斯波 淳六郎(しば じゅんろくろう、文久元年2月24日(18… 斯波 淳六郎(しば じゅんろくろう、文久元年2月24日(1861年4月3日) - 昭和6年(1931年)1月2日)は、日本の内務官僚。錦鶏間祗候。日本法律学校(現在の日本大学)創立者の一人。妻は山東直砥の長女。 加賀国金沢藩家老津田正行の三男として生まれ、斯波蕃の養弟となった。1883年(明治16年)、東京大学法学部を卒業。卒業後は研究生となり、さらに文部省留学生としてベルリン大学で国法学、行政法、国際法を学んだ。1888年(明治21年)に帰国し、帝国大学法科大学教授となる。翌年2月、法制局参事官を兼ね、7月には教授の兼職を解かれ法制局専任となった。1894年(明治27年)からは恩給局審査官を兼任した。
平岡 久左衛門(ひらおか きゅうざえもん、前名・房五郎、18… 平岡 久左衛門(ひらおか きゅうざえもん、前名・房五郎、1861年4月3日〈文久元年2月24日〉 - 1937年〈昭和12年〉8月5日)は、日本の実業家、政治家。東京府西多摩郡青梅町長。平岡商店社長。青梅銀行頭取。武陽銀行専務取締役。青梅電気鉄道取締役。族籍は東京府平民。海軍少将平岡貞一の兄。 東京・青梅出身。先代・久左衛門の長男。1901年、家督を相続し前名・房五郎を改め襲名した。織物仲買業を営む。資産家として知られた。 武陽銀行、青梅電気鉄道創始の功労者であり、武陽銀行の重役だった。青梅町長を務めた。住所は東京府西多摩郡青梅町青梅上町(現・青梅市)。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
加藤 友三郎(かとう ともさぶろう、1861年4月1日(文久… 加藤 友三郎(かとう ともさぶろう、1861年4月1日(文久元年2月22日) - 1923年(大正12年)8月24日)は、日本の海軍軍人、政治家。階級は海軍大将、没後 元帥海軍大将。日露戦争で連合艦隊参謀長(日本海海戦時、第一艦隊参謀長兼任)、ワシントン会議で日本首席全権委員を務める。海軍大臣(第20-24代)、内閣総理大臣(第21代)を歴任し、山梨軍縮やシベリア出兵撤兵を成し遂げた。位階は正二位。勲等は大勲位。功級は功二級。爵位は子爵。
林 元俊(はやし げんしゅん、1861年3月30日(万延2年… 林 元俊(はやし げんしゅん、1861年3月30日(万延2年2月20日)- 1904年(明治37年)10月31日)は、明治期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員。 琉球国薩摩藩領大島郡花徳村(鹿児島県大島郡花徳村、天城村、東天城村を経て現徳之島町花徳)で生まれた。今藤勇に師事し、漢学、数学を修めた。 経済界では、1896年(明治29年)1月、大阪第七十九国立銀行取締役に就任。以後、同行大島支店主任、鹿児島県農工銀行設立委員、大島興業社長を務めた。 政界では、1889年(明治22年)1月、大島郡第19学区学事委員に就任。同年7月、大島郡山村外五ヶ村戸長となる。1898年(明治31年)8月、第6回衆議院議員総選挙(鹿児島県第7区、無所属)で当選し、その後立憲政友会に所属して、衆議員議員に1期在任した。
都筑 馨六(つづき けいろく、1861年3月27日〈万延2年… 都筑 馨六(つづき けいろく、1861年3月27日〈万延2年2月17日〉- 1923年〈大正12年〉7月6日)は、日本の官僚、外交官、政治家。貴族院議員、枢密顧問官、法学博士、男爵。位階は正二位、勲等は勲一等。都築と表記される場合がある。 上野国高崎藩稲荷台(現:群馬県高崎市)の名主・藤井安右衛門(のち安治)の二男として生まれる。満1歳を迎える前に西条藩士・都筑侗忠の養子となり、渋谷の藩邸で暮らすこととなった。幼少期から同藩士・阿曽沼正六綱義に素読の教えを受け、10歳のときからは芝新堀町の千村塾に通った。さらに横浜の修文館、カロザースの築地大学校で学ぶ。15歳のときに東京開成学校へ入学。1881年(明治14年)7月、旧東京大学文学部(政治理財学専攻)を卒業した。
内村 鑑三(うちむら かんぞう、1861年3月23日〈万延2… 内村 鑑三(うちむら かんぞう、1861年3月23日〈万延2年2月13日〉 - 1930年〈昭和5年〉3月28日)は、日本のキリスト教思想家・文学者・伝道者・聖書学者。福音主義信仰と時事社会批判に基づく日本独自のいわゆる無教会主義を唱えた。『代表的日本人』の著者でもある。 万延2年(1861年)、高崎藩士・内村宜之とヤソの6男1女の長男として江戸小石川の武士長屋に生まれる。三度自己を鑑みるという意味で父が「鑑三」と名付けたと言われる。慶応2年(1866年)頃、鑑三が5歳の時に、宜之は意見の不一致で高崎に謹慎を命じられ、家族で高崎に移った。幼少期より、父から儒学を学ぶ。 明治4年(1871年)の廃藩置県により、高崎知藩事の大河内輝声は罷免された。
野坂 茂三郎(のさか もさぶろう、万延2年2月11日(186… 野坂 茂三郎(のさか もさぶろう、万延2年2月11日(1861年3月21日) - 大正12年(1923年)5月7日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員、郡会議員、町会議員。中国貯蓄銀行頭取、米子銀行取締役。鳥取県平民。大地主。 元米子市長野坂寛治の父。 伯耆国米子法勝寺町(現鳥取県米子市法勝寺町)の商家に生まれた。屋号は油屋。野坂與八郎四男。 地方村夫子に従い漢学句読習字算術等の教授を受く。小学校設立に及び入校し或は豫科学所に入り勤学す。 明治10年(1877年)1月分家して一家を創立す。明治15年(1882年)呉服商をはじめて営む。明治17年(1884年)米綿仲買商を兼業した。 明治31年(1898年)3月実施された第5回総選挙で第三区から衆議院議員に当選した。
大橋 頼摸(おおはし らいも、1861年3月19日(万延2年… 大橋 頼摸(おおはし らいも、1861年3月19日(万延2年2月9日) - 1912年(大正元年)11月5日)は、明治時代の政治家。実業家。新聞経営者。衆議院議員。静岡県磐田郡井通村長。 遠江国豊田郡小立野村(静岡県豊田郡井通村、磐田郡井通村、豊田村、豊田町を経て現磐田市)に生まれる。浜松師範を卒業し、西之島学校(現磐田市立豊田南小学校)教員となる。ついで郡書記を経て25歳にして川井村外11宿村戸長に就任し、1888年(明治21年)には静岡県会議員に当選した。15年に渡り県議を務め、さらに県常置委員、県参事会員、井通村長、中遠農会長、磐田郡米穀改良組合長、静岡県農会長などを歴任した。 その後、静岡新報を立ち上げ社長として経営に当たったほか、静岡印刷の社長も務めた。
磯辺 弥一郎(いそべ やいちろう、1861年3月17日(万延… 磯辺 弥一郎(いそべ やいちろう、1861年3月17日(万延2年2月7日) - 1931年(昭和6年)4月23日)は、国民英学会の創立者。磯部彌一郎とも。 熊本藩士磯辺謙叟の二男として豊後国大分郡鶴崎村(現・大分市鶴崎)に生まれる。漢学塾を経て1875年(明治8年)上京し鳴門塾へ入学したのち慶應義塾に学ぶ。一度ほかの私立学校に転じたのち、1877年(明治10年)慶應義塾に復学し、翌年応募した懸賞作文『酒と博打いずれがその害大なるや』で賞を受ける。 福沢諭吉の民権主義に感化され、1880年(明治13年)に退学して北海道の開拓会社「函館開拓社」へ入社、岩内社に移ったのち、同社の閉鎖に伴い岩内小学校の教員となる。
山田 義三郎(やまだ ぎさぶろう、1861年3月9日(文久元… 山田 義三郎(やまだ ぎさぶろう、1861年3月9日(文久元年1月28日) - 1924年(大正13年)3月21日)は、明治から大正時代の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。 陸奥仙台藩領登米郡、のちの登米町(現登米市)で、商家・山田東十郎の長男として生まれる。1893年(明治26年)11月、家督を相続した。1894年(明治27年)登米郡会議員に当選。1899年(明治32年)から宮城県会議員を4期務めた。ほか、登米町会議員、宮城県参事会員、登米汽船、登米製糸各社長、宮城貯蓄銀行取締役、宮城県繭糸同業組合長などを歴任した。仙北鉄道設立の発起人にも名を連ねた。 1909年(明治42年)宮城県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年10月9日から1911年(明治44年)9月28日まで在任した。
石母田 正輔(いしもだ しょうすけ/まさすけ、1861年3月… 石母田 正輔(いしもだ しょうすけ/まさすけ、1861年3月6日(文久元年1月25日) - 1941年(昭和16年)5月8日)は、宮城県石巻町長、初代石巻市長。二男に歴史学者・石母田正、五男に政治家・石母田達がいる。 石母田家は仙台藩の重臣で多くの勘定奉行を輩出し、3,000石の知行地を与えられていた。祖父石母田寛衆は筆頭勘定奉行を勤めており、その知行地である陸奥国宮城郡大沢村芋沢(現・宮城県仙台市青葉区)に生まれる。宮城師範学校を卒業し、卒業後は奥羽日日新聞に入り、記者となるが、低収入のため官界に入る。茨城県龍ヶ崎警察署長、茨城、島根両県の警察部勤務を経て、台湾台南県蕃薯藔弁務署長を務めた。その後、台湾時代に知り合った同郷の荒井泰治の誘いを受け、北海道に渡り、札幌の電灯会社の社長に就任した。
平井 万太郎(萬太郎、ひらい まんたろう、1861年3月1日… 平井 万太郎(萬太郎、ひらい まんたろう、1861年3月1日(文久元年1月20日)- 1929年(昭和4年)8月20日)は、明治から大正期の酒造家、政治家。衆議院議員、茨城県稲敷郡根本村長。 常陸国河内郡上根本村(新治県河内郡上根本村、茨城県河内郡上根本村、根本村、稲敷郡根本村、新利根村上根本、新利根町を経て現稲敷市上根本)で酒造家の家に生まれた。漢学、詩文、簿記を修め、酒造業を営む。 1886年(明治19年)大同団結運動に加わり、のち立憲改進党に入党して自由民権運動を推進。根本村会議員、郡徴兵参事員、根本村長に在任。1890年(明治23年)茨城県会議員に選出され1895年(明治28年)まで在任した。
中澤 楠弥太(なかざわ くすやた、1861年2月27日(万延… 中澤 楠弥太(なかざわ くすやた、1861年2月27日(万延2年1月18日) - 1906年(明治39年)11月7日)は、高知県出身の政治家、実業家。 1861年(万延2年)、土佐国長岡郡大津村字田辺島(現高知県高知市大津)で、郷士・中澤愿一、以登の長男として生まれた。明治法律学校(現・明治大学)卒業。 自由民権運動に従事し、板垣退助らの知遇を得る。1891年、県会議員に当選。更に同参事会員などを務めた他、実業界に於いては、土佐紙業組合頭取などを務めた他、1902年には高知銀行(現・四国銀行)頭取に就任。1905年、衆議院議員に当選(高知県郡部選出、立憲政友会)。 その他、高知商工会議所会頭、土陽新聞(高知新聞)専務、土佐農工銀行頭取なども務めた他、国道高知ー徳島線の開通、平山発電所の建設、土佐電気鉄道の敷設、電話局の開局などに大きな貢献を果たし、若くして高知県政財界のリーダーとして重きをなしたが、1906年、上京中に急性化膿中耳炎のため46歳で急逝した。
坂東 勘五郎(ばんどう かんごろう、1861年2月24日(万… 坂東 勘五郎(ばんどう かんごろう、1861年2月24日(万延2年1月15日) - 1918年(大正7年)3月23日)は、日本の政治家。実業家。徳島県東みよし町出身。 阿波国三好郡中庄村(現在の徳島県東みよし町)の郷士・坂東恒五郎の長男として生まれた。 徳島師範学校を卒業後、小学校教員、郡書記、県会議員、県会副議長を経て、1894年(明治27年)の第4回衆議院議員総選挙に無所属で出馬し衆議院議員として初当選し、以来25年間に渡り国政に参与した。 在任中は、北海道縦貫自動車道の完成、全国の鉄道敷設に力を注いだ。また、地元である徳島県においても徳島鉄道を設立して社長に就任した。 1917年(大正7年)3月23日に急逝。
上野 房之助(うえの ふさのすけ、1861年2月23日〈文久… 上野 房之助(うえの ふさのすけ、1861年2月23日〈文久元年1月14日〉 - 没年不明)は、日本の商人(呉服商)、栃木県多額納税者、上野百貨店創業者。 茨城県新治郡土浦町(現・土浦市)出身。奥井久助の弟、大津順三郎の兄。栃木県宇都宮の上野家の3代目松次郎の長女カネの入夫となる。宇都宮市泉町本家の隣りに呉服太物商を開業する。「油屋呉服店」と称する。貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有する。住所は栃木県宇都宮市本郷町。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
西郷 菊次郎(さいごう きくじろう、1861年2月11日〈万… 西郷 菊次郎(さいごう きくじろう、1861年2月11日〈万延2年1月2日〉- 1928年〈昭和3年〉11月27日)は、日本の政治家、外交官。 遠島の身分であった時代の西郷隆盛と愛加那の長男として、万延2年1月2日(1861年2月11日)、奄美大島の龍郷で生まれた。同父母妹に菊草がいる。異母弟に嫡弟の寅太郎、午次郎、酉三。妻・久子との間に7男7女を設けた。 9歳で鹿児島の西郷本家に引き取られ、12歳でアメリカへの留学の途についた。2年6ヶ月に及ぶ留学生活を終え、帰国して3年後の17歳のとき、1877年、西南戦争に薩軍の一員として参戦。2月25日から27日までの『高瀬大会戦』(熊本県玉名市)において右足に銃弾を受け負傷。
伊藤 直純(いとう なおずみ、万延元年12月30日(1861… 伊藤 直純(いとう なおずみ、万延元年12月30日(1861年2月9日) - 昭和8年(1933年)8月8日)は、日本の政治家。秋田県横手市生まれ。号は耕余(こうよ)。農村振興、交通網の整備、文化・教育振興など秋田県の近代化を進めた。 出羽国仙北郡金沢中野村に、後に初代金沢村長となる豪農・伊藤兵吉の長男として生まれる。慶応2年(1866年)から横手町の漢学塾「三近堂」で須田水明に学び、明治10年(1877年)に上京し根本通明の私塾で漢学、大沼枕山から漢詩を学ぶ。明治14年(1881年)、父の命で明治天皇巡幸を歓迎するため帰郷。その後再び上京し専修学校(後の専修大学)で学ぶ。卒業後は帰郷し青年会活動に力を入れる。
天野 為之(あまの ためゆき、1861年2月6日(万延元年1… 天野 為之(あまの ためゆき、1861年2月6日(万延元年12月27日) - 1938年(昭和13年)3月26日)は、明治・大正・昭和期の経済学者、ジャーナリスト、政治家、教育者、法学博士。衆議院議員、東洋経済新報社主幹、早稲田大学学長、早稲田実業学校校長を歴任した。勲三等瑞宝章受章。
小島 相陽(こじま そうよう、万延元年12月26日(1861… 小島 相陽(こじま そうよう、万延元年12月26日(1861年2月5日) - 昭和11年(1936年)4月21日)は、日本の衆議院議員。弁護士。 信濃国水内郡安茂里村(現在の長野県長野市)出身。明治法律学校(現在の明治大学)に学ぶ。 明治12年7月埼玉県の代言人免許を受けて代言人となる。 明治26年、弁護士法制定にともない弁護士登録。 1893年(明治26年)4月28日、松本、上田、長野の三代言人組合が合同し、長野弁護士会設立後、初代近藤牧太のあとを受けて1896年(明治29年)長野弁護士会会長に就任し、1935年(昭和10年)まで39年間にわたり会長を務めた。また上水内郡会議員、長野県会議員に選出された。
足立 繁太郎(あだち しげたろう、万延元年12月24日(18… 足立 繁太郎(あだち しげたろう、万延元年12月24日(1861年2月3日) - 昭和19年(1944年))は、日本の政治家。元境町会議員。鳥取県会見郡中野村(後に西伯郡余子村、現・境港市)の人。 元日本商工会議所会頭足立正の父。 足立家の家業は酒造りで、江戸時代には大庄屋を務め、苗字帯刀を許された豪家だった。。 父徹造は馬術の達人であり、鳥取藩つきの高名な先生について腕をみがいた。繁太郎は長男の正に剣道を教えた。。 繁太郎は多年にわたり境郵便局長をつとめたため、“郵便足立”とよばれていた。 日本の製紙王と呼ばれた藤原銀次郎の妻の実家(由井家)と足立家は隣同士であり、2人が結ばれたのは繁太郎の仲介によるものであった この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
浦野 錠平(うらの じょうへい、1861年2月2日(万延元年… 浦野 錠平(うらの じょうへい、1861年2月2日(万延元年12月23日)- 1909年(明治42年)3月25日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)。 1861年(万延元年)、三河国加茂郡四郷村(のち愛知県西加茂郡上郷村、猿投村、猿投町を経て現豊田市)に生まれた。生家は浦野酒造場(後の浦野合資会社)を営む庄屋の浦野家。 普通学を修得し、農業と酒造業を営む。学務委員、上郷村会議員、同村長、西加茂郡会議員、愛知県会議員、県税賦課額調査委員、県道改修委員、勧業諮問会員となった。 1898年(明治31年)3月の第5回衆議院議員総選挙において愛知9区から自由党公認で立候補して初当選する。8月の第6回衆議院議員総選挙では憲政党公認で立候補して再選する。
芦塚 亀三郎(蘆塚 龜三郎、あしづか かめさぶろう、1861… 芦塚 亀三郎(蘆塚 龜三郎、あしづか かめさぶろう、1861年2月〈文久元年1月〉 - 没年不明)は、日本の政治家。長崎県北高来郡諫早村長・同県同郡本野村長・同県同郡真津山村長。長崎県北高来郡生糸販売組合監事。 諫早藩士・芦塚貞右衛門の次男。幼時に鴻儒・谷口藍田の門に入り、後に福岡の藤雲館、東京和仏法律学校に学ぶが、病気のため1887年に学窓を去る。1890年、九州鉄道に就職する。1903年、選ばれて本野村村長に就職し、1907年、満期退職する。 1908年、真津山村長に推され1年半在職する。この間納税の奨励、真崎校の改築、喜々津村と数十年繁争する漁業権問題を調停解決する。1909年、諫早村長に推され、貯金組合、納税組合の設立、道路の改修、青年会の組織、蚕業の奨励、欠席児童督励等に尽瘁する。
岡田 国太郎(おかだ くにたろう、1861年1月29日(万延… 岡田 国太郎(おかだ くにたろう、1861年1月29日(万延元年12月19日) - 1945年(昭和20年)3月2日)は、日本の陸軍軍人(軍医官)、医師、細菌学者。医学博士(滋賀県出身者として初の医学博士(博士登録番号42番))。 1861年1月29日(万延元年12月19日)、近江国野洲郡守山村吉身(現・滋賀県守山市吉身)で誕生。父は滋賀県議会議長や衆議院議員を務めた岡田逸治郎、母は逸治郎の最初の妻・たみ。八男七女の次男として誕生したが、長男が夭折したことにより跡取りとして育てられる。 1877年(明治10年)、京都欧学校(後の京都府立一中(現京都府立洛北高等学校・附属中学校))に入学し、ドイツ語を学んだ。
中川 幸太郎(なかがわ こうたろう、1861年1月29日(万… 中川 幸太郎(なかがわ こうたろう、1861年1月29日(万延元年12月19日)- 1940年(昭和15年)8月1日)は、明治から昭和前期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、兵庫県氷上郡久下村長。 丹波国氷上郡谷川村(兵庫県氷上郡久下村谷川、山南町谷川を経て現丹波市山南町谷川)で、農業、製油業・中川音蔵の長男として生まれる。1884年(明治17年)3月、家督を相続し、農業、製油業、鉱業を営む。 1882年(明治15年)4月、太田村外17ヶ村戸長役場用掛に就任。以後、氷上郡町村連合会議員、同郡全町村組合会議員を歴任。1893年(明治26年)5月、久下村長に就任し1903年(明治36年)8月まで在任。
小笠原 鑅次郎(おがさわら こうじろう、1861年1月27日… 小笠原 鑅次郎(おがさわら こうじろう、1861年1月27日(万延元年12月17日) – 1932年(昭和7年)12月25日)は、日本の実業家、官僚。安田財閥の幹部。 1860年、出羽国新庄藩の代官職を代々務める小笠原家の次男として出生。栃木県師範学校卒業後、中江兆民の仏学塾にて歴史、法律、哲学を研究し、1889年に明治法律学校を卒業。大蔵省銀行局に出仕し、銀行業界の監督、向上に尽力。1893年の商法施行により、私立銀行の監督権が大蔵省に帰すると、その任に当たった。 四大財閥のひとつで、当時、日本最大の金融資本を誇った安田財閥の創設者である安田善次郎の知遇を受けたことにより、1894年、安田銀行に入行。
伊達 宗陳(だて むねのぶ、1861年1月26日〈万延元年1… 伊達 宗陳(だて むねのぶ、1861年1月26日〈万延元年12月16日〉- 1923年〈大正12年〉2月7日)は、日本の宮内官、政治家、華族。貴族院侯爵議員、宮中顧問官。宇和島伊達家10代当主。 宇和島藩主・伊達宗徳の長男として生まれる。父の死去に伴い1905年(明治38年)12月27日に侯爵を襲爵し貴族院侯爵議員に就任し、死去するまで在任した。 明治学舎、学習院で学び、1886年(明治19年)、小松宮彰仁親王に随行してイギリスを訪問し同国に留学した。帰国して1889年(明治22年)以降、式部官兼主猟官、宮中顧問官などを務めた。 明治10年代には旧藩の困窮士族のために北海道開拓を検討し現在の江別市に150万坪の土地を貸し下げたが、結局宇和島からの入植は実現しなかった。
飯田 新右衛門(新右衞門、いいだ しんうえもん、1861年1… 飯田 新右衛門(新右衞門、いいだ しんうえもん、1861年1月20日(万延元年12月10日)- 1915年(大正4年)7月31日)は、明治から大正初期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員。 常陸国筑波郡真瀬村(若森県筑波郡真瀬村、新治県筑波郡真瀬村、茨城県筑波郡真瀬村、真瀬村真瀬、谷田部町真瀬を経て現つくば市真瀬)の旧家に生まれた。秋場桂園、村田雷蔵らから漢学、法律学を学んだ。農業を営む。 筑波郡福岡村外二カ村連合戸長、筑波郡書記、登記所書記、学務委員などを務めた。1892年(明治25年)茨城県会議員に選出され1896年(明治29年)まで在任し、同常置委員も務めた。 1908年(明治41年)5月、第10回衆議院議員総選挙(茨城県郡部、立憲政友会)で初当選し、1912年(明治45年)5月の第11回総選挙(茨城県郡部、立憲政友会)でも再選され、衆議院議員に連続2期在任した。
徳丸 作蔵(とくまる さくぞう、1861年1月20日(万延元… 徳丸 作蔵(とくまる さくぞう、1861年1月20日(万延元年12月10日) - 1913年(大正2年)12月10日)は、日本の外交官。在重慶領事、在汕頭領事などを務めた。 肥後国鹿本郡六郷村で、熊本藩士・徳丸庄三郎の子として生まれる。1867年(慶応3年)、7歳で鳩野茂庵の門に学ぶ。1874年(明治7年)、熊本県玉名郡肥猪町の福田義塾に入った。1880年(明治13年)、郷里の小学校で教鞭を執るが、1年余りで辞した。 1882年(明治15年)、22歳の時、中国大陸への志を抱き興亜会の会員となり、同会附属の支那語学校で学び、同年に同校が外国語学校に吸収されると、小田切万寿之助、宮島詠士、七里恭三郎らとともに移った。
松野 祐次郎(まつの ゆうじろう、万延元年12月5日(186… 松野 祐次郎(まつの ゆうじろう、万延元年12月5日(1861年1月15日) - 大正3年(1914年)11月22日)は、日本の衆議院議員(立憲国民党)、弁護士。 美濃国不破郡青野村(現在の岐阜県大垣市)に栗田武兵衛の長男として生まれ、松野清之助の養子となった。1878年(明治11年)、岐阜県立師範学校を卒業。明治法律学校(現在の明治大学)に学び、弁護士試験に合格。弁護士の業務に従事する傍ら、岐阜県会議員、同副議長、同議長に選出された。 1908年(明治41年)、第10回衆議院議員総選挙で当選を果たした。
半井 桃水(なからい とうすい、1861年1月12日(万延元… 半井 桃水(なからい とうすい、1861年1月12日(万延元年12月2日)- 1926年(大正15年)11月21日)は、日本の小説家。 本名は冽(「きよし」、または「れつ」)だが「洌」との表記もある。幼名は泉太郎(せんたろう)。 半井湛太郎・藤の4人弟妹の長男として対馬厳原藩、現在の長崎県対馬市厳原町に生まれる。父の仕事の関係で少年期は釜山で過ごす。家計を助けるため12歳から釜山で働き始めるが、英語を学ぶため日本へ戻され、進学する。1875年(明治8年)に上京して尺振八の共立学舎に学び、いくつかの新聞社を転々としたあと(1888年・明治21年)に東京朝日新聞の記者となり、朝鮮語が話せることから通信員として釜山に7年間駐在する。
小野崎 耕夫(おのざき こうふ、1861年1月5日(万延元年… 小野崎 耕夫(おのざき こうふ、1861年1月5日(万延元年11月25日) - 1917年(大正6年)5月11日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 陸奥国稗貫郡、のちの岩手県稗貫郡宮野目村(現花巻市)出身。漢学を修める。農業を営み、黒沼学校(現・花巻市立八幡小学校)教諭、宮野目村外12ヶ村戸長、同村会議員、稗貫郡会議員、同参事会員、岩手県会議員となる。 1908年(明治41年)第10回衆議院議員総選挙において岩手県郡部から大同倶楽部公認で立候補して当選。衆議院議員を1期務め、1912年(明治45年)第11回衆議院議員総選挙には出馬しなかった。1917年死去。
長澤 龜之助(ながさわ かめのすけ、1861年1月2日(万延… 長澤 龜之助(ながさわ かめのすけ、1861年1月2日(万延元年11月22日) - 1927年(昭和2年)10月16日)は、日本の数学者、教育者。数多くの書籍を出版したことで知られる。 筑後国の久留米に生まれた。長崎師範学校を卒業し、1882年、川北朝鄰に師事した。1917年、林鶴一とともに関流八伝免許状を認められた。東洋英和学校で教職を務め、明治39年、雑誌「XY」を創立した。1888年、チャーレス・スミス(英語版)の代数学の邦訳書を出版した。この作品は日本で横書きの最初期の書籍であった。1927年没した。生涯で120以上の書籍を書いたと言われ、後に著書一覧ができるほどであった。墓所は多磨霊園。
原田 豊吉(はらだ とよきち、万延元年11月21日(1861… 原田 豊吉(はらだ とよきち、万延元年11月21日(1861年1月1日) - 明治27年(1894年)12月2日)は、日本の地質学者。 万延元年11月21日(1861年1月1日)、兵学者・原田一道の長男として江戸小石川竹早町で生まれた。東京外国語学校でフランス語を学び、軍人であり欧州経験の豊富な父親とその知り合いであるドイツ人武器商人マイケル・ベアの勧めで、14歳にして1874年(明治7年)ドイツへ留学。 独逸では、ハンブルク近郊シュターデの中高一貫教育校(ギムナジウム)で3年学んだのち、フライベルク鉱山学校を卒業。ハイデルベルク大学で地質学、ミュンヘン大学で古生物学を学んだ。ミュンヘンではカール・アルフレート・フォン・ツィッテルの教えを受けた。
石濱 豊蔵(いしはま とよぞう、1861年 - 1910年)… 石濱 豊蔵(いしはま とよぞう、1861年 - 1910年)は、日本の実業家。 丸石製薬創業者で、石濱純太郎の父。淡路松帆(淡路市)の人。豊蔵の父は広瀬淡窓の咸宜園(大分県日田市)で漢学を、長崎で蘭学を学んだ勝蔵。豊蔵は、オランダ人薬学者のドワルスに製薬法を学んだ西山良造の門に入って製薬業を修得、明治21年(1888年)、大阪淡路町にガレヌス製剤の製造販売会社「丸石商会」を設立、明治35年(1902年)には大阪製薬同業組合初代組長となった。また明治30年(1897年)、10歳の純太郎を泊園書院(現・ 関西大学)に入学させる。 豊蔵の死後、会社は井上治兵衛が引き継ぎ、昭和11年(1936年)丸石製薬株式会社となり現在に至っている。
中江 豊造(なかえ とよぞう、1861年(文久元年2月)- … 中江 豊造(なかえ とよぞう、1861年(文久元年2月)- 1942年(昭和17年)3月4日)は、明治期の教育者、政治家。衆議院議員。 肥前国松浦郡、のちの佐賀県東松浦郡相知村(相知町を経て現唐津市相知町)で生まれる。1878年(明治11年)佐賀県師範学校速成科を卒業した。 長崎県地租改正御用掛、小学校訓導、小学校長を歴任。佐賀県会議員に選出され、同常置委員を務めた。 1894年(明治27年)3月、第3回衆議院議員総選挙で佐賀県第2区から自由党所属で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。
松井 三蔵(1861年(文久元年5月16日)6月23日 - … 松井 三蔵(1861年(文久元年5月16日)6月23日 - 1932年(昭和7年)6月8日)は、日本の柔術家である。無相流新柔術の十傑の一人。 1861年(文久元年)に讃岐国林田村字東梶に生まれる。 松井は15歳の頃から無相流新柔術を教える中条塾に通っていた。 当時の柔術は大変な腕力を必要としたため、若いころから砂糖じめをする砂糖車の車石を担い腕力をつけた。19歳の頃に東梶の堂というところに備え付けてあった二十八貫(約105kg)の丸石を差し切ったといわれる。 中条塾においては四天王の下の十傑に数えられていた。 讃岐柔道史によると1905年(明治38年)に大日本武徳会で乱捕の形が制定された際、松井三蔵の並々ならぬ努力によって無相流新柔術から「片羽絞」が採用されたとしている。
倉島 松男(くらしま まつお、1861年(文久元年10月) … 倉島 松男(くらしま まつお、1861年(文久元年10月) - 1938年(昭和13年)2月10日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 下総国相馬郡高須村(のち茨城県北相馬郡高須村→藤代町、現・取手市)に生まれる。漢学と英語を学ぶ。農業と商業を営み、北相馬郡内三十二ヶ村組合岡堰取締役、竜崎鉄道(株)社長となる。また、茨城県土地区画改正委員、同臨時博覧会事務委員、茨城県物産販売路調査のため渡米、第四回内国勧業博覧会審査官を務めた。 1894年3月の第3回衆議院議員総選挙において茨城6区から自由党公認で立候補したが13票差で落選。同年9月の第4回衆議院議員総選挙では無所属で立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、1898年の第5回衆議院議員総選挙は不出馬。
吉田 嘉三郎(よしだ かさぶろう、1861年 - 1894年… 吉田 嘉三郎(よしだ かさぶろう、1861年 - 1894年9月6日)は、日本の洋画家、教育者。 豊前国下毛郡(現・大分県中津市)で、代々中津藩の御用絵師を務めた晴野家に生まれる。幼少の頃より日本画を学び、中津市学校卒業後、1877年に京都の田村宗立が主宰する明治画学館に入門。 1881年第2回内国勧業博覧会に大分県を代表する洋画家として出品し、同年帰郷して母校中津市学校の助教諭となる。これと時期を前後して吉田家の養子となる。1882年第1回内国絵画共進会、1884年第2回内国絵画共進会に出品。 中津市学校廃止により、1886年上京し、本多錦吉郎の西洋画塾彰技堂に入門するが、同年9月福岡県尋常師範学校の助教諭に着任。
赤羽 萬次郎(あかばね まんじろう、1861年 - 1898… 赤羽 萬次郎(あかばね まんじろう、1861年 - 1898年)は、日本の新聞記者・自由民権派ジャーナリスト。北國新聞社初代社長・主筆。雅号は「痩鶴(そうかく)」。 1861年、信濃国松本にて、商家の次男として誕生。 18歳の時に地元の自由民権運動の政治結社「奨匡社」の設立に加わり、新聞・雑誌に政論を発表する。 1881年に上京、日本最初の日刊新聞である「東京横浜毎日新聞」の記者となる。社主が主催する演説団体「嚶鳴社」同人として各地を遊説。大隈重信の立憲改進党にも参加した。 1886年、金沢の改進党系の新聞「北陸新報」に主筆として招かれるも、5年後に社長が自由党系に身売りしたことに反発し退社。 1893年8月5日に「北國新聞社」を興し自ら社長・主筆となる。
山崎 庸哉(やまざき ようや / ようさい、1861年〈文久… 山崎 庸哉(やまざき ようや / ようさい、1861年〈文久元年1月〉- 1916年〈大正5年〉2月11日)は、明治期の陸軍軍医、政治家。衆議院議員。最終階級は陸軍三等軍医正(少佐相当官)。 陸奥国閉伊郡津軽石村(岩手県閉伊郡津軽石村、東閉伊郡津軽石村、津軽石村を経て現宮古市津軽石)で生まれた。済生学舎で学び、陸軍軍医講習生を経て、1884年(明治17年)陸軍軍医学校を卒業した。 陸軍三等軍医(少尉相当官)に任官。日清戦争に従軍。1901年(明治34年)5月8日、陸軍一等軍医(大尉相当官)で予備役に編入された。 郷里で医院を開業した。篠民三の当選無効に伴い、1902年(明治35年)1月に実施された第6回衆議院議員総選挙岩手県第2区補欠選挙で当選し、憲政本党に所属し衆議院議員に1期在任した。
岩橋 謹次郎(いわはし きんじろう、1861年(文久元年) … 岩橋 謹次郎(いわはし きんじろう、1861年(文久元年) - 1912年(明治45年)3月12日)は、明治期の実業家、白木屋呉服店主。岩橋リボン製織所創設者。 紀伊国和歌山(現和歌山県和歌山市)出身。維新後に大蔵大輔、第四十四国立銀行頭取となった紀州藩士・岩橋徹助(徹輔)の息子。慶應義塾に入学し大学部を卒業(『慶應義塾入社帳』第一巻586頁,第五巻246頁)。父が華族の援助を受けて道内各地で企てた「開進社」に参加して北海道開拓を研究し、明治24年、開拓は保護政策を排し、自由開拓、随意移住に任すべきを主張した著書を公にした。開進社の事業は失敗したが、その志は長く残った。 白木屋呉服店主を経て帽子用リボン等を製織する岩橋リボン製織所を渋沢栄一が出資して組織し、1896年匿名組合となる。
児玉 仲児(こだま ちゅうじ、嘉永2年11月14日(1849… 児玉 仲児(こだま ちゅうじ、嘉永2年11月14日(1849年12月28日) - 明治42年(1909年)1月24日)は、和歌山県の民権家、官吏、衆議院議員(3期)、大日本水産会名誉会員。 紀伊国那賀郡中山村(粉河村、粉河町を経て現紀の川市)生まれ。同窓に濱口梧陵、陸奥宗光など。 はじめ、森田節斎について漢学を学び、京阪の鴻儒について文学を修める。明治6年(1873年)に慶應義塾に入学し、卒業後に大蔵省記録局(13等)に出仕。のちに辞して自由民権運動に参加。明治9年(1876年)の地租改正について、和歌山県令・神山郡廉に提出した建白書を発端にして、「粉河騒動」の端緒となる。 明治10年(1877年)陸奥宗光の協力により、粉河に風猛学校を設立し、翌年に自由民権の結社・実学社、木国同友会を率いる。
矢板 武(やいた たけし、1849年12月28日(嘉永2年1… 矢板 武(やいた たけし、1849年12月28日(嘉永2年11月14日) - 1922年(大正11年)3月22日)は下野国・栃木県の実業家。那須疏水の開削で知られる。 下野国塩谷郡矢板村(現・栃木県矢板市)の坂巻家に長男として生まれる。出生名は坂巻七五郎(さかまき しちごろう)。後に武兵衛(ぶへえ)と名を改めた。 1866年(慶応2年) に矢板村組頭、明治維新を経て1869年(明治2年) に矢板村名主となる。翌年、黒崎七郎右衛の娘ハマと結婚。この頃、矢板武と改名する。 1872年(明治5年) 宇都宮県五大区六小区副戸長、1873年に栃木県第三大区四小区副戸長、1874年に郵便取扱役、1875年に第三大区三小区区長となる。
河目 正平(かわめ しょうへい、1849年12月26日(嘉永… 河目 正平(かわめ しょうへい、1849年12月26日(嘉永2年11月12日) - 1890年(明治23年)8月6日)は、三河国碧海郡熊村(現在の愛知県刈谷市)出身の教育者。 刈谷市熊野町の安養寺には石碑「河目正平先生之碑」がある。 1849年(嘉永2年)11月12日、河目正平は三河国碧海郡熊村(現在の愛知県刈谷市)に生まれた。幼名は幸太郎であり、後に源吾と称し、やがて正平に改めた。 刈谷藩の藩校である文礼館の教師を務めていた。明治維新期の1870年(明治3年)7月、刈谷藩の命で大垣藩に遊学し、帰郷すると刈谷学校(現・刈谷市立亀城小学校)、熊村学校、高浜学校(現・高浜市立高浜小学校)、野田学校(現・刈谷市立双葉小学校)で教員を務めた。
16代 木村 庄之助(じゅうろくだい きむら しょうのすけ、… 16代 木村 庄之助(じゅうろくだい きむら しょうのすけ、嘉永2年11月12日〈1849年12月26日〉 - 明治45年〈1912年〉1月6日)は、大相撲の立行司。本名は柘→大家→柘新助。出身地は、現在の愛知県豊橋市。 吉田船町(現・豊橋市船町)で煮売屋の長男として生まれる。田舎相撲の強豪だった父親の影響で相撲に興味を持つが、体格に恵まれなかったため行司として研鑽を積むようになる。 安政6年(1859年)秋、吉田で江戸相撲の興行があり、その折に3代目清見潟に預けられ入門。13代庄之助に師事し、元治元年(1864年)4月に木村新介の名で初めて番付に載った。明治4年(1871年)4月に、3代木村龍五郎を襲名。
乃木 希典(のぎ まれすけ、1849年12月25日〈嘉永2年… 乃木 希典(のぎ まれすけ、1849年12月25日〈嘉永2年11月11日〉- 1912年〈大正元年〉9月13日)は、日本の陸軍軍人。日露戦争において旅順攻囲戦を指揮したことで知られる。戦後は明治天皇より第10代学習院長に任じられ、迪宮裕仁親王(昭和天皇)の教育係も務めたが、明治天皇の大喪の礼の当日に妻共々自刃した。人々から「乃木大将」や「乃木将軍」と呼ばれて深く敬愛され、「乃木神社」や「乃木坂」にも名前を残している。最終階級は陸軍大将。栄典は贈正二位勲一等功一級伯爵。 幼名は無人(なきと)で、その後、源三と改め、頼時とも称した。後、文蔵、次いで希典と名を改めた。また、出雲源氏佐々木氏の子孫と称したことから「源希典」との署名もよく用いた。
美澤 進(みさわ すすむ、1849年12月24日(嘉永2年1… 美澤 進(みさわ すすむ、1849年12月24日(嘉永2年11月10日) - 1923年(大正12年)9月16日)は日本の教育者。Y校の愛称で知られる横浜商法学校の初代校長であり、死没するその日まで同職を40年以上勤め続けた。字は業卿。 備中国三沢村(後の岡山県高梁市川上町三沢)の生まれ。遠祖は宇多源氏とされる。父・三村繁八郎、母・於美津の6人兄弟の長男で幼名を徳太郎という。実家は代々庄屋を務めて酒造りを行い、成羽藩藩外の豪士として名字帯刀を許された家柄であったが、家業の酒造りの失敗や父と叔父による鉱山投資の失敗で貧困に喘いでいた。美澤は学問での立身を志し、満12歳の1862年(文久2年)に興譲館へ入学。
宇佐川 一正(うさがわ かずまさ、1849年12月24日〈嘉… 宇佐川 一正(うさがわ かずまさ、1849年12月24日〈嘉永2年11月10日〉- 1927年〈昭和2年〉11月10日)は、明治から昭和初期の日本陸軍の軍人、政治家、華族。最終階級は陸軍中将。貴族院男爵議員。 長州藩士・藤村太郎右衛門の四男として生まれ、宇佐川久平の養子となる。伏水教導隊に入り、下士官試補、権曹長、曹長と昇進し、1874年(明治7年)6月、陸軍戸山学校を卒業し、翌月、歩兵少尉に任官。以後、歩兵第14連隊付となり、1877年(明治10年)2月、西南戦争に出征した。歩兵第24連隊大隊副官、歩兵第1旅団参謀、同副官、近衛歩兵第1旅団副官、第1師団参謀、歩兵第17連隊付、監軍部副官、近衛師団参謀などを歴任し、日清戦争には第1軍参謀として出征し、田村怡与造の後任として同軍参謀副長となった。
織田 惣三郎(おだ そうざぶろう、1849年12月17日(嘉… 織田 惣三郎(おだ そうざぶろう、1849年12月17日(嘉永2年11月3日) - 1957年(昭和32年)3月28日)は、かつて男性長寿日本一であった福井県の男性。 1849年石川県(加賀国)能美郡白峰村に生まれ、88歳までそこで暮らすが、1934年の大水害により福井県勝山市平泉寺町に移住する。 100歳ぐらいまでは草刈りなどをし、106歳時点でも酒を3合程度飲んでいた。父は92歳、母は84歳、兄弟も80~90歳代まで生きた長寿の家系であった。 1956年9月時点では国内最高齢男性とされ、子は5人のうち2人が存命でひ孫まで合わせて19人であった。 1957年3月28日、老衰のため107歳で死去。
桂 弥一(かつら やいち、嘉永2年(1849年)12月10日… 桂 弥一(かつら やいち、嘉永2年(1849年)12月10日 – 昭和14年(1939年)6月19日)は、幕末から明治・昭和初期にかけての長府藩士、維新志士、牧畜事業家。諱は孝俊。初め季澄と名乗る。維新後は牧畜・開墾事業を通じて公共に尽力し、没後に従六位を追贈された。 嘉永2年(1849年)12月10日、長府藩士桂助左衛門久澄の子として長府に生まれる。父は12代桂土左衛門(大江久澄)、母は原田則朗(金弥)の娘で、末子であった。幼少期は8歳で三吉幸之助・土生静馬に書画・読書を学び、11歳より山田易之助・井上源三郎に師事して小笠原流を修めた。12歳のとき、のちの大将乃木希典(当時は乃木無人)とともに菅文達に学び、漢籍の素養を身につけた。