井手 俊郎(いで としろう、1910年4月11日 - 198… 井手 俊郎(いで としろう、1910年4月11日 - 1988年7月3日)は、日本の脚本家。息子はプロ野球・元中日ドラゴンズ選手の井手峻。筆名(併用)=権藤利英、三木克巳。 佐賀県北波多村徳須江出身。祖父・井手豊助は1890年(明治23年)の公選で初代北波多村長となり、父の金次郎は政友会を北波多村に建て村議となった。生家は質店を営み、現存する当時の店舗兼住宅建物は2019年に国の登録有形文化財に登録されている。 旧制佐賀県立唐津中学(現・佐賀県立唐津東中学校・高等学校)を経て、官立東京高等工芸学校(現在の千葉大学工学部意匠科)を卒業する。 商業美術家としてパピリオ化粧品、アサヒビール、婦人画報社などの宣伝部嘱託を務めた。
児玉 政吉(こだま まさきち、1910年(明治43年)4月1… 児玉 政吉(こだま まさきち、1910年(明治43年)4月10日 - 1987年(昭和62年)10月27日)は、日本の政治家。秋田県鹿角市長。位階は従五位。 秋田県鹿角郡柴平村(のち花輪町、現・鹿角市)出身。1925年、柴平村立平本尋常高等小学校卒。1935年、三菱金属鉱業尾去沢鉱業所に入る。戦後、日本社会党に入り、1947年、尾去沢町議会議員に当選、3期務める。1959年、尾去沢町長に当選。鹿角市に合併するまで4期務めた。この間、鹿角郡町村会長、秋田県町村会副会長を務めた。1972年に鹿角市が発足、市政執行者となった。1976年、鹿角市長に立候補し、現職の阿部新を破って当選する。1980年に再選を目指したが、元市長の阿部新に敗れた。
葛野 辰次郎(くずの たつじろう、1910年(明治43年)4… 葛野 辰次郎(くずの たつじろう、1910年(明治43年)4月10日 - 2002年(平成14年)3月27日)は、アイヌ語・アイヌ文化の伝承者。 北海道日高管内・静内郡静内町字東別(現・日高郡新ひだか町)に生まれ育つ。祖父は和人(青森県むつ市田名部出身)、祖母はアイヌ。父・小天(民族名 Kocinpauk)と母・タク(民族名 ukaecure)の8人兄弟の末子として生まれる。つる夫人(1912-1989)は和人だが、幼児期より静内町東静内のアイヌに育てられ、アイヌ語もよくできた。アイヌ語で育ったが、小学校は和人と同じ学校であったため日本語を学んだ。和人との交流が深まるにつれ、日本語中心の生活になり、アイヌ語はあまり使わなくなった。
白川 静(しらかわ しずか、1910年4月9日 - 2006… 白川 静(しらかわ しずか、1910年4月9日 - 2006年10月30日)は、日本の漢文学者・東洋学者。学位は文学博士(京都大学)。立命館大学名誉教授、名誉館友。福井県福井市出身。 1923年、福井市の順化尋常小学校(現・福井市順化小学校)を卒業後、大阪市に移り弁護士・広瀬徳蔵(大阪府会議員を経て立憲民政党代議士)の事務所に住み込みで勤務しながら、成器商業学校夜間部(現・大阪学芸高等学校)に通う。この時期に廣瀬の蔵書を読み漁り漢籍に親しみ独学していった。1930年、京阪商業学校(現・大阪府立芦間高等学校)卒業。 立命館大学専門学部国漢科(夜間)を1936年に卒業。在学中より立命館中学校教諭も務め、1941年には立命館大学法文学部漢文学科に入学。
マキノ 登六(マキノ とうろく、1910年4月8日 - 19… マキノ 登六(マキノ とうろく、1910年4月8日 - 1932年6月7日)は、日本の俳優である。本名は林 喜一郎()、マキノ家の人間ではない。当初は片岡 十六()を芸名とし、マキノ 十六()、嵐寛寿郎プロダクションでは片岡 市太郎()と名乗った。 1910年(明治43年)4月8日、京都市に生まれる。下京区中立売通猪熊通下ルの京都市立聚楽小学校(1997年に西陣中央小学校に統合されて廃校)を卒業、旧制東山中学校に在学、天然色活動写真を経て、1923年(大正12年)に牧野省三のマキノ映画製作所に入社した。まだ13歳のときであった。 「マキノ・プロダクション」設立後の1926年(大正15年)には、井上金太郎のオリジナル脚本による監督作『喧嘩日記』で、主演のマキノ正唯(のちのマキノ正博)の友人役を、「片岡十六」名義で、滝沢憲(のちの映画監督滝沢英輔)や玉木潤一郎(のちの映画プロデューサー)とともに演じている。
斯波 四郎(しば しろう、1910年4月7日 - 1989年… 斯波 四郎(しば しろう、1910年4月7日 - 1989年4月29日)は山口県阿東町(現:山口市)出身の作家で、本名は柴田 四郎である。
岡田 広(岡田 廣、おかだ ひろし、1910年(明治43年)… 岡田 広(岡田 廣、おかだ ひろし、1910年(明治43年)4月6日 - 2005年(平成17年)7月10日)は、日本の政治家。参議院議員(3期、自由民主党)。軍恩連盟全国連合会理事長。 現在の栃木県矢板市出身。1936年(昭和11年)東京帝国大学文学部教育学科を卒後、石黒奨学資金研究員。翌年陸軍に召集され、宇都宮輜重兵第14連隊に入営し、1938年(昭和13年)より日中戦争に出征。1940年(昭和15年)、招集解除となり、石黒忠篤農林大臣秘書官。 1941年(昭和16年)に再招集され、同年7月より関特演により宇都宮にて新規編成された独立自動車第38大隊の第4中隊長に任ぜられる。8月の編成完結をもって満州牡丹江、台湾基隆を経て太平洋戦争後は南方戦線に投入され、フィリピン攻略戦に参加、翌年ニューブリテン島ラバウルに派遣され、1943年(昭和18年)8月19日、中隊将兵180名とともにニューアイルランド島ラトブに分遣。
木村 武千代(きむら たけちよ、1910年〈明治43年〉4月… 木村 武千代(きむら たけちよ、1910年〈明治43年〉4月5日 - 2000年〈平成12年〉11月28日)は、昭和期の官僚、政治家。衆議院議員(6期)。位階は正四位。 香川県大川郡津田町(現さぬき市)で生まれた。1937年(昭和12年)東京帝国大学法学部を卒業。高等試験行政科試験に合格し拓務省に入省。外務省に移り外務書記生となりメキシコ公使館などで勤務。その後、陸軍中野学校を卒業し、陸軍大尉に進み除隊した。 三土忠造代議士の秘書を経て、大映に入社。永田雅一の社長秘書、外国部長などを務めた。東瀝青建設取締役も務めた。 1963年(昭和38年)、第30回衆議院議員総選挙に旧香川1区から自由民主党公認で出馬し初当選。
春名 好重(はるな よししげ、1910年4月5日 - 200… 春名 好重(はるな よししげ、1910年4月5日 - 2004年6月27日)は、書の研究家、国士舘大学名誉教授。 岡山県生まれ。東京帝国大学文学部国文学科卒業。国士舘大学教授・文学部長を務めた。日本書道史を研究。本名・斎藤秀雄。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
木村 武夫(きむら たけお、1910年4月3日 - 1986… 木村 武夫(きむら たけお、1910年4月3日 - 1986年12月29日)は、日本史学者、社会事業学者。栄照寺住職。 京都市生まれ。別名・武応。1933年京都帝国大学文学部国史学科卒。大阪経済大学助教授、教授、龍谷大学教授、神戸女子大学教授、種智院大学教授。
白石 敏夫(しらいし としお、1910年(明治43年)4月2… 白石 敏夫(しらいし としお、1910年(明治43年)4月2日 - 1995年(平成7年)11月5日)は、日本の政治家。埼玉県三郷市長(初代 - 第3代)。 埼玉県北葛飾郡八木郷村(のち東和村、現・三郷市)出身。1935年、報知新聞社に入る。その後、満州国に渡り、満州国協和会中央本部に勤務する。間もなく帰国し、1943年、東和村会議員となる。議員を一時辞めて、出版業に従事する。 1957年、三郷村議会議員となり、のち同村助役に就任する。 1967年、三郷町長に当選、 町長2期目の1972年、三郷町の単独市制施行により、 初代の三郷市長となる。1975年、初めての市長選挙で再選(通算3選・4期)。
小川 正太郎(おがわ しょうたろう、1910年4月1日 - … 小川 正太郎(おがわ しょうたろう、1910年4月1日 - 1980年10月27日)は、大正末期から昭和初期にかけて活躍した日本の野球選手、新聞記者。当時史上屈指の好投手として、またアマチュア球界の要職を務め、日本の野球人気の高揚に貢献した。 大会初の連続優勝など当時中学球界随一の強豪であった和歌山県立和歌山中学校(現・和歌山県立桐蔭高等学校)在学中の5年間で8度甲子園の全国大会に出場した。快速球と「2階から落ちるような」と喩えられたカーブを武器に1926年(大正15年)夏第12回全国中等学校優勝野球大会の準決勝で8連続奪三振を記録。正太郎が達成した この記録は桐光学園・松井裕樹が更新するまで86年間破られなかった。
丸山 鉄雄(まるやま てつお、1910年(明治43年)4月1… 丸山 鉄雄(まるやま てつお、1910年(明治43年)4月1日 - 1988年(昭和63年)12月26日)は日本の芸能プロデューサー・音楽評論家。東京府出身。
石賀 修(いしが おさむ、1910年4月1日 - 1994年… 石賀 修(いしが おさむ、1910年4月1日 - 1994年10月17日)は、日本の高校教諭、翻訳家、平和運動家。キリスト教徒。筆名イシガオサム。 福岡県出身。旧制福岡高等学校、東京帝国大学文学部西洋史学科卒業。クエーカー、無教会主義のキリスト教に共鳴。療養生活中に、エスペラントとスウェーデン語を学ぶ。1934年、良心的兵役拒否者の支援などをしている平和主義国際組織「戦争抵抗者インターナショナル」WRIに加入し、1943年、良心的兵役拒否を実行。戦後は、国立療養所星塚敬愛園での勤務生活を経て、筑陽学園高等学校教諭。平和運動や人権活動の傍ら、セルマ・ラーゲルレーヴの作品を翻訳した。
小沢 栄一(おざわ えいいち、1910年4月1日 - 198… 小沢 栄一(おざわ えいいち、1910年4月1日 - 1986年1月6日)は、日本史学者。東京学芸大学名誉教授。 1938年東京文理科大学卒。1959年「十九世紀日本啓蒙史学の研究」で東京教育大学文学博士。東京学芸大学助教授、教授、75年定年退官、名誉教授、國學院大學教授。
安田 巌(やすだ いわお、1910年3月31日 -1996年… 安田 巌(やすだ いわお、1910年3月31日 -1996年8月24日)は、広島県広島市出身の官僚、教育者。厚生事務次官、医療金融公庫総裁、安田学園理事長を歴任した。 広島の私学・安田学園創立者・安田リヨウの長男。戦後の1949年、厚生省保険局長に就任。戦時及び戦後の混乱で乱雑となった厚生年金台帳の整理に尽力し、また海外視察の経験を基にして台帳整理の機械化導入を指示した。1959年には厚生事務次官に就任。1960年、医療金融公庫総裁となる。退官後の1978年、母リヨウ死去に伴い安田学園理事長に就任。1996年、広島市内の病院で死去。享年86。
沢海 東助(さわみ とうすけ、1910年(明治43年)3月3… 沢海 東助(さわみ とうすけ、1910年(明治43年)3月31日 - 没年不明)は、日本の水球選手。1932年ロサンゼルスオリンピックに出場した。 1910年3月31日、新潟県に生まれる。慶應義塾大学予科に入学してからは、東京都渋谷区にある同大学の寄宿舎に暮らした。ポジションは右翼のフォワードで、長身を生かした力強いシュートを持ち味とした。1931年に翌年のオリンピックの選手として推薦される。1932年のロサンゼルスオリンピックでは水球競技において、8月7日のアメリカ合衆国戦と8月8日のハンガリー戦に出場したが、どちらでも他の全ての日本選手と同じく0シュートに終わった。その後、日本水泳連盟水球委員、日本学生水泳連盟水球常任委員、慶應義塾大学水球部主将などを歴任した。
川野 三暁(かわの さんぎょう、1910年(明治43年)3月… 川野 三暁(かわの さんぎょう、1910年(明治43年)3月31日 - 1989年(平成元年)12月18日)は、昭和期の僧侶、政治家。参議院議員、浄土真宗本願寺派・正念寺住職。 広島県山県郡出身。龍谷大学予科を経て、1937年(昭和12年)東洋大学文学部を卒業した。その後、中国に8年間留学した。 1953年(昭和28年)浄土真宗本願寺派宗会議員に就任し1989年まで9期在任。1960年(昭和35年)同派総務に就任し2回任じられた。1976年(昭和51年)池田勇人大蔵大臣秘書官となる。1978年(昭和53年)日本仏教連合会国際部長、1982年(昭和57年)浄土真宗本願寺派布教研究所所長に就任。 1962年(昭和37年)7月の第6回参議院議員通常選挙で全国区から自由民主党公認で出馬して当選し、参議院議員に1期在任した。
河合 亨(かわい とおる、1910年3月31日 - 1993… 河合 亨(かわい とおる、1910年3月31日 - 1993年10月14日)は、日本のフランス文学者、翻訳家。 東京生まれ。早稲田大学文学部仏文科卒。早稲田大学教授を務め、1980年定年退任、名誉教授。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
松居 桃楼(まつい とうる、1910年3月30日 - 199… 松居 桃楼(まつい とうる、1910年3月30日 - 1994年9月25日)は、日本の随筆家。 東京に、松居松葉の三男として生まれる。本名・桃太楼。早稲田大学政経学部卒。松竹演芸演劇審議会委員を務め、のち1942年台湾演劇文芸部長。1946年帰国、丹沢開拓地共同組合長。1950年上京し台東区隅田公園バタヤ地区蟻の街結成に参加しその住人となり、北原怜子とともに蟻の街の中心となる。1958年「蟻の街のマリア」は五所平之助監督で映画化され知られた。墓所は寛永寺。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
高石 千之(たかいし ちゆき、1910年3月29日 - 19… 高石 千之(たかいし ちゆき、1910年3月29日 - 1994年10月5日)は、日本の経営者。近鉄百貨店社長を務めた。和歌山県出身。 1930年に大阪商科大学高等商業部を卒業し、同年に大和鉄道に入社し、1936年6月に大阪電気軌道(のちの近畿日本鉄道)に転じる。1965年5月に取締役に就任し、1968年11月に常務、1971年5月に専務、1972年4月に近鉄百貨店専務、1974年6月に副社長を経て、1978年5月に社長に就任。1985年5月に会長に就任。 1994年10月5日心不全のために死去。84歳没。
菅沢 英夫(すがさわ ひでお、1910年3月29日- 199… 菅沢 英夫(すがさわ ひでお、1910年3月29日- 1999年4月28日 )は、日本の経営者。大成建設社長、会長を務めた。 茨城県出身。1935年に東京帝国大学工学部建築学科を卒業し、同年に大倉土木(のちの大成建設)に入社した。1961年5月に取締役に就任し、1969年5月に常務、1971年5月に専務を経て、1974年5月に副社長に就任し、1975年5月には社長に昇格。1979年6月に会長に就任し、1981年6月には相談役に就任。 1999年4月28日、気管支喘息のために横浜市の病院で死去。89歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
坊屋 三郎(ぼうや さぶろう、本名:柴田 俊英、1910年〈… 坊屋 三郎(ぼうや さぶろう、本名:柴田 俊英、1910年〈明治43年〉3月28日 - 2002年〈平成14年〉5月25日)は、日本の芸人、俳優。北海道夕張市出身。 出生時の氏名は石川博、生後数ヶ月で実相寺へ養子に出され、柴田俊英と改名。私立北海中学校に入学し、弓道部に所属した。日本大学専門部宗教科に進学するも、専門部芸術学科(現在の日本大学藝術学部の前身)に転科して声楽を学ぶ。 吉本興業(東京吉本)に入り、1937年に弟の芝利英・川田義雄(第二期は山茶花究)・益田喜頓(北海中学の同級生)とボーイズ演芸のあきれたぼういずを結成。1939年、新興キネマ演芸部に高額報酬を条件に引き抜かれ、吉本子飼いの芸人であった川田を除く3人で移籍した。
河本 春男(かわもと はるお、1910年3月28日 - 20… 河本 春男(かわもと はるお、1910年3月28日 - 2004年1月27日)は、愛知県出身の実業家、サッカー選手・指導者。 愛知県の出身。1923年に入学した愛知県立刈谷中学校(現・愛知県立刈谷高等学校)時代よりサッカーを始める。1928年に入学した東京高等師範学校(現・筑波大学)でも蹴球部(現在の筑波大学蹴球部)に所属した。1932年に同校を卒業後は兵庫県立第一神戸中学校の体育教諭となり、同校サッカー部の部長も務め、同年に開催された全国中等学校蹴球選手権大会で優勝に導いた。 1941年に第二次世界大戦に伴って従軍するが、1943年に除隊した。1947年より実業界に進んで、1958年に「アルプスバター神戸直売所」を創業。
北原 三男(きたはら かずお、1910年〈明治43年〉3月2… 北原 三男(きたはら かずお、1910年〈明治43年〉3月28日 - 1993年〈平成5年〉)は、台湾総督府官僚、鹿児島県職員、また夏目 漠(なつめ ばく)の筆名で日本の詩人、文筆家。鹿児島県職員としては、人事分野や社会福祉行政に携わった他、文化振興にも尽力し、鹿児島県文化センター初代館長を務めた。 鹿児島県鹿児島市に生まれる。旧制の鹿児島県立第二鹿児島中学校(現:鹿児島県立甲南高等学校)を経て、1930年(昭和5年)第七高等学校造士館文科(甲類)を卒業。1933年(昭和8年)10月高等試験行政科に合格し、翌年3月に東京帝国大学法学部法律学科を卒業する。1936年(昭和11年)台湾拓殖に入社し、1939年(昭和14年)に台湾総督府属となる。
石上 玄一郎(いしがみ げんいちろう、1910年3月27日 … 石上 玄一郎(いしがみ げんいちろう、1910年3月27日 - 2009年10月5日)は日本の小説家。姓は「いそのかみ」と読まれていた時期もあるが、1981年頃から「いしがみ」と訂正した。 郷里東北の風土を背景に、現象学や仏教思想などの影響を受けた独自の実存主義的作風を展開した。 北海道札幌市生まれ。本名、上田重彦。父上田寅次郎は岩手県盛岡市出身。上田家は南部藩士で、代々御蔵奉行などを勤めていたが、維新後没落。寅次郎の母・綱は寅次郎ら幼い子供を連れて、実弟の栃内元吉(当時屯田司令官幕僚)・曽次郎(後に海軍大将)が住む札幌に移り住む。寅次郎は長じて札幌農学校・東京専門学校に学び、岩手県・北海道で中学教師の傍ら、新聞に読み物を書いていた。
森 茂喜(もり しげき、1910年3月27日 - 1989年… 森 茂喜(もり しげき、1910年3月27日 - 1989年11月19日)は、日本の政治家、陸軍軍人(中佐)。父は根上村長を務めた森喜平。長男は第85・86代内閣総理大臣の森喜朗。 石川県能美郡根上村(現能美市)出身。旧制小松中学、早稲田大学専門部法律科で学ぶ。大学時代はラグビー部の中心選手として活躍した。大学卒業後、京都市役所で勤務。その後石川県庁に移る。 日中戦争勃発により陸軍に召集され従軍(特別志願将校)。少尉時代に上海上陸から南京攻略戦、その後徐州作戦、武漢作戦と初期の激戦を一通り経験し、伝記にも載っている。週刊誌に取り上げられたこともある。 満州の牡丹江に駐留していた歩兵第7連隊第9中隊長時代、部下に丁来赫(チョン・ネヒョク)が居た。
荘司 福(しょうじ ふく、1910年3月26日 - 2002… 荘司 福(しょうじ ふく、1910年3月26日 - 2002年10月19日)は日本画家。 裁判官であった父の木村徳之助の赴任先であった長野県松本市で生まれ育つ。女子美術専門学校(現・女子美術大学)師範科日本画部卒業。郷倉千靱に師事。 数学者の荘司篤と結婚後は仙台市に移り住む。長女は日本画家の小野恬、長男の妻は抽象画家の荘司貴和子。結婚後は作家活動を休止していたが、夫の篤が結核に倒れ、画家としての活動を再開。1941年第6回東北美術展(現・河北美術展)に出品。第10回東北美術展で河北美術賞受賞。1951年日本美術院院友、1981年日本美術院評議員。 その後は東京、横浜と移り住み、戦後は油彩画の要素を取り入れた日本画制作を行った。
福西 基(ふくにし もとい、1910年〈明治43年〉3月25… 福西 基(ふくにし もとい、1910年〈明治43年〉3月25日 - 2020年〈令和2年〉8月22日)は、日本の教育者、スーパーセンテナリアン。茨城県下妻市に在住していた長寿の男性。日本国内最高齢男性であった白井庄次郎が2020年8月11日に死去して以来、11日間日本国内最高齢男性となっていた。 1910年3月25日、茨城県結城郡宗道村(現在の下妻市宗道)で生まれる。 旧制中学校時代にアメリカ人宣教師・ビンフォルド夫妻と出会い、1927年に下妻基督友会員(キリスト教のフレンド派)となる。 茨城県立下妻中学校を経て茨城県師範学校卒業後、真壁郡村田尋常高等小学校に赴任。その後、下妻市立豊加美小学校長、総上中学校長、上妻小学校長、騰波ノ江中学校長、岡田小学校長、飯沼小学校長を歴任。
龍王山 光(りゅうおうざん ひかる、1910年3月25日 -… 龍王山 光(りゅうおうざん ひかる、1910年3月25日 - 1948年2月18日)は、福岡県飯塚市出身で出羽海部屋に所属した大相撲力士。本名は高鍋 光。最高位は東前頭2枚目(1941年1月場所)。得意手は突っ張り、叩き。現役時代の体格は180cm、113kg。 1930年3月場所、出羽海部屋から初土俵を踏む。入門が遅かったわりには出世もあまり早くはなく、十両昇進は1936年1月場所だった。その後は上昇気流に乗り、1938年1月場所で十両優勝して5月場所には新入幕、そこでも勝ち越しを続け、入幕3場所目となる1939年5月場所8日目には初日から勝ちっ放しの横綱男女ノ川から金星を挙げる活躍をした。翌1940年1月場所8日目、横綱双葉山に、仕切り1回で立ち合うという奇襲を仕掛けたが、あっさりと上手投げで退けられた。
春日 一幸(かすが いっこう、1910年(明治43年)3月2… 春日 一幸(かすが いっこう、1910年(明治43年)3月25日 - 1989年(平成元年)5月2日)は、日本の政治家、実業家。勲章は正三位勲一等旭日大綬章。 衆議院議員(14期)、愛知県議会議員(2期)、民社党委員長(第3代)を歴任した。 岐阜県海津郡東江村(現:海津市)出身。生家は農家で、7人姉妹のうちに生まれた。母親に「男、望むなら王まで望め」と言われ、名古屋逓信講習所に入学。1928年卒業。名古屋中央電話局(現・NTT西日本名古屋支店)職員となる。後年反共主義の立場を取ったが、この時期はプロレタリア文学を読みあさり、ダダイスムに傾倒した。無断欠勤して上京し、杉並の林芙美子宅に押しかけ、10日間粘ってついに自作の詩を生田春月に見てもらうよう約束を取り付けたという。
武藤 欣之助(むとう きんのすけ、1910年〈明治43年〉3… 武藤 欣之助(むとう きんのすけ、1910年〈明治43年〉3月25日 - 没年不明)は、日本の実業家。広正社創業者。 山梨県東山梨郡平等村上岩下(現・山梨市上岩下)出身。1931年、20歳で広正社を個人創業。各種看板の製作、屋外広告、浴場広告を主として取扱う。 1953年、有限会社に改組する。1955年、株式会社組織に改める。宣伝自動車、交通広告の方面に進出する。 京成電鉄広告会会長、東京都浴場広告連盟理事、広正社社長、東京浴場組合理事、京成懇談会会長などをつとめる。 趣味は旅行。住所は東京都葛飾区青戸6丁目。本籍は山梨県山梨市上岩下。 1969年5月に税務署に於て発表した年間所得500万円以上の高額所得者の名簿である『全国高額所得調 昭和44年度版』に武藤欣之助(広告宣伝業)が掲載されている。
外山 軍治(とやま ぐんじ、1910年〈明治43年〉3月24… 外山 軍治(とやま ぐんじ、1910年〈明治43年〉3月24日 - 1999年〈平成11年〉9月7日)は、日本の東洋史学者。大阪外国語大学名誉教授。位階は正四位。 1910年、大阪府大阪市で生まれた。本籍は徳島県板野郡土成町(現・阿波市)。大阪府立住吉中学校、大阪高等学校で学び、京都帝国大学文学部に進学。史学科(東洋史学専攻)で学び、羽田亨に師事した。1933年に卒業し、その後は羽田の指導の下、外務省文化事業部助成金を得て満蒙文化の研究に従事した。 戦後、大阪外国語大学教授に就いた。1962年に学位論文『金朝史の研究』を京都大学に提出して文学博士号を取得。1974年に大阪外国語大学を定年退官し、名誉教授となった。
有信 春二(ありのぶ はるじ、1910年3月24日 - 19… 有信 春二(ありのぶ はるじ、1910年3月24日 - 1992年8月9日)は、日本の経営者。岡山県出身。 1932年に浜松高等工業学校機械科を卒業。三河セメント、日立製作所での勤務を経て、1969年2月から1979年6月までに日立マクセル社長を務めた。 1992年8月9日心不全のために死去。82歳没。
田畑 直(たばた すなお、 1910年(明治43年)3月24… 田畑 直(たばた すなお、 1910年(明治43年)3月24日 - 1944年(昭和19年)2月17日)は、日本の海軍軍人。香川県出身。キスカ島撤退作戦で物資輸送と人員の撤収に成功し、また米海軍護衛空母「リスカム・ベイ」を撃沈した「伊175」潜水艦長である。駆逐艦「ニコラス」の攻撃により乗艦を撃沈され戦死。最終階級は海軍中佐。 坂出市王越町出身で兄は香川県坂出商工会議所元会頭であり、瀬戸内地域の塩の会社讃岐塩業、錦海株式会社創業者として香川県の名士田畑久宣の弟。田畑は香川県出身の海兵58期生である。このクラスは入校当初130余名の同期生がおり、うち60名以上は出身中学の首席であった。校長鳥巣玉樹、永野修身、監事長及川古志郎、伊藤整一らの指導を受け、1930年(昭和5年)11月、113名中の同期生中、中位の成績で海軍兵学校を卒業する。
古波蔵 保好(古波藏 保好、こはぐら ほこう・やすよし、19… 古波蔵 保好(古波藏 保好、こはぐら ほこう・やすよし、1910年3月23日 - 2001年8月30日)は、日本のエッセイスト、評論家。妻は服飾評論家の鯨岡阿美子。妹は琉球料理研究家の古波蔵登美で、登美の孫(姪孫)にあたるのが作家・与那原恵である。 沖縄県首里市(現・那覇市)金城出身。沖縄県立一中卒業[要出典]、東京外国語学校印語学科中退(1930年)。1931年、当時県域新聞社として発行していた沖縄日日新聞(後の沖縄日報)に記者として入社。1941年、大阪毎日新聞社に移籍し社会部記者、論説委員。 1964年に退社後はエッセイスト、評論家として、日本エッセイストクラブ賞を獲得した『沖縄物語』をはじめ、沖縄県の歴史、文化・世相風俗、食などに関する著書を多数発表した。
田中 七郎(たなか しちろう、1910年3月22日 - 19… 田中 七郎(たなか しちろう、1910年3月22日 - 1977年5月11日)は、日本の経営者。愛媛県松山市出身。 1931年に横浜専門学校を卒業し、1932年に石川ペイントに入社。1940年に大和塗料工業所(現在のアサヒペン)を設立し、1947年には代表取締役(のちの社長)に就任。 1974年に紺綬褒章を受章。 1977年5月11日、死去。67歳没。
武 基雄(たけ もとお、1910年3月22日 - 2005年… 武 基雄(たけ もとお、1910年3月22日 - 2005年10月8日)は、日本の建築家。早稲田大学名誉教授。武建築設計研究所を主宰し、多くの優れた建築作品を残す。元新建築家技術者集団代表幹事。鎌倉彫の武登苑は夫人。日本画家福永晴帆は義父。 長崎市生まれ。1937年早稲田大学理工学部建築学科卒。1937年から1940年の間石本喜久治の石本建築事務所勤務。同僚の立原道造、海老原一郎、西山卯三らや、立原の友人丹下健三らと知己になる。 1940年から1979年まで、早稲田大学で教鞭をとる。藤井博巳、菊竹清訓ら多くの俊英を育てる。戦災復興都市計画では、吉阪隆正らと主に広島県呉市を担当。1950年、建築設計事務所・武建築設計研究所を開設。
李 泳熙(イ・ヨンヒ、朝鮮語: 이영희、1910年3月21日… 李 泳熙(イ・ヨンヒ、朝鮮語: 이영희、1910年3月21日または1912年 - 1977年7月7日)は、大韓民国の政治家。 第3・4代大韓民国国会議員。 慶尚南道宜寧郡出身。宜寧公立普通学校(現・宜寧初等学校(朝鮮語版))卒、京都東寺中学校(現・洛南高等学校)卒業(または中退)。 宜寧郡農会会長、初代宜寧郡教育監(教育長)、宜寧面長、国民会宜寧郡支部長、自由党宜寧郡党副委員長、国会農林委員会委員長、国会農村金融制度の確立に関する法律立法委員会委員長などを務めた。政界引退後は農業に従事した。 1977年7月7日、ソウル市内のマンションの自宅で脳溢血により死去。享年68。
西田 修平(にしだ しゅうへい、1910年(明治43年)3月… 西田 修平(にしだ しゅうへい、1910年(明治43年)3月21日 - 1997年(平成9年)4月13日)は、日本の元陸上競技選手。和歌山県東牟婁郡那智村(現・那智勝浦町)出身。1936年ベルリンオリンピック銀メダリスト。早稲田大学理工学部卒業。 弁護士・西田郁平と楠枝の長男として生まれる。旧制和歌山中学校(現・和歌山県立桐蔭高等学校)を卒業後、織田幹雄に感化されて第一早稲田高等学院に進学。棒高跳のエキスパートとして知られ、大学在学中に1932年ロサンゼルスオリンピックに出場。銀メダルを得た。早稲田大学理工学部機械工学科を卒業後、日立製作所に入社。1936年ベルリンオリンピックでは大江季雄と2・3位を分け合い、帰国後にお互いのメダルを切断して「友情のメダル」を作成したことはつとに有名。
青山 秀夫(あおやま ひでお、1910年3月21日 - 19… 青山 秀夫(あおやま ひでお、1910年3月21日 - 1992年2月16日)は、日本の経済学者。学位は、経済学博士・社会学博士。京都大学名誉教授。 岡山県出身。岡山第一中学(現:岡山朝日高校)、旧制第六高等学校を経て、京都帝国大学経済学部を卒業。その後、京都大学経済学部教授・学部長、京都大学経済研究所所長、関西学院大学社会学部教授、摂南大学経営情報学部教授、同学部長などを歴任した。
小谷 純一(こたに じゅんいち、1910年3月21日 - 2… 小谷 純一(こたに じゅんいち、1910年3月21日 - 2004年10月1日)は、日本の農業指導者、教育者、キリスト教伝道者。 全国愛農会を創設し、愛農学園農業高等学校の創立者で初代校長を務めた。 和歌山県和歌山市小豆島(あずしま)出身。生家は地主の農家で、その長男であった。旧制中学校を経て、1925年(大正14年)、京都府立高等蚕糸学校(現:京都工芸繊維大学)に入学する。在学中には西田天香の一燈園に参加していた。 1928年(昭和3年)に京都高等蚕糸卒業後、京都帝国大学農学部に進学。在学中、キリスト集会で佐藤定吉の伝道集会に参加したことから、無教会主義キリスト教徒となる。1933年京都帝国大学農学部を卒業後、加藤完治が茨城県で行っていた満蒙開拓青少年義勇軍運動に参加したが、右翼的な方向に変じた運動から離脱し、農林省による「農民道場」創設に関与した。
柳原 義達(やなぎはら よしたつ、1910年3月21日 - … 柳原 義達(やなぎはら よしたつ、1910年3月21日 - 2004年11月11日)は、近現代日本の彫刻家。 兵庫県神戸市生まれ。1936年、東京美術学校彫刻科卒。朝倉文夫に師事、文展入選、国画会受賞、1937年、国画会同人。1939年、新制作派協会彫刻部創立に参加する。 戦後、1952年から5年間ヨーロッパに滞在する。1958年、高村光太郎賞、1974年、中原悌二郎賞大賞など受賞、1970年、日本大学芸術学部主任教授。1996年、文化功労者。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
深沢 松美(深澤、ふかさわ まつみ、1910年(明治43年)… 深沢 松美(深澤、ふかさわ まつみ、1910年(明治43年)3月20日 - 1976年(昭和51年)6月21日)は、昭和期の地方公務員、政治家。松本市長(公選第4代)。 位階は正五位。勲三等瑞宝章。 長野県東筑摩郡波田村(現:松本市)で、深沢忠太、か津へ の長男として生まれた。1929年(昭和4年)3月、松本商業学校卒業後、東京片倉生命保険、信濃毎日新聞に勤務。1941年(昭和16年)波田村収入役に就任し、のち助役となる。1951年(昭和26年)から長野県議会議員に5回当選。この間、中小企業振興審議会長、総合開発審議会委員などを務める。 1969年(昭和44年)松本市長に当選し2期務め、病のため1976年(昭和51年)3月に退任した。
徳久 克己(とくひさ かつみ、1910年3月20日 - 20… 徳久 克己(とくひさ かつみ、1910年3月20日 - 2001年4月)は、元生長の家理事長。産婦人科医。医学博士。 高知県出身。1937年、岡山医科大学卒業。1942年、「「ビタミン」B1およびB2の雌性性器に及ぼす実験的研究」で医学博士。戦争中は満州で病院長を務める。戦後、生長の家本部練成道場設立や、ブラジル、アメリカ合衆国、中華民国での布教活動に尽力。生長の家関係の要職を歴任し、1982年、生長の家本部理事長。 1983年にはカトリック東京大司教の白柳誠一や全日本仏教婦人連盟の山本杉、日蓮宗管長の金子日威らと「〝生命尊重の日〟実行委員会」を結成した。これは優生保護法が制定された7月13日を「生命尊重の日」として、優生思想や堕胎に反対していこうという運動であった。
江里口 清雄(えりぐち きよお、1910年〈明治43年〉3月… 江里口 清雄(えりぐち きよお、1910年〈明治43年〉3月20日 - 1983年〈昭和58年〉2月16日)は、日本の裁判官。 佐賀県出身。東京帝国大学卒業。裁判官で刑事訴訟が専門だが、司法省に一時期出向。 東京地方裁判所では帝銀事件を担当した際には、一般市民は被告人の自供があるからと言っているが、はなはだ危険という旨を述べ慎重な態度を見せた。法廷で被告人の平沢貞通をじっくり尋問し、録音テープを何度も聞き返すなどした上で、死刑判決。 その後、最高裁判所刑事局長、長野地家裁所長、福岡高等裁判所長官などを歴任。 1973年1月に最高裁判所判事に就任。就任時に「帝銀事件以外に死刑判決を出したことはない。
近藤 市太郎(こんどう いちたろう、1910年3月19日 -… 近藤 市太郎(こんどう いちたろう、1910年3月19日 - 1961年1月6日)は、日本の美術史家。 東京出身。1934年東京帝国大学卒業、東京帝室博物館(現・東京国立博物館)に入り、普及課長、資料課長。浮世絵の展覧会を担当した。
堀 一郎(ほり いちろう、1910年(明治43年)3月19日… 堀 一郎(ほり いちろう、1910年(明治43年)3月19日 - 1974年(昭和49年)8月10日)は、日本の宗教学者。東京大学名誉教授。 三重県生まれ。1929年に第一高等学校を卒業し、東京帝国大学文学部印度哲学科入学。同期に五来重らがいる。1932年に卒業。1935年に大学院を退学した後、1939年から二松学舎専門学校教授、同年文部省国民精神文化研究所助手などとなり、戦後は東北大学教授を経て、1965年東京大学宗教学科教授。1971年定年退官、成城大学教授。また、1950年から國學院大學兼任教授。1953年に「我が国民間信仰史の研究」により、東京大学から文学博士の学位を授与される。
小田部 謙一(おたべ けんいち、1910年3月19日 - 2… 小田部 謙一(おたべ けんいち、1910年3月19日 - 2008年3月17日)は、日本の外交官。駐ベルギー特命全権大使、欧州共同体(EC)政府代表部特命全権大使。 東京出身。1929年東京商科大学(現一橋大学)予科修了。1934年同大学学部卒業、外務省入省、調査部。1945年終戦連絡中央事務局総裁官房翻訳課長。1949年通商産業省輪出局雜貨課長。1951年外務省連絡局長心得。同年外務省経済局次長。1954年外務省経済局長心得。在アメリカ合衆国日本国大使館参事官を経て、1959年外務省経済局経済協力部長事務取扱。同年外務省アジア局賠償部長。1962年外務省大臣官房審議官。同年駐ビルマ特命全権大使。
池田 末利(いけだ すえとし、1910年 <明治42年> 3… 池田 末利(いけだ すえとし、1910年 <明治42年> 3月19日 - 2000年 <平成12年> 11月9日)は、日本の中国哲学者。位階は正四位。勲三等旭日中綬章。 福岡県生まれ。大東文化学院卒、1936年広島文理科大学卒。1938-1941年北京大学に学ぶ。1955年「中国ニ於ケル祖先崇拝ノ溯源的研究、並ニソノ天・地神崇拝トノ関係」で東京大学より文学博士の学位を取得。広島大学文学部助教授、教授、1973年定年退官、名誉教授、大東文化大学教授、学長。1979-1981年日本中国学会理事長。1984年秋の叙勲で勲三等旭日中綬章を受章。2000年死去。死没日付をもって正四位に叙された。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。