勝沼 精蔵(かつぬま せいぞう、1886年(明治19年)8月… 勝沼 精蔵(かつぬま せいぞう、1886年(明治19年)8月28日 - 1963年(昭和38年)11月9日)は、兵庫県神戸市生まれの医学者。専門は血液学、神経病学。医学博士。名古屋帝国大学医学部教授、第三代名古屋大学総長、第三代国立名古屋病院院長を務めた。 1926年(大正15年) に学士院賞を受賞、1954年(昭和29年)に文化勲章を受章した。1953年(昭和28年)にノーベル生理学・医学賞の候補に挙がったが受賞を逸している。 父・五郎は日本郵船の船長であったが澎湖諸島沖で海難死し、母・顕子の実家の静岡県へ移住した。静岡県立静岡中学校、第一高等学校を経て、1911年(明治44年) 、東京帝国大学医学部卒業。
池田 勇八(いけだ ゆうはち、1886年8月28日 - 19… 池田 勇八(いけだ ゆうはち、1886年8月28日 - 1963年3月31日)は、日本の彫刻家。動物を題材とする彫刻を主に制作し、「馬の勇八」と呼ばれた。 香川県綾歌郡滝宮村出身。1903年(明治36年)香川県琴平工芸学校を卒業し上京、同年9月東京美術学校(現在の東京芸術大学)彫刻科選科入学。同窓に朝倉文夫。1907年(明治40年)に同校を卒業した。同年の東京勧業博覧会において「柔術」が銅牌を受賞した。1909年(明治42年)の第3回文展において「馬」が初入選した。1916年から18年にかけて文展において出品した作品が連続特選となった。1919年(大正9年)に第1回帝展に無鑑査出品となり、1920年(大正9年)に帝展の審査員となった。
澤口 フク(さわぐち フク、1886年(明治19年)8月25… 澤口 フク(さわぐち フク、1886年(明治19年)8月25日 - 1972年(昭和47年)12月24日)は、日本の政治家。秋田県仙北郡中川村(のち角館町を経て、現・仙北市)長。秋田県議会議員(3期)。 秋田県仙北郡荒川村(のち協和村→協和町を経て、現・大仙市)生まれ。秋田女子師範学校(現・秋田大学教育文化学部)を経て、日本音楽学校に入る。その後、帰郷し、1911年に中川村の澤口朝治と結婚する。朝治は後に中川村長となる。 1947年、公職追放となった夫に代わり、中川村長選挙に立候補し、当選。秋田県では初の女性村長となった。同時に秋田県議会議員選挙に仙北郡選挙区から秋田県民主党から立候補し、当選した。
酒井 忠純(さかい ただひさ、1886年(明治19年)8月2… 酒井 忠純(さかい ただひさ、1886年(明治19年)8月25日 - 1964年(昭和39年)7月5日)は、昭和時代前期の銀行家、軍人、陸軍中尉・従七位、考古学研究家。荘内銀行初代頭取。庄内民俗学会会長、山形県文化財保護協会理事。幼名は徳太郎、号は松堂。 最後の藩主である酒井忠宝の長男として鶴岡郊外大宝寺村(現:鶴岡市)で生まれる。若い頃から考古学に興味を持ち、庄内各地を踏査し、史料収集につとめ、長年にわたり遺跡・遺物の調査と保存につとめた。その一方で、金融界でも活躍し、1939年(昭和14年)9月に菅實のあとを受け、六十七銀行頭取に就任し、41年4月には合併後の荘内銀行頭取に推され、44年10月まで在任し、48年10月までは会長を務めた。
加藤 正人(かとう まさと、1886年〈明治19年〉8月24… 加藤 正人(かとう まさと、1886年〈明治19年〉8月24日 - 1963年〈昭和38年〉8月24日)は、日本の実業家、政治家。参議院議員(2期)。大和紡績社長、旧日経連(現経団連)代表常任理事。 紡績界の代表的人物で政財界にもパイプがあり、自社内では「加藤天皇」と呼ばれるほどであった。 群馬県館林出身。1910年慶應義塾大学部理財科卒業、1913年鐘淵紡績入社、1924年退社。浪速紡績取締役を経て1925年錦華紡績取締役、1937年同社長、1941年錦華などが合併して誕生した大和紡績社長。1949年に日経連代表常任理事に就任。 1950年6月に行われた第2回参議院議員通常選挙に無所属で全国区から出馬、初当選し、緑風会に所属、1956年7月の第4回参議院議員通常選挙で再選した。
下田 文一(しもだ ぶんいち、1886年8月23日 - 19… 下田 文一(しもだ ぶんいち、1886年8月23日 - 1951年7月1日)は、日本の実業家。南洋拓殖社長。 長野県下伊那郡竜丘村(現・飯田市)出身。1910年東京高等商業学校(現一橋大学)本科卒業。1912年同専攻部銀行科卒業。 1913年から1915年まで東亜同文書院教授を務め、三井物産入社後、同社台北支店長代理、本店業務課長、奉天出張所長等を経て、1936年南洋拓殖入社。 日満鋼材監査役、南洋開拓理事、南国企業社長等を歴任し、1940年南拓鳳梨社長。1944年南洋拓殖社長。 妻の二三子は中山久四郎の長女。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
小野 謙一(おの けんいち、1886年(明治19年)8月23… 小野 謙一(おの けんいち、1886年(明治19年)8月23日 - 1963年(昭和38年)1月12日)は、日本の政治家、新聞記者。衆議院議員。 青森県中津軽郡、のちの弘前市出身。明治大学卒業後、新聞記者となり、北辰日報を経て、1907年(明治40年)やまと新聞に入り、政治部長となる。更に、太平洋通信社に転じ、主幹を務めた。1937年(昭和12年)に衆議院議員に当選。東方会、時局同志会、翼賛議員同盟に所属。 1942年(昭和17年)、第21回衆議院議員総選挙では翼賛政治体制協議会の推薦を受けたが落選した。戦後、公職追放となる。1951年(昭和26年)追放解除。1963年(昭和38年)1月12日死去。
山村 熊次郎(やまむら くまじろう、1886年(明治19年)… 山村 熊次郎(やまむら くまじろう、1886年(明治19年)8月21日 - 1949年(昭和24年)8月8日)は、日本の点字出版社の創設者、点字雑誌の創刊者、社会事業家である。少年時代の失明により、視覚障害者が読める点字書籍の不足を痛感し、視覚障害者に情報保障を行うため、点字医学書・点字医学雑誌、日本初の視覚障害者向け通信大学講義録の点訳出版を手掛けた。 1886年(明治19年)、三重県名張町(現・名張市)で商家の三男に生まれる。1902年(明治35年)に緑内障を発症した。 1906年(明治39年)に京都府立盲学校に入学、YMCAの英語夜学校で英語を学ぶ。1909年(明治42年)に同針按科を卒業した。
国崎 登(くにさき のぼる、1886年(明治19年)8月20… 国崎 登(くにさき のぼる、1886年(明治19年)8月20日 - 1960年(昭和35年)11月27日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。
長谷川 零余子(はせがわ れいよし、1886年〈明治19年〉… 長谷川 零余子(はせがわ れいよし、1886年〈明治19年〉8月20日 - 1928年〈昭和3年〉7月27日)は、明治から昭和初期にかけて活躍した日本の俳人。本名:長谷川 諧三。旧姓:富田。別号に翠邨。妻は俳人の長谷川かな女。小説家の三田完は孫。 群馬県緑野郡鬼石町(現・藤岡市)出身。父・富田嘉十郎は伊勢崎警察署境派出所の巡査であった。1888年(明治21年)嘉十郎は大垣警察署に赴任することとなり、妻・うめと諧三・つるの2人の子どもとともに大垣に移り住んだ。1892年(明治25年)父の嫡出として入籍される。 零余子は1897年(明治30年)境小学校を卒業後、剛志村下武士の毛陽学校に入学し、1901年(明治34年)に卒業した。
小林 好日(こばやし よしはる、1886年8月19日 - 1… 小林 好日(こばやし よしはる、1886年8月19日 - 1948年2月11日)は、日本の国語学者。
天辰 正守(あまたつ まさもり、1886年(明治19年)8月… 天辰 正守(あまたつ まさもり、1886年(明治19年)8月19日 – 1963年(昭和38年)8月2日)は、大正から昭和期の弁護士、政治家。衆議院議員(立憲政友会)。 鹿児島県薩摩郡平佐郷天辰村(平佐村、川内町、川内市を経て現在の薩摩川内市天辰町)で、医師・天辰登雲の二男として生まれた。医師の道を避けて1917年(大正6年)京都帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。福岡地方裁判所所属の弁護士となった。その後、判事となり、那覇地方裁判所判事、鹿児島地方裁判所判事、熊本地方裁判所判事を歴任した。1923年(大正12年)に退官し、衆議院嘱託として欧米各地を視察した。翌年に帰国し、再び弁護士を鹿児島市で開業した。
長内 健栄(おさない けんえい、1886年〈明治19年〉8月… 長内 健栄(おさない けんえい、1886年〈明治19年〉8月18日 - 1961年〈昭和36年〉12月10日)は、日本の政治家、農業経営者。衆議院議員、大光寺村長。 青森県南津軽郡大光寺村(現平川市)で、初代大光寺村長・長内建美の長男として生まれる。東奥義塾3年時に東京の錦城中学校に転じ、1909年(明治42年)、早稲田大学政治経済科を卒業した。 その後帰郷して、1914年(大正3年)、大光寺村会議員に当選。その後、大光寺村長、消防組頭、青森県会議員を歴任。立憲政友会支持一色であった大光寺村において、立憲民政党に入党し、同党南津軽郡分所幹事、同青森県支部幹事を務めた。 1942年(昭和17年)4月、第21回衆議院議員総選挙に青森県第2区から翼賛政治体制協議会(翼協)の推薦を受けずに出馬して当選し、衆議院議員を1期務めた。
落合 太郎(おちあい たろう、1886年8月13日 - 19… 落合 太郎(おちあい たろう、1886年8月13日 - 1969年9月24日)は、日本のフランス文学者。位階は正三位。奈良女子大学名誉教授。 1886年、東京神田駿河台で生まれた。1892年、泰明小学校に入学。御田小学校では吉井勇と同級であった。1989年、東京府立第一中学校に入学したが、翌年肺炎を患ったことにより退学。また、翌1899年には母も死去。2年間の療養を経て明治学院普通部に入学し、卒業。1903年に第一高等学校予科第一部に入学。1908年に卒業し、東京帝国大学法科大学に入学したが、休学。新渡戸稲造に勧められ、京都帝国大学法科大学に転学した。1912年、赤塚季と結婚、また家督を相続した。
玉置 吉之丞(たまき きちのじょう、1886年8月11日 -… 玉置 吉之丞(たまき きちのじょう、1886年8月11日 - 1961年4月7日)は、日本の政治家、実業家。玉置綿布社長。衆議院議員(2期)、参議院議員(1期)。 1886年8月11日、和歌山県名草郡内海村(内海町を経て現海南市)で吉田万右衛門の三男として生まれる。和歌山中学校修業。1902年に渡米し、1909年まで南カリフォルニア大学で政治経済学を学んだ。 帰国後、玉置きくのの養子となり、玉置綿布工業社を創立し、事業を拡大して1919年には株式会社組織に改組して社長となる。和歌山県織物同業組合長、和歌山県織物工業組合理事長、日本綿織物工業組合連合会理事を務めて業界の発展に貢献する傍ら、南海瓦斯興業株式会社監査役、内海紡績株式会社常務取締役、玉置綿布染工株式会社社長、昭南工業株式会社社長を兼ねて地元の実業界にも貢献した。
乳井 英夫(にゅうい ひでお、1886年(明治19年)8月1… 乳井 英夫(にゅうい ひでお、1886年(明治19年)8月10日 - 1977年(昭和52年))は、大正から昭和時代前期の政治家。青森県弘前市長。 青森県弘前市出身。1906年(明治39年)3月、青森県立弘前中学校(現・青森県立弘前高等学校)を卒業後、南津軽郡注目小学校の教員となる。1912年(明治45年)6月、官界に転じ、青森県属となり、ついで福島県書記、栃木県属、栃木県警部、秘書課長、地方事務官学務部教育課長、知事官房主事を経て、1929年(昭和4年)7月に休職。 1931年(昭和6年)9月に弘前市助役に就任。翌年1月に辞任後、宇都宮市主事、社会課長、職業紹介所長、水道課長などを経て、1936年(昭和11年)2月に再度弘前市助役に就任した。
福武 枯木(ふくたけ こぼく、1886年8月10日 - 19… 福武 枯木(ふくたけ こぼく、1886年8月10日 - 1969年7月7日)は、日本の大正から昭和期に活動した俳人。作詞家としては、本名の福武 周夫(ふくたけ ちかお)名義を使用している。岡山県出身。 1886年(明治17年)、岡山県小田郡三谷村(現在の矢掛町)横谷で福頼神社社家の福武喜雨造・知与夫妻の長男として出生。旧制岡山中学校を経て神宮皇學館を卒業。母校の岡山中学校教員在職時に笠井栖乙らと丘上俳句会を結成し、旧制第六高等学校教官らが組織した六六会を通じて志田素琴や大須賀乙字らに師事した。 1923年(大正12年)、兵庫県の旧制尼崎中学校へ転任。この時期には本名の周夫名義により朝日新聞社が懸賞公募した「全国中等学校優勝野球大会の歌」や、初代の「尼崎市歌」で入選を果たしている。
影山 堯雄(かげやま ぎょうお、1886年8月10日 - 1… 影山 堯雄(かげやま ぎょうお、1886年8月10日 - 1983年5月22日)は、日蓮宗の僧、仏教史学者。 熊本県人吉市生まれ。1914年日蓮宗大学(現立正大学)卒、1926年日本大学法文学部宗教学科卒。日蓮宗宗学全書編纂委員。日蓮宗大学教授、立正大学教授、日蓮宗学研究所所長。1957年定年退任、名誉教授。1965年「江戸時代における法華教団の布教の研究」で立正大学文学博士。本地院日深上人。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
諏訪 尚太郎(すわ しょうたろう、1886年(明治19年)8… 諏訪 尚太郎(すわ しょうたろう、1886年(明治19年)8月4日) - 1957年(昭和32年)10月17日は、日本の実業家。 豪農の家に生まれ、大学卒業後、肥料商店を営み芸能に興味をもって鶴岡劇場(株)を設立した。 『庄内音頭』の作詞・作曲者でもある。 庄内電気鉄道(現・庄内交通)、羽前織物信用組合、鶴岡米穀取引所、鶴岡織物、鶴岡日報社、などの役員も務めた。
安達 十九(あだち じゅうく、1886年(明治19年)8月1… 安達 十九(あだち じゅうく、1886年(明治19年)8月1日 - 1951年(昭和26年)7月20日)は、日本の陸軍軍人。陸軍科学研究所第二部長を務め、階級は陸軍中将に至る。陸軍教授安達松太郎の子で、兄に安達十六陸軍少将、弟に第18軍司令官安達二十三陸軍中将が、義理の叔父に陸軍大臣石本新六陸軍中将男爵がいる。石本寅三陸軍中将・石本五雄陸軍少将は従兄弟。 東京に生まれ陸軍士官学校に学ぶ。1905年(明治38年)11月25日卒業し、1906年(明治39年)6月26日陸軍工兵少尉に任官される。士官候補生第18期の安達の同期には山下奉文大将・岡部直三郎大将・藤江恵輔大将・阿南惟幾大将・山脇正隆大将らがいる。
加納 久朗(かのう ひさあきら、1886年〈明治19年〉8月… 加納 久朗(かのう ひさあきら、1886年〈明治19年〉8月1日 - 1963年〈昭和38年〉2月21日)は、日本の銀行家、政治家。子爵。千葉県一宮町出身。元千葉県知事、元国際決済銀行取締役、副会長。父は、最後の上総国一宮藩主であった加納久宜。 1886年8月1日、子爵加納久宜・文子の次男として東京府小石川の私邸に生まれる。兄・久元は夭逝していたため、事実上の嫡男であった。 1894年、県知事に任命された父に従い鹿児島県に移り、その後現地に赴任してきたアメリカ・オランダ改革教会宣教師ピークから英語とキリスト教を弟の久憲とともに学ぶ。 1900年、久宜が鹿児島県知事の業務を辞して一家は東京へ戻り、父が設立に関わった学習院中等科へ編入した。
萬造寺 齊(まんぞうじ ひとし、1886年(明治19年)7月… 萬造寺 齊(まんぞうじ ひとし、1886年(明治19年)7月29日 - 1957年(昭和32年)7月9日)は、日本の歌人、小説家、英文学者。鹿児島県生まれ。 鹿児島県日置郡串木野町羽島(現在のいちき串木野市)の裕福な地主の家に生まれる。旧制川内中学から旧制第七高等学校を経て東京帝国大学英文科卒業。東京で与謝野鉄幹に師事し、「明星」、「スバル」に参加、堀口大學から「短編実作者の第一人者」と評された。また石川啄木、高村光太郎、北原白秋、森鷗外らと親交し、東大卒業後は愛媛県西条中学校などで教鞭をとった。 28歳の時、加世田の私有地を売った資金で「我等」を創刊するも下宿の火事により原稿が消失、廃刊。京都に移り住み、「街道」を発行して再起を図るも1944年、戦時統制による紙不足でまたも廃刊、戦後は農地改革により地主としての地位を失い、故郷に戻る願いも叶わず1957年、京都で70年の生涯を終えた。
山川 黙(やまかわ しずか、1886年〈明治19年〉7月26… 山川 黙(やまかわ しずか、1886年〈明治19年〉7月26日 - 1966年〈昭和41年〉2月21日)は、日本の教育者、登山家。旧姓は河田。武田久吉らと日本博物学同志会に参加し、日本山岳会の創始者のひとり。慶応義塾大学教授、旧制武蔵高等学校校長などを務めた。夫人は明治天皇、昭憲皇太后の女官で権掌侍の三千子(子爵久世通章の長女)。 1886年(明治19年)7月26日、東京府四谷区四谷信濃町に生まれる。父は東京市助役を務めた河田烋(かわだ きょう)で、兄は河田烈(かわだ いさお)である。1904年(明治37年)、東京府立第一中学校を卒業する。1905年(明治38年)、日本山岳会の創立発起人となる。
リチャード・クドウ(Richard Roksabro Kud… リチャード・クドウ(Richard Roksabro Kudo, 1886年7月25日 - 1967年6月3日)は、アメリカ合衆国の原生動物学者。日本の徳島県出身で工藤 六三郎(くどう ろくさぶろう)といったがアメリカに帰化した。農学士、理学博士。
髙橋 直作([別表記:高橋直作]たかはし なおさく、1886… 髙橋 直作([別表記:高橋直作]たかはし なおさく、1886年(明治19年)7月25日 - 1976年(昭和51年)1月22日)は、救世軍士官、日本基督教団牧師、社会事業家、小説家。 現在の茨城県土浦市菅谷町に生まれる。父は山中文左衛門、母はこん。次男で出生名は山中直作。1900年、尋常小学校を経て、当時四年制の高等小学校を卒業。地元で漢学を学んだ後、1903年4月1日上京、上野の東京音楽学校 (旧制) 現在の東京藝術大学音楽学部教授吉丸一昌の設立した私塾「修養塾」に学ぶ。入塾間もない頃の写真が右の通り。 1905年8月新規営業の東京電気鉄道(「東京都電車」参照)に入社するも、翌1906年12月当時まだ千葉県佐倉にあった陸軍第1師団歩兵第2連隊に入営、1908年12月に除隊する。
颯田 琴次(さった ことじ、1886年(明治19年)7月24… 颯田 琴次(さった ことじ、1886年(明治19年)7月24日 - 1975年(昭和50年)10月2日)は、耳鼻咽喉科学者、音声学者。 ヴァイオリン演奏では専門家の域に達しており、しばしばプロの交響楽団に加わって演奏したり、声楽家の診断から発声指導まで幅広く行なった。 東京出身。東京帝国大学(現・東京大学)医学部・薬学部卒、東京音楽学校(現・東京芸術大学)卒。1920年東大耳鼻咽喉科教室および生理学教室で研究。1931年「音響刺激に因る耳殻反射運動」で医学博士。1936年小幡重一、石本巳四雄、田口三郎らと日本音響学会を設立。1943年東京帝大医学部教授、1952年東京藝術大学教授、1953年NHK放送文化賞受賞。
谷崎 潤一郎(たにざき じゅんいちろう、1886年(明治19… 谷崎 潤一郎(たにざき じゅんいちろう、1886年(明治19年)7月24日 - 1965年(昭和40年)7月30日)は、日本の小説家。明治末期から第二次世界大戦後の昭和中期まで、戦中・戦後の一時期を除き終生旺盛な執筆活動を続け、国内外でその作品の芸術性が高い評価を得た。現在においても近代日本文学を代表する小説家の一人として、評価は非常に高い。
斎藤 文蔵(さいとう ぶんぞう、1886年(明治19年)7月… 斎藤 文蔵(さいとう ぶんぞう、1886年(明治19年)7月23日 - 1930年(昭和5年)11月6日)は、日本の歴史学者・教育者。 静岡県沼津市出身。第一高等学校を経て、1910年(明治43年)、東京帝国大学文科大学を卒業。維新史料編纂事務局に勤務の後、島津公爵家史料編輯所に勤務した。1922年(大正11年)、山形高等学校教授に就任し、1927年(昭和2年)に東京女子高等師範学校教授・附属高等女学校主事となり、第六臨時教員養成所講師も兼ねた。
安岡 正臣(やすおか まさおみ、1886年(明治19年)7月… 安岡 正臣(やすおか まさおみ、1886年(明治19年)7月21日 - 1948年(昭和23年)4月12日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 鹿児島県、後の川内市(現・薩摩川内市御陵下町)で、安岡正陸軍大尉の息子として生れる。川内中学校、熊本陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1905年(明治38年)11月、陸軍士官学校(第18期)を卒業。翌年6月、歩兵少尉に任官し歩兵第43連隊付となる。陸軍戸山学校で学び、1914年(大正3年)11月、陸軍大学校(第26期)を卒業した。 陸軍省軍務局課員、歩兵第51連隊大隊長、第9師団参謀、歩兵第29連隊付、第16師団参謀、歩兵第49連隊長、第5師団参謀長などを歴任し、1935年(昭和10年)3月、陸軍少将に進級。
藤村 操(ふじむら みさお、1886年(明治19年)7月20… 藤村 操(ふじむら みさお、1886年(明治19年)7月20日 - 1903年(明治36年)5月22日)は、北海道出身の旧制一高の学生。華厳滝で投身自殺した。自殺現場に残した遺書「巌頭之感()」によって当時の学生・マスコミ・知識人に波紋を広げた。 祖父の藤村政徳は盛岡藩士であった。父の胖(ゆたか、政徳の長子)は明治維新後、北海道に渡り、事業家として成功する。 操は、1886年(明治19年)に北海道で胖の長男として生まれ、12歳の札幌中学入学直後まで北海道札幌で過ごした。単身、東京へ移り、開成中学から一年飛び級での京北中学に編入。この間の1899年(明治32年)に父・胖が死亡し、母や弟妹も東京に移り、同居するようになる。
今川 淵(いまがわ ふかし、1886年(明治19年)7月18… 今川 淵(いまがわ ふかし、1886年(明治19年)7月18日 - 1955年〈昭和30年〉)は、台湾総督府官僚。 福井県福井市出身。1912年(明治45年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、翌年に高等文官試験に合格。台湾総督府属、同事務官、台北庁庶務課長、内務局地方課長、殖産局糖務課長、専売局参事・庶務課長などを歴任。一時退官したが、1932年(昭和7年)に台南州知事となり、1936年(昭和11年)に台北州知事に転じた。同年、専売局長に就任し、1939年(昭和14年)に退官した。 退官後は、南方協会常務理事を経て、台湾石炭株式会社社長を務めた。
美土路 昌一(みどろ ますいち、1886年(明治19年)7月… 美土路 昌一(みどろ ますいち、1886年(明治19年)7月16日 - 1973年(昭和48年)5月11日)は、日本のジャーナリスト、実業家。全日本空輸初代社長、朝日新聞社社長を歴任した。号は春泥。 岡山県苫田郡一宮村(現・津山市)に所在する中山神社の社家の長男として生まれる。 津山中学校(現岡山県立津山高等学校)を卒業し、早稲田大学英文科に進むが、家計が苦しくなったため、早稲田を中退。つてをたどって、1908年1月東京朝日新聞社に入社。社会部員となる。1910年、飛行機の日本初飛行を取材したことで、空への関心が芽生える。 1914年8月に日本が第一次世界大戦に参戦すると、従軍記者として青島攻囲軍に参加。
市村 貞造(いちむら ていぞう、1886年(明治19年)7月… 市村 貞造(いちむら ていぞう、1886年(明治19年)7月16日 - 1925年(大正14年)12月26日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→政友本党)。ジャーナリスト。号は紫堂。 茨城県新治郡柿岡町(現在の石岡市)出身。1911年(明治44年)、早稲田大学政治経済科を卒業した。卒業後は郷里に帰り、柿岡郵便局長を務めた。その後『常総新聞』主筆となり、茨城県会議員にも選出された。 1920年(大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。
松平 信子(まつだいら のぶこ、明治19年(1886年)7月… 松平 信子(まつだいら のぶこ、明治19年(1886年)7月15日 - 昭和44年(1969年)5月8日)は、会津藩9代藩主松平容保六男松平恒雄の夫人である。侯爵鍋島直大の四女で、姉に梨本宮妃伊都子がいる。 娘に長女秩父宮妃勢津子、松平容保の兄徳川慶勝の曾孫尾張徳川家第20代当主徳川義知に嫁いだ次女徳川正子がいる(正仁親王妃華子の父津軽義孝は、尾張徳川家分家男爵徳川義恕の次男である)。長男松平一郎の息子恒孝は徳川宗家に養子に入り18代目を継いだ。 妹松平俊子は高松松平家第12代当主伯爵松平賴壽の弟・海軍大佐松平胖と結婚し日本女子高等学院及び附属昭和高等女学校の第2代院長・校長を勤めた。俊子の長女誠子は公族李鍵公妃であった。
佐々 紅華(さっさ こうか、1886年7月15日 - 196… 佐々 紅華(さっさ こうか、1886年7月15日 - 1961年1月18日)は、日本の作曲家である。本名は佐々 一郎(さっさ いちろう)。作詞も行なった作品があり、歌劇の台本も書き、グラフィックデザイナーでもあった。 1886年(明治19年)7月15日、東京府東京市下谷区根岸(現在の東京都台東区根岸)に生まれた。祖父は富山藩士、父の佐々高信は分家し、三井物産の社員となり1900年頃から周旋屋となった。紅華が4歳の時、一家で横浜市に転居、旧制・横浜小学校(1946年統合廃校)、旧制・神奈川第一中学校(現在の神奈川県立希望ヶ丘高等学校)を経て、浅草区蔵前にあった旧制・東京高等工業学校(現在の東京工業大学)工業図案科に進学した。
米倉 昌達(よねくら まさよし / まさたつ、1886年(明… 米倉 昌達(よねくら まさよし / まさたつ、1886年(明治19年)7月15日 - 1937年(昭和12年)2月17日)は、大正から昭和期の薬学者、政治家、華族。貴族院子爵議員。旧姓・山口、旧名・重士。 子爵・山口弘達の三男として生まれ、1913年(大正2年)子爵・米倉昌臧の養子となり、同年3月、昌達と改名。養父の死去に伴い、1916年(大正5年)12月20日、子爵を襲爵した。 1911年(明治44年)東京帝国大学医科大学薬学科を卒業。さらに1916年、同大学医学科を卒業した。 1917年(大正6年)東京帝国大学伝染病研究所技手に就任。以後、同大学医科大学化学教室副手、同附属医院分院薬局長、日本医学専門学校教授兼学生監、千葉医科大学講師、京都薬学専門学校校長、昭和女子薬学専門学校校長、日本医科大学教授、同校学生監兼予科主任などを務めた。
塚田 攻(つかだ おさむ、1886年7月14日 - 1942… 塚田 攻(つかだ おさむ、1886年7月14日 - 1942年12月18日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。
田村 徳治(たむら とくじ、1886年7月14日 - 195… 田村 徳治(たむら とくじ、1886年7月14日 - 1958年11月25日)は、日本の行政学者・政治学者。蠟山政道と並ぶ日本の行政学創始者の一人。博士(法学)(京都帝国大学)。 秋田県鹿角郡花輪町(現在の鹿角市)生まれ。秋田師範学校では土田誠一・菊地寅七とともにクラスの三羽烏に数えられた。4年間級長を務め、1907年卒業。1913年、東京高等師範学校英語科卒業。1916年、京都帝国大学法科大学卒業、京都帝国大学大学院(旧制)特別研究生。 のちに、京都帝国大学法学部助手。1920年、京都帝国大学法学部助教授に就任。1922年、ドイツ・イギリス・フランス・アメリカに2年間留学。1924年、京都帝国大学法学部教授に就任。
内藤 智秀(ないとう ちしゅう、1886年(明治19年)7月… 内藤 智秀(ないとう ちしゅう、1886年(明治19年)7月13日 - 1984年(昭和59年)7月24日)は、日本の西洋史学者。文学博士。庄内町名誉町民。パキスタン協会副会長。 1886年(明治19年)7月13日、山形県東田川郡余目町古関(現・庄内町)の寺院・玄通寺に生まれる。荘内中学校(現・山形県立鶴岡南高等学校)卒業、第七高等学校造士館(現・鹿児島大学)を経て、1912年(明治45年)7月10日、東京帝国大学文学部西洋史学科を卒業。 卒業後は、鹿児島県の中学校教員、東京大学図書館司書、山形高等学校(現・山形大学)教授を経て、外務省に入省。トルコ、イラン、アラビアなどで勤務しつつ、中東文化を研究した。
三代目 市川 壽海(いちかわ じゅかい、新字体:寿海、188… 三代目 市川 壽海(いちかわ じゅかい、新字体:寿海、1886年(明治19年)7月12日 - 1971年(昭和46年)4月3日)は、大正から昭和にかけて活躍した歌舞伎役者。屋号は成田屋。定紋は壽海老、替紋は蝙蝠。位階は従四位。勲三等旭日中綬章。本名は太田 照造(おおた しょうぞう)。 「三代目」とはいいながら、この「市川壽海」の名跡を襲名したのはこの太田照造ただ一人なので、かれのことを単に市川壽海(いちかわ じゅかい)と呼ぶことが多かった。 主に関西歌舞伎を中心に舞台を務め、初代中村鴈治郎・中村魁車・三代目中村梅玉らの死後は、三代目阪東壽三郎と並んで「双壽時代」と呼ばれる一時代を築く。 東京府東京市日本橋区日本橋蛎殻町の仕立職・中村力蔵の子として生まれる。
井上 知治(いのうえ ともはる、1886年(明治19年)7月… 井上 知治(いのうえ ともはる、1886年(明治19年)7月9日 - 1962年(昭和37年)9月19日)は、日本の政治家。位階は従三位、勲等は勲一等。国務大臣。 鹿児島県頴娃郡郡村(揖宿郡頴娃村、頴娃町を経て現南九州市)に生まれる。旧制宮崎県立都城中学校(現:宮崎県立都城泉ヶ丘高等学校)、第七高等学校造士館を経て、1917年(大正6年)東京帝国大学法学部政治学科を卒業。鈴木商店社員、読売新聞記者を経て、1930年(昭和5年)第17回衆議院議員総選挙に立憲政友会所属で鹿児島県第1区から立候補し初当選。以後通算当選7回。政友会では床次竹二郎派、中島知久平派に所属した。 戦後は日本進歩党、民主党、同志クラブ、民主自由党、自由党、自由民主党と渡り歩き、1946年(昭和21年)第22回総選挙では進歩党公認で、翌1947年(昭和22年)第23回総選挙では民主党公認で、1949年(昭和24年)第24回総選挙では民自党公認で当選している。
亀高 文子(かめたか ふみこ、1886年〈明治19年〉7月9… 亀高 文子(かめたか ふみこ、1886年〈明治19年〉7月9日 - 1977年〈昭和52年〉9月16日)は、明治 - 昭和時代の洋画家。 1886年(明治19年)に横浜で生まれた。 1902年(明治35年)女子美術学校洋画科に入学。 1907年(明治40年)女子美術大学卒業後、東京勧業博覧会に行き、満谷国四郎の作品に感銘を受け、師事する。その後太平洋画研究会にて、中村不折からデッサンを学ぶ。 1909年(明治42年)に第3回文展に初出品。その際に出品した「白かすり」が入選した。 1911年(明治44年)に第5回文展に「読書」を出品。こちらも入選した。 1913年(大正2年)に第7回文展に「離れゆく心」を出品。
斉藤 惣一(さいとう そういち、1886年7月9日 - 19… 斉藤 惣一(さいとう そういち、1886年7月9日 - 1960年7月5日)は、日本キリスト教青年会(YMCA)同盟総主事である。日本のJ・R・モットと言われた。 1886年(明治19年)福岡県企救郡大里村に生まれる。第五高等学校を卒業し、東京帝国大学文学部で学ぶ。1911年(明治44年)東京帝国大学を卒業後に、第五高等学校で英文学の教授になる。ジョン・モット、G・M・フィッシャーの影響を受けて、1917年(大正6年)に教師を辞職して、YMCA同盟主事に就任する。1921年(大正10年)には総主事になる。 1924年(大正13年)から10年間、東京キリスト教青年会総主事に就任して、関東大震災後の復興のために尽力する。
中田 章(なかだ あきら、1886年(明治19年)7月8日 … 中田 章(なかだ あきら、1886年(明治19年)7月8日 - 1931年(昭和6年)11月27日)は日本の作曲家、オルガニスト 、教育者。代表曲は「早春賦」であり、「日本の歌百選」に選ばれている。東京音楽学校(現在の東京芸術大学)教授。 東京都出身で高嶺秀夫の奨めによって東京音楽学校に進み、甲種師範科および研究科卒業。東京音楽学校教授として音楽理論、オルガンを教えた。 また、大韓帝国皇太子に唱歌を教授する。1929年、大礼記念章を受章。父は旧会津藩士。妻は奥村土牛の従姉で、作曲家の中田一次は次男、中田喜直は三男。会津会会員。
小栗 一雄(おぐり かずお、1886年7月8日 - 1973… 小栗 一雄(おぐり かずお、1886年7月8日 - 1973年1月20日)は、日本の内務官僚。県知事、警視総監。 静岡県出身。小栗平七郎の四男として生まれる。静岡中学、第一高等学校を経て、1911年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業し、農商務省に入り東京大林区署に配属される。同年10月、文官高等試験行政科試験に合格。その後、山林事務官補となる。 1914年4月、同郷出身の一木喜徳郎文部大臣の秘書官に就任し文部省参事官を兼務。1915年8月、一木大臣の内務大臣へ異動に伴い内務大臣秘書官に就任。1916年10月、京都府視学官となり、東京府視学官、奈良県警察部長、長崎県警察部長、警視庁衛生部長、警視庁保安部長、大阪府書記官・警察部長、兵庫県書記官・内務部長、大阪府書記官・内務部長などを歴任。
熊谷 敬一(くまがい けいいち、1886年7月8日 - 19… 熊谷 敬一(くまがい けいいち、1886年7月8日 - 1962年1月17日)は、日本の陸軍軍人。第15師団長、留守第4師団長を歴任する。階級は陸軍中将。勲一等。 静岡県出身。静岡県立静岡中学校を経、1907年(明治40年)5月31日、陸軍士官学校を卒業。同年12月26日、陸軍歩兵少尉に任官 。1917年(大正6年)、陸軍大学校(29期)卒業。1922年(大正11年)12月12日、大尉の時、アメリカ大使館付武官補佐官に就任し、1924年(大正13年)10月14日までこの職に在る。以後歩兵将校として累進し、1931年(昭和6年)8月1日、陸軍大佐・陸軍歩兵学校教官を命ぜられる。翌年8月8日鳥取連隊区司令官に移る。
花井 又太郎(はない またたろう、1886年7月6日 - 1… 花井 又太郎(はない またたろう、1886年7月6日 - 1974年12月7日)は、日本の都市計画家。土木技術者。愛知県宝飯郡赤坂村生まれ。 1913年(大正2年)東京帝国大学工科大学土木工学科卒業。朝鮮総督府勤務の後、1920年から大阪市に転じ、都市計画部技術課長や大阪市地下鉄の初代建設事務所長を務める。 1931年(昭和6年)から懇願されて名古屋市土木部長に迎えられる。1939年には土木局長。1942年から終戦までは市助役を務めている(後任は田淵寿郎)。その間に名古屋駅前土地区画整理事業や東山公園開設、中川運河開削事業といった都市計画事業を推進するかたわら、都市計画地方委員会愛知委員会各種委員をつとめる。
平野 復男(ひらの またお、1886年(明治18年)7月5日… 平野 復男(ひらの またお、1886年(明治18年)7月5日 - 没年不明)は、日本の実業家。平野大豆工業元社長。大日本紡績(現:ユニチカ)元取締役。日本製粉(現:ニップン)元取締役。 石川県金沢市出身。大聖寺藩士であった上杉寛二の四男(または三男)として生まれる。兄は憲法学者で東京帝国大学教授の上杉慎吉。 1909年(明治42年)東京帝国大学法科大学英法科を優等の成績で卒業し、同年高等文官試験に合格。神奈川県に奉職し、理事官を務める。1910年(明治43年)辞職。 その頃、たまたま縁戚にあたるユアサコーポレーション創業者の湯浅七左衛門(早川千吉郎の弟)の紹介で、摂津紡績(現:ユニチカ)取締役を務めた平野平兵衛(金沢仁作の弟)の長女・いちと結婚。
奥村 栄同(おくむら てるあつ、1886年(明治19年)7月… 奥村 栄同(おくむら てるあつ、1886年(明治19年)7月5日 - 1944年(昭和19年)12月30日)は、大正から昭和期の華族(男爵)。 加賀藩重臣奥村宗家第14代当主奥村栄滋の子として生まれる。1923年5月10日、父の死去に伴い男爵を襲爵した。 早稲田大学を卒業し金沢市役所に勤務した。 永福 - 栄明 - 栄政 - 栄清 - 時成 - 有輝 - 有定 - 修古 - 栄輇 - 尚寛 - 栄実 - 栄親 - 栄通 - 栄滋 - 栄同 - 純松 - 栄純 易英 - 庸礼 - 悳輝 - 明敬 - 温良 - 保命 - 易直 - 煕殷 - 成象 - 隆振 - 質直 - 惇叙 - 直温 - 篤輝 - 則友 - 則英 - 内膳 - 弘 - 隆弘
橋本 忠太郎(はしもと ちゅうたろう、明治19年(1886年… 橋本 忠太郎(はしもと ちゅうたろう、明治19年(1886年)7月3日 - 昭和35年(1960年)2月5日)は、明治から昭和にかけての植物学者、教師。滋賀県女子師範学校等で教鞭をとりつつ滋賀県下の植物調査を行った。 明治19年(1886年)7月3日に滋賀県蒲生郡北比都佐村大字十禅師(現滋賀県蒲生郡日野町十禅師)にて誕生。 明治39年(1906年)滋賀県立彦根中学(現滋賀県立彦根東高等学校)、明治44年(1910年)滋賀県師範学校(現滋賀大学教育学部)二部を卒業した。その後、郷里の北比都佐小学校(現日野町立必佐小学校)の教員となり、大正10年(1921年)中学校教員試験検定に合格し翌11年(1922年)より滋賀県女子師範学校、県立大津高等女学校の教諭となった。