映画の通信社の「日本演芸通信社」に入社。デスクを務め、7年間在籍する。 1941年(昭和16年)、映画界への夢をあきらめられず、友人の紹介で北京の国策映画撮影所「華化映画」に入所。 1944年(昭和19年)、「大日本映画製作株式会社」に入社。監督志望だったが、企画部に配属となる。 1945年(昭和20年)、日本敗戦。
梅林 孝次(うめばやし たかつぐ、 1908年〈明治41年〉… 梅林 孝次(うめばやし たかつぐ、 1908年〈明治41年〉 - 1937年〈昭和12年〉8月16日)は日本の海軍軍人。最終階級は海軍大尉(殉職により一階級死後進級)。海軍陸攻搭乗員。 揚州への渡洋爆撃に指揮官代理として参加し、中華民国空軍戦闘機との戦闘で乗機が撃墜された際、黒煙の中から僚機に白いハンカチを振って別れを告げて自爆したことから、その散り際の見事さが戦場美談として伝えられた。 兵庫県神戸市にて卸売業・梅林行運とさきの次男として生まれる。神戸市・楠尋常小学校に入学、翌年、武庫郡(現・芦屋市)の精道小学校に転校。1920年(大正9年)、第一神戸中学校(現:兵庫県立神戸高等学校)に進学するが、父が徳島県の那賀郡桑野村阿瀬比(現阿南市阿瀬比町)にて大理石の採掘を始めたため、1922年(大正11年)、一家で徳島市富浦町東富田に移り住み、徳島中学校(現:徳島県立城南高等学校)に転校。
佐伯 喜三郎(さえき きさぶろう 1908年 - 1939年… 佐伯 喜三郎(さえき きさぶろう 1908年 - 1939年8月1日)は、日本の元アマチュア野球選手。兵庫県出身。 姫路中学(現・兵庫県立姫路西高等学校)から1927年に早稲田大学専門部に進み、野球をプレーした。ポジションは三塁手だった。大学野球で俊足の打者として頭角を現し、1931年には日米野球の全日本選抜メンバーに選出された。1932年度のリーグ戦では2番打者として活躍し、1番打者だった三原脩と並んで早大野球部史上最高の快脚コンビと謳われた。 早大卒業後応召され中国へ従軍。1939年8月1日に北支大名県竜王廟鎮で戦死した。享年30。 東京ドーム内の野球殿堂博物館にある戦没野球人モニュメントに、彼の名が刻まれている。
坂本 文子(さかもと ふみこ、1908年〈明治41年〉 - … 坂本 文子(さかもと ふみこ、1908年〈明治41年〉 - 1988年〈昭和63年〉6月26日)は、日本の平和運動家。広島県広島市中区の千田保育園初代園長。広島市への原子爆弾投下による被爆者の1人。広島県広島市天神町(後の中区中島町)出身、広島市立第一高等女学校(以下、市女と略。後の広島市立舟入高等学校)卒業。 天神町の酒屋の長女として誕生。市女を卒業した後、19歳で結婚し、1男1女に恵まれた。 広島市舟入本町在住であった1945年(昭和20年)8月6日、広島市に原子爆弾が投下された。当時13歳の長女は爆心地からわずか500メートルの場所で建物疎開に動員されていために重傷を負い、その日の内に母の目の前で死去した。
佐藤 源治(さとう げんじ、1908年(明治41年) - 1… 佐藤 源治(さとう げんじ、1908年(明治41年) - 1995年(平成7年)6月9日)は、日本の教育者、民俗学者。朝日村名誉村民(現・鶴岡市名誉市民)。栄典は従四位・勲四等・旭日小綬章。
水原 義明(みずはら よしあき 1908年 - 1945年1… 水原 義明(みずはら よしあき 1908年 - 1945年10月31日)は、日本の元アマチュア野球選手。香川県出身。
大森 寛(おおもり かん、1908年(明治41年) - 20… 大森 寛(おおもり かん、1908年(明治41年) - 2002年(平成14年)6月18日)は、青森県出身の旧内務省官僚及び陸上自衛官。東京帝国大学昭和5年度卒業。第4代陸上幕僚長。息子に大森義夫(内閣情報調査室長)、大森敬治(防衛施設庁長官、内閣官房副長官補、駐オマーン大使)。旧姓・石岡。
軽部弥生一(かるべ やよいち、1908年 - 1989年7月… 軽部弥生一(かるべ やよいち、1908年 - 1989年7月2日)は、日本の官僚。福井県出身。
筧 泰彦(かけひ やすひこ、1908年 - 2000年1月1… 筧 泰彦(かけひ やすひこ、1908年 - 2000年1月11日)は、日本の思想史学者・倫理学者・国体学者・神道思想家。
高橋 外喜雄(たかはし ときお 1908年 - 1944年1… 高橋 外喜雄(たかはし ときお 1908年 - 1944年11月18日)は、日本の元アマチュア野球選手。東京都出身。
高野 国本(こうの くにもと、1908年 - 1987年12… 高野 国本(こうの くにもと、1908年 - 1987年12月11日)は、元NHKのアナウンサーで、昭和初期のスポーツ中継放送黎明期におけるスポーツアナウンサー。特に1933年の中京商対明石中延長25回試合の実況中継を担当した事で知られる。 青山学院大学卒業、大学では子供好きだったため童話部に所属し、毎週土曜日の午後、大学の近所の子供達を集めて童話を語って聞かせていた。時々童話作家の久留島武彦や安倍季雄が姿を見せて指導を受けた。 毎年2回、大学の講堂で二千人の子供達を集め、マイク無しで話して声を鍛える。 1931年5月、JOBK(現:NHK大阪放送局)に入局、同年のJOBKの新人アナウンサーは高野を含めて6名。
安田 二郎(やすだ じろう、1908年(明治41年) - 1… 安田 二郎(やすだ じろう、1908年(明治41年) - 1945年(昭和20年)2月27日)は、日本の中国哲学研究者。宋明理学や戴震『孟子字義疏証(中国語版)』の研究で業績を残した。吉川幸次郎らに将来を嘱望されたが、37歳の若さで病没した。 岐阜県養老郡笠郷村船附出身。名古屋の八高に入学後左翼とみなされ中退するが、京都帝国大学文学部長の濱田耕作の許可により進学。1935年(昭和10年)同哲学科(通称「純哲」)卒業。純哲では田辺元に武内義範らと師事する。卒業論文は『中庸について』。 純哲の大学院に進学し朱子学を専攻。吉川幸次郎の講読に出席した際、中国哲学科の学生よりも優秀だったため吉川に注目される。
桑原安治(くわばら やすはる、1908年 - 1985年12… 桑原安治(くわばら やすはる、1908年 - 1985年12月26日)は、日本の眼科医。 埼玉県出身。1932年慶應義塾大学医学部卒、37年「色神の時間刺戟閾價に関する研究」で医学博士。東京医科大学眼科教授。1962年慶応義塾大学医学部眼科教授となる。74年定年、東海大学医学部教授、白内障研究所所長、桑原眼科クリニック院長を務めた。
武田 三一(たけだ さんいち、1908年 - 1986年12… 武田 三一(たけだ さんいち、1908年 - 1986年12月1日)は、日本の医師・医学博士。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
李 判烈(イ・パニョル、朝鮮語: 이판열/李判烈、1908年… 李 判烈(イ・パニョル、朝鮮語: 이판열/李判烈、1908年 - 1950年12月9日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の中学校長、政治家。第2代韓国国会議員(任期中に死去)。 イ・パルリョル(漢字同、이판렬)とも表記される。 本籍は全羅南道光山郡。中央大学法学部卒。政界入り前は中学校長、精米業などを営んだ。政界では民主国民党求礼郡党委員長を務め、1950年の第2代総選挙に民主国民党の公認で求礼郡選挙区から出馬して当選し、国会議員を務めた。しかし、1950年12月に実地調査中に昇州郡(現・順天市)付近で北朝鮮側の敗残兵による奇襲を受け、同行していた警官11名とともに殺害された。任期中であったため1952年2月5日に補欠選挙が行われ、自由党所属の李漢昌が当選した。
葉 秋木(よう しゅうぼく、1908年 - 1947年3月8… 葉 秋木(よう しゅうぼく、1908年 - 1947年3月8日)は台湾の政治家。 日本の中央大学に留学、東京における台湾留学生の左翼運動に参加し台湾文化同好会を設立している。卒業後はコンクリートや原木の輸入事業を行っている。終戦後に台湾が国民政府により接収されると、三民主義青年団屏東分団により屏東に派遣され、1946年3月に屏東市参議会参議員に当選、副議長に推薦された。 1947年、二・二八事件が台北市で発生すると、混乱は屏東市に及び市民による暴動が発生した。市長の龔履端が逃亡すると3月初に屏東市に二・二八事件処理委員会屏東分会が成立し。参議会議長の張吉甫は病気を理由に事態収拾に参加することを拒否したことで葉秋木が臨時市長に推薦された。
的場 徳造(まとば とくぞう、1908年 - 1985年4月… 的場 徳造(まとば とくぞう、1908年 - 1985年4月26日)は、日本の農業経済学者。専門は、主にソビエト連邦の農業経済学。 1936年、東京帝国大学文学部西洋史学科を卒業後、同大学院に進む。1937年、外務省調査部嘱託としてソ連、特にその農業を研究。1947年農林省農業経済研究所に入所し、海外部長、九州支所長を歴任する。1975年日本大学経済学部教授に就任し、1979年に退職した。 この項目は、経済学者(経済評論家を含む)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ウィキポータル 経済学、ウィキプロジェクト 経済)。
井上 正忠(いのうえ まさただ、1908年(明治41年)- … 井上 正忠(いのうえ まさただ、1908年(明治41年)- 1982年(昭和57年)12月11日)は、昭和時代の鉄道官僚・実業家。陸軍司政官。京王帝都電鉄(現・京王電鉄)第4代代表取締役社長。同社の事実上の創業者である井上篤太郎の孫にあたる。 神奈川県出身。旧制・姫路高等学校を経て東北帝国大学法学部を卒業し、高等文官試験合格により、鉄道省に入省。仙台鉄道局副参事、同総務部人事課長、本省鉄道調査部事務官、東京鉄道局上野運輸事務所長等を歴任し、戦時中の1943年、陸軍司政官として占領地行政に従事した。 戦後は、運輸省を経て、日本国有鉄道常務理事西部支社長をつとめ、父の井上正幹が京王帝都電鉄の監査役を退任するに及び、同社常務取締役として入社。
溝江徳明(みぞえ よしあき、1908年 - 1990年5月2… 溝江徳明(みぞえ よしあき、1908年 - 1990年5月2日)は、国文学者。山梨県出身。日本大学文学部卒、鳥取師範学校教授、東京第二師範学校教授、東京学芸大学助教授、教授。没後正四位勲三等瑞宝章。
織茂 三郎(おりも さぶろう、1908年(明治41年) - … 織茂 三郎(おりも さぶろう、1908年(明治41年) - 1989年(平成元年)5月13日)は、日本の歴史研究者。 東京府東京市芝区芝松本町生まれ。立正大学歴史地理科を卒業後、1938年(昭和13年)より徳川黎明会蓬左文庫に勤務する。1950年(昭和25年)、文庫の名古屋市移管に伴い同市職員となった。CBCクラブくちなし章を受章している。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
李 鍾純(イ・ジョンスン、朝鮮語: 이종순、1908年または… 李 鍾純(イ・ジョンスン、朝鮮語: 이종순、1908年または1909年 - 1989年4月14日)は、日本統治時代の朝鮮の公務員、大韓民国の政治家。面長、保寧郡・洪城郡の郡守、第2・5代韓国国会議員を歴任した。 忠清南道扶余郡生まれ。漢文修学を経て京城高等予備学院卒、早稲田大学法科・経済科で校外生として卒業。独学で普通文官試験に合格し、忠清南道理財課職員、扶余郡・青陽郡勧業課長、面長、保寧郡(現・保寧市)郡守、洪城郡郡守(1946年)、無所属の第2代民議員、議員公権制限国会審査委員、新民党忠南道党委員長を務めた。1967年時点では農業を営んでいた。 1989年4月14日、ソウル市龍山区梨泰院の自宅アパートで死去。
川瀬 勇(かわせ いさむ、1908年 - 1999年8月24… 川瀬 勇(かわせ いさむ、1908年 - 1999年8月24日、QSO)は、日本の農学者(農学博士)。Dip.C.A.C(N.Z.)、キリスト教新教徒。日本人初のニュージーランドの大学留学生及び卒業者であり、日本人初のニュージーランドQ.S.O勲章受勲者でもある。 兵庫県西宮市生まれ。大阪府立北野中学校卒業、慶應義塾大学中退。 1931年、ニュージーランド大学農学部カンタベリー農科大学(現・リンカーン大学)入学、1934年同校卒業。当初は羊の研究を行っていたがその後、研究対象は乳製品、牧草へと移る。牧草の研究で世界各地を訪れた経験から民族学への造詣も深い。1957年に北海道大学で農学博士の学位を取得。
紅林 麻雄(くればやし あさお、1908年〈明治41年〉 -… 紅林 麻雄(くればやし あさお、1908年〈明治41年〉 - 1963年〈昭和38年〉9月16日)は、日本の警察官。静岡県警察の刑事として担当した事件において、数多くの冤罪被害者を生み出した。 現在の静岡県藤枝市出身。 自身が担当した幸浦事件(死刑判決の後、無罪)、二俣事件(死刑判決の後、無罪)、小島事件(無期懲役判決の後、無罪)、島田事件(死刑判決の後、無罪)の各事件で無実の者から拷問で自白を引き出し、証拠を捏造して数々の冤罪を作った。その捜査手法は紅林の部下も含めて静岡県警の警察官に影響を与えることになり、紅林自身は直接捜査に関与しなかったが袴田事件(死刑判決の後、無罪)などの冤罪事件を生む温床ともなった。
大川 博(おおかわ ひろし、1896年〈明治29年〉12月3… 大川 博(おおかわ ひろし、1896年〈明治29年〉12月30日 - 1971年〈昭和46年〉8月17日)は、日本の実業家、映画製作者、プロ野球オーナー。東映初代社長。日本教育テレビ (NET) 初代会長、2代目社長。 7人兄姉の末っ子として、新潟県西蒲原郡加奈居村大字羽黒(松長村、燕市の一部、中之口村を経て、現在の新潟市西蒲区)に生まれる。先祖は戦国時代の勇将、村上義清の家臣だったといい、江戸時代には庄屋、明治期には戸長(村長)を務め、村では名家として扱われていた。しかし、父が理財に疎かったこともあって家計は次第に苦しくなった。 1913年(大正2年)、15歳の時、上京して上野の岩倉鉄道学校に入学した。
楠本 正継(くすもと まさつぐ、明治29年(1896年)12… 楠本 正継(くすもと まさつぐ、明治29年(1896年)12月29日 - 昭和38年(1963年)12月23日)は、大正~昭和時代の中国哲学者。楠本海山の子として生まれ、祖父に楠本端山を持つ。
高木 永二(たかぎ えいじ、1896年12月28日 - 19… 高木 永二(たかぎ えいじ、1896年12月28日 - 1943年12月14日)は、日本の俳優である。本名高木 英二(たかぎ えいじ)。『大地は微笑む』の主演、『新版大岡政談』、『織田信長』の助演で知られる。 1896年(明治29年)12月28日(12月12日)、兵庫県神戸市に生まれる。 東京に移り、旧制・荏原中学校(現在の日本体育大学荏原高等学校)に入学、同校を卒業し、旧制・早稲田大学予科(現在の早稲田大学高等学院)に進学する。同学予科を終了後の1916年(大正5年)、単身アメリカ合衆国に留学し、1918年(大正7年)に帰国する。1920年(大正9年)、神戸に帰って、ドイツ系資本の高級ホテル「トアホテル」(現存せず、現在跡地に神戸外国倶楽部)に勤務したが、1921年(大正10年)、東京に戻って、松竹蒲田撮影所に入社、満24歳のころから俳優生活を始める。
内田 恵太郎(うちだ けいたろう、1896年(明治29年)1… 内田 恵太郎(うちだ けいたろう、1896年(明治29年)12月27日 - 1982年(昭和57年)3月3日)は、日本の魚類学者。 東京神田小川町駿河下出身。第一高等学校卒、東京帝国大学農学部水産学科を卒業。 卒業後は同大学講師、朝鮮総督府水産試験場技師をへて、1942年九州帝国大学農学部教授となる。戦後、1947年に『朝鮮魚類誌』を九州大学に提出して農学博士の学位を取得。九州大学付属水産実験所所長として勤務した。定年退官、名誉教授。 魚類の生活史を研究テーマとした。 内田清之助、内田勇三郎は従兄。
久保田 正文(くぼた しょうぶん、1896年12月25日 -… 久保田 正文(くぼた しょうぶん、1896年12月25日 - 1986年7月31日)は、日本の宗教社会学者・仏教学者、立正大学仏教学部元教授。名誉教授。日蓮宗の僧。 新潟県生まれ。1924年、東京帝国大学文学部社会学科卒業。1926年、ロンドン大学で社会学を専攻。1930年、立正大学文学部教授。1960年、「宗教集団の社会学的研究」により、日本大学文学博士。1973年、立正大学名誉教授。
宮入 近治(みやいり ちかじ、1896年12月21日 - 1… 宮入 近治(みやいり ちかじ、1896年12月21日 - 1963年6月24日)は日本の実業家、生物学者。 長野県埴科郡五加村(現千曲市)生まれ。旧制上田中学(長野県上田高等学校)を経て1921年千葉医学専門学校卒業。1933年、改組後の千葉医科大学衛生学教室に入り、腸内菌の研究に携わる。1935年、「水素イオン濃度の腸内菌に及ぼす影響」で医学博士。1940年研究中に、腐敗菌に対して強力な拮抗現象を示す芽胞菌を発見し、これを「宮入菌」と命名し、整腸剤ミヤリサンの製薬特許を受ける。1947年ミヤリサン製薬を設立し、初代社長に就任する。1959年「整腸剤の製造法」について社団法人発明協会から発明賞を受賞。
寺田 甚吉(てらだ じんきち、1896年(明治29年)12月… 寺田 甚吉(てらだ じんきち、1896年(明治29年)12月21日 - 1976年(昭和51年)1月24日)は、日本の実業家、政治家。貴族院議員。寺田甚与茂の長男。妻は元女優の筑波雪子。正四位勲二等、研究会所属。職業野球チーム・南海軍(現在の福岡ソフトバンクホークス)創設者・初代オーナー。 大阪府出身。慶應義塾大学卒業。甚与茂の死去後は、寺田合名会社社長をはじめ、和泉銀行頭取、南海鉄道、岸和田紡績(後の大日本紡績、現在のユニチカ)、日本純生食品工業各社長を歴任した。南海鉄道社長時代には阪急電鉄の小林一三と阪神電鉄取締役の細野躋に誘われる形で現在の福岡ソフトバンクホークスの源流に連なる職業野球チームの南海軍を創設し、初代オーナーを務めた。
福田 邦三(ふくだ くにぞう、1896年12月20日 - 1… 福田 邦三(ふくだ くにぞう、1896年12月20日 - 1988年10月17日)は日本の生理学者である。旧名川村邦三。東京大学名誉教授、山梨大学名誉教授でもあった。実兄は川村清一と川村多実二。 岡山県津山中学校(旧制)卒業。 東京帝国大学医学部卒、1932年医学博士。論文の題は「蛙の筋が全困憊に至るまでに遊離するエネルギーに就て(英文) 」。名古屋帝国大学教授、戦後東京大学医学部教授、57年定年退官、名誉教授、のち山梨大学教授・学長。
佐野 保(さの たもつ、1896年12月20日 - 1991… 佐野 保(さの たもつ、1896年12月20日 - 1991年1月23日)は、日本の医師。専門は小児科学。医学博士。主な業績に「栄養失調性くる病」「新生児肺炎ウイルス タイプ仙台」の研究報告がある。 香川県生まれ。 旧制第六高等学校を経て1923年に東京帝国大学医学部卒業。1926年、金沢医科大学(現金沢大学医学部)助教授に就任。1931年 - 1932年、ベルリン大学およびハイデルベルク大学へ留学。 1939年、東京大学医学部助教授。1944年、長崎医科大学(現長崎大学医学部)教授。1948年、東北大学医学部教授。1950年、東北大学医学部附属病院院長。1960年、同大学定年退官後、東北公済病院院長。
尾崎 翠(おさき みどり、1896年(明治29年)12月20… 尾崎 翠(おさき みどり、1896年(明治29年)12月20日 - 1971年(昭和46年)7月8日)は、小説家。 作家活動は短かったが、今なお斬新さを失わぬ彼女の作品は、近年になり再評価が進んでいる。 鳥取県岩美郡岩井村(現・岩美町)にて教員の父長太郎と母まさ(西法寺住職の三女)との間に1896年(明治29年)、長女として生まれた。兄3人、妹3人の7人兄弟姉妹の中で育つ。まもなく父の転勤のため鳥取市に移り、1903年(明治36年)に醇風尋常小学校に入学した。1905年(明治38年)自宅に近い面影尋常高等小学校尋常科三年に編入し、1907年(明治40年)同校尋常科四年を卒業した。そして引き続き高等科に進学し、1909年(明治42年)3月に二年の課程を首席で修了した。
大月 伸(おおつき しん、1896年(明治29年)12月18… 大月 伸(おおつき しん、1896年(明治29年)12月18日 - 1980年(昭和55年)4月13日)は、日本の弁護士、大阪弁護士会会長、第15代日本弁護士連合会会長、関西大学理事・顧問を務めた。岡山県高梁市出身。 1896年(明治26年)岡山県上房郡上竹荘村(現:高梁市)で生れる。その後、旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)を経て、関西大学へ進学する。1917年(大正6年)7月に関西大学専門部法律学科を卒業し、翌年、1918年(大正7年)4月に日本大学法学高等研究科(現:日本大学法科大学院)を専攻する。1919年、同校を卒業し、1920年(大正9年)12月11日、大月は弁護士試験に合格する。
堀江 邑一(ほりえ むらいち、1896年12月18日 - 1… 堀江 邑一(ほりえ むらいち、1896年12月18日 - 1991年11月24日)は、日本の経済学者。 専攻はソ連経済、マルクス経済学。妻は日本共産党衆議院議員の苅田アサノ。日ソ協会(現日本ユーラシア協会)顧問などを務めた。 徳島県の出身。京都帝国大学経済学部を卒業後、同大大学院に進学し河上肇の一番弟子として彼の薫陶を受ける。1926年に高松高等商業学校(現・香川大学経済学部)教授となり、翌年ドイツへ留学しベルリン社会科学研究会(後のベルリン反帝グループ)に参加、ドイツ共産党へも入党した。また、1933年には上海の東亜同文書院に留学するが、この時高商時代の政治活動を理由に検挙、留学から半年足らずで内地へ戻ると共に休職。