田中 織之進(たなか おりのしん、1911年2月27日 - … 田中 織之進(たなか おりのしん、1911年2月27日 - 1978年3月2日)は、和歌山県の被差別部落出身の政治家、新聞記者、部落解放運動家。衆議院議員。 九州帝国大学法学部卒。読売新聞社政経部次長の時に日本の敗戦を迎え、1947年、第23回衆議院議員総選挙に日本社会党から出馬して当選。この選挙で当選した部落出身議員には、ほかに田中松月、松井豊吉、吉川兼光、加藤静雄、宮村又八がいた。以後、社会党左派の議員として8選を重ね、日米安保反対派として論陣を張る。 1966年、貿易商社の不正輸出事件に絡み東京地検に恐喝容疑で起訴され、7年後に無罪が確定。この事件を機に社会党を離れ、無所属となる。 かたわら、部落解放全国委員会常任中央委員、部落解放同盟和歌山県連委員長、部落解放同盟常任中央委員、同書記長を歴任。
岡本 太郎(おかもと たろう、1911年〈明治44年〉2月2… 岡本 太郎(おかもと たろう、1911年〈明治44年〉2月26日 - 1996年〈平成8年〉1月7日)は、日本の芸術家・作家。 1930年(昭和5年)から1940年(昭和15年)までフランスで過ごし、抽象美術運動やシュルレアリスム運動とも接触した。 岡本太郎(以下岡本と表記)は神奈川県橘樹郡高津村大字二子(現在の川崎市高津区二子)で、漫画家の岡本一平、歌人で小説家・かの子との間に長男として生まれる。血液型はO型。父方の祖父は町書家の岡本可亭であり、当時可亭に師事していた北大路魯山人とは家族ぐるみの付き合いがあった。 父・一平は朝日新聞で「漫画漫文」という独自のスタイルで人気を博し、「宰相の名は知らぬが、一平なら知っている」といわれるほど有名になるが、付き合いのため収入のほとんどを酒代に使ってしまうほどの放蕩ぶりで、家の電気を止められてしまうこともあった。
山本 幸雄(やまもと さちお、1911年〈明治44年〉2月2… 山本 幸雄(やまもと さちお、1911年〈明治44年〉2月26日 - 2007年〈平成19年〉2月6日)は、日本の政治家、内務・建設官僚。位階は従三位。 衆議院議員(7期)。自治大臣(第32代)、国家公安委員会委員長(第41代)を歴任した。 現在の三重県桑名市に生まれる。旧制富田中学、松本高等学校文科甲類を経て1933年(昭和8年)に東京帝国大学法学部政治科に入学。在学中に高等文官試験行政科に合格し、1936年、大学卒業。 1936年、内務省に入省する(同期に山田正雄陸上幕僚長)。入省後、愛媛県で別子銅山の公害調査、富山県で内務省高等官として都市計画等の地方行政に携わる。終戦後の1946年、当時内務政務次官であった世耕弘一の下、経済警察の立場で隠退蔵物資摘発に携わった後、神奈川県国家地方警察隊長、国家地方警察本部人事課長、防衛庁人事局長、警察庁長官官房長、大阪府警察本部長、建設省官房長を務め、建設事務次官を最後に退官。
藤本 熊雄(ふじもと くまお、1911年〈明治44年〉2月2… 藤本 熊雄(ふじもと くまお、1911年〈明治44年〉2月26日 - 1984年〈昭和59年〉10月25日)は、日本の政治家。元大分県東国東郡姫島村長。 旧制国東中学、明治大学を卒業。1934年(昭和9年)に満州に渡り満州国官吏となった。終戦後、故郷姫島に引き揚げ、1951年(昭和26年)に村議会議員に初当選し、議長に就任した。 村では1955年(昭和30年)の村長選挙が島を2分する激しい争いとなり村内にしこりを残したため、2年後の1957年(昭和32年)に村長辞任に伴って行われた選挙以来、2016年(平成28年)まで村長選挙での無投票が続いた。藤本は、村議会議長を務めていた1960年(昭和35年)に行われた村長選挙に立候補し、無投票当選して以来、1984年(昭和59年)に急死するまで、すべて無投票で7期にわたって姫島村長を務めた。
上野 季夫(うえの すえお、1911年(明治44年)2月26… 上野 季夫(うえの すえお、1911年(明治44年)2月26日 - 2011年(平成23年)10月19日)は、日本の物理学者(理学博士)。専門は天体物理学で、輻射輸達方程式の厳密解法における、世界的権威を成し遂げた。京都大学名誉教授、金沢工業大学名誉教授。東京府東京市(現在の東京都区部)出身。 1911年(明治44年)、東京市生まれ。京都帝国大学理学部宇宙物理学科へ進学、1937年(昭和12年)に卒業。在学中は同じ物理学者の荒木俊馬に師事。その後、7年間技術将校として陸軍に従事(1945年(昭和20年)陸軍少佐)し、1946年(昭和21年)京都大学理学部宇宙物理学教室に復帰。 教室復帰後、理学部講師、助教授を経て、1959年(昭和34年)から京都大学理学部教授(天体物理学担当)。
三宅 静雄(靜雄、みやけ しずお、1911年(明治44年)2… 三宅 静雄(靜雄、みやけ しずお、1911年(明治44年)2月26日 - 1999年(平成11年)7月31日)は、日本の物理学者。専門は結晶物理学。東京大学物性研究所第3代所長。東京大学名誉教授。岡山県岡山市生まれ。位階は正四位。 静岡県立静岡中学校、旧制静岡高等学校を経て、1933年(昭和8年)、東京帝国大学理学部物理学科卒業。同年3月、理学部助手、1934年(昭和9年)、理化学研究所研究生、1940年(昭和15年)、小林理学研究所研究員、1942年(昭和17年)、理学博士(東京帝国大学)。1949年(昭和24年)東京工業大学教授、1957年(昭和32年)東京大学物性研究所教授、1965年(昭和40年)、同所長、1971年(昭和46年)定年退職、東京大学名誉教授。
新谷 要二(しんたに ようじ、1911年(明治44年)2月2… 新谷 要二(しんたに ようじ、1911年(明治44年)2月26日 - 没年不明)は、日本の実業家、政治家。山口県議会副議長。千鳥水産代表取締役。旭洋造船取締役。山口県輸出スダレ協同組合理事長。山口県漁業生産組合長。下関漁港管理委員。下関水産振興協会・山口県遠洋底曳網漁業協会下関支部各理事。 山口県萩市出身。中央大学中退。1951年、山口県議会議員に当選。住所は山口県萩市唐樋町。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
伊達 正男(だて まさお、1911年2月25日 - 1992… 伊達 正男(だて まさお、1911年2月25日 - 1992年8月30日)は、東京六大学野球・社会人野球で活躍した野球選手である。右投右打。 旧制市岡中学(現大阪府立市岡高等学校)2年時から野球を始め、全国大会に4度出場。ポジションは捕手で、時にマウンドにも登った。神戸高等商業学校(現・神戸大学)を受ける予定だったが市岡中の大先輩だった佐伯達夫から薦められて第二早稲田高等学院に進学した(のち早稲田大学商学部に進む)。 入学早々1928年東京六大学野球春季リーグ戦で32打数15安打、打率.469の高率で首位打者を獲得した。1年生春の首位打者は伊達が初めてで、その後1992年の早大・大森篤まで現れなかった。
鳥井 博郎(とりい ひろお/はくろう、1911年2月25日 … 鳥井 博郎(とりい ひろお/はくろう、1911年2月25日 - 1953年11月20日)は、日本の思想史家。 兵庫県神戸市出身。1934年東京帝国大学文学部哲学科卒。1933年唯物論研究会に参加。1934年三枝博音の「日本哲学全書」「日本科学古典全書」編集に協力。治安維持法違反で検挙され、拘留中の39年応召、病気で除隊となる。戦後は鎌倉アカデミア教授を務め、唯物論の立場から日本宗教史、明治思想史などを研究したが41歳で死去した。
山口 義夫(やまぐち よしお、1911年2月25日 - 20… 山口 義夫(やまぐち よしお、1911年2月25日 - 2005年8月29日)は、日本の経営者。日立運輸東京モノレール社長、会長を務めた。秋田県出身。 1935年に東京帝国大学法学部法律学科を卒業し、同年4月に日立製作所に入社。1965年11月に理事に就任し、1969年5月に日立運輸東京モノレール副社長に就任し、1970年5月には社長に昇格。1980年6月に相談役、1990年6月に特別顧問を経て、1995年6月には名誉相談役に就任。 1980年6月に運輸大臣表彰を受け、1981年11月に勲四等瑞宝章を受章。 2005年8月29日、急性肺炎のために死去。94歳没。
伊藤 清永(いとう きよなが、1911年2月24日 - 20… 伊藤 清永(いとう きよなが、1911年2月24日 - 2001年6月5日)は、昭和から平成にかけての日本の洋画家である。白日会、日展を中心に活躍した。日本芸術院賞恩賜賞受賞者(1976年)、文化勲章受章者(1996年)。 作風は一貫して女性美を追求した。また豊岡市立美術館「伊藤清永記念館」による伊藤の人物解説によれば「繊細な色線を無数に重ねて描き出される豊麗優美な裸婦像で知られる」「70年近い画業の中で、一貫して女性美の表現技法を追求し、温かみのある独自の画風を築いて見る人を魅了している」と説明されている。 1911年(明治44年)2月24日、兵庫県出石郡下谷(現豊岡市出石町下谷)に生まれる。
平戸灘 常吉(ひらとなだ つねきち、1911年2月24日 -… 平戸灘 常吉(ひらとなだ つねきち、1911年2月24日 - 没年不明)は、昭和時代の大相撲力士。山分部屋所属。本名は松本 政雄。最高位は十両6枚目。 佐賀県東松浦郡鎮西町(現唐津市)出身。山分部屋に入門し、1930年10月「白鷺」の四股名で初土俵を踏む。1937年5月十両に昇進。十両の中位から下位にとどまった。1941年5月に「平戸灘」と改名したが、翌1942年1月全休し、そのまま廃業した。
釜洞 醇太郎(かまほら じゅんたろう、1911年2月23日 … 釜洞 醇太郎(かまほら じゅんたろう、1911年2月23日 - 1977年4月13日)は、日本の病理学者。元大阪大学総長。大阪市生まれ。 旧制大阪府立住吉中学校(現・大阪府立住吉高等学校)、旧制大阪高等学校を経て1936年、大阪帝国大学医学部卒業。同年12月、陸軍軍医に任命。1946年の復員まで中国戦線に従軍。1949年、大阪大学医学部講師。1952年、大阪大学微生物病研究所助教授、翌年同教授。1958年~69年、同所長を務めた。1969年〜75年、大阪大学総長。1977年4月13日、心筋梗塞のため死去。叙従三位、勲一等瑞宝章追贈。 1969年より大阪大学第9代総長を務めた。当時の大学紛争に対しては毅然と対処した一方、改革を推進し、人間科学部、溶接工学研究所、言語文化部、文学部日本学講座を創設した。
中川 赳(なかがわ たけし、1911年(明治44年)2月22… 中川 赳(なかがわ たけし、1911年(明治44年)2月22日 - 1991年(平成3年)3月20日)は日本の実業家、元明治製菓社長・会長。東京都出身。
久保 昌二(くぼ まさじ、1911年〈明治44年〉2月21日… 久保 昌二(くぼ まさじ、1911年〈明治44年〉2月21日 - 1994年〈平成6年〉12月4日)は、日本の化学者。京城帝国大学、第一高等学校、名古屋大学教授。専門は物理化学。 1932年(昭和7年)、東京帝国大学卒業。1938年、理学博士。 台北帝国大学講師、東京帝国大学講師、京城帝国大学教授、第一高等学校教授を歴任。 1948年(昭和23年)、名古屋大学教授。
廣幡 憲(ひろはた けん、1911年2月21日 - 1948… 廣幡 憲(ひろはた けん、1911年2月21日 - 1948年10月9日)は、昭和時代に活動した日本の洋画家である。主に抽象画を描いた。残されている作品は少ない。 1911年(明治44年)2月21日、秋田県仙北郡中仙町字大清水(現・大仙市)に高橋幸之助、エシの二男として生まれた。本名は憲太郎である。4人兄弟である。 1918年(大正7年)に清水尋常小学校(現・大仙市立清水小学校)に入学、その後、小学2年の夏に養子話が持ち上がり、1919年(大正8年)9月19日、養子縁組の手続きがとられた。これは、母の妹で男鹿市脇本の本明寺に嫁いだ叔母のトヨに子がなかったためである。養父は廣幡耕道、憲太郎は養子に入ってから名前を憲導と改めた。
加藤 艮六(かとう こんろく、1911年(明治44年)2月2… 加藤 艮六(かとう こんろく、1911年(明治44年)2月21日 - 2002年(平成14年)5月8日)は、日本の医師。伊勢市長(3期)。 大分県出身。1934年(昭和9年)日本医科大学卒。京都大学耳鼻咽喉科教室を経て、日本赤十字社三重支部山田病院に勤務し、同病院副院長兼耳鼻咽喉科長などを務める。1972年(昭和47年)5月、伊勢市長選挙に当選、老人医療費無料化を実現させた。市政では医療、福祉面での政策に力を入れ、市内の小中学校の鉄筋化、清掃工場の建設、スポーツ施設の整備などあらゆる政策を遂行した。さらにモットーである「市民のための市政」を推進し、産業、教育、福祉の充実に力点を置いた。1984年(昭和59年)5月に市長を退任。
中川 弘(なかがわ ひろむ、1911年(明治44年)2月20… 中川 弘(なかがわ ひろむ、1911年(明治44年)2月20日 - 2011年3月14日)は、日本の政治家。第9代福山市長(1期)。 広島県沼隈郡神島村(現福山市)出身。1928年(昭和3年)3月、広島県立福山誠之館中学校(現広島県立福山誠之館高等学校)を卒業。蚕糸、削鰹製造業にたずさわる。1940年(昭和15年)3月、中国に渡り天津市で藁工品製造業を営んだ。1945年(昭和20年)、現地応召。 1946年(昭和21年)6月、引き揚げ。公職追放を受けていた元衆議院議員の宮澤裕の薫陶を受けて政治に関与するようになる。 1947年(昭和22年)4月、福山市議会議員に初当選。1951年(昭和26年)4月には広島県議会議員となり、以来1979年(昭和54年)まで連続8回当選を重ねた。
松村 正直(まつむら まさなお、1911年2月20日 - 2… 松村 正直(まつむら まさなお、1911年2月20日 - 2009年7月18日)は、日本の経営者。三菱倉庫社長、会長を務めた。富山県西礪波郡福光町(現・南砺市)出身。政治家の松村謙三の長男。 1934年に京都帝国大学法学部を卒業し、同年に三菱倉庫に入社。1962年に取締役に就任し、1966年に常務を経て、1968年から1977年までに社長を務めた。 2009年7月18日、心不全のために死去。98歳没。
加東 大介(かとう だいすけ、本名:加藤 徳之助、1911年… 加東 大介(かとう だいすけ、本名:加藤 徳之助、1911年2月18日 - 1975年7月31日)は、日本の俳優。 東京市浅草区(現:東京都台東区)生まれ。身長160cm。東京府立第七中学校(現・東京都立墨田川高等学校)卒。歌舞伎役者を経て映画デビュー。代表作は『七人の侍』、『大番』、『南の島に雪が降る』。 父親は宮戸座の座付き作者で演出助手であった竹芝傳蔵(黙阿弥の門弟)、兄は四代目沢村国太郎、姉には福祉運動家の矢島せい子と沢村貞子がいる。従兄弟に五代目嵐芳三郎(傳蔵の姉の子)、甥には長門裕之、津川雅彦の役者一家。息子・加藤晴之は、黒澤明の娘・黒澤和子と結婚して孫・加藤隆之(俳優)が産まれるが離婚している。
平川 篤雄(ひらかわ とくお、1911年(明治44年)2月1… 平川 篤雄(ひらかわ とくお、1911年(明治44年)2月18日 - 1996年(平成8年)6月29日)は、昭和期の教育者、政治家。衆議院議員。 広島県出身。1934年(昭和9年)東京帝国大学文学部国文科を卒業した。 以後、新潟県師範学校教諭、広島県師範学校教諭、三原女子師範学校附属主事、広島高等師範学校講師、広島県地御前国民学校長、同緑井国民学校長、広島昭和高等女学校(現比治山女子中学校・高等学校)教頭を歴任した。 1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙で広島県全県区に無所属で出馬して初当選。1947年(昭和22年)4月の第23回総選挙で広島県第1区に国民協同党公認で出馬して落選。
児玉 誉士夫(こだま よしお、1911年〈明治44年〉2月1… 児玉 誉士夫(こだま よしお、1911年〈明治44年〉2月18日 - 1984年〈昭和59年〉1月17日)は、日本の右翼運動家。 CIAエージェントを自称していた。暴力団・錦政会顧問。太平洋戦争中に海軍航空本部のために物資調達を行い、終戦時までに蓄えた物資を占領期に売り捌いて莫大な利益を得た。この資金で戦後分裂状態にあった右翼を糾合し、数多くの大物政治家に政治資金を提供していた。日韓国交正常化交渉に関与した。「政財界の黒幕」や「政財界のフィクサー」と呼ばれた。 戸籍上は、福島県安達郡本宮町中條45番地(現:本宮市本宮中條)に生まれたという。父の酉四郎の旧姓は山田といい、上杉家の家臣であった山田彦右衛門の子兵太夫が丹羽長重に仕え、以降、兵蔵 - 為貞 - 貞常 - 為英 - 為栄 - 為芳と続いた。
川越 博(かわごえ ひろし、1911年(明治44年)2月17… 川越 博(かわごえ ひろし、1911年(明治44年)2月17日 - 1968年(昭和43年)11月9日) は、昭和期の新聞記者、政治家、秘書官。衆議院議員(2期)。 宮崎県北諸県郡都城町(現都城市)で生まれた。1932年(昭和7年)青山学院高等学部(現青山学院大学)英語師範科を卒業した。 報知新聞社に入社し政治部記者となる。その後、東亜研究所嘱託、日本興亜同盟書記、輿論科学研究所理事、日向青年同志会常任委員などを務めた。 戦後、1946(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙に宮崎県全県区から日本協同党公認で出馬して落選したが、甲斐政治の辞職に伴い同年7月に繰上補充となった。1947(昭和22年)4月の第23回総選挙で宮崎県第2区から国民協同党公認で出馬して再選され、衆議院議員に連続2期在任した。
和井田 要(わいだ かなめ、1911年〈明治44年〉2月17… 和井田 要(わいだ かなめ、1911年〈明治44年〉2月17日 - 1967年〈昭和42年〉6月9日)は、日本の書家である。 青森県三戸郡八戸町(現在の八戸市)に生まれ、八戸水産学校中退後に第二次世界大戦中は従軍する。戦後は復員したことにより書家として活動師匠を持たずに独自の作風を執筆し、1949年(昭和24年)に前衛書道的な甲骨文字の書体を発表した。その後は和井田は従来の紙や墨を用いずに、ガラスやキャンバスにアクリル絵具やラッカー等を用いる等日本の書家としては極めて珍しい作風の作品を制作した事により名を馳せる。 後に自身の作品は毎日書道展やニューヨーク展、ヨーロッパ展等に出品され日本のみならず海外にも注目を浴びた。
佐山 亮(さやま りょう、1911年2月16日 - 1945… 佐山 亮(さやま りょう、1911年2月16日 - 1945年)は、日本の俳優である。本名は板倉 與志雄(いたくら よしお)。戦前・戦中にかけて東宝映画東京撮影所、東宝映画の名脇役として活躍していたが、満34歳で戦病死している。 1911年(明治44年)2月16日、千葉県山武郡に生まれる。 千葉県立長生中学校(現在の千葉県立長生高等学校)を卒業後、東京美術学校(1952年廃止)を経て、太平洋美術学校(現在の太平洋美術会)に進学。1928年(昭和3年)4月、三ヶ年修了後は太平洋洋画会などの洋画研究所を転々とする傍ら、学生同士で新劇の劇団を組織して各座に出演していた。 1934年(昭和9年)11月、映画俳優を志し、松竹大船撮影所の開所に伴う俳優募集に応募したところ、佐山は第一候補者に挙げられ、1936年(昭和11年)に開校されて間もない松竹大船俳優学校に入学し、修業に励む。
熊谷 寛夫(くまがい ひろお、1911年2月16日 - 19… 熊谷 寛夫(くまがい ひろお、1911年2月16日 - 1977年11月5日)は、日本の物理学者。学位は、理学博士(1939年)。日本物理学会会長・日本学術会議委員を歴任。世界初の「可変エネルギーサイクロトロン」を完成させ、「高エネルギー物理学の父」と言われる。長野県東筑摩郡寿村(現・松本市)生まれ。旧姓青木。1978年勲二等追叙。
千葉 早智子(ちば さちこ、1911年2月16日 - 199… 千葉 早智子(ちば さちこ、1911年2月16日 - 1993年10月22日)は、日本の元女優。PCL(後の東宝)の主演女優第1号。映画監督の成瀬巳喜男は元夫。広島県芦品郡新市町(現在の同県福山市)出身。本名:千葉 鶴子。 広島市立高等女学校(現・広島市立舟入高等学校)卒業。明眸、豊麗なマル顔全体が大輪咲きの花となって微笑みかけて来るような絢爛たる美貌と、育ちのいいお嬢さん然として品位に加え、幼児から邦楽、洋楽どちらにも親しんだ音楽的素養も深く、殊に箏は宮城道雄について本格的に学び、尺八の吉田晴風と組んでアメリカに演奏旅行(1931年~1932年)をしたこともあるという多彩な経歴の持ち主。 1933年、新映画社の『叫ぶアジア』で純情可憐な中国娘役で映画デビュー。
野瀬 正儀(のせ まさのり、1911年(明治44年)2月16… 野瀬 正儀(のせ まさのり、1911年(明治44年)2月16日 - 2002年(平成14年)7月17日)は、昭和から平成時代の土木工学者。実業家。電源開発副総裁。 兵庫県出身。1936年(昭和11年)東京帝国大学工学部土木工学科を卒業し、富士電力、日本発送電を経て、関西電力に入社する。 水力計画課長、建設部次長を経て、1954年(昭和29年)電源開発土木部次長に出向し、佐久間、御母衣ダムなどの建設にあたる。 1959年(昭和34年)関西電力へ移り黒四建設事務所長として黒四ダムを完成させる。のち同社支配人、常務、1971年(昭和46年)専務取締役を経て、1975年(昭和50年)電源開発副総裁、1983年(昭和58年)退任。
中村 七十(なかむら しちじゅう、1911年2月16日 - … 中村 七十(なかむら しちじゅう、1911年2月16日 - 1941年10月20日)は、日本の彫刻家。本名は、中村永男。 長野県上伊那郡朝日村(現・辰野町)出身。宮大工の家系に生まれ、幼少のころから、宮大工・彫刻家の父七十郎(董斎)の下で木彫を学んだ。高等科卒業後、彫刻の道を志して上京し、木彫家の清水三重三に師事。のちに構造社を主宰した斎藤素巌に師事。1929年東京美術学校彫刻科塑像部選科(現・東京藝術大学美術学部彫刻科)入学。専ら木彫が多かったが次第に塑造作品へと移り、1933年在学中に「女の首」が帝展(現・日展)に初入選。当時は在学中の帝展出品はタブー視されており、父「七十郎」の名前の二文字を借りて出品した。
水野 衛夫(みずの もりお、1911年2月16日 - 198… 水野 衛夫(みずの もりお、1911年2月16日 - 1987年3月22日)は、日本の経営者。安田生命保険社長を務めた。 東京都出身。1922年に東京商科大学を卒業し、同年に安田銀行に入行。1959年5月に安田生命保険に転じ、常務、専務、副社長を経て、1969年に社長に就任した。 1974年10月に藍綬褒章を受章し、1981年4月に勲三等旭日中綬章を受章した。 1987年3月22日、肺炎のために死去。76歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
細入藤太郎(ほそいり とうたろう、1911年2月16日 - … 細入藤太郎(ほそいり とうたろう、1911年2月16日 - 1993年12月29日)は、日本のアメリカ文学者、アメリカ史学者。元立教大学教授。 横浜市生まれ。実業家の細入富重の長男として生まれる。1936年、立教大学英文科卒、1937年、カールトン大学文学部英文学科卒、ハーバード大学大学院文学研究科G.Chaucer博士課程修了。戦中は、清水幾太郎、宮城音弥とともに、海軍技術研究所の実験心理研究部の顧問を務めた。1940年に立教大学予科講師となり、1945年に同大学予科教授に昇格、1946年に立教大学アメリカ研究所理事に就任したほか、清水幾太郎、大河内一男らとともに、財団法人二十世紀研究所を設立、のち理事長となる。
石野 久男(いしの ひさお、1911年2月16日 - 200… 石野 久男(いしの ひさお、1911年2月16日 - 2007年3月19日)は、日本の政治家。衆議院議員(10期)。 三重県志摩郡大王町(現志摩市)出身。1936年早稲田大学政治経済学部を卒業後、高速機関工業(株)を経て、日立製作所に入社。戦後、同社水戸工場長秘書を務めていた時に労組結成に参加し、日立製作所水戸工場社員組合執行委員長、日立製作所労働組合総連合中央執行委員長を歴任した後、1947年第23回衆議院議員総選挙に旧茨城2区から日本社会党公認で立候補し当選する。以後、当選10回。 初当選から間もなく芦田内閣の予算案に反対して除名となり黒田寿男、岡田春夫、松谷天光光らとともに労働者農民党を結成。
三浦 つとむ (みうら つとむ、1911年 (明治44年) … 三浦 つとむ (みうら つとむ、1911年 (明治44年) 2月15日 - 1989年 (平成元年) 10月27日) は、日本の哲学者、言語学者、マルクス主義者。弁証法を武器とし、在野の理論家として、認識論、言語論、芸術論、組織論、人生論など、幅広い分野において、活発な研究を続けた。 本名、三浦二郎。1911年、父松五郎、母志津江の次男として、東京都小石川区に生まれる。1925年、東京府立工芸学校印刷科に入学、1927年中退。1928年17歳、窪田商会に就職、その後、フィリップス日本ラジオに入社。印刷工をしていた兄の影響を受け、マルクス主義を学び始める。1933年、このころ勤めを辞め、ガリ板製版で生計を立てるようになった。
淀井 敏夫(よどい としお、1911年2月15日 - 200… 淀井 敏夫(よどい としお、1911年2月15日 - 2005年2月14日)は、日本の彫刻家。文化勲章受章者。削げたような形態と岩のような質感のユニークな作品で知られる。 兵庫県朝来市生まれ。大阪市立工芸学校を経て東京美術学校彫刻科卒業後、主に二科会を舞台にして、心棒に石膏を直付けする独自の技法で対象を叙情的に表現した具象彫刻を発表。大阪市立工芸学校教諭、東京芸術大学教授・美術学部長を務めた。
扇畑 忠雄(おうぎはた ただお、1911年2月15日 - 2… 扇畑 忠雄(おうぎはた ただお、1911年2月15日 - 2005年7月16日)は、日本の歌人・国文学者。東北大学名誉教授。旧満州の旅順出身。京都帝国大学文学部国文学科卒。 父・孫一は旅順民政部で農林技師をしていた。父の急逝により8歳で広島県の祖父母の元に移住、12歳で広島市に移った。旧制広島一中を経て旧制広島高校に進学、北島葭江教授が指導する広高短歌会に所属した。広高在学中の19歳の時「アララギ」に入会。アララギ派の歌人となり、斎藤茂吉、土屋文明、中村憲吉に師事。京都帝大卒業後、旧制呉二中や旧制京都一女の教員を経て1942年に旧制第二高等学校教授となり、1946年東北アララギ会『群山』を創刊。
武田義孝(たけだ よしたか、1911年(明治44年)2月15… 武田義孝(たけだ よしたか、1911年(明治44年)2月15日 - 1943年(昭和18年)8月)は、日本の体操選手。愛媛県人初のオリンピック選手。 愛媛県越智郡朝倉村(現・今治市朝倉上)に生まれる。松山商業学校を経て、日本体操学校を卒業し、教師として東京都内の中学校で体育を教えた。その後、1932年ロサンゼルスオリンピックと1936年ベルリンオリンピックに出場した。 1943年(昭和18年)8月、腎臓病のため死去した。
山下 勇(やました いさむ、1911年2月15日 - 199… 山下 勇(やました いさむ、1911年2月15日 - 1994年5月6日)は、日本の経営者。三井造船(現・三井E&S)社長、東日本旅客鉄道(JR東日本)初代会長を務めた。 東京都出身。1937年に東京帝国大学工学部を卒業し、同年に三井物産に入社し、造船部に配属。三井造船に転じ、1955年7月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1968年5月に副社長に就任し、1970年5月には社長に昇格。1979年6月に会長を経て、1985年6月に相談役に退く。 1980年から1986年までに経済団体連合会副会長を務め、JR東日本初代会長、最高顧問も務めた。 1994年5月6日、悪性リンパ腫のために東京都港区の病院で死去。
左川 ちか(さがわ ちか、1911年〈明治44年〉2月14日… 左川 ちか(さがわ ちか、1911年〈明治44年〉2月14日 - 1936年〈昭和11年〉1月7日)は、昭和時代初期の日本の詩人。本名は川崎 愛。名の「愛」は「ちか」と読むが、「あい」とも呼ばれていた。「現代詩の起点となる詩人」とも賞される。 北海道余市郡余市町大字黒川村に生まれる。4歳までは歩行も困難なほど虚弱であった。戸籍上の父は不明、異父兄の昇が終生の支えとなる。1923年3月に余市町立大川尋常小学校を卒業。親族の反対を押し切るかたちで庁立小樽高等女学校(現・小樽桜陽高校)に入学し、1928年同校補習科師範部を卒業。同年8月、先に上京していた兄・昇の自宅に同居を始め、兄の友人として小樽時代から知っていた伊藤整や百田宗治などの作家・詩人たちとの交流が広がる。
有賀 槐三(ありが かいぞう、1911年2月12日 - 20… 有賀 槐三(ありが かいぞう、1911年2月12日 - 2009年4月15日)は、日本の医学者。医学博士(1946年、東京帝国大学)。 長野県諏訪郡上諏訪町(現諏訪市)生まれ。旧制諏訪中学(長野県諏訪清陵高等学校)を経て、昭和9年(1934年)日本大学専門部医科修了。日本大学内科及生化学教室での研修後、駿河台日本大学病院内科助手、昭和13年(1938年)同病院医局長、昭和15年(1940年)医学部講師、昭和21年(1946年)助教授、昭和26年(1951年)教授。昭和29年(1954年)内科学第三講座開設に伴い主任教授に就任。昭和43年(1968年)駿河台日本大学病院長。昭和45年(1970年)医学部総合企画委員長、昭和49年(1974年)医学部長。
南 桂子(みなみ けいこ、Keiko Minami、1911… 南 桂子(みなみ けいこ、Keiko Minami、1911年2月12日 - 2004年12月1日)は、富山県射水郡出身の版画家(銅版画)。夫は版画家の浜口陽三。本名は浜口 桂子(はまぐち けいこ)。
田中 正明(たなか まさあき、明治44年(1911年)2月1… 田中 正明(たなか まさあき、明治44年(1911年)2月11日 - 平成18年(2006年)1月8日)は、日本の歴史研究家、政治思想家、近現代史評論家、著述家、新聞編集者。戦前・戦時中は松井石根の私設秘書としてアジア解放運動に従事した。 大亜細亜協会編集責任者、戦後は、拓殖大学講師、世界連邦建設同盟事務局長、財団法人国際平和協会専務理事を務めるほか、近現代史評論家として著述活動を活発に行った。 長野県下伊那郡喬木村出身。旧制飯田中学(長野県飯田高等学校)卒業。1933年、興亜学塾卒業。松井石根の元私設秘書、松井が設立発起人となった大亜細亜協会編集責任者となる。応召し、無錫で終戦を迎える[要出典]。
續木 湖山(つづき こざん、1911年2月11日 - 200… 續木 湖山(つづき こざん、1911年2月11日 - 2006年4月21日)は、書家。愛知県新城市黒田にて出生。本名は續木敏郎。 書家として数々の作品を発表。また書写書道の分野における教育者/研究者としての活動も多岐に渡る(略歴・著書を参照)。師は石田泉城・青山松亭。
諏訪多 栄蔵(すわた えいぞう、1911年2月10日 - 1… 諏訪多 栄蔵(すわた えいぞう、1911年2月10日 - 1992年5月5日)は、日本の登山家。 東京市日本橋馬喰町生まれ。1928年工学院(現工学院大学)冶金学科卒、トキワ鉛工業に入社。大阪に住み、西岡一雄らの手引きで登山を始める。吉沢一郎、望月達夫、深田久弥らとともに日本のヒマラヤ研究の第一人者であった。
宗 道臣(そう どうしん、1911年(明治44年)2月10日… 宗 道臣(そう どうしん、1911年(明治44年)2月10日 - 1980年(昭和55年)5月12日)は、日本の武道家、思想家、教育者、社会指導者、社会運動家、宗教家。日本の武道の一つである少林寺拳法の創始者であり、北少林義和門拳第21代正統継承者(事実上の古典的嵩山少林寺における最後の正統継承者) 姓名は中野 理男(なかの みちお)、中野 道臣(なかの みちおみ)を経て、最終的には宗 道臣を名乗った 1911年(明治44年)2月10日、岡山県英田郡江見村(現・美作市)に生まれる。1919年(大正7年)、義父が死亡し、1924年(大正12年)に家出し、祖父の住む満州へと移る。1926年(大正15年)母と妹が死亡、1927年(昭和2年)には妹と祖父が死亡、天涯孤独となる。
天野 節(あまの みさお、1911年2月10日 - 没年不明… 天野 節(あまの みさお、1911年2月10日 - 没年不明)は、日本の洋画家。徳島県麻植郡美郷村(現吉野川市)出身。徳島県師範学校卒業。 日本色彩学会名誉会員。奉天省美術展特選、新世紀美術展大内賞、徳島県出版文化賞などを受賞。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
小比類巻 富雄(こひるいまき とみお、1911年〈明治44年… 小比類巻 富雄(こひるいまき とみお、1911年〈明治44年〉2月9日 - 1978年〈昭和53年〉7月31日)は、昭和時代の政治家。位階は正五位。 青森県上北郡大三沢町長、三沢市長。 小比類巻金太郎、ナミの長男として青森県上北郡三沢村(現在の三沢市)に生まれる。1930年(昭和5年)3月、八戸中学校を卒業し、翌年7月に三沢尋常高等小学校の代用教員となる。戦後、1947年(昭和22年)4月、三沢村議会議員に当選。翌年4月に周辺村との合併により大三沢町が発足すると、同町長に就任した。1955年(昭和30年)5月から1959年(昭和34年)4月まで青森県議会議員を務め、同年5月に三沢市長に就任した。
杉浦 正一郎(すぎうら しょういちろう、1911年2月9日 … 杉浦 正一郎(すぎうら しょういちろう、1911年2月9日 - 1957年2月23日)は、日本の俳諧研究者。 兵庫県神戸市生まれ。1934年東京帝国大学文学部卒。大阪高等学校の友人と『コギト』を創刊。志田義秀、潁原退蔵に師事して俳諧を研究。天理図書館、千代田女子専門学校、佐賀高等学校、戦後北海道大学助教授、九州大学助教授、同教授。在職中に46歳で死去。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
多田 勇(ただ いさむ、1911年(明治44年)2月8日 -… 多田 勇(ただ いさむ、1911年(明治44年)2月8日 - 1990年(平成2年)3月12日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 千葉県香取郡佐原町(佐原市を経て現香取市)で生まれる。1931年(昭和6年)日本大学商業学校(現在の日本大学第一中学校・高等学校)を卒業した。 房総新聞記者となる。以後、千葉県砂糖卸商業組合専務理事、同日用品配給統制組合常務理事、千葉県生活用品販売副社長、東日本産業社長、多田印刷社長、千葉県印刷工業組合理事長、全日本印刷工業組合連合会理事、同常務理事、同副会長、日本印刷工業会理事、全国印刷工業健康保険組合理事、千葉印刷団地協同組合理事長、関東五県印刷工業厚生年金基金理事、千葉陸上競技協会会長、千葉県体育協会副会長、同顧問などを務めた。
小島 忠治(こじま ちゅうじ、1911年2月7日 - 197… 小島 忠治(こじま ちゅうじ、1911年2月7日 - 1974年1月9日)は、日本の教育者、教育学者。 神奈川県横浜市出身。1943年法政大学文学部国漢科卒。小学校教師を務め、東横学園小学校校長、和光学園主事。日本私立小学校連合会副会長。国語教育が専門。
入江 たか子(いりえ たかこ、本名・東坊城 英子(ひがしぼう… 入江 たか子(いりえ たかこ、本名・東坊城 英子(ひがしぼうじょう ひでこ)、1911年(明治44年)2月7日 - 1995年(平成7年)1月12日)は、昭和期の日本の映画女優。 東京市四谷区四谷箪笥町(現・新宿区四谷三栄町)に生まれる。公卿華族・東坊城家(菅原氏)の出身で父の東坊城徳長は子爵、貴族院議員。生母は北村キミ。1922年(大正11年)、父が亡くなり、翌1923年(大正12年)の関東大震災で千駄ヶ谷の東坊城家の住居が半壊し生活に困窮するも、文化学院中学部に入学し油絵を習う。次姉の敏子(1899~1991)が権掌侍「白百合の局」として貞明皇后の女官を長く務めた縁で、宮城の御局から文化学院まで徒歩通学する。