賀古 明(かこ あきら、1911年1月8日 - 1995年5… 賀古 明(かこ あきら、1911年1月8日 - 1995年5月9日)は、国文学者。 愛知県生まれ。國學院大学文学部国文科卒。1962年「万葉集歌語の研究」で文学博士。和洋女子短期大学教授、東邦大学教授。
亥:12,654人
賀古 明(かこ あきら、1911年1月8日 - 1995年5… 賀古 明(かこ あきら、1911年1月8日 - 1995年5月9日)は、国文学者。 愛知県生まれ。國學院大学文学部国文科卒。1962年「万葉集歌語の研究」で文学博士。和洋女子短期大学教授、東邦大学教授。
大塚 茂(おおつか しげる、1911年 <明治44年> 1月… 大塚 茂(おおつか しげる、1911年 <明治44年> 1月8日 - 2004年 <平成16年> 4月13日)は、日本の官僚、実業家。郵政事務次官・日本航空常務理事・新東京国際空港公団総裁を歴任した。 東京帝国大学法学部政治学科卒業。東京帝大法学部政治学科在学中に高等試験行政科を合格。1936年、逓信省入省。貯金保険局保険業務課長、資材局調整課長、大臣官房文書課長、大臣官房資材部長、名古屋郵政局長、大臣官房人事部長などを務める。1957年10月、簡易保険局長。その後は貯金局長となり、1961年6月16日、郵政事務次官。1962年5月、退官。 郵政事務次官退官後、日本航空の常務理事となるが、「次の埼玉県知事に推す」と請われて1966年に埼玉県副知事になる。
高松 棟一郎(たかまつ とういちろう、1911年1月8日 -… 高松 棟一郎(たかまつ とういちろう、1911年1月8日 - 1959年5月26日)は、日本のジャーナリスト。父は真岡町長や下野銀行支店長を務め、煙草元売捌所を営業していた高松 甚一郎。弟は洋画家でグラフィックデザイナーの高松 甚二郎。栃木県出身。1935年、東京帝国大学独文科卒。東京日日新聞(のち毎日新聞)に入社。ロンドン、ニューヨーク特派員となり1941年の日米開戦で交換船により帰国。戦後、1948年、『サンデー毎日』編集長。退社後、東京大学新聞研究所教授となるが、48歳で死去。 林芙美子の恋人だったと言われており、桐野夏生は『ナニカアル』で高松をモデルとした斎藤という新聞記者と、1942年から1943年の間にボルネオなどで会い、そのため生まれた子が、芙美子が養子とした泰(作中では晋)だという仮説を提示している。
笠置山 勝一(かさぎやま かついち、1911年1月7日 - … 笠置山 勝一(かさぎやま かついち、1911年1月7日 - 1971年8月11日)は、奈良県生駒郡(後の大和郡山市)出身で出羽海部屋に所属した大相撲力士。本名は仲村 勘治(なかむら かんじ)。最高位は西関脇。 1911年1月7日に奈良県生駒郡(後の大和郡山市)で生まれる。小学生の時から相撲で活躍し、小学6年生では大阪毎日新聞社が主催した奈良県学童相撲で優勝する実力を身に付けた。奈良県立郡山中学校では相撲を離れて柔道部に所属していたが、1928年に常陸山谷右エ門の叔父である内藤高治の推薦で出羽海部屋へ入門した。しかし、学業を修了していなかったため、東京・早稲田中学校へ転校して部屋から中学校へ通う生活を続けていた。
鎌田 正(かまた ただし、1911年(明治44年)1月7日 … 鎌田 正(かまた ただし、1911年(明治44年)1月7日 - 2008年(平成12年)6月13日)は、日本の漢文学者。
飯田 利行(いいだ りぎょう、1911年1月7日 - 200… 飯田 利行(いいだ りぎょう、1911年1月7日 - 2004年)は、曹洞宗の僧、仏教学者、音韻学者。 群馬県佐波郡赤堀村(現伊勢崎市)生まれ。1936年東京文理科大学漢文学科卒、駒澤大学専任講師。1940年京都東方文化研究所(東方文化研究所?東方文化学院京都研究所?)助手。1941年駒澤大学教授。1954年「日本仏典の表白諷誦に残存せる中国近世音の研究」で東京教育大学文学博士。1966年専修大学文学部教授。1980年二松学舎大学教授。1985年『定本湛然居士文集訳』で日本翻訳文化賞受賞、1995年仏教伝道文化賞受賞。全長寺住職、總持寺顧問。
分部 順治(わけべ じゅんじ 1911年 <明治44年> 1… 分部 順治(わけべ じゅんじ 1911年 <明治44年> 1月6日 - 1995年 <平成7年> 3月1日)は、日本の彫刻家。
黒川 久(くろかわ ひさし、1911年1月6日 - 1990… 黒川 久(くろかわ ひさし、1911年1月6日 - 1990年1月12日)は、日本の経営者。三菱油化(後の三菱ケミカル)社長、会長を務めた。東京府(現・東京都)出身。 1932年に東京帝国大学経済学部を卒業し、同年に三菱銀行に入行した。ロンドン駐在などの国際銀行業務に携わった。終戦後にGHQとの渉外嘱託で大蔵省に入省。1949年に三菱銀行に復帰し、1967年に専務に就任した。 1970年に三菱油化の副社長に就任し、1972年に社長に昇格した。1981年に会長に就任し、1988年から相談役を務めた。 1981年に勲二等旭日重光章を受章した。 1990年1月12日膀胱癌のために死亡。79歳没。
能村 登四郎(のむら としろう、1911年1月5日 - 20… 能村 登四郎(のむら としろう、1911年1月5日 - 2001年5月24日)は、日本の俳人。水原秋桜子に師事、「沖」を創刊・主宰。東京都出身。 東京都台東区谷中に、7人兄弟の四男として生まれる。1918年、東京都北区田端に引っ越し、錦城中学に入学する。中学時代、伯父から手ほどきを受けて俳句をはじめる。1931年、國學院大學高等師範部に入学、国文学を学ぶ。在学中、短歌同人誌『装填』に参加し、林翔と出会う。1938年、俳誌『馬酔木』に入会、水原秋桜子に師事。同年、私立市川学園の教諭となる。同校は林翔も教員として勤めた。 1945年、応召。除隊後、教員に復職し、1946年に復刊した『馬酔木』に投句を再開。
原 寛(はら ひろし、1911年1月5日 - 1986年9月… 原 寛(はら ひろし、1911年1月5日 - 1986年9月24日)は、日本の植物学者。東京府東京市神田区出身。日本植物学会元会長。昭和天皇の植物研究の相談役も務めた。父は元枢密院議長の原嘉道。 東京帝国大学(現:東京大学)卒業。東京大学助教授時代の1950年(昭和25年)には、科学委員による合同進講の機会に昭和天皇に日本ツツジの分類・分布について進講した。また、同年10月2日には、本田正次とともに皇居に招かれ、昭和天皇と吹上御苑内を散策しながら植物調査を行った。1952年(昭和27年)以降も、しばしば皇居や那須御用邸で行われる合同進講や植物採集などにも参加。 1957年(昭和32年)に東京大学教授となる。
湯浅 正次(ゆあさ しょうじ、1911年〈明治44年〉1月4… 湯浅 正次(ゆあさ しょうじ、1911年〈明治44年〉1月4日 - 1999年〈平成11年〉1月7日)は、日本の実業家・政治家。新島学園中学校・高等学校、新島学園短期大学創設者。安中市長を5期20年に渡って務めた。群馬県安中市出身。位階は正五位。 1911年(明治44年)、群馬県碓氷郡安中町(現・安中市安中)に、湯浅三郎の四男として生まれる。実家湯浅家は天保3年(1832年)創業の醸造業有田屋を営んでおり、祖父治郎は衆議院議員・県会議員、父三郎は25年間にわたり安中町長を、さらに県会議員を務めた。 旧制高崎中学校(現・群馬県立高崎高等学校)を中退後、1947年(昭和22年)に有田屋代表取締役社長に就任して家業を継いだ。
今川 正彦(いまがわ まさひこ、1911年(明治44年)1月… 今川 正彦(いまがわ まさひこ、1911年(明治44年)1月4日 - 1996年(平成8年)12月7日)は、日本の官僚、都市計画家・ランドスケープアーキテクト、政治家。1981年から2期8年にわたり京都府京都市長も務める。 山口県防府市出身。岡山県第二岡山中学校(岡山県立岡山操山中学校・高等学校の前身)から再興旧制山口高等学校(山口大学の前身)を経て、1935年(昭和10年)東京帝国大学農学部(東京大学農学部の前身)を卒業。折下吉延に師事。卒業後内務省に入り都市計画千葉地方委員会技師。戦前は中国勤務、1939年に北京の華北政務委員会建設総省に派遣となるがそこで終戦を迎える。都市計画の専門家として暫くは北京に残り、1946年の夏に引き揚げ、翌1947年1月に戦災復興院の施設課長に就任する。
高井 悌三郎(たかい ていざぶろう、1911年(明治44年)… 高井 悌三郎(たかい ていざぶろう、1911年(明治44年)1月3日 - 2004年(平成16年)9月28日)は、日本の考古学者・教育者。考古学者としては、日本の地方郡衙の調査研究で先駆的な成果を上げた。元甲陽学院中学校・高等学校教諭。 1911年(明治44年)1月3日、富山県射水郡伏木町(現・高岡市)中道に生まれる。伏木町立尋常高等小学校、富山県立高岡中学校、第四高等学校を経て、1931年(昭和6年)4月に京都帝国大学文学部に入学。大学では西田直二郎らの教えを受ける。大学を1934年(昭和9年)3月に卒業した翌月に茨城県立水戸第二高等女学校講師兼茨城県女子師範学校(茨城県女子師範学校は後,茨城師範学校となる)講師として茨城県に着任する。
吉田 義夫(よしだ よしお、1911年1月3日 - 1986… 吉田 義夫(よしだ よしお、1911年1月3日 - 1986年12月22日)は、1950年代から1980年代にかけて活躍した日本の俳優である。本名は同じ。 京都府京都市出身。京都市立絵画専門学校卒業。東映出身。プロモーション・プラスワンに所属していた。 京都市立絵画専門学校(現・京都市立芸術大学)で日本画を学び、卒業後は法隆寺昭和大修理の一環として行われた金堂壁画模写事業に壁画摸写技官として参加し、入江波光画伯の指導の下、第八号壁(文殊菩薩像)を主任として担当した。失火による壁画損傷で模写事業が中止されると下鴨中学や立命館高等学校の美術講師を務めた。そうした才能を活かしてか、役者転向後は自分の衣装を自分で考えていたという。
豊永 幸三(とよなが こうぞう、1911年1月3日 - 19… 豊永 幸三(とよなが こうぞう、1911年1月3日 - 1987年3月3日)は、日本の経営者。十條製紙社長を務めた。山口県出身。 1936年に慶応義塾大学経済学部を卒業し、同年に王子製紙に入社。1949年に十條製紙に転じ、1965年11月に取締役に就任し、1968年5月に専務を経て、1973年5月に副社長に就任し、1976年6月には社長に就任。1982年6月に会長に就任。 1984年11月に勲二等瑞宝章を受章。 1987年3月3日呼吸不全のために死去。76歳没。
清水 公照(しみず こうしょう、本名:東道 睦治(とうどう … 清水 公照(しみず こうしょう、本名:東道 睦治(とうどう むつじ)、1911年1月3日 - 1999年5月6日)は、華厳宗の僧侶。兵庫県飾磨郡曽左村(現・姫路市)出身。 第207世、第208世東大寺別当、華厳宗管長となり、大仏殿昭和大修理を行った。独特の味わいのある書画、陶芸で知られる。1963年頃から「泥仏(どろぼとけ)」と称するユニークな小さな仏像を制作した。泥仏庵と号す。また、「今良寛」の異名がある。
北野 精一(きたの せいいち、1911年1月2日 - 200… 北野 精一(きたの せいいち、1911年1月2日 - 2000年9月1日)は、日本の経営者。日本触媒化学工業社長を務めた。兵庫県神戸市出身。 1932年に神戸高等商業学校を卒業。 商工省、大阪工業試験所での勤務を経て、後にヲサメ合成化學工業(後の日本触媒)に転じ、1948年1月に取締役に就任し、1963年1月に常務、1965年7月に専務を経て、1970年4月には社長に就任。1981年2月に会長、1986年2月に取締役相談役を経て、1987年2月から相談役を務めた。 1975年4月に藍綬褒章を受章し、1981年11月に勲三等旭日中綬章を受章。 2000年9月1日肺炎のために死去。89歳没。
岡田 譲(おかだ じょう、1911年1月2日 - 1981年… 岡田 譲(おかだ じょう、1911年1月2日 - 1981年6月26日)は、日本の美術評論家。 東京出身。東京帝国大学卒。東京国立博物館学芸部長、文化庁文化財鑑査官を経て、1972年東京国立近代美術館館長。共立女子大学教授、文化財保護委員会専門委員。1973年から多摩美術大学講師、多摩美術大学文様研究所研究所員として勤める。漆芸史を専門とし、伝統工芸の評論で活躍した。1980年「美と風土―名品・名匠との出会い」で芸術選奨文部大臣賞受賞。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
戸沢 芳郎(とざわ よしろう、1911年1月2日 - 199… 戸沢 芳郎(とざわ よしろう、1911年1月2日 - 1991年5月15日)は、日本の経営者。安田信託銀行社長、会長を務めた。 東京都出身。1928年に東京帝国大学経済学部商業学科を卒業し、同年に安田銀行に入行。1955年11月に安田信託銀行に転じ、取締役に就任し、1965年5月には副社長に就任した。1970年5月に社長に昇格し、1976年6月には会長に就任し、1980年6月から相談役を務めた。 1975年9月に藍綬褒章を受章し、1981年5月に勲二等瑞宝章を受章した。 1991年5月15日、急性心不全のために死去。80歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
横路 節雄(よこみち せつお、1911年1月2日 - 196… 横路 節雄(よこみち せつお、1911年1月2日 - 1967年6月14日)は、日本の政治家。日本社会党所属の元衆議院議員(8期)、北海道議会議員(1期)。 北海道夕張市出身。札幌師範学校(北海道教育大学札幌校の前身)を卒業し、幌西小学校などで小学校教諭として勤務。北海道教職員組合委員長および日本教職員組合副委員長、北海道議会議員を経て、1949年第25回衆議院議員総選挙に北海道1区から日本社会党公認で立候補したが7位で落選。続く1952年10月第25回衆議院議員総選挙に立候補し初当選(通算8回当選。同じ北海道1区の社会党候補には道議会の後輩島本虎三もいた)。日本社会党の国対委員長や政審会長を歴任。
秋元 松代(あきもと まつよ、1911年1月2日 - 200… 秋元 松代(あきもと まつよ、1911年1月2日 - 2001年4月24日)は、日本の劇作家。俳人の秋元不死男は兄。 神奈川県横浜市生まれ。横浜吉田小学校卒業。病身と貧困のためそれ以上の進学は叶わなかった。 秋元家は北足立郡美本町美女木の庄屋の出で代々医家でもあったが、祖父の死後家運傾き、婿養子の父・茂三郎は横浜元町で漆器輸出業を営むも成功せず、松代3歳のときに死去、母が和裁の賃仕事などをして家計を支えた。松代は七人の兄弟姉妹の次女で、長兄は幼時に病死、次兄は秋元不死男(不二男)、三兄は共産党員から転向して古書店を経営、戦時中の予防拘禁を経て戦後は作家を目指した。四兄は30歳で結核死、妹は出生すぐ他家に養子に出され、長崎で原爆死した。
野村 三郎(のむら さぶろう、1911年1月1日 - 198… 野村 三郎(のむら さぶろう、1911年1月1日 - 1985年)は、日本の陸軍軍人。陸軍士官学校在籍時に五・一五事件に連座して服役し、釈放後は満州での軍務を経て、ルーマニアなど東ヨーロッパにおける諜報活動に従事したとされる。音楽プロデューサーとして知られるジョニー野村の父、プロデューサー兼俳優の野村祐人の祖父。 士族であった父・野村興市(ないし、興一)と、母みねの三男として、青森県弘前市に生まれた。 弘前中学校(現・青森県立弘前高等学校)二年修了後、東京陸軍幼年学校卒業。歩兵第31連隊に入隊し、陸軍士官学校へ派遣された(第44期)。1932年5月15日の五・一五事件において首相官邸襲撃隊に加わり、1933年に陸軍軍法会議において懲役4年の判決が下り、豊多摩刑務所で服役した。
小川 年安(おがわ としやす、 1911年1月1日 - 19… 小川 年安(おがわ としやす、 1911年1月1日 - 1944年7月11日)は、広島県出身のプロ野球選手。 大阪タイガース創立時の3番打者、正捕手。戦死したプロ野球選手の一人。結婚後の姓名は吉田 年安(没年および姓については後述)。 1927年、前年春選抜を制した広陵中学(現・広陵高校)の捕手として、春選抜は田部武雄と、夏の選手権は八十川胖とバッテリーを組み、更に打線も山城健三、三浦芳郎、中尾長らを揃えて広陵野球部史上最強チームと言われたが、連覇を狙った春は小川正太郎の和歌山中学に、夏も水原茂らのいた高松商業に決勝で敗れた。 翌1928年も春夏連続出場したが、いずれも初戦敗退。続いて翌1929年春は、中尾、佐々木美利、野村実に、のち慶大・阪神と同僚となる平桝敏男らがいた強力打線だったが、決勝で第一神港商業にまたしても敗れ準優勝(第一神港商業は翌年も優勝し史上初の春連覇)。
福田 正義(ふくだ まさよし、1911年(明治44年)1月1… 福田 正義(ふくだ まさよし、1911年(明治44年)1月1日 - 2001年(平成13年)12月23日)は、日本の政治活動家。日本共産党(左派)中央委員会議長、長周新聞社主幹。
長濱 政壽(ながはま まさとし、1911年1月1日 - 19… 長濱 政壽(ながはま まさとし、1911年1月1日 - 1971年5月21日)は、日本の行政学者、政治学者。京都大学名誉教授。辻清明と並ぶ行政学第2世代の一人。新潟県新潟市生まれ。「長浜 政寿」とも表記される。 1931年、新潟高等学校文科甲類卒業。1934年、京都帝国大学法学部政治科卒業。同年、京都帝国大学法学部助手。1936年、京都帝国大学法学部専任講師。1938年、京都帝国大学法学部助教授に就任。1945年、京都帝国大学法学部教授に就任。1956年、京都大学評議員。1960年、京都大学より法学博士を取得。1961年、国家公務員採用上級甲乙種試験専門試験委員。1967年、京都大学法学部長。1971年、京都大学評議員。
寿原 正一(壽原、すはら しょういち、1911年(明治44年… 寿原 正一(壽原、すはら しょういち、1911年(明治44年)1月1日 - 1975年(昭和50年)12月13日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 北海道古平郡古平町で寿原要太郎の息子として生まれる。1958年(昭和33年)専修大学会計学本科を卒業した。 1928年(昭和3年)頃、札幌市に移り海産物商のトラック助手となる。1932年(昭和7年)頃、日の出ハイヤーに運転手として就職。その後上京し、病人輸送専門の東京寝台自動車に務め、戦後に労働組合を結成して委員長に就任し、1948年(昭和23年)常務として経営陣に加わり、1953年(昭和28年)社長となった。同年、札幌つばめ自動車会長、1955年(昭和30年)新宿交通社長に就任。
柴山 幸雄(しばやま ゆきお、1911年1月1日 - 198… 柴山 幸雄(しばやま ゆきお、1911年1月1日 - 1988年4月11日)は、日本の経営者。住友商事社長、会長を務めた。愛知県名古屋市出身。 1934年に東京帝国大学法学部を卒業し、同年に住友合資会社に入社した。1946年に住友商事に転じ、1951年に総務部長に就任し、常務、専務などを歴任し、1969年に副社長に就任し、1973年には社長に昇格した。1977年に会長に就任し、1983年から会長を務めた。 1971年に藍綬褒章を受章し、1981年に勲二等旭日重光章を受章した。 1988年4月11日腎不全のために死去。77歳没。
別枝 達夫(べっし たつお、1911年1月1日 - 1978… 別枝 達夫(べっし たつお、1911年1月1日 - 1978年6月28日)は、日本の歴史学者。英国の海事史を専門とした。 鹿児島県出身。1934年、東京帝国大学西洋史学科卒。成蹊大学助教授、のち1962年に教授。
水越 達雄(みずこし たつお、1911年(明治44年)1月1… 水越 達雄(みずこし たつお、1911年(明治44年)1月1日 - 1994年(平成6年)6月12日)は、昭和時代の土木工学者、実業家。 東京市に生まれる。1936年(昭和11年)東京帝国大学工学部土木工学科を卒業し、大日本電力に入社。秋田県鳥海山麓の子吉川の水力開発でアーチ型コンクリート水路橋の設計施工に携わる。1939年(昭和14年)日本発送電に入社し、只見川水系宮下発電所などの調査設計および南方派遣団員としてセレベス島方面の電源調査に従事する。 ついで大日本帝国海軍嘱託の特殊建設部隊「刀水隊長」、日本発送電関東支店土木部水路課長を経て終戦を迎え、1951年(昭和26年) 電力再編成により成立した東京電力に入社。
古屋 徳兵衛(ふるや とくべえ、1911年 <明治44年> … 古屋 徳兵衛(ふるや とくべえ、1911年 <明治44年> 1月1日 - 1992年 <平成4年> 11月8日)は、日本の経営者。松屋社長、会長を務めた。位階は従四位。出生名は古屋祐次郎。 神奈川県出身。1935年に東北帝国大学法文学部法科を卒業し、同年に司法省に入省。1937年8月に名古屋地方裁判所判事に就任し、同年9月に松屋に転じ、1938年3月には社長に就任。1974年4月から1976年5月までに会長を務め、1972年から1974年までに日本百貨店協会会長も務めた。 1972年に藍綬褒章を受章し、1981年4月に勲二等瑞宝章を受章。 1992年11月7日慢性呼吸不全のために死去。81歳没。
伊達 篤郎(だて とくろう、1911年 - 2007年)は、… 伊達 篤郎(だて とくろう、1911年 - 2007年)は、日本山岳協会最高顧問、仙台藩士会会長、瑞鳳殿顧問。伊達政宗の末裔(藩主一門分家の岩出山伊達家出身)。 宮城県大崎市に生まれる。大崎市立岩出山中学校、宮城県古川高等学校、東京高等工学校(現・芝浦工業大学)卒業。宮城県庁、仙台市役所勤務を経て、1968年仙台市博物館館長となる。1974年から瑞鳳殿再建期成会事務局長を務め、第二代・第三代の霊廟再建に当たる。1986年より財団法人瑞鳳殿顧問を務めた。 1972年藍綬褒章受章。
千葉 衛(ちば まもる、1911年 - 1973年)は、日本… 千葉 衛(ちば まもる、1911年 - 1973年)は、日本の画家、美術教育者。現在の宮城県大崎市出身。 宮城県大崎市に生まれる。幼少期から絵画に興味を持ち、地元の小学校・中学校で才能を発揮した。旧制古川中学校(現在の宮城県古川高等学校)を卒業後東京美術学校(現在の東京芸術大学)に進学し、洋画を学ぶ。在学中から光風会や東光会に作品を出品し、頭角を現した。1930年代には帝展(帝国美術展覧会)に初入選し、画家としての将来が期待されるようになる。しかし、当時の日本は戦争の時代に突入し、画家としての活動が制限される状況となる。 東京美術学校研究科に進学したものの、戦時下の影響もあり研究科を中退した。その後台湾に渡り、現地で美術教育に携わる。
劉 瀬章(りゅう せしょう、1911年 - 1972年)は、… 劉 瀬章(りゅう せしょう、1911年 - 1972年)は、中国出身の元プロ野球選手(投手)。 日本プロ野球の南海軍に在籍した。日本プロ野球初の中国出身の選手であり、現在でもNPBで一軍出場のある唯一の中国大陸出身選手である。 日本の本牧中学ではエース投手として活躍。右のアンダースロー投手であった。 本牧中を卒業後、法政大学へと進み同野球部へ入る。東京六大学野球リーグ戦1932年秋シーズンにおいて若林忠志と共に法政2度目の優勝に貢献した。 1938年に発足したばかりの南海軍へ入団。同年7月24日、南海初の公式戦となる「第2回読売優勝大会」の対ライオン軍戦に先発投手として登板したが、3回3失点で降板、チームも5対8で敗れている。
旭 興正(あさひ おきまさ、1911年(明治44年) - 1… 旭 興正(あさひ おきまさ、1911年(明治44年) - 1998年(平成10年))は、日本の獣医学者。獣医学博士。北里大学獣医学部教授、動物衛生研究所東北支場長を務めた。 長野県生まれ。旧制松本第二中学(現長野県松本県ヶ丘高等学校)、旧制松本高校を経て、東京帝国大学農学部卒業。1955年(昭和30年)北海道大学より獣医学博士授与。獣医学領域でのリステリア症やヨーネ病の研究を行った。北里大学獣医学部獣医畜産学研究科教授、1959年(昭和34年)から1967年(昭和41年)まで動物衛生研究所東北支場長を務めた。 興正は、同じ獣医学者で弘前大学名誉教授佐々木直亮の記した「親戚覚書」によれば、直亮の祖父(佐々木哲之進)の姉(なよ)で、その孫にあたるあき子と結婚した。
小島 茂男(こじま しげお、1911年 - 没年不詳)は、愛… 小島 茂男(こじま しげお、1911年 - 没年不詳)は、愛知県出身のプロ野球選手。西日本パイレーツで選手兼任監督を務めた小島利男は実弟。 東海中学から関西大学を経て1936年秋に名古屋軍へ入団。1938年春季リーグで退団。のち名古屋逓信局の監督としてチームを都市対抗に導き、監督退任後は中部日本新聞の営業部長を務めた。
高階 富士夫(たかしな ふじお、1911年 - ?)は、日本… 高階 富士夫(たかしな ふじお、1911年 - ?)は、日本の飛込競技選手。茨木中学校(現在の大阪府立茨木高等学校)在学中の1928年、アムステルダムオリンピックに飛板飛込で出場した。のちに辻 富士夫(つじ ふじお)。 茨木中学校(現在の大阪府立茨木高等学校)に学ぶ。茨木中学校は、体育教諭杉本伝が指導に当たった水泳強豪校で、当時珍しい学校プールを擁し、高石勝男や石田恒信といったオリンピアンを輩出していた。1927年、第3回日本選手権水泳競技大会の3m飛板飛込で優勝。 1928年アムステルダムオリンピックには、茨木中から高階と入江稔夫(およびOBの高石)が選手として参加しており、杉本が飛込コーチとして参加している。
皆見 鵬三(みなみ ほうぞう、1911年(明治44年)- 1… 皆見 鵬三(みなみ ほうぞう、1911年(明治44年)- 1967年(昭和42年))は、日本の画家であり教育者。岡山県総社市出身。 1911年(明治44年)岡山県吉備郡水内村影(現・総社市)に生まれる。旧制高梁中学校(現・岡山県立高梁高等学校)を卒業した後、上京して川端画学校に学ぶ。その後、帝国美術学校油絵科に入学し牧野虎雄に師事。1933年(昭和8年)帝国美術学校油絵科卒業。 卒業後は特待研究生として同学校に残る。1933年、第1回旺玄社に「早春伊豆」を出品し入選すると、以後同会に出品を続けた。1935年(昭和10年)には多摩美術学校で助手をつとめた。戦時中に従軍画家として中国東北部に赴き、2年間のシベリア抑留を経て帰国。
塩田 猪年男(しおだ いねお、1911年 - 1984年)は… 塩田 猪年男(しおだ いねお、1911年 - 1984年)は、高知県出身のプロ野球選手。 高知工業学校、満州中央銀行、八王子実業団を経て1937年秋に名古屋金鯱軍へ入団。 1938年秋に東京セネタースへ移籍し1939年に退団した。
秀島 乾(ひでしま かん、本名読み:ひでしま つとむ、191… 秀島 乾(ひでしま かん、本名読み:ひでしま つとむ、1911年 - 1973年)は、日本の都市計画家。戦後すぐに日本最初の都市計画のコンサルタントとして活躍した人物。計画士を自称。佐賀県東松浦郡相知町生まれ。 旧制福岡中学校(現福岡県立福岡高等学校)卒業後、1936年早稲田大学理工学部建築学科に入学し佐藤武夫に師事。佐藤は戦時中満州の調査研究を熱心に行い、影響を受ける。大学卒業後、満州国民政部営繕需品局(その後建築局に改名)技師。1940年技佐。同年臨時国都建設局兼任。新京第一期五か年計画など新京の都市計画全般に携わるほか、満州における満州集団住区制理論、都市計画と集団住区制、住宅傾向などについて研究発表する。
足達 襄(あだち じょう、1911年 - 1999年)は、日… 足達 襄(あだち じょう、1911年 - 1999年)は、日本の洋画家。独立美術協会会員。 福岡市に生まれる。1928年福岡県中学修猷館を卒業。上京して、1930年帝国美術学校(現・武蔵野美術大学)に入学。 1931年独立美術協会が主催する第1回独立展に初入選。以後連続入選を重ね、1943年の第13回独立展において独立賞を受賞し、1948年に独立美術協会会員となる。この間、福岡独立作家協会結成にも参加している。 戦後帰郷し、郷里に近い太宰府のアトリエで36年間創作活動を行い、以降も毎年福岡から出品を続け、精力的な芸術活動を行う。地域の美術振興にも力をそそぎ、福岡県美術協会再興や筑紫芸術院結成に尽力。
中山 一郎(なかやま いちろう、1911年 - 1993年)… 中山 一郎(なかやま いちろう、1911年 - 1993年)は、日本の翻訳家、研究者。熊本県出身。 熊本県立玉名中学校(現・熊本県立玉名高等学校)、第五高等学校を経て、東京帝国大学法学部を卒業。 東大卒業後、南満州鉄道に入社し、調査部などに勤務した。戦後、ソビエト抑留から帰還し、東京大学に勤務、東京大学社会科学研究所図書資料室長などを歴任した。 その傍ら、ロシア語の本の翻訳を行った。
西池 秀豪(にしいけ ひでたか、1911年 - 没年不明)は… 西池 秀豪(にしいけ ひでたか、1911年 - 没年不明)は、東京都出身のプロ野球選手。右投右打で、ポジションは捕手。
小倉 多加志(おぐら たかし、1911年 - 1991年)は… 小倉 多加志(おぐら たかし、1911年 - 1991年)は、日本のイギリス文学者、翻訳家、実践女子大学名誉教授。本名・小倉皐(読みは同じ)。1934年京都帝国大学文学部英文科卒。戦後、定年退職まで実践女子大教授を務め、オスカー・ワイルドを専攻とする研究活動をする傍ら、対訳の英語教科書の執筆のほかに、推理小説などの数多くの文芸作品を翻訳した。日本バートランド・ラッセル協会設立発起人の一人。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
野村 良樹(のむら よしき、1911年 - 1946年)は、… 野村 良樹(のむら よしき、1911年 - 1946年)は、日本の医学者、精神科医。旧制京都一中、旧制三高、京都帝国大学医学部卒業。 ウジェーヌ・ミンコフスキー『精神分裂病』(村上仁共訳) 弘文堂書房、1946年 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
菱刈 隆文(ひしかり たかふみ、1911年 - 1974年)… 菱刈 隆文(ひしかり たかふみ、1911年 - 1974年)は、日本の報道記者、実業家。 1937年に同盟通信に入社し、中国戦線に記者として従軍。1941年12月、陸軍報道班員としてマレー作戦に従軍、第25軍司令部要人の通訳を務めるなどした。シンガポール陥落後は第25軍参謀部の情報工作に関与。戦後行われたシンガポール華僑粛清事件の戦犯裁判では杉田一次ら第25軍司令部参謀からの伝聞内容について証言。戦後、吉田茂首相秘書官等を経て1956年に空港グランドサービス社長。 1911年、東京で、実父が陸軍大将菱刈隆という軍人一家に生まれる。父からは、自動車の運転と外国語、写真を習っておくように言われていた。
山本秀夫(やまもと ひでお、1911年 - 1991年)は、… 山本秀夫(やまもと ひでお、1911年 - 1991年)は、日本の中国学者。東京府出身。 東京生まれ。1935年、慶應義塾大学文学部哲学科卒、東亜研究所に入る。1946年退職、1955年農業総合研究所中国研究室勤務。1977年退職。
今泉善一(いまいずみぜんいち、1911年-1985年)は、日… 今泉善一(いまいずみぜんいち、1911年-1985年)は、日本の建築家。 愛知県新城市出身。戦前期は建築運動体として知られる創宇社建築会のメンバーとして、また当時非合法化されていた日本共産党の活動家として警察に追われて地下に潜伏し、共産党の活動資金を得ようと実行した赤色ギャング事件の首謀者として、また戦後は防火帯建築の設計で知られる。小説「貧乏物語 (河上肇)」では作中で書生として登場する人物。[要検証 – ノート] 以下、経歴は建築雑誌1985年1月号による実家は建築請負業をしており、建築を目指すきっかけは小学校6年生で東京・大井町に住んでいたころに遭遇した関東大震災であった。1928年(昭和3年)に工手学校(現・工学院大学)を卒業後、当時の大蔵省営繕管財局に入局。
近藤 喜博(こんどう よしひろ、1911年 - 1997年)… 近藤 喜博(こんどう よしひろ、1911年 - 1997年)は、日本の民俗学者。文学博士(國學院大学・論文博士・1960年)(学位論文(「稲荷信仰研究序説」)。文化庁主任文化財調査官、文化財保護審議会専門委員等を歴任。 鳥取県生まれ。國學院大學神道科卒業。1960年「稲荷信仰研究序説」で國學院大學より文学博士の学位を取得。國學院大學講師、文化庁主任文化財調査官、文化財保護審議会専門委員。
宇津木 保(うつき たもつ、1911年(明治44年) - 1… 宇津木 保(うつき たもつ、1911年(明治44年) - 1999年(平成11年))は、日本の心理学者。東京生まれ。1935年東京帝国大学文学部心理学科卒。横浜市立大学助教授、教授、1975年定年退官、名誉教授、学習院大学文学部教授。1982年退職。弟は宇津木正、子は宇津木成介(1948 - 神戸大学教授、心理学)。
古崎 博(ふるさき ひろし、1911年 - 没年不詳)は、日… 古崎 博(ふるさき ひろし、1911年 - 没年不詳)は、日本の翻訳家、教育者。主に中東・イスラエル関連の著作の翻訳で知られる。また、鎮西学院(長崎県)関連の教育機関で理事長などを務め、オペラ『蝶々夫人』の原作小説の日本語訳を出版したことでも知られる。 東京帝国大学理学部を卒業後、三井物産に勤務。 1940年(昭和15年)、軍事物資である水銀調達の相談のため大連特務機関長・安江仙弘大佐を訪問した際、杉原千畝がリトアニアでユダヤ難民に大量の通過査証を発行していた話を聞き、その事実を記録した。この記録は戦後、杉原千畝の「命のビザ」に関する重要な証言資料の一つとなっている。 また、陸軍主計大佐の新庄健吉がアメリカの国力を調べるためにニューヨークに赴いた際、三井物産社員として調査に協力している。